Evil Revenger 復讐の女魔導士 ─兄妹はすれ違い、憎み合い、やがて殺し合う─

 最初に記すのは、私の兄、ヴィレント・クローティスの話。
 とても強く、とても恐ろしい兄の話。
 初めて兄に殴られたのは、いつだったか。
 あれは確か、父と母が殺され、私と兄、2人での生活が始まり、1年ほど経った頃だったと思う。
 私達兄妹は、焼かれた家を捨てて、あちこちを放浪していた。
 その生活が始まった時、兄が12歳、私が8歳だった。
 幼い私は、行く先々の安宿の一室で、兄の帰りをただ待つだけの日々。
 1人で出かけて行く兄は、短くても丸1日、長いと数週間帰らなかった。
 戻ってきた兄は、いつもヘトヘトになりながらも、持ち帰った大量のパンを私に突き出すと、一言も話すことなく、横になって寝てしまっていた。
 そんな毎日が続き、そして、あの日──。



 いつものように出かけて行った兄は、その時、1ヶ月以上も戻らなかった。
 渡されていたパンもとうに尽き、私は空腹のまま、兄の帰りを何日も待った。
 その街は治安が悪かったため、幼い私には1人で外に出る勇気はなく、また、一銭も持ち合わせていない私が、もし街へ出たとしても意味はなかった。
 その夜ふけに、兄は帰ってきた。
 私は、空腹で眠ることもできず、兄を迎えた。
 いつも以上にボロボロの姿で扉から現れた兄は、両手には何も持たず、ふらふらと数歩歩くと、何も告げずに横になった。

「兄さん……?」

 その姿を見れば、ただ事ではないことを察することはできたはずだった。
 心配すべきは兄の体であり、何もできぬのなら、せめてそっと休ませてやるべきだったのだ。
 だが幼く、その時空腹に耐えかねていた私には、そんな余裕さえなかった。
 私は横になった兄に這い寄ると、

「兄さん。ねえ兄さん。お腹すいたよう。お腹すいたの、兄さん」

 言いながら、揺り起こそうとした。
 中々起きない兄を何度も揺らし続けていると、兄は唐突に、むくりと上半身を起こした。
 放心したようそれを見つめていると、次の瞬間──
 私は顔面を殴りつけられ、床に伏していた。
 何が起きたのかわからなかった。体を起こした後、頬に激しい痛みが伝わってくると、殴られたことを理解し、涙が零れた。

「痛い、痛いよう。兄さんが、ぶったよう。父さん、母さん、痛いよう」

 涙をぼろぼろと零しながら、痛い、痛いと、私は泣き喚いた。死んでしまった父と母を呼びながら。
 だが、私を慰めてくれる両親の姿は、もうそこにはない。
 1人、喚き続ける私。
 無慈悲にも、2度目の兄の拳が叩き付けられた。
 今度は痛みと衝撃で、泣くことすらできなくなった私は、床に転がった。
 必死に顔を起こすと、寄ってきた兄に胸ぐらを掴まれた。
 兄は恐ろしい顔で私をにらみつけると、静かに言った。

「黙れ」

 涙は止まらなかったが、恐怖で声は止まった。
 私が黙ると、兄は掴んでいた手を放し、再び横になった。
 その日の夜、私は部屋の隅で、嗚咽が漏れぬよう、声を殺して泣き続けた。



 翌朝、兄は早くに出かけていった。
 その時私は、このまま捨てられてしまうのだろうかと思った。
 しかし、意外にも兄はすぐに戻ってきた。
 昨夜のことに、謝るでも、怒るでもなく、いつものように無言でパンの袋を投げつけると、部屋の反対側で横になった。
 投げ突けられた袋を受け取り、しばし呆然としていた私だったが、もはや空腹が限界に達していたため、後は何も考えられずに必死にパンを貪り、そして眠った。
 これが悪夢のような日々の始まりだと、私は想像もしなかった。
 昨夜の出来事は、何かの夢だったのだろうと、鈍った思考で、呑気に考えていた。
 この日を境に、兄は何かと私に暴力を振るうようになっていった。
 そして私には、兄が何を考えているのか、わからなくなっていった。
 私を殺すでも放り出すでもなく食料を用意し、でも気に入らないことがあれば、たびたび殴りつけた。
 酷い時には、髪を掴んで引き摺られたり、腹を蹴られたりもした。
 泣き喚くとさらに酷い目に遭うため、黙って必死に耐えるしかなかった。
 私は兄に怯え、機嫌を損ねぬよう口数は減っていった。
 今だから言えることであるが、兄が悪いわけではない。
 兄もまた、私より4つ年上というだけで、幼くして過酷な生活を強いられていたのだ。
 兄は12歳の身で、1人で2人分の食料を稼ぎださなければならなかった。
 危険な仕事も沢山受けたのだろう。盗みを働いたこともあったのかもしれない。いつもぼろぼろになって帰ってきた兄の姿を思い出せば、想像できる。
 でもその時の私は、そんな苦労も想像できないほど幼くて、兄を労うでも、支えるでもなく、ただ待つだけしかしなかった。
 兄とて、自分1人で生きていくだけなら、いくらか楽だっただろう。私さえいなければ、と考えたこともあったのかもしれない。
 だから、大人になって思い返すと、私は兄を責められない。
 だが、8歳の私にも、これ以上何かができたとは思えない。
 これは悲劇である。私達兄妹に起きた、どうにもならない、避けようのない悲劇。
 そうして、私達の関係は修復不能なほどに歪んでいった。
 私にとって地獄のようなこの日々は、この後5年も間続いたのである。
 スキルド・ディバード。
 彼は私が知る限り、一番優しい人だったと思う。
 そんな彼を、私は裏切り、沢山傷つけた。
 とても、許してくれと言える義理ではない。
 でもそんな私さえも、彼なら許してしまいそうな、そんな人だ。
 スキルドとの出会いは、私が14歳、彼が16歳の頃だった。



 あの時私は、2ヶ月以上も帰ってこない兄を待っていた。
 兄は出かける前から、元々長く戻らないつもりだったのか、私は食料をいつもより多めに渡されていたのだが、流石にそれも尽き、水だけを飲む日々が続いていた。
 兄からは部屋からは絶対出るなと言われ、大量の水袋を渡されていたが、それだけで2ヶ月も持つわけがない。私は町の井戸に水を汲みに、何度も外出した。
 外出が兄にバレれば、また殴られるに違いない。だが干からびるよりはマシだと、自分に言い聞かせた。
 18歳になったはずの兄の私への態度は、何も変化を見せていなかった。
 私たち兄妹の関係は、5年前から時が止まっていたようだった。
 そして、兄以外と全くかかわりを持ってこなかった私自身も、子供のまま時が止まっていた。



 その日、水汲みのために町へ出た私は、フラフラとした足取りで井戸へと向かった。
 苦しい、何でもいい、何か口にしたい。
 井戸水を飲み込んでも、もう水だけでは足りないと体が訴えていた。
 井戸のすぐ傍には市場があり、食料が並べられていた。
 もう我慢の限界だった。
 ふらつきながら市場の方へ歩いた私は、露店に並べられている果物を無造作に盗り、かじった。
 店員の怒鳴り声で我に返るが、もう遅い。
 果物を持ったまま、慌てて宿の方へと駆け出した。
 元々、私は足が速い方とは言えない。今の体調ならなおさらであった。
 あっさりと捕まり組み伏せられた。
 お金を持っていない私は、このままどうなってしまうのだろう。
 不安はあったはずなのに、この時の私はうつ伏せの姿勢のまま、空いた手で果物をかじっていた。
 そんな私を見て、店員は怒鳴りながら、無慈悲に手の果物を払いのけた。
 周りの人々は、何事かと、こちらを見ていた。
 そして、どこまでも間の悪いことに、その場所にちょうど兄が姿を現した。



 兄は店員と話をつけ、私の盗ったものの代金を支払ったようだった。

「兄さん……あの……、ごめんなさい」

 解放された私は、少しでも兄の機嫌を取ろうと、消え入りそうな声で謝った。
 たとえそれが、ほとんど無駄だとわかっていても。
 兄は私の前に立つと、周囲の目などお構いなしに、いつものように私を殴りつけた。
 地面に転がる私に追い打ちをかけるため、兄が胸ぐらを掴もうとしたところで、

「おい、なにやってるんだよ!? やめろ!」

 初めて聞く声がした。
 ゆっくりと助け起こされ、そちらを振り返ると、

「大丈夫かい?」

 初めて見る、茶色の髪の青年がいた。
 それが、彼との出会いだった。
 私は彼に支えられながら、宿に戻った。
 彼は、怯える私と怒る兄を引き離し、話を聞いてくれた。
 兄以外の人と口を利くのは、本当に久しぶりだった。

「俺はスキルド。君の兄さん、ヴィレントに助けてもらったんだ」

 スキルドは、あの場に偶然居合わせたわけではなかった。兄に付いて、この街にやってきたのだという。
 私から事情を聴き終えた彼は、

「そうか……、君も大変だったな」

 気の毒そうに、そう言った。

「わかった、俺からヴィレントに話すよ。君が酷い目に合わないように」

 優しい顔で言う彼に、そんなことができるわけがないと、私は言った。

「大丈夫、あいつは俺の命の恩人なんだ。話せばちゃんとわかってくれるさ。俺に任せてくれないか?」

 そんなはずはない。兄が話の通じる人間なら、私が何年にも渡って辛い目に遭い続けるわけがない。
 きっとスキルドも兄に逆らえば、殴られ、蹴られ、出て行ってしまうに違いない。
 私はそう思っていた。
 だが、不思議なことにそうはならなかった。
 この日を境に、私は兄から殴られることはなくなったのだ。すべて、スキルドのおかげだった。
 しかし、私と兄の仲が改善したかと言われると、完全にそうとは言えなかった。
 兄と一緒にいる時は、必ず彼が間に入ってくれるようになった。
 私は彼の背中に隠れ、いつも兄と目を合わせないようにしていた。
 兄もまた、そんな私をほとんど無視するようになった。
 殴られることこそなくなったが、以前よりさらに、私達の間には距離ができた気がした。
 それでも、兄の暴力から逃れることができた私は、彼のおかげで間違いなく救われていたはずだった。
 他にも生活に変化はあった。
 兄が稼ぎに出て数日帰らないことは相変わらずだったが、スキルドは頻繁に私の様子を見に戻ってきてくれた。
 長い時でも、彼が2日以上私を1人にすることはなかった。
 これまでは、たとえパンが尽きなくとも、1人で帰りを待つのは心細かった。

「ただいま、チェント」

 だから、彼が帰ってくると、私も笑顔で迎えた。

「おかえりなさい、スキルド」

 彼のおかげで、飢えたまま放置されることもなくなった。感謝してもしきれない。
 あの時の私はもう、彼なしでは、生きられなくなっていた。



 シルフィ・ディバード。
 私が彼女に抱く感情は、今でも複雑である。
 彼女はスキルドの双子の妹。彼女もまた、スキルドとともに兄に助けられたという話だった。
 容姿も性格も、スキルドとはあまり似ていないと、私は思った。
 私より大人びていて、綺麗な人だったと思う。
 そして、優しいスキルドと違い、思ったことはすぐに口に出す、きつい印象の人だった。
 彼女と2人きりになった時に、言われたことがある。

「あなたさあ、なんで自分では働かないの?」

 彼女もまた、兄達とともに働きに出ていた。
 やっている仕事は兄達とは違うのだろうが、それでも彼女は、自分自身の食べる分は、自分で稼いでいた。

「1人で外に出るのが心細いなら、私に付いてくれば? 色々、教えてあげてもいいし」

 それは、彼女なりの善意だったのだろう。
 だが私は、他人と関わるのが怖かった。
 幼いころから人見知りだった私は、そのまま大きくなってしまった。
 両親が死んだあの日から、私の時間は一歩も進んでいない、子供のままだった。
 うつむくだけで、何も答えようとしない私に、

「ふぅん、あなたはそうやって何もしないで、ずっと守られて生きてきたのね」

 彼女は冷ややかに言った。
 守られていた? そんなはずはない。私はいつも兄の暴力に怯えていた。兄が私を傷つけたことはあっても、守ってくれたことなど一度だってない。
 兄さえいなければ、私はもっと幸せだったはずだ。
 もし本当に兄がいなければ、自分がとっくに餓死していたことなど、その時の私は考えもしなかった。

