剣を構えて、男が立っていた。
私と同じ金髪に、鋭い目を周囲に光らせている。
それは、兄だった。
辺りには、大勢の魔王軍兵士の死体が転がっている。
血に塗れたその姿、だが、それは全て返り血のようで、兄自身はまったく傷を負っていないようだった。
尚も数人の兵士が突進していくが、兄は軽々とそれを斬り伏せる。このままでは、味方への被害が拡大するばかりだった。
私は意を決して、剣を構えた。
そして、遂に兄がこちらに気づいた。
鋭い形相で、こちらを睨んでいた。
昔から散々睨まれ、恐れ続けたその目は、戦場において、さらに鋭さを増している気がした。
怖い。恐ろしい。
逃げ出したい恐怖を振り払って、私は全力で駆けた。
私も、昔の私ではない。
ネモに鍛えてもらった実力を、今こそ示す時だ。
兄に向けて、気合いの一閃を繰り出す。
だが私の剣は、あっさりとかわされ、空を斬った。
まだだ!
2度、3度、剣を振るうも、その動作はあまりにも緩慢で、まったく当たらない。
おかしい。
訓練の時のように、思うように体が動かない。
実戦の緊張感がそうさせているのか?
それとも、私に染み付いた、兄への恐怖がそうさせているのだろうか?
兄の表情に焦りや動揺は、一切なかった。
次の瞬間、私は兄に殴り返されていた。
兄は何故か、持っていた剣を使わず、私を殴りつけた。
まるで、子供の頃と同じように。
後ずさる私に、兄は拳の追い打ちをかける。
顔面を殴られた私は吹っ飛ばされ、地面に転がった。
なんとか、体を起こすと、兄に胸ぐらを掴まれた。
兄が睨んでいる。
本当に、昔と同じ目で、睨んでいた。
怖い。悪魔のような眼だった。
兄は胸ぐらを掴んだまま、空いた拳で何度も私を殴りつけた。
痛い。
私は何もできず、ただ殴られるだけだった。
痛い。
誰か助けて。
その時、待て、と兄を咎める声がした。
ネモだった。
ネモが剣を構え、兄の後ろに立っていた。
兄はそれを見て私を放すと、立ち上がって剣を構えた。
雄叫びを上げて、斬りかかるネモ。
だが兄は、その斬撃を易々とはじき返した。
剣を弾き飛ばされ、ネモは仰向けに倒れる。
兄は、ゆっくりとそれに駆け寄っていった。
兄が止めを刺そうと、剣を振り上げる。
だめっ!!
私は、兄の片足にしがみ付いた。
お願い、やめて兄さん! その人は、私の大切な……
私は叫んだ。必死に訴えた。
私の大切な人なの! その人だけは、殺さないで! お願い!
兄は、私の顔を蹴りつける。
何度蹴られようと放すまいと、私は両腕でしがみ付いた。
今度は兄は、私の顔を踏みつける。
何度も何度も、踏みつけた。
痛い、苦しい。でも、放さない。
いつまでも放そうとしない私の腕に、遂に兄は剣を突き立てた。
激しい痛みに、手を放す。
剣が引き抜かれる。私は痛みに悲鳴を上げた。
だが、そこまで。
それ以上の私への追い打ちはせず、兄は再びネモに向かって剣を振り上げた。
なぜ? 私が憎いなら、私を殺せばいいじゃないか?
あなたはなぜ、私を殺さず、苦しみだけを与え続けようとするのか?
剣が振り下ろされる。
もう止められない。
刃が、ネモを切り裂いた。
私の金切り声が響き──
気が付くと、見慣れない天井があった。
息が荒い。
汗がびっしょりだった。
「大丈夫か? チェント」
声の方に目を向けると、ネモがいた。
そうか、あれは……夢?
私は反射的に、ネモに飛び付いた。
ネモは驚いたようだったが、振り解いたりはしなかった。
温もりを、鼓動を確かめる。
彼は確かに生きている。
あれは間違いなく、ただの夢だったのだ。
私はテントの中にいた。
魔王領に侵攻してきたベスフル軍を撃つため、私達は軍を伴って出撃してきたのだった。
接敵ポイントまではまだ距離があり、ここは道中の夜営地の中だった。
この小さなテントには、私とネモの2人きり。
辺りは、まだ夜のようだ。
「どうした?」
彼の声は優しい。
「夢を見たの。あなたが、兄さんに殺される夢」
夢で本当に良かった、と彼を強く抱きしめた。
「初めての実戦を前に、少し緊張しているだけだろう。今のお前は強い。何も心配はいらないさ」
彼は私を安心させるよう、そう言った。
私は抱きしめていた手を放し、彼の眼を見た。
そして、確かめる。
「あなたも、死なない?」
「俺はお前のように強くはないが、お前が傍にいてくれれば、大丈夫だ」
言って、彼は私の頭を撫でた。
訓練の時は変わらず厳しい彼だったが、それ以外の、2人きりでいる時の彼はとても優しい。
そんな大切な彼との居場所を作っているのは、ここ魔王領。
そして、それを壊そうと迫っているのが、兄の率いるベスフル軍だった。
ベスフル軍は、降伏させたレバス軍を吸収した連合軍となり、勢力を増して魔王領に迫っているという。
絶対に負けるわけにはいかなかった。
もっとも現時点で、魔王領内でベスフル軍に敗北する可能性を考えている者は、殆どいないようだ。
これまで、ベスフル軍と直接戦ってきたのは、魔王軍に従属していたレバス軍であり、魔王軍は、一部の兵と兵糧を貸し与えていたに過ぎない。
ベスフルとレバスの連合も、戦いを続けて疲弊した軍同士が寄せ集まったにすぎず、ほぼ無傷の魔王軍が負けるわけがないというのが、こちらの人々の見解だった。
兄が魔王軍に敗れるなら、それでいい。
あそこに私の居場所はないのだから。
「ごめんね、私から言い出したことなのに。情けないよね」
私は、ネモに向かってそうこぼした。
今回の出陣は、私自ら希望したものだった。
ネモは、最初は、かつての仲間たちと戦うことになる私を気遣って、戦いに参加しなくて済むように計らうつもりだったようだ。
「放っておいても、ベスフル軍は負けるだろう。元の仲間たちの悲惨な姿を、わざわざ見に行く必要はない」
ネモは、私にそう言ってくれた。
「ううん、あの場所にいるのは、私の仲間じゃない。ちゃんと決別するためにも、私自身に戦わせてほしい」
私は、確かにそう言ったはずだった。
そう決心したはずだった。
だが戦う前からこの有様では、何のために出陣してきたのかわからない。
自分が情けなかった。
「それだけお前の中には、兄への恐怖が刻まれているということなのだろう」
幼いころに刻まれた恐怖は、そう簡単に消えないものだ、とネモは私を慰める。
彼には、私の過去のすべてを話していた。
兄と過ごした悲惨な日々も、ベスフルでの出来事も、何もかも。
「今から戻るか? 俺とお前の2人が欠ける程度なら、許しは出るはずだ」
彼は言った。
そんなことをすれば、今回の出陣に私を推薦した彼の名前に傷がついてしまう。
でも、彼はまったく気にしていないようだった。
「ありがとう。でも大丈夫。私、戦えるよ」
あなたがいてくれるから、そう言って笑って見せた。
彼の優しさに、期待に応えるためにも、ここで退くわけにはいかない。
「わかった。今は体を休めておけ。明日には、いよいよ敵と接触する可能性があるからな」
彼は私を寝かせると、自身も横になった。
そうして、夜は過ぎて行った。
翌日、朝日が昇るか昇らないかの頃に、私達は出発した。
これから戦場となるのは、魔の谷と呼ばれる場所である。
そこは、左右を高い丘や崖に囲まれ、長く伸びた、魔王領までの道。
平時であれば、なんてこともない、ただ長く続くだけの山間道だった。
私が魔王領に来た時にも、馬車で通過したことのある場所だった。
だが、そこが戦場となれば話は違う。
中央の山間道を馬鹿正直に大部隊を率いて進めば、左右の崖から矢を射かけられるだけで、大損害を被るだろう。
故に、それを警戒するなら、左右の丘や崖の上を移動するしかない。
しかしそちらは、大人数が通れるような整備された道はない。
人1人が通るのがやっとの道、ロープがないと登れない崖などが続く。
高低差で優位に立つために、より高い場所を進もうとするほど、道は険しくなり、大部隊で進むことを困難にしていくのである。
魔王軍側は、この谷を戦場にすると決めた時、部隊を3つに分けていた。
大部隊が戦うには適さないこの場所。
こちらの主力をぶつけるのは、魔の谷を抜けた先と決め、だが、大部隊が戦うのに適さないこの谷を、何の損害もなく素通りさせてやる必要はないという判断だった。
今回は、地の利を生かして少数精鋭の部隊を配置し、一方的に損害を与えてから撤退するという作戦である。
敵軍の完全な殲滅が目的では、なかった。
私達は、その内の1部隊に配属されている。
一番少数となるその部隊は、今、険しい崖を登っていた。
部隊の全員が、崖を登りやすい軽装で、弓矢とショートソードを携えていた。
兵士は全員大柄で、逞しい体つきをしていた。
私が、この部隊で一番小柄なのは間違いないだろう。
ここに来るまでも、周りの兵士たちは、私を明らかに訝しむような眼で見ていた。
どうして、よそ者の小娘が付いてくるんだ? とでも言いたげだった。
それは、仕方のないことなのかもしれない。
私は今はまだ、何の戦果も上げていない。
ネモの推薦と、祖父である魔王の後押しにより、特例で部隊に組み込まれただけの小娘なのだ。
左下に見える山間道は、静かなものだった。
そこをベスフルの部隊が通れば、すぐにわかる。
崖の上から敵を待ち伏せし、頭上から弓矢を降らせ、反撃を受ける前に離脱する。
私達の部隊に与えられた任務だった。
谷に入る前の部隊長の説明を思い出す。
「我々は、このポイントで敵部隊を待ち伏せる」
そう言って、部隊長は地図の一箇所を指した。
そこは、敵から発見されにくく、また発見されても、よじ登るには困難な断崖絶壁の上だという。
残る2部隊が、反対側の丘から突撃し、一撃離脱を試みる。
それを空から矢で援護し、2部隊の離脱を確認したところで、こちらも撤退するという手筈になっていた。
待ち伏せのポイントまでは、半日ほど歩くと聞いている。
だが──
半日経たぬうちに、私達の部隊は足を止めることになった。
先頭が足を止め、後ろを歩く私達に合図を送る。
敵を発見したという合図だった。
全員が息をひそめ、見つからぬよう、体を伏せる。
見ると、左下の丘の上を、ベスフルの兵士たちが歩いているのが見えた。
人数は、こちらよりはわずかに多いが、小部隊だった。
「敵も待ち伏せに備えて、偵察部隊を出していたようだな」
ネモが小声でささやいた。
待ち伏せポイントに到着する前に、敵を発見した。
それはすなわち、敵の進軍速度は、こちらが思っていたより早いということだった。
まだ敵は、こちらに気づいていないようだ。
「今すぐ、仕掛けますか?」
部隊長たちが相談する声が聞こえる。
彼らは迷っているようだった。
今いるこの場所は、待ち伏せする予定だった場所と違い、敵の位置からここまで、充分駆け上ることができる坂でしかなかった。
上側にいるこちらに利があるには違いないが、一方的に射かけるということにはなりえない。
必ず反撃を受けるだろう。
そして、部隊の人数の上では、僅かにこちらが負けている。
何より、今ここまで通ってきた道は、速やかに退却できるとは言い難い道であった。
戦って生き残るには、敵を撤退させるか、全滅させるしかないのである。
だが悠長にしていては、敵部隊が通り過ぎてしまう。
部隊長は決断した。
「……仕掛けるぞ」
私は、自分の体に緊張が走るのがわかった。
魔王領の住人達は、そもそも平均的に体が大きく、力も強い。
少々数で劣っていようが、自分達より非力な人種相手に負けるはずがない、という自信と意地があるようだった。
遂に、戦いは始まろうとしていた。
戦いが始まる。
訓練ではない、命の奪い合いが。
部隊の兵士たちが、一斉に弓を構え始めた。
「お前は弓を構えるな」
ネモが言った。
「奴らが攻撃に気づけば、ここまで駆け上ってくるはずだ。俺達は、それを先頭で迎え撃つ」
私は頷いて、身に着けていた弓矢を外した。
弓矢の訓練を、私は苦手としていた。
加えて、強弓を引くような腕力があるわけでもない。
弓を射るより、敵を迎え撃つ準備に専念しろということだろう。
ネモの指示に異論はない。
部隊長の合図で、味方の矢が一斉に放たれた。
何本かが命中し、敵兵士が倒れた。
「敵兵だ! 敵襲ーっ! 敵襲ーっ!」
ベスフル兵の大声が響いた。
その声に、私はびくりと体を震わせる。
いよいよ、戦いが始まったのだと私は、実感させられた。
その大声は、あたりに他の敵兵がいれば、呼び寄せられる危険がある。
だがこちらにも、反対の崖上を行く2部隊が援軍として現れる期待があった。
「撃てーっ!」
こちらの部隊長の声。第2射が放たれる。
だが敵兵の殆どは、盾を翳してそれを防ぐ。
奇襲だった第1射と比べて、それはまるで損害を与えられていなかった。
敵兵は思ったよりも冷静だった。
第1射を受けて、特に混乱することもなく隊列を組んで、じっと耐えることを選んだ。
戦い慣れしている。
矢の数はいずれ尽きる。じきに、接近戦へ突入することは明白だった。
そうなれば、私の出番が来る。
手に汗が滲んだ。
射撃がまばらになったところを見計らい、3人の兵士が盾と槍を構えて、坂を駆けあがってきた。
来た! 来てしまった!
一度乱戦となってしまえば、同士討ちの危険がある弓矢は使えなくなる。
この3人を部隊の懐に入れてしまえば、戦況は一気に悪化すると言ってよい。
駆けあがってきた3人に向かって放たれる矢も、盾で易々と弾かれた。
「いくぞ、チェント」
ネモが肩をたたいた。
私が止める! 迎え撃つ!
大きく頷くと、私は覚悟を決めて、遂に飛び出した。
部隊の正面に躍り出る。
「うおおおおおおっ!」
だが、敵兵は止まらない。
雄叫びを上げて突っ込んでくる。
弓兵部隊の中央に切り込み、一気に勝負を決めるつもりのようだ。
敵兵から見て、私は丸腰に見えたはずだ。
私の両手には、何もない。
使い慣れた短剣も、ようやく振り回せるようになった、あのショートソードも。
これでいいのだ。
私は訓練と同じように、頭にイメージし、念じた。
大丈夫。ネモが教えてくれたとおりにやれば、私にはできる!
こちらに突き出される2本の槍。
それを、ギリギリで見切ってかわす。
ちゃんと見える! 相手の攻撃が、敵兵の槍の穂先が!
私は、すれ違いざまに、流れるような動作で──
今っ!!
私の攻撃は、彼ら2人の脇腹を、確かに斬り裂いた。
彼らの着ていた皮鎧など、問題にならない。
私の左右の手には、赤く輝く2本の刃が生まれていた。
なぜなら、この刃は金属でできた鎖帷子さえも、軽々と斬り裂くのだから。
私が生み出した魔力の刃は、鈍い輝きを放っていた。
敵兵2人が倒れ、背中越しに、味方からの歓声が聞こえてきた。
瞬時に味方を倒されて、坂を上ってきた3人目の敵兵は、たじろいでいた。
足を止めている相手に、私は容赦することなく、斬りかかる。
突き出された槍の先端を斬り飛ばすと、相手は慌てて盾を構え、身を守ろうとした。
だが、それで矢は防げても、この赤い剣は防げない。
私は構えられた盾ごと、相手の首筋を串刺しにした。
呻き声をあげて、敵は倒れ伏す。
あっという間に、敵兵3人が沈黙した。
やった! 本当に、できた!
体が軽い。
緊張で体が動かなくなるのでは、という心配が嘘のように。
ネモの言ったとおりだと思った。
この戦い方を私に教え、磨けと言ったのは、ネモだった。
「ねえ、どうして魔力の剣を習得した後まで、わざわざ鉄の剣で訓練するの?」
以前、彼に尋ねたことがある。
彼の教えてくれた魔法、魔力で作り出されたこの赤い剣は、充分な長さを持ちながらも、重さが全くない。
それゆえに、これ以上筋力をつけずとも、片手ずつで、思い通りに振り回すことができた。
「実戦の緊張感と疲労は、お前の想像以上に体の自由を奪うことがある。だが、普段の訓練でそれ以上の負荷をかけることで、実戦では、体の軽さが疲労を帳消しにしてくれるはずだ」
そんな彼の言葉は、まさに今、現実となって、私に力を与えてくれている。
残りの敵兵達は、私に驚いたのか、すぐには次がやってこない。
私は、ネモを振り返る。
彼は頷いた。
わかったよ、ネモ。
私は心の中で呟いて、地面を蹴った。坂を一気に駆け下りる。
「今のお前の持ち味は、乱戦の中でこそ生きる。斬り込んで、敵の隊列を崩すことを考えろ」
戦う前にネモに言われたことを思い出す。
先頭にいた1人に、私は狙いを定めた。
反射的に繰り出される槍を掻い潜り、心臓を一突き。
返り血がドバっと噴き出す。
戦場で、敵味方の返り血や、飛び出した内蔵に動揺して動きを止めないこと。
ネモから教わった忠告だ。
気持ちを押し殺し、隣にいたもう1人の脇腹を斬り裂いた。
敵をただの動物だと思うこと。
人と戦うのは初めてだが、獣の相手なら、あの魔王山でも何度もしてきた。
「なんだ、こいつは!?」
敵兵から動揺の声が上がる。
返り血に染まり、赤い剣を振り回す私の姿は、相手にとって死神のようにでも写るのだろうか?
