そしてまた世界は枝分かれする

もう一眠りして夕方に目を覚ますと、
インターフォンが鳴った。

「もう、心配したんだから! 
全然既読にならないし!」

制服姿の美園はスマホを突き出して頬を膨らませた。

「ずっと寝てたんだもん」

「だから言ったじゃん。寝てるんだよって。
これ、パン田くんから。お見舞いだって」

真澄は美園をなだめながら、
パン田くんちのパン屋さんの紙袋を差し出した。

やった。カフェオレとチョコのマフィンが入ってる。

「後でパン田くんに連絡してあげて。
すごく心配してたから」

「そうそう。パン田くんってさ、
さおりのこと好きなんじゃない?」

甘いものと同じくらい恋バナが好きな美園が
私の顔を覗き込む。ニヤけすぎだってば。

「ないない。パン田くんはみんなに優しいんだよ。
まったく、自分が幸せだからって」

「真澄には負けるけどね。最近フジミん、
あんまり会ってくれないんだもん」

幸せを隠せない真澄が美園を慰める。

「仕方ないよ、向こうは受験生なんだから」

へえ、意外。将来とか考えてるんだ。

「まあ、ああ見えて繊細だしね。
お父さんのこととかで、プレッシャー感じてるのかな」

「お父さんのこと?」

私がフジミんの話題に反応したのが嬉しいのか、
美園が得意げに教えてくれた。

「フジミんのお父さんって、
高校野球では有名な監督らしいよ。
弟はまだ中学生だけど、将来有望みたい。
フジミんも昔は野球少年だったらしいけど、
いろいろあって今はお父さんと
うまくいってないっぽいの」

らしいとかみたいとか、ずいぶん曖昧だけど、
本当ならずいぶん皮肉な話だと思う。

桜を見上げる直規の顔を思い出して、
私は小さくため息をついた。
ゴールデンウィークに入ると、
家事と勉強の合間に真紀子さんを訪ねた。

真紀子さんは相変わらずぼんやりしていたけど、
いつもと違ったのは、
私を「ゆかりさん」と呼んだことだ。

でも、会話ができたわけじゃない。
私とはまた違う意味で、
真紀子さんは別の世界に飛んでいるんだろう。

そういう私は最近、集中力が落ちている気がする。

「そんな時は思い切って気分転換するのがいいよ」
と塾の先生に言われて、
塾帰りに映画を観に行くことにした。

向かったのは、JR桜木町駅のすぐそばのシネコン。
ゴールデンウィークの最終日だからか、
駅もシネコンも人でいっぱいだ。

邦画の恋愛ものは美園たちと見ればいいから、
今日はアクションコメディでスカッとしたい。

そう思ってチケットを買ったはずなのに、
始まったのは、緊迫した海外の法廷ものの映画。
俳優も知らない人ばかりだ。

あれ? 間違えちゃったかな。
今さら出られないし、まあいっか。

見終わって電気がつくと、周りの座席はガラガラだった。
けっこう面白かったのに。

出口で、空になったポップコーンのカップを
渡そうと、係員の人の顔を何気なく見た時だった。

あれ? もしかして。

お互いの視線が磁石のように引き合ってぴたりと止まる。
少しの間があって、
二人同時に右手を左耳の耳たぶに持っていく。

やっぱりそうだ。
予定とは違う映画を見る羽目になったのは、
こういうことだったんだ。

「こんな時間に何やってるんだよ」

「こっちは今、何時なの?」

「夜中の1時」

「1時!? うそ、どうしよう」

バスなんて、とっくに終わってるはず。
っていうか、こっちの世界で家に帰るわけにはいかないか。
慌てる私に、直規は冷静だった。

「あと20分でバイトが終わるから、
下のコンビニで待ってな。
いいか、俺が行くまで、絶対に動くなよ」

「う、うん」

こんなふうに誰かに心配されることなんてないから、
ちょっとこそばゆい。
素直にコンビニで待っていると、
直規は約束通りに息を切らせて迎えに来てくれた。

向かったのは、駅裏のファミレスだ。
チャラ男とも来たところ。
そう言うと、向かいの席でコーヒーを飲む直規が、
「チャラ男って言うな」とムキになったので笑った。

それからたくさん話をした。
大学に入ってすぐ、
レストランのバイトで金髪さおりと出会ったこと。

オーダーは間違えるわ、水はこぼすわで、
失敗続きの金髪さおりを助けるうちに仲良くなって、
付き合い始めたこと。

「金髪さおりって、けっこう人気だったんだよ。
子供とかお年寄りには特に。
不思議と寂しい人がわかるらしくて、
声をかけて仲良くなっちゃうんだ。
だけどミスばっかりで、
結局レストランをクビになっちゃって」