「これじゃ、ヴィレントがあなたに腹を立てる気持ちもわかるわ。あなたは自分に原因があるなんて、考えもしないんでしょうけど」
「他人のあなたに、何がわかるの!!」

 思わず怒鳴り返していた。
 なぜ、この人にここまで言われなければならないのだろう。この人に私の苦労の何がわかるのだろう。

「威勢がいいじゃない。ヴィレントにも同じように言い返してみたら?」

 冷たく言い放つ彼女。
 悔しくて、涙が流れた。
 私の苦しみなんて、何も知らないくせに。
 直後にスキルドが帰ってきたため、話はそこで終わりになった。
 涙を流す私を見たスキルドが何事かと心配してきたが、なんでもないの、と涙を拭いてごまかした。
 この時、スキルドに泣きつかなかったのは、私なりの精一杯の意地だった。
 シルフィは、私への態度とは対照的に、兄とは仲が良かったようだ。
 皆でいる時、いつも兄の横にべったりとくっついていたし、兄の方もそれを嫌がることなく受け入れていた。
 兄とシルフィが2人で話しているところを遠目に見たことがある。
 兄はあの時、シルフィの隣で、確かに笑っていた。
 兄の笑顔など、両親が死んでからは一度も見たことはなかったのに。
 笑いあう2人を見た私の気持ちは、とても複雑だったことを覚えている。
 兄が私に手を上げなくなったのは、スキルドのおかげなのはもちろんだが、シルフィのおかげもあったのだろう。今はそう思う。
 シルフィの存在が、兄の心を穏やかにしていたのだ。それは、私には、今も昔も、決してできなかったことだった。



 2人と出会ったことで、私の生活は一変した。
 暴力に怯える必要のない、穏やかな日々が帰って来たのだ。
 そのはずなのに、私の心には、大きなしこりが残ったままだった。
 兄と2人で過ごした日々。私にとって兄は、絵本の中で見た、災いを呼ぶ悪魔のような存在だった。
 私は、悪魔に取り憑かれたかわいそうな女の子。
 果てしなく続く、苦しみの日々。
 でも、いつか王子様が現れて、悪魔を打ち倒し、私を救い出してくれる、そんなことを考えていた。
 2人は確かに、私を苦しみから救ってくれた。
 だけど、悪魔を打ち倒してはくれなかった。
 それどころか、兄は悪魔なんかじゃないと、私に訴え続ける。
 スキルドでさえも、私の前で嬉しそうに、兄を称賛した。
 彼は言った。ヴィレントは、恩人であり、憧れだと。
 私は耳を塞ぎたくなった。
 やめて。その人は悪魔なの。2人は騙されているのよ。
 兄が悪魔でないのなら、私の5年間も続いた苦しみは何だったのか。
 あなたたちが褒め称えるその人に、苦しめられ続けた私はいったい何なのか。
 なぜ兄は、私以外を苦しめることがないのか。
 それでは、まるで私の方が悪魔のようじゃないか。
 兄が悪魔として裁かれなければ、私の世界は、私の価値観は、壊れてしまう。
 だから、2人の言葉を絶対に認めるわけにはいかなかった。
 それでも、兄もスキルドもいない場所で、私は生きられない。
 心にしこりを残したままでも、この生活を続けるしかなかった。
 いつか本当の救いが訪れると信じて。それが、どれほど身勝手な思考か自覚することはなく、私は祈り続けていた。
 私の両親の話をしよう。
 私の母は、ベスフルという王国の王族だった。
 そして、父は魔王の息子だった。
 "魔王"と言っても、別に異界の悪魔というわけではない。
 北方に住む、青い肌を持つ一族の王様のことである。
 私が生まれるより前、ベスフルと魔王軍の戦争の時、父は魔王軍を指揮する将軍の1人だったそうだ。
 その時の戦争は、父の寝返りによって魔王軍が大きな損害を被り、撤退していったという。
 父の寝返りがなければ、ベスフルは敗北していたと言われている。
 母は、ベスフル軍に帰属した父と惹かれ合ったのだという。
 しかし、父の功績をもってしても、2人の婚姻をベスフルの王族たちは認めなかったそうだ。
 母はそれに反発し、王宮を出て暮らすことを選んだのだという。
 そして数年後、2人は魔王軍の報復に遭い、殺されてしまったのだ。
 その時、私と兄は襲撃をいち早く察知した両親に先に逃がされ、何とか生き延びた。
 もし、ベスフルの王族が2人を受け入れ、王宮に守られていれば、2人は死なずに済んだかもしれない。
 両親が殺された時、私の心にあったのは、深い悲しみと魔王軍への恐怖だった。
 だが、兄は違っていたようだ。
 兄は両親が亡くなったその日から、復讐を考えていたのかもしれない。魔王軍とベスフルへの復讐を。



 それは、4人での生活が始まり、1年ほどの時が流れたある日。
 仕事を探して隣の街へ向かうべく、私達4人は街道を歩いていた。
 度々、遅れがちになる体力がない私と、それを励ましながら手を引くスキルド、呆れ顔のシルフィ、黙って睨む兄。いつもの光景だった。
 数日の道のりになるため、暗くなるまで歩いた後、夜は簡易宿場に泊まり、日の出を待って出発することを繰り返す。
 出発して2日目の昼頃のこと、街道の先に怪しい一団を見つけ、4人は立ち止まった。
 剣を抜いた男達に2人組が囲まれている。そういう風に見えた。
 今いる場所から、その一団のいる場所はちょうど下り坂になっていて、様子がよくわかった。

「野盗か?」
「まっ昼間から、こんな目立つ場所で?」

 スキルドとシルフィが言った。
 街道を行く人々を襲い、金品を奪う集団が出ることがあると、私は話には聞いたことがあったが、実際に出会ったことはなかった。
 もし野盗だとしたら、私達にも危険が及ぶかもしれない。私は不安げな顔でスキルドの手を握った。

「俺が様子を見てくる。お前たちは待ってろ」

 兄は恐れることもなく、1人でその一団の元へと速足で向かっていった。

「ヴィレントに任せておけば、大丈夫さ」

 不安がる私を見て、スキルドが言った。
 見送るスキルドの顔にもわずかに緊張が見えたが、私のようにこちらに危害が及ぶ心配などはしていないようだった。
 シルフィに至っては安心しきった顔で、むしろどこか得意げな表情まで浮かべて、兄を見守っていた。
 兄が一団と接触。この場所からは話の内容までは聞き取れなかったが、相手が険悪に何かを叫んでいることはわかった。
 そして遂に、兄が剣を抜いた。
 いつも兄は腰に剣を下げていたが、実際に抜いたところを私が見たのは、これが初めてだった。
 私は、思わずスキルドにしがみ付き、服を掴んだ。
 一団は、囲まれていた2人組を無視して一斉に兄に襲い掛かった。その数は10人以上はいたはずだ。
 兄は襲い掛かる相手を次々と斬り伏せていった。
 素人同然の私にも、兄が只者ではないことがわかった。
 私は、スキルドにしがみ付きながらも目を背けることはなく、むしろ食い入るように見つめていた。
 これが、兄さん……?
 兄と相手の数人が剣を振り合いすれ違うと、相手だけが倒れ、兄は何事もなく続けて剣を振るう。
 何人が襲い掛かっても、兄の動きが鈍ることはない。相手の数だけがどんどん減っていった。
 男達は遂に残り2人になると、かなわないとみて逃げ出した。
 兄はそれらも逃がさない。1人を背中から斬りつけ、躓いて命乞いするもう1人も、あっさり斬り捨てた。
 あっという間だった。
 その時の兄は、まるで本当の悪魔のような、強さ、恐ろしさだった。

「……終わったみたいね」

 得意げだったはずのシルフィまで、若干ぽかんとした表情になっていた。
 以前にスキルド達が言っていた、兄に助けられたという話、スキルドが兄に憧れているという話など、この時、私は初めて実感できた気がした。
 こんな人に助けられたら、こんな強さに魅せられたら。
 私も、あの地獄の5年間がなければ、素直に感嘆し、あるいは自慢の兄だと誇っていたかもしれない。
 兄さんを本気で怒らせたら、私など、きっと一瞬で殺される……。
 兄を敵視していた私には、そんな恐怖の感情しか浮かんでいなかった。

「敵わないな。やっぱり凄いよヴィレントは」

 呟くスキルドも、驚きとも呆れともいえない表情をしていた。



「この2人を護衛する仕事を受けた。お前らは街で待っていろ」

 合流した直後、兄からそんな言葉が出た。
 その姿は、髪が少々乱れているだけで、かすり傷一つ負っていない。
 兄は、始めから謝礼が目当てだったのだろう。ついでに仕事まで受けられて、ちょうど良かったと思っているようだ。
 兄に助けられた2人は、どちらもフードとマントで風貌を隠していた。
 そのうちの1人、背の高い方は、そのシルエットから中に鎧を着込んでいることがわかる。
 彼はベスフル王国の近衛騎士、ヴェイズと名乗った。
 もう1人は、背丈が私と同じくらい小柄な少女だった。
 彼女は自分では名乗らず、ヴェイズが紹介した。
 フェアルス・クローティス。現在のベスフル国王の娘であり、お姫様だった。
 その言葉にスキルドとシルフィは驚いたようだったが、私の中の驚きはそれ以上だったと思う。
 クローティス。私達と同じ姓。
 現ベスフル国王は、私達の叔父にあたる人だと聞いていた。
 つまり目の前の彼女は、私達と従姉妹の関係にあった。
 兄に特に動揺は見えない。事前に聞いていただけなのかもしれないが、ベスフル王宮の人間を助けようとする兄を、私は意外に思った。
 兄が両親のことで、王宮の人間を残らず恨んでいると思っていたからだ。

「ベスフルの本城が敵の襲撃を受けたんだと。姫様を砦まで逃がすために、脱出してきたそうだ」

 兄がそう説明した。

「姫を無事に砦に送り届けられたら、できる限りの報酬はお支払する」

 よろしく頼む、とヴェイズが頭を下げた。

「姫様とは他人じゃないんだ。任せてくれ」

 兄のそのセリフは、既に彼らに身分を明かしていることを示していた。
 兄の考えがよくわからなかった。
 私には、母の母国を助けたいなどという動機で兄が動いているとは思えず、真意は別にあるのだろうと考えてしまった。

「わかったわ、出発しましょ」

 シルフィが兄の手を取った。

「……街で待っていろと言ったはずだが?」
「やだ、私も付いてく! この先の街だって、いつ戦火が及ぶかわかんないし、ヴィレントが守ってくれなきゃ、安心できない!」

 シルフィが兄に腕を絡めながら、唇を尖らせた。
 この人のこういうところが、私は嫌だった。
 兄の方も、それを怒鳴るでも振りほどくでもなく、ただ迷惑そうにため息をつくだけだった。
 私が口答えした時は、殴り飛ばしてたくせに……
 私は2人から目をそらした。

「ヴィレント殿、時間が惜しい。すぐにでも出発したいのだが」

 ヴェイズが急かした。
 兄は軽く舌打ちすると、シルフィに向かって、

「わかった、好きにしろ。危なくなっても知らないからな」
「平気よ。ヴィレントが守ってくれるでしょ?」

 兄は再度大きなため息をつくと、諦めて歩き出した。

「すまん、ヴィレント。本当にヤバくなったら、俺がシルフィを街まで引っ張っていくから」
「えー、スキルドは来なくていいのに」

 私もスキルドに手を引かれて歩き出す。
 私達は結局6人全員で、ベスフルの砦に向けて出発した。
 この出会いが、私達の運命を大きく動かしたことを、この時はまだ誰も知らなかった。
 私が自分の運命の分かれ目に"もしもあの時"と考えるなら、まずフェアルス姫達とのあの出会いが最初に浮かぶ。
 もちろん他にも、両親の死やスキルドとの出会いなど、大きな分かれ目は沢山存在している。
 けれど、他のそれらは何らかの偶然の重なりこそあれど、少なからず人の意志が生み出したものであったと思う。
 だが、あのお姫様達との出会いは、まったくの偶然であったはずだ。
 街道を歩いていた私達と砦に向かう彼女達に、接触の意志はない。
 結果的にあの出会いは、兄の復讐のきっかけとなった。
 もしあの出会いがなければ、兄はどうしていただろうか? 私はどうなっていただろうか?
 それでも兄は、復讐に向けて最終的には1人で行動を起こしたかもしれないが、私の運命は大きく変わってしまっただろうと思う。