さらにもう2人を、同時に斬り伏せながら、そんなことを考える。
「落ち着け! 敵は1人だっ! 一斉に掛かれ」
気付けば、私は、敵部隊の真ん中まで斬り込んでいた。
完全に囲まれている状態である。
私を目掛けて四方八方から、槍が、剣が、次々と繰り出された。
流石の私も、背中に目は付いていない。
正面と左右からの攻撃はかわせても、死角からの一撃には、対応しようもないはずだった。
私が正面からの剣を避けながら、左右の敵を斬り裂いた時、私の背中を狙って突き出された槍は、その体を刺し貫くはずだった。
大丈夫、ネモが守ってくれる。
だがその攻撃は、飛来したそれによって、受け流されてしまった。
「なんだ、あれは!?」
その時槍を防いだのは、私の周囲を漂う、3枚の赤い盾だった。
人の頭ほどの大きさを持つ3枚の盾は、私を包囲するように、フワフワと漂っていた。
私は振り向いて、動揺している兵士を、一振りで斬り裂く。
次々と上がるのは、敵兵の悲鳴や呻き声。
残る兵士達が、必死に動揺を抑え、反撃に転じてくるのがわかった。
だがそれらの反撃は尽く、防がれ、かわされ、そして、かわし切れない攻撃は、赤い盾によって阻まれた。
凄い。
私は、自身がもたらした結果に驚いていた。
「チェント、これは浮遊石という石を埋め込んだ盾だ」
あの時、ネモが私に見せたのは、薄くて丸い木の板の真ん中に、宝石埋め込んだだけの、盾と呼ぶにはあまりに頼りない代物だった。
それは何もしていなくても、フワフワと宙に浮き、漂っていた。
「この石は、魔王領周辺でもわずかしか取れない、貴重なものだ。向けられる敵意に反応するという特殊な性質を持っている」
彼が私に向かって小石を投げつけてみせると、その盾が間に割って入り、小石を防いだ。
それは不思議な光景だった。
「もちろん、こんな薄っぺらい盾では、敵の槍や剣を防ぐことはできない。そして盾を重くすれば、浮遊石の方がそれを支えられない」
彼が提案したのは、その盾を魔法で鉄より硬く強化して使うということだった。
私が魔力を込めることで、その盾は、赤く輝き、鉄よりも固くなる。
2本の魔法剣を呼び出し、3枚の盾を強化する。
それを同時にこなし続けることは、並の魔力ではできないことらしい。
大した苦労もなく、私はそれをやってみせた。
「俺には、この戦術を考えることはできても、実現はできなかったことだ。自信を持っていいぞ」
興奮気味に言ったネモの言葉を覚えている。
この初陣に私自身、今も恐怖が全くないわけではなかった。
しかし、この盾に守られる安心感。
これだけ周囲を囲まれながら、私は傷一つ負っていない。
浮遊石の盾は、魔法でただ強度を増しただけではなかった。
それだけではこの盾は、向けられる敵意だけを追って、どこまでも漂っていってしまう。
私の周囲に張り付かせ、向けられる攻撃を的確に受け流すには、ある程度、魔法で制御してやる必要があった。
今それを行っているのは、私の後方に控えているネモだった。
「いずれは、盾の制御もお前1人でこなせるようになれ。そうすれば、お前は魔王軍最強の戦士になれる」
それなら、今のままでもいいかな、と私は思っていた。
今の私には、盾の制御と戦闘を同時にこなすだけの技量がない。
だがそうである限り、彼が守ってくれるのだ。
これ以上の安心がどこにある?
20人以上斬ったあたりだろうか?
敵兵の攻撃が疎らになり、明らかに士気が乱れ始めた。
ベスフル軍にしてみれば、敵1人に、何人が斬りかかっても傷一つ負わず、味方が次々と倒れているのだ。
恐怖を覚え、攻撃が鈍るのも、仕方ないことなのかもしれない。
「今だ、突撃ぃーっ!」
後方から声がした。
魔王軍の部隊長の声だった。
敵の士気の乱れを突いて、一気に攻め落とす気なのだろう。
兵士達がショートソードを抜いて、一斉に駆け下りてくる。
ベスフル兵は、完全に浮足立っていた。
こちらの兵士の攻撃で、敵兵は次々と倒れていく。
味方の優勢を確認してから、私は後方に下がった。
「ふう……」
流石に少し疲れ、息を吐く。
まだ、心臓がどきどきしていた。
後ろから、肩に優しく手を置かれた。
相手はもちろん、ネモだった。
「ネモ、やったよね? やれたよね? 私」
振り向き、笑いかける。
考えてみれば、返り血に塗れた姿の笑顔というのは、少し怖かったかもしれない。
「ああ、よくやった。誰にも真似できない初陣だった」
褒めてくれた。
あなたのその言葉があれば、私は何とだって戦える。
何人だって殺せる。
私はそう思った。
戦いは、終結しつつあった。
敵兵の大半は倒され、敗走を始めた兵士達が背中に矢を受けていた。
「お前達、よくやってくれた」
戦いが決着すると、部隊長が私達に声をかけてきた。
「素晴らしい戦果だ。殆ど、お前達のおかげだ」
出陣の時には、私達の能力に疑問を持っていたように見えた部隊長も、すっかり態度が変わっていた。
「全てチェントの戦果です。私は僅かな援護しかしておりません」
ううん、あなたがいたから、戦えたんだよ。
私は心の中で言った。
「うむ、初陣でこの戦いぶりとは、この先が楽しみだな」
すっかり機嫌をよくした部隊長は、そう言って笑った。
この戦いで、味方への被害は殆ど出ていなかった。
完全勝利と言っていい。
「敵がこんな場所まで進軍してきたとなると、待ち伏せのポイントに着く前に、再び接敵する可能性が高いですね」
「そうだな、作戦を変更して、我々は、一度、撤退するしかあるまい」
残りの2部隊の行方はわからないが、もっとも少数であるこの部隊ができることには、限界がある。
このまま、谷の入り口まで撤退することになりそうだったが──
「隊長! 大変です!」
敗走する敵に、矢を射かけていた兵士が戻ってきて叫んだ。
「何事だ?」
「敵後方に大部隊が! おそらく、ベスフルの主力部隊です!」
「なんだと!?」
山間道の陰から、隊列を組んだ騎馬の大群が、一斉に姿を現した。
「騎馬部隊、突撃ーっ!!」
突撃命令に合わせて、大勢の騎馬たちが一気に駆けてくる。
狭い山間道では、敵部隊の全体は見渡せなかったが、聞いていた話だけでも、敵主力の人数は、今のこちらの千倍近いはずだった。
勝てるはずがない。
「まずい、全員撤退しろ! 今すぐだ、急げ!」
こちらの部隊長が叫ぶ。
だが、戦闘直後で隊列が乱れていた兵達に、すみやかに撤退する準備は整っていなかった。
敵の騎馬は、坂道をものともせず、丘を駆けあがってくる。
先頭にいた兵士数名が、真っ先に彼らの槍の餌食となった。
「チェント、逃げるぞ!」
叫ぶネモにも余裕がない。
崖を行けば、登り切る前に無防備な背中を刺される。
山間道を行けば、騎馬のスピードを振り切れない。
一斉に逃げれば、仲間を犠牲にして数人は生き残れるかもしれないが、何人が死ぬかはわからなかった。
「ネモ! 敵が!」
私は、叫んだ。
彼のすぐ横まで、敵の騎馬が迫っていたのである。
「うおっ!?」
彼は辛うじて、手持ちのショートソードで、相手を槍を受け止めた。
「ネモ!」
「大丈夫だ、お前は先に逃げろ!」
ネモは相手の槍を、歯を食いしばって受けながら、そう叫んだ。
その間にも、新たな騎馬が次々と迫り、味方の兵が倒されていく。
どうしよう?
ネモを置いて、先に逃げる?
私が逃げ切ったとして、ネモは後から追いついてくる?
いや、この状況に取り残されて、生き延びられるわけがない。
そもそも、私が逃げ切れる保証だってない。
どうする? どうすればいいのか?
私は考えた。
そして、私は地を蹴った。
「ぐあっ!?」
私の剣の一振りを受けて、ネモと斬り結んでいた敵兵は、血を噴いて倒れた。
続けざまに、すぐ後に迫っていた騎兵3人を立て続けに斬り裂く。
3人が倒れたことを確認してから、私はネモを守るようにして、2本の赤い剣を構えて立った。
「チェント、何をしている! 逃げろと言っただろう!」
彼は、必死に叫んだ。
「お前ほどの戦士が、こんなところで命を落としていいわけがない。早く逃げるんだ!」
「ごめんなさい、ネモ」
私は、落ち着いた声で答えた。
先ほどの戦いの後、一度は片付けた3枚の盾を、再び取り出して浮かべる。
「手伝ってほしいの。あなたが守ってくれないと、私、死んじゃうから」
念じて、漂う盾に魔力を込める。
次の敵が、続々と迫ってきていた。
「だが……」
「お願い、ネモ。私が死んだら、あなたを守れない」
盾が赤く輝き始める。
「……くっ」
ネモが覚悟を決めたように、前に左の掌を翳すと、ゆらゆら浮いていただけの盾が、意志を持ったように、私の周囲に張り付いた。
これで大丈夫。
体に火が灯る。
私は地面を蹴った。
まず、近くに来ていた騎馬の首を落とし、落馬させる。
騎手に止めを刺そうとすると、周囲の騎兵が一斉に私に襲い掛かってきた。
無数の槍が、次々と突き出される。
全ては避けきれない。
避けきれるだけ避ける。
残りは盾に任せる。ネモを信頼する。
一撃だけ、体をかすめた。
大丈夫、鎧を削られただけで、肌までは届いていない。
騎手を斬る、騎馬を刺す、騎手と騎馬を同時に貫く。
周囲を取り囲んだ騎兵は6人。
それを一気に片付けた。
多少疲労は感じるが、まだまだ戦える。
「なんだ、あれは!?」
「化け物か?」
気付いた周りの敵兵達の注意が、一気に私に集まった。
だが私の戦いぶりに驚いたのか、すぐにはかかってこない。
そうだ。それでいい。
盾を制御している間のネモは、殆ど無防備だ。
私が敵を引きつけなければ、彼を守れない。
私が奮戦している間にも、味方の兵士は次々と倒されていく。
駄目だ、敵が多すぎる!
このままでは、たとえ私が持ちこたえても、ネモにまで被害が及ぶのは、時間の問題だった。
なんとかしなければならない。
私は、大軍の中心に目を向けた。
そして、そこに見つけた。
黒い騎馬に乗った、ベスフルの兵団長の姿を。
確か、名前はローラントという人だったか?
私がベスフルにいた頃に、面識があった。
直接話をしたことは、一度もなかったが。
ベスフル軍の名目上の総大将は、あのフェアルス姫ということになっているようだったが、実際に兵を指揮しているのは、兄ヴィレントか、この人のはずだった。
今、周囲に兄の姿はない。
この人がこの軍を指揮していると考えて、間違いないようだった。
私は丘を一気に駆け下り、大軍の中心に突っ込んだ。
「チェント! 無茶だっ!」
ネモの悲鳴のような叫び声。
だが、もう止まるわけにはいかない。
戦いを見ていた臆病な兵士達は、突っ込んでくる私を、慌てて避ける。
それでいい。今は雑兵に用はない。
大軍の前には、道を埋め尽くさんばかりの歩兵達が、槍と盾を構えていた。
「奴を近づけるな!」
敵兵の指示が飛ぶ。
一糸乱れぬ動作で、槍が同時に突き出された。
そんなものっ!
私は、それをジャンプで避けた。
空中で逆さになりながら赤い剣を振るい、一回転して着地する。
敵兵の首が5つほど、宙を舞った。
私の着地を狙って2本の槍が伸びるも、赤い盾が的確に受け流す。
この距離でも、ネモの制御はちゃんと届いている。
盾に弾かれた槍を叩き斬ってから、周囲の兵士が驚き止まっている隙をついて、一気に大軍のど真ん中を駆けた。
見えた!
慌てて槍を構えるローラントが目に入った。
「覚悟っ!」
左手の剣を一閃させる。
まだ、馬上の相手に届く距離ではない。
私の一撃は、突き出されたローラントの槍の先端を斬り飛ばし、あっさりと無力化した。
いける!
右手の剣を、ローラントの首目掛けて突き出す。
もらった、と思ったところで、硬い手応えが右手を襲う。
ローラントの鉄の剣により、私の剣は防がれ、噛み合っていた。
彼は、槍が無力化されたことを瞬時に判断して捨て、腰の剣を抜いていたのである。
さすがに、ベスフルの兵団長ということか。
「お前は……ヴィレント・クローティスの? なぜ、魔王軍にいる!?」
私のことを覚えていた?
私はそれには答えず、戸惑っている相手に、容赦なく剣を繰り出す。
2合、3合と打ち合う。
刃と刃がぶつかるたびに、火花が散った。
私の魔力剣は、槍の柄は一撃で斬り飛ばせても、流石に鉄の刀身は、すぐには壊せなかった。
ローラントと斬り結ぶ間にも、周囲の兵士達が槍と剣とを左右と背後から突き出してくる。
それをかわし、あるいは斬り払い、盾で受ける。
何発か、肌と鎧に掠る。
だが、今は掠り傷など気に留めてはいられない。
動きを止めれば、多分あっさりと殺される。
死にたくない。
必死に恐怖を振り払い、剣を振るう。
兵団長ローラントと斬り結んで、確信したことがある。
この人と戦っても、1対1なら絶対負けない。例え盾がなくとも、今の私の敵じゃない。
改めて、自分の成長を実感する。
──今まで教えてきたどんな奴とも次元が違う──
あの時、ネモが私のことを評した言葉の意味を噛み締める。
私は……強くなった!
その自信が、折れそうになる私の心を支えた。
しかし、周りの攻撃を捌きながらでは、中々ローラントに決定打を与えられないでいた。
ならばっ!
私は標的を変え、彼の乗る黒馬の首を斬り落とした。
「しまった!?」
突然のことにバランスを崩したローラントは、馬の後方に逆さに落馬し、肩を地面に打ち付けた。
チャンス!
私は止めを刺すべく、走る。
「まずい! 兵団長を守れっ!」
敵兵の声が響き、数人の歩兵が私の行く手を遮った。
さっきのように跳び越えるには、助走が足りない。
もう少しなのに!
歩兵達の槍と盾を斬り飛ばし、強引にかき分ける。
兵の隙間から見えたローラントは、副官らしき兵士に肩を支えられ、後方に引きずられていた。
歩兵をあっさり蹴散らす私の姿を見て、彼らの表情に明らかな焦りが見える。
周囲の兵士達は指揮官を逃がすべく、慌てて道をあけていた。
狭い山間道に、これだけ大勢の兵士がひしめき合っているのだ。
簡単には逃げられない。
私は走った。
「一度、下がって体勢を立て直すぞ! 全軍後退っ! 急げーっ!」
副官が必死にが叫んだ。
このままでは、兵団長を討ち取られる危険があると判断したようだった。
後ろの大軍が瞬く間に後退していく。
その間、歩兵数名が、私の追撃を食い止めるべく残り、必死に抵抗を続けた。
それらを夢中で斬り倒しきった時には、残る敵の大軍は遥か視界の向こうに消えていた。
静寂が訪れる。
た、助かった……?
私は魔力剣を消し、その場にへたり込んだ。
危機が去ったことをすぐには実感できなかったが、直後に、味方の大歓声が私を取り囲んだ。
すげえぜ、英雄だ、まるで軍神だ、等々、称賛の言葉が飛び交っていた。
私は、戸惑いと照れが混じった表情で、周囲を見渡した。
味方の受けた被害は、決して少なくないようだったが、生き残れたことが奇跡のようなものだ。
ネモが寄ってきて、私の頭に手を置いた。
「無茶のし過ぎだ。本気で肝を冷やしたぞ」
そう言う彼は、怒りというより、安堵の表情を浮かべていた。
「心配かけてごめんなさい」
私が上目遣いでそう言うと、彼は私の頭を優しく撫でた。
「お前が無事で良かった」
あなたのおかげだよ、と返した。
彼の盾の援護がなければ、私の体はとっくに槍で貫かれていたはずだった。
私を守るために、彼も必死に動いてくれたのだ。
これは、私達2人で得た戦果だった。
部隊長が、敵が戻る前に撤退する、と宣言し、全員が速やかに準備にかかる。
私もへとへとになりながらも、ネモに支えられ、谷を後にした。
私達の部隊が上げた戦果は、同数以上の敵部隊の殲滅と、敵大部隊を一時撤退に追い込んだことだった。
それは、部隊の規模を考えれば破格の戦果と言って良いようだ。
谷を抜け、魔王軍の砦にいる主力部隊と合流、部隊長が状況を報告する。
最も少数であったはずの私達の部隊が上げた戦果に、驚きの声が上がった。
部隊長は、今回の戦闘での私の戦いぶりを隠すことなく、そのまま砦の指揮官に伝えていた。
直接、戦いを見ていない砦の指揮官や兵士達は、私に疑いの眼差しを向けてきたが、それも仕方のないことなのかもしれない。
私自身も、今日の戦果には驚いているのだから。
その後私達に、驚きの情報が、砦の指揮官よりもたらされた。
「魔の谷の作戦で生き残ったのは、お前達の部隊だけだ」
私達とは別行動をとっていた2部隊、彼らはほぼ全滅していたのだという。
僅か数名の生き残りが、私達より先にこの砦に到着し、その事実を伝えていたらしい。
全滅の報告を聞いた時、私達が想像したのは、きっと先にあの大部隊と遭遇してしまい、なす術もなくやられたのだろうということだった。
だが、その想像は違っていた。
彼らが交戦したのは、別の部隊だった。
彼らは、私達とは逆側の崖道を行く途中に、少数の部隊と遭遇、交戦したのだという。
そして、彼らより人数で劣るその敵部隊に、殆ど損害を与えることなく、2部隊は全滅したそうだ。
報告によると、その結果をもたらしたのは、敵部隊の強さというより、その先頭で剣を振るう1人の男の異常な強さによるものだということだった。
「敵にもそのような強者が? いったい何者だ?」
部隊長が聞き返す。
そんな話を聞かされて、私にとって思い当たる人物など1人しかいない。
指揮官の口から出たその名前は、
──ヴィレント・クローティス──
血が止まらないよ……
痛い、痛いよ。
私は、鼻を手で抑えながら泣き喚いた。
顔を殴りつけた兄は、どこかに行ってしまった。
指の隙間から、ダラダラと血が溢れてくる。自分でも、初めて見るような出血の量だ。
このまま死んでしまうのではないかと思えた。
まだ、死にたくない。死にたくないよ……、父さん、母さん!
