高校生のころ、由加里と俺は偶然にも三年間を同じクラスで過ごした。初めて出会ったときに恋に落ちた、なんてロマンチックな出来事は、俺たちの間にはない。彼女の初対面の印象だって、正直覚えていないのだ。こう言ってはなんだが、由加里は際立った美人でもなければ、クラスの中心的存在でもなかった。特別な出来事も、事件も、何もない。それでも、三年も同じクラスにいれば、様々な思い出のなかに彼女は存在している。
俺の中で彼女をはっきり意識したのは、なんのイベントもない普通の日の朝だった。一年生の夏、うだるような暑さにやられ朝早く目が覚めた俺は、たまたまいつもより早い電車に乗り、たまたまいつもより早く教室についた。一番乗りと思いきや、そこにはあまり話したことのないクラスメイトの女の子がすでに登校していて、それが由加里だった。おう、とかおはよう、とか、何かそんな風に話しかけたら、背面黒板に向かって立っていた彼女はびっくりした顔で振り向いた。その手元には一輪の赤い花と、細いガラスの花瓶。
「へえ、深田が花、飾ってんの?」
そんな係あったか?とぼやきながら近づいた俺に、由加里は少し眉を下げて、ちょっと笑った。
「ううん、ええと、係じゃないんだけど」
「ボランティア的な?」
「うん・・・あの、好き、なの」
「へっ」
「あ、いや、花。花が好きで、その、飾るのが」
花瓶に花を生ける彼女の指の動きが、スローモーションのように俺の目をとらえて離さなかった。開いていた窓から入ってきた風が、やわらかく由加里の髪を吹いて、白くてふっくりした頬をさらしていく。愛おしそうに手元の花を見つめる横顔と、由加里の放った、「好き」と「なの」の微妙な間は、俺の心に小さな甘い棘を、いとも簡単に突き刺した。
由加里は週に一回、教室に花を飾り続けていた。三年間欠かさず。それを由加里がやっていると知っている者は少なかっただろう。それでも彼女は小さな花を飾ることをやめなかった。俺はときどき彼女に、あれは何の花だ、と気まぐれを装って声をかけた。同じように、ときどきは早く登校して、眠い、と言いながら机に突っ伏す振りをして、彼女が丁寧に、大事そうに花を生けるのを横目で見ていた。
それって何のためにやってんの、と一度問いかけたことがある。何のため?と由加里は不思議そうに答えた。何のためでもないよ。強いて言うなら私のため。お花、好きでよく家に飾るんだけど、量が中途半端で余るから。
あっさりそう答えた由加里に拍子抜けした。「みんなのため」とか言うのかと思いきや、自分のためとは。
由加里が由加里自身のために活け続けた花は、いつでも教室の右隅で、ひっそりと俺たちの三年間を見守っていた。
たとえるなら、そう、星の砂なのだ。さらさらと流れていく平凡な景色のなかに、ところどころに存在する星。よく見ないとそうとは気が付かないけれど、そこにも、あそこにも、俺の思い出にはあの花たちと、由加里がいて、それが俺にとっては特別で、俺だけが大切に小瓶に詰め、価値を感じて眺めている。
そんな由加里を「あざとい」と彼女の妹、沙織は言った。ねえそれ、あざとくない?と。先輩が見ていることなんて気が付いてるよ、そんなの。決まってるじゃないですか。不機嫌そうに俺を見上げる彼女の顔を思い出すときの気持ちは、当時の苛立ちとは異なり、今ではすっかりほろ苦いものになっている。