 あの出会いから、約2週間が経過。
 私達はベスフル城にいた。
 兄は、ベスフル城奪還の英雄として入城したのである。
 そう"奪還"である。
 ベスフル本城は、一度は陥落していたのだ。
 ベスフル城の陥落と、国王の処刑。その事実を私達が知ったのは、姫を護衛して砦についた時だった。
 泣き崩れる姫と、動揺する砦の兵士達。
 兄はそれをまとめ上げ、ベスフル城に攻め上った。
 砦の指揮官の中には、兄に不満を上げるものも少なくなかったが、そこで兄は自身の身分、国王の甥であることを持ち出し、フェアルス姫の臣下となってベスフル城を奪還することを宣言したのだった。
 そして自ら先頭に立って戦い、敵に劣る戦力でベスフル城奪還を果たすことで、反対勢力を黙らせてしまったのである。
 奇跡だと、ベスフルの人々は言った。
 その時より、英雄ヴィレント、と兄は呼ばれるようになった。
 入城した私達は、英雄の身内ということで、1人1人に城内の個室を与えられた。
 それは、これまで私が体験したことのないような待遇だった。
 豪華な食事に、ふかふかのベッド、服もこれまでのボロボロだった物から、新品のドレスに変わった。
 これでも王族が身に着けるには、質素なものだと、侍女さんが教えてくれた。
 王族である。
 国王の血縁である私は王族として、スキルドやシルフィより一段上の扱いを受けているようだ。
 何もしなくても、侍女さんが私の髪を整え、ドレスを着つけてくれる。
 まるで、夢でも見ているようだった。
 部屋にある大きな鏡を覗くと、綺麗なドレスを着た見慣れない少女がそこに映っていた。
 私は両親が亡くなった7年前のあの日から、鏡など碌に見ていない。
 そこには、切り揃えられた母譲りの綺麗な金髪と碧い目が映り、そして伸びた身長とゆったりした服の上からでもわかる胸の膨らみが、もう自分が子供ではないことを伝えてきた。

「チェント、いるか?」

 部屋を訪ねてきたのは、スキルドだった。
 入城してから3日、スキルドは私を気遣って、毎日様子を見に来てくれていた。
 私達は、部屋のベッドに並んで腰かけた。

「ここでの生活には慣れたか?」

 スキルドの言葉に、私は首を横に振った。

「慣れるわけないよ。今までと全然違って、落ち着かない」

 正直にそう答える
 スキルドは、そうか、と相槌を打った。

「この国も王様が処刑されて、この先どうなるかわからないし、こんな生活がずっと続けられる保証はないんだよな。
 ヴィレントは、どうするつもりなんだろうか?」

 もし城が再び陥落し敵に捕まれば、私も王族として処刑される可能性すらある。
 そう思うと、逃げ出したい気持ちさえあった。

「兄さんは、どうしてるの?」

 入城してから、私は兄とほとんど顔を合わせていなかった。
 部屋の場所は聞いていたので、会おうと思えば簡単なはずだったが、兄の部屋を訪ねる理由が私にはなかった。

「あいつはベスフル兵団の作戦会議に、毎日顔を出しているみたいだけどな。昨日の夜会った時は、イラついてたな。この国の連中は腰抜けばかりだ、ってさ」

 英雄となった兄は、すっかり兵団を仕切っているようだった。
 城内は、入城した初日こそ浮かれた雰囲気があったが、翌日になるとまた不穏な空気が漂い始めていた。
 それも当たり前のことだった。
 城は取り返したものの、それは戦いが振出しに戻っただけだからである。
 一度の陥落によって王様は殺され、その他にも決して少なくない犠牲を出していた。
 この国にとっては、まだマイナスの状態で、戦争は終わっていなかった。

「これ以上戦を続けても勝ち目はない、って思っている連中が多いらしい。なんたって、相手は魔王軍だしな」

 戦の相手が魔王軍。
 私がそれを知ったのは、ここベスフルに着いてからだったが、巷では既に広まっていた情報らしい。
 ベスフルの同盟国が魔王軍に降伏、従属し、連合軍となって攻めてきたというのが、実情のようだった。
 兄の方は、とっくにその事実を知っていたのだろう。
 両親の仇討ちのために、戦いに参加したというのであれば、兄の行動も説明がついた。

「王様の正式な跡継ぎは、あのお姫様しかいない、って話だけど。あの様子じゃ何の決断もできそうにないしな」

 フェアルス姫は、16歳。この時の私と1つしか違わない。
 今まで、箱入り娘同然に育てられてきたそうだ。
 砦の中での様子を思い出す。
 交戦か降伏か、指揮官たちに決断を迫られ、口ごもる彼女に兄が言った。

「ここは姫様に代わって、俺が戦いの指揮を執りましょう」

 兄はそこで身分を明かし、自身にはその権利があると主張した。
 指揮官たちは、何の証拠もないデタラメだと言った。

「この場ですぐに出せる証拠などないが……そうだな。姫様さえ認めてくださるのなら、他の方々に異論を挟む余地はないはずだろう?」

 戸惑う彼女に、兄は畳みかけた。

「もし姫様が認めてくださらないのなら仕方ない。ご自分で指揮を執るなり、降伏するなり、ご決断なさいませ」

 その言葉が決め手となり、彼女は兄にすべてを任せることを告げたのだった。
 兄はその時すでに、何の決断も下せない姫の性格を見抜いていたようだった。
 きっと今も彼女は、自分の責務から逃げたがっているに違いない。
 いっそ、兄が王位を継いでくれれば、とすら思っているかもしれない。

「兄さんは、戦いを続けるつもりなんだね」

 両親の仇を討つため、フェアルス姫の権威を利用してでも、戦い続けるつもりなのだろう。
 それからスキルドは、私と他愛のない話を続けた後、部屋に戻っていった。



 その翌日。
 朝方、部屋の扉が叩かれたのを聴き、私はスキルドの来訪を予測して戸を開けると、そこには違う姿があった。
 スキルドより、そして兄よりも大きい身長に驚く。
 その男はベスフル兵団の小隊長の1人、名前は確か、ガイといった。
 筋骨隆々とした体つきに、強面で禿頭の男。目の前に黙って立たれただけで、恐ろしい容姿をしていた。
 恐れ、戸惑う私に、彼が言った。

「ヴィレント殿の妹君、チェント殿ですな? 兄上がお呼びです。付いて来てください」

 兄さんが今更、私なんかに何の用だろう?
 不思議に思ったが、そもそも兄の考えていることなど、前からわからない。
 それよりも、逆らえばまた兄に殴られるかも、という恐怖が、黙って私を従わせた。
 歩いていくガイの後ろを、黙って付いていった。
 歩幅が違うせいか、ゆっくり歩くと置いて行かれそうになる。
 兄の怒りを買いたくないがため、私は速足で追いかけた。
 そういえば彼は、砦のやり取りでも兄に賛同していた数少ない人物であったことを思い出す。

「この臆病者共め! 国王陛下への恩義があるなら、今すぐベスフル城奪還のために兵を挙げるべきであろう!」

 そうやって、他の小隊長たちを怒鳴りつけたのを覚えている。
 この短い間に、使い走りを頼むほど仲が良くなったのだろうか?
 彼に限らず、城の兵たちの間では、兄を称賛、支持する声が飛び交うようになっていた。
 戦場などにまるで縁のなかった私には、兄の成しえたことの凄さは、いまいち実感できていない。
 そんなことを考えながら歩いといると、気が付けば城の外へ出ていた。
 こんな場所で兄が待っているのだろうか?
 私がきょとんとしていると、次の瞬間、私は口を塞がれ、喉元に短剣を押し付けられていた。

「!?」

 私には、一瞬、何が起きたのかわからなかった。

「声を出すな」

 ガイの声。いつの間にか背中に回り込まれて、動きを封じられている。

「怪我をしたくなかったら、おとなしくしろ」

 恐怖で体が動かなかった。
 私は布で口を塞がれ、縄で後ろ手をきつく縛られた。
 小柄な私は、ガイの片手で軽々と担がれて、どこかに運び去られようとしていた。
 何故? この人は兄さんの賛同者ではなかったのか? 私をどこに連れて行くつもりなのか? まさか、兄さんの命令で?
 私の思考は混乱するばかりだった。
 冷静に考えれば、この時、兄が私をどうこうする理由はない。実際のところは、私のことなど、もう歯牙にもかけていなかったであろう。
 城の裏口には、なぜか見張りがいなかった。
 彼が見張りを、何らかの手段で予め排除していたのだろう。
 裏口を出てしばらく歩いたところに、馬が止めてあった。
 こんなもので、いったいどこまで行くつもりなのか、目的がわからなかった。

「待て! あんた、チェントをどうする気だ!」

 声の先にスキルドがいた。
 私が部屋にいないのを見て、追いかけてきてくれたのだろう。
 いつも私を気にかけてくれる彼は、こんな時でもちゃんと駆けつけてくれた。
 スキルド、助けて! と、私は塞がれた口で全力で叫んだが、言葉にならないうめき声が、あたりに流れただけだった。

「ヴィレント殿には悪いが、この国にはもう愛想が尽きた。この娘は連れて行く。死にたくなければ邪魔をするな」

 ガイはスキルドを睨みつけた。
 スキルドは、一瞬たじろいだが、

「チェントは返してもらうぞ!」

 覚悟を決めたように、腰の剣を抜いた。
 ヴィレントのように強くなりたい、といつも言っていたスキルドは、度々、兄に稽古をつけてもらっていた。
 だが、大した成果は出ていないと聞いている。今回の戦にも、スキルドは参加していない。
 今も、必死に恐怖を振り払おうとしている様子が、顔に表れていた。
 2人を見比べると、明らかに体格に差があり過ぎた。
 細身で、同年代の男性の中でも背がやや低い方であるスキルドに対し、戦い慣れした体つきをしているガイは、大男と形容していい。
 スキルドは、他に人を連れてきてはいなかった。
 今、助けを呼びに戻れば、その間にガイは私を連れて、手の届かないところまで逃げ去ってしまうのだろう。
 私には、スキルドが助けてくれることを祈るしかなかった。
 スキルドが剣を抜くのを見たガイは、私を地面に放り出し、懐の短剣を取り出した。
 腰の剣は抜かない。目の前の細身の青年など、短剣で充分だと思っているようだった。
 縛られている私は1人で立つこともできず、視線だけをスキルドに向けた。
 ガイは何の緊張も見せず、ゆっくりとスキルドに近づいていく。
 スキルドは、雄叫びをあげて斬りかかっていった。
 お願い、頑張ってスキルド。
 スキルドの振り下ろした剣は、ガイの短剣にあっさりと受け流された。
 私の祈りも虚しく、ガイの短剣は、事務的な動作でスキルドの脇腹に突き刺された。

「!?」

 私は悲鳴を上げた。
 短剣が引き抜かれると、どくどくと血が溢れだし、スキルドはその場に崩れ落ちた。

「チェント…を……返……」

 彼の伸ばした手は、私には届かない。
 ガイは、勝負はついたとばかりに、スキルドに背を向けた。
 何事もなかったように私を担ぎ上げ、馬の背に括り付ける。
 私は必死に叫んだ。
 助けて! 誰か助けて!
 口を塞がれていたのは、幸いだったのかもしれない。
 自分を助けに来て、死ぬかもしれない傷を負った青年を無視して、己の身ばかりを優先する私の、その身勝手な悲鳴は、スキルドにはとても聞かせられない。
 そんな悲鳴は天に届くわけもなく、馬は走り出した。
 遥か遠い地を目指して。



 あの時、フェアルス姫達との出会いがなかったら。
 あの時、兄がベスフルの戦いに赴くことがなかったら。
 今も私は、スキルドの隣で、身勝手な自分を自覚せず生き続けていたのだろうか?
 考えずにはいられない。
 このたった1つの偶然は、私の運命を大きく変えてしまったのである。
 魔王。
 私の祖父にあたるあの人とは、結局、今まで交わした会話はとても少ない。
 厳しく、兄とはまた違った恐ろしさを持っていたが、同時に領民達には絶大なカリスマを誇っていたことは、当時の私でも感じ取れたことだった。
 あの人は、私のこと、父のこと、そして兄のこと、どんな目で、どんな思いで見ていたのだろうか?
 王族の親兄弟は、領土を巡って殺し合うことも珍しくないという。
 私より遥かに長く生きていたであろうあの人は、親族の争いを、達観した目で割り切って見ていただけなのだろうか?
 きっと私には、一生辿り着けない場所にいた人だろうと思う。



 ベスフル城を離れてから数週間後。
 私の姿は、薄暗い牢の中にあった。
 ここは、レバス王国。
 かつてベスフル王国とは同盟関係にあり、今は魔王軍に従属、ベスフルと最前線で戦わされている国だった。
 国に着いた時も、街には活気がなく、どこか暗い雰囲気が漂っていた。
 ここまでの道中と独房での生活で、私のドレスはすっかり薄汚れて、みすぼらしくなっていた。
 元の生活に逆戻りしたようだったが、毎日食事が運ばれてくる分、兄と2人だった時よりはマシな気がした。

