それは、数年前のこと……。





カメラのファインダー越しにマニュアルフォーカスで、彼女が着ているブラウスにピントを合わせる。

緊張しているのか、体が小刻みに震えているのがわかる。

シャッターを切った瞬間、スタジオ内のモノブロックストロボが一斉に点灯した。

うーん、体のラインが固いな。

「はい、ポーズ変えて」

声を掛けると、小声ではい、と答えながらぎこちなく少しだけ体を捻る彼女。

「あ、ちょっと待ってください」

アシスタントが近寄って、ブラウスの裾のしわを整え始める。

まいったな。

この子はおそらく、モデルは今日が初めてなんだろう。
後からクライアントに、ダメ出しされなきゃいいが。

スタイルは勿論いい。背が高くて手足も長い。
だが、そんなのはこの業界では当たり前だ。

カメラマンの俺にとっては、いくら美人だろうがスタイルが良かろうが、撮られるのに慣れている子の方が有り難い。
なにせ、1日あたりのアパレル撮影商品数のノルマは決まっているのだ。
グズグズされると、その分無給の残業時間が増える。

おそらく大学生のバイトだろうが、軽い気持ちで応募されてもなあ。

ここは、埼玉のはずれにあるアパレルメーカーの倉庫。
その片隅に併設されたスタジオで、俺はネットショップに掲載するアパレル商品の撮影業務を請け負っていた。

所謂、雇われカメラマンってやつだ。

日給は2万円ほど。
だけど毎日撮影があるわけじゃないから、月給にすると悲惨なものだ。
実績のない、駆け出しのカメラマンは辛い。

モデルは大抵が学生バイト。
いろんな服を着れて、給料もそこそこいいから人気らしい。
憧れの職業を疑似体験できるというのも、魅力なんだろう。

しかし、画像をネットに掲載する際には、顎より上は切られてしまう。
あくまで商品としての服がメインであるのと、顔が写っていると、ネットユーザーに余計なイメージを与えてしまうからだそうだ。

これを業界用語で「顔切りモデル」という。
なんだかホラーな名前だが。

つまりスタイルさえ良ければ、顔はちょっとばかしアレでも、「顔切りモデル」に採用される可能性は高いのだ。

彼女が改めてポーズを取り直したところで、ふたたびシャッターを切る。

アシスタントが次に撮影する別のブラウスを持って、彼女のそばに寄り、服を脱ぐのを待つ。
彼女はあせりながらボタンを外し、ブラウスを脱いでいく。

と言っても、裸になるわけじゃない。
下には、大抵の服には合わせやすい、白いチューブトップを着ている。

着替えている間、俺は何気なくファインダーを覗きながらレンズを上に持ち上げた。

彼女の顔にピントを合わす。

焦点が定まった瞬間、全身に鳥肌が立った。

緊張した面持ちで、俯いてブラウスのボタンを留めている彼女。

その顔に、なぜか突然ときめいて……。

ふと、彼女が顔を上げ、ファインダー越しに目が合った。

俺は、あわててファインダーから目を外す。
まるで覗き見していたのを気づかれたようで、バツが悪い。

いやいや、俺、カメラマンだし。

だが、俺は彼女のさりげない目力に、すっかりやられてしまっていた。


その日の撮影が終わって、帰り支度をしている彼女に、俺は思い切って声を掛けた。

「西内さん……だよね。あ、あのさ、良かったら今度、ポートレートモデルやってくれないかな?」

格安ショップで作った、薄っぺらい名刺を差し出す。

『カメラマン 葉山浩介 電話:080-○○○○-○○○○』

それしか書いてない。
実績のないカメラマンなので、それ以上、書きようがないのだ。

彼女は、白く小さい手で、少し戸惑ったようにそれを受け取る。

なんだろう、どきどきするぞ。
初恋の人に告白する高校生の気分だ。

「……バイト代は、あまり出せないんだけど」

「いいですよ。私、美咲って言います。西内美咲」

彼女は顔を上げて相好を崩し、柔らかい眼差しで俺を見つめた。

これが美咲との、はじめての出会いだった。





そして、話は今に戻る……。

日曜の朝。

少し肌寒さを感じながらも、雲ひとつない抜けるような10月の青空に感謝して。
ヘルメットを掴んで、心弾ませながらマンションのバイク駐車場へ行くと。

「……また、おまえか」

カナがハヤブサのリアシートにちょこんと乗っかって、足をぶらぶらさせていた。

ボブカットの茶髪は、そのままで。
相変わらずの制服姿だが、季節がら紺のカーディガンを羽織っている。

「よ、久しぶり!」

「先週もここにいただろうが。無理矢理俺を喫茶店に拉致して、パフェ5杯奢らせただろうが!」

「その時は世話になった」

「頼むから俺をツーリングに行かせてくれ。これが楽しみで仕事してるようなモンなんだから」

「また転んで記憶を失わないように、妨害してあげてる優しさが理解できないかなあ」

「そんな優しさはいらん。とにかくそこをどけ」

カナの腕を掴んで引きずり降ろそうとすると、やつはシャーっと奇声を上げて手を振りほどく。

「おまえは猫か。もう猫は勘弁してくれ。美咲が先週また野良猫を拾って来た。これで3匹目だ」

おかげで猫アレルギーの俺は、鼻炎薬が手放せない。

急にカナが真顔になる。

「今日は他でもない。オジサンに折り入って相談があって来たのだ」

「なんだ、相談て」

ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、カナと同じ制服を着た女の子が立っていた。

小柄で、身長はカナと同じくらいか。黒髪で眼鏡を掛けており、地味で真面目そうな子だ。

というか、ちょっとオタクっぽい感じがする。
目の上まで降ろした髪のせいか、表情が良く見えない。
俯き加減で、なんだか暗いオーラを放っている。ふてぶてしいカナとは真逆の雰囲気だ。

「だれ?」

「あずさ。私の友達じゃ」

カナはぴょんとハヤブサから飛び降りると、あずさと呼んだ女の子の横に並ぶ。

不良娘とオタク娘。

なんだかアンバランスだ。

「この子がどうした」

「ストーカーの悩みを抱えて困っている。助けてくれ」

口にはできないが、とてもストーカーに付け回されるようなタイプとは思えない。

「……信じてないね?」

「てか、本当にそうなら先生に言えよ。俺は役には立てん」

「元ストーカーとしての助言をくれ」

「俺はストーカーじゃなかっただろうが!」

「ほうほう」

カナはにやりと顔を歪めた。

「本当に、そう言い切れるのかね、オジサン」

こいつめ。
やはり先週、美咲との馴れ初めを話したのは失敗だった。

「……あの話は、忘れろ」

「忘れるには、賄賂が必要じゃないかなあ?」


そして、結局いつもの渋い喫茶店。

相変わらず店の奥には「かあっ」爺さんがいて、新聞紙を手に広げたまま仮死状態を続けている。

席につくなり、カナは当たり前のようにパフェを3つ注文した。

「あずさは?」

オタク少女は俯き加減でカナの耳元で何事かささやき、カナが頷く。

「マスター、レモンティーもね」

未だ、この子の声を聞いた事が無い。

「で、なんなんだ」

何が悲しくて、秋晴れの日曜の朝から、女子高生の悩み相談をしているのか。

「あずさが男につきまとわれている」

「いいじゃないか。そのまま付き合ってしまえ。青春を謳歌しろよ」

カナが冷たい目で俺を睨む。

「適当なこと言わないで。あずさ、本気で悩んでるんだから」

カーディガンのポケットからスマホを取り出すと、1枚の写真を開き、机の上に置いた。

教室で撮ったスナップだろうか。
数人の男子高校生が、机に腰掛けたり伸び上がったりしながら、この年頃特有のバカ面下げて写っている。

「この中に犯人がいる」

「俺に探せと」

「いや、犯人はわかっている」

なんだよ。じゃあ、直接そいつに言えよ。

写真の右側に、半分見切れている、いかにも影の薄い男子がいた。
背が低く丸顔で顔のパーツが小さい、黒ぶちの大きな眼鏡を掛けた少年。
見るからに、ザ・オタク。
俺はそいつを指差す。

「こいつだろ。間違いない」

「違う。トシオじゃない。確かにトシオはそれっぽい雰囲気だけど」

カナは写真の中央に写っている、手をポケットに突っ込んで机に腰掛けた長身の男の子を指差した。
髪はウェーブがかったミドルで、きりっとした目。シャープな顔の輪郭に整ったパーツ、誰が見ても超イケメンだ。
クールなイメージだが、少し吊り上げた片側の口元に、少年のようなやんちゃさも持ち合わせている。

「ユータ。こいつが、あずさのストーカー」

いやいやいや。
それは、勘違いってやつじゃないのか。

「テニス部の主将で、成績もトップクラス。明るくて優しくてクラスの人気者」

やれやれ。

「そんなパーフェクト男が、裏ではこの子をストーカーしてると」

ちっちゃい小動物二匹が、同時に深く頷く。

「ほうほう。ちなみに、このユータって奴は見るからにモテそうだが?」

「うん。それはもう、凄まじいモテっぷり。付き合った彼女は数知れず。でも、なぜか長続きはしないみたい」

「そんな奴が、なぜこの子をストーキングする必要がある?」

二匹は同時に顔を見合わせる。

「モテて彼女に困らない男が、そんなことするわけないだろ。そもそも、あずさちゃんとやらは、ユータと付き合った事があるのか?」

あずさは俯いたまま、ぽっと顔を赤くする。
えっ、あるのかよ。

「……ないです」

初めて彼女の口から出た言葉に、思わず椅子から転げ落ちそうになる。

「でも、彼に突然……告白されたんです。2週間前に」

えっ?

口数少ないあずさを見て、カナがもどかしそうにフォローを始めた。

あずさはその日、下校時間まで図書室で本を読んでいて、鞄を取りに誰もいない教室に戻り、帰り支度をしていた。
そこへいきなりユータが現れ、真面目な表情で、付き合ってくれと告白したそうだ。

「……あまりに突然だったんで、あずさ、頭の中が真っ白になっちゃって、何も言わずに教室から逃げ出してしまったの」

「それは夢だったんじゃないのか」

「夢ではない。現実なのだ」

こんな見るからに地味人生一直線な子に、モテ男が突然告白するなんてことがあるのだろうか。

「それから始まったの、ユータのストーキング。何度も無言電話を掛けてきたり、夜中、家の前でずっと2階のあずさの部屋を見上げていたり」

「本当か?」

あずさは自分のカバンからスマホを取り出すと、電話の着信履歴を俺に見せた。
確かに、ユータの名前が並んでいる。時間は夜の22時以降、深夜に及んでいた。

ん、なんか妙だな。
理由はわからんが、どこか引っかかる。

「普段、学校で会ってる時はどうなんだ。妙なそぶりはあるのか?」

「それがね」

急にカナは声を潜める。

「ユータ、あずさにフラれてから、学校に来なくなっちゃったの」

ぷるるるるる。

あずさが手にしていたスマホが、ふいに鳴り出した。

びくっとして、恐る恐る画面を見るあずさ。

「ユータか?」

「違う。トシオ」

あずさはそう答えると、俯いてスマホを耳に当て、小声で話し始める。

なんだ、トシオと仲いいんじゃないか。オタクどうし。

「心配してるんだよ、トシオ。ユータのストーキングが始まってから、よくあずさに電話かけてくる」

ふーん。

「というわけでオジサン。今晩、付き合え」

「なにをだ」

「あずさの家の前に張り込んで、ユータをとっ捕まえるのだ」

ちょっと待て、と言おうとした、その時。

からんころん。

喫茶店のドアが開いて、現れたのはあの、日傘おばさん。

「まあまあ、やっと涼しくなったわねえ」

凶器である白い日傘を手に持ちながら、さり気なく店内を見渡す。
俺は緊張して、日傘おばさんの手の動きを注視する。
あれから「殺し屋発送メール」は、来てないはずだが。

