おじさんは予防線にはなりません

今度こそ、宗正さんは私の手を掴んだまま事務所に戻っていく。

「それで、頼みたいことってなんですか?」

無理矢理自分の席の椅子に座らされ、少しだけ落ち着いた。

「んー、ないよー」

「……はい?」

ふにゃんと気の抜ける顔で笑われ、私のあたまの中にでっかいクエスチョンマークが浮かんでくる。

「詩乃が困ってそうだったからー」

ああもう、褒めて褒めてってしっぽ振り振りで見られると、なにも言えなくなっちゃう。

「……ありがとうございます」

「ご褒美、欲しいなー」

宗正さんの茶色い瞳が、いたずらっ子のようにきらりんと光った。


欲しいご褒美はあとから教えてあげるって言われて、変なことじゃなかったらいいなーと祈りながらいつも通り仕事をこなす。

「羽坂」

声をかけられて視線を向ける。
いつものように池松さんは、後ろ向きで隣の椅子に座った。

「その。
……大丈夫か?」

心配そうにサーモントブローの下の眉が寄る。
きっと気配り上手な池松さんのことだから、さっきの騒ぎは気づいていたのだろう。

「大丈夫ですよ」

笑って答えると、池松さんもほっと表情を緩ませた。

「それからこれは、今後のために確認なんだが。
……宗正と婚約したわけじゃないんだな」

ペアリングの事情は布浦さんの口からあっという間に広がっていた。
当然、池松さんの耳にも入っているはずだ。

「私と宗正さんが婚約したら、どうするんですか」

我ながら、ひねくれた質問だ。
池松さんは仕事のことで聞いているのに。

「社則で正社員と非正社員の夫婦は同じ職場にはいられない。
そうなると、羽坂の立場が悪くなるんだが……」

予想通りの答えなのに、がっかりしている自分がいる。
欲しい答えなんて期待したって無駄なのに。

「心配していただいてありがとうございます。
でも、婚約したわけじゃないので」

「そうか。
でも結婚が決まったときはすぐに言えよ?
羽坂が不利にならないように考えるから」

「はい、ありがとうございます」

いまの私はちゃんと笑えているだろうか。
こんなに……こんなに、胸をかきむしり、悶えるほど苦しい想いを、この人に知られてはいけない。
夏の盛りの眩しい季節だっていうのに、私の心は……どんよりと曇り空。
自分のはっきりしない態度のせいだっていうのはわかっているけど。

「盆休みは詩乃、どうするの?」

「お盆休み……?」

私が首を傾げると、大河はおかしそうに笑ってハイボールをくいっと飲んだ。

大河――宗正さんとの距離は若干、縮んだ。

あの日、布浦さんに絡まれていたのを助けてくれた日、お願いされたご褒美のせいかもしれない。

あれはほんとにもう、……恥ずかしかったけど。

でも、手を繋いで歩くくらいは平気になった。
たまに部屋に泊まることもある。

「オレ、お盆ずらして少し遅くに休みを取るんだけど。
できたら詩乃と泊まりで旅行に行きたいなー……なんて」

なんでもないように大好物のポテトをぱくぱく食べている大河だけど、実はものすごく勇気を出したんだってわかっている。
結構飲んでもあまり顔色の変わらない彼の耳が赤くなっているし。

「……派遣はお盆休みないから」

会社自体が閉まるなら別だが、マルタカの営業はカレンダー通りで決まったお盆休みはない。
社員は決まった日数、八月中に自由に取るようになっているみたいだけど。

「そっかー」

がっくりとうなだれた大河には悪いが、断れてほっとしている自分がいる。
このまま泊まりで旅行なんか行ったら、……流されてしまいそうで怖い。

大河はかなり楽しみにしていたみたいで、ポテトをもそもそ食べながら黙っている。
しっぽ丸めて耳もぺしゃんと垂れている大河わんこは非常に可哀想なので、日帰りだったら行ってもいい……かな。

「大河」

「じゃあさ」

同時に口を開いて苦笑い。

「詩乃どうぞ」

「大河が先でいいよ」

「じゃあ。
……オレが旅行の日、詩乃を雇うっていうのはどう?」

「……はい?」

ドヤ顔の大河を見つめたまま、ぱちくりと一回、大きなまばたきをしてしまう。

「オレが旅行で休ませて、詩乃の給料減るのいやじゃん?
だから旅行の日、オレが詩乃を雇うの」

すみません、ちょっとなにを言っているのか理解ができません。
というかそこまでして旅行に行きたいの?