「俺はレバス軍に下る。お前は人質だ」

 道中のガイの言葉を思い出す。

「元々、俺はベスフルの人間ではない。故郷を失った後、陛下に取り立てて頂いた身だ」

 もうあの国に未練はない、と続けた。

「姫も他の指揮官も、日和見主義の臆病者しか残っていない。あの国に未来はない。ヴィレント殿がどれだけ頑張ったところで、周囲があれでは限界があるだろう」

 ならばレバスに協力し、少しでも早く戦を終わらせた方が良いと、語る。
 戦が長引くほど、犠牲は増えるのだ。

「今、あの国で唯一脅威となるのは、ヴィレント殿の存在だ。妹の貴様は人質として、最後の切り札になる」

 貴様には気の毒だがな、と告げた。
 その時は、兄が私などを気にかけて戦いをやめるわけがないことを、必死に訴えたが、聞き入れられるわけがなかった。
 それが真実だとしても、ベスフルに引き返す選択肢があるわけがないのである。
 これからどうなるのかは、まったくわからない。
 牢に入れられて、数日が過ぎていた。
 戦はまだ続いているのか? 兄達はどうなったのか?
 牢屋にいる私には、何も情報は入ってこない。
 ただ薄暗い壁と天井を見つめるだけの日々、時間だけが過ぎていった。



「出ろ」

 さらに数日が過ぎたある日、私は牢から出された。
 私に出るよう命じたのは、青い肌をした男だったことに、私は驚いた。
 父も同じ色の肌をしていたことを思い出す。
 魔王軍の人が、何の用で、私の元へ来るのか?
 こちらから、何かを聞くことは、怖くてできなかった。
 彼は、多くは語らず、付いてこい、と私に言った。
 兄より少し小さく、スキルドより少し大きいその背を追って、私はゆっくり歩いた。
 かつて、父は、裏切り者として、魔王軍に粛清されたのだ。
 裏切り者の娘である私も、処刑されてしまうのかもと思うと、涙が出てくる。
 だが、服を着替えさせられて、私が案内された先は、街の外だった。

「乗れ」

 促された先には、大きめの馬車があった。
 馬車といっても、それは、貴族が乗るような豪華なものではなく、商人が使うような荷物を運ぶものに、人が乗る狭いスペースが設けられていたものだった。
 戸惑いながら乗り込む。彼もマントを羽織った旅装束姿で、私を監視するように、対面に座った。
 馬車がゆっくり動き出す。
 レバスの城下町が、少しずつ遠くなっていった。
 どこに行くのだろう?
 戦いの前線に連れて行き、兄達の前で人質として晒し物にされるのだろうか?
 黙って考えていると、どんどん気が滅入ってくる。
 彼の方も、一言も発さぬまま、じっと座っているだけだった。
 耐えられなくなり、遂に私は口を開いた。

「あ、あの…… 私は、何処へ……?」

 消え入りそうな声で、なんとか尋ねる。

「行先は、魔王領だ」

 ぶっきらぼうに、彼は言った。

「魔王様は、孫のお前に一度会ってみたいとおっしゃっている。だから、これから魔王様の元へお前を連れて行くんだ」

 魔王の元へ……?
 言われてみれば、馬車の向かう方向は、ここに来た時とは真逆であった。
 今更ながら気づく。
 魔王という言葉だけ聞くと、恐ろしい化け物を想像してしまうが、父と同じ人種であり、私にとっては祖父であった。
 そういえば、私と兄の肌に、父と同じ青い色が出なかったのは、たまたまだろうか?
 父が街に出る時に、服とマスクで、できるだけ肌を隠していたのを思い出す。
 ベスフルの周辺で、父以外に、肌の青い人は見たことがない。
 私達が青い肌で生まれてきたら、2人での生活は、さらに苦しいものになっていただろう。
 今から向かうのは、祖父の元。私の……お爺ちゃん?
 祖父の話など、父からまったく聞かされたことはなかった。
 考えてみれば、渡された服は、質素だが清潔で動きやすいし、今も、馬車の中で手枷などは嵌められていない。
 縄で縛られて連れてこられた時とは、大違いだった。
 敵中にいたとはいえ、王様の孫ゆえの待遇なのかもしれないと思えた。
 祖父とは、どんな人なのか、怖くもあり、少しだけ興味もわいてきていた。
 気が付くと、レバスの城下町は、もう見えなくなっていた。



 馬車は、途中、何度か宿場町を経由した。
 その時には、1人部屋を与えられ、夜はベッドで眠ることができた。
 一応、監視らしきものはついているようだったが、何やら、丁重に扱われている雰囲気は伝わってきた。
 やがて、馬車は山道に入る。
 ここから先は、もう宿場町はないようで、毛布を渡され、馬車の中で眠った。
 馬車には屋根もついていて、ふかふかのベッドほどとはいかなくとも、充分快適に眠ることができた。
 そして、山脈を越えたところで、馬車から見える景色の向こうに、遂に、岩山に囲まれた巨大な城が姿を現した。

「あの場所が……魔王の……?」
「そうだ」

 戦の知識など皆無に等しい私だったが、それが、遠めに見ても、とても堅牢で、攻められにくい作りだということは、なんとなく理解できた。
 大勢の兵士を率いたまま、この山を越え、あの城を攻め落とすなど、その時は、とても現実的とは思えなかった。
 兄は、本当にあそこまで攻め上るつもりなのだろうか?
 山道は、ここからの下りも険しい。
 到着には、もうしばらくかかりそうだった。
 下りの道に入ると、あちこちに小さな家や集落なども見え始めた。
 この辺りから、もう魔王領の中なのだろう。
 周辺は、夜でもないのに、人影は殆どなく、静まり返っていた。

「この辺りは、土地が痩せていて作物があまり育たない」

 外を眺めている私に、彼が説明してくれた。

「いずれは、この土地を捨てて、他へ移住しないと、この国に未来はない。魔王様はそうおっしゃっていた」

 見える山々は、殆ど岩肌で、土が少なかった。
 彼らはこんな土地で、ずっと暮らしてきたのか。
 事情を知ると、彼らはただの恐ろしい侵略者ではなく、私達と変わらない人々なのだと思える。
 父がそうだったのだから、当たり前のことだった。



 大きな金属の門が、音を立てて開かれる。
 門を抜けると、石造りの街があり、住民たちが行き交っていた。
 山の上から見えた巨大な城は、そのまま街も含んでいたのだ。
 街を、丸ごと高い城壁が覆っている。城塞都市と言うらしい。
 大通りの先に、目的の城が見えた。
 街の方は、山で見た集落ほどではないが、こちらもあまり活気がなかった。
 そういえば、レバスの城下町も似たようなものだったか。
 城の前に着くと、馬車を下ろされ、彼の案内に従って、城の扉を潜った。
 扉の左右に立つ衛兵は、ベスフル城の衛兵たちよりも一回り大きい。
 街で見かけた人々も、皆、大柄だったことを考えると、生まれつき私達より大きな体を持っているのだろう。
 父や、目の前を案内する彼は、魔王領の中では小柄な方にあたるようだった。
 城の内装は、華やかだったベスフル城に比べると、どこか冷たく厳格な印象だった。
 階段をいくつか上がり、扉を潜ると、ついに、謁見の間にたどり着いた。
 そこは、ベスフル城のように絨毯などは引かれていない。
 石の床の上を、彼の後ろをついて歩いた。
 その先には、玉座に腰かけた、魔王の姿があった。
 傍らには、側近と思しき人間が、右に2人、左に1人立って、こちらをじっと睨んでいた。
 魔王自身も、おそらく兄より大柄であったが、そのすぐ右隣に立っている鎧の男は、さらに大きかった。
 側近たちの視線も鋭かったが、それ以上に、魔王の放っている威圧感が、私の心を締め付けていた。
 案内の彼が跪くのを見て、慌てて私もそれに倣う。

「ただいま戻りました」

 震える私とは対照的に、彼は落ち着いた声で言った。

「ご苦労だった。面を上げよ」

 彼と魔王のやり取りなど、まるで頭に入ってこない。
 早く休みたい。ベッドで横になりたい。
 強く、そう思った。

「聞こえているのか。貴様もだ、顔を見せよ!」
「!?」

 自分に言われているのだと気づいて、慌てて顔を上げる。
 魔王がこちらを睨んでいた。
 冷汗が止まらない。とても、まっすぐ視線を合わせられない。

「チェントと言ったな」
「は、はい……」

 震えた声で答える。

「始めに言っておく。貴様の父、スーディは裏切り者として裁く必要があったが、娘の貴様にまで、罪を問うつもりはない」

 魔王は、そう前置きした。

「だが、この魔王領に住む以上は、この国に貢献してもらう。それが私の血族であってもだ。ネモよ」
「はっ」

 跪いていた彼が答えた。

「その娘は、貴様に任せる。戦場に立てるよう、戦士として鍛えてみせよ」
「承知いたしました」

 そのやり取りは、私を戸惑わせるばかりだった。

「どうした、チェント? 自分が、戦場になど立てるわけがないと言いたげな顔だな」

 魔王の言う、まさに通りだった。
 自分は兄とは違う。剣を持っても、あんな風に戦えるわけがない。

「なら、貴様は何ができるのだ? 何か特技があるのなら、聞いてやろう」

 そんなものあるわけがない。
 兄のように戦うでもなく、自分で仕事を探すでもなく、ただ生きてきただけの私には、本当に何もなかった。
 何も言えずに黙っていると、魔王が口を開いた。

「その男、ネモはな。他人の能力を見極めて伸ばすことにかけては、領内でも、突出しておる。事前に資質を見るという意味も含めて、貴様を迎えにやらせたのだ」

 私の能力……? そんなものがあるだろうか?

「ネモに師事して、何の成果も上がらない時には、貴様の処遇も再検討してやろう」

 これ以上話すことはない、と魔王は言葉を切った。

「では、失礼いたします。行くぞ」

 彼──ネモは、立ち上がって一礼すると、出口に向かって歩き出した。
 私は、戸惑いながら、慌てて彼の背を追った。



「ここがお前の部屋になる」

 謁見の間を出て、案内された先は、城の一室だった。

「明日から訓練を始める。今日は体を休めておけ」
「あ、あのっ……」

 言うだけ言って、立ち去ろうとする彼を思わず呼び止めた。

「なんだ?」
「わ、私に……あの……」

 私に才能なんてあるのかな? と聞こうとして、

「……なんでもない。ごめんなさい」

 聞けなかった。
 お前に才能などない、お前には何もない。
 そう言われるのが怖くて。
 自分に何もないことは、充分、自覚しているつもりだった。
 だが、あらためて、他人の口からそう聞かされるのは、怖かった。
 彼は、黙って踵を返し、立ち去った。



 部屋の中は、ベッドと小さなテーブルがあるだけの飾り気のない所だった。
 ベスフル城にいたころとはかなり扱いは違うが、それでも城内の一室があてがわれるということは、やはり、王族として、それなりに特別扱いされているような気もした。
 ベッドに横になり、石の天井を見て考える。
 私は、これからどうなるのか?
 牢屋の中でも、同じような自問自答ばかりを繰り返していた気がする。
 どうなるのか、ばかりで、どうするのか、と考えたことはない。
 ただ、流されるまま生きてきた結果が、これだった。
 不安は消えることはなかったが、長旅で疲れていたせいか、その日は、天井を見つめたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
 魔王領で過ごした日々は、今までの私の生涯からすれば、そんなに長い時間ではなかったと言える。
 それでも、後の私を形成する上で、あの場所での経験が欠かせないものになっていることは、間違いない。
 それまで、誰かの助けなしでは生きていけなかった私を、変えてくれた場所。
 あの場所を訪れることはきっともうないだろうが、あそこは私にとって、とても思い出深い場所だった。



「こいつを持ってみろ」

 そう言ってネモから渡されたのは、鉄の剣だった。
 城の中庭で、私の最初の訓練は始まった。
 鞘に入ったままのそれを受け取った時点で、私にはもう重い。
 抜いてみるよう指示される。訓練用に刃は潰してあると言われた。
 たどたどしい動作で、剣を鞘から引き抜く。
 片手では、まともに持っていられない。
 引き抜くと同時に取り落とし、慌てて両手で拾いなおした。
 両手で持っても重い。
 この時の私には、剣の柄を両手で持って、引きずるのが精一杯だった。

「しっかり構えろ」

 ネモは怒鳴るでもなく、淡々と指示する。
 言うとおりにしないと、殴りつけられるかもしれない。
 兄の下でそうやって育ってきた私は、ここでもその恐怖から、なんとか必死に剣を構えようとした。
 だが、刃が持ち上がらない。
 しばらく、声を上げながら柄を引っ張り続けていたが、結局は持ち上がらず、剣を落としてその場にへたり込んだ。

「……持てないか」

 寄ってきて、剣を拾い上げるネモ。
 肩で息をしている私に向ける目は無表情で、感情は読めない。

「私……やっぱり、戦うなんて向いてないよね……?」

 恐る恐る尋ねる。
 怒っているのか、呆れているのか。
 どうせ、私にこんなことをやらせても意味などない。
 始めからわかっていたことだ。
 とにかくこの苦行から、早く解放されたいと、思った。