おばさんは、ゆっくりと俺たちのテーブルの脇を通り過ぎていく……。

と、その瞬間。おばさんの手元が素早く動き、日傘の先端がカナの胸元に向かって突き出された。

だがカナは攻撃を予期していたかのごとく、余裕で日傘を片手で掴むと、そのまま上に捻り上げる。

おばさんが握りしめた日傘の柄が跳ね上がって自らの顎を直撃し、アッパーカットを食らったボクサーの如く体をのけぞらせると、椅子をなぎ倒しながらその場に崩れ落ちた。

白目を剥いて、床にのびている日傘おばさん。

一瞬の攻防を、口を開けたまま唖然と眺める俺。

カナは日傘を放り投げると、平然とした顔で両手を払う。

「『仕事』を抜けるのも、いろいろ大変なのさ」

「どういうことだ?」

「殺し屋を勝手に辞めたせいで、同業の殺し屋たちに命を狙われてるのだ」

奥の席で、爺さんが不快そうに「かあっ」を連発している。

「さて、オジサン。か弱き女子高生を、ひとりで夜中に張り込みさせるってことはないよね?」

か弱きって。

ふとあずさを見やると、何事もなかったように電話を続けていた。

これが今時の高校生の日常かよ。





夜の住宅地。

道路沿いには戸建てが立ち並び、窓から家庭の明かりがぽつぽつと放たれている。
俺も美咲がいる暖かな部屋に帰りたい。

10月ともなると、夜はさすがに冷える。
薄手のシャツ姿で来てしまった事を後悔した。

あずさの家から2軒離れた路地角から、俺とカナは辺りを窺っていた。
ユータらしき男は、毎晩きっかり20時に現れるらしいが。
それが本当だとすると、ストーカーにしては、なんだか几帳面すぎて妙な気もする。

「20時まであと3分だ」

カナが塀の影から首を伸ばして、あずさの家を見上げる。
2階のあずさの部屋からは、閉め切られたカーテンを通して蛍光灯の淡い光が漏れている。

何をやってるのだ、俺は。

夜中に女子高生の部屋を覗いている。
まるで俺たちの方が、ストーカーか変質者だ。

ふと我に返り、むなしい気分に襲われた。

「……なあ、カナ」

「なんじゃ?」

「日を改めて直接ユータの家に行って、本人を問いつめた方がいいんじゃないか。夜中に張り込みとか、俺たち探偵じゃないんだから。だいたい……」

「ちょっと待って!」

カナが興奮したように、小声で俺を制する。

路地の向こう側の暗闇から、ふいに男が姿を現した。
黒色っぽいパーカーのフードですっぽり頭を覆い、ポケットに手を入れ俯き加減で、ゆっくりとこちらに歩いて来る。

「あいつがユータか?」

「わからん。体型はそれっぽいけど」

男はあずさの家の正面まで来ると、道路の反対側にある街灯の下に立って2階を見上げた。
だが、フードが街灯の光を遮り、顔は見えない。

俺は肩に掛けたメッセンジャーバッグから、商売道具である一眼カメラを取り出した。
ファインダーを覗き、レンズを望遠側にズームさせる。

ダメだ。
アップにしても、暗すぎて顔の表情は捉えきれない。

シャッタースピードを3秒に設定して、手ぶれを抑えるために塀の壁に腕を押し当てながらカメラを構え、慎重にシャッターを押す。
長時間露光だ。
シャッターを長く開ける事により、暗い部分を明るく撮影する。

撮った画像を、カメラの液晶画面でカナに見せた。

「ブレてて全然わからん。オジサンほんとにプロのカメラマンか」

あきれた表情でカナが肩をすくめる。

「どんなプロでも手持ちじゃこれが精一杯だ。それにここからじゃわからないが、あいつは落ち着かなく顔を動かしている。だからブレて見えるんだ」

落ち着かないというか、何故かオドオドしてるような気もする。

「もういい、こうなったら出たとこ勝負だ」

カナはひとつ大きく息を吐くと、男に向かって真っすぐ歩み寄っていった。

「ユータ! あんたユータなんでしょ!」

静かな住宅街を、カナの声が切り裂く。

男はびくっとしてカナを見るや否や、反対側に向かって駆け出した。

カナも後を追って走り出す。

やれやれ。

俺はカメラを小脇に抱えたまま、カナに続いた。

男は足音を大きく響かせながら、全速力で逃げて行く。
その先は、車通りの多い片側2車線の大通りだ。

カナは必死に追いかけるが、男の足も早くその差はなかなか縮まらない。

やがて男は大通りに達すると、角を左に曲がって姿を消した。
先を行くカナもその後に続く。

息を切らしながら遅れて漸く角を曲がると、カナがひとりで呆然と立ちつくしていた。
真っすぐ続く歩道には、人の気配がない。

「いきなり消えたよ。あいつ」



ファインダーから覗いた先に、西内美咲の笑顔が夏の光で輝いていた。
その表情は、スタジオでストロボを浴びている時と比べて全然自然で。
笑うとできる、形の良いえくぼにも初めて気がついた。

ロケ地に選んだ、横浜みなとみらいの海側からは心地よい潮風が吹き、彼女の長くふわりとした髪や、長身に似合ったワンピースを柔らかく棚引かせる。
動きのないマネキンのような顔切りモデルとは全く異なった、生命力溢れた感情が全身から解き放たれていた。

夢中でシャッターを切りながら、俺はすっかり美咲に心を奪われていた。

「今日は、ありがとう」

撮影が終了した後、海が見えるテラスカフェで、俺は何を話せば良いのか困惑する。

「ううん、楽しかったです。こんな体験、初めてだし。良い写真撮れたでしょうか」

「それはもう、ばっちりだよ。モデルが素晴らしいから」

「そんな、お世辞は辞めてください」

「いや、本当だよ。こんな素敵な写真撮れたの、俺初めてかもしれない」

写真専門学校を卒業して以来、ずっと暗い倉庫の片隅で、表情を切り取られたモデルしか撮影してこなかったのだ。
いや、モデルというより、モデルが着た服か。
何万回もシャッターを切ったが、その写真には一切血が通っていなかった。

高校生の頃は写真を撮るのが楽しくて楽しくて。
下手くそだったけど、いつもカメラを持ち歩いて、学校の同級生や、道端に咲く花、古い建物や真っ青に輝く空。
目に見えるあらゆるものに向けて、ひたすらシャッターを切りまくっていたのに。
あの頃のわくわくした思いを、すっかり忘れていた。

でも今日、久しぶりに心から撮影を楽しんだような気がする。
それは美咲に対して、特別な感情が生まれたせいかもしれない。

「またモデル、お願いできるかな」

「はい、ぜひ」

もっと話したいのに、大して会話も弾まないまま、その日は解散となってしまった。

家に帰り、撮影した美咲の画像を何度も眺めた。
写真の出来がどうこうではなく。

俺はすっかり、美咲の虜になっていたのだ。

仕事中も、休みの日も、彼女の事が頭から離れず。
まるまる1ヶ月間、ひとりで悶々と悩んで。

意を決して呼び出した彼女に、やっとこさ想いを伝えた。

だが。

「……ごめんなさい、今、付き合っている人いるんです」

わかってるさ。

今はちょっとのショックでも、堪え難き辛さが後からやってくることは。





ストーカー張り込みが失敗に終わった翌日。

コミック雑誌グラビア撮影、2連チャンのハードな仕事が待っていた。
スタジオからロケ地へと、場所を移動してひたすらシャッターを切りまくる一日。
さすがに疲れ果てて帰りはタクシーに乗り、窓からぼうっと夜の空を見上げているとスマホが鳴った。

カナからだ。

やれやれ、さすがに今日は付き合えないぞ。

しぶしぶスマホを耳に当てるが、荒い息づかいしか聞こえない。

「おい、からかってるのか」

小娘のイタ電なんぞに構っていられるほど、暇じゃない。
これから家に帰ってすぐ、写真のセレクト作業もしなくちゃならない。
そこそこ売れてるカメラマンなのだ、俺は。

「もう切るぞ。悶えてないで、スポーツで発散するか早く寝ろ」

「……やられた」

「え、なんだって?」

「奴らに不意打ちくらった……今、あずさの家の前にいる……」

「なんだ、どういう事だ!?」

電話は切れていた。

心臓の鼓動が、高なり始める。
やられたって、何があったんだ。
俺はあせりながら、運転手に行き先の変更を告げた。

俺のマンションから、あずさの家はさほど離れてはいない。
同じ町内の住宅街にあるのだ。
おそらくカナの家も近所のはずだが、未だに所在はわからない。

既にマンションの近くまで来ていたので、あずさの家には5分程で辿り着いた。

タクシーを降りて、辺りを見渡す。
あずさの家の前に、例の不審者の姿は見当たらなかった。
2階を見上げると、あずさの部屋の電気がついている。

路上に人の気配はない。

どこだ、どこにいる。

俺はポケットからスマホを出すと、カナに電話をかけて耳をすました。

かすかに『それいけ! アン○ンマン』のテーマソングが聞こえる。
カナのスマホの着メロだ。

鳴っているのは、昨日見張っていた路地角のあたりだ。

目を凝らすと、暗闇に倒れている人影が見えた。

「カナ!」

俺は思わず叫んで、走り寄った。

カナは制服姿で、冷たい路上に体を丸めるようにして倒れていた。
頭から血が流れており、素足には固いモノで殴られたような打撲の跡がある。
おそらく、全身を痛めつけられている。
目を瞑り、ぴくりとも動かない。

「どうした! 大丈夫か!」

カナの肩をゆすると、うっすらと目を開けた。

「……おお浩介さん、来てくれたか」

『オジサン』ではなく、俺の名前で呼ぶ。かつてなかったことだ。
いつものカナじゃない。
これは、マジでヤバい状況なのか。

カナはゆっくりと上体を起こすが、頭がぐらぐらとふらついている。
頭からの出血は、今はもう止まっているようだが、額をべっとりと濡らしていた。

「おい、頭打ってるんだから、動くな」

俺はカナを背後から抱きかかえた。

「ここで見張ってたら、後ろから襲われた。迂闊だった」

「いいからしゃべるな。今、救急車呼ぶから」

持っていたスマホで、119にコールする。

「……相手は5人いた。皆こん棒のようなモノを持ってた。奴らプロじゃった」

「知ってるやつか?」

「いいや、わからん。黒い服を着た見た事もないやつら」

「おまえの仲間の、殺し屋連中じゃないのか?」

「たぶん、違うと思う」

確かに、殺し屋派遣ネットショップ専属の殺し屋が襲ったとしても、最強であるカナが、奴らにそうやすやすと倒されるとは思えない。

背後からとは言え、ここまでカナにダメージを与える連中とは。

いったい何者なんだ?





救急病院の廊下で、俺は医者から説明を受けていた。

「全身に打撲の跡があります。ですがレントゲンの結果、骨折はありませんし脳にも特に異常は見られないのでおそらく大丈夫でしょう。2,3日入院して頂き、様子を見ます」

医者は、そう話すと興味深げに俺の顔を覗き込む。

「……で、あなたは、どういったご関係の方でしょうか?」

うっと詰まる。

見ず知らずの他人と言う訳にはいかず、友達、もなんか怪しく聞こえる。
なにせカナは、俺と10歳近く離れた未成年者なのだ。

「ス、ストーカー……」

「えっ!?」

「……を、二人で追っていたんです……」

医者の顔が曇る。
しまった。あせって余計な事を言ってしまった。

「というのは冗談です……妻の友達なんです」

とっさに口からでまかせを言う。
美咲、すまない。

医者は怪訝な顔をしていたが、俺は頭を下げるとカナの病室へと入って行った。

頭に包帯を巻き、ベットに沈み込んでいるカナが痛々しかった。

「……どうだ、具合は」

「ハラ減った」

「退院したら何でも奢ってやる。それまで病院食で我慢しろ」

露骨に顔をしかめるカナ。

「お母さんと連絡が取れないそうなんだが」

「……ママは夜、いないんだ」

「そうか」

考えてみれば、俺はカナの事、ましてや家族について何も知らない。
殺し屋だったことと言い、カナを取り巻く環境には何か複雑な事情があると、うすうす感じてはいたが、あえてこれまで聞かなかった。