「……ダメ?」

胸の前で指を組んで手を合わせ、うるうると瞳を潤わせて見つめられるともーダメ。

「……わかった」

「やったー。
……すみませーん、ハイボールひとつ!」

心配事はなくなったとばかりに、新しいお酒を頼む大河には笑うしかない。
ほんとつくづく、私は大河に甘いと思う。
「じゃあ、また明日」

きょろきょろと周囲を見渡し、大河はちゅっと私の額に口づけを落とした。

「……また、明日」

ぶんぶんと手を振る大河に見送られて改札をくぐる。
電車に乗るとどうにか確保できたドア端に寄りかかった。


大河は不意打ちのあの一回以降、唇にキスしてくることはない。
いつもだいたい、額にキスしてくる。

でもそれはそこまでしか手を出す気がないんじゃなくて、私を試している。
その証拠に唇が離れると大河は毎回、私をじっと見つめている。

――キスして。

その言葉を待つように。

きっと言ってしまえば私は楽になれるのだろう。
大河に愛され、大河を愛して。
わかっているのだけれど、口にしようとすると池松さんがちらつく。

いまだに私は池松さんが諦められないでいた。
ピコン、通知音が鳴り、携帯をバッグの中から取り出す。

【帰り道、気をつけなよ】

【なにかあったら即電話】

【防犯ブザーは握っとくこと】

猫のスタンプと共に送られてきた言葉の数々に、思わずくすりと笑いが漏れる。

【わかった。
気をつけるよ】

画面に指を走らせて送るとすぐに既読になった。

【詩乃は危機感薄いから心配】

【やっぱり送ればよかったかな】

バッグの内側に下がる、赤いハート型の防犯ブザーが目に入ってくる。
私が持っていないって言ったら速攻で大河から買い与えられた。
そのうえ、遅くなった日はときどき送ってくれる。
そうなると高確率でうちに泊まりになって翌日一緒に出社し、布浦さんたちから睨まれるんだけど。

【大丈夫だよ。
暗い道は通らないし】

【帰り着いたら連絡する】

文字を打ち込むと一瞬おいて新しい文字が表示される。

【連絡無かったらオレ、速攻で行くからね】

【ほんっっっっっとに気をつけること】

心配性な大河に苦笑いしかできない。
いつものうさぎさんの、了解しましたスタンプを送って画面を閉じる。
降りる駅のホームが迫っていた。



翌日、本多課長に休みの申請を出した。

「……旅行ですか……。
……若い人は……いいですね……。
……ほんと……お気楽で……」

許可をくれるのはいいけど、陰気にねちねちと言われるのは堪える。
「……そういえば……その日は……宗正君も休みですね……」

お礼を言って早々に立ち去りたいのに、止まらない呪詛のような言葉に反応して背中がぴくんと揺れた。

「……いいんですよ、別に……。
……ええ……ええ……かまいませんとも……。
……仕事にさえ……支障をきたさなければ……」

これは暗に私と宗正さんの関係を責めているのだろうか。
そのあたりの小さなごたごたは耐えないだけに、いつもは影の薄い本多課長にぞっとした。

とにかく職場で休みは取れたので派遣会社の担当の、早津さんに連絡を入れる。

【羽坂さん、有給使えますけどどうしますか?】

返信のメッセージに思わずかくんと首が横に傾いた。
マルタカに来てようやく四ヶ月に入ったところだから、有給無いと思うんだけど……?

その旨返信し、少しして早津さんからの回答があった。
前の建築会社からマルタカへ契約の途切れなく働いているから、有給が付いているらしい。
知らなかった。

有給があるなら使うに越したことはない。
それに有給だったら大河が私を雇うなんて変なことはしないでいいし。
どういう仕組みになっているのか知らないけど、私が大河と同じ日に休みを取ったって、あっという間に広まった。

「これ。
値札はずし、お願いできる?」

ドン! と空いている隣の机に布浦さんが置いたパッキンからはベルトがはみ出ている。

「今日中に返さなきゃいけないんだけど、私、得意先と約束があるの。
じゃ、お願いね」

「……はい」

椅子に座る私をなにか言いたげに布浦さんは見下ろしていたが、すぐにふん、と顔を背け、かつかつとヒールの音も荒く去っていった。

……前回のことはもう忘れたのかな?