床に仰向けに寝転がっても、鼻の奥から血が溢れてくる。
……うっ
血が喉の奥までまわり、息が詰まって跳び起きる。
激しくむせ返ると、溢れる血が飛び散り、床を汚した。
どうしてこんなことになったの?
助けて、誰か助けて!
どれだけ泣き叫んでも、その言葉は、誰にも届くことはない。
それでも、私は叫び続けた。
目を覚ますと、石の天井があった。
砦の休憩室。
立ち並ぶベッドに、多くの負傷兵が包帯を巻かれて寝ており、苦悶の表情と呻き声が、部屋中に充満していた。
こんな場所で寝たから、あんな夢を見たのだろうか?
子供の頃の夢。
兄に毎日のように殴られ、蹴られ、血を流したあの日々。
ネモと過ごす毎日が、あまりにも甘美で、忘れつつあった、苦しみの日々。
最近は、殆ど見ることがなくなっていたはずなのに。
周りを見る。
寝る前より、負傷兵が増えている気がする。
戦況は……よくないのだろうか?
私は、立ち上がり、部屋を出た。
「もう起きたのか?」
砦の廊下にネモがいた。
「あんまり、眠れなかったの」
ここが城の自室なら、彼の胸に飛び込んで、怖い夢を見たの、と甘えていたと思う。
流石に砦の中では、人目につくので、我慢する。
あの魔の谷の戦いから、数日が経過していた。
激戦を終えたばかりの私達は、前線の戦いへは参加せず、砦での待機を命じられた。
人数で勝るこちらは、野戦を挑み続け、一進一退の攻防が続いていると聞いている。
窓から見える砦の外の景色は、夜明けが近づいていた。
「ネモは戦況を聞いたの?」
「いや、直接は聞いていないな」
私達は、ここでは正式な所属を持たない兵士だった。
本来は、魔王直属の部下ということになっている私達は、今回、王の後押しで、魔の谷を攻める部隊に、無理矢理、組み込まれたに過ぎない。
周囲からは露骨に疎まれ、これ以上出しゃばるなという空気が、伝わってくるようだった。
「戦況を聞いてはいないが、大体、想像は付くな」
ネモの言葉に私も頷く。
数日、大勢の兵士達が出陣しては、夜更けが近づくと砦まで退却してくる。
日に日に負傷兵は増え、兵士達の顔色も暗い。
その様子は、相手を追い詰めているというようには、とても見えなかった。
その時、足音が聞こえ、廊下の向こうから、1人の兵士が私達に駆け寄ってくるのが見えた。
「何の用だ?」
ネモが応対する。
「はっ。次の作戦会議に、お2人にも出席をお願いしたいと、大隊長からの要請です」
私達は顔を見合わせる。
戦況の僅かな情報すら伝え渋っていた彼らが、今更、私達に何の用なのだろう?
ここで考えていても仕方ないことではあった。
私達は、頷きあってから、
「わかった、行こう。案内してくれ」
兵士の後ろを付いて、作戦会議室へと向かった。
「おおっ、来てくれたか!」
ドアを開けると、数人の小隊長達が、テーブルを囲んで、向かい合っていた。
歓迎するように声を上げたのは、魔の谷で、私達と共に戦った、あの時の部隊長だった。
他の男達の私を見る目は、依然として険しく、なんでこんな奴らを呼んだんだ? と今にも言いたそうだった。
「こんな小娘共に、この状況を打破できると、本当に、思っているのか? ロイオンよ」
会議の中心に居た大隊長が、あの部隊長──ロイオンに向かって尋ねた。
大隊長が呼んでいると聞いてきた私達だったが、実際は、彼、ロイオンの進言によって連れてこられたようだった。
「ああ。以前も説明したが、我々の部隊は、この2人がいなければ、あの谷の戦いで全滅していただろう。今、我々が戦っている敵の主力部隊を、あの時、単独で撤退に追い込んだのだ。現状、この砦にいる人材の中では、間違いなく最強の兵士だ」
ロイオンは、興奮気味にまくしたてる。
「そうまで言うか? こんなよそ者の小娘に……」
その場にいる殆どが、私達に疑いの目を向けてきていた。
「戦いに加えて頂けるというのであれば、我々にも、戦況を聞かせてください」
そんな中でも、ネモは平然と彼らに尋ねた。
その態度は、多くの小隊長の癇に障ったようだが、ネモは気にも留めていないようだった。
「ふん……、貴様等が、どれほどの役に立つか分かったものではないが……まあ、いいだろう」
大隊長は、戦況を説明し始めた。
大隊長が話した戦況からわかったことは、魔王軍が日々じりじりと、ベスフル軍に押され始めているということだった。
最初は数で圧倒していたはずの魔王軍も、大隊長の口ぶりから、今となっては戦力差で勝っているか怪しいように思えた。
「あの男、ヴィレント・クローティスを止めない限り、我々に勝利は難しい」
それが、彼らが苦い表情で出した結論だった。
こちらの主力と敵の主力が戦っているところで、側面、あるいは背後から、兄が率いる少数部隊が奇襲をかけてくるというのが、ベスフル軍の戦い方だという。
兄は魔の谷の時と同じような、少数の部隊を率いて攻めることを得意としているようだった。
魔王軍は、初戦で辛酸をなめることにはなったが、その時は、特に大きな焦りはなかったのだという。
わかっていれば、どうとでもなる。
兄ヴィレントの予想外の強さに驚きこそしたものの、所詮1人の人間。
率いているのも、100人に満たない小数部隊だ。
そう思い、余裕を持って迎えた、2度目、3度目の戦い。
彼らは初戦以上の苦汁を、味わうことになった。
2度目、兄の部隊の出現を的確に読み、その3倍近い部隊を差し向けて取り囲んだ。
倒せずともよい、主力同士の戦いの間、奴らを足止めできるだけでも充分だと睨んでいた。
だが、3倍の兵力を持つその部隊は、あっさりと突破を許してしまった。
敵にしてみれば、別に向かってくる相手全てを倒す必要はない。
突破できる場所を見つけて駆け抜け、こちらの主力の隊列をかき乱すことができれば、兄の役目は果たされている、ということのようだった。
そして、3度目、こちらの軍は重装兵部隊を差し向けた。
倒すことは考えなくてもよい。
重い甲冑を着込んで大盾を構えたその部隊は、簡単に倒れることはなく、歩兵主体の兄の部隊を確実に足止めするはずだった。
しかし、兄は重装兵部隊を確認すると、それを無視し、あっさりと迂回して主力に襲い掛かったのだという。
機動力で劣る鈍重な重装兵達は、それを食い止められなかった。
数で勝る敵を蹴散らす突破力と少人数の軽装歩兵による機動力を併せ持つ、それが兄の率いる部隊だった。
「あれを殲滅するには、大部隊で包囲して一斉に叩くしかない」
大隊長は言った。
だがそれをすれば、今度は敵主力部隊への対応ができなくなる。
初戦の前ならあるいは、全部隊を二分すればそれも可能だったはずなのだが、数を減らされた今の状況で部隊を半分に分ければ、敵主力を食い止められない。
八方ふさがりの状況だった。
そこで、兄の部隊をわずかな手勢で食い止められる方法があると進言したのが、小隊長の1人、ロイオンだったそうだ。
その時上がったのが、私達2人の名前だったらしい。
彼は魔の谷での私達の戦いぶりから、兄を止められる可能性があると判断したのだという。
「今、この砦にいる兵士で、ヴィレントに対抗しうるのは、この2人しかいない!」
ロイオンは右手を広げ、私達の前でそう力説した。
そして今、私達は戦場にいる。
大部隊の最後尾。
まだ戦いは始まっていない。
斥候の兵士が兄の潜伏場所を探し出し、私達に伝えてくれる手筈だった。
「緊張しすぎだ。顔が強張っているぞ。もう少し肩の力を抜け」
横からネモにそう声を掛けられて、はっとする。
私は緊張していることを、自覚していなかった。
大きく息を吐く。
掌を目の前に広げると、震えているのがわかった。
私、兄さんと遂に、直接戦うんだ……
恐れ、避け続けたあの兄と、直接、真っ向から。
魔の谷の作戦の時から、兄との直接対決をまったく予想しなかったわけではない。
だがあの作戦も、元々は崖上からの援護だけと聞いていたし、今後も数万人がぶつかる広い戦場で、たった2人が偶然相見えることなどそうそうないと、心のどこかで逃げていたのかもしれない。
あの谷でも、結果的に剣を振るう羽目になったのだ。
少し間違えば、あの時兄と出会い、剣を交えていたかもしれない。
あの初陣で兄と戦うことになっていたら、私は落ち着いていられただろうか?
今、戦う前からこんなに震えていては、初陣での交戦はかなり厳しいものになっただろうと思う。
そう考えると、今回の戦いに参加したこと自体、かなり危ういことだと思えた。
「ネモ。私は兄さんに勝てると思う?」
作戦が始まる前に、もう何度も似たような質問をした気がする。
だが、この場で自分を落ち着かせるためには、聞かずにはいられなかった。
「俺は、ヴィレント・クローティスの戦いぶりを、直接見たことはない。だから推測しか言えないぞ?」
ネモは正直にそう答えた。
構わないから聞かせて、と私は返した。
ネモは頷いて、
「俺の見解では、今のお前に単独で勝てるのは、魔王領内でも魔王様ぐらいだと思っている」
もちろん現状は、俺が盾の制御を行った場合に限りだが、と彼は付け加える。
「それでも、まだ不安がある」
「それは……、もし兄さんが、魔王より強かったら……?」
彼は首を横に振った。
「俺が心配しているのは、そこじゃない」
彼は続ける。
「ヴィレント・クローティスの活躍を聞いたとき、お前と瓜二つだと、俺は思ったよ。お前の初陣の活躍を喜んでいたら、敵陣にまでお前がもう1人現れたような気分だった」
長い間、恐れてきた兄と瓜二つだと言われるのは、少し複雑な気持ちだった。
「お前達兄妹は、それぞれに比肩しうる才能を持っている。片方は実戦で長い時間をかけてじっくり腕を磨き、片方は訓練によって短期間で急激に成長した」
ネモは、そう分析する。
「俺は、お前が実力でヴィレントより劣るとは思っていない。俺が心配しているのは、経験の差だ」
経験……。
確かに兄は、両親が死んだ以降から、長い間、戦い続けていたはずだった。
「お前は、次でまだ2度目の戦場だ。圧倒的に経験が足りていない。何か不測の事態が起きた時、お前はそれでも冷静でいられるか?」
不測の事態、って何? と私は問い返す。
「例えば、俺が戦死した時だ。盾の制御はできなくなる。その時、お前は冷静に判断して、戦いを継続するか、撤退するか、選べるか?」
予想外の質問に、私は面食らう。
「えっ、なにそれ? 嫌だよ、ネモ。そんなこと考えないで! 私、あなたがいないと生きていけない!」
思わす彼の両肩を掴み、詰め寄って、泣きそうな顔で訴えた。
そんな私に、彼は苦い顔をして言った。
「戦場では、それだって可能性の1つだ。いや、戦死までいかなくとも、俺が両腕を負傷すれば援護はできなくなる。全力を発揮できなくなった状況で、それでもお前が冷静でいられるかということだ」
「それは……」
ネモは砦の会議でも、今の作戦に最後まで反対していた。
「チェントはまだ初陣をこなしたばかりです。そのような重大な役目を受けられる状態ではありません!」
彼は、あの場で必死にそう訴えていた。
「何をそんなに恐れる必要がある? あの谷での戦いを思えば、ヴィレント・クローティス1人如きを相手にすることに、何の不安があるというのだ?」
声を荒らげるネモに、ロイオンがそう言った。
「自信を持て。ここで武功を上げれば、ここにいる連中も認めざるを得ないだろうしな」
その言葉を聞いても、ネモの渋い表情は崩れなかった。
ロイオンの後押しと、最終的には私自身が、やります、と答えたことで、作戦決行が確定した。
大隊長や他の小隊長達は、もし失敗して私達が欠けても大した戦力の損失ではない、という消極的な理由で、反対しなかったようだった。
ネモはあの時から、経験不足な私の危うさを、ずっと心配していたのだろう。
私達に対しての信頼が得られるなら、と私はあの時、安易に返事をしてしまっていた。
ネモの気持ちも考えないで。
俯いている私に、今度はネモの方が肩に手を置いた。
「作戦が決まった以上、敵前逃亡すれば魔王領にはいられなくなる。もう腹を括るしかないぞ、チェント」
いつもの訓練の時と同じ、厳しい口調で、ネモが言った。
今は優しい声で言われるより、気が引き締まる。
私は大きく頷いた。
彼のその一言で、気付けば手の震えも止まっていた。
ネモは、今回の私の決断を攻めなかった。
ならば私も、それに応えなければならない。
私達に与えられた作戦は、ごく単純なものだ。
斥候から兄の場所を伝え聞いたら、小部隊を率いて交戦、彼らを敗走させること、である。
砦の前に広がっている戦場は、あちこち起伏が激しく、人が身を隠せる程度の高さの丘がいくつもあった。
兄の部隊は、いつも夜の間に移動し、こちらの主力部隊の動きを待ってから姿を現すのだという。
私達に付いてくるのは、魔の谷で共に戦った、ロイオンの部隊だった。
ロイオン自身は、主力部隊の方に合流しており、部下達だけを借り受けた形になる。
彼らとは、あの戦いで一定の信頼が築けていた。
他の兵士達では、おとなしく私達に従ってくれない可能性があったため、ロイオンが気を利かせてくれたのである。
「俺の部下達をよろしく頼むぞ」
彼からはそう頼まれ、部下達もそれを快く引き受けてくれた。
私達2人だけでなく、彼らの命もあずかっていることになる。
負けられない戦いだった。
斥候の兵士が、こちらに駆けてくるのが見えた。
彼は私達の前に跪くと、顔を上げて言った。
「報告します。ヴィレント・クローティスの部隊を発見しました!」
遂に来た。
それは、主力部隊の大隊長にも伝えられる。
兄の部隊を迎え撃つのと、主力同士の戦いは、同時でなければ意味がない。
私は立ち上がり、斥候の案内に続いた。
「いくぞ。全員、チェントの後に続け!」
部隊に指示を出すのは、ネモの役目だ。
私がどれだけ強かろうと、軍の指揮経験はないからだ。
いよいよ、作戦が始まった。
私は、覚悟を決めて進んだ。
体力を消耗しすぎない程度の速さで、私は地を駆ける。
ネモから受けた訓練のおかげで、少々のことでは疲れない。
しばらく進んだところで、案内の兵士が立ち止まった。
つられて私達も、一斉に足を止める。
「あの場所です。あの丘の向こうに、奴らが潜伏していました」
彼が指差すその先は、今は静かなものだった。
「既に移動している可能性もあります。私が様子を見てきます」
私達は頷いて、その場に待機する。
ここに兄がいるのだろうか?
彼は姿勢を低くして、小走りで丘へと昇って行った。
それは、危険な役目のはずだった。
私はその背中を、じっと見守る。
何かあればすぐに動き出せるように、そして浮遊石の盾もいつでも展開できるよう準備する。
丘の頂上が近づくにつれて、相手に見つからぬよう彼はさらに姿勢を下げていく。
まだ、丘の周りは静かだ。私達にも緊張が走った。
彼がまさにてっぺんに差し掛かろうとした瞬間、
「!?」
丘の向こうから飛び出した何かが、彼の脳天を叩き割った。
遠目からでもわかるほどに血が噴き出し、彼は転がるようにして崩れ落ちた。
数ヶ月前の私なら、悲鳴を上げていた光景だった。
そして、血を流して倒れ伏した兵士の向こうから、敵部隊がぞろぞろと姿を現したのだ。
あれは!
人数は私達と同じくらい。100人に届かないような部隊だった。
彼らは雄叫びを上げて、一気に丘を駆け下り始めた。
その先頭を駆ける金髪の剣士。
見つけた。
数ヶ月ぶりに見る姿だったが、見間違うはずものない。
それが兄、ヴィレント・クローティスの姿だった。
「敵襲だーっ! 全員、迎え撃てっ!」
味方の声が響く。
「ネモ、援護をお願い」
私も前に出た。
「任せろ!」
ネモの声を背中に聞き届け、盾を広げて走る。
駆けながら2本の赤い剣を呼び出し、展開した盾に赤い光を灯した。
遂に、この時が来た。
私の目指す相手はただ1人。
駆け下りてくる兄が、私の存在に気付いた様子はない。
遠目だというのもあるだろうが、兄の知っている私は、ひ弱で、臆病で、泣き虫で、何もできない、戦場に出て剣を振るえるような女ではないからだろう。
だが、もう兄を恐れて何もできない私は、もういない。
さっそく思い知らせてやろう。
私は一直線に、兄の元へと走った。
お互い、間合いに入る直前まで、一度も足を止めることはなかった。
まっすぐぶつかり、全力で剣を振りかぶる。
剣と剣がぶつかり合った。
「!!」
兄は剣を頭上からまっすぐ振り下ろし、私はそれを剣を×の字にして両手で受け止めた。
凄まじい剛剣。凄まじい打ち込み。
腕が壊れてしまうかと思った。
だが、なんとか耐え抜く。
お互いのただならぬ技量を感じ取り、私達は一旦距離を取った。
息を吐く。
兄は鉄の剣を構え、鋭い目をして立っていた。
かつて夢で見た姿と、まるで同じように。
私はその目をまっすぐ見た。
「兄さん、久しぶり」
そんな言葉が自然に飛び出したことに、私自身が驚いた。
久しぶりなのは本当だ。
兄と会うことが、そしてそれ以上に、言葉を交わすことが。
声を聞いて、ようやく兄も相手が私だと気づいたようだった。
「チェント、なぜお前がここにいる? ここで何をしている?」
私を見た兄の表情には、僅かに動揺が見て取れた。
だが、鋭い眼光は崩さない。
剣を下ろして構えを解くようなこともしない。
剣を突きつけ昔と同じように、いや、昔以上の険しい表情で私を睨んでいた。
「見てわからないの? 私、魔王軍にいるの。兄さんの敵になったの」
自分の顔が笑っているのがわかった。
兄の驚いた顔を見るのは、初めてかもしれない。
少し気分が晴れる。
だが、この程度のことで、私の受けた苦痛が返せたわけがなかった。
今度は私から仕掛ける。
2本の赤い剣を左右交互に振るい、攻撃を仕掛けた。
兄は一撃目の横斬りを剣で受け流し、次の突きを首すれすれでかわす。
直後に電光石火の勢いで、カウンターの一撃が返ってきた。
私では完全に反応できないそれを、赤い盾が防ぐ。兄に微かな動揺が見えた。
完璧に捉えたと思った攻撃を予想外のものに防がれて、そこには隙が生じる。
今だっ!
