龍は昔から、友達をつくるのが上手なタイプではなかった。
まだランドセルが真新しかった頃は、誰にでもよく笑顔を見せていたけれど、成長するにしたがって無表情に近いものになった。
せっかくの可愛い顔が台無しだからもっと愛想良くしなさいと、長い休みの度に家に来た親戚のおばさんがよく言っていた。
たぶん、それが龍にとっての原因だと、莉依子は思っている。
周りの大人があまりに『可愛い』と言うものだから、龍は笑わなくなった。ちなみに龍の両親はどちらも息子に対して『可愛い』と言った事はほとんどない。
「りいこちゃん」
「……あ? あ、はい」
ぼんやりと今の龍に昔の龍を重ねてみていた莉依子は、鶴来に声を掛けられて我に返った。
「りいこちゃんにとって、久住ってなんなの?」
「……え?」
「何言ってんだお前」
「久住は黙っててよー。ね。どんな存在? お隣のお兄ちゃんとか、憧れのお兄ちゃんとか、初恋の人とか色々あるじゃん?」
「ツル」
「ちょっとだけ、ね。教えてくれない?」
「え……」
どんな存在、と言われても。
莉依子は照れることも迷うこともなく、真っ直ぐに答えた。
「大事な家族です」
莉依子がこんなにも自分に対して絶望したのは、初めてかもしれない。
目覚めた時の、眩しい世界。
既に頭上から差し込んでいた白い光を呆然と眺めていた。
結局、昨日は莉依子が夕方近くまで『大学の保健室』でダウンしてしまっていたからというもの、まっすぐアパートへ戻ってきてしまった。
鶴来と別れてから、どこかへ出かけようと龍を誘ってみても『倒れたんだからやめとけ』で終了してしまった。
誘いを断る口実にしているのではなく、ちゃんと心配しているのが伝わってきたからこそ、莉依子は強引に押し切ることは出来なかった。
夜だって、今度こそと意気込んだのに、莉依子がお風呂から上がったのを見計らったように『ちょっと飲み行ってくる』と出て行ってしまった。
出かける際に少し抵抗を試みたものの、
『私も行きたい』
『酒の席だからダメ。未成年は連れていけねーの』
『なんで』
『なんでも』
……連れて行ってもらえなかったのだった。
それならばと、帰ってくるまで起きて待っているつもりだった。
もしかしたら、龍を変に誘惑する人間がいるんじゃないかとか色々考えすぎて、そして、慣れない事が多すぎたのかわからないけれど、莉依子は自覚するよりも疲弊していたらしく———いつの間にか眠りに落ちていた、というわけで。
しかも、ソファで寝ていたはずなのに目覚めた時はロフトの布団の上。
お腹周りに、しっかりとバスタオルが掛けられていた。
わざわざ龍が運んでくれた事は簡単に想像ついている。身体に触れられても起きなかったなんて、これまで生きてきて1度もなかったことだ。
身体が疲れてきているのだとわかっていても、やっぱり悔しい。
一体、何をやっているんだろう。
せっかく3日間だけなら泊めてくれると、約束をこぎつけたのに。
今日までしか、時間がないのに。
莉依子は、自分への苛立ちで唇を噛みしめた。
こんなに悔しい気持ちになったのは、昔龍がいじめっこにからかわれて、涙を堪えて帰ってきた時以来だ。
――ああ、違うな。
あの時は目の前が真っ赤になってチカチカしたから、悔しいというよりれっきとした『怒り』だ。
「莉依子? 何ぼっとしてんだ。さっさと食えよ」
ぺし、と頭を軽くはたかれ、莉依子は我に返った。他でもない龍が顔を顰めて莉依子を見つめている。
目の前に置かれた皿には、焼きそばが大量に盛られていた。
「あ……ありがとう」
「あいよ」
夏休みになると、よく龍の母親が作っていたのを覚えている。けれど、あの時目にしていた焼きそばとだいぶ違う。
莉依子は遠慮気味に質問することにした。
「……ねえ、龍ちゃん。これ緑色? っていうかお野菜ばっかりだけど……焼きそばだよね?」
ぐ、と詰まった龍は仕方ねーだろと息を吐き出す。
「もらいもんのキャベツで誤魔化してるからな。麺はこの前の余りだから少ねーぞ。貧乏学生だから、マメに買い足しとかできねぇんだよ」
「……いただきます」
「はいどーぞ」
慣れない手で箸を持ち、口へと運ぶ。
成程、確かに焼きそばというよりも焼きキャベツと呼んでもいいほどにキャベツが放り込まれていた。
口の中の歯ごたえを楽しみながら、莉依子は壁時計を見遣る。長針と短針が両方とも上を指す時間から1周していた。
――あれ?