こんな酷い目に遭ったのに、ひとりぼっちかよ。

「じゃあ、今晩は俺がここにいてやる」

「ホントに!?」

「ああ、後でこっそり肉まん買って来てやるからな」

カナは目をくりくりさせながら、無表情で内なる喜びを表現する。

「なんで、今日ひとりで行ったりしたんだ」

「だって、オジサン仕事で忙しいし、それに……」

「それに、なんだ」

「……あずさは、たったひとりの親友なのさ。どうしても守ってあげたかったんだ」

俺は胸が熱くなった。
と、同時に怒りがふつふつと沸き上がる。

カナをこんな目に遭わした奴は、絶対に許さない。
必ず探し出し、償わせてやる。





翌日の夜、22時少し前。

俺は大通りの歩道に立って、通り行く車を何気なく眺めていた。

カナはまだ病院だ。
だが、今日の朝には驚異的な回復を見せていた。
病院食のおかわりを頼んで断られ、じゃあ退院すると暴れたが、屈強な男の看護師3人掛かりでやっと取り押さえられた。

あれほどの怪我を負ったのに、どれだけ元気なんだ。

昨日の晩、カナの寝顔を見ながら、俺はいろいろ考えを巡らした。

カナが襲われたのは、俺たちがストーカーを追っている事に気づかれたからだろう。

ストーカーが、カナとあずさの同級生、ユータだとする。
彼が、誰かに頼んでカナを襲わせたのだろうか。

いやいや、カナを倒すなんて相当な手練れだ。
そこらの普通の高校生が、頼める相手じゃない。

じゃあ、襲ったのは何者で目的は何か。

何か、深い裏があるような気がする。

腕時計を見やると、22時を少し回っていた。

俺の予想が正しければ……。

来た。

あずさの家へと続く路地から、パーカーのフードを頭からすっぽり被った例の男が現れる。

俯き加減にポケットに手を入れたまま早足で歩くその男は、路地を曲がってすぐの道路脇に停車していた白いバンの後部座席に乗り込んだ。

やはりな。車を用意してたんだ。
だから、おととい、こつ然と消え失せたように見えたのだ。

俺は道路脇に停めておいたハヤブサに跨がると、エンジンをかける。

白いバンは男を乗せるや否や、急発進した。
俺もハヤブサのクラッチを繋ぐと、軽くアクセルを吹かして発車し、後を追う。

バンはかなりのスピードで走って行くが、少し距離を置いて気づかれぬよう後ろに付ける。

井の頭通りを、武蔵境方向に曲がった。

いったい、どこへ行くんだ。

白いバンの運転手が、ストーカーの協力者であることは間違いない。
カナを襲った奴らと、同じ仲間である可能性も高い。

高校生の単なるこじらせた片想い、と軽く考えていたがとんでもない。
何か組織的な作為を感じる。

前方の信号が赤に変わり、バンはスピードを緩めた。
と、次の瞬間、急加速して赤信号を突っ切る。
横断歩道を歩いていた人々が、蜘蛛の子を散らすように、あわてて逃げ惑う。

気づかれたか。

歩行者に頭をぺこぺこ下げながら、ゆっくり赤信号に進入して、交差点を抜けると同時に、アクセルを全開にしてバンの後を追う。

こっちは、驚異的な加速を誇るハヤブサだ。

あっという間に追いつくと、バンの後ろにぴったりと付けパッシング(ライトの点滅)をした。

どうせ、もうバレている。
こうなれば、何としても奴らをバンから引きずり出してその正体を暴いてやる。

俺はバンの右側に出ると、スピードを上げて横に並んだ。
運転席を覗き込むが、窓にスモークスクリーンが貼られていて、車内がよく見えない。

いきなり幅寄せしてきたので、すばやくハンドルを切って避ける。

黒い窓の向こう側にいる、見えない何者かを睨み付けた。
奴も、こちらを見ている気配が確かにある。

こいつだ。
こいつが、おそらく全ての鍵を握っている。
ヘルメットのバイザーを開けて、叫んだ。

「誰だ、おまえ! 顔を見せろ!」

ふたたびバンは急ハンドルを切って幅寄せしてくる。いや、これは体当たりだ。
殺意を持って車体をハヤブサにぶつけて来ている。

反対車線に大きく飛び出して攻撃を避けると、俺は思いっきりアクセルを捻ってバンの前に出た。

そのまま全開で、ひたすら直線の道路を突っ走る。

あたりに他の車の気配はない。
前方には開けた道路と、点々と並ぶ信号機の明かり。

俺は、数百メートルほど走ってバンを引き離したのを確認すると、スピードを落とす。
前ブレーキをコントロールしながら後輪を滑らせ、車体を180度スライドターンさせる。
ハヤブサは反対方向に向きを変えると、ストンと停止した。

遠くに、こちらに向かって猛然と接近してくる二つの丸目ライトが見える。

ふと、路上で血を流しながら、力なく横たわるカナの無残な姿が脳裏に浮かんだ。

許せない。

俺の怒りは最高潮に達していた。
そしてそれは、無意識にアクセルをふかして生まれる図太いエンジンの咆哮へとリンクする。

行くぜ、ハヤブサ。

左手のクラッチを離すと、前輪が浮いた。
そのまま、猛然と加速する。

バンも真っ直ぐこっちへ突っ込んでくる。

みるみるうちに、急接近した。

我慢比べ。ハンドルを切った方が負けだ。

全身に緊張が走り、汗が噴き出す。

と、その時。不思議な感覚が俺を包み込んだ。

ハヤブサの両側から、大きな白い羽が横へと広がっていく。
まるで獲物を威嚇し、攻撃するかのごとく。

顔の見えない運転手が、大きく口を開けて悲鳴を吐き出している様子が手に取るように感じとれる。

バンと正面衝突する、ほんのゼロコンマ数秒前。

甲高いタイヤのスリップ音。

急ハンドルを切ったバンは、道路脇の街路柵を兼ねた植え込みに突っ込むと、そのまま数十メートル木の葉を散らし続け。
そしてフロントを酷くひしゃげて、いくつかのタイヤをパンクさせ、車体を斜めに傾けた状態で、漸く停止した。

俺はハヤブサを止めてヘルメットを脱ぐと、大きく息を吐いた。

体の震えが止まらない。

いや怖かった。マジで。
もう、二度とゴメンだ。

だけど、やったぞ、俺は。
命を賭けたバトルに勝利したのだ。

暫く、呼吸を整えたのち。
ハヤブサを降りて、破壊されたバンに歩み寄る。

運転席のドアが開いていた。あわてて中を覗き込むが、姿が見当たらない。
辺りを見渡しても、運転手は暗い闇の彼方へと消え去った後だった。

くそっ、逃げられた。
ついつい、勝利の余韻に浸ってしまっていた。

自分に腹を立てながら、後部のスライドドアを思いっきり開ける。

そこには、青白い顔をしたイケメン少年がひとり、怯えた表情でシートにへたり込んでいた。





いつもの喫茶店。
深夜にも拘わらず、相変わらず奥の席で「かあっ」爺さんがスポーツ新聞を開いたまま固まっている。

あの爺さんは、実はこの店の置物なんじゃないか。
生きてるのか、本当に。

店には「かあっ」爺さんの他には、昭和のマスターだけ。
いつも通りだが、唯一違うのは俺の前に座っているのがカナではなく、おどおどした男子高校生であることだ。

「おまえ、ユータだな」

大きな体を小さく折り曲げたまま、こくりと頷く。

「どう言うことか、説明してもらおうか」

「……てか、オジサン何者スか?」

小刻みに体を震わせながら、ちらりと上目遣いで俺を見る。

どいつもこいつも俺をオジサンって言いやがって! 俺はまだ25才だあ!!

……という心の叫びを呑み込んで。

「カナに頼まれて、あずさのストーカー、つまりおまえを追っていた。カナがどうなったか知ってるよな?」

「……はい」

「おまえは誰かに指示されて、あずさをストーキングしてたんだろ?」

ユータは、はっとして俺の顔を見る。

「毎日、きっかり20時から22時まであずさの家の前に立ち、22時からは無言電話の繰り返し。それも命令されてやったことなんだな?」

「わ、わかってたんスか!?」

「わかりやすいんだよ、パターンが。ストーカーって、そんな淡泊なもんじゃないだろうが!」

「オジサンも、ストーカーなんスか!?」

やれやれ。

「そんなことはどうでもいいんだよ。なぜこんなことをする? 命令してるのは誰なんだ!」

ユータは俯いて目をきょろきょろと激しく動かし、額に汗を滲ませる。

「……話したら、オレ、殺されます」

「俺に捕まった時点で、おまえの立場は相当マズい状況だ。話そうが話すまいが、おまえを操っていた奴は容赦しないぞ」

ユータは顔面蒼白となり、怯えた表情で俺の顔を見つめる。

「助かりたいなら、洗いざらい残らず話せ」

--------------------------------

午後の始業のチャイムが鳴る。

だが、沙也加(さやか)はオレの服を掴んで離さない。
誰もいない音楽室、目の前には逆壁ドン状態の沙也加。

「ねえ、今ここではっきりさせて。私と葵(あおい)とどっちを選ぶか」

「……いや、そう言われても。オレ、玲奈(れな)と付き合ってるの知ってるだろ」

「ふん、あんなブス」

いや、玲奈は文化祭のミスコンで優勝したんだけど。

「性格もブスなんだよ、あいつは」

ミスコン準優勝の沙也加が、長い髪をかき上げながらオレを鋭い目で見つめる。

「知ってるんだからね、玲奈に隠れて葵と遊んでるの」

「葵とはもう遊んでない。優美(ゆみ)となら、たまにカラオケとか行くけど」

「優美だって!」

沙也加は大きく目を見開いて、大きな声で笑う。

「読者モデルだかなんだか知らないけど、あんなヤンデレ。どこがいいのさ」

オレのスマホが鳴る。
ポケットから取り出したとたん、沙也加に奪われた。

LIMEを開くと、オレの目の前にかざす。

『どこ行ったのー(^o^) 授業始まったよー(*^_^*) いないとさみしーよー(>_<) 美音(みおん)より』

--------------------------------

「……ちょっと、待て」

俺はユータの話をストップさせた。

「いったい何の話をしてる?」

「いや、洗いざらい話せって言うから……」

「いきなり登場人物が多いんだが、全て覚えないとダメなのか?」

「彼女たちは、今回のことに関係ないです。たぶん」

じゃあ、端折れよ!
おまえのモテ話なんて、今はどうでもいいんだよ!

「……なんか、怒ってます?」

ユータは悲しそうな目で俺を見つめる。

ああこれか。
イケメンの裏に、それとなく見え隠れする子供っぽさ。
これが、女性の母性本能ってやつをくすぐるんだな。

「とにかく、疲れちゃったんです」

肩を落としてため息をつくモテ男。

「確かにオレの周りには、いつも美人の女の子がいました。最初は楽しかったけど、そのうち面倒になってきて」

「それは、自慢か」

「いえ、本当に疲れ果てたんです。付き合ってみると、嫉妬深かくて1時間おきにメールをチェックされたり、友達同士だとばかり思っていた子の悪口を延々と聞かされたり、道端にぺっと唾を吐いたり」

失恋ばかり経験してきた俺には、イケメン君の悩みなど知るよしもない。

「ある日、情報の授業があって、ふたり一組でパソコンを使うことになったんですけど、ペアになったのが同じクラスでも今まで一度も話したことのない子で。見た目は暗い感じなんすけど、パソコンの使い方を優しく教えてくれて。オレがわからないと思ったことを、先回りして分かりやすく教えてくれるし」

「さりげなく、気が利くってことか」

「そう、それっス。よく見ると昔飼っていたハムスターに似てて、なんか可愛いなと思って。オレが知ってる他の女の子とは全然逆のタイプで、とっても心が安らぐと言うか」

「それが、あずさだったんだな」

「他の女に見つかるとうるさいんで、誰もいない放課後の教室で待ち伏せて告ったんスけど、逃げられました」

苦笑するユータ。

「初めてでした、振られたの。ショックでした……」

「それで、ストーカーになったのか?」

「違います、違います!」

ユータはスマホを取り出すと、画面にメールを表示させて俺に見せる。

「翌日、家で朝飯を食べてたら、こんなメールが来て……」

メールを見るなり、俺の心臓はどくんと跳ね上がった。

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「これ、来たのか」

「ええ、てっきり誰かのイタズラだと思って、気にも留めずに家を出たとたん、目の前に大きなペンギンが現れて」

「魚で襲われたんだな」

「何で知ってるんスか! オジサン何者なんですか!」

「そんなことより、どうやってその場を逃れたんだ」

「ペンギンがオレを押さえ込んで、魚を振り上げたとたん、またメールが来たんです」

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「その瞬間、ペンギンは舌打ちしてどこかに消えてしまいました。直後に電話がかかってきたんです。ボイスチェンジャーかなんかで変えられた声でこう言われました」

ーー

『いいか、よく聞け。今のは脅しだ。いつだってオマエを殺せるんだ』

『だ、誰だ?』

『これから私が言うふたつの命令に従ってもらう。心配するな、ごく簡単なことだ。だが、もし命令に従わない場合は、わかるな?』

ーー

「なるほど、わかったぞ。命令というのは、ひとつは学校へは行くな。もうひとつは、指示された時間にあずさにストーカー行為をしろ。そのふたつだったんだな」

ユータが激しく首を縦に振る。

「毎日、20時から22時まではあずさの家の前に立てと。誰かに追われた場合を想定して、逃走用の車も用意されていた」

「ええ、22時からは車の中で監視されながら、ひたすら無言電話を掛け続けました」

周到な奴らだ。
いったい、何者なんだ。

「ところで、殺し屋の注文をした『ISA』って奴に心当たりはあるのか」

「ないです」

「車を運転してた男は?」

「……わからないです。ただ……」

ただ、なんだ?