前もこうやって私に仕事を押しつけ、大河にさりげなーく釘を刺されたのに。
でもこうやって、誰かを好きだって気持ちを素直にアピールできる布浦さんが少し羨ましくもある。

……さっさと事務処理終わらせて、これ、片づけないとね。

月末月初の忙しいときじゃなくて、それだけが救いだと思う。
あと、大河が外回りに出ていていないっていうのも。


「羽坂、手伝うか」

もくもくとひとり、ベルトの札はずしをしていたら、隣に誰かが座った。
視線を向けた先ではいつものように、椅子に後ろ向きで池松さんが座っている。

「いいんですか?」

「手伝わないとそれ、終わんねーだろうが」

くいっと曲げた人差し指で眼鏡をあげ、池松さんは私と一緒に札はずしをはじめた。

「その、最近はどうだ?」

「最近、ですか?」

話しながらも手は休みなく動かしていく。
「まあ……あれだろうが」

目の前のパッキンケースに池松さんは苦笑いした。

「そうですね、そっちは相変わらずですけど」

私も苦笑いしつつ、新しいベルトを手に取る。

大河はペアリングで嫌がらせがやむのを狙っていたみたいだけど、じみーに続いていた。
ここまで酷いのはひさしぶりだけど。

「他は大丈夫です。
……慣れたっていうのありますけど」

マルタカのレディースファッション部勤務は最長記録を更新中だ。
ここの独特の空気にも慣れてきた。

「そうか」

ニヤリ、八重歯を見せて池松さんが笑う。
きっと池松さんにも私が言いたいことはわかっているんだろう。

「羽坂はよく頑張ってるもんな。
えらい、えらい」

池松さんの手が伸びてきて、私の髪をわしゃわしゃと撫でる。
上目で見上げると、サーモントブローの奥で目があった。

「ん?」

不思議そうに首を傾けた池松さんだけど……すぐにぴたっと手が止まる。
そのままみるみるうちに顔を赤く染め、ゆっくりと手を私から離した。

「……その。
……すまん」

目を逸らし、池松さんは照れくさそうに頬を人差し指でポリポリと掻いている。

「……いえ。
別に」

もう!
恥ずかしがらないでください!!

私の方が恥ずかしくなってくるし、……それに。
そんな可愛い姿見せられたら、胸がきゅんきゅんしちゃいますから!

でもそんなことをするのは、池松さんは私が宗正さんと付き合っているって信じ切って、ガードを完全に解いたからなんだろう。
以前と同じように接してくれるのは嬉しい。

――けれど同時に。

ますます私の手には届かない人なんだと、胸を押しつぶされ息ができなくなるほど苦しい。

「そうだ。
今度、うまいもん食いに行こう。
宗正も一緒にな」

「はい」

にかっと笑う池松さんに笑って返しながらも、ふたりきりじゃないのにがっかりしていた。



池松さんは言ったとおり、ごはんを食べに連れて行ってくれた。

――大河も一緒に。

大河は嫌がるかなって思ったけど、普通だった。

「今日は羽坂がいつも頑張ってくれている礼だ。
好きなだけ食え」
連れてきてくれたのは、会社近くの焼き肉店だった。
このお店の名前は何度か見たことがある。
経費精算の領収書で。
上得意先を接待のときに連れて行くお店だから。