「それ以前の問題だ。剣が振れなければ、何も見られない」

 落胆するでもなく、怒るでもなく、やはり淡々とネモは言った。
 こいつを使ってみろ、と少し短めの剣を渡された。

「このショートソードなら持てるだろう」

 元々最初の剣を、お前の細腕でまともに扱えるとは思っていない、と彼は言う。

「訓練では、実戦よりも重い剣で体を慣らす。だが流石に持つことさえできない剣では、訓練にならん」

 渡されたショートソードは、それでも私には重かった。
 なんとか、切っ先を胸の高さまで持ち上げた。
 姿勢を維持するだけで辛い。腕が震えている。
「振ってみろ」
 振れるわけがない、持っているだけで辛いのだ。
 だが彼は、振ってみろ、と今度は睨みながら、もう一度言った。
 必死に剣を頭の高さまで持ち上げ、ぎこちない動作で振り下ろす。
 2回、3回、と振ったところで遂に剣を落とし、へたり込んだ。

「お前に足りないのは、筋力と体力だ。まずは、その剣を楽に振れるようになることだ」

 ネモのその言葉には、呆れも怒りもない。
 早々に見限られると思っていた、いや、見限られて楽になりたいと思っていた私にとって、その言葉は意外だった。
 こうしてこの日より、私の訓練の日々は始まった。



 それから、一週間ほど経っただろうか?
 城の中庭の隅で、私はネモに言われるまま、素振りをしていた。
 振っているのは、あの時のショートソードより、さらに短い短剣だった。
 慣れたら、元の剣に戻すと言われている。
 訓練が始まったあの日から、実戦での戦い方などは、一切教わっていない。
 ただ素振りと、走り込みと、筋力鍛錬だけが続く日々だった。
 始めのうちは、疲れてすぐ休もうとする私を、ネモは叱りつけた。
 毎日へとへとになるまで、訓練は続く。
 常に見張られ、勝手に休むことは許されない。
 いつも訓練が終わって部屋に戻ると、あったはずの明日への不安などは何もかも忘れて、ただ眠った。
 訓練開始から数日が経過すると、私の方も少しずつ弱音も減り、勝手に休むこともなくなってきた。
 そして昨日あたりから、ネモは訓練内容のみ告げて、しばしば席を外すようになった。
 ずっと監視していなくても大丈夫だと、判断されたのだろう。
 今日も同じように、日課の素振りをこなしていたのだったが、

「おい」

 この日は、突然声をかけられた。
 ネモの声ではなかった。
 手を止めて振り返ると、皮鎧を身に着けた男が立っていた。
 身長は兄と同じくらい、ここ魔王領では平均的な体つきの男だった。

「な、なんでしょう……?」
「お前、スーディの娘なんだってな? あの裏切り者の」

 男の顔に浮かんでいたのは、嘲りの笑い。
 昔、治安の悪い街の裏路地で、こういう顔をした少年たちに絡まれたことを思い出した。

「魔王様も身内には甘いよなあ。スーディの裏切りで魔王様ご自身が負傷して、退却せざるをえなくなったのによ」

 初めて聞く話だった。
 父は、魔王領の人たちにも激しく恨まれているのだと感じた。

「お前も、そんなチンタラやってても訓練になんねえだろ? 俺が手伝ってやるよ」

 言うなり、彼は腰の剣を引き抜いた。
 それは訓練用の剣ではなく、真剣だった。
 それを躊躇いなく、こちらに振り下ろす。

「ひっ!?」

 私は持っていた短剣で、なんとかそれを弾いた。
 後ろにのけぞった後、倒れないよう踏ん張る。
 なんなの、この人!?
 戸惑う私に、彼は容赦なく追い打ちをかけてきた。
 2撃目も何とか弾く。
 受け損なえば、怪我ではすまない。
 だが相手は、そんなことは気にも留めていないようだった。
 もしネモから訓練を受けていなければ、最初の一撃の時点でとっくに短剣を弾き飛ばされていたはずだったが、この時の私はそんなことには気づかなかった。

「おらおら、どうした? 反撃してみろよ!」

 身を守るので精一杯なのだ。
 反撃する余裕などあるはずがない。
 攻撃を受け止めるたびに、腕が痺れ、追い詰められていく。
 もう何度、それを受け止めたかわからない。
 最後の一撃を受けて城壁に叩きつけられた私は、遂に短剣を落とし、その場に倒れこんだ。

「弱え、弱すぎんぞ!」

 倒れたままでいると、今度は腹を蹴られた。
 激しくむせ返ると、次は顔を踏んづけられた。

「立てよ! 寝るのは早えぞ! おい」

 そんな風にされたら、立ちたくても立ち上がれない。
 苦しむ私の顔を、彼は何度も踏みつけた。
 殺すつもりはないのだろう。
 この人は、ただ私をいたぶって楽しんでいる。
 私は踏みつけられながら、兄の暴力に耐えていた日々を思い出してしまっていた。
 あの暴力から逃れて1年以上が経っている。
 無縁でいたかったあの場所に、結局戻ってきてしまった。
 ここ魔王領にも、私の居場所なんてなかった。
 どこにいてもこんな目に遭うのなら、どうせ逃れられないのなら、もういっそ殺してほしいと、そう思った。

「何をしている!」

 声のした方を見ると、ネモが立っていた。
 男の方もそれに気づいて、そちらを振り向く。

「なんだよ、そんな睨むなよネモ。ちょっと新入りに、魔王軍の流儀を教えてやってただけだぜ、俺は」

 言いながら、彼は足を退けた。

「新人いびりが魔王軍の流儀か? 魔王様には、とても聞かせられないな、ルンフェス」
「裏切り者がどういう目に遭うか、教えてやってただけだろうが!」

 ルンフェスと呼ばれた男は、平然と言い返した。

「ネモ、これでも、お前には同情してんだぜ? 自分の親の仇の娘を、面倒見ろなんてよ。魔王様も酷えよな」

 親の仇? どういうことだろう?
 ルンフェスは、今度は私に向き直って言った。

「知ってるか? お前の親父、スーディが裏切った時、ネモの親は魔王様の護衛隊長だったんだぜ? その時、スーディに殺されたんだよ」

 気の毒になあ、と彼は続けた。

「しかもあの時、魔王様が負傷したのは、こいつの親父が不甲斐なかったせいだ、とそんなことを言う心無い奴まで出てきてなあ。死屍に鞭打つって奴か?」

 私は、少なからず衝撃を受けていた。
 ルンフェスが言ったことが事実なら、私はネモに恨まれても仕方ない。
 ここでは、一番身近にいる相手からも疎まれている。
 それでは、ここに私の居場所など、あるはずがない。

「ネモ、本当はお前も、こいつを殺したいんだろ? 代わりに俺が、手を汚してやってんだよ」

 言いながら、彼は私の肩を蹴った。

「魔王様は、そいつを鍛えることを望んでいる。もし殺せば、お前が罰を受けることになるぞ」

 ネモはあくまで冷静に、そう返した。
 この人には、そんなに魔王の命令が大事なのだろうか?
 憎い相手に無理して向き合わなければ、いけないほどに。

「クールだな、ネモよお……。お前、あんまり調子に乗ってんじゃねえぞ」

 それまで、人を小馬鹿にするように喋っていた、ルンフェスの口調が変わった。

「お前が面倒を見た連中が、偶然手柄を立てただけのくせに、勘違いしてんじゃねえよ」

 彼が本当に気に入らなかったのは、ネモだった。
 私のことなど、実際はどうでも良いのだろう。
 この時、初めて気づく。

「その通りだな。あいつらの手柄は、あいつらの努力によるものだ。俺の手柄じゃない」
「スカしてんじゃねえよ! お前自身は弱っちいくせにな!」

 ルンフェスは、剣の切っ先をネモに向けた。

「抜けよ。俺が身の程を教えてやる」

 だが、ネモは剣を抜かない。

「魔王領内での私闘は禁じられている」

 気が付けば城内の兵士数人が、何事か、と様子を見ていた。
 ルンフェスも、それに気づいて舌打ちすると、剣を収めた。

「腰抜けが、命拾いしたな」

 最後にそう言い捨てて、城内へと消えていった。

「立てるか?」

 倒れている私に、ネモがそう声をかけてきた。

「……うん」

 答えて、ゆっくり体を起こす。
 立ち上がる時に、彼は手を貸してくれた。
「その様子なら、歩けるな? 付いてこい、手当てしてやる」

 その言葉が思いのほか優しかったので、私は少し面食らった。
 ネモは、私を恨んでいるの?
 聞きたくて、でも結局聞けないまま、手当ては終わった。

「手当てが済んだら、訓練を再開するぞ」

 あんな目に遭ったのに、今日はもう休んでいい、とは言ってくれなかった。
 優しさを感じたのは僅かの間だけ、彼はどこまでも厳しい。
 やはり、私は恨まれているのかもしれない。そう思った。
 実際は、彼は職務と私怨を混同するような人ではないのだが、この時の私はまだそれを知らなかった。
 その日も、後に続く訓練は厳しく、疲れ果てた私は、悩むことも忘れて眠りについた。
 私が魔王領に来てから、もう、1ヶ月以上が経過していた。
 あれから、毎日のようにネモの訓練は続いた。
 今のところ、私は、ネモに見限られることはなく、なんとか訓練を続けていた。
 だが、決して楽な日々ではない。
 訓練メニューに私が少しでも慣れると、その度に彼はさらに過酷な内容を追加した。
 やっぱり私は恨まれているんだろう、とあらためて思った。
 訓練に慣れたことを悟らせないように手を抜けるほど、私は器用ではなかった。
 だから、必死に毎日の訓練メニューをこなすしかない。
 確かに彼からは、見限りの言葉こそ聞いていなかったが、褒められたことも一度もなかった。
 そしてあの男、ルンフェスに絡まれたのは、あの一度きりだけだった。
 たまに城内ですれ違うこともあるが、舌打ちをされるだけで、特に直接手を出されてはいない。

「次に同じ目に遭いそうになったら、城内に逃げろ。人目のある場所にいれば、あいつも無茶はやるまい」

 ネモからは、そう言われていた。
 ルンフェス以外にも、この城や街に住む人々の、私へ向ける目は、あまり好意的とは言えなかった。
 青い肌を持つ父が、ここを離れて暮らしていた時そうだったように、この場所で暮らす私も、ここでは浮いた存在だった。
 特に街には、私の事情──魔王の血族であるということを知らない人たちも多い。
 1人では絶対に街に出ることのないよう、ネモからはきつく釘を刺されている。
 1ヶ月以上経った今でも私は、ネモ以外とは殆どに口を利いていなかった。



 その日私は、山の麓に1人で立っていた。
 魔王山(まおうざん)と呼ばれる、山である。
 魔王城から見て、私が馬車で下ってきた山とは反対側にある。
 歴代の魔王が、己を鍛えるために使った場所だと言われているが、真偽のほどは定かではない。
 険しい岩肌の道。危険な獣も生息している。
 皮鎧を身に着けた私の腰には、一振りのショートソードがある。
 最初にネモに渡された時、振ることさえままならなかった、あの剣である。
 今の私は、軽々、とはいかないが、これを片手で振るうことができるほどになっていた。
 これを持つようになったのは、まだほんの数日前である。
 この剣は、ネモの指示ではなく、私が自主的に持ったものだった。
 今日までのネモの訓練は、確かに的確で、私は日に日に自分の成長を実感できていた。
 それは、かつてない充実感を、私に与えてくれていた。
 だが、ネモが私の成長を褒めてくれたことは一度もない。
 成果を報告しても、

「わかった、明日からの訓練メニューを増やしておく」

 そんな、淡白な反応が返ってくるだけだった。
 恨まれているのだから仕方ない。
 そう割り切ろうとして、どうしても割り切れなかった。
 だから、数日前の剣の稽古の時、いつも使っている短剣ではなく、以前、まともに振るえなかったショートソードを持っていったのである。
 そして、いつもの短剣と変わらぬ動作でそれを振るい、稽古を最後までこなして見せた。
 褒めてほしかった。驚いてほしかった。
 よくやった、とその一言が欲しかっただけなのだ。
 だが、その時の彼は、

「よし、明日からの訓練ではそれを使え」

 いつもと変わらぬ口調で、ただそう言っただけだった。
 悔しかった。
 彼に、どうしても認められたかった。認めさせたかった。
 だから私は、たった1人でこの山──魔王山に来たのだ。
 この山には、一週間ほど前に、一度、挑んでいた。
 その時は、ネモに連れられ、訓練の一環として、ここを登ったのだ。
 私は、山の中腹辺りまで登ったところで、音を上げた。
 ネモも、始めから頂上まで行く気はなかったようで、あっさり引き返すことを決めた。