「いつも大きなマスクをしてたので顔は良くわからなかったんですが、さっき車がぶつかった瞬間マスクが外れて。オレ、見ちゃったんです。その男の顔」

「どんな奴だ?」

「それが……」

ユータはいったん言葉を飲み込むと、怯えた表情で俺の顔を見つめた。

「なぜか、オジサンにそっくりだったんです。その男」


『美咲さん、あした、空いてる?』

『明日? ちょっと待ってね、スケジュール見るから。……あっ、奇跡的に空いてるよ』

『じゃあ、メシでも行かない? 日本に1件しかないブータン料理の店、見つけたんだよ。どんな味か全く想像できないけど』

『なにそれ興味ある! 行く行く!』

フラれたとはいえ、俺はちょくちょく、美咲と会っていた。
美咲は時間が空いているときは、意外にも殆ど俺の誘いを断らなかった。
会うたびに、俺の心はときめいた。

もちろん、彼氏がいることは重々承知の上でだが。

「……別れちゃった」

「えっ!?」

ブータン料理特有の大量の唐辛子を摂取した帰り道、舌に残り続けるひりひり感に耐えていた俺に突然の告白。
心臓が早鐘を打ち始める。

「なんで? 喧嘩でもした?」

「違う。嫌いになったわけじゃないの」

「じゃあ、どうして」

「他に好きな人ができたから」

どくん。

美咲に聞こえてしまうんじゃないかと心配になるほど高まる、心臓の鼓動。
それって……俺?

「友達として会ってるうちに、なんとなく惹かれてしまって……」

「うんうん」

「いつしか、その人のことで頭がいっぱいになっちゃって……」

「うんうん!」

「それでね。ちゃんと彼氏と別れた後に、付き合い始めたの、その人と」

すごくいい人、と言って美咲は微笑む。

「こんなこと話せるの、葉山さんだけかも」

天国から地獄とはこういうことか。
ひりひりとした痛みは、舌から心へと落ちてゆく。

なぜ、その相手が俺じゃないんだ。
こんなに、いつも会っているのに。

「……でも暇なときは、また遊ぼうよ」

電話してね、と言い残して美咲は軽く手を振りながら駅へと立ち去っていく。

その後ろ姿を、見えなくなるまで目で追い続ける、俺。


徐々に美咲とは、連絡が取れなくなっていった。

それでも俺は毎週、美咲に電話をかける。
LIMEにメッセージを送り続ける。

『今週末、あいてる?』

LIMEの画面には、俺の言葉だけが埋まっていく。

美咲が住む街の駅前で、雨降る中、傘もささずにぼんやり何時間も立ち続けたこともあった。

ばったり会うという『ありえない奇跡』、を待ちながら。
仮に会えたとして、その先に何があるのだろう。
虚しさしか、ないはずなのに。
そんなことすら、気付く余裕もなく。

俺の心は、いつまでも美咲でいっぱいだった。
冷たい雨は、体だけではなく俺の心もすっかり冷やし続けていった。

ふと、我に返る。

これじゃまるで……ストーカーじゃないか。





「どうだ、具合は」

俺はバッグの中から大量のあんぱんの入った袋を取り出すと、カナの布団の中にコッソリ差し入れる。

「最悪だ。早くここを出たい」

バッグのチャックを締めてカナに目線を戻すと、既にその口からはあんぱんが半分はみ出ていた。

早っ。

「体温、計りますよー」

おばさんの看護師が入ってきたので、俺は慌ててはみだしたあんぱんをカナの口の中に押し込む。

「むぐぐ」

「あら、顔が赤い。熱が出てきたのかな」

看護師が心配そうに、カナの額に手を当てる。

「いや、こいつ俺に惚れてるんですよ。嬉しくて顔が赤いんです」

「あら、良かったわね、カナちゃん」

「むぐぐ」

看護師が病室を出て行ったのを見届け、俺はあきれてカナに忠告する。

「おまえ、少しは自重しろよ。退院できなくなるぞ」

「ハラが減りすぎて、だんだん調子が悪くなってきた。わたしゃ、もうすぐ死ぬ」

「はいはい。じゃあ、友達に別れの挨拶でもしろ」

振り返って手招きすると、ドアの影からこちらの様子を伺っていたあずさが、俯いたまま病室へと入ってくる。
あずさとカナはお互いに目を合わせ、両者、無言でコクンと首を縦に振った。

そのまま会話をするでもなく、ふたりともフリーズしたままだ。

……それだけかよ。

折角、連れてきてやったのに。
それとも、テレパシーかなんかで会話してるのか。
このふたりの関係性は、未だに良くわからない。

「ところで、ユータを捕まえたぞ。全て吐かせた」

「そうか、でかした」

目を輝かして半身を起こす、カナ。

「ストーキングしてたのは確かにユータだったが、何者かに命令されて仕方なくやってたみたいだ。ISAって奴、聞いたことがあるか?」

「わからん。クラスの中にも『いさ』が付く名前の生徒はいないはず」

「そいつが黒幕らしい。殺し屋派遣ネットショップを使ってユータを脅したり、監禁したりしていた」

カナが目をくりくりさせながら、何やら考えを巡らせている。

「おそらく、おまえを襲ったのもそいつの仲間だろう」

「誰が、何のためにそんなことをするのさ」

「そこなんだよ」

俺は頭を掻きながら、あずさを見やった。

「目的がわからん。ユータはどうやら本気で君に告白したらしいし、たったそれだけの事でどうしてストーカー役を強要させられるのか、全く想像がつかない」

「たったそれだけのこと、だって?」

カナが俺を睨む。

ふと気づくと、俯いたあずさの目から涙がこぼれ落ちていた。

な、なんだ、どうした?

狼狽える俺。
呆れた表情のカナ。

「全く、オジサンは女心がわかってないなあ」

えっ!
えっ、えっ!?

まさかの、相思相愛だったのかよ。

女心ってやつは、本当に理解できない。
だからこれまで、さんざん苦労してきたのだが。

「ごめん、悪かったよ。ユータが君を好きなのは確かだ。だからちゃんと返事してやってくれ」

好きになった理由が、飼ってたハムスターに似てたから、ってのは言わない方がいいんだろうな。
モテ男の、ちょっとした気の迷いでなければ良いのだが。

「それからカナ、ひとつだけわかった事がある。この件にどうやらあいつが絡んでいるらしい」

「あいつって?」

「美咲のストーカーだ。あいつが、また現れやがった」

「ほうほう」

カナが興味深げに、眉をピクリと動かす。

「あれから俺と美咲の前に現れたことはなかった。なぜ今回、高校生の色恋沙汰に、あいつが絡んでいるのか謎だ」

「なんだか、面白くなってきたねえ」

両腕を前に伸ばして、絡めた指をポキポキと鳴らすカナ。
なんだか、さっきより顔色が良くなったように見える。

「し、し、し、しつつつれいします!!」

突然、病室に医療用マスクを付けた小柄の医者が入ってきた。

いや違う。どう見ても医者ではない。
薄汚れた白衣は着ているものの、頭はボサボサ。どこを見ているかわからないぎょろりとした目は、ひっきりなしにその視線をあちこち移動させている。
その異様な姿は、まるでマッドサイエンティスト。

「し、し、し、しんんんさつのじかんです!!」

「おまえは誰だ」

「い、い、い、いしゃしゃしゃですとも、もちろん!!」

「いや、明らかに違うだろ」

「カナカナカナカナさんの、し、し、しんんんさつです!!」

カナはひぐらしか。

よく見ると、右手にメスを握りしめている。
わかりやすいったらない。

「あんた『ニセ医者』だよね。前に、『【殺し屋】慰労会』で見かけたよ。酔っ払って絡んだ日傘おばさんに、何度も尻を刺されるの見た」

カナが冷静に言うと、男は発作が起きたかのごとく、全身をびくっと跳ね上げる。

「なに? 命令を受けて、私を殺しに来たわけ?」

「いえいえ、め、め、め、めっそそそうもない。いや、ち、ちがう。わたしは、いしゃだ!! か、か、か、かんんんちがいするな!!」

大声で怒鳴ったかと思うと、ふいに男はメスを振りかざしてベッドに寝ているカナに襲いかかる……。

が、次の瞬間、股間を押さえてその場にうずくまった。

布団から突きだしたカナの右足が、あれにクリーンヒットしたのだ。

「あ、あ、あ、あああああっ!!」

手からぽとりとメスが落ち、自らの太ももに突き刺さる。

「ぎゃああああああっ!!」

気の毒なほど、殺し屋に向いていない。そして、なにより騒がしい。

男は股間を押さえ、太ももにメスを突き刺したまま病室を飛び出していった。

明らかに、カナを倒した奴らとはレベルが違いすぎる。

「『仕事』から抜けるのもホントに大変なんだな。いったいいつまで続くんだ、こんなこと」

カナは無表情なまま、肩をすくめた。





病院を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
ハヤブサの後ろにあずさを乗せて、彼女の家へと向かう。

「さっきは、すまなかった。ユータと上手くいけばいいな」

「……はい」

「誰が仕組んだか知らないが、こんな茶番はとっとと終わらせよう」

青梅街道を、荻窪から三鷹に向けてゆっくりと走る。
後ろに乗っているのがカナでないことに、なぜか違和感を感じた。
そう、今年の夏。壊れかけたハヤブサで、カナを後ろに乗せてこの道を走ったんだっけ。

あのイメージが、つい昨日のように蘇る。

いかんいかん。

最近、どうもカナに取り憑かれている。
家にいる沢山の猫どもすら、カナに見えてしまう。

しっかりしろ、俺。

と、一台の黒い大型バイクが、するりと追い抜いて行った。
カワサキZZR1400。通称、ニンジャ。
ハヤブサのライバルとも言える最速マシンだ。

そして、ニンジャはハヤブサの前にぴたりと付けると、速度を落とす。

なんだよ、邪魔だな。

抜こうとして、左右に目線を向けると、両側にも黒いニンジャ。
いつの間にか、3台のバイクに取り囲まれていた。

両側に張り付いたニンジャは二人乗りで、全員黒のフルフェイスヘルメット、黒いジャケットに黒パンツ姿。
まさに黒ずくめで、皆、屈強そうな体躯をしている。

いやな予感がした。

「しっかり捕まってろよ!」

振り返ってあずさに声を掛けたその時、視界の片隅に殺気を感じた。
右側のニンジャ。
タンデム(リア)シートの男が、隠し持っていた棍棒を、やおら俺に向かって振りかざす。

俺はとっさにフルブレーキを掛けて、集団の後方へと逃れた。
振り下ろされた棍棒は、ターゲットを失い、目の前で空を切る。

そういうことか……。

黒い服、棍棒を持った集団。
カナを襲った奴らに違いない。

敵は3台。
バトルするにも、後ろにあずさを乗せているから無茶はできない。
この場は、兎に角逃げるしかない。

くやしいが、やむを得ない。

ハヤブサを大きく横に傾けて路肩側に寄せると、アクセルを開けて集団を追い越した。
そのまま、加速させる。

夜20時。
この時間帯はまだまだ交通量が多く、素早く左右に車体を振りながら、車間をすり抜ける。
前方に光る数多のテールランプが、目の前をかすめていく。
重量級のハヤブサには不利な状況だが、それは奴らにとっても同じだろう。