「その、池松係長、ほんとにいいんですか?」

大河が遠慮がちなのもわかる。
私だってほんとにいいのか気になるもん。

「ああ、ボーナスもらったっておじさんは、こんなときくらいしか使い道がないんだ。
遠慮するな」

「じゃあ、遠慮なく!」

大河の顔がぱーっと輝き、うきうきとメニューを開く。
こういうとこほんと、羨ましい性格をしている。

「羽坂はいいのか?」

「だいたい、た……宗正さんに任せてたら大丈夫なので」

大河、って言いかけて慌てて言い直す。
ここしばらくの付き合いで、大河は私の好みや食べる量を私以上に把握していた。

「宗正を信頼してるんだな。
そういうのは……羨ましい」

少しだけ笑った池松さんは淋しそうなんだけど……奥さんは池松さんを信頼していないんだろうか。

大河が注文をすませ、すぐに飲み物が出てくる。
池松さんと大河は生ビール、私はカシスソーダ。

「んー、羽坂がこれからも長く、勤めてくれることを願って。
かんぱーい」

軽く三人でグラスを合わせたものの、すぐに大河がぶーっと唇を尖らせた。

「確かに、そうなんですけど。
でもそれだとオレ、いつまでたっても詩乃と結婚できなーい」

大河の口から出た二文字に、手がびくっと反応してしまう。

派遣と正社員の夫婦は社則で同じ職場にいられないと池松さんに聞いている。

それに前に大河は言っていた、このペアリングをただのペアリングにする気はないって。

意味はわかっていても、はっきりと言葉に出されると動揺してしまう。

「宗正が会社を辞めれば問題ないだろ」

「池松係長、酷いですー」

大河が泣き真似し、池松さんはにやにや笑いながらビールを飲んだ。

「まあけど、こんな宗正でもいなくなると、困るもんな」

「こんなって!
こんなって!
酷過ぎるー。
……あ、詩乃、肉焼けてるよ」

しくしく泣き真似していた癖に、急に真顔になって大河は私のお皿にぽいぽい焼けたお肉を入れてきた。

「どんどん食べて、どんどん。
池松係長のおごりだし」

「ほんと君、遠慮がないね」

苦笑いで池松さんはゴクゴクとビールを飲んでいる。
にこにこ笑っている大河に私も笑い返してお肉を口に運ぶ。
でも、大河が頼んでいたのは特上のお肉だったのに、味はあんまりわからない。

「おいしいね、詩乃。
池松係長のおごりだと思うとさらに」
ぱたぱたしっぽ振り振りの大河は眩しい。
つい、悩んでいることなんて忘れちゃう。

――だからずっとそれで、私は自分を誤魔化しているって自覚もあるけど。

でもいまは。

――忘れて焼き肉、楽しもう。

「でも意外だったな。
まさか宗正が羽坂が付き合うなんて思ってもなかった。
しかも、結婚まで考えてるなんて」

池松さんは新しいお肉をお皿から焼き網の上にのせた。
さっきから結婚、結婚と言っているが、池松さんの中では私と大河が結婚するって決定事項なんだろう。

「池松係長、なんかオレのこと、誤解してるー。
オレは詩乃みたいに可愛い子が好きなんですよ。
しかも一本、ちゃんと筋が通ってるとか最高じゃないですか。
だから池松係長も詩乃を可愛がってたんでしょ?」