私は踏み込んで、両手を一閃させる。
しかし、兄はギリギリのタイミングで、後ろに跳んでそれをかわした。
再び私達は、距離を取って睨みあった。
既に周囲では、味方敵の部隊同士の交戦が始まっていた。
だが、私達の間には、誰も踏み込むことはできない。
兄が私に向かって口を開いた。
「お前が、俺を憎む理屈はわかる」
兄からそんな言葉が飛び出し、私は少し驚いた。
この期に及んで、この人は何を言っているのだろう?
今更どう言い訳したところで、私の過去に味わった痛みは、苦しみは、消えないのだ。
「それでも向かってくるなら、容赦なく殺すぞ」
私の目を睨みながら兄が続けたのは、そんな言葉だった。
謝罪の言葉など、ありはしなかった。
私も元から、そんな言葉は期待してはいなかったが。
そもそも、兄はさっき"理屈はわかる"と言ったのだ。
"気持ちはわかる"とは決して言っていない。
私が味わった地獄など所詮、この人にはどうでもいいことなのだろう。
いや、それでいい。
だからこそ、私は何の罪悪感もなく、あなたに剣を向けられる。
剣を構えなおす。
次は2人同時に、私と兄は地を蹴った。刃と刃が再びぶつかり合う。
何合も何合も、私達は剣をぶつけ合い、火花を散らした。
兄の剣は何度か、赤い剣をすり抜けて私の体を捉えそうになったが、その度にネモの制御する赤い盾が、的確にそれを阻んだ。
私の赤い剣も、何度か兄を捉えそうになるが、惜しいところで回避される。
……凄い!
私は興奮していた。
予想を遥かに上回る、兄の強さに。
あの兵団長ローラントなど、問題にならない強さ。
これだけ打ち込んでも、掠りもしない反応速度。
魔の谷での戦いの時は、私は何十人もの相手を同時にしながら、殆ど反撃をもらわずに立ち回ることができた。
だが、これは1対1の戦いなのに、あの時以上の恐ろしさがあった。3枚の盾がなかったら私はとっくに死んでいる。
これがベスフルで"英雄ヴィレント"と呼ばれた、兄の強さなのだろう。
互角の条件で戦っていれば、多分、私に勝ち目はない。
だが、それでもいい。私の目的は、兄の強さを超えることなどではないからだ。
そして、決してまったく届かない強さではない。剣を交えながら、私はそう感じていた。
今は、ネモと2人でこの人を倒す。
ただそれだけを考えて、ひたすら全力で剣を振るった。
兄の何度目かの反撃。
私の剣と剣の間を縫うようにして、強烈なカウンターの突きが私に襲い掛かった。
「ひっ!?」
あまりの勢いとスピードに、思わず声が漏れる。それは正確に、私の首元を狙って繰り出されていた。
本来は防げるはずのないタイミング。しかし、赤い盾はそれにさえも瞬時に反応し、真っ向から突きを受け止める。
恐怖に体が一瞬凍り付く、それほど恐ろしい突きだった。
ふう……
命拾いした。胸を撫でおろす。だが──
「避けろ、チェント!!」
ネモの上げた声に反応し、反射的に体をそらす。
次の瞬間、兄の右手で繰り出された剣は盾を真っ二つに割り、私の元いた場所に突き出されていた。
私の魔力で鉄のような堅さまで強化されたはずの盾をバラバラに。
割られた盾は地面を転がり、光を失ってただの木の盾に戻った。
「まず1つ目」
あくまで落ち着いた声で、兄が呟く。
私は後ろに大きく跳び、仕切りなおすために距離を取った。
盾を見ると、中央の浮遊石が粉々に砕かれている。
私は悟った。
本来は攻撃を受け流して相手の力を反らすはずのこの盾の守りを、兄は盾の中心を的確に何度も突くことで、受け流しを封じて盾そのものを破壊まで導いたのだ。
しかも、その間の私の攻撃を全てかわしながら。
その技量には感服するしかない。
これが、英雄ヴィレントの実力。
「チェント! 大丈夫か!?」
心配そうなネモの声が響いた。
こんな形で盾が破られることなど、彼にとっても予想外だったのだろう。
その声には焦りが見える。
「大丈夫、まだ負けてないよ」
兄からは視線を外さないまま、私は答えた。落ち着いた声で。
私が焦れば、彼がいつも落ち着かせてくれる。彼が焦った時は、私が落ち着かなければ。
私達は2人で戦っているのだから。
「まだ盾は2つ残ってる。だから大丈夫」
強がりを言っているつもりはない。
私も兄も、僅かではあるが軽く息が上がっていた。
お互いまだまだ戦える。だが、兄も決して消耗していないわけではないのだ。
きっと勝算はある。剣を構えなおす。
兄に休む暇を与えてはいけない。
もう一度前に跳び、私は大きく踏み込んだ。兄も剣を構えなおす。
再度、接近戦が始まる。
今、狙うべき場所は1つ。
私は前に出ながら、左手の赤い剣を振り上げる。
そして兄の胸元を狙って、思い切り振り下ろした。
だが兄はこちらの予想通り、自身の剣であっさりそれを受け止める。これは想定内。
今だっ!
私は右手の赤い剣を、左手の剣に十字に合わせるように叩きつけた。
激しい火花が散る。歯を食いしばって私の全力を込めた。
それが持ちこたえたのは、そう長い時間ではなかった。
「!?」
派手な異音を立てて、遂に兄の剣が折れる。
私の2本の剣は、兄の剣の守りを突き抜け、その体に襲い掛かった。
だが兄はそれを本当に、本当にギリギリのところで体を反らして避け、後ろに下がった。
あのタイミングでまた逃した。どこまでも驚異的な反応。
しかし、形勢は完全に逆転した。
兄の剣の切っ先は、ちょうど刃の長さ半分程度のところで、砕け飛んでいた。
やった!
狙い通り。あれだけ何度も、私の赤い剣と刃をぶつけあっていたのだ。以前から槍の柄程度なら、一振りで斬り飛ばしてきた私の魔力剣と。
むしろ兄の剣は、ここまでよく持ちこたえたと言うべきなのだろう。それなりの業物だったのかもしれない。
大きく息を吐く。思わず笑みがこぼれた。
勝てる! 私、兄さんに勝てる!
長い間、私を苦しめてきたこの人に、遂に一矢報いるのだ。
一方、兄は大きく焦りを見せることなく、構えたまま折れた切っ先を見つめていた。
武器を壊されても落ち着いている。一瞬、退却するかもと考えたが、今のところそういう様子はなかった。
どのみち退却を許すわけにはいかない。
こちらは貴重な盾を一枚失ってしまったし、武器を整え直されて再戦ともなれば、次の結果はわからないからだ。
私はじりじりと、ゆっくり間合いを詰めていった。
油断はしない。隙を見せたら、一撃で決める。
兄は先程から同じ姿勢で、折れた剣を構えたままピクリとも動かない。
味方もまだ戦っている。まだ、どちらが優勢ともいえない状況に見えた。
ここで兄を討てれば、士気は一気に傾くはずだった。
あと数歩踏み込めば、剣が届く。その間合いまで近づいた瞬間、私は仕掛けた。
目一杯姿勢を低くして迫る。
「はっ!」
そして2本の剣で、今まで以上の激しい攻勢に出た。
相手のリーチは半減している。間合いの外からの攻撃なら、そう簡単に反撃を許さない。
兄は必死に、赤い刃をかわしていた。
防御に剣を使っていない。これ以上下手に受けて、剣が全く使い物にならなくなるのを避けているのかもしれない。
ならば猶更、私は大胆に攻められる。
兄はどんどん後ろに下がる。私は前に出る。それはもはや、一方的な展開に思えた。
兄は皮鎧しか身に着けていない。私の剣がまともに直撃すれば、一度で勝負がつくはずだった。
そして次の私の攻撃をかわした拍子に、兄が僅かによろけた。隙が生まれる。見逃さずに、思い切り踏み込む。
剣を横に一閃。だが、その一撃もまだ避ける。
なんというしぶとさ。しかし、後ろに上半身だけを大きく反らして避けたその動作で、遂に兄は体勢を崩し、膝をついた。
次の一撃は避けられない。外さない。
私は剣を振り上げながら、全力で間合いを詰める。
その瞬間は、まるで時が止まっているかのように見えた。
今、剣を振り下ろせば、全てが終わる。私の苦しみが。長年続いた地獄に終止符が打たれる。
躊躇う理由はない。ここでやる。ここで……兄を殺す。
さようなら、兄さん。
私は右手の剣を……振り下ろした!
その刃は兄の胸元をえぐり、飛び散る鮮血と共に兄の生涯に終わりを告げる。
……そのはずだった。
赤い刃が兄に突き刺さる直前、兄の眼光が今までを遥かに凌ぐ鋭さを放つのを、私は見た。
ひっ……!?
気付くと、赤い刃は空を斬っていた。
次の瞬間、私の眼前に迫っていたのは兄の剣の先端だった。
もうそのスピードは、私の目で捉えられる速度を超えていた。
あの体勢から、どうやって一瞬で立て直したのかはわからない。
右で逆手に持ち替えられた兄の剣は、私の目玉に突き刺さろうとしていた。
避けられない。
だが、突き刺さるまさに直前で、赤い盾が進路を阻む。
その突きを防いだ盾は、やはり今度もそれを受け流すことはできなかった。
兄はこの無理な体勢から繰り出した反撃でも、盾の中心を的確に突き、受け流すことを許さない。
盾自体は砕かれることは辛うじて耐え、しかし、その一撃は押し込まれた盾ごと私の頬を直撃した。
「!?」
なんとか、刃は盾を貫通していない。だが、私は顔面をハンマーで殴られたように、大きく吹き飛ばされた。
両手の剣が消滅し、私の体地は面を転がる。
景色が回る。
「うう……っ」
早く立ち上がらなければいけない。兄が来る。殺されてしまう。
必死に体を起こそうとする。
しかし、頭がくらくらして焦点が定まらなかった。
揺れる視界の中、兄がこちらに寄ってくるのがわかった。
まずい。このままでは。
わかっていても、これはすぐには立て直せない。
突き出される兄の剣。絶対に避けられない。
死にたくない。死ぬ覚悟など、できていない。
だって私は、ネモと……この先を。
次にぼやけたままの視界に入ったのは、こちらに剣を突き出した兄と、その間に割って入った背中だった。
ぼうっと、その背中を見上げる。
そこにいたのは当然、
「ネモ!?」
私は裏返った声で悲鳴を上げた。最悪の事態を目の当たりにして。
しかし、
「チェント、すぐに撤退するぞ!」
直後に、はっきりとした声で言葉が返ってきた。
兄の剣は、ネモを貫いてはいなかった。
彼は左手に構えた盾で、辛うじて攻撃を受け止めていたのだ。
胸を撫で下ろす。心臓に悪い。
少し視界がハッキリしてきた。悠長にはしていられない。
兄は、突然割って入ってきたネモにも、容赦なく攻撃を浴びせていた。
「ぐっ……くそっ!」
激しく繰り出され続ける突きの連撃。ネモはどうにか急所は避けているが、盾の隙間を狙った攻撃が腕や肩のあちこちに掠り、小さく呻き声が漏れていた。
これでは、ネモが撤退できない。私は頭を振って、どうにか視界をはっきりさせた。
その時、兄に向かって突進してくる2つの影があった。
味方の兵士だった。こちらの様子を見かねて、援護に来てくれたのだ。
『うおおおおーっ!』
だが、雄叫びを上げて斬りかかってくる2人を、兄はそれぞれ剣の一振りずつで、あっさりと沈黙させる。
剣のリーチの差など、まったく問題にならない。流れるような動作で敵の攻撃を掻い潜り、喉元を一振りで斬り裂く。
2人は喉から血を噴き出して倒れ、動かなくなった。
あっという間に、元の姿勢に向き直る。まるで消耗を感じさせない動き。唖然とするしかなかった。
ネモは、隙を突く暇すら与えてもらえない。
私はなんとか気持ちを奮い立たせ、立ち上がった。
周囲を見渡すと、残った2枚の盾は地面に転がっていた。
片方はさっきの一撃で浮遊石が粉々に砕かれ、使い物にならなくなっていた。残りは1枚だが、ネモが応戦している状態では制御ができない。
兄の剣が、ネモの膝を浅く斬り裂く。ネモは苦悶の声を上げ、僅かによろけた。
まずい!
もう迷ってなどいられない。私は消えていた魔力剣を再び両手に灯し、前に出た。
私が振るった攻撃はあっさりと空を斬るが、兄を一歩下がらせ、ネモから少し引き離すことはできた。
「チェント、何をしている!? 逃げるんだ。こいつは本当にまずい!」
ネモの叫び。わかっている。
以前の戦いなど比べ物にならない。この状況は、一歩間違えば2人とも命を落とす。
でも、ネモを見捨てる選択肢は私には当然ない。私は踏み込んで、2連撃を繰り出した。
何の動揺もなく、それらを避けられる。反撃の振り下ろしが左肩を掠った。恐ろしく速い。
盾の使えない状態で、こんな反撃をまともに受ければ即死だ。冷汗が頬を伝う。
さらに続く、兄の連続突き。
必死に避ける。こちらの剣で受けようとしても、その隙間を易々と突き抜けてくる。
遂に右手首を斬り裂かれる。痛みに耐えかねて、握っていた魔力剣を維持できなくなる。
「……っ!?」
もし兄の剣に本来の長さがあれば、腕を切り落とされていただろう。
出血だけで、右腕は付いている。だが、これはまずい。
「チェントっ!!」
ネモが見かねて、援護に走った。
構えていた盾を後ろに引いて、兄を牽制すべく右手の剣を突き出す。
兄の背中を狙った一撃。完全にその視界には入っていないはずの攻撃だった。だが……
「ネモ、駄目っ!!」
私が叫んだ時には、既に兄は振り向きざまに剣を一閃させていた。
私は見ていた。見てしまった。
兄の剣が、彼の心臓を抉るのを。
それは決して、掠り傷などではない。
背中まで達しそうなほどの深い傷が、胸元に刻まれていた。
私は、裏返った声で彼の名を叫んだ。
おびただしい量の血液が噴き出す。
戦いの最中であることも忘れ、走り寄って彼を抱きとめた。
溢れ出てくる血が、私の胸元をも汚した。それは止まることなく、次々と噴き出してくる。
「逃げ……ろ、チェ……ント……」
虚ろな目で、ネモが必死に言葉を絞り出していた。
嫌だ。
言葉を続けようとして、彼は血を吐いた。
嫌だ。
「す……まない、俺…は……」
ずしりと彼の体が重くなった。彼は膝を折り、私の腕から滑り落ちる。
「ネモ! ネモっ!!」
必死に呼びかける。
彼の瞳は、開いたまま虚空を見つめていた。
私は呼びかけ続けた。
「ネモ……逃げないと。一緒に……早く逃げないと、ねえ……」
ネモは返事をしてくれない。
嫌だ。
返事をして、ネモ……お願い。
放心状態の私は、後ろから胸ぐらを掴まれていた。
首筋に、折れた剣を押し当てられる。
「おい!」
兄が私を冷たい眼で睨んでいた。
私のことなど何も気にかけていない、そういう眼だった。
今の私に、逆らう気力など残っていない。
「2度と俺の前に姿を見せるな。わかったな」
それだけ言うと、兄は私を放置したまま進軍して行った。
周囲は、私達が劣勢になったあたりで部隊の士気が乱れ始めたようで、こちらの部隊は半壊状態だった。
なおも敵の進軍を阻止しようとした勇敢な兵士は、兄にあっさり斬られた。
敵部隊が去ると、後には殺されなかった僅かな味方兵士が残った。
「ネモ……帰ろう」
抱き寄せて呼びかけても、彼からの返事は返ってこない。
どうして?
なぜ、兄は私を殺さないのか。ネモを、私の一番大切なものを奪っておいて。
ネモがいなくなるなら、私はあそこで一緒に死んでも構わなかったのに。
なんで? どうして?
私を苦しめるだけ苦しめて、でも決して殺しはしない。
兄は昔と何も変わっていない。
私にとって兄は、付きまとう呪いのようなものなのか。
そしてその呪いに、ネモは巻き込まれた。
私が……私のせいで……。
「ネモ、帰ろう。私が支えてあげるから……」
彼からの返事はない。
だが、彼をこんなところに置き去りにはできない。
肩を支えて引き起こそうとする。だが、上手く力が入らない。
よろよろと立ち上がると、見かねた味方兵士が、手を貸してくれた。
彼らの手を借りて、どうにか私は歩き出した。
そこから、どうやって砦まで戻ったのか、あまりよく覚えていない。
砦の訓練室、今は遺体安置所となっていたその場所に、ネモが横たわっている。
大勢の兵士が寝かされ、ネモはその中の1つに過ぎない。
まるで現実感がなかった。
今回の私達の出陣は、自分から言い出したことを思い出す。
兄との戦いも、私が承諾した。ネモは反対していた。
私のせいなの……?
私のせいでネモが……?
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ネモ」
私は寝ている彼に縋って、泣きながら何度も謝った。
彼は答えてくれない。
ネモは、眠っているように静かだった。
何も言ってはくれなかった。
私のミスだ。私の責任だ。
だから、どれだけ攻められたって、怒られたって構わない。
どんな罰だって受ける。
だから……
「嫌だよぉ……1人にしないでよ! ……ネモ、お願い……」
どれだけ泣きじゃくっても、ネモが何かを答えることはなかった。
その夜、私はずっと泣き叫んでいた。
もし時が戻せるなら、この時ほどそう思ったことはない。
彼はもう帰ってこないのだ。
この日、私はまた居場所を失った。
ネモと出会って、僅か数ヶ月のことだった。
もう涙が枯れるほどに泣きつくした。
その後も私はネモの前で座り、抜け殻のように佇んでいた。
ネモ……私、これからどうすればいいのかな?