だが、バックミラーを覗くと、奴らは俺の後ろにぴったり張り付いていた。
時速100キロでの、すり抜けチェイス。
奴らも相当なテクニックを持っているようだ。

このままでは、逃げ切れない。

仕方ない、やるしかないか。

俺はわざと速度を落とした。
たちまち、右横に一台のニンジャが並ぶ。
タンデムシートの男が、再び棍棒を振り上げる。

今だ。

ハンドルを素早く、小さく切ってニンジャに寄せると、右足で思いっきり車体を蹴り飛ばした。

不意の攻撃でバランスを崩した敵は、振り子のように左右に大きく車体を揺らしながら、やがて激しいクラッシュ音とともに路面に沈み込んだ。

バックミラーに、路上を転げ回る男たちの姿が映る。

あと、2台。

ふいに衝撃を感じて、あわててハンドルを握り直す。
後方からハヤブサの左側に回り込んだ1台が、体当たりを仕掛けてきていた。

体勢を整えて、俺もぶつけ返す。
ハヤブサとニンジャは、車体をぴったりと密着させたまま、速度を徐々に上げていった。

前方を走る大型トラックが、みるみるうちに接近する。
積載するトレーラーは巨大な壁となり、目の前に立ちはだかる。

あと、数メートル。
赤いテールランプの光が、眩しく眼を射抜く。
このままでは、突っ込んでしまう。

いや、ピンチはチャンスだ。

右足のブレーキペダルを思いっきり踏み込んだ。
タイヤのスキール音と共にスライドする車体をコントロールしつつ。

敵の後ろ側に回り込んだ俺は、再度アクセルを捻ると、そのままニンジャのテールに突っ込んだ。

激しい衝撃。

思わず体がつんのめり、後ろでしがみつくあずさの体重が背中にのし掛かる。

後ろから押され、加速がついたニンジャは、そのままトレーラーの壁に吸い込まれていった。

カウルが粉々になって飛び散る。
フレームが大きく捻れた瞬間、ニンジャのテールランプがふっと消えた。

二人の男の体がバンザイをしたまま大きく上に跳ね上がって、まるでスローモーションのように、粉々になったニンジャの部品が散乱する路面へとその体を叩きつけた。

俺はするりとトレーラーを追い越すと、バックミラーに目をやる。

残った1台が追って来る気配はなかった。

背中にぶるぶると震える、あずさの体の感触。

スピードを落とすと、路肩にハヤブサを停めた。

「大丈夫か?」

体に必死にしがみついたまま硬直している、あずさの手をゆっくりと解いて、ハヤブサから降ろす。

あずさの顔は蒼白で、震えが止まらない。
そのまま、腰が抜けたように路面に座り込む。

奴らは俺ばかりか、あずさまで巻き込んで襲撃してきた。
いったい何が目的なんだ。

ぷるるるる。

あずさのスマホが鳴っている。
放心状態のあずさは、びくっと体を動かすとポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。

「……はい。……うん、うん……大丈夫だから……」

はっと、気がついた。

襲われた直後に電話してくるなんて、あまりにもタイミングが良すぎる。

俺はあずさからスマホを取り上げると、相手に向かって怒鳴りつけた。

「おまえなんだな、ストーカーは!」

返事はなく、電話はぷつりと切れた。





空はどんよりと曇り、今にも雨が落ちてきそうな塩梅だ。
しかもこの時期にしては、冷たい風が強く吹いている。
俺は、まるでユータのように、着ていたパーカーのフードを頭に深く被り、ポケットに手を突っ込んだ。

目の前には、高校の校門。
16時をまわった頃合い。

帰宅部の高校生たちが、わらわらと学校から解放されていく様子を、じっと眺めていた。
女子高生が、ちらりと怪訝な目で俺を見る。

はたから見れば、まごう事なき不審者、なんだろうな。

だが、もう不審者扱いには慣れている。
カナと初めて会った時も、最初の言葉は「オジサンは不審者」だった。
俺には、そう見られやすい資質があるのかもしれん。

だが今更、どう見られようが構わない。

奴を取っ捕まえるには、ここで見張るしかないのだ。

ストーカーをストーキングする、俺。
なんだかもう、わけがわからない。

30分程待って、そいつは漸く校門から姿を現した。
ひとりきりなのは、好都合だ。

すでに、ぽつぽつと小雨が降り始めている中、背を屈めながら、ケースに入れたテニスラケットを傘代わりに頭にかざしている。

「おい、ちょっと待て」

真正面から睨みつけながら近づくと、奴はびくっと体を震わせた。

「な、何ですか? あなたは誰ですか?」

「昨日、電話で話しただろうが」

「えっ!?」

「テニスラケットなんて抱えて、テニス部のユータに成りきるつもりか? 次はどうせ整形でもするんだろ」

みるみる表情が青ざめ、顔の面積の割には小さい目をひっきりなしに泳がす。

「おっと、逃げるなよ。トシオ君。おまえには、いろいろ聞きたい事があるんだ」

小柄で小太りなトシオの、むっちりとした腕を掴む。

「な、何するんですか。やめてください! 警察呼びますよ!」

「ああ呼べよ、警察。おまえがカナやあずさを襲わせた事も話そうか」

道行く学生が、興味深げに俺たちの方を眺めている。
これ以上目立つのは、あまりよろしくない。

腕を掴んだまま、校門から離れた人気のない大きな街路樹の下へと引きずり込んだ。
雨は次第に強くなり、秋が深まるに連れ力なく頭(こうべ)を垂れた葉っぱの隙間から、ぽつぽつと雨粒がしたたり落ちて来る。

ぽつん、という音とともに、トシオの大きな眼鏡のガラスにも水玉がこびり付いた。
気づくと、その目には狂気が宿り始めている。
トシオは態度を豹変させ、低い声で囁いた。

「……邪魔するのはやめてもらえますか? 命の保証ができませんよ?」

「何の邪魔だ。説明してもらおうか」

「僕とあずさの関係です。僕たちは上手くいってるんです」

「ユータをストーカーに仕立て上げて、おまえが相談に乗る振りをしてあずさをかっさらう。そんな筋書きか」

「元々、あずさは僕と付き合う運命なんだ。ユータなんて女好きで軽薄な奴に、あずさはふさわしくない!」

そう言うおまえは、ふさわしいのかよ。

「あの日、忘れ物を取りに教室に戻ったら、なぜかあずさとユータが二人きりでいて。ユータの野郎、他の女どもだけじゃ飽き足らず、あずさにまでちょっかい出そうとしているのを、この目で見たんだ。許せない! 僕のあずさに手を出す奴は、それなりの代償を払ってもらうしかないんだ!」

「それでユータを脅して、あずさのストーカーに仕立て上げ、嫌われるように仕組んだのか」

「まあ、そんなとこだね」

ん?

どこか、変だ。
なぜトシオは、こんなに悠然と構えてられるんだ?

ポケットに突っ込んだトシオの手が、妙な動きをしている事に気がついた。

「何をしている。ポケットの中のモノを出せ」

トシオはニヤニヤと笑いながら、ポケットからスマホを出して、俺の前にかざす。

「今、『組織』に連絡したよ、オジサン。もうじき、彼らがここにやって来る」

乾いた声で笑い始めるトシオ。

「オジサンも、もうお仕舞いだよ。カナと同じ目に遭わせてあげる」

「そうか、『ISA』というのは、『組織』の名前だったんだな」

「International Stoker Association. 日本名称、国際ストーカー協会。巨大な組織さ。ストーカーは悪じゃないって教えてくれた。ひとりじゃ弱いからストーカー扱いされるんだ。ストーカー同志、大勢でお互いにサポートし合えば、愛情を相手に理解させるよう仕向けることなんて簡単にできる。この世にストーカーなんていなくなるんだ。どう、素晴らしい理念でしょ」

「愛情を理解させるよう仕向ける、だと? ふざけるな」

「ふざけてないよ。実際あずさだって今やすっかり僕の愛情に答えてくれている」

「おまえは、そのあずさを襲わせて、殺そうとしたんだぞ!」

「それは邪魔なオジサンを狙っただけだよ。もしあずさが怪我でもすれば、勿論僕が看病するさ。僕たちの愛は更に深まるんだ!」

狂っている。こいつも、その組織も。
もうひとつ、確認すべき事がある。

「おまえをサポートしてるのは誰だ」

「葉山って人だよ。顔はオジサンに似てるけど、中身は大違い。ISA東京地区の支部長で、とっても面倒見のいい人なんだ」

葉山。

やはりあいつか。まだ、俺の名前を語っているのか。

巨大ストーカー組織の幹部だったとは。

「教えてくれたんだよ。まずは相手が好きな人に成りきる事からはじめろって」

恐らく一度もケースから出した事すらないであろう新品同様のテニスラケットを、ゆらゆらと揺らしてみせる。

「さよなら、オジサン。組織からは逃げられないよ」

トシオは暗い目で、勝ち誇ったようにじっと俺を見る。

「……そうかな?」

突然、手に持ったトシオのスマホが鳴る。

『すてきなひとからメールがとどいたのだ!! だいすきなあずさちゃんかもね!!』

趣味の悪い着信ボイスだ。

彼ら来たみたいだよ、と言いながらメールを開いたトシオの顔がみるみる青ざめる。

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「そ、そんな!! カナが来るはずが無い。あいつは重傷で入院しているはずだ! それに殺し屋も辞めたと聞いた!」

狼狽えるトシオの背後で、聞き慣れた声がした。

「ところが、どっこい」

一瞬のうちに固まるトシオ。

音も無く近寄った制服姿のカナが、トシオの右肩をがっしりと掴む。
その後方では、ISAのメンバーであろう黒服に身を固めた屈強そうな男達が、あっけなく路上に倒されていた。

「カナ、殺し屋派遣ネットショップに注文すると、どうなるんだっけ?」

「ターゲットは殺される。確実にね」

カナに掴まれたトシオの肩がギリギリと音を立てる。

「わたしに、失敗の二文字はないのさ」

トシオは顔面蒼白となり、がたがた震えながら、そのまま雨で水浸しの路上に這いつくばった。

「ご、ご、ごめんなさい!」

「おいおい、謝る相手が違うだろ」

慌ててカナの方に向き直り、目に涙を溜めて懇願する。

「カナさん、許してください!」

「あんたは何もわかってない」

カナが低い声で呟く。

「あずさに謝れ。あんたにあずさを好きになる資格はないよ」

俺も言いたい事がある。

「なぜだか、わかるか? おまえが本当に好きなのはあずさじゃない。他でもないクズ野郎の自分自身だからさ」

……ああ、うあああああああ……。

トシオはその場に突っ伏したまま、大声を上げて号泣した。



雲ひとつない、群青色の広い空。

白いワンピース姿の美咲が、寄せる波をかわしながら、波打ち際に沿って跳ねるように歩いて行く。
それは屈託の無い、ごく自然な笑顔で。

俺は、ファインダーを覗きながら夢中でシャッターを切る。

江ノ島から片瀬東浜を通って、ここ七里ケ浜へと撮影しながら歩いて来た。
陽もかなり傾き、今日のロケは、そろそろ終わろうとしている。

そして美咲と会うのも、今日が最後だ。

カメラの液晶モニタを覗き込む美咲。
今日撮影した写真を、食い入るように見つめている。

「やっぱり、すごいね! 才能あるよ、浩介くん」

「いや、モデルがいいんだよ」

「絶対、有名なカメラマンになれるって。お金持ちになれるよー」

小悪魔っぽくウインクをする美咲。

「ねえ、お金持ちになったら、何が欲しい?」

金がいくらあっても、美咲の心は買えない。

「……そうだな、バイクかな。ハヤブサっていう世界最速のバイク」

「買えるといいね!」

無理だ。
ほんの一握りの、運に恵まれ才能豊かなカメラマンだけが、生き残れる世界だ。
平凡な俺はこのまま薄給で、しがない雇われカメラマンを続けるしか道は無いのだ。

夢なんか、もう何もない。

ただ、今だけは。

しゃがんで砂の中から拾い上げた、七色に輝く貝の欠片から丁寧に砂を払う美咲の姿を、しっかりと目に焼き付ける。

空は、いつしか夕刻の茜色へと変化していた。

美咲が愛おしい。

一緒にいるだけで幸せっていうのは、嘘だ。
自分勝手に思い詰め、ストーカーまがいの事さえしてしまった。

でも、わかったんだ。

一方的に好きな感情を押し付ける行為が、愛じゃないってことを。
好きだからこそ、美咲には幸せになってほしい。

今日で、美咲のことはきっぱりと忘れるんだ。

美咲はしゃがんだまま、貝がらをじっと見つめている。

俺はカメラを構えると、レンズを美咲に向けた。

「なあ」

「ん?」

「今まで、ありがとう」

「なに、それどういう意味?」

「今日で会うのは最後にしよう」

「……えっ」

美咲がこちらを見上げる。
夕陽の強い光に照らされて、眩しそうな。
そして、驚きと、戸惑いと、怒りと、悲しみと。
全ての感情が複雑に入り交じった、その表情に向けて、俺はシャッターを切った。