箸を口に突っ込んだまま莉依子は眉間に皺を寄せた。
龍は莉依子の様子に眉を顰め、自分の箸を止めて向かいに座る莉依子に手を伸ばす。
「おい莉依子、行儀が悪」
「なんで?」
「は? 何が」
まるで子供の箸の持ち方を直すかのように莉依子の手を掴んだ龍は、いきなり不満げに睨んできた莉依子に驚いて固まる。
莉依子は構わずに続けた。
「ねぇ龍ちゃん、お昼とっくにすぎてるんだけど」
「あ? ああ、過ぎてるな」
「ってことはこれ、お昼ごはんってことだよね」
「そりゃそうだろ。つか、は? なんだよいきなり」
「なんでもうこの時間? ていうか、あれ? 私いつ起きたんだっけ。龍が出てってー、寝ちゃって、それでなんで」
「あー……」
バツが悪そうに右手で頭を掻いた龍は、莉依子の手を掴むために浮かしていた腰を元に戻すとコップに手を伸ばした。
麦茶を一気に飲み干すと、机の上に肘を置きそのままポリポリと頬を掻く。莉依子の脳裏に『龍! 行儀悪い』と叱り飛ばす龍の母親の声がよぎった。
龍のお母さんも大好きなんだよなあ。
目元が龍とそっくりで、口は悪いけどとっても優しくて、うん、どこをとっても龍にそっくりで。お父さんは莉依子にはとにかく優しくて甘くて、ひたすらに優しい人なのに、龍にはぶっきらぼうで。
あのふたりだから、龍が龍なんだなあ。
そんなことを思いだしていると「何にやついてんだよ、気味悪い」と言われた。
「女の子に向かって失礼すぎ」
「誰がオンナノコだよ」
「目の前にいるでしょ?」
「わっかんねーな」
可愛くない。
龍がとにかく可愛くない返しをしてくることに莉依子は内心腹立たしさを覚えながら、昨日の鶴来への態度を思い出す。
心を許している証拠だと思えば可愛い……かもしれない。
「もういい。それで? 何でだっけ?」
「……お前1回起きたんだよ、多分9時くらいだったか。時計見てないからわかんねーけど多分そんくらい。でも俺がまだ寝てたから寝るねーとか何とか言って、そんで今に至ると」
「……何やってんの? 私」
「いや知らねーよ」
「……なんてことを……」
ぽかんとしながら、箸を口に運ぶ作業だけは続ける。
全く記憶にない。
只でさえ時間がないというのに、なんて勿体ないことを。
最後に呟いた莉依子の言葉は聞こえていなかったらしい。
龍は再び箸を持ち直すと、目をふせた。長いまつ毛の影が頬に落ちる。
「俺は助かったけど。飲みすぎて頭ガンガンだったから」
龍が、お酒を飲みすぎて頭がガンガンになる。
まったく想像がつかない。龍の父親は夕食時に日本酒というものを少しずつ嗜む程度で、翌朝に引きずる姿は一度も見たことがなかった。
息子である龍はお酒に弱いタイプだったのかと、また新しい面を見ることが出来た気がする。飲み方の問題もあるかもしれないけれど。
「そんなに飲んだの? 学校大丈夫?」
「あー。明日、つか今日か。講義ないから」
「ふうん。女の子もいたの?」
「いたけど、途中でほとんど帰ったな。最後はヤローばっかでベッロベロ。地獄絵図」
「へえ?」
莉依子の質問の意図を深く考えなかったのだろう、そう軽く言った龍は、皿を持ち上げ残りを口の中へとかきこんだ。
・・・・・
龍は、机上に教材やらを広げ、何やら一生懸命ノートに書き込んでいる。横線しかない真っ白な紙が、みるみるうちに龍の文字で埋まっていった。
何をそんなに書くことがあるのか莉依子にはわからないけれど、質問を重ねることはつまり龍の勉強の邪魔になってしまうから、今日は必死に口を噤んでいた。