金髪さおりのために、
直規が今の映画館のバイトを見つけたこと。
それなのに、夏休みの間に勝手に辞めていたことも聞いた。

「夏の間、俺は海に行きっぱなしだからさ。
放ったらかしにしてたのが悪かったのかな」

放ったらかしって、子供じゃないんだし。
私が呆れると、直規は
「こっちのさおりは大丈夫そうだけどな」と笑った。
何それ。

直規が体育学部で教職課程を取っていることは初めて聞いた。

「じゃあ、将来は学校の先生になるの?」

「そのつもりだったんだけどさ。
親父も高校の体育教師だったし」

知ってる。そのお父さんが生きている世界で
息子とうまくいってない話は……言えない。

「でも、ライフセービングを始めたら、
消防士になりたいなって。知ってる? 
日本で初めて特別救助隊を作ったのは横浜消防なんだ。
今は、さらにその上の
スーパーレンジャーってエリート部隊があってさ」

初めて聞いた。それにしても、
こんなに楽しそうに夢を語れるなんて、うらやましい。
大学時代のお母さんも、こんな感じだったのかな。

「黒髪さおりは将来どうすんの? 
大学の学部、決めたのか?」

「内部進学で医学部を考えてたけど」

「へえ、すごいじゃん!」

「別にすごくないよ。まだ入ってないし、それに……」

「なんだよ。歯切れが悪いな」

両肘をついて私を覗き込んだ目が、ちょっと笑ってる。

「うるさいなあ」

「黒髪さおりらしくないじゃん。
そもそもどうして医師になろうと思ったんだ?」

「それは……」

言葉を探しながら、ぼやけていた気持ちの
輪郭をなぞっていく。

祖母も両親も医師で、物心ついた頃には
医師を目指すというレールが敷かれていたこと。
最近になって、敷かれたレールの上を
このまま進んで行ってていいのか、迷い始めたこと。

「思ったんだ。私には、医師になるんだっていう、
強い意思も熱い気持ちもないなって」

緑がかった茶色い目のまっすぐさに、思わず目をそらす。

「別に、必ずしも熱い気持ちを持ってなきゃ
いけないわけじゃないと思うけど。
大事なのは、その仕事についてからなんだし」

そうか。それはそうだよね。
でも、やっぱり欲しい。自分が医師を目指すための何かが。

「どっちにしても、順調じゃんか」

「え?」
「迷ったり、何かを探したいって思うのは、
自分の心と頭で進路を考え始めたってことだろ? 
さおりは順調に歩いているんだよ」

なるほど。言われてみれば、そうかもしれない。

「これからじゃないか? 
探してたら、きっと見つかるよ。たぶんだけど」

どうしてだろう。
この人に言われると、見つかる気がする。
私は小さな声で「ありがと」と呟いた。

いつの間にか、窓の外は明るくなっていた。
いつもより、時間が過ぎるのが早い気がする。

「付き合わせちゃってごめん」

「別にいいよ。日曜だし、
海に行くつもりでバイトも入れてなかったし。
それにしても何でだろ。全然眠くなんないや」

嘘ばっかり。そのコーヒー、4杯目だし。

「天気も良さそうだから、遊びに行くか」

残りのコーヒーを流し込み、
勢いよく立ち上がった直規の後を私は慌てて追いかけた。
ファミレスの扉を開けたところで、
直規の姿は見えなく……ならなかった。
ハッと振り向いた直規も、
私を見てホッとした顔になる。