奇跡のように美しく、それでいて悲しい、最後の一枚(ショット)。

「なんで、そんなこと言うの?」

「……だって、俺は美咲が好きだから」

美咲がゆっくりと立ち上がる。
俺の声には、いつしか嗚咽が入り交じっていた。

「本当に美咲には幸せになって欲しいんだ。だから……」

美咲はまっすぐこちらを向いて近寄ると、ポケットから何かを取り出し、俺の手に握らせる。

「……最後じゃないよ」

手には、猫の姿をしたスサノオのお守り。

「これからだよ」

美咲は、俺を静かに抱きしめた。


◇ ◇ ◇


「最後の一枚」は、その年の大きな写真コンテストで金賞を取った。

そして、俺の仕事や生活は一変することとなる。





気がつくと雨はいつの間にか上がり、夕焼け空が辺り一面を茜色に染めていた。
ところどころに残された水たまりに反射した、暮れかかる太陽の光がキラキラしてて眩しい。

「さすが、元ストーカーのオジサン。ストーカー心理の分析は得意ですな」

「やめろ」

カナに美咲との馴れ初めなんて、話すんじゃなかった。
確かに、かつて俺はストーカー寸前だった。
だが、ぎりぎりのところで思いとどまり、結果として今は美咲と幸せに暮らしている。

想いを伝える方法は、いくらでもあるが。
結局は、愛する心を見失わず、しっかり自分と向き合う事が大事なんだ。
本当の幸せは、強制しても決してやっては来ない。自然に受け入れるもの。

ストーカーなんて、自己愛しか持たない最低の人間がすることだ。

「……敵はでっかい組織だ。美咲のストーカーだったあいつが、また襲って来るぞ」

図らずも、結局カナを殺し屋に復帰させてしまった。
その現実に心がちくりと痛む。

そんな気持ちと裏腹に。

「なんだか、ワクワクしてきたねっ」

両腕を思いっきり天に向けて、伸びをするカナ。
その顔は笑っていた。

あれ、カナの底抜けの笑顔を初めて見たような気がする。

カナは、水たまりを大きくジャンプして飛び越える。
かばんの取っ手にぶら下がった、アマテラス猫のお守りが小躍りしていた。



やばい、寝坊した。

今日は超有名アイドルの、グラビア撮影だってのに。
やっと掴んだチャンス。カメラマンとして名を上げるための大事な仕事なのだ。

俺はベッドから飛び起きて、猛ダッシュで支度すると、商売道具が入った重いカメラバッグを担ぎ上げた。

「コースケ、朝ごはんは?」

ベッドから半身を起こした美咲が、目を擦りながら眠そうな顔で俺を見る。

「いいよ、どっかコンビニでも寄って買うよ」

美咲が作る絶品のスクランブルエッグを食べたいが……。
家で朝食を済ませてから仕事行くのが習慣になっているので、どこか落ち着かない気もする。

美咲と朝食を一緒に食べるのは、これまで当たり前のように続けて来た、日常の一部でもあった。
それを欠くのは、ゲン担ぎじゃないけど、何か良くない事が起きるような、そんな引っかかりを覚える。

「じゃあ、行って来るよ」

「気をつけてね」

玄関のドアを開けたとたん、薄暗い曇天の空から冷たい木枯らしがびゅっと吹き付け、思わず身震いした。
吐く息も白い。このところ、急に冷え込みが増してきた。

もうすぐ12月。
俺は冬が苦手だ。寒いとハヤブサに乗るのも辛いのだ。

両手をこすり合わせて暖めながら、エレベーターに乗り込む。

腕時計を見ると、7時すぎ。
三鷹から代官山のスタジオまで、電車で40分くらいか。
スタジオ入りは8時だから、ぎりぎり間に合いそうだ。

4階で、がこんと音を立ててエレベーターが止まった。
ドアが開いて男が乗り込んで来る。

「やあ、おはよう」

その声に、どこか違和感を感じながら顔を上げたとたん、俺は固まった。

目の前に……。

俺がいる!

髪型、顔かたち、体型。
まるで鏡を見ているようだ。
そして、その声までも、俺の声にそっくりだ。

「なっ!?」

「お久しぶりだね」

にやついた表情で、すぐに気がついた。

あいつだ。

ついに、目や声帯までも整形したのか。
どこからどう見ても、「俺」そのものに変貌していた。

エレベーターの扉が閉まり、がこんと動き出す。

「ど、どういうつもりだ!」

俺は身構えて、あいつを睨みつけた。

「ついに、この時がやってきたってことかな」

あいつは、にやにやした表情を顔に貼り付けたまま、エレベーターの緊急停止ボタンを押した。
ふたたび、がこんと音を立てて、エレベーターが2階付近で停止する。

「何をする……?」

「楽しいショーの開幕だよ」

そう言いながらゆっくりと、ポケットから何かを取り出した。
赤いボタンが付いた小さな黒い箱だ。

「それは何だ」

「君の人生を変えるスイッチさ」

あいつは片側の口角を吊り上げて不気味な笑みを見せると、赤いボタンをポチっと押した。

そのとたん、耳をつんざくようなドカンという轟音とともに、エレベーター全体が激しく揺れ動き。

そのまま落下した。

一瞬の後、激しい衝撃とともに、あいつと重なり合うようにエレベーターの床に叩き付けられ。

俺の意識は、そこでぷつんと途絶えた。





ゆっくりと目を開ける。

頭の中は、まだ霞がかかっているようだ。
ぼんやりとしていて状況が飲み込めない。

そこは薄暗く、さほど広くない部屋の一室だった。
壁の上の方に小さな窓があり、そこから僅かに陽の光が差し込んでいるが、この位置からだと外の様子はうかがえない。
反対側の壁には、ドアノブの付いた扉がある。

部屋の中央に置かれた、木製の肘掛け椅子。
そこに、俺は手足をロープで縛られた状態で座っていた。

目の前には、なぜか大型の液晶モニタ。
電源は入っておらず、何も映し出されていない。

それ以外、部屋の中には何もなく、がらんとしている。
くすんだコンクリートの白い壁は、ところどころ染みやヒビが見られ、ここは、ある程度年数が経った建物の中のようだ。

今、何時だろう。

腕時計を見ようとして、無くなっている事に気がついた。
誕生日に美咲からもらった、大切な腕時計なのに。

体を動かそうとするが、椅子にきつく縛り付けられていて、びくとも動かない。
椅子自体も床に固定されているようだ。

エレベーターの床に叩き付けられた時に打ち付けたのか、頭と腰が痛む。

「おーい」

大声を上げてみた。

「おーい、誰かいますかー!」

だが、あたりはしんとしていて、何の反応も返ってこない。
窓から微かに、外を行き交う車の走行音が聞こえるだけだ。

なんだ。
これは、いったいなんなんだ。

あいつに、嵌められたのか。

考えを巡らせていると、突然、モニタの電源が入った。

映し出されたのは、ベッドに横たわる包帯が巻かれた男の頭。
そして、ベッド周辺に置かれた計器やら点滴やら。

どうやら、そこは病室らしい。
カメラはベッドの枕元に置かれているらしく、広角レンズで病室全体を映し出していた。


頭が動き、ベッドに横たわったまま、ゆっくりとカメラの方に向き直る。

そこには、俺の顔をした、あいつがいた。

『やあ、そっちの居心地はどうかな?』

俺は思わずモニタに向って、怒りを込めて叫んだ。

「おいっ! どういうつもりだっ!」

あいつは、片手を耳に当て、うんうんと頷く仕草をする。

『なるほどなるほど。怒っているようだね。だけど、ごめん。そっちにはマイクがないから何も聞こえないんだ』

あいつは毛布から手を出して、腕時計を眺める。
俺の腕時計だ。

『あ、これね。貰っておいたから。君のスマホや財布もね。これで俺はすっかり葉山浩介、だね』

ふざけるな! とモニタに向って叫ぶが、あいつには届かない。

『いやあ、大変な『事故』だったね。まあ、あのマンションのエレベーターは元からガタがきてたから、落下事故が起きても不思議は無いよね。仕掛けがあったなんて、誰も疑わないよ。さてさて、お楽しみはこれからだ。よーく見ててね』

あいつはカメラに向ってウインクすると、仰向けに寝転がる。
そこへ、手に袋を持った美咲が心配そうな顔で病室に入って来た。

『とりあえず売店でタオルとか日用品、買って来たよ。どう、痛みは?』

『うん、頭がちょっと痛むけど、大丈夫だよ』

美咲はベッド脇の椅子に腰を下ろし、涙ぐんでいる。

『ホントに心配したんだから、コースケ』

違う!
そいつは、俺じゃないんだ!

『ただ、頭打ったせいか、記憶がちょっと曖昧なんだよな。勿論、美咲のことは覚えてるけど、他の事を思い出そうとすると、霞がかかっているというか、何も思い出せない』

白衣を着た医者が、病室に入って来た。
いや、医者じゃない。

ボサボサの髪の毛。ひっきりなしにぎょろりとした目を動かしている。

こいつは、殺し屋派遣ネットショップの『ニセ医者』だ。
カナが入院した時に襲って来た、ヘタレの殺し屋。

『や、や、や。ぐ、ぐ、ぐ、具合はど、ど、ど、どうですか』

美咲がニセ医者に頭を下げて挨拶する。
当然ながら偽者だと知るはずもない。

『先生、このひと記憶を無くしているみたいなんです。大丈夫なんでしょうか』

『あ、あ、あ、あ、頭を打ちましたからね。おそらく、いちいちいち、いち時的な記憶障害でしょう』

『治るんでしょうか』

『な、な、な、治りますとも! いや、治らないかも!』

どっちなんだよ。

『と、と、と、とにかく。軽い打撲はありますが、骨折とか内蔵損傷は見られないので、に、に、に、にさん日で退院できるでしょう!』

よかった、と美咲が胸を撫で下ろす。
ニセ医者は、軽く頭を下げると、かくかくした動きで病室を出て行った。

『……美咲、ごめんな。心配かけて』

あいつが、しおらしく美咲に声を掛ける。
美咲は不安そうに、あいつをじっと見つめていた。

『……こっちへ、おいで』

あいつが両手を伸ばすと、美咲はゆっくりと立ち上がり、その腕の中に体を沈み込ませる。

や、やめろ。
やめてくれ!