窓は全開になり、蝉の音と車の音が勝負をしている。
扇風機も回しているもののどちらも熱風に近く、真剣な表情で机に向かう龍の額や首筋には汗が流れていた。
そんな龍の姿を後ろから見ているのも、莉依子にとっては幸せな時間である。机の後ろ側に位置するソファの上で、小さく膝を抱えるようにしたまま何をするでもなくただ龍を見つめていた。
時刻は既に、17時を回っている。
昼食を終えた後、「ちょっとやることあるから」と早々にこの図になった。既に4時間は経過しているが、龍は手洗いや何かを飲む以外は手を休めていない。
こういうところ、全く変わらないなぁ……。
両膝に顎を乗せながら、莉依子は心の内で笑った。
外では飄々としていて、努力ひとつしている素振りを見せない龍。
涼しい顔をして、平均以上の事は出来てしまう龍。
しかし、本当はとてつもない努力家なのだ。
鉄棒でも野球でもサッカーでも、リコーダーでもテストでも受験でも。
全ては負けず嫌いな性格から来ているのだと、龍の母親も苦笑しながら言っていた。
昨日会った龍の友達、鶴来もそうだ。
『頑張ってるとか口が裂けでも自分で言わないタイプだな』
龍の事を、そう評していた。
鶴来は全体的に軽いというかへらへらしていてあまり良い初印象ではなかったけれど、それとなく周りをみて配慮が出来る人間に見えた。
ちゃんと龍を理解してくれている人間が龍の傍にいることは、莉依子をとても安心させた。
『幼馴染』の莉依子にだって、文句を言いながらも優しさは変わらない。
……あとは……
抱えた膝を、さらにぎゅうと両腕で抱き込む。
毎日のように電話の前に立つ龍の母親の姿が頭を過ぎった。
表向きはいつも豪快に笑い、誰にも愚痴や弱音を吐かない彼女に、莉依子は優しい言葉のたったひとつも掛けられない。何も出来なかった。
「……もうちょっと、優しさを見せてあげられないかな、龍……」
小さな小さな声は、龍の耳には届いていないだろう。
本当はここに龍の母親を連れてきてあげたかったけれど、それは出来なかった。
だからせめて、莉依子が龍に気付かせてあげることが出来たらと願う。
その時、龍の背が微かに揺れた。
同時にふう、と小さなため息が聞こえ、左手がページをめくるのと同時に右手の甲で汗を拭いている。
首周りには、細長いタオルをTシャツに挟みこむように一周させてあって、汗を吸い込むようにしていた。それでも限界はある。
エアコンを付ければいいのにと言ったところで、「少しでも節約」と返されてしまった。
お金が大事なのもわかるけれど、健康も大事にしてほしいと莉依子は思う。でも、生活できなくなるかもしれないことに責任は持てない。
――どうしたらいいかな……
あ、そういえばあの家に居た頃もこうやって汗だくで勉強する龍に、お母さんが……
あることを思い出した莉依子は、龍の邪魔をしないようにそっとソファを抜け出すと、洗面所へと向かった。
特に配慮をしなくても、これまでの数時間で何度もトイレに行ったりお茶を飲んだりと落ち着きのなかった莉依子を全く意に介さなかった龍は、大丈夫かもしれないけれど。
ドアをあけて狭い廊下を挟み、またすぐにあるドアの向こうが洗面室と風呂場だ。
この3日間で覚えた、タオルの配置。
1番小さなタオル類が収納されている引き出しを開けると、1枚出したそれを水に濡らして両手で絞る。これがなかなか難しい。
水を切ったタオルを綺麗に四角に畳み、洗面室を出てリビングを通りキッチンへ向かうと冷凍庫に閉まった。