ゴクゴクとビールを一気に飲み干し、大河はがつんとジョッキをテーブルの上に置いた。
じっと池松さんを見つめる大河に一瞬、その場がしんと静まり返った。

「まあな」

じゅーじゅーと肉の焼ける音だけが響く。
まわりの喧噪はまるで、遠い世界の出来事のようだ。

「前の派遣の子だって、確かに気遣ってましたけど。
ここまで頻繁にメシ誘ったりとかしてなかったですし。
もしかして、詩乃に気、あるんじゃないですか」

大河はきっと酔っている。
だからこんな、池松さんを挑発するようなこと。

「そりゃ、羽坂は可愛いさ。
頑張り屋でうちの社員たちの難癖も堪え忍んで。
そのくせ、愚痴や嫌みも言わない。
可愛がりたくもなるだろ。
……でもな」

言葉を切ってビールを一口飲み、かつんと堅い音を立てて池松さんはテーブルに戻した。
瞬間、ピンと大河の背筋が伸びる。
私も知らず知らず、背筋を正していた。

「人として好意はあるがそれだけだ。
恋愛感情なんてない。
それに俺には妻がいる。
妻以外の人間を愛するなんてあるわけないだろ」

じろり、眼鏡の奥から睨まれ、大河の背中がびくんと揺れる。

「……すみません。
オレ、飲み過ぎてたみたいです」

しゅん、小さく大河の背中が丸まった。
こうやって素直にすぐに謝れるとこ、大河のいいところだと思う。

「ちょっと今日は、羽目を外し過ぎたな」

「本当にすみません」

「わかれば、いい」

なんでもないように池松さんがビールを口に運び、その場の空気がほっと緩んだ。

「うわっ、肉焦げてる!!
ほら詩乃、早く食べて、食べて!
池松係長も!」

慌ててお肉をお皿に入れていく大河に私も箸を取る。
池松さんはビールを飲みながらおかしそうに見ていたけれど。

「……あるわけないんだ」
「池松係長!
焦げてますって!」

「おうっ」

大河に急かされて箸を握った池松さんが、ぼそっとなにを呟いたのかまでは聞き取れなかった。



穏やかなお盆がすぎると、……大河との旅行がやってくる。

「お待たせ、詩乃」

車で私を迎えにきた大河は、黒縁スクエアの眼鏡をかけていた。

「おは……よ」

「ん?
あ、もしかして眼鏡似合ってない!?
だから嫌いなんだよ、眼鏡ー」

がっくりと大河はハンドルにもたれ掛かっているが……違うのだ。

「あの、ね。
……眼鏡、似合ってる」

私って眼鏡フェチだったんだろうか、そんなことを考えてしまうくらい、眼鏡の大河にドキドキする。

「……ほんとに?」

なぜか大河は疑いの眼差しで、上目で私をうかがった。

「うん。
眼鏡の大河、かっこいい」

「やったー。
じゃあオレ、ずっと眼鏡かけてるー」

ぱーっと顔を輝かせ、大河は見えないしっぽをぱたぱた振っている。

「乗ってー。
出発するよー」

私が車に乗り込みシートベルトを締めたのを確認し、大河は車を出した。

今日は一泊で旅行だとは聞いているけど、どこに連れて行ってくれるのかまでは聞いていない。
当日のお楽しみだって。
ちなみに眼鏡は、運転するときだけなんだって教えてくれた。

「昼ごはん食べてちょっと散歩したらチェックインするから。
宿は温泉だよー。
楽しみにしてて」

「うん」

エアコンで冷えないように膝掛けとか、反対に暑くて喉が渇かないように飲み物とか、至れり尽くせりだ。
それに車は高速に入ったけれど、トイレを気にしないでいいように、ちょこちょこと休憩も入れてくれる。

――大河が。

この旅行に勝負をかけているのはわかっている。
だから私も……そのつもり、だった。


大きな湖を中心に広がる温泉地に入ると、大河は適当な駐車場に車を預けた。

「眼鏡はかけていこーっと」

私と手を繋いで顔をのぞき込み、眼鏡の奥で大河はにっこりといたずらっぽく笑った。
その笑顔にやっぱり、胸がドキドキする。
私は眼鏡フェチじゃないはずだけど……でもこれは、これでいいんだ、きっと。
事前に予約をしていたのか、お昼は湖の畔の、カジュアルフレンチレストランだった。
窓からは湖が見渡せて気持ちいい。

「今日の詩乃、可愛い」

「そ、そうかな」

黒チェックのフレアスカートに白のカットソーを合わせただけなんだけど、大河は嬉しそうに笑っている。

「うん。
可愛い」

にこーっと笑われるとなにも言えなくなってしまって、熱い顔で俯いた。


昼食を食べ、手を繋いで湖の周りを散歩する。
観光地化されているのでおみやげ屋やちょっとしたお店が点在している。

「あ、詩乃に似合いそう」

ハンドメイドアクセサリーを売っているお店で、ビーズでできた繊細なバレッタを手に取り、大河は私の髪に当てた。
白でレースのように編み込まれているそれはとても可愛い。

「詩乃、好きでしょ、こういうの」

「うん。
買おっかなー」

「ピンクとブルーもあるけど……詩乃は白だね、白。
決まりっと」

バレッタを手にレジに向かっていく大河を慌てて追いかける。

「自分で買うから!」

「ダーメ。
旅行中は詩乃にお金、使わせないって言っただろ」

大河は私の制止なんて聞かずに、さっさとお金を払ってしまった。

「はい、詩乃」

「あ、ありがとう」

受け取るだけで、なんだか恥ずかしい。

『旅行中は詩乃、オレのお姫様だから』

出発してすぐ、大河に言われた。

だからお金は気にしなくていいし、なんでもわがまま言って、だって。

旅行の話のあと、有休取れたから休みのことは気にしないでいいよって大河には伝えた。
それでも、自分のわがままのために私が休みを取ってくれたのが嬉しいからなんだと、大河にしては珍しく、ぼそぼそと話してくれた。


湖の周囲をしばらく散策して、車に戻る。
駐車場出発し、街を出て山に入っていく。
くねくねと曲がりくねった道を登り森を抜けると、大きな旅館に出た。

「今日、泊まるのはここ」

いいよって断ったのに、私の荷物も持っている大河に付いて旅館に入る。
ロビーだけでも気後れするほど立派なのに、案内された部屋は広くてきれいで、いろいろ心配になってくる。

「大河、無理してない?」

「無理ってなに?」

追求を許さないようににっこりと笑われ、黙るしかない。