そして、あいつは美咲の髪を撫でながら、もう片方の手を顎にそっと添えると、顔を寄せ。

美咲にキスをした。

それは濃厚な、長い長いディープキス。

なんで、こんなことが……。

次の瞬間、モニタの映像はぷつんと切れて、真っ暗になった。

俺は、頭の中が真っ白だった。

ロープをほどこうと必死に手を動かしてみるが、びくともしない。

気がおかしくなりそうになりながらバタバタもがいていると、ふいに、モニタが再度ついた。

『やあ』

あいつだ。
美咲の姿は見えない。

『君と話したいから、美咲ちゃんには水を買いに行ってもらったよ。あれ、とっても怒ってるかい? そうだよねえ、暴れたい気持ちもわかるよ。でも、これでわかったかな? 君と俺は、完全に入れ替わったってことをさ。そうそう、美咲ちゃんの唇、やわらかくって最高だね!』

モニタの中のあいつは、バカにしたように舌を出す。

『さて、ここまでは前菜。実はここからが、最大の見せ場なんだ。だから、チャンネルはそのままでね!』

しばらくして、ペットボトルを手にした美咲が病室に戻って来た。

『はい』

『ありがとう、美咲』

ペットボトルを受け取りながら、あいつが妙にしおらしく答える。

『……あのさ、美咲』

『なに、なんか他に欲しいものある?』

『いや、そうじゃないんだ。実は、色々思い出して来た。それでな、美咲にどうしても話さなきゃいけないことがある』

『どうしたの、改まって』

あいつはそこで一旦口をつぐむと、目線を美咲から背けた。

『何よ、話してよ』

美咲は少し不安そうな目で、あいつをじっと見つめてる。
やがて、あいつの口から発せられた言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。

『美咲、別れよう……』

美咲は、驚いた表情で声を上げる。

『え、どういうこと!?』

『これまでずっと、言えなかった。実は他に好きな子ができたんだ』

『ちょっと、冗談はやめてよ』

『本当だ。だからもう、美咲と一緒にいることはできない』

『そんな……』

美咲は目を大きく見開き、口が半開きになっている。
それは、俺も同じだった。

『カナっていうんだ。女子高生だよ。夏から付き合っている』

『女子高生? コースケ、何を言ってるの?』

『美咲が知らないところで、ずっと会ってたのさ。もう、隠れて付き合うのは限界なんだ。俺はカナを愛している。だから、美咲とはこれで終わりなんだ』

美咲の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

『ねえ、コースケ。嘘だと言って。冗談だって言ってよ……』

『美咲、本当にすまない。これまでありがとう』

あいつは、キッパリとした口調でそう言い放つと、全てをシャットアウトするように顔を背ける。

美咲は涙をぬぐおうともせず、暫くあいつを見つめていた。
そして、二、三歩後ずさりすると、踵を返し、俯きながら早足で病室を出て行った。

モニタ越しのその空間で、今、この瞬間、目に見えない大切なものがなくなってしまった。
映し出される画像に変化はないのに、明らかに、そこから消え失せたものがある。

俺は、放心状態でその様を眺めていた。

いつしか、モニタの電源が切れたのにも気づかずに。





あれから、何時間経っただろう。

俺はずっと、考えていた。

あいつは、美咲のストーカーだった。
周到な計画を立てて俺と入れ替わり、ついに美咲を手に入れた。
思いを遂げたんだ。

しかし、その直後にあいつは美咲に別れを告げた。

なぜなんだ。

すぐに別れるのなら、なぜこれほど長期間に渡ってストーキングしてたんだ?

わからない。

ロープが食い込んだ手首からは、血が滲んでいた。
だが、痛みは感じない。
俺はすっかり脱力感に包まれ、全ての感覚が失われつつあった。

ぷつんと音がして、ふたたびモニタの電源がつき、あいつの声が耳に飛び込んで来た。

俺に向って話しかけているのかと思ったが、そうではない。
大声で電話を掛けていた。

『……もしもし、『バイク買い取り宇宙ナンバーワン、超高価買い取り、即日ニコニコ現金払いのバイクキング』さんですか? バイクを売りたいんすけど。てか、タダでいいんで、すぐに持ってってもらえます? ハヤブサってバイクです。とっとと処分したいんです、はい。住所は……』

病室の入り口に佇んでいる人影が目に入った。

制服姿のカナだった。

カナは心配そうに眉を歪め、もじもじしながら、ゆっくりとあいつに近づく。
あいつは電話を終えると、カナの姿に気づいた。

『なんだ、おまえか』

『……具合、どうなのさ』

『別に? なんでもない』

あいつは、そっけなく答える。

カナは後ろ手で持っていた紙の包みを、あいつに差し出した。

『なんだ、それは』

『……福神漬け』

『なんで、福神漬けなんだ』

『好きだって言ってたから』

確か前に、カレーの付け合わせに福神漬けは最高だ、と言った覚えがあるが。
福神漬けだけ持って来るところが、いかにもカナらしい。

『そんなものは、いらん』

あいつは、差し出された袋をはねのけた。
カナは床に散らばった福神漬けに目を落とす。

『どうした、オジサン』

『ふん、どうもしねえよ』

『また、記憶なくしたとか?』

『そんなわけねえだろ』

『なんか、雰囲気が違う』

『当たり前だろ? エレベーターが落下したんだ。叩き付けられて、からだ中が痛いんだよ!』

カナは心配そうに、大きな目でじっとあいつを見つめている。

『……ハヤブサ、売っちゃうの?』

『あんなもん、もう必要ない。飽きたのさ』

『ずっと大事にしてたじゃん』

『うるさいな、大きなお世話だ。この際だからついでに言ってやる。おまえにもうんざりなんだ。これまでおまえに関わって、ろくな事がなかった。もう、こりごりだ』

あいつはカナを睨みつけ、吐き捨てるように言った。

『……オジサン、本気で言ってる?』

『ああ、本気だとも! ずっと迷惑してたんだ。いつまでも俺のまわりをうろちょろしやがって、目障りにもほどがある。これ以上、おまえのお遊びに付き合いきれん』

『……』

『だいたい、俺がおまえのことなんか、好きなはずないだろうが!』

カナは無表情だった。
いや、俺にはわかる。
あいつは、すごくショックを受けている。

『……わかった。本当にこれまで、かたじけなかった』

かたじけない、の使い方が、間違ってる。

『ああ、二度と顔を見せるなよ』

カナはごそごそとカバンからアマテラス猫のお守りを取り外すと、あいつに突き出した。

『なんだ、これは?』

『……』

『こんなもん、いるかよ!』

あいつは、お守りをひっ掴むと、病室の奥へと放り投げた。

カナは床に転がったお守りを、暫くじっと見つめていた。
そして、何も言わずに、病室から駆け出ていった。





小窓が強い風で、カタカタと鳴り続けている。
この部屋の唯一の光源であるが、その明るさも次第に弱まりつつあった。

あれから、どれだけ時間が経過したのか。

不思議と喉が乾いたり、腹が減ったりとか、トイレへ行きたいといった生理的な感覚が湧いてこない。

人間、とことん追いつめられると麻痺するらしい。

あいつは、俺から美咲を奪った。

そして、カナ。

ハヤブサまでも。

大事な仕事も、すっぽかすこととなってしまったので、もう二度とこんなチャンスは巡ってこないだろう。

全てを失った。

やれやれ。

こんな最悪な状況なのに頭に浮かんだ言葉は、それだけだった。
怒りや、悲しみや、悔しさや、絶望。ありとあらゆる負の感情を超越した言葉。

「やれやれ、だ」

口に出してみると、心なしか気分が少し和らいだように感じる。

目の前のモニタはついたままだ。
スマホのメール画面が、映しだされている。

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件名:【殺し屋】発送のお知らせ

本文:

毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。

【葉山浩介】様よりご注文頂きました【殺し屋】を本日発送しましたので、お知らせします。

お届け予定時間:1時間以内

お届け先:あなた

お届けする【殺し屋】:ゆるキャラ

返品、交換は一切受け付けられませんのでご了承ください。
ご不明な点につきましては、【葉山浩介】様にお問い合わせください。

またのご利用をお待ちしております。

※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。

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やれやれ。

もう、どうにでもなれ。

ガチャリ、とドアノブを回す音がした。
ひさびさに感じる、人の気配。いや、凶悪なペンギンか。

ドアがゆっくりと開いて姿を見せたのは、やはりというか、毛むくじゃらの巨大な着ぐるみだった。

「ちーっす」

愛らしい大きな瞳のペンギンから発せられる、だるそうな声。
手には魚の形をした鈍器。

その凶器をくるくると振り回しながら、奴はゆっくりと俺に近づく。

「配達に伺いましたー」

俺は、目の前にそびえ立つペンギンを見上げた。

「ああ、とっとと済ましてくれ」

「まじっすか。今日はずいぶん素直っすね」

「もう、どうでもいいのさ」

「駄目っすよ、人間、最後まで生きるために必死でもがかねえと。『死中求活』って言うでしょ。アーネスト・ヘミングウェイも言ってたじゃねえっすか、『世界は美しい、戦う価値がある』ってね」

殺し屋に、説教される俺って。
てか、意外と博識なんだな。

ペンギンは頭を傾げると、ふうと息をつき、ゆっくりと魚を振り上げる。

俺は目を瞑った。
これで終わりだ。何もかも。

耳元で、びゅっと言う鋭い風切り音が聞こえた。

そして、激しい破壊音。

あれ?

目を開けると、粉々に破壊されたモニタが床に転がっていた。
予期せぬ攻撃に驚いたかの如く、画面がぱちぱちと点滅していたが、やがてすっかりその機能を停止した。

なにがなんだか、わからない。

ペンギンは、壊れたモニタをつぶらな瞳でじっと眺め、やがて魚を放り投げた。

「……どういうことだ?」

「埼玉に新しいアミューズメント施設ができるの知ってます? 『ゆるキャラドリームランド』って言って、全国のマイナーゆるキャラが集結するんすよ」

話しながら、だるそうに頭をぐるぐる回すペンギン。
ポキポキと音が鳴る。

「俺、そこに採用されたんす」

「それは……おめでとう」

「なので、もうこんな稼業は辞めるんだ、俺」

いつしか、着ぐるみから発せられる凶悪なオーラが、消え失せていた。

「ゆるキャラなんか、もうオワコンだからこの先どうなるかわかんねえっすけど、とりあえず精一杯やってみるっす。あんたも何をされたのか知らんけど、頑張って生きて下さいよ。『人間万事塞翁が馬』ってね。いいことも悪い事も、いろんな事が待ってるのが人生ってやつっすよ。あきらめちゃ終わりだ」

着ぐるみは俺を見下ろしながら、相変わらず気だるそうな話し方でそう言った後、肩をすくめてドアへと向って行った。

俺はその背中に向けて声を掛ける。

「……おい、あのさ」

「なんすか?」

「どうせ助けるなら、このロープも解いてくれないか?」



俺が俺だと証明できるものは、何があるのだろう。

身分を証明する免許証やスマホなんかは、あいつに奪われた。
しかし、それを持っていたところで、果たして自分である証(あかし)となるのだろうか。

偽物の俺が、しでかした事実は消えない。

美咲に別れを告げたこと。
別れの理由に、カナを引き合いに出されたのは堪えた。
美咲には、カナのことを内緒にしてたから。

カナに対しても、心を傷つけゴミのように追い払った。
あいつは相当、ショックだっただろう。
二度と俺の前に現れることはないかもしれない。

目に見える光景は何も変わらないが、俺の世界は明らかに変わってしまった。
大切なものが損なわれ、失われ、既に取り返しのつかない状況なのだ。

あいつによって、ねじ曲げられた世界。

もう、今となっては、何もかも遅すぎる。
俺が、本物の俺であることを証明しない限り。

仮にそれを成し遂げたとしても、完全にもとの日常に戻る事なんて、できるのだろうか。

自宅のマンションを見上げながら、俺はぼんやりと、そんなことを考えていた。

監禁されていたのは、三鷹商店街の裏通りにある、今は廃墟と化した雑居ビルの一室だった。

ゆるキャラにロープを解いてもらい、外へ出ると既に陽は落ちかかっていた。
まるで自分の気持ちを映し出しているかのような、どんよりとしたモノクロの空が暗い闇へと沈み込まれて行く中、自然と足が向いたのはマイホーム。

駐輪場に、ハヤブサの姿はなかった。
おそらく、『バイク買い取り宇宙ナンバーワン、超高価買い取り、即日ニコニコ現金払いのバイクキング』とやらが、持って行ったのだろう。