問いかけても答えは返ってこない。
ロイオン達は、私に気を使っているのか、誰も何も言わず放っておいてくれた。
大隊長たちは、それみたことか、といわんばかりの視線を投げかけてくるが、今の私にはもうどうでもいいことだった。
あの日の作戦は、結局両軍痛み分けに終わった。兄の部隊の進軍が予定より遅れたため、その間に魔王軍優勢で戦いが進んだからだという。
作戦通りに兄の部隊を敗走させていれば魔王軍の勝利だったんだ、と私達を攻める者もいた。
なら、あなた達がやってみればいい、と私は思うだけだった。
あれから何日経ったかもよくわからないし、もう自分でもいつ眠ったのかわからない。まったく寝ていない気もするし、ずっと眠っていた気もする。
そんな私に、近づいてくる人影があった。
それは私の横に跪き、死んだ眼をしている私に話し掛けてきた。
「チェント様」
魔王軍の兵士のようだが、初めて見る顔だった。
今はネモと2人きりにして欲しいのに、彼はそんな私の気持ちは気に止めていないようだった。
「……何?」
苦労して声を絞り出す。返事を返すのも億劫だった。
「こちらをお受け取りください」
彼は懐から1枚の紙切れを取り出し、私に差し出した。
私はそれを受け取ると、すぐ広げた。それは地図のようだった。
「これは……?」
「敵の本陣の位置を記した地図です」
見ると、砦から離れた位置に印があった。
「魔王様より、これを調べてあなたにお渡しするように命じられてきました」
魔王──祖父が……これを?
「私に何をしろというの?」
心身ともに疲れ果てていた私は、とてもじゃないが、何かをこなせると思える状態ではなかった。
「いえ、具体的な事は何も。それをあなた様にお渡しして、後は好きにさせよと言われております」
祖父の考えがすぐにはわからず、私は地図を見つめなおす。
では失礼いたします、と兵士はそのまま立ち去った。
私は地図の印、一点をじっと見つめた。
ここにきっと兄がいる。ここに行けば兄に会える。
私は目を閉じて考える。
ネモならば、行くなというだろう。彼はいつも私の身を優先に考えてくれた。
私も、そんな彼とともに生きていたいと思った。
だが、彼はもういないのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。床に横たわる彼を見る。
「ネモ……行ってくるね」
私は砦を後にした。
マントを羽織り、夜の荒野を1人歩く。地図に記されたあの場所をただ目指して。
目の前に広がる灰色の荒野は薄暗い。まるで私の行く末のようだった。
私はどこへ行くのか? ネモがいなくなった今、私が魔王領のために働く理由などないというのに。
魔王領に身を置く以上は、私は祖父の命令には逆らえないはずであった。
しかし、それももうどうでもいい。
魔王領を追い出されたって構わない。
生きることすら、どうでもよくなっていた。
じゃあ、何故私はこんなところを歩いているのだろう?
私はどこに向かっているのだろう?
どこへ向かえばいいの? ネモ……教えて……。
自問自答を繰り返しながら、おぼつかない足取りで、地図の一点を目指した。
朦朧とした意識の中、歩き続ける。
気が付くと少しずつ夜明けが近づき、辺りはうっすらと明るくなり始めていた。
夜襲で不意を突けば、あるいは兄を仕留められるかもしれない。
なんとなく、そんなことも考えながら出てきたはずだが、太陽が昇り始めてはそれも破綻している。
まだ早朝でそれほどの明るさではないが、目的地を探してフラフラと彷徨っているうちに、闇に乗じられる時間は過ぎてしまっていた。
元々、深く考えての出撃ではなかった。
私がどれほど強さに自信があろうと、数万の兵士がいる敵本陣に、1人で真正面から挑んで勝ち目などあるわけがない。
それなら、そこでそのまま果てても別に構わないと思っていたのかもしれない。
自分自身でも何も考えているかわからないまま歩き続けると、前方に複数のテントの群れが姿を現した。
あった。あれがベスフルの本陣だ。
大人の身長を超える大き目のテントが多くの立ち並び、その周囲を木の柵が囲んでいる。
陣への入口のところに松明が並び、2人の見張りが立っているのが見えた。
まだ寝静まっているからなのか、人気が少ない。
不意を突ければ、万が一にもチャンスがあるかもしれない。私はフードを目深に被り、見張りの兵士にゆっくりと近づいていった。
「どうした? どこから来たんだ、お前?」
近づいてくる私に、声を駆けてくる見張りの兵士の警戒心は薄そうだった。
正体さえわからなければ、私はただの小柄な女に過ぎないのだから、当然かもしれない。
飲み水を分けてもらえませんか? と弱々しい声で聞いた。
実際心は弱り切っていたのだから、不自然には聞こえないだろうと思った。
兵士2人は顔を見合わせる。
「……仕方ないな。聞いてきてやる」
人の良さそうな兵士が、そう答えた。
だが、彼が陣の奥へ引っ込もうとすると、もう1人が呼び止めた。
「待てよ。この辺りの住民に白い肌の人間はいないはずだ。おかしいぜ」
言われて、ハッとなり足を止める。
「確かにそうだ。お前何者だ?」
次の瞬間、彼らは赤い剣で喉と心臓をそれぞれ斬り裂かれていた。
それらは一瞬のもとに実行したつもりだったが、彼らが呻き声を上げるのを許してしまった。
騒ぎを聞きつけて、奥から人が顔を出し始める。
失敗した。肌の色まで徹底して隠すべきだった。だが、元々衝動的に飛び出してきた上での行動だったのだ。こうなるのは必然だったのかもしれない。
すぐに姿を見せたのは、救護や炊事を行う女性達、非戦闘員だった。
彼女達は私と倒れた兵士を見比べると、悲鳴を上げて逃げ出した。
即座に走り寄り、背中を斬りつける。黙らせたのは3人。だが、もう遅かった。
悲鳴を聞きつけて、さらにぞろぞろと人が現れる。
立ち向かうか逃げるか、決断するのは今だった。もたもたしていると、逃げるチャンスを完全に失う。
だがおかしい。次々と姿を現す殆どは、先ほど見たような非戦闘員ばかりで、兵士達の数は圧倒的に少なかった。
兵士達は槍や剣を構え、私を取り囲もうとする。
私はそれをさせる前に動いた。魔力剣でいつものように相手の槍を無力化し、2人、3人と斬り裂いていく。
もうかなりの騒ぎになっているはずなのに、兵士は大した数まで増えていなかった。
まだ多くが寝静まったまま、とは考え辛い。敵襲となれば、慌てて皆を起こして回るだろう。
多くの兵士が出払っていると判断して間違いない。早朝から砦を奇襲するつもりなのかもしれない。
剣を持った兵士の手首を斬り飛ばし、悲鳴を上げたところを斬り捨てる。
兵士の数は、見える範囲で精々数十人。しかも、まともに隊列が組めていない。
私1人でも、充分勝ち目のある戦いに思えた。
当然、兄も姿を見せていなかった。おかげで命拾いしたといっていい。
兄を殺しに来たはずなのに、兄がいないことで命を拾った。
自暴自棄になって出てきたはずなのに、生き延びたことにほっとしている自分がいた。
どれだけ心が壊れようと、戦うことで冷静さを取り戻す。私はそういう人間になってしまったのだろうか?
戦っている間にも、次々と非戦闘員達が陣から逃げ去っていく。それは別にいい。彼女達に用はない。
さらに1人斬り裂いた際に、勢い余って近くのテントが裂ける。
テントの中には逃げそびれた女性が2人、震えて抱き合っていた。
直後に後ろから兵士が2人、同時に斬りかかってくる。
かわして腰を斬り抜ける。呻き声を上げて、あっさり倒れ伏す兵士。その間に女
性2人は、這うようにして逃げ出した。
非戦闘員に構うことはない。向かってくる兵士だけを片っ端から相手する。
やがて、兵士達の中にも逃げ出すものが出始めた。
こうなるともう立て直せはしない。
本来の兵の数と陣の広さを考えれば、もう少し人数を残してもおかしくなさそうなものだが、それすらも惜しむほどの状況なのかもしれない。
流石に逃げ出す兵までも、全ては倒せない。
残っている敵兵は確実に数を減らしてゆき、最後は奥のテントの前で見張りをしていた兵士4人を斬り伏せて、戦いは終わった。
ふぅ……。
大きく息を吐く。
減らした兵士の数は知れているとはいえ、本陣をここまで荒らされたとなれば、ベスフル軍にそれなりに損害を与えたことにはなるだろう。計らずも魔王軍に貢献したこととなってしまった。
もう軍の勝敗など、私にはどうでもいいことのはずなのに……。
私は最後に4人もの兵士が守っていたテントが気になった。
入り口をかき分け、警戒しながら中を覗く。
そこにいたのは、槍を構えた1人の女性。
かつて生活を共にした人物。私と比べて2歳しか違わないのに、少女というには大人びた容姿をした彼女は──
「あなたは……シルフィ……」
侵入者に怯えるシルフィ・ディバードの姿がそこにあった。
彼女も騒ぎを聞きつけながら、逃げそびれた1人なのだろう。慣れない手つきで槍を構えながら、隠れて騒ぎが収まるのを祈っていたのかもしれない。
「あんた……チェント!?」
驚いた声。彼女の声を聴くのも、随分久しぶりだった。
「ヴィレントから聞いた。あんたが魔王軍に付いたって。自分が何をやっているかわかってるの?」
彼女は槍を構えたまま、強気に言った。
以前のようにまた説教でもする気だろうか? 自分の立場がまるで分っていないようだった。
「だから何? あなたには関係ない話だと思うけど?」
私は冷ややかにそう返した。
「関係あるわ。私はこの戦いが終わった後もヴィレントと共に生きていくの。これ以上、ヴィレントの邪魔をしないで!」
そうか。そういえば彼女は兄の恋人だった。ならば……
──彼女を殺せば、私の苦しみを兄に思い知らせることができるだろうか?──
「ねえ、シルフィ。さっきからあなたは随分攻撃的だけど、今の状況をわかってるのかな?」
私は赤い剣をちらつかせながら、彼女に笑いかけた。
「馬鹿にしないで! 私だってヴィレントにいつも稽古をつけてもらってるのよ。あんたなんかに……」
私は、彼女の構えた槍を一振りで叩き斬ると、右腕を軽く斬りつけた。
「……っ!?」
先端の無くなった槍を取り落とし、悲鳴を上げて右腕を押さえる。
まだ腕を浅く斬られただけだというのに、大袈裟な人だと思った。
稽古……記憶をたどると、彼女は確かに兄に度々せがんでは、戦う稽古をつけてもらっていたことを思い出した。
ただし、それは戦闘訓練というにはあまりにもお粗末なものだったと記憶している。
デタラメに木の棒を振り回す彼女を、兄が適当にいなすだけ。兄の方にも真剣さは見られない。2人でただじゃれ合っているようにしか見えなかった。
私に力と自信をくれたネモのそれとは、まるで違った。
「弱いね、シルフィ。あなたはそうやって何もしないで、ずっと兄さんに守られて生きてきたのね」
いつかの彼女の言葉を、そのまま返してやった。
彼女は歯を食いしばって痛みをこらえながら、私に反論してきた。
「あんたには、ヴィレントの苦しみなんてわかんないでしょうね。育ててくれた相手に平気で刃を向けるあんたには!」
今度は左太腿を突き刺す。彼女は金切り声をあげて膝をついた。
いい気味だ。
兄の苦しみ?
私には、彼女が何を言っているのか全く分からなかった。
「他人のあなたに、何がわかるの?」
いつか怒鳴るように浴びせた言葉と同じことを私は、しかし今度は薄笑いを浮かべながら、穏やかに言った。
刺さった剣は抜いていない、彼女の足に突き刺したままだ。血がどんどん溢れ出してくる。
「あ、あんたなんか……、ヴィレントに……手も足も出ない癖にっ! ヴィレントにやられちゃえば……いいんだっ!!」
さらに剣を深く突き入れた。甲高い悲鳴が響く。
うるさいなあ。
私は剣を引き抜いてやった。
抜かれた時にも同じ悲鳴が上がる。
彼女は刺された部分を抑えて、のたうち回った。
いい気味だ。
「だ……誰か……」
彼女は足を引きずりながら、私の脇を抜けてテントの出口に這って行こうとしていた。
「無駄だよ? 外の人は私が全員殺したから」
親切にそう伝えてやるが、彼女の耳には届いていないようだった。
呻き声を漏らしながら地を這うその姿は、美しかったはずの彼女のとても醜い姿だった。
もういいか。
私はゆっくりと歩き寄り、右手を振り上げる。そして、逆手に構えたその剣をまっすぐ突き下ろした。
さようなら、シルフィ。
「!?」
背中から心臓を一突き。血が水たまりのように広がり、何度か痙攣した後、彼女は動かなくなった。
私は立ち上がり、剣をしまった。もうこの近くに戦える人間は残っていないだろう。
ここに戻ってきてこれを見た兄は、どう思うだろうか?
怒り狂うだろうか? 絶望するだろうか?
どんな形でもいい。兄を苦しめられたのなら、それで。
これで仇が討てたのかな? ネモ。
動かなくなった彼女を見下ろしながら、自分の中に問いかける。
いや、これはあくまで兄に同じ痛みを与えてやったに過ぎない。本当の復讐は、兄自身に与えてやらねばならないと思った。
だが、今の私では兄には勝てない。どうすればいい?
私は一旦考えるのをやめて、テントを出た。
とりあえず、私は陣に残されていた糧食に火をつけた。
量が少ない。殆どは進軍した部隊が持っていったのだろう。こんな守りの薄い陣に多くの糧食を放置するよりは納得できる話だった。
それでも、多少の痛手にはなるはずなので、実行しておく。
もし敵本隊が近くにいたら、煙を見て引き返してくるかもしれない。私はさっさと立ち去ることにした。
外はまだ薄暗い。
陣の出入り口をくぐる。ちょうどその時、誰かが陣の外側の遠くから走ってくる気配がした。
本隊が戻ってきたのかと身構えるが、向かってくる人影は1人のようだった。
たった1人の兵士なら、何も恐れることはない。
応戦するため、赤い剣だけを準備する。
やがて、その姿が鮮明となる。
それは、剣を腰に下げた1人の青年だった。
彼と私の視線が合う。
なぜ、このタイミングで彼と出会うのだろう。
「……スキルド?」
「チェント!?」
そこに現れたのは、かつていつも私を気にかけてくれた青年。
シルフィの双子の兄。
スキルド・ディバードの姿だった。
7年前──。
私達3人は、夜明け前の森の中を走っていた。
私と兄、そしてその背中を押すように、母が後ろを走っていた。
この時、私は8歳、兄は12歳だった。
走りなさい、と母が急かす。
幼い私には状況がよく呑み込めていなかった。
しばらく走ったところで、隣を歩く兄が立ち止まった。つられて私の立ち止まる。
後ろを振り向くと、母も立ち止まっていた。
その向こうには、空が赤く光り、遠くに火の手が見える。そこは、かつての私達の家があった場所だった。
「あなた達は、先に行きなさい」
母が言った。私と兄を向きなおらせ、背中を押そうとする。
「母さんは?」
兄がとても不安そうな顔で尋ねた。
「私はスーディを……父さんを助けにいってくる。あなた達は、森を抜けたところで待っていなさい」
さあ急いで、と私達を送り出そうとする。
「駄目だよ、母さん! 死んじゃうよ! 一緒に逃げよう!」
兄は必死に、母を説得しようとしたが、
「大丈夫。必ず父さんと一緒に戻るから、心配しないで」
その時の私は、母がそう言うのなら、きっと父を連れてちゃんと戻ってくるのだろう、とまったく疑うことなくそう思っていた。
母は笑顔で私達の頭を撫でると、強引に背中を押して走らせた。
兄は泣きそうな顔で、それでも出口に向かって走り出した。私もその後を追うように続く。
母はそれを見送ると、森の奥へと消えていった。
私達2人はひたすら走った。森の出口はなかなか見えてこない。
さらに走ったところで、再び兄が立ち止まった。私も止まる。
兄は後ろを振り返り、赤く光る空の方をじっと見つめて立っていた。
「……兄さん?」
私はその姿をぼうっと眺めながら、問いかけた。
兄はそれには答えず、空を眺めていた。やがて、何かを決意したように表情に変わる。
「チェント、お前は先に行ってろ」
兄は母を追おうとしている。幼い私にもそれくらいはわかった。
「やだよぉ、兄さん。1人は怖いよ」
「いいから森の出口まで走れ! 俺は母さんを助けて戻ってくる!」
「待って兄さん! あっ……」
兄の袖をつかんで止めようとしたが、兄は強引にそれを振り解き、森の奥へと走って行ってしまった。
私は振り解かれた拍子に転んで、泣きそうになった。
そんな私に構わず、兄の姿は森の奥へと消えていく。静寂が訪れた。
1人で森の出口を目指すのは怖い。赤い空のある家の方に向かうのも怖い。
私はなんとか立ち上がり、迷った挙句に出口に向かってゆっくりと歩きだした。
泣きべそをかきながら歩き、出口にたどり着く。
私はそこで座り込み、母達の到着を待った。
父さん……怖いよう。母さん……兄さん……寂しいよう。
その時間はとても長かった。やがて夜が明ける。
森の奥から人影が近づいてきた。
私はそれに気づいて立ち上がる。
人影は1つきり。それは兄の姿だった。
兄は肩を落とし、真っ赤に泣きはらした目をしながら、俯いたままこちらにゆっくりと歩いてきた。
「兄さん!」
心細かった私は、駆けよってすぐに尋ねた。
「父さんと母さんは……?」
兄はすぐには答えず、しばらく沈黙していた。
涙を流しながら、やがてゆっくりと口を開く。
「……父さんと母さんは、死んだ」
その言葉の意味は理解できても、それはまるで現実感がなく、すぐに涙は出なかった。
兄は森の外に向かって歩き出す。
「兄さん、どこにいくの? 家には……」
「あの家にはもう戻れない」
兄は俯いたまま、はっきりとそう告げた。
じゃあ、どこに行くの? と私が尋ねると、
「まだ魔王の追手が俺達を探しているかもしれない。それに家はもうない。全部焼けてしまった」
まだ事実を受け止められないでいる私に、兄は残酷な現実を突きつけた。
私はそれを確かめようと、家の方に向かって駆け出した。たが、兄はすぐに私の手を捕まえて引っ張った。
「戻っちゃダメだ、チェント! まだ母さんたちを殺した奴らが森の中にいるかもしれないんだ!」
「嫌だよぉ……お家に帰りたいよぉ……」
私は愚図って手を振り回したが、兄はしっかりと腕を掴み、振りほどかせなかった。
「チェント、もう母さんたちはいないんだよ……」
涙声でその事実を噛み締めるように、兄は言った。
遂に私もつられるようにして、泣き出した。
「泣くな、チェント」
自身も泣くのを必死に堪えながら、兄は私の頭に手を置いた。
「母さんたちはもういないけど、もういないから……。これからは俺が──」
その時に続けた兄の言葉を、私はよく覚えていない。
兄は、何と言ったのだったか……。
大事なことだったような気がする。しかし、私はそれをどうしても私は思い出せないでいた。
血に濡れたベスフル軍の本陣の前で、私とスキルドは再会した。
スキルド……。
私は呆然と、彼を見つめいてた。
どういう顔をすればいいかわからなかった。
お互いしばらく立ち尽くしていたが、彼は、
「……チェントだよな? こんなところにいたのか!?」
無くしたものをようやく見つけた、とばかりに駆け寄ってきた。
「来ないで!!」
私は思わず叫んでいた。
彼の足が止まる。私の言葉に戸惑っているようだった。
「……チェント?」
彼は右手を前に伸ばしたまま、固まっている。
「兄さんから聞いていないの? 私、魔王軍にいるんだよ? 敵なんだよ?」
私は目を伏せたまま、彼に告げた。
淡々と言ったつもりだったが、僅かな声の震えを隠しきれていなかった。
かつて私を気にかけてくれた彼に敵対することを、私は恐れているのだろうか?