「俺自身も、仲間数人を伴って登り切ったことがあるだけで、1人で頂上まで辿り着いたことはない」

 彼はそう言った。
 この山に来るのは、それ以来である。
 昨日、私はネモに向かって、1人で魔王山に挑みたいと願い出た。
 ネモは最初は、その提案に中々首を縦に振らなかったが、しつこく食い下がる私に、最終的には折れた。

「無理だと思ったら、すぐ引き返せ。日没までには、必ず麓に戻るようにしろ」

 彼は、そう釘を刺した。
 この魔王山の頂上には、辿り着いた者達が、証として名前を刻んだ大岩があるらしいと聞いている。
 ネモは、私が頂上に辿り着けるなどと、微塵も考えていないだろう。
 私が1人で、頂上の岩に名前を刻んで来れば、彼を驚かせること、彼の鼻を明かすことはできると考えた。
 もし、彼がそれを信じなければ、後に頂上まで引っ張って行って、見せつけてやればいい。
 麓から山を見上げ、私はそう思った。



 私は、岩肌の山道を速足で登っていった。
 ここは、山としては、それほど大きいものではなく、標高だけで見れば、一日で頂上まで辿り着けるものだった。
 だが、多くの難所が、簡単にそれをさせてくれない。
 今も、まだ麓からそう離れていないというのに、早速、霧が濃くなってきていた。
 私の手元には、ネモから受け取ったコンパスがある。
 頂上に近づくほど激しい霧に覆われている魔王山に挑むには、必須の道具だった。
 この山も、魔王領周辺の地形と同じく、殆どが岩肌で、木々が少ない。
 それゆえ、空気が薄く、平地よりも遥かに早く体力を奪われるのだ。
 前回の中腹辺りまで辿り着いた時は、表面上は、いつもの訓練のように、激しい鍛錬を行っているわけでもないのに、あっという間に息が上がっていたことに驚いた。
 なるほど、訓練になるわけだ、と私は思った。
 ──と、私は足を止めた。
 危ない……。
 ほっ、と息をつく。
 霧で見え辛くなっているが、数メートル先は崖だった。
 私は、汗を拭い、道を曲がった。
 腕試しと訓練以外で登る理由がない場所なので、道もほとんど整備されておらず、崖も多い。
 ネモから受け取った地図を確認する。
 これは、彼が、以前に頂上に登った時に作り、ルートを記したものだと聞いていた。
 真の強者は、自ら登る道を探り当て、あるいは険しい崖さえも登り、頂上を目指すのだという。
 それを聞いていたので、私は、最初、地図の携帯を断った。
 だが、彼はそれを許さなかった。

「お前の身は、魔王様よりお預かりしている。勝手に死なれては責任問題になる」

 結局、それなのか。
 この人には、自身の気持ちよりも、魔王の命令の方が大事なのだろう。

「地図を持っていかないのなら、魔王山に挑むことは許可できない」

 そう言われては、断ることはできなかった。
 前回、彼もこの地図を見て、ルートを決めていた。
 私は、その後ろをついて進んだだけである。
 今、1人で進むと、この山の危険さを、改めて認識する。
 私が、地図とコンパスなしで、手探りで進もうものなら、道に迷った拍子に、崖から転落していてもおかしくはないと思えた。
 なだらかな道の先に現れたのは、殆ど壁のような崖。
 地図上のルートでは、ここを登ることになっている
 出っ張った石に手を掛けながら、なんとかよじ登り、次の道に出る。
 地図通りに進むルートも、決して楽ではない。
 登る前は、わざと地図から外れた、険しい道を選んでやろうかとも思っていたのだが、自分には無理だろうということを、思い知る。
 地図に沿って進んでも、単身で頂上まで辿り着けば、ネモを驚かすには充分なはずだと、私は思いなおすことにした。
 まだ、先は長そうだ。
 私は、気を引き締めて進んだ。



「ふう……」

 見覚えのある景色が見えた。
 前回、ネモと訪れて、引き返した場所だった。
 あの時は、ここに着いた時、私はヘトヘトだったはずだ。
 少々疲労してはいるが、まだまだ歩けることを確認する。
 前とは違う自分を確信して、希望が湧いてきた。
 意気揚々と、前に踏み出そうとしたその時、前方から近づいてくる、何かの気配がした。
 私は、気配のする方に注意を向け、ショートソードに手を掛けた。
 霧のせいで、まだ姿ははっきりと捉えられない。
 だが、シルエットから、それが、人ではなく、獣のようだということは、わかった。
 ここに来るまでに、青い狼3匹、紫の猪1匹に遭遇し、なんとかやり過ごすことができている。
 どれも、私が住んでいた土地では目にしたことがない見た目をしていたが、訓練の成果か、正面から戦っても対処できた。
 魔王領周辺に棲む獣は、私の知るそれらと見た目は似ていても、実は遥かに凶暴なのだが、元いた土地では戦いとは無縁だったこの時の私は、それに気づかない。
 そして、緊張する私の前に、次に姿を現したのは、熊のような体躯を持った、真っ黒な狼だった。
 なんて大きさなの……!?
 それは、ヘルハウンド、別名"地獄の番犬"と呼ばれる、魔王領周辺に生息する特に凶暴な肉食獣だったが、この時の私はそんなことは知らなかった。
 ヘルハウンドは、こちらを見つけると足を止めて、じっと睨みつけてきた。
 重く感じていたショートソードが、恐ろしく頼りない。
 ヘルハウンドが吼えた。
 それは狼のものではなく、獅子のような咆哮。
 体が震えあがる。
 だが、勇気を振り絞って、私は構えた。
 睨み合いが続くかと思われたが、次の瞬間、ヘルハウンドが動いた。
 来る……!?
 巨体とは思えないスピードで跳び上がり、前足の爪を振り下ろしてくる。
 それをなんとかかわして、すれ違う。
 ヘルハウンドは、すぐに向き直り、第2撃目を加えてきた。
 今度は、カウンターを狙う。
 私は、振り上げられた前足に、ショートソードの斬撃を合わせにいった。
 前足を封じられれば、逃げ切ることもできるという判断だった。
 ゴスッ、と鈍い音がして、刃と前足がぶつかる。
 衝撃で、手首が壊れてしまうのではないかと思えるほどの重量が、襲い掛かってきた。
 固い……!?
 爪ではない場所を狙ったはずなのに、皮膚が固く、刃が通らない。
 このままでは押しつぶされると判断し、急いで剣を引いて、後方に避ける。
 だが、反動で地面に転がってしまう。
 なんとか、握った剣は放さない。
 が、体勢の崩れたそこに、ヘルハウンドの第3撃目が来た。
 まずい!?
 必死に、体勢を立て直して後ろに跳ぶ。避けきれない。
 ヘルハウンドの鋭い爪が、着ていた皮鎧の胸元に食い込んだ。

「!?」

 それは、心臓を抉り取るような一撃だった。
 死に物狂いで、顔面に剣の一撃を加えて、わずかに怯んだところで、一気に距離を取った。
 肩で息をしながら、胸元を確かめると、皮鎧が腰の辺りまで、完全に裂けていた。
 即座に後ろに跳んだおかげか、辛うじて、傷は皮膚までは届いていない。
 運が良かった。
 第4撃目はすぐには来なかった。相手もこちらを睨んでいる。
 今の自分では、とても勝てない。
 それは理解できた。
 だが、この獣と追いかけっこをして逃げ切れるだろうか?
 獣の足は速い。とても、逃げ切れるとは思えなかった。
 冷静に、手段を探している自分に少し驚く。
 昔の自分なら、何も考えす背を向けて逃げただけだろう。
 そして、背中からあの爪を受けて、あっさり死んでしまっていたはずだ。
 この時、実戦は殆ど初めてのはずなのに、あの訓練の日々は、私の精神面までも、鍛えてくれていたようだった。
 しかし、冷静に判断しても、今のこの状況は絶望的だ。
 やはり……なんとか逃げるしかない。
 霧に紛れて、相手がこちらを見失ってくれることを祈る。
 私に出せた結論は、そんなものでしかなかった。
 悠長にはしていられない。
 私は、ショートソードとは逆の腰に付けた予備の武器、短剣に手を掛けた。
 こんなもので、まともに傷つけられる相手ではない。
 それでも、一瞬でも隙を作れれば、それでいい。
 私は、ヘルハウンドの眉間に狙いを定めて、短剣を投げつけ、そして、命中を確認せずに、一気に後ろに駆け出した。
 相手が少しでも怯んでいる間に、一気に距離を取らなければならない。
 とにかく、全力で駆けた。
 必死に走りながら、後方を確認すると、ヘルハウンドは、しっかり後を追いかけてきていた。
 短剣が当たらなかったのか、あるいは、結局、皮膚で刃が弾かれて、意味をなさなかったのか。
 追いつかれれば、今度こそ殺される。
 まだ、死にたくはない、と強く思った。
 しばらく前まで、いっそ殺してほしいと思っていた自分が嘘のように。
 なぜだろうか?
 ネモとの訓練の日々は辛かったはずなのに、それでも、それ以前までの、ただ流されるだけの人生とは明らかに違っていた。
 生きている実感を、目標を与えてくれた。
 彼──ネモにとっては、ただ魔王の指示だったとしても、その日々は、本当に私の心を満たしてくれていたのである。
 だから、まだ死にたくはない。
 どうして、止める彼を振り切って、意地を張って、こんなところまで来てしまったのか。
 だが今は、後悔している場合ではない。
 もう一度、後ろを振り返る。
 ヘルハウンドとの距離はさらに縮まっていた。
 このままでは、追いつかれる。
 なんとか、あの獣の足を止めなければ。
 そう思った瞬間──。
 景色が傾いた。
 視界の悪いここで、後ろを気にして走っていた私は、道を踏み外していた。
 しまった……!?
 思った時には、もう遅かった。
 急斜面に足を取られて、私の体は滑り落ちていく。
 踏ん張ろうとしても、落ちていくのを止められない。
 掴まる場所もない。
 崖のような坂を、私はどこまでも転げ落ちていった。
 私は知らなかった。
 襲ってきた獣──ヘルハウンドが、この周辺では殆ど絶滅している種だということを。
 そして、それが現在、魔王領内で軍用として飼われている獣だということを。
 しばらくして、私は気が付いた。

「あ……うう……」

 気を失っていたようだ。
 まだ、私は魔王山にいる。
 霧が少し薄くなっているところを見ると、中腹よりだいぶ下ってきた場所のようだ。
 山の上を見上げる。
 殆ど崖のような坂があった。
 こんな崖を落ちてきたのかと思うと、ゾッとした。
 生きているのが不思議なくらいである。
 しかし、こんな崖だからこそ、あの獣も追ってこれなかったのだろう。

「痛い……っ……」

 体を動かすと、あちこちが痛い。
 だが、なんとか立って歩ける。骨も折れてはいないようだ。
 この時点で奇跡と言っていいだろう。
 すぐ横も、下りの崖となっていた。
 人が1人通れるくらいの場所に、たまたま、引っかかって止まってくれただけのようだ。
 さらに落ちていたら、命がどうなっていたかはわからない。
 隣に、ショートソードが転がっていた。
 これも幸運と言えるだろうか?
 地図とコンパスは無くしてしまった。
 日が傾いてきていた。
 道は全く分からないが、ここで夜になるのはまずい。

「あの山の中で夜になれば、霧で全く身動きが取れなくなる」

 ネモに言われたことだ。
 日が暮れる前に必ず麓まで戻るように、とは、特にしつこく言われたことだった。
 私は、よろよろと歩き始めた。



 道ともいえない場所を手探りで歩く。
 方角が全く分からないため、ひたすら下り道を探りながら歩いた。
 緩やかな道を見つけ、助かったと思えば、その先は、崖があるだけの行き止まりとなっていた。
 仕方なく引き返す。
 振り返っても、自分が辿ってきた道がわからない。
 ただ我武者羅に、歩ける場所を探して進んだ。
 日暮れが近づき、焦りが大きくなる。
 もう死ぬまでここから出られないのでは、とさえ思えてくる。
 狼の遠吠えが聞こえた。
 びくり、と体が震える。
 辺りを見渡すが、霧の中では、遠くは見えない。
 落ち着いて……
 自分に言い聞かせる。
 普通の狼に似た遠吠えだ。
 さっきの大きな獣の咆哮ではない。
 動きを止めて、しばらくじっとしていると、遠吠えは聞こえなくなった。
 大きな溜め息を吐いて、また歩き出す。
 たとえ、相手がヘルハウンドでなくとも、今の消耗した状態で獣の相手をするのは辛い。
 そして、またあれに遭遇するかもしれない可能性を考えると、再び恐怖が込み上げてきた。
 それでも、立ち止まってはいられない。
 私は、必死に道を探し続けた。