部屋には美咲がいるのだろうか。

どの面さげて、帰れば良いのだろう。

『あれは俺じゃない。ISAという国際的ストーカー組織に所属する、俺そっくりに整形した奴が、美咲を欺いていたんだ』

そんな、端から見ればどうしたって荒唐無稽な話を、素直に信じてもらえるだろうか。

あんな酷い別れ方をした直後に。

浮気の言い訳ランキングというものがあるとすれば、おそらく最下位レベルだ。

まずは、どうやって俺という人間を証明するか。

美咲に会う前にそれを考えるのが先だが、果てしなきロング・アンド・ワインディングロードが目の前に広がっているのを感じ、目の前がくらくらした。

『おじさん、不審者?』

声が聞こえた気がして、思わず振り向く。

『なんで自分ち見上げたまま、ぼーっと突っ立ってるのさ?」』

溶けかけのチョコバーを持って、壁にもたれてこちらを睨む、夏制服姿のカナがいる。

「カナ……」

思わず、声に出してから気づく。

いや。

それは、幻影だ。

カナの姿は、まるで陽炎のように、ゆらゆらと壁の中へと消えて行く。
初めて出会った頃に感じた、夏の焼けたアスファルトの匂いを、かすかに鼻孔の奥に残しながら。

俺は、もう一度マンションを見上げてから、その場を後にした。

取り敢えず向った先は、いつもの喫茶店。

他に行くあてなんてない。

からんころんと鐘を鳴らしながら入ると、いつも陣取る窓側の席に目をやる。

そこに、カナの姿はない。

いないだろうと思いつつ、少しだけ期待してたせいか落胆している自分がいる。

昭和のマスターにホットコーヒーを頼むと、ぼんやりと外を眺めた。

あの時。

カナが病室から飛び出して行くのを見届けて、あいつはベッドからすっくと起き上がった。
案の定、どこも怪我なんかしてやしない。
頭の包帯を外しながら、カメラに向けて最後にこう言い放った。

『さて、これで君への復讐も終わりだ。全てを失った気持ちはどうだい? 絶望の底にいることを心から願うよ。最後のプレゼントとして殺し屋を送っておくから、届くまでの少しの間、せいぜいもがき苦しんでくれ。じゃあね』

その目は、笑っていなかった。

あいつは、『復讐』と言っていた。
なぜ、そう言ったのだろう。
一方的に美咲をストーキングしていた奴に、復讐される覚えは無い。こっちの方が被害者だ。

しかし、あいつは、ずっと『復讐』の機会を狙っていたのだ。
そして今日、ついにそれをやってのけた。
いったい何に対する復讐だったのか。
全てのカギは、そこにあるような気がする。

「おい、兄ちゃん」

耳障りなダミ声が聞こえた。

振り返ると、例の、かあっ爺さんが、こっちを睨んでいる。
声を聞くのは、初めての事で驚いた。
店の置物じゃなかったのか。

「昨日、巨人は負けたのか?」

あんたが手に持っているスポーツ新聞はなんなんだよ。

「とっくに、野球シーズン終わってますけど」

「けっ! どおりで、野球の記事がないはずだわい」

爺さんは、開いていたスポーツ新聞をくしゃくしゃにしながら乱雑に折り畳む。

「ところで、いつも一緒にいる、例の女学生はどうした?」

女学生って、言い方が古いな。

「さあ。わかりません」

「あの子は、なんだ、兄ちゃんのコレか?」

小指を上げる爺さん。

「いやいや、違いますよ。ただの……」

言おうとして、的確な表現がないことに気づいた。

知り合い、と言うには微妙だ。
友人、とも違う。
勿論、彼女、であるはずもない。

どれでもないが、あいつの正体を知っている、唯一のパートナーである事は間違いない。

そうか。

まずは、カナだ。
カナを探そう。

そのためには……。

「ありがとう、爺さん!」

ぽかんとした表情の爺さんに礼を言って、俺は喫茶店を飛び出した。





辺りはすっかり夜の闇に包まれていて、閑静な住宅街の街路灯から放たれるぽつぽつとした灯りが路面をぼんやりと照らしている。

その見覚えのある光景にデジャブのような感覚を感じつつ、俺は一軒の住宅の2階を見上げた。

カナの友人、あずさの部屋だ。
電気は消えている。ダイニングで夕飯を食べているのだろうか。
以前、カナと一緒にここでユータを張り込んでいた事を思い出す。

あずさには、あれから会っていない。
イケメン、ユータとその後どうなったのかも知らない。

とりあえず、ここまで来たが。

どうやって、あずさに会おう。
家には家族がいるだろうし、夜中にいきなりベルを鳴らして出て来たお母さんに、お宅の娘さんのあずささん(女子高生)に用事があるのです、と話しかけるのはさすがに気が引ける。

しかし、スマホを盗られてカナの電話番号がわからず、住所も知らない状況では、あずさを頼るほかないのだ。

この街灯の下で、あずさが部屋に戻り窓のカーテンを開ける機会をひたすら待つか。
いやいや、それではあの時のユータと同じストーカーみたいだ。

考え悩んでいると、ふいに後ろから声を掛けられた。

「あれ? 葉山さんじゃないっスか?」

振り返ると、ユータと、ふわりとしたレイヤーカットの髪を茶色に染めた、少し派手目の女の子が立っていた。
いずれもくだけた制服姿。手を繋いで、いかにも仲睦まじそうだ。

ん?

この小柄な娘は、もしや、あずさか?

「お久しぶりです。こんなところで何してるんですか?」

はきはきとした口調。
以前の地味で大人しい面影は全くない。眼鏡はコンタクトとなり、目元ぱっちりの化粧。
全身から、かつては皆無だった色気を醸し出している。
女って、短期間でここまで変貌するものなのか。
まるでサナギから蝶への変態だ。

俺が驚きのあまり言葉に詰まっていると、あずさが色っぽい目をぱちぱちさせる。

「まさか、あずさのストーカー……」

「いや、違う、違う」

俺はあわてて頭(かぶり)を振った。

「実はカナを探している。例のあいつに嵌められて、スマホも何も持ってないんだ。カナに連絡を取ってもらえないか?」

「例のあいつって、以前、オレを拘束したあいつですか?」

ユータが怯えたように言う。

「いや、待てよ」

ユータは急に顔を強ばらせ、あずさの腕を掴んで二三歩後ろに下がった。

「あずさ、こいつはあいつかもしれん。顔が同じだから見分けがつかないんだ」

「えっ、こいつがあいつなの?」

やれやれ。
こいつがあいつ、って何なんだよ。

「もし本物の葉山さんなら、本物である事を証明してください」

あずさを後ろに庇うようにして、俺を睨みつけるユータ。
こいつ、こんな男らしいキャラだっけ。
ちゃんとした恋人ができると、人って変わるもんだな。

まあ、そんなことはどうでもいい。
俺が俺である証明か。

ここにいる人間しか、知らない事って……。
頭をフル回転させて、脳のニューロンの先っぽにある微かな記憶をたぐり寄せる。

「……『それいけ! アン○ンマン』だ」

ふたりが顔を見合わせる。

「カナのスマホの着メロ。これは本物の俺しか知らない事だろ?」

言ったとたんに、ユータがほっとしたように相好を崩した。

「葉山さんー、良かった本物の葉山さんだ」

ああ、こんなことでしか、自分を証明できないのか。

いや、そうか。
あいつが知らない情報でしか、今や自己証明の方法はないのだ。

「で、何があったんスか?」

俺はこれまでの出来事を、手短に説明した。
あいつが俺と入れ替わって、美咲に別れを告げたこと。
カナの心を傷つけて、追い払ったこと。
最後には、殺されそうになったこと。

「……マジっスか」

「今や、あいつは完全に俺に化けている。どうやら周到に計画を立てていたらしい。完全にあいつの思い通りになってしまった」

「でも、ひとつだけ誤算がありますよ」

黙って話を聞いていたあずさが口を挟んだ。

「あいつは、葉山さんが生きていることを、まだ知らないと思います」

そうか。
ゆるキャラが仕事放棄して俺を逃がした事に、おそらくあいつはまだ気づいてないだろう。
そこに、付け入る隙があるかもしれない。

あずさはスマホを取り出し、電話をかける。
が、やがてスマホを耳に当てたまま首を横に振った。

「カナのスマホ、電源が切れてるみたいです」

どこにいるんだろうか。
まさか、落ち込んで人知れず旅に出たとか。
ちくりと心が痛む。

「そうか。じゃあ、病室にいたあいつは偽物だ、とメッセージを入れておいてくれるか? 俺が会いたがっているって」

「わかりました。葉山さんは、どこにいるって伝えれば良いですか?」

この近所に住んでいて、寝床を貸してくれそうな友人は、何人かいるが。
スマホがないと電話番号がわからないので、連絡が取れない。
それに、周到なあいつが友人達に良からぬ事を吹き込んでいることも、想定しておく必要がある。

そうすると、結局あそこしかない。

「いつもの渋い喫茶店だ。そこを待ち合せ場所にしてくれ。それから……」

こんなこと、女子高生にお願いするのは、本当に情けない。

「……すまないが、いくらかお金を貸してくれないか」





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■現在のアイテム
女子高生から借りた¥5000
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今の俺はまるで、魔物蠢く異世界に放り出された、Lv.0、チート無しの勇者……?である。
あいつは、俺が生きている事に気づいたら、容赦なく殺し屋を送り込んでくるだろう。

なんとかしなくちゃいけない。

あずさとユータに別れを告げると、俺はその足で駅前のネットカフェへと向った。

ここは暇な時に、何度か利用した事があるのだ。
フロントには馴染みの店員がいたので、会員カードがなくても入れてくれたのは幸運だった。

薄暗く狭いボックス席に入ると、PCの電源を入れてブラウザを立ち上げた。

あいつを探す方法が、ひとつだけある。

『スマホを探す』機能だ。

あいつは俺のスマホを持っているはずだ。ネットでスマホを探せば、今いる場所がわかる。
前に、カナに教えてもらったのだ。

パスワードを入力すると、地図が表示された。
スマホの場所は、六本木ヒルズを示している。

あいつは、ここで何をしているのだろう。
そもそも、素性がさっぱりわからない。
ISA(国際ストーカー協会)に所属していること以外は。

「国際ストーカー協会」と入力して検索してみたが、どのページもヒットしなかった。

うーむ。
とりあえず、六本木ヒルズに行ってみるか。
巨大な施設だから、見つけ出すのは難しいかもしれないが、ここで手をこまねいていても仕方が無い。

椅子から立ち上がろうとして、地図上のスマホの位置が道路沿いに移動し始めた事に気がついた。

麻布十番を抜け、赤羽橋交差点で南に向きを変える。
どうやら、あいつは車で移動しているらしい。しかも結構なスピードだ。

品川駅の近くで停止すると、そこから動かなくなった。

やっかいだな。

コーヒーをすすりながら、地図を眺め続ける。
車で移動しているとなると、捕まえるのは難しい。
ハヤブサと奴の位置が追えるスマホがあれば、なんとかなりそうだが、今の俺には何もない。

しかし、あいつがあちこち場所を移動する理由は何なんだろう。
全く想像もつかない。

30分ほどして、再び地図上のスマホアイコンが動き出した。
五反田、中目黒を抜け、世田谷方面へと移動していく。
駒沢オリンピック公園の脇を通って、成城学園前駅の近くで停止すると、突然「オフライン」と表示された。

オフラインとは、つまり、スマホの電源がそこで切れたと言うとこだ。

電池が切れたのか、あいつが自分で切ったのかはわからないが。
自分で切ったとすれば、なぜ。

気づかれたのだろうか。

PCの時計を見ると、20時過ぎだった。
急に、どっと睡魔が襲ってくる。
俺は、PC画面をぼんやり眺めながら、汗臭いリクライニングチェアの背もたれに体を沈み込ませた。

朝から監禁され、精神的に追い込まれ、しまいには殺されかけて。

本当に酷い一日だった……。

そのまま、意識が次第に深い暗闇へと落ちていった。





はっと、目を覚ました。

かなり、ぐっすりと寝てしまっていた。

ふと、起動したままのPCの画面に目をやると、スマホは再びオンラインになっており、ある場所を指し示していた。

新宿歌舞伎町にある、「国際アンバサダーホテル」。

時計に目を移すと、10時5分。

うーむ。

あいつはなぜ、昨晩スマホの電源を切り、また今朝になって電源を入れたのだろうか。
俺が生きている事に気がついたのであれば、切ったままにしておくはずだ。
スマホの現在位置が追えることくらい、あいつも知ってるだろう。

そうすると、夜のあいだ電源を切らなきゃならなかった、別の「理由」があるのかもしれない。

良く寝たせいか、頭は昨日よりすっきりとしている。
とりあえず、国際アンバサダーホテルへ行ってみよう。行動を起こさなきゃ、何も始まらない。

ネットカフェを出ると、空は