「いや……聞いてはいたさ。でも、俺には……何かの間違いだとしか思えなくて……」
彼は首を横に振り、答えた。
「間違いじゃないよ。私は兄さんと戦った」
「!?」
あっさり言った私の言葉に、彼は絶句した。
「う、嘘だろ……? どうして、そんなことに!?」
スキルドの驚く理由が、私にはよくわからなかった。
彼は私が兄に何をされてきたか、知っているはずだったのに。
「何が不思議なの? あなたは私が兄さんを憎む理由を、よく知っているはずじゃない?」
察しの悪いスキルドに受け答えしていると、最初にあった声の震えは収まっていた。
彼はこんなに物分かりの悪い人だったのか? 少し落胆する。
「お前がヴィレントを恨んでいるのはよく知ってるよ。けど、まさかそんな……。戦場でお前達が斬り合うことになるなんて、俺は……」
彼の顔には、信じられないという表情が浮かんでいた。それが嘘であってほしいと、願うように。
私はそれを、冷ややかな目で眺めた。
「やめよう、チェント! 兄妹が争うなんて馬鹿げている。今からでも遅くない! 戻ってこい!」
彼は両手を広げ、必死に訴えてきた。
あまりにも現実が見えていない。その言葉に、大きなため息が漏れた。
「スキルド。私はもうベスフルには戻れないんだよ。見て」
そう告げながら、すぐ後ろで血だまりに倒れている見張りの兵士達を振り返った。
今まで気づかなかったわけがないのに、まるで彼はそれに初めて気づいたかのように表情を凍り付かせた。
「私が1人でやったんだよ。他の戦場でもベスフルの兵士をたくさん斬った。だから、もう戻れないんだよ」
優しい声で、彼に教えてやった。
彼は両手で頭を抱えて首を振ると、今度は泣きそうな顔をして俯いた。
「……すまない」
彼は謝った。なぜここで彼が謝るのだろう? 彼がどういうつもりなのか、よくわからなかった。
「すまない、チェント。俺が……俺があの時、お前を助けられていれば……俺があの時もっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……!」
ああそうか。ようやく合点がいった。
彼はベスフルで私がさらわれた時のことを、ずっと気に病んでいたのだろう。
そういえば彼は、私を助けようとした時に浅くはない怪我まで負っていたはずだったが、今の今まで私はすっかり忘れていた。
もしスキルドがあの時、私を助けられるほど強かったら。あの時、さらわれて魔王領まで連れてこられることがなかったら。
ネモとの出会いもなく、私はずっと兄に怯えて暮らし続けていたかもしれない。
スキルドが弱かったから、おかげでネモに出会えた。
そういう意味では、彼に感謝してもいいのかもしれない。
そんな私の気持ちなど知りもせず、彼は謝り続けていた。
「もう気にしないで、スキルド」
私はできるだけ優しく穏やかに、彼に告げた。
「だって、魔王領に連れてこられたおかげで、こんなに強くなれたんだよ? 私」
兄さんとだって戦えるんだから、と笑いかけた。
「そんな、どうして……どうしてそうなっちまったんだ!」
彼は肩と腕を震わせて、心底無念そうに呟いた。
「チェント。ヴィレントはな、あいつはあいつで……気の毒なやつなんだよ」
スキルドは意外なことを言った。
兄が気の毒? よくわからないことを言う。
あなたは何を知っているの?
「あいつはお前を殴ってしまったその日から、ずっと母親の影に責められ続けているんだ」
母さんの……影?
「ヴィレントから聞いたんだ。あいつは母親の死に際にチェント、お前を必ず守るように頼まれたと言っていた」
母さんが私を守るように……?
「でも、あいつはそれを守れなくて、自分で妹を傷つけてしまって。それ以来あいつは、お前を見るたびに母親の幻影が重なるようになってしまったんだ」
兄さんがそんな話を……。
父さんと母さんが殺されたあの日、森の中から1人戻ってきた兄。
おそらく、あの時に兄は母の最期を看取ってきたのだろう。泣き腫らした顔で戻ってきた兄。死の直前に母と話せたのはその時しかない。
両親が生きていた頃、兄は母にいつも甘えていた。
「母さん、母さん!」
「もう、ヴィレントはいつまでも甘えん坊なんだから」
べったりしがみ付いた兄の頭を撫でる母の姿。母もそんな兄を溺愛していた。
そんな最愛の母の遺した最期の言葉は、兄にとって何より重いものだったのだろう。
だからあの時、森から戻った兄はあれを言ったのだ。
兄が私に言った言葉──
「母さんたちはもういないけど、もういないから……。これからは……」
──これからは俺がお前を守ってやる。必ず守ってやるから! だから、泣くなチェント──
思い出した。
確かに兄は、あの時私を守ると言ったのだ。
母の遺言が、兄のその誓いを引き出した。あの後、しばらくは私も兄を慕う気持ちがあったはずだった。
だがそれから1年が経ち、兄は自らその誓いを破ってしまった。守ると誓った私を自らで傷つけてしまった。
それ以来、母の言葉が兄を責め続けているというのだろうか?
なるほど、兄がどれだけ私を疎ましく思っても、放り出しきれなかった理由がなんとなくわかった。
しかし、その話を聞いても、兄に同情する気にはなれなかった。要するに兄が勝手に私を殴って、勝手に苦しんでいるだけだ。
殴られ続けた私の方が、ずっと苦しかったはずだ。
「スキルド。そんな話で私が納得できるわけないじゃない。そんな話で……兄さんを許せるわけないじゃない!」
「わかってる!」
私の反論をスキルドは否定しなかった。
「どちらが悪いとかじゃないんだよ。あんなに強いヴィレントさえ、その誓いを守れなかった。俺はあいつを責められない。でも、お前の苦しみだって、もっともなんだとわかる」
彼は続ける。
「お前達が和解するのは、もう無理かもしれない。でも、それはどちらかが悪いんじゃないんだ! お前達は不幸に見舞われる中で、ただ必死に生きてきただけじゃないか。お前達が殺し合う必要なんてないんだよ!」
彼は声を荒らげて、必死に訴えた。
「チェント、俺と2人で逃げよう! ベスフル軍も魔王軍もヴィレントも、誰の手も届かないところへ! まだやり直せるはずだ!」
スキルドが右手を差し出していた。
だが、その言葉を聞いて、私はまた大きなため息を吐く。
彼はきっと本気で言っているのだろう。彼の中ではきっと、私は昔と変わらない、1人では何も決められない気弱な少女のままなのだ。
あなたがいないと何もできなかった頃の私は、もういない。
私がその手を取ることはないのだ。
それに、奥のテントで動かなくなっているシルフィの姿を、彼はまだ知らない。
妹のあの無残な姿を見ても、まだこのセリフが言えるだろうか?
「ねえ、スキルド。私、もう戻らなきゃいけないから、道をあけてくれないかな?」
スキルドの言葉を無視して、私は無慈悲にそう告げた。
彼は激しいショックを受けたようだった。
「駄目だ! 行くな、チェント! 行かないでくれ!」
彼は首を振り、両手を広げて、必死に道を塞ごうとしていた。
「あなたがどうしても通してくれないなら、無理矢理通るだけだけど?」
私は赤い剣をちらつかせて言った。それを見た彼は後ずさる。
「そんなに私を止めたいなら、力尽くで止めてみる? スキルド」
私に言われて、びくりと震えた彼は自分の腰の剣を見た。
彼は、私と剣を何度も見比べている。すぐに覚悟が決まらないようだった。
私がその気なら、この間に彼はもう斬られている。
散々迷った挙句、彼は唾を飲み込み、震えた右手をゆっくりと腰の剣に伸ばし始めた。
止められるつもりでいるの? スキルド。
私も2本の剣を構える。
そういえば今の彼は、以前の記憶の中と比べて随分逞しい体つきになったように見える。
生真面目な彼は、きっとシルフィとは違い、真剣に兄から訓練を受け続けたのだろう。
それでも、今の私に及ぶ実力とは到底思えなかった。
彼は震えたままの手で、ゆっくりと鞘から剣を抜き始める。そんな手つきではまともに戦えるとは、とても思えなかった。
私は、あえてこちらから仕掛けることをしなかった。
いつでも、かかってくればいい。
斬りかかった瞬間、倒れているのはあなたの方。
だが、結局彼は、途中まで抜きかかった剣を鞘へと戻した。
私は拍子抜けして、剣をしまう。
彼はその場に膝と両手をついた。肩が震えている。
「駄目だ。できない。できるわけがないだろう! 俺は……お前を助けるためにヴィレントから剣を教わってきたんだ! お前を斬るためじゃない!」
彼は涙を流して叫んだ。
彼はどこまでも優しい人。私の知っている彼と、何も変わっていなかった。
だが、彼の悲痛の叫びは私の心には届かない。
彼の必死の努力は私のためだった。私を救うためだった。
でも、それは思い上がり、余計なお世話。もう私は、彼を必要としていない。
それでも、かつて彼に世話になっていたのは確かなので、私はすれ違いざまに伝えた。
「今までありがとう、スキルド」
それが、彼スキルド・ディバードと私が交わした最後の言葉だった。
ベスフルの本陣を去っていく私。
後ろを振り返ると、彼は膝をついたまま、ずっと同じ姿勢で佇んでいた。
それ以上振り返ることはせず、私はベスフル本陣を後にした。
さようなら、スキルド。
魔王城の謁見の間に私はいた。
そこには、砦の戦いで生き残った小隊長たちが集められ、跪いていた。
玉座に座る魔王──祖父は、彼らを睨みつけていた。
張り詰めた空気が漂っている。小隊長達の顔は、全員が叱責を恐れ、怯えているように見える。
この状況が砦の陥落、あの戦いの敗北を示していた。
砦の大隊長達は自分達の保身のため、劣勢を最後まで本城に知らせていなかった。
元々は倍以上あった戦力差を徐々に覆され、失態を隠すために魔王城への援軍要請も拒み続けた。
戦力差が決定的となり、魔王軍側が遂に野戦ではなく籠城戦へと切り替えた翌日、ベスフル軍は砦の背後、魔王城に向かう道の方から姿を現したのだという。
私がベスフル本陣を襲ったあの日のことである。
ベスフル軍は夜の間に砦の反対側まで回り込み、早朝に砦から見える位置に姿をみせた。
そして、砦を無視して魔王城に向かう様を見せつけたのだ。
本城に向かう前に敵軍を塞き止める役割をもつ砦を素通りさせてしまえば、それは大失態となってしまう。
砦の大隊長達は全軍を率いて、慌ててベスフル軍の背後に襲い掛かった。
だがそれは、長引く攻城戦を嫌ったベスフル軍の罠だった。
早朝に本陣を完全に引き払っていないことを見れば、それは明らかだったのだが、その瞬間にその事実を知っていたのは私だけだった。
遠く離れた地まで進軍してきた彼らも疲れ切っており、この地での新たな拠点となるその砦を手に入れたがっていたのである。
出撃した魔王軍の部隊が砦に戻る道を、すかさず兄ヴィレントの率いる部隊が塞ぎ、挟み撃ちにされた魔王軍は大混乱に陥った。
やがて、総大将の大隊長が討ち取られると、兵士達は敗走を始める。
砦を手に入れることが主目的だったベスフル軍は、砦への退路を断ち、魔王城への逃走ルートをわざと空けた。
ベスフル軍は見事に砦を手に入れ、逃げ延びた魔王軍の兵士達は魔王城へと辿り着いたのである。
そして、今のこの状況がある。
あの日、私がベスフル本陣から砦の近くに戻った時には、既にその戦いは終わりに差し掛かっており、私は砦に戻ることを諦めて魔王城に帰還する道をとった。
残されたネモの亡骸だけが心残りだったが、それでも私は砦に戻らなかった。
もう充分、お別れは言ったよね……。
あそこにあるのは彼の容れ物。かつて彼だったもの。もう彼自身は、彼の魂はそこにはないのだ。
シルフィを殺し、スキルドと決別した私は、何かが吹っ切れたようなそんな気持ちになっていた。
ネモに会う方法はもう、1つしかない。
魔王城に帰還した私も、砦の戦いに参加した者の1人として、謁見の間に集められている。
次々と処分が下されていった。
最も責任の重い大隊長が戦死していたため、彼の副官が罪を被ることになった。
戦況の隠蔽を手伝った者には特に厳しい処分が下され、他の者も、地位剥奪、降格などの処分を受ける。
そして、私の番が回ってきた。
「チェントよ」
祖父の声が響く。その声は依然として大きな威圧感を伴っていたが、私は特に委縮することはなくなっていた。
自分でも不思議だったが、色々あり過ぎて、感覚が麻痺してきたのかもしれない。
「はい」
跪いた状態で顔を上げ、私は答えた。
「ネモのことは気の毒であったな」
「は……、いえ、お気遣い、痛み入ります」
早速、処分が下されると思っていた私は、祖父のその言葉に少し面食らった。
「ネモが討たれた直後だというのに、貴様は単独で敵本陣に切り込んで損害を与えたそうだな。その働きは称賛に価する」
周囲がざわめいた。周りの者たちも当然、私にも何らかの処罰が下されると思っていたからだ。
それに、本陣を攻めたという事実を、私は誰にも報告していなかった。
祖父がなぜそれを知っているのだろうか?
私に本陣の地図を渡してきた兵士を思い出す。魔王の命令で来たと言っていたあの兵士。私の動向を見張り、祖父に報告する役目も担っていたのかもしれない。
「いえ、その時の本陣には殆ど敵が残っていませんでした。大した戦果にはなっていません」
私は本心からそう言った。事実、直後に砦は落とされたのだから、私の与えた損害は大局には何も影響を与えていないことになる。
「だが、結果的に負け戦に関わった貴様に、恩賞を与えることはできん」
祖父は言ったが、私には恩賞など興味のない話だった。
ネモのいないこの魔王領で、新たな地位など何の魅力も感じない。
「もっとも、貴様の方も恩賞などは求めていないようだがな」
まるで、そんな私の心を見透かしたように祖父は言った。
今の私が求めるものは──
「ネモの仇、兄ヴィレントとの再戦。それが貴様の望みか? チェントよ」
「……はい!」
私は祖父の鋭い眼光を真っ向から見据え、ハッキリと答えた。
祖父はその言葉を聞くと、満足そうに笑い、頷いた。
「ヴィレントとの戦いで一度は敗れたと聞いたが、勝算はあるのか?」
「それは……わかりません」
私は正直に答えた。
「正直だな。まあよかろう。ガイアスよ」
「はっ」
祖父の玉座の隣に立っていた大男──ガイアスが答える。
ガイアスは、私が初めてこの場所を訪れた時から、いつも祖父の隣に立っていた。この部屋にいる中でも飛び抜けて大きく、その体格は魔王をも超えていた。
「チェントをお前の部隊に入れてやることはできるか?」
「はい、問題ありません」
ガイアスの答えに祖父が頷く。
魔軍総長ガイアス。彼はそう呼ばれていた。魔王軍においてのナンバー2と聞いている。
魔王城に滞在する主力4部隊の1つを束ねると同時に、祖父自身が出撃しない時の全軍の総指揮を執っている男だった。
「ベスフルの連中に砦を落とされたということは、次に奴らが攻めてくるのはこの城ということになる」
祖父は立ち上がった。
「我々は総力をもって、奴らを迎え撃つ。今度こそベスフル軍は完全に終わりだ」
祖父が拳を握りそう宣言すると、部屋にいる兵士達から歓声が上がった。
宣言の後、祖父は再び私を見た。
「チェントよ。貴様の望みを叶えたければ、ベスフル軍が全滅する前に戦場で兄を見つけ出し、討ち取ることだ。これが最後のチャンスだと思え」
その言葉を最後に、祖父は会話を打ち切った。
私はその言葉に、返事を返すことも頷くこともできなかった。
一礼して謁見の間を出ていく兵士達。
「待て」
私もそれに続こうとすると、呼び止められた。声の主は、先程私を部隊に組み入れるよう命じられた男、ガイアスだった。
「お前は我が部隊に所属となったのだ。後で部隊の詰め所に来い」
頷いて、部屋を出る。
この2日後、遂に魔王軍とベスフル軍の最終決戦が始まった。
魔王城と砦の間にある平原で、両軍は睨み合っていた。
左右を見ると、大勢の兵士達が槍と剣を構えて、緊張の面持ちで平原の向こうを睨んでいる。
遠くには隊列を組むベスフル軍の姿が見える。それぞれが、弓矢がギリギリ届かない程度の距離を保っていた。
魔王軍はあの堅牢な城塞都市に籠れば、味方の被害もより少なく済むはずなのに、なぜそうしないのか? 私は疑問に思っていた。
「数で大きく勝る状況で、籠城を選ぶのは下策だ。味方の士気も下がる」
作戦前、私の質問にガイアスはそう答えた。
「それに籠城すれば戦は長引く。今の食糧難の魔王領で籠城すれば、戦う前に備蓄が底を尽く危険があるのだ」
故に全軍を率いての短期決戦こそが最良の策だと、ガイアスは言った。
元々魔王軍がレバス王国を抑えベスフル王国まで攻め入ったのも、食糧難から領民を救うことが目的だったのだ。
それが気が付けば、ここまで押し返されている。
現時点で敵より兵力で勝っているとはいえ、楽観できる状況ではないはずだった。
現在の魔王軍の総兵力は、ベスフル軍の3倍だと聞いていた。今、平原の向こうに立ち並ぶベスフル軍とこちらを見比べると、詳細な人数差まではわからないがあきらかにベスフル軍側の方か数で劣ることが見て取れる。
この平原は凹凸が少なく、ひたすらだだっ広い。以前の戦場のように、身を隠して奇襲するなどといったことも難しそうだった。
兄さんはどう出てくるかな?