桜木町駅からバスで連れて行かれたのは、
本牧の先にある大きな公園だ。
馬場には本物の馬がいた。
こんな場所があるなんて、知らなかった。

まだ人の少ない公園を直規と並んで歩く。

「あ、ライラック」

紫色の花を見つけて、私は思わず駆け寄った。
昔からの習慣で、ついハッピーライラックを探してしまう。

「何探してんの?」

「ハッピーライラック。ライラックって、
普通は花びらが4枚なんだけど、たまに5枚の花があるの」

「へえ。それを見つけたら、どうなるの?」

「さあ」

私が知っているのは、
それを見つけたら幸せになるってことだけ。

「なんだそれ」なんて呆れた顔をしたくせに、
結局直規の方が真剣にハッピーライラックを探している。

「もういいよ」と私が言うと、
なんだか残念そうな顔をしているのが笑えた。

外国の風景みたいなだだっ広い芝生にたどり着くと、
直規は芝生の木陰に寝転び、長い手足を投げ出した。

「ちょっと休憩」

その顔があまりにも気持ちよさそうだったから、
私も隣に寝転がった。
スカートと迷ったけど、デニムにして正解だった。
萌黄色の若葉の隙間から、青空が見えた。
木漏れ日が直規のグレーのパーカーに柔らかな影を落とす。

風の音に混じって寝息が聞こえてきた。
隣を見ると、直規は気持ち良さそうに口を開けて眠っていた。
目を閉じると、直規の寝息と
私の呼吸のリズムが自然と近づいていく。
いつの間にか、私も眠っていた。

どのくらい眠っていたんだろう。

ほっぺたに触れる指先がくすぐったくて目を覚ました。

「おう、やっと起きたか」

目を開けると、直規の顔が目の前にあった。

「ちょっと、顔近い!」

思わず両手でブロックすると、直規は悪びれずに笑った。

「弟にもキモいって言われる」

弟か。そう言えば、私にもいるんだよね。

「弟って、どんな子?」

「道哉って名前なんだけど、
頼りなくってさ。まあ5歳離れてるし、
うちは親父が早く死んだから、俺が親父代わりだな」

「そうなんだ」

「まあ、でもかわいいよ」

道哉くんの話をする直規の目は優しい。

「私、どうやら弟がいるみたい」
「何それ!」

直規が弾かれたように飛び起きる。
私も起き上がって、
八月一日健太とのあまりにも短い再会の話をした。

「知らない弟か……母親は誰なんだ? 
その世界では親父さん、再婚してるってことかな」

「どうだろう。でも、一番ショックだったのは、
その世界で私が死んでるってことなんだよね」

「……そうか」


「私がいなくなっても、世界は普通に続くんだなって」

「死んでないのに、死んだ人の気持ちを
味わっちゃったんだな、さおりは」

言われてみれば、そうかもしれない。
普通ないよね、そんなこと。

「ってことは、俺が死んでる世界もあるってことか」

確かに、それはあり得る。

「そう考えると、なんだか虚しいな」

直規が天を仰いだ。
いつも暑苦しい直規にしては珍しいセリフ。

「だってさ、生きるか死ぬか、パターンがいくつかあって、
今俺たちがここにいるのは、単に
『生きてる』ってパターンに振り分けられただけじゃん」


直規が何を言いたいか、何となくわかる気がした。
空を見上げると、青い空がずいぶん高い。
たぶん、秋の空。

「そうかもしれないけど……。
誰かが死にそうな時、
誰も助けなければ、そこで終わりだよね。
けど、助けようとする人がいれば、
死で終わったはずの世界が枝分かれするかもしれない。
そう考えると、人の命を助けることには
大きな意味があるんじゃない?」

そうじゃなかったら、
一生懸命生きる意味なんて、この世界からなくなってしまう。

「直規?」

返事がないのが気になって直規の方を見ると、
私をじっと見つめていた。

「あ、いや、うん」

直規は、曖昧に頷いて下を向いた。
そして次に顔を上げた時には笑顔になっていた。

「なんだよ、さおりのくせに」

そう言って、私の髪をくしゃくしゃ搔き回す。
その手から逃れようと笑いながら転がって、
振り向いた次の瞬間。

私は直規の大きな手が届かない世界へ、引き戻されていた。