 気付けば、すっかり日が傾いていた。
 私は、道を下り、行き止まりを見つけては、また登る、ひたすらそれを繰り返していた。
 今はまだ、辛うじて近くは見えるが、転落の危険を考えると、動くのはリスクが高い。
 念のためにと、持たされていた松明は、あの転落の際に失ってしまっていた。
 今、私の手元にあるのは、一振りのショートソードだけ。
 ここで夜明けを待つ?
 いや、いつ獣に襲われるかもしれない、こんな場所で、朝まで過ごす勇気は、私には、とてもなかった。
 足元に注意しながら、今までより慎重に、しかし、今までよりさらに必死に、道を探す。
 辺りは、闇と霧で、目の前段差が、下りられるのか、崖なのかすらわからない、かなり絶望的な状況になりつつあった。
 あれは……?
 その時、遠くに、かすかに何かが見えた気がした。
 目を凝らす。
 あれは、明かりだ。
 この霧の中でも、闇が明かりを目立たせてくれていた。
 人がいる!?
 私は、思わず駆けだした。
 今いる位置から、遠く、少し低い場所に見える、明かりらしきもの。
 その場所まで、一直線に道が通じている保障などないのに、そんな危険も忘れていた。
 人がいるということは、道があるということだ。
 これが麓に戻れる最後のチャンスかもしれない。
 そう思うと、走るのを止められなかった。
 幸運にも、その明かりの場所までの道を阻むものはなかった。
 とはいえ、歩きやすいようなまともな道ではなく、私は、あちこちに出っ張る石に、何度もよろけながらも、その場所を目指し、坂を下った。
 近づくにつれて少しずつ、明かりが鮮明になっていく。

「あっ……」

 坂道に足を取られて転ぶ。
 なんとか、踏ん張り、転げ落ちることだけは、回避した。
 ゆっくりと立ち上がると、まだ、明かりが立ち去っていないことに、ほっとした。
 今度は、慎重に、ゆっくり歩みを進めていくと、その明かりが2つあることがわかった。
 さらに近づくと、松明を持った2人が、向き合って、離れて立ってる姿が見えた。
 私のいる場所から、2人の場所までは、建物の2階ほどの高さになっていた。
 あれは……ネモ?
 片方は、ネモだった。
 私を探しに来てくれたのだろうか?
 それは、ただの義務感によるものなのかもしれないが、それでも私にはうれしかった。
 すぐにでも、近くまで行って声を掛けようと思ったことろで、もう1人の話す声が聞こえてきた。

「ようネモ、こんなところで会うとは、奇遇だな」

 声の主は、あのルンフェスだった。

「お前がなぜ、こんなところにいる?」
「ただの訓練だ。今から戻るところでな」

 そういうルンフェスは、随分と疲れた様子だった。
 この山は、いるだけで体力を奪われる。
 訓練のために、長くここにいたというなら、頷ける話だったが、

「わざわざ、獣を連れて訓練か? ここは獣と散歩に来るところではあるまい」

 獣……?
 ネモの言葉にはっとして、ルンフェスの後方を見た。
 ひっ……!?
 私は、思わず、悲鳴を上げそうになって、自分の口を塞いだ。
 ルンフェスの後ろにいたのは、暗闇に2つの目を光らせた、大きな獣だった。
 忘れるわけがない。
 山の中腹で、私を襲った獣──あのヘルハウンドに間違いなかった。
 なんで、あの人があの獣を連れているの……?
 あの時、私に襲い掛かったヘルハウンドは、今はネモをじっと睨んでいた。

「あ? そんなん、俺の勝手だろうが? こいつは俺が手塩にかけて育てた奴だぜ。女1人、手懐けられないお前とは違うんだよ」

 言って、ルンフェスは、獣の頭を撫でる。

「……チェントに何をした?」

 ネモは、静かな声で言った。

「何のことかな? と言いたいところだが、面倒臭え。教えてやるよ」

 あっさりと、ルンフェスは白状した。

「あの女は、死んだ。こいつの爪にかかってな」
「なんだと!」

 ネモの表情が変わる。
 ルンフェスはそれを笑った。

「くくく、傑作だぜ、その顔。そんなにあの女が大事か? 今のは冗談だ、安心しな。俺はあの女の最後は見届けていない」

 今のところはな、とルンフェスは続けた。

「あの女は、崖から落ちたんだよ。こいつから逃げようとしてな。ドジな女だぜ。探し回ってたら、こんな時間になっちまったわけだ」

 手間をかけさせやがって、と毒づく。

「なるほど、お前1人では勝てないと見て、ヘルハウンドまで持ち出したわけか」
「はあ? 何言ってんだ? こいつを使ったのは、単に人の手で殺られた形跡を残さないためだ」

 ネモの発言に、ルンフェスは怒るでもなく、心底不思議そうにそう言った。
 聞いていた私も、そんな無意味な挑発をして、何になるのかと思うだけだった。

「今のチェントは、もうお前や俺より確実に強い。あいつ自身は気付いていないようだがな」

 何を言っているのだろう? ネモは。
 私はネモとの剣の稽古で、一度も勝ったことがないというのに。

「あいつは原石だよ。今まで教えてきたどんな奴とも次元が違う。まだまだ強くなる。いずれは、魔王様とも渡り合えるかもしれない」

 私はその発言を、ただ茫然と聞いていた。
 この人は、私を恨んでいたのではないのか? 憎んでいたのではないのか?
 直接、私を褒めてくれたことなど、一度だってなかったのに。
 何故そんな、少し嬉しそうに、私のことを話すのだろう?

「ついに目まで腐っちまったか。哀れだな、ネモ」

 ルンフェスは、冷ややかにそう言うと、やれ、とヘルハウンドをけしかけた。
 ヘルハウンドは一瞬で間合いを詰めると、ネモに跳びかかった。
 ネモは横に避けながら、抜いた剣で、辛うじてその攻撃を弾いた。
 すれ違って距離を取るも、ヘルハウンドはすぐさま追撃をかけてくる。
 ネモは左手に持っていた松明を捨てて、両手で応戦した。
 それでも、劣勢なのは変わらない。
 ネモは、相手の爪と牙を防ぐだけで手一杯のようだった。

「あの女も、こいつにまったく刃が立たなかったんだぜ? 魔王様と渡り合えるとか、寝言もいいとこだ」

 ルンフェスが嘲笑う。
 助けに入らなければ、ネモがやられてしまう。
 そう思っても、足がすくんで動かなかった。
 あの獣に襲われた時の恐怖は、まだ抜けていない。

「こんな獣など、すぐに相手にならなくなるさ。あいつの才能は、それほどだ」

 必死に攻撃を防ぎながらも、ネモはそう答えた。
 遂にヘルハウンドの爪が、ネモの左肩を捉えた。

「ぐっ……!?」

 呻き声を漏らすネモに、ヘルハウンドは容赦なく跳びかかった。

「!?」
 仰向けに組み伏せられたネモは、眼前に迫った牙を、右手の剣でギリギリで止めていた。
 駄目だ。このままでは、本当にネモが殺されてしまう。

「ネモよお。俺には、お前があの女に、そこまで入れ込む理由がわかんねえんだけどよ?」

 ルンフェスは余裕の笑みを浮かべて、ネモに歩み寄った。

「お前まさか、あの女に惚れたとか言うんじゃねえよなあ?」
「……だったら、どうだというんだっ!!」

 聞き間違いだろうか?
 今、あるはずのないことが、聞こえるはずのない言葉が、聞こえた気がした。
 だが、それは幻聴ではなかった。
 確かに、私の耳には、私の頭には、私の心には、その言葉が届いていた。

「……おいおい、からかっただけなのによ。マジかよ。こいつは、本当に傑作だぜ! そうか、女に誘惑されて、目が曇っちまったわけか! 本当に哀れな奴だよ、お前は!」

 ルンフェスの言葉など、もう私の耳には入っていなかった。

「安心しろよ。あの女とは、ちゃんとあの世で会わせてやるからな」

 次の瞬間、私は跳んでいた。
 段差の高さなど気にも留めず、体の痛みもすべて忘れて。ただあの人を助けるために。
 両手で剣を突き出しながら、全力で跳んだ。
 ぐさり、と、鈍い音を立てて、私の剣は、確かに、ヘルハウンドの硬い肌に突き刺さった。
 そのまま、ヘルハウンドの背中に着地する。
 激しい落下の衝撃。だが、手は放さない。獣の背中がクッションになり、いくらか衝撃が和らいだ。

「チェント!?」
「てめえ!」

 2人が驚きの声を上げた。
 そして、背中を貫かれたヘルハウンドが、ネモを放して暴れだした。
 だが、意地でも手は放さない。首を狙ったはずが、わずかに狙いが外れたせいで、一撃では仕留められなかった。
 それでも、傷は浅くはないはずだ。
 私は刺さった剣を、さらに深く押し込んだ。
 咆哮が轟く。さらに激しく暴れ始める。
 まだ、力尽きないのか。
 そのしぶとさに驚嘆する。
 そこに拘束を解かれたネモが立ち上がり、突っ込んできた。

「うおぉぉーっ!!」

 ネモは雄叫びを上げて、ヘルハウンドの額目掛けて、剣を突き出す。
 その一撃を受けた獣は、遂に沈黙した。

「お、お前ら、よくも、俺のヘルハウンドを……」

 ルンフェスが震える声で短剣を構え、こちらを睨んでいた。
 ヘルハウンドの強さに慢心して、ロクな武器を持ってきていないのだろう。
 私達は2人は、剣を構え、彼を睨み返した。
 ヘルハウンドが仕留められる直前に横槍を入れれば、まだ勝負はわからなかったはずだ。
 だが、彼は機を逃した。

「くそっ、覚えていろよ!」

 捨て台詞を残して、彼は逃げていった。
 彼はこの日より、魔王領に戻れなくなり、行方をくらますことになった。
 ルンフェスが去り、静寂が訪れ、緊張が解ける。
 私は、ネモの胸に飛び込んでいた。
 そして、戸惑うネモに構わず、子供のように泣きじゃくった。
 一瞬戸惑った様子を見せた彼は、だがゆっくりと右手で、私の頭を撫でた。

「すまん、チェント。俺のせいで、とんでもない苦労を掛けた」

 ルンフェスの狙いは俺だったのに、お前を巻き込んでしまった、と彼は言った。

「違う! 違うの、ネモ!」

 そんなことはどうでもよかった。
 首を振り、泣きながら、私は言った。

「私、嬉しかったの。あなたに認めてもらえて、あなたが私を褒めてくれて、あなたが……」

 ──私を好きだと言ってくれて──
 それ以上は言葉にならなった。
 私は、彼の胸に顔をうずめて、声を上げて泣き続けた。

「……聞いていたのか?」

 彼は困ったような、照れたような、そんな顔をしていた。

「……嘘じゃ、ないよね?」

 私は彼に確かめた。
 彼は、しばらくの沈黙の後、

「ああ……」

 強く頷いて、確かにそう言ったのだ。

「私もあなたが好き!」

 はっきりとした声で、私は言った。
 彼の心に、しっかり届くように。

「私、頑張るから、あなたの期待に応えられるよう頑張るから、見捨てないでね」
「お前なら、大丈夫だ。俺が保証する」

 彼の手が、私を優しく包む。
 彼の胸に抱かれながら、私は思ったのだ。
 ようやく、私の居場所を見つけた。



 最初に出会ったとき、私のことをどう思っていたのか?
 のちに彼に聞いたことがある。

「出会う前は、親父のこともあり、憎く思った時もあったよ」

 彼はそう切り出した。

「だが実際にあった時には、弱々しい、かわいそうな娘という印象しかなかったな」

 レバス城の牢屋で会った時のことだろう。
 もう、ずいぶん昔のことのように感じた。
 だからそれ以降、お前を恨んだことは一度もない、と彼は言った。

「魔王様にお前の教育を言い渡された時は正直戸惑ったが、めきめき成長していくお前を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった」

 魔王様は、最初からお前の素質を見抜いていたのかもしれん、と彼は言う。
 私は、最初から彼を誤解していた。
 この時、分かったことだった。
 彼は、厳しく、真面目で、不器用で、そして誠実な人なのだ。
 もし彼が私を本当に恨んでいたとしても、私怨で訓練を厳しくするような、陰湿な真似は、絶対しないであろう。