「作戦通りに頼むぞ。準備はできているか?」
横から声を掛けられた。声の主はガイアスだった。
私はその言葉に無言で頷く。
ガイアスは馬の倍ほどもあろう大きさの飛竜にまたがっていた。魔王軍に飼われている青黒い鱗をまとった軍用獣である。
人を乗せて空を飛び、敵の鎧をかみ砕く。種としては絶滅寸前であり、魔王軍内でも乗りこなせるのは少数の人間だけだと聞いている。
ただでさえ大柄なガイアスがこれに跨ると、まるでおとぎ話の巨人のような威圧感がある。
「では、始めるとしよう」
ガイアスは飛竜に跨ったまま、持っていた弓を敵軍に向けて構えた。それは身の丈を超える巨大な弓だった。太く、そしてその色から木製ではなく、何らかの金属が使われていることがわかる。
とてつもない強弓であろう。その弦が引かれると、弓の軋みと共に筋肉の軋む音まで聞こえてくるようだった。
普通の弓なら、斜め上に撃っても届かないこの距離。だが、ガイアスは殆ど直線に矢を放った。
風切り音と共に矢が直進する。遠くで騎兵が派手に吹っ飛び、倒れるのがわかった。
魔王軍に歓声が、ベスフル軍にどよめきが起こった。
仲間を討たれた騎兵たちが、一斉にこちらに突進してくるのが見える。睨み合いは終わり、いよいよ戦いの火蓋は切られたのだ。
「ふん。矢を恐れて後退する可能性も考えたが、敵もそこまで臆病ではないか」
言いながら、2発目の矢を放つ。強弓から放たれた矢は、今度は2人の騎兵を巻き添えにした。恐ろしい威力。
敵との距離が縮まったことで、さらに威力を増しているのだ。
ベスフル軍は、激情に任せて馬を走らせたため、騎馬隊だけがまるで槍のように縦長に突出した状態になっていた。
ランスを構え、声を上げて突進してくる兵士達。それを見ながらも、魔王軍の部隊はまだ動かない。
「任せたぞ」
私に言って、ガイアスと周囲の味方が下がる。私だけが部隊から少し飛び出したような形になった。
ガイアス達が下がったため、ベスフル兵たちの目標は自然と突出している私に向けられる。まだわずかに遠い。ギリギリまで引き付けなければ。
馬の駆ける音が徐々に大きくなってくる。鎧の擦れる音、殺気立った敵兵の声。まだまだ、もっと引き付ける。
今──っ!!
「はあぁぁぁぁっ!!」
先頭の騎馬が後数メートルまで迫ったところで、私は両掌を前にかざした。
これはネモから教わった、敵を直接攻撃する範囲殲滅魔法。
空気が揺らいだかと思うと、両掌から轟音を立てて、赤色の暴風が一直線に生まれた。
「な、なんだぁーっ!?」
大人の身長の倍以上の直径を持つ円筒形の赤い竜巻は、横向きになって騎兵を紙切れのように吹き散らしていく。敵兵と馬の怒号と悲鳴が混ざって聞こえた。
いや、吹き散らすというより飲み込むと言った方が正しいか。竜巻は地面を筒状に抉り取り、直線に並んだ兵を錐揉みさせながら、まっすぐ後ろに押し込んでいく。
当然、それは後ろを走っていた兵士も全て巻き込んで、馬と馬が、鎧と鎧がぐちゃぐちゃになって流されていった。
竜巻は、範囲内のものを全て飲み込んで数十メートル押し返すと、やがて満足したように掻き消えた。
「ふぅ……」
息を吐き、額の汗を拭う。味方から大歓声が上がった。今ので、巻き込まれた騎兵数十人が確実に戦闘不能になったはずだ。
うまくいってよかった……。
胸を撫で下ろす。この魔法を実戦で使ったのは初めてだった。作戦前よりガイアスから指示されていた通りに動いただけだが、予想外の戦果に自分でも少し驚く。
今まで、この魔法を使ってこなかった理由はいくつかある。
まず、準備から発動まで時間がかかること、準備段階で決めた座標から狙いを変えられないこと。狙いがばれてしまえば、接近するルートを変えるだけであっさりかわされてしまう。
次に、射程が弓ほど長くないこと、準備から発動まで完全に無防備になってしまうこと。戦場で調子に乗って悪目立ちした魔導士が、射程外から射抜かれるのはよくあることらしい。
魔王軍には私以外にも魔導士達はいるが、希少であり、無駄死にさせないためにも戦場での運用は限られるらしい。
さらにもう1つの理由として、1発あたりの体力の消耗が激しいこと。
「お前の才能を、ただの砲台として使い捨てるのは惜しい」
ネモが言った言葉である。訓練で試したことはあるが、その時は今の竜巻魔法を5~6発も撃てば逃げることもできないほど消耗してしまった。
連発すれば、その後に接敵しても剣を握って戦うのは困難になってしまう。
故に、剣の才も同時に持ち合わせていた私に、ネモは魔力剣を用いて戦うことを薦めたのだ。それは間違いではないと思う。
だが、こうやって状況を絞れば、範囲攻撃魔法も生きる。要は使い過ぎなければいいのだ。
「よくやった。見事だ」
ガイアスが横に並んで言った。
「敵に追撃をかけるぞ! 俺に続けぃ!」
後ろの味方に号令を掛けると、自らは飛竜を飛ばし、敵部隊に突進していった。味方もそれに続き、一斉に進軍を開始した。
私はそれを横目で見送りながら、気持ちを落ち着かせる。
まだ敵味方は入り乱れていない。また範囲魔法の出番はあるかもしれない。
私は、第2波の準備をした。
だが、その必要はなかった。近づいてくる確かな殺気。足音。
──来た。
まだ乱戦が始まったわけではない。今、私の立っている場所は敵軍には全く食い込んでいない。周囲にも大勢の魔王軍兵がいたはずなのに、それをものともせずに蹴散らして近づいてくる。
──来た!
それは側面から、その剣は、その刃は、私のいた場所を横薙ぎに一閃した。
襲撃に構えていた私は、余裕をもって攻撃をかわすはずだった。
だが、スレスレを掠める鋭い剣閃を目の当たりにすると、とても余裕をもってかわせたとは言えない。危うい瞬間だった。
一旦大きく距離をとって、赤い魔力剣を右手1本だけ呼び出す。
「来たね。兄さん」
敵中に颯爽と現れては不意打ちを仕掛けてきた兄に、私は言った。
狙い通りだった。
「ヴィレント・クローティスは、士気の要となっている者を見つけては狙い撃ちで倒す。そうやって敵の心を折り、自軍を勝利へと導いてきたのだ」
作戦前にガイアスより言われたことである。
「奴と戦いたければ、目立つことだ。お前を倒さなければ自軍が負けると思わせることで奴を引き付けられる」
それで提案されたのが、竜巻魔法による先制攻撃だった。それだけで、広い戦場にいる兄を引き寄せられるのか? 半信半疑だったが、2発目を放つまでもなく、見事に兄は釣られた。
「……チェント!」
兄は自ら斬りつけておきながら、その相手が私だと今気づいたようだった。
この人は、戦場で味方に仇なす者ならば、誰が相手だろうと見境が無いのだろうか? ひたすらに殺戮を振りまくその姿は、まさに死神そのものだろう。
そして、この兄が討たれれば、ベスフルの希望は失われる。
お互いの剣を構え、私達は睨み合った。
私達兄妹の最後の戦いが、いよいよ始まろうとしていた。
子供の頃の兄との想い出。
それはまだ兄も幼く、私達の関係が歪んでしまう前の話。
私は森の中を泣きながら走った。
家の扉を開けて、テーブルの前に腰かけている母の姿を見つけると、しがみ付いて泣きつく。
「あらあら、どうしたの?」
母は心配そうに私に尋ねる。
兄さんがぶったよう、と私は泣き喚く。
そこに足音とともに追いかけてきた兄が、扉の前に姿を現した。
「ヴィレント! なんでそんなことしたの?」
母に問い詰められて、兄は罰の悪そうな顔をして視線をそらした。
「だってチェントが、母さんに買ってもらった人形を壊したから……」
兄の右手には、腕の取れた騎士の人形が握られていた。
街に出た時に、母に買ってもらった木の人形、玩具である。
「チェント、兄さんにはちゃんと謝ったの?」
母に聞かれて、私は首を横に振った。
「駄目じゃないの。悪いことをしたら、謝りなさい」
叱りながら、しかし母の声は優しい。
だってぇ……、と言い訳する私。
「ヴィレントも、妹を叩いちゃ駄目でしょう? あなたもちゃんと謝りなさい」
兄は不服そうに目を逸らしながら黙っていたが、母にじっと見つめられてやがて、ごめんなさい母さん、と小声で謝った。
「私に謝っても仕方ないでしょう。ほら!」
なおも目を逸らしたままの兄を、こっちにいらっしゃい、と母は手招きした。
兄が寄ってくると、母は私達を正面から向き合わせる。
「ほら、相手の目を見て謝るの」
兄は罰の悪そうな顔をして、私を見ていた。
それでも兄はしばらく黙っていたが、母に促され、
「……チェント、ごめん」
俯きながら、上目遣いでそう謝った。
兄さん、私も……ごめんなさい、とつられて私も返していた。
母の手が私達2人の頭を撫でる。
「よしよし。私がいなくても、こうやってちゃんと謝って仲直りするのよ?」
母にそう言われて私は、はい、と返事し、兄は黙って頷いた。
「母さんとの約束だからね」
言って、母は私達を抱きしめた。
母がいなくても、謝って仲直りする、とあの日約束した私達。
でも、結局その約束は2人とも守れないでいたことになる。
今の私が1人で兄と戦って勝ち目があるか?
冷静に分析すれば、勝ち目はほぼないというのが結論になるだろう。
ネモの助けを借りて挑んだあの戦い。途中まで肉薄したと見せかけて、終わってみればかすり傷1つ負わせられなかったというのが、実際の結果だった。
それでもまだ戦いに挑むのは、私の中に生きている理由、生きることへの執着が殆ど残っていないからだった。
だが、死ぬのがまったく怖くないと言えば嘘になる。
復讐に我を忘れて戦いに挑めれば、その方が気持ちは楽だったのかもしれない。
これは最後の抵抗。命がけで戦い、せめて傷1つ刻むことができればそれでいい。もうこの世に未練などない。
そして、もし万が一でも兄の命を刈り取るチャンスがあるのなら、その時は容赦なく道連れにしてやるつもりだった。
やれるだけやってみせる。私を鍛えてくれたネモのためにも。
その気持ちが、私を突き動かしていた。
戦場で兄と対峙した私は1本の魔力剣を構え、慎重に間合いを測った。
距離をとって対峙していても、その殺気がビリビリと伝わってくるようだった。
「チェント、もうお前に用はない。今すぐ降参するなら見逃してやる」
先に斬りつけておきながら、この言い草。以前に2対1で勝利したことからくる余裕だろうか?
「私を無視してどこへ行くつもりなの?」
「魔王を殺す。それ以外に目的などない」
だから早く道をあけろ、と言いたげだった。兄は何かに取り付かれたように、血走った眼をしていた。
以前のような冷静で鋭い眼光とは明らかに違う。兄がこうなる理由には心当たりがあった。
「いいのかな? 兄さんの大切な人を殺した相手を野放しにしても」
私の言葉に、兄は目を見開いた。
「お前がシルフィを殺ったのか……!?」
兄は完全に初めて知ったという顔をしていた。スキルドから聞かなかったのだろうか?
あの後でシルフィの死体を見たであろうスキルドが、犯人と私を結び付けられないわけがない。
スキルドは言わなかったのね……。
彼は何なのだろう? 実の妹を殺されてなお、私を庇った? 彼はどこまで甘い人なのだろうか。
いや、今まさに兄妹で殺し合っている私が、兄妹を殺された気持ちを語るほうがよっぽどおかしい。私はそれ以上考えないようにした。
「シルフィは私が殺したの。弱くて、脆くて、あっけなかった」
兄の目を見ながら、私はその時の様子を語った。
兄の驚きの表情がみるみる怒りへと変わっていく。
「少し腕を斬られただけでぎゃあぎゃあ喚くから、次に左足を刺したの。そしたら悲鳴を上げてのた打ち回って。可哀想に、兄さんが近くにいれば死なずに済んだかもしれないのにね」
次の瞬間、寒気を覚えるような殺気と共に、神速の斬撃が私のいた場所を襲った。
私は大きく後ろに飛びのく。兄の剛剣が地面に叩きつけられて、土煙を巻き上げた。
僅かに冷汗が流れたが、私は挑発をやめなかった。
「怒ったの? 兄さんが悪いんだよ。前の戦いの時に私を殺しておけば、シルフィは死なずに済んだのに」
兄は激しい雄叫びを上げた。さらに2度、3度と激しい斬撃が襲い掛かる。私はそのたびに大きく後退した。こんな攻撃を相手の間合いの内側で避けていては身がもたない。
だが、これで兄は魔王より先に私を片付ける気になってくれたようだった。
……行くよ!
覚悟を決めて、この戦いで初めて私の方から前に出た。右手に1本の魔力剣を握りしめて。
横に2度薙ぎ払い、3度突いた。兄はそれを的確にかわす。激昂したように見えても、見切りの鋭さは全く衰えない。
しかも、以前の戦いで剣が壊されたことがあったためか、今度はこちらの攻撃を1度も受けも払いもしない。体を逸らすだけで、全て完全にかわし切っている。
そして、脇をすり抜けるようにして懐に入ってきた兄の会心の斬り上げがこちらを襲う。これは避けられない。
しかし──
ガチンッ、という金属音がして、絶対に決まるはずだったタイミングの一撃は、私の背中から滑りこむようにして現れた赤い盾によって阻まれた。
「!!」
ネモが残してくれた浮遊石の盾、最後の1枚である。
たった1枚だが、1枚であることが私1人での制御をギリギリ可能にしていた。
左掌に魔力を込め、盾制御に回す。そのため、剣は1本しか使えない。
その上、戦いながらともなれば、今の私では例え盾1枚でもネモほどの制御精度は望めない。それでも、盾無しで挑むよりは遥かに希望があった。
なにより、以前は3枚に分散していた盾強化の魔力を1枚に集中している。3倍の魔力を込めれば堅さも3倍になる……というほど単純なものではなかったが、それでも強度は遥かに増しているのは間違いない。
むしろ、兄との1対1の戦いにおいては、防ぐ攻撃は1つでいいはずだった。これなら以前のように簡単には壊されない。
「また、こいつか!」
兄は斬撃を上方向に受け流され、胴体ががら空きになっていた。
すかさず、私は踏み込んで突く。だがやはり当たらない。
なんて反応……!
頭を狙えば首を傾けるだけでかわし、胴体を狙っても最小限の動作だけで全て避ける。
切り札としての盾をわざわざ背中側に隠して挑んだというのに、攻撃を不意に防がれても何の動揺も誘えていない。あるいは動揺してもなお、かわしきれるだけの余裕があるということか?
なんというしたたかさ。
以前の戦いの時には、届かない強さではないなどと感じていたが、もうそれはまるで勘違いだったというほかない。
それでも諦めない!
私は右手の剣を下げ、左掌を前に突き出して進んだ。
完全に無防備な体勢。兄の攻撃が私に向かって容赦なく繰り出される。
しかし、その尽くを赤い盾が完全に弾き返す。私はあえて避けることをせず、攻撃もやめて、全神経を盾の制御に集中させた。
そして、そのまま前に出る。
「どうしたの兄さん? 剣が届いてないよ?」
兄は攻撃を弾かれるたびに後ろに押し返された。その度に私はさらに前に出る。
「ちっ……」
兄の表情に、僅かに動揺が見えた。こちらの意図を図りかねているようだ。
攻撃を繰り出していない私の方が、兄を後退させている。それは不思議な光景だった。
やがて私は、兄の攻撃が弾かれた隙をついて、体が密着するほどに接近してから剣を繰り出した。この距離からなら、こちらの刃は完全に死角となるはずである。
この攻撃ならばっ!
だがやはり、赤色の剣閃は空を斬ってしまった。体を一瞬で腰ほどの高さ低く屈めて、横斬りをかわす。兄の反応が、感覚がどうなっているのか、もう理解を越えていた。
それでも、まだこれは予想の範囲内。さらに踏み込んで、ありったけの斬撃を浴びせかける。今までよりも遥かに近い間合いで繰り出される連撃に、兄の回避動作も大きくなる。やはり当たらない。掠りもしない。
くそっ……なんで……!
