雲ひとつない、群青色の広い空。

白いワンピース姿の美咲が、寄せる波をかわしながら、波打ち際に沿って跳ねるように歩いて行く。
それは屈託の無い、ごく自然な笑顔で。

俺は、ファインダーを覗きながら夢中でシャッターを切る。

江ノ島から片瀬東浜を通って、ここ七里ケ浜へと撮影しながら歩いて来た。
陽もかなり傾き、今日のロケは、そろそろ終わろうとしている。

そして美咲と会うのも、今日が最後だ。

カメラの液晶モニタを覗き込む美咲。
今日撮影した写真を、食い入るように見つめている。

「やっぱり、すごいね! 才能あるよ、浩介くん」

「いや、モデルがいいんだよ」

「絶対、有名なカメラマンになれるって。お金持ちになれるよー」

小悪魔っぽくウインクをする美咲。

「ねえ、お金持ちになったら、何が欲しい?」

金がいくらあっても、美咲の心は買えない。

「……そうだな、バイクかな。ハヤブサっていう世界最速のバイク」

「買えるといいね!」

無理だ。
ほんの一握りの、運に恵まれ才能豊かなカメラマンだけが、生き残れる世界だ。
平凡な俺はこのまま薄給で、しがない雇われカメラマンを続けるしか道は無いのだ。

夢なんか、もう何もない。

ただ、今だけは。

しゃがんで砂の中から拾い上げた、七色に輝く貝の欠片から丁寧に砂を払う美咲の姿を、しっかりと目に焼き付ける。

空は、いつしか夕刻の茜色へと変化していた。

美咲が愛おしい。

一緒にいるだけで幸せっていうのは、嘘だ。
自分勝手に思い詰め、ストーカーまがいの事さえしてしまった。

でも、わかったんだ。

一方的に好きな感情を押し付ける行為が、愛じゃないってことを。
好きだからこそ、美咲には幸せになってほしい。

今日で、美咲のことはきっぱりと忘れるんだ。

美咲はしゃがんだまま、貝がらをじっと見つめている。

俺はカメラを構えると、レンズを美咲に向けた。

「なあ」

「ん?」

「今まで、ありがとう」

「なに、それどういう意味?」

「今日で会うのは最後にしよう」

「……えっ」

美咲がこちらを見上げる。
夕陽の強い光に照らされて、眩しそうな。
そして、驚きと、戸惑いと、怒りと、悲しみと。
全ての感情が複雑に入り交じった、その表情に向けて、俺はシャッターを切った。

奇跡のように美しく、それでいて悲しい、最後の一枚(ショット)。

「なんで、そんなこと言うの?」

「……だって、俺は美咲が好きだから」

美咲がゆっくりと立ち上がる。
俺の声には、いつしか嗚咽が入り交じっていた。

「本当に美咲には幸せになって欲しいんだ。だから……」

美咲はまっすぐこちらを向いて近寄ると、ポケットから何かを取り出し、俺の手に握らせる。

「……最後じゃないよ」

手には、猫の姿をしたスサノオのお守り。

「これからだよ」

美咲は、俺を静かに抱きしめた。


◇ ◇ ◇


「最後の一枚」は、その年の大きな写真コンテストで金賞を取った。

そして、俺の仕事や生活は一変することとなる。





気がつくと雨はいつの間にか上がり、夕焼け空が辺り一面を茜色に染めていた。
ところどころに残された水たまりに反射した、暮れかかる太陽の光がキラキラしてて眩しい。

「さすが、元ストーカーのオジサン。ストーカー心理の分析は得意ですな」

「やめろ」

カナに美咲との馴れ初めなんて、話すんじゃなかった。
確かに、かつて俺はストーカー寸前だった。
だが、ぎりぎりのところで思いとどまり、結果として今は美咲と幸せに暮らしている。

想いを伝える方法は、いくらでもあるが。
結局は、愛する心を見失わず、しっかり自分と向き合う事が大事なんだ。
本当の幸せは、強制しても決してやっては来ない。自然に受け入れるもの。

ストーカーなんて、自己愛しか持たない最低の人間がすることだ。

「……敵はでっかい組織だ。美咲のストーカーだったあいつが、また襲って来るぞ」

図らずも、結局カナを殺し屋に復帰させてしまった。
その現実に心がちくりと痛む。

そんな気持ちと裏腹に。

「なんだか、ワクワクしてきたねっ」

両腕を思いっきり天に向けて、伸びをするカナ。
その顔は笑っていた。

あれ、カナの底抜けの笑顔を初めて見たような気がする。

カナは、水たまりを大きくジャンプして飛び越える。
かばんの取っ手にぶら下がった、アマテラス猫のお守りが小躍りしていた。