体力を消耗しすぎない程度の速さで、私は地を駆ける。
 ネモから受けた訓練のおかげで、少々のことでは疲れない。
 しばらく進んだところで、案内の兵士が立ち止まった。
 つられて私達も、一斉に足を止める。

「あの場所です。あの丘の向こうに、奴らが潜伏していました」

 彼が指差すその先は、今は静かなものだった。

「既に移動している可能性もあります。私が様子を見てきます」

 私達は頷いて、その場に待機する。
 ここに兄がいるのだろうか?
 彼は姿勢を低くして、小走りで丘へと昇って行った。
 それは、危険な役目のはずだった。
 私はその背中を、じっと見守る。
 何かあればすぐに動き出せるように、そして浮遊石の盾もいつでも展開できるよう準備する。
 丘の頂上が近づくにつれて、相手に見つからぬよう彼はさらに姿勢を下げていく。
 まだ、丘の周りは静かだ。私達にも緊張が走った。
 彼がまさにてっぺんに差し掛かろうとした瞬間、

「!?」

 丘の向こうから飛び出した何かが、彼の脳天を叩き割った。
 遠目からでもわかるほどに血が噴き出し、彼は転がるようにして崩れ落ちた。
 数ヶ月前の私なら、悲鳴を上げていた光景だった。
 そして、血を流して倒れ伏した兵士の向こうから、敵部隊がぞろぞろと姿を現したのだ。
 あれは!
 人数は私達と同じくらい。100人に届かないような部隊だった。
 彼らは雄叫びを上げて、一気に丘を駆け下り始めた。
 その先頭を駆ける金髪の剣士。
 見つけた。
 数ヶ月ぶりに見る姿だったが、見間違うはずものない。
 それが兄、ヴィレント・クローティスの姿だった。

「敵襲だーっ! 全員、迎え撃てっ!」

 味方の声が響く。

「ネモ、援護をお願い」

 私も前に出た。

「任せろ!」

 ネモの声を背中に聞き届け、盾を広げて走る。
 駆けながら2本の赤い剣を呼び出し、展開した盾に赤い光を灯した。
 遂に、この時が来た。
 私の目指す相手はただ1人。
 駆け下りてくる兄が、私の存在に気付いた様子はない。
 遠目だというのもあるだろうが、兄の知っている私は、ひ弱で、臆病で、泣き虫で、何もできない、戦場に出て剣を振るえるような女ではないからだろう。
 だが、もう兄を恐れて何もできない私は、もういない。
 さっそく思い知らせてやろう。
 私は一直線に、兄の元へと走った。
 お互い、間合いに入る直前まで、一度も足を止めることはなかった。
 まっすぐぶつかり、全力で剣を振りかぶる。
 剣と剣がぶつかり合った。

「!!」

 兄は剣を頭上からまっすぐ振り下ろし、私はそれを剣を×の字にして両手で受け止めた。
 凄まじい剛剣。凄まじい打ち込み。
 腕が壊れてしまうかと思った。
 だが、なんとか耐え抜く。
 お互いのただならぬ技量を感じ取り、私達は一旦距離を取った。
 息を吐く。
 兄は鉄の剣を構え、鋭い目をして立っていた。
 かつて夢で見た姿と、まるで同じように。
 私はその目をまっすぐ見た。

「兄さん、久しぶり」

 そんな言葉が自然に飛び出したことに、私自身が驚いた。
 久しぶりなのは本当だ。
 兄と会うことが、そしてそれ以上に、言葉を交わすことが。
 声を聞いて、ようやく兄も相手が私だと気づいたようだった。

「チェント、なぜお前がここにいる? ここで何をしている?」

 私を見た兄の表情には、僅かに動揺が見て取れた。
 だが、鋭い眼光は崩さない。
 剣を下ろして構えを解くようなこともしない。
 剣を突きつけ昔と同じように、いや、昔以上の険しい表情で私を睨んでいた。