そして何故か反撃も来ないまま、兄は距離を離した。
私の方は肩で息をしていた。
「……お前、死ぬ気か?」
先程まで血走った眼で激昂していた兄は、冷静な声に戻っていた。まるで自分を見ているようだった。自暴自棄になって飛び出しても、戦いでいざ命の危険が迫ると冷静になってしまう今の私自身を。
「気付いてたの? 兄さん」
今の異様に踏み込んだ斬撃は、わざと隙を作っていた。兄が反撃しやすいように。そして、そこに合わせて避けようのないカウンターを叩き込めるように。
完全な相打ち狙い。私が狙ったそれを、兄は見抜いていたようだった。だから、反撃もなく仕切りなおした。
「怒ったフリをしても実は冷静なんだね。シルフィが死んだことも本当は、どうでもいいんじゃないの?」
私の挑発に兄の表情が再び歪む。だが、今度はすぐに斬りつけては来なかった。
「あいつが死んだのは……俺のせいだ。俺が母さんとの約束を守れなかったから、あいつが死んだんだ。
……俺があいつを巻き込んだ」
兄は最後には顔を伏せて、そんなことを言いだした。
母との約束。スキルドが言っていたことだろう。母に私を守ると約束して、それを守れなかった。
「ふぅん。よくわかってるじゃない、兄さん。じゃ、責任を取って早く死んでくれない? 私に殺されてくれない?」
言いながら、私は攻撃を打ち込んだ。全力を込めた一撃。本気で殺すつもりで振るう。
だが、ガキン、と激しい音を立てて、私の赤い剣は兄の振るう剣に弾かれた。今回の戦いで初めて兄は、私の剣を自分の剣で受けたのだ。
兄の方は踏み込むことなくその場で剣を振るっただけだが、そのただならぬ気迫を感じて私は後退した。
「……まだ俺は死ぬわけにはいかない! 俺の人生を滅茶苦茶にしたあいつを……魔王を殺すまでは!」
言いながら兄は、ゆらり、と剣を構えなおした。
「俺は魔王を殺す。だから……だから邪魔をしないでくれ、母さん!!」
「!?」
兄が一気に踏み込んできた。動揺する私に構わず、何度も剣を叩きつける。
私は後退しながら必死に、赤い剣で、盾で、それらを受けた。
母さん……?
私を通して兄が見ているのは、その行いを咎める母の姿だというのか?
──あいつは、お前を見るたびに母親の幻影が重なるようになってしまったんだ──
スキルドの言葉を思い出す。
攻め続けているはずの兄の表情には、急に余裕がなくなっていた。剣が折れる危険も考えず、私の赤い剣に力いっぱい斬撃を叩きつけてくる。
しかし、今度は攻撃の苛烈さが半端ではない。私は剣を下げ、盾の制御に集中した。
兄の全ての攻撃を弾き返す。3倍の魔力を込めた盾は壊れない。だが、その激しい打ち込みに何度も火花が散った。
「シルフィは……あいつは俺を受け止めてくれたんだ! 俺に寄り添うと言ってくれたんだ! ……なのになんで、どうして、母さんはそんなものまで奪うんだよ!!」
剣をぶつけながら、兄は叫んでいた。初めて聞く兄の生の感情だった。
その悲痛の叫びはどこまでも痛々しい。
私が制御する盾は、連撃を尽く弾き受け流していたが、やがてこちらにも疲労がたまってくる。
兄の方は、まるで攻撃の勢いが衰える様子はない。
……まずい!
「おおおぉぉぉぉぉーっ!!」
兄の全霊を込めた斬り上げは、受け流しを誤った盾を引っ掛けたまま、私の鳩尾を直撃した。
「がふっ……!?」
鈍器となった盾が私の下腹にめり込む。盾は壊れない。私は数メートルの仰け反り、膝をついた。
息が詰まる。
「……っ!? は……げほっ……」
地面に手をついて、何度もせき込む。うまく息ができない。
苦しくて立ち上がれない。兄が荒い息遣いで、ゆっくりと寄ってくるのがわかった。
ごめんなさい、ネモ。私やっぱり勝てなかった……。
駄目だった。相打ちすらさせてもらえない。自分の不甲斐なさに涙が溢れた。
泣き顔のまま見上げると、ゆっくりと剣を振り上げている兄のシルエットがあった。
いつの間にか周囲は、敵味方が入り乱れる乱戦に突入していた。もう私を助けてくれる人はいない。
私、死ぬのかな……? でも、これでネモに会えるんだよね?
そう思えば怖くはない。しかし、涙は止まらなかった。
この涙は恐怖の涙か、それとも……?
振り下ろされる剣を直前まで見届け、私は目を閉じた。直後に訪れるであろう、意識の消滅を待ちながら。
首筋に痛みが走った。だが少しチクリとしただけで、それ以上の痛みはない。首を撥ねられるというのは、こうもすぐに楽になれるものなのかと思った。
…………。
いや、おかしい……。
意識があまりにもはっきりしている。体もまだ疲労を訴えてくる。戦場で戦う兵士達の怒号と悲鳴が、まだ私がこの世にいることを自覚させる。首筋の痛みも継続して、はっきりと主張してくる。私はゆっくりと目を開けた。
「!?」
兄が剣を振り下ろした姿勢のまま固まっていた。剣は私の首の側面に僅かに食い込み、だがそこで止まっていた。
血が首を伝う。私はその姿勢のまま動けなかった。
兄の手が震えている。剣をあと数センチ押し込めば、私の意識は途切れるはずだ。だが兄の剣はそれ以上動かない。
どうして……?
その剣はそれ以上押し込まれることはなく、やがてそれは兄の手を滑り落ち、重力に引かれて地面に落ちた。
私が兄の顔を見上げると、
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────っ!!」
兄は右手で片目を抑え叫んだ。ゆっくりと後退りながら。私は呆然とその姿を見送るだけだった。
「なんで……なんで邪魔をするんだよ母さん。なんでそんな目で俺を見るんだよ!? やめてくれよ」
兄は泣きそうな声で、呻いていた。
「……仕方なかったんだよ。俺だって生きるために……毎日必死だったんだ! 仕方ないだろ! これ以上俺を追い詰めないでくれよ……母さん!!」
剣を落とし、眼を抑えて子供のように泣き叫ぶ兄。
兄さん……。
私は初めて兄を憐れんだ。
──ヴィレントはな、あいつはあいつで……気の毒なやつなんだよ──
スキルドはそう言っていた。
そうなのかもしれない。兄は、この人は……。
私は右手を伸ばし、ゆっくりと兄に歩み寄った。
「来るなぁぁぁっ!!!」
兄が裏返った声で叫び、左手を振り回して私を拒絶した。私の足が止まる。
「なんでだよ、チェント。どうしてお前は……どんどん母さんに似てくる。母さんと同じ目で、同じ顔で、俺を責めるんだ!!」
自覚したこともなかった。
兄の見ていた母の幻影は、幻影だったものは、時と共にどんどん幻影ではないものに近づいていたのだ。
私の容姿が母に近づくにつれて、私の拒絶は母からの拒絶に、私の怒りは母からの怒りに、私の泣き顔は母の泣き顔に見えていたのだろう。兄の中で、大好きだったはずの母の姿に。
だから、何度もチャンスはあったはずなのに、私を斬れなかったのだ。
強かった、恐ろしかった兄の姿が、まったく別の生き物に見えた。
何かの間違いで人生が狂ってしまった、とても可哀想な、ただの青年に。
私は赤い剣を──兄の苦しみを終わらせる2本の剣を呼び出した。
狙ったのは兄の首。もっとも苦しむことなく逝ける場所。
だが、もがき苦しんでいたはずの兄は、その攻撃をも寸前で伏せてかわし、脇をすり抜けて再び落ちていた剣を拾っていた。
兄は振り返り、右手で剣を構えている。頭を左手で抑えて、苦しそうな表情はそのままだった。
どうして、そんなになってまで戦うの? 兄さん。
大好きだった母は死んだ。寄り添って生きるはずのシルフィは私が殺してしまった。
この人は何に縋って戦いを続けるのか?
同じなのかもしれない。大切な人を──ネモを失って、自暴自棄のまま兄を討とうとした私と、変わらないのかもしれない。そう思った。
魔王を殺した先にこの人に救いはあるのだろうか? きっとない。全てを失った兄がただ1人残されるだけだ。
それでも兄は、苦痛に歪む表情のまま、肩で息をしながら、剣を構えて私を睨んでいた。
「もういいよ、兄さん。終わりにしよう。私も一緒に逝くから。母さんに謝りに行こう」
そこには父さんがいる、母さんがいる。きっとネモにも会える。
だから寂しくはない。
むしろ、ここでどちらかが倒れるなら、残された方は本当に1人ぼっちになってしまう。
それはとても寂しい気がした。
私は剣を振るった。兄は避けた。だが、その動きに以前のような切れはなかった
足を縺れさせながら、必死に赤い剣を避ける兄。2撃目は左腕に掠った。
今まで1度も攻撃を受けなかった兄に初めて傷を刻んだ。だが喜びはない。もう兄も限界なのだろうと思った。
そのまま攻撃を続ける。私の剣は兄の肩に、足に、次々と傷を作った。
まだ兄は倒れない。ふらつきながら剣を握っていても、反撃を繰り出す余裕はないようだった。
もういいでしょう、兄さん。
次に踏み込んで斬り上げたその一撃は、遂に兄の持っていた鉄の剣を遠くに弾き飛ばした。
丸腰になった兄は驚いた顔で、飛んでいく剣を目で追っていた。すぐに拾いに行ける距離ではない。
私達は不幸な兄妹だったね、兄さん。
私は迷うことなく両手の剣を振り上げ、最後の一撃を──振り下ろした。
私もすぐ逝くから……少しだけ……少しだけ先に待っていて……。
「チェント……」
振り下ろしながら聞こえた、兄の最後の言葉に耳を傾ける。
「──すまない」
何が起こったのか──
終わったと思った瞬間、斬られていたのは何故か私の方だった。
兄の手には、懐に忍ばせていたのだろう──短剣が握られていた。
胸元をバッサリと斬られたのがわかった。鮮血が舞う。
苦痛に歪んでいたはずの兄の顔には、再び鋭い光が宿っていた。
なんで……?
どうして……?
兄さん、あなたはまだ戦い続けるの? そんなぼろぼろになりながら。
ゆっくりと、自分の体が倒れていくのがわかった。
苦しいだけじゃないの? あなたは何を求めて戦うの? 兄さん!
意識を失う直前に私が見たのは、背を向けて走り去る兄の姿だった。
そして、私の意識は闇へと消えていった。
ネモがいた。後ろ姿しか見えないが間違えるはずがない。
私は、ずっと会いたかったその背を追いかけて、後ろから抱きしめた。
「ネモっ!」
会いたかった、やっと会えた。
抱きつき喜ぶ私と対照的に、ネモは何故か戸惑った顔をしていた。
チェント、何でここにいるんだ? と彼は問いかけてくる。
「会いたかったからに決まってるじゃない」
もう放さない、ずっと一緒だよ、ネモ。
だが、彼はやんわりと私の手を解くと、目線を合わせて語った。
お前はまだここに来ちゃいけない。お前を連れて行くわけにはいかないんだ。
優しい声でそう語りかける。
「どうして? なんでそんな酷いこと言うの? 私はあなた無しじゃ生きていけないよ」
泣きそうな私の頭を撫でて、彼は笑顔で言った。
しっかりしろ、チェント。お前にはまだやることが残っているんだ、と。
俺はお前に生き方を教えた。もう兄に頼らずとも生きていけるように。だから、頑張れ。お前なら……大丈夫だ!
彼は私を抱きしめた。そして、後ろを振り向き歩き始めた。
「待って、ネモ!」
私は彼の背を全力で追った。だが、ゆっくり歩いているだけのはずの彼の背に追いつけない。
どんどん遠ざかっていく。まだ言いたいことが山ほどあるのに。
やがて、その背は見えなくなっていく。
ネモ──!!
目が覚める。石の天井があった。
首を動かすと、周囲にいた兵士達の酷く驚いた声が聞こえてきた。
上半身を起こす。そこで自分が魔王城内の兵士の詰め所に寝かされていたということが分かった。
私以外にも、何人もの兵士が床に敷かれた布の上に寝かされていた。
誰が寝ていて、誰が死んでいるのかわからないような状態だった。
私は……生きてるの?
私は上半身の服を脱がされ、肌に何重もの包帯が巻き付けてあった。
包帯の下に、確かにあの時兄に付けられた傷の感触がある。あれは夢などではなかった。
「どうやらお前も死に損なったようだな」
その声に振り向くと、そこには包帯塗れになったガイアスがいた。
私以上に満身創痍であちこちに血が滲み、左手には杖をついていたが、声はしっかりしていた。
ガイアスから話を聞く。私を見つけて運び込んだ兵士の話によると、私の怪我はもういつ死んでもおかしくないような状況だったらしい。
駄目で元々のつもりで、できる限りの手当てをして寝かせていた。それから数日経った今日、私は奇跡的に目を覚ましたのだった。
はっきりしていることは、兄はあの後、止めを刺さなかったということだ。この傷で助かったのは偶然かもしれないが、兄は結局最後まで私を殺し切れなかったのだ。
「戦いは……どうなったの?」
私が倒れたのは開戦直後、意識を失っている間、戦いの行方はどうなったのだろうか?
ガイアスは、自嘲気味な笑みを浮かべながら答えた。
「魔王軍は……我々は負けた」
その報告には現実感がなかった。まるで遥か遠くの国の知らせを聞いているかのように、その話に耳を傾けていた。
「俺も目を覚ましてから聞いたことだがな」
ガイアスは語る。
私が倒れた後、ガイアスもまた戦場に倒れ、数日生死の狭間を彷徨っていたのだという。生き残った兵士からの報告で、敗北を知ったのだと彼は言った。
「こちらの名立たる将は、全てヴィレントに討たれてしまった。そして……魔王様が討たれた」
祖父が死んだ。この事実を私は複雑な感情を浮かべて聞いていた。結局、最後まで大したことは話せなかった、多くを語らなかった祖父。だがあの人が私に目をかけてくれていたことは事実なのだ。
そして、兄はあのぼろぼろの状態から立て直し、祖父を討つまでに至ったという事実は私を驚かせた。
「最後の最後まで、軍勢では我が軍はベスフルを圧倒していた。だがその全てをまともに指揮できる将がいなくなり、降伏せざるをえなくなったのだ」
せめて俺が最後まで動けていれば、と無念そうにガイアスが言った。
「我々は結局、最後までヴィレント・クローティスを侮っていたということだろう。どれほど高く評価したつもりでも、奴が魔王様より強いはずがないと。だから我が軍が負けるはずがないと、誰もが思っていた」
最初から奴の強さを正確に捉えていれば、やりようはあったはずだ、と右手を握りしめ悔しそうに、ガイアスは言った。
「明日にはベスフル軍との講和会議が行われる。魔王領は今まで以上に厳しい立場に立たされるだろう」
衰退していく魔王領。祖父が目指した魔王軍の再興の希望は潰えたようだった。
「それでも俺は魔王領を立て直さねばならん。お前はどうする?」
聞かれて私は考える。
ガイアスと共に魔王領を立て直す?
いや、もうネモもいない、祖父もいない。私がこの場所に残る理由はもうない。
「魔王領を出るよ。私がここに残る理由がないから」
「ではどうするのだ? ベスフルに戻るのか?」
ベスフルに戻る?
いや、それこそあり得ない。1度裏切った私を、あの国が迎え入れるとは思えない。私も戻りたいとも思わない。
私は首を横に振った。
「あの国にはもう戻れない。あそこに私の居場所はないから」
では、どこへ行くのだ? と問われる。
どうすればいいのだろう?
──お前にはまだやることが残っているんだ──
ネモが夢の中で言ってくれたことを思い出す。
私は──
不意に後ろから声を掛けられて、私は書いていた日記を閉じた。
椅子に腰かけたまま振り返ると、男の子が泣きながら服を掴んできた。
どうしたの? と聞いてあげると
「母さん、姉さんがぶったよう……」
鼻水をすすりながら、そんなことを言った。
よしよし、と頭を撫でてやると、家の入口の前に女の子が現れる。少し怒った表情をしていた。
2人は双子のはずなのに、男の子の方が度々泣かされてくるのが、少し可笑しかった。
弟に乱暴しちゃ駄目でしょう? と私が叱ってやると、
「だってえ……私の大事なこれ、壊したから……」
手の平には、壊れた髪飾りがあった。
まるで、昔の私と兄さんみたいだ、と思った。
だから私は、かつて母がそうしたように、2人に謝って仲直りすることを教えた。
素直に謝った2人の頭を撫でると、2人は喧嘩した直後なのに、揃って笑いながら外へ飛び出していった。私は微笑んでそれを見送る。
私は、テーブルの上の閉じた日記を振り返った。
あの戦いから5年──。
あの後、私はいくつもの海を越え、遠く離れたこの地に移り住んだ。
全てはあの子達に、私の、私達の業を託すことのないように。
最初は、祖父と父との間に始まった確執。それは母に、私達兄妹に受け継がれ、多くの人を巻き込んだ。
私は多くのベスフルの人々を手にかけた。殺された人達の家族は、きっと私を恨むだろう。
あれは戦争だったのだと言い訳することはできるかもしれない。だが少なくとも、彼女──シルフィを殺したのは、間違いなく私怨だった。
身勝手で多くの人を殺めた私は、恨まれても仕方ない。殺されても仕方ない。心からそう思う。
祖父や父を恨んではいない。あの人達も自分の信じた道を必死に生きた結果なのだと思う。
だがそれを、その業を決してあの子達に残してはならない。こんな悲劇はもう繰り返してはならない。
だから私は、私を知る人がいない地へと来た。遠い将来、もしあの子達があの地ベスフルを訪れることがあっても、私との繋がりが残らぬように。私への恨みがあの子達へと返らぬように。
身勝手な願いかもしれない。でも、あの子達に罪はない。
あの子達が大人になった時、全てを話そうと思う。
私の事、そしてあの子達の父親──ネモの事も。
全てを話した後、それを胸に刻んで生きるか、忘れて生きるか、それはあの子達自身が決めればいいと思う。
そして、それを見届けた後ならば、私はどんな罰でも受けようと思う。
兄ヴィレントはあの戦いの後、ベスフル軍から姿を消したと聞いた。
仇討ちを成し遂げて、満足して死んでしまったのか? それともまだ何処かで生き続けているのか? 何もわからない。
ただ、もう2度と会うことはないのだろうと、漠然とそう思った。
だが、もしもう1度会えることがあるのなら、その時はちゃんと話をしたい。会えるのは生きている間ではないのかもしれないけれど、もし会えたなら、今度こそちゃんと兄妹で語らいましょう。心からそう思った。
窓から見える景色には、青い空と穏やかな風が漂っていた。まるで、あの悲劇がただの夢だったのかと思わせるほどに。
ネモ……、あなたの元へ行くのはまだまだ先になりそうだけど、どうかそれまで、あの子達を見守っていて──。
窓の外から微かに聞こえる子供たちの笑い声を聞きながら、私は天に祈った。
ここに記したのは昔話。
これは私、チェント・クローティスの罪の記録──その全てである。