 あの翌日以降も、いつものように訓練の日々は過ぎていった。
 あんなことがあっても、彼の訓練の厳しさはまるで変わらなかった。
 それが、彼の性格を表しているようだった。
 一方、私の方のやる気は、それまでとまるで違った。
 彼の期待に応えたい。
 ただそれだけで、いくらでも頑張れた。
 訓練を続ける私達のところに、数週間後、1つの知らせが届いた。
 ベスフル軍の手によって、レバスの城が陥落したという知らせだった。
 剣を構えて、男が立っていた。
 私と同じ金髪に、鋭い目を周囲に光らせている。
 それは、兄だった。
 辺りには、大勢の魔王軍兵士の死体が転がっている。
 血に塗れたその姿、だが、それは全て返り血のようで、兄自身はまったく傷を負っていないようだった。
 尚も数人の兵士が突進していくが、兄は軽々とそれを斬り伏せる。このままでは、味方への被害が拡大するばかりだった。
 私は意を決して、剣を構えた。
 そして、遂に兄がこちらに気づいた。
 鋭い形相で、こちらを睨んでいた。
 昔から散々睨まれ、恐れ続けたその目は、戦場において、さらに鋭さを増している気がした。
 怖い。恐ろしい。
 逃げ出したい恐怖を振り払って、私は全力で駆けた。
 私も、昔の私ではない。
 ネモに鍛えてもらった実力を、今こそ示す時だ。
 兄に向けて、気合いの一閃を繰り出す。
 だが私の剣は、あっさりとかわされ、空を斬った。
 まだだ!
 2度、3度、剣を振るうも、その動作はあまりにも緩慢で、まったく当たらない。
 おかしい。
 訓練の時のように、思うように体が動かない。
 実戦の緊張感がそうさせているのか?
 それとも、私に染み付いた、兄への恐怖がそうさせているのだろうか?
 兄の表情に焦りや動揺は、一切なかった。
 次の瞬間、私は兄に殴り返されていた。
 兄は何故か、持っていた剣を使わず、私を殴りつけた。
 まるで、子供の頃と同じように。
 後ずさる私に、兄は拳の追い打ちをかける。
 顔面を殴られた私は吹っ飛ばされ、地面に転がった。
 なんとか、体を起こすと、兄に胸ぐらを掴まれた。
 兄が睨んでいる。
 本当に、昔と同じ目で、睨んでいた。
 怖い。悪魔のような眼だった。
 兄は胸ぐらを掴んだまま、空いた拳で何度も私を殴りつけた。
 痛い。
 私は何もできず、ただ殴られるだけだった。
 痛い。
 誰か助けて。
 その時、待て、と兄を咎める声がした。
 ネモだった。
 ネモが剣を構え、兄の後ろに立っていた。
 兄はそれを見て私を放すと、立ち上がって剣を構えた。
 雄叫びを上げて、斬りかかるネモ。
 だが兄は、その斬撃を易々とはじき返した。
 剣を弾き飛ばされ、ネモは仰向けに倒れる。
 兄は、ゆっくりとそれに駆け寄っていった。
 兄が止めを刺そうと、剣を振り上げる。
 だめっ!!
 私は、兄の片足にしがみ付いた。
 お願い、やめて兄さん! その人は、私の大切な……
 私は叫んだ。必死に訴えた。
 私の大切な人なの! その人だけは、殺さないで! お願い!
 兄は、私の顔を蹴りつける。
 何度蹴られようと放すまいと、私は両腕でしがみ付いた。
 今度は兄は、私の顔を踏みつける。
 何度も何度も、踏みつけた。
 痛い、苦しい。でも、放さない。
 いつまでも放そうとしない私の腕に、遂に兄は剣を突き立てた。
 激しい痛みに、手を放す。
 剣が引き抜かれる。私は痛みに悲鳴を上げた。
 だが、そこまで。
 それ以上の私への追い打ちはせず、兄は再びネモに向かって剣を振り上げた。
 なぜ? 私が憎いなら、私を殺せばいいじゃないか?
 あなたはなぜ、私を殺さず、苦しみだけを与え続けようとするのか?
 剣が振り下ろされる。
 もう止められない。
 刃が、ネモを切り裂いた。
 私の金切り声が響き──



 気が付くと、見慣れない天井があった。
 息が荒い。
 汗がびっしょりだった。

「大丈夫か? チェント」

 声の方に目を向けると、ネモがいた。
 そうか、あれは……夢?
 私は反射的に、ネモに飛び付いた。
 ネモは驚いたようだったが、振り解いたりはしなかった。
 温もりを、鼓動を確かめる。
 彼は確かに生きている。
 あれは間違いなく、ただの夢だったのだ。
 私はテントの中にいた。
 魔王領に侵攻してきたベスフル軍を撃つため、私達は軍を伴って出撃してきたのだった。
 接敵ポイントまではまだ距離があり、ここは道中の夜営地の中だった。
 この小さなテントには、私とネモの2人きり。
 辺りは、まだ夜のようだ。

「どうした?」

 彼の声は優しい。

「夢を見たの。あなたが、兄さんに殺される夢」

 夢で本当に良かった、と彼を強く抱きしめた。

「初めての実戦を前に、少し緊張しているだけだろう。今のお前は強い。何も心配はいらないさ」

 彼は私を安心させるよう、そう言った。
 私は抱きしめていた手を放し、彼の眼を見た。
 そして、確かめる。

「あなたも、死なない?」
「俺はお前のように強くはないが、お前が傍にいてくれれば、大丈夫だ」

 言って、彼は私の頭を撫でた。
 訓練の時は変わらず厳しい彼だったが、それ以外の、2人きりでいる時の彼はとても優しい。
 そんな大切な彼との居場所を作っているのは、ここ魔王領。
 そして、それを壊そうと迫っているのが、兄の率いるベスフル軍だった。
 ベスフル軍は、降伏させたレバス軍を吸収した連合軍となり、勢力を増して魔王領に迫っているという。
 絶対に負けるわけにはいかなかった。
 もっとも現時点で、魔王領内でベスフル軍に敗北する可能性を考えている者は、殆どいないようだ。
 これまで、ベスフル軍と直接戦ってきたのは、魔王軍に従属していたレバス軍であり、魔王軍は、一部の兵と兵糧を貸し与えていたに過ぎない。
 ベスフルとレバスの連合も、戦いを続けて疲弊した軍同士が寄せ集まったにすぎず、ほぼ無傷の魔王軍が負けるわけがないというのが、こちらの人々の見解だった。
 兄が魔王軍に敗れるなら、それでいい。
 あそこに私の居場所はないのだから。

「ごめんね、私から言い出したことなのに。情けないよね」

 私は、ネモに向かってそうこぼした。
 今回の出陣は、私自ら希望したものだった。
 ネモは、最初は、かつての仲間たちと戦うことになる私を気遣って、戦いに参加しなくて済むように計らうつもりだったようだ。

「放っておいても、ベスフル軍は負けるだろう。元の仲間たちの悲惨な姿を、わざわざ見に行く必要はない」

 ネモは、私にそう言ってくれた。

「ううん、あの場所にいるのは、私の仲間じゃない。ちゃんと決別するためにも、私自身に戦わせてほしい」

 私は、確かにそう言ったはずだった。
 そう決心したはずだった。
 だが戦う前からこの有様では、何のために出陣してきたのかわからない。
 自分が情けなかった。

「それだけお前の中には、兄への恐怖が刻まれているということなのだろう」

 幼いころに刻まれた恐怖は、そう簡単に消えないものだ、とネモは私を慰める。
 彼には、私の過去のすべてを話していた。
 兄と過ごした悲惨な日々も、ベスフルでの出来事も、何もかも。

「今から戻るか? 俺とお前の2人が欠ける程度なら、許しは出るはずだ」

 彼は言った。
 そんなことをすれば、今回の出陣に私を推薦した彼の名前に傷がついてしまう。
 でも、彼はまったく気にしていないようだった。

「ありがとう。でも大丈夫。私、戦えるよ」

 あなたがいてくれるから、そう言って笑って見せた。
 彼の優しさに、期待に応えるためにも、ここで退くわけにはいかない。

「わかった。今は体を休めておけ。明日には、いよいよ敵と接触する可能性があるからな」

 彼は私を寝かせると、自身も横になった。
 そうして、夜は過ぎて行った。



 翌日、朝日が昇るか昇らないかの頃に、私達は出発した。
 これから戦場となるのは、魔の谷と呼ばれる場所である。
 そこは、左右を高い丘や崖に囲まれ、長く伸びた、魔王領までの道。
 平時であれば、なんてこともない、ただ長く続くだけの山間道だった。
 私が魔王領に来た時にも、馬車で通過したことのある場所だった。
 だが、そこが戦場となれば話は違う。
 中央の山間道を馬鹿正直に大部隊を率いて進めば、左右の崖から矢を射かけられるだけで、大損害を被るだろう。
 故に、それを警戒するなら、左右の丘や崖の上を移動するしかない。
 しかしそちらは、大人数が通れるような整備された道はない。
 人1人が通るのがやっとの道、ロープがないと登れない崖などが続く。
 高低差で優位に立つために、より高い場所を進もうとするほど、道は険しくなり、大部隊で進むことを困難にしていくのである。
 魔王軍側は、この谷を戦場にすると決めた時、部隊を3つに分けていた。
 大部隊が戦うには適さないこの場所。
 こちらの主力をぶつけるのは、魔の谷を抜けた先と決め、だが、大部隊が戦うのに適さないこの谷を、何の損害もなく素通りさせてやる必要はないという判断だった。
 今回は、地の利を生かして少数精鋭の部隊を配置し、一方的に損害を与えてから撤退するという作戦である。
 敵軍の完全な殲滅が目的では、なかった。
 私達は、その内の1部隊に配属されている。
 一番少数となるその部隊は、今、険しい崖を登っていた。
 部隊の全員が、崖を登りやすい軽装で、弓矢とショートソードを携えていた。
 兵士は全員大柄で、逞しい体つきをしていた。
 私が、この部隊で一番小柄なのは間違いないだろう。
 ここに来るまでも、周りの兵士たちは、私を明らかに訝しむような眼で見ていた。
 どうして、よそ者の小娘が付いてくるんだ? とでも言いたげだった。
 それは、仕方のないことなのかもしれない。
 私は今はまだ、何の戦果も上げていない。
 ネモの推薦と、祖父である魔王の後押しにより、特例で部隊に組み込まれただけの小娘なのだ。
 左下に見える山間道は、静かなものだった。
 そこをベスフルの部隊が通れば、すぐにわかる。
 崖の上から敵を待ち伏せし、頭上から弓矢を降らせ、反撃を受ける前に離脱する。
 私達の部隊に与えられた任務だった。
 谷に入る前の部隊長の説明を思い出す。

「我々は、このポイントで敵部隊を待ち伏せる」

 そう言って、部隊長は地図の一箇所を指した。
 そこは、敵から発見されにくく、また発見されても、よじ登るには困難な断崖絶壁の上だという。
 残る2部隊が、反対側の丘から突撃し、一撃離脱を試みる。
 それを空から矢で援護し、2部隊の離脱を確認したところで、こちらも撤退するという手筈になっていた。
 待ち伏せのポイントまでは、半日ほど歩くと聞いている。
 だが──
 半日経たぬうちに、私達の部隊は足を止めることになった。
 先頭が足を止め、後ろを歩く私達に合図を送る。
 敵を発見したという合図だった。
 全員が息をひそめ、見つからぬよう、体を伏せる。
 見ると、左下の丘の上を、ベスフルの兵士たちが歩いているのが見えた。
 人数は、こちらよりはわずかに多いが、小部隊だった。

「敵も待ち伏せに備えて、偵察部隊を出していたようだな」

 ネモが小声でささやいた。
 待ち伏せポイントに到着する前に、敵を発見した。
 それはすなわち、敵の進軍速度は、こちらが思っていたより早いということだった。
 まだ敵は、こちらに気づいていないようだ。

「今すぐ、仕掛けますか?」

 部隊長たちが相談する声が聞こえる。
 彼らは迷っているようだった。
 今いるこの場所は、待ち伏せする予定だった場所と違い、敵の位置からここまで、充分駆け上ることができる坂でしかなかった。
 上側にいるこちらに利があるには違いないが、一方的に射かけるということにはなりえない。
 必ず反撃を受けるだろう。
 そして、部隊の人数の上では、僅かにこちらが負けている。
 何より、今ここまで通ってきた道は、速やかに退却できるとは言い難い道であった。
 戦って生き残るには、敵を撤退させるか、全滅させるしかないのである。
 だが悠長にしていては、敵部隊が通り過ぎてしまう。
 部隊長は決断した。

「……仕掛けるぞ」

 私は、自分の体に緊張が走るのがわかった。
 魔王領の住人達は、そもそも平均的に体が大きく、力も強い。
 少々数で劣っていようが、自分達より非力な人種相手に負けるはずがない、という自信と意地があるようだった。
 遂に、戦いは始まろうとしていた。