「見てわからないの? 私、魔王軍にいるの。兄さんの敵になったの」

 自分の顔が笑っているのがわかった。
 兄の驚いた顔を見るのは、初めてかもしれない。
 少し気分が晴れる。
 だが、この程度のことで、私の受けた苦痛が返せたわけがなかった。
 今度は私から仕掛ける。
 2本の赤い剣を左右交互に振るい、攻撃を仕掛けた。
 兄は一撃目の横斬りを剣で受け流し、次の突きを首すれすれでかわす。
 直後に電光石火の勢いで、カウンターの一撃が返ってきた。
 私では完全に反応できないそれを、赤い盾が防ぐ。兄に微かな動揺が見えた。
 完璧に捉えたと思った攻撃を予想外のものに防がれて、そこには隙が生じる。
 今だっ!
 私は踏み込んで、両手を一閃させる。
 しかし、兄はギリギリのタイミングで、後ろに跳んでそれをかわした。
 再び私達は、距離を取って睨みあった。
 既に周囲では、味方敵の部隊同士の交戦が始まっていた。
 だが、私達の間には、誰も踏み込むことはできない。
 兄が私に向かって口を開いた。

「お前が、俺を憎む理屈はわかる」

 兄からそんな言葉が飛び出し、私は少し驚いた。
 この期に及んで、この人は何を言っているのだろう?
 今更どう言い訳したところで、私の過去に味わった痛みは、苦しみは、消えないのだ。

「それでも向かってくるなら、容赦なく殺すぞ」

 私の目を睨みながら兄が続けたのは、そんな言葉だった。
 謝罪の言葉など、ありはしなかった。
 私も元から、そんな言葉は期待してはいなかったが。
 そもそも、兄はさっき"理屈はわかる"と言ったのだ。
 "気持ちはわかる"とは決して言っていない。
 私が味わった地獄など所詮、この人にはどうでもいいことなのだろう。
 いや、それでいい。
 だからこそ、私は何の罪悪感もなく、あなたに剣を向けられる。
 剣を構えなおす。
 次は2人同時に、私と兄は地を蹴った。刃と刃が再びぶつかり合う。
 何合も何合も、私達は剣をぶつけ合い、火花を散らした。
 兄の剣は何度か、赤い剣をすり抜けて私の体を捉えそうになったが、その度にネモの制御する赤い盾が、的確にそれを阻んだ。
 私の赤い剣も、何度か兄を捉えそうになるが、惜しいところで回避される。
 ……凄い!
 私は興奮していた。
 予想を遥かに上回る、兄の強さに。
 あの兵団長ローラントなど、問題にならない強さ。
 これだけ打ち込んでも、掠りもしない反応速度。
 魔の谷での戦いの時は、私は何十人もの相手を同時にしながら、殆ど反撃をもらわずに立ち回ることができた。
 だが、これは1対1の戦いなのに、あの時以上の恐ろしさがあった。3枚の盾がなかったら私はとっくに死んでいる。
 これがベスフルで"英雄ヴィレント"と呼ばれた、兄の強さなのだろう。
 互角の条件で戦っていれば、多分、私に勝ち目はない。
 だが、それでもいい。私の目的は、兄の強さを超えることなどではないからだ。
 そして、決してまったく届かない強さではない。剣を交えながら、私はそう感じていた。
 今は、ネモと2人でこの人を倒す。
 ただそれだけを考えて、ひたすら全力で剣を振るった。
 兄の何度目かの反撃。
 私の剣と剣の間を縫うようにして、強烈なカウンターの突きが私に襲い掛かった。

「ひっ!?」

 あまりの勢いとスピードに、思わず声が漏れる。それは正確に、私の首元を狙って繰り出されていた。
 本来は防げるはずのないタイミング。しかし、赤い盾はそれにさえも瞬時に反応し、真っ向から突きを受け止める。
 恐怖に体が一瞬凍り付く、それほど恐ろしい突きだった。
 ふう……
 命拾いした。胸を撫でおろす。だが──

「避けろ、チェント!!」

 ネモの上げた声に反応し、反射的に体をそらす。
 次の瞬間、兄の右手で繰り出された剣は盾を真っ二つに割り、私の元いた場所に突き出されていた。
 私の魔力で鉄のような堅さまで強化されたはずの盾をバラバラに。
 割られた盾は地面を転がり、光を失ってただの木の盾に戻った。

「まず1つ目」

 あくまで落ち着いた声で、兄が呟く。
 私は後ろに大きく跳び、仕切りなおすために距離を取った。
 盾を見ると、中央の浮遊石が粉々に砕かれている。
 私は悟った。
 本来は攻撃を受け流して相手の力を反らすはずのこの盾の守りを、兄は盾の中心を的確に何度も突くことで、受け流しを封じて盾そのものを破壊まで導いたのだ。
 しかも、その間の私の攻撃を全てかわしながら。
 その技量には感服するしかない。
 これが、英雄ヴィレントの実力。

「チェント! 大丈夫か!?」

 心配そうなネモの声が響いた。
 こんな形で盾が破られることなど、彼にとっても予想外だったのだろう。
 その声には焦りが見える。

「大丈夫、まだ負けてないよ」

 兄からは視線を外さないまま、私は答えた。落ち着いた声で。
 私が焦れば、彼がいつも落ち着かせてくれる。彼が焦った時は、私が落ち着かなければ。
 私達は2人で戦っているのだから。

「まだ盾は2つ残ってる。だから大丈夫」

 強がりを言っているつもりはない。
 私も兄も、僅かではあるが軽く息が上がっていた。
 お互いまだまだ戦える。だが、兄も決して消耗していないわけではないのだ。
 きっと勝算はある。剣を構えなおす。
 兄に休む暇を与えてはいけない。
 もう一度前に跳び、私は大きく踏み込んだ。兄も剣を構えなおす。
 再度、接近戦が始まる。
 今、狙うべき場所は1つ。
 私は前に出ながら、左手の赤い剣を振り上げる。
 そして兄の胸元を狙って、思い切り振り下ろした。
 だが兄はこちらの予想通り、自身の剣であっさりそれを受け止める。これは想定内。
 今だっ!
 私は右手の赤い剣を、左手の剣に十字に合わせるように叩きつけた。
 激しい火花が散る。歯を食いしばって私の全力を込めた。
 それが持ちこたえたのは、そう長い時間ではなかった。

「!?」

 派手な異音を立てて、遂に兄の剣が折れる。
 私の2本の剣は、兄の剣の守りを突き抜け、その体に襲い掛かった。
 だが兄はそれを本当に、本当にギリギリのところで体を反らして避け、後ろに下がった。
 あのタイミングでまた逃した。どこまでも驚異的な反応。
 しかし、形勢は完全に逆転した。
 兄の剣の切っ先は、ちょうど刃の長さ半分程度のところで、砕け飛んでいた。
 やった!
 狙い通り。あれだけ何度も、私の赤い剣と刃をぶつけあっていたのだ。以前から槍の柄程度なら、一振りで斬り飛ばしてきた私の魔力剣と。
 むしろ兄の剣は、ここまでよく持ちこたえたと言うべきなのだろう。それなりの業物だったのかもしれない。
 大きく息を吐く。思わず笑みがこぼれた。
 勝てる! 私、兄さんに勝てる!
 長い間、私を苦しめてきたこの人に、遂に一矢報いるのだ。
 一方、兄は大きく焦りを見せることなく、構えたまま折れた切っ先を見つめていた。
 武器を壊されても落ち着いている。一瞬、退却するかもと考えたが、今のところそういう様子はなかった。
 どのみち退却を許すわけにはいかない。
 こちらは貴重な盾を一枚失ってしまったし、武器を整え直されて再戦ともなれば、次の結果はわからないからだ。
 私はじりじりと、ゆっくり間合いを詰めていった。
 油断はしない。隙を見せたら、一撃で決める。
 兄は先程から同じ姿勢で、折れた剣を構えたままピクリとも動かない。
 味方もまだ戦っている。まだ、どちらが優勢ともいえない状況に見えた。
 ここで兄を討てれば、士気は一気に傾くはずだった。
 あと数歩踏み込めば、剣が届く。その間合いまで近づいた瞬間、私は仕掛けた。
 目一杯姿勢を低くして迫る。

「はっ!」

 そして2本の剣で、今まで以上の激しい攻勢に出た。
 相手のリーチは半減している。間合いの外からの攻撃なら、そう簡単に反撃を許さない。
 兄は必死に、赤い刃をかわしていた。
 防御に剣を使っていない。これ以上下手に受けて、剣が全く使い物にならなくなるのを避けているのかもしれない。
 ならば猶更、私は大胆に攻められる。
 兄はどんどん後ろに下がる。私は前に出る。それはもはや、一方的な展開に思えた。
 兄は皮鎧しか身に着けていない。私の剣がまともに直撃すれば、一度で勝負がつくはずだった。
 そして次の私の攻撃をかわした拍子に、兄が僅かによろけた。隙が生まれる。見逃さずに、思い切り踏み込む。
 剣を横に一閃。だが、その一撃もまだ避ける。
 なんというしぶとさ。しかし、後ろに上半身だけを大きく反らして避けたその動作で、遂に兄は体勢を崩し、膝をついた。
 次の一撃は避けられない。外さない。
 私は剣を振り上げながら、全力で間合いを詰める。
 その瞬間は、まるで時が止まっているかのように見えた。
 今、剣を振り下ろせば、全てが終わる。私の苦しみが。長年続いた地獄に終止符が打たれる。
 躊躇う理由はない。ここでやる。ここで……兄を殺す。
 さようなら、兄さん。
 私は右手の剣を……振り下ろした!
 その刃は兄の胸元をえぐり、飛び散る鮮血と共に兄の生涯に終わりを告げる。
 ……そのはずだった。
 赤い刃が兄に突き刺さる直前、兄の眼光が今までを遥かに凌ぐ鋭さを放つのを、私は見た。
 ひっ……!?
 気付くと、赤い刃は空を斬っていた。
 次の瞬間、私の眼前に迫っていたのは兄の剣の先端だった。
 もうそのスピードは、私の目で捉えられる速度を超えていた。
 あの体勢から、どうやって一瞬で立て直したのかはわからない。
 右で逆手に持ち替えられた兄の剣は、私の目玉に突き刺さろうとしていた。
 避けられない。
 だが、突き刺さるまさに直前で、赤い盾が進路を阻む。
 その突きを防いだ盾は、やはり今度もそれを受け流すことはできなかった。
 兄はこの無理な体勢から繰り出した反撃でも、盾の中心を的確に突き、受け流すことを許さない。
 盾自体は砕かれることは辛うじて耐え、しかし、その一撃は押し込まれた盾ごと私の頬を直撃した。

「!?」

 なんとか、刃は盾を貫通していない。だが、私は顔面をハンマーで殴られたように、大きく吹き飛ばされた。
 両手の剣が消滅し、私の体地は面を転がる。
 景色が回る。

「うう……っ」

 早く立ち上がらなければいけない。兄が来る。殺されてしまう。
 必死に体を起こそうとする。
 しかし、頭がくらくらして焦点が定まらなかった。
 揺れる視界の中、兄がこちらに寄ってくるのがわかった。
 まずい。このままでは。
 わかっていても、これはすぐには立て直せない。
 突き出される兄の剣。絶対に避けられない。
 死にたくない。死ぬ覚悟など、できていない。
 だって私は、ネモと……この先を。
 次にぼやけたままの視界に入ったのは、こちらに剣を突き出した兄と、その間に割って入った背中だった。
 ぼうっと、その背中を見上げる。
 そこにいたのは当然、

「ネモ!?」

 私は裏返った声で悲鳴を上げた。最悪の事態を目の当たりにして。
 しかし、

「チェント、すぐに撤退するぞ!」

 直後に、はっきりとした声で言葉が返ってきた。
 兄の剣は、ネモを貫いてはいなかった。
 彼は左手に構えた盾で、辛うじて攻撃を受け止めていたのだ。
 胸を撫で下ろす。心臓に悪い。
 少し視界がハッキリしてきた。悠長にはしていられない。
 兄は、突然割って入ってきたネモにも、容赦なく攻撃を浴びせていた。

「ぐっ……くそっ!」

 激しく繰り出され続ける突きの連撃。ネモはどうにか急所は避けているが、盾の隙間を狙った攻撃が腕や肩のあちこちに掠り、小さく呻き声が漏れていた。
 これでは、ネモが撤退できない。私は頭を振って、どうにか視界をはっきりさせた。
 その時、兄に向かって突進してくる2つの影があった。
 味方の兵士だった。こちらの様子を見かねて、援護に来てくれたのだ。

『うおおおおーっ!』

 だが、雄叫びを上げて斬りかかってくる2人を、兄はそれぞれ剣の一振りずつで、あっさりと沈黙させる。
 剣のリーチの差など、まったく問題にならない。流れるような動作で敵の攻撃を掻い潜り、喉元を一振りで斬り裂く。
 2人は喉から血を噴き出して倒れ、動かなくなった。
 あっという間に、元の姿勢に向き直る。まるで消耗を感じさせない動き。唖然とするしかなかった。
 ネモは、隙を突く暇すら与えてもらえない。
 私はなんとか気持ちを奮い立たせ、立ち上がった。
 周囲を見渡すと、残った2枚の盾は地面に転がっていた。
 片方はさっきの一撃で浮遊石が粉々に砕かれ、使い物にならなくなっていた。残りは1枚だが、ネモが応戦している状態では制御ができない。
 兄の剣が、ネモの膝を浅く斬り裂く。ネモは苦悶の声を上げ、僅かによろけた。
 まずい!
 もう迷ってなどいられない。私は消えていた魔力剣を再び両手に灯し、前に出た。
 私が振るった攻撃はあっさりと空を斬るが、兄を一歩下がらせ、ネモから少し引き離すことはできた。

「チェント、何をしている!? 逃げるんだ。こいつは本当にまずい!」

 ネモの叫び。わかっている。
 以前の戦いなど比べ物にならない。この状況は、一歩間違えば2人とも命を落とす。
 でも、ネモを見捨てる選択肢は私には当然ない。私は踏み込んで、2連撃を繰り出した。
 何の動揺もなく、それらを避けられる。反撃の振り下ろしが左肩を掠った。恐ろしく速い。
 盾の使えない状態で、こんな反撃をまともに受ければ即死だ。冷汗が頬を伝う。
 さらに続く、兄の連続突き。
 必死に避ける。こちらの剣で受けようとしても、その隙間を易々と突き抜けてくる。
 遂に右手首を斬り裂かれる。痛みに耐えかねて、握っていた魔力剣を維持できなくなる。

「……っ!?」

 もし兄の剣に本来の長さがあれば、腕を切り落とされていただろう。
 出血だけで、右腕は付いている。だが、これはまずい。

「チェントっ!!」

 ネモが見かねて、援護に走った。
 構えていた盾を後ろに引いて、兄を牽制すべく右手の剣を突き出す。
 兄の背中を狙った一撃。完全にその視界には入っていないはずの攻撃だった。だが……

「ネモ、駄目っ!!」

 私が叫んだ時には、既に兄は振り向きざまに剣を一閃させていた。
 私は見ていた。見てしまった。
 兄の剣が、彼の心臓を抉るのを。
 それは決して、掠り傷などではない。
 背中まで達しそうなほどの深い傷が、胸元に刻まれていた。
 私は、裏返った声で彼の名を叫んだ。
 おびただしい量の血液が噴き出す。
 戦いの最中であることも忘れ、走り寄って彼を抱きとめた。
 溢れ出てくる血が、私の胸元をも汚した。それは止まることなく、次々と噴き出してくる。

「逃げ……ろ、チェ……ント……」

 虚ろな目で、ネモが必死に言葉を絞り出していた。
 嫌だ。
 言葉を続けようとして、彼は血を吐いた。
 嫌だ。

「す……まない、俺…は……」

 ずしりと彼の体が重くなった。彼は膝を折り、私の腕から滑り落ちる。

「ネモ! ネモっ!!」

 必死に呼びかける。
 彼の瞳は、開いたまま虚空を見つめていた。
 私は呼びかけ続けた。

「ネモ……逃げないと。一緒に……早く逃げないと、ねえ……」

 ネモは返事をしてくれない。
 嫌だ。
 返事をして、ネモ……お願い。
 放心状態の私は、後ろから胸ぐらを掴まれていた。
 首筋に、折れた剣を押し当てられる。

「おい!」

 兄が私を冷たい眼で睨んでいた。
 私のことなど何も気にかけていない、そういう眼だった。
 今の私に、逆らう気力など残っていない。

「2度と俺の前に姿を見せるな。わかったな」

 それだけ言うと、兄は私を放置したまま進軍して行った。
 周囲は、私達が劣勢になったあたりで部隊の士気が乱れ始めたようで、こちらの部隊は半壊状態だった。
 なおも敵の進軍を阻止しようとした勇敢な兵士は、兄にあっさり斬られた。
 敵部隊が去ると、後には殺されなかった僅かな味方兵士が残った。

「ネモ……帰ろう」

 抱き寄せて呼びかけても、彼からの返事は返ってこない。
 どうして?
 なぜ、兄は私を殺さないのか。ネモを、私の一番大切なものを奪っておいて。
 ネモがいなくなるなら、私はあそこで一緒に死んでも構わなかったのに。
 なんで? どうして?
 私を苦しめるだけ苦しめて、でも決して殺しはしない。
 兄は昔と何も変わっていない。
 私にとって兄は、付きまとう呪いのようなものなのか。
 そしてその呪いに、ネモは巻き込まれた。
 私が……私のせいで……。

「ネモ、帰ろう。私が支えてあげるから……」

 彼からの返事はない。
 だが、彼をこんなところに置き去りにはできない。
 肩を支えて引き起こそうとする。だが、上手く力が入らない。
 よろよろと立ち上がると、見かねた味方兵士が、手を貸してくれた。
 彼らの手を借りて、どうにか私は歩き出した。



 そこから、どうやって砦まで戻ったのか、あまりよく覚えていない。
 砦の訓練室、今は遺体安置所となっていたその場所に、ネモが横たわっている。
 大勢の兵士が寝かされ、ネモはその中の1つに過ぎない。
 まるで現実感がなかった。
 今回の私達の出陣は、自分から言い出したことを思い出す。
 兄との戦いも、私が承諾した。ネモは反対していた。
 私のせいなの……?
 私のせいでネモが……?

「……ごめんなさい。ごめんなさい、ネモ」

 私は寝ている彼に縋って、泣きながら何度も謝った。
 彼は答えてくれない。
 ネモは、眠っているように静かだった。
 何も言ってはくれなかった。
 私のミスだ。私の責任だ。
 だから、どれだけ攻められたって、怒られたって構わない。
 どんな罰だって受ける。
 だから……

「嫌だよぉ……1人にしないでよ! ……ネモ、お願い……」

 どれだけ泣きじゃくっても、ネモが何かを答えることはなかった。
 その夜、私はずっと泣き叫んでいた。
 もし時が戻せるなら、この時ほどそう思ったことはない。
 彼はもう帰ってこないのだ。
 この日、私はまた居場所を失った。
 ネモと出会って、僅か数ヶ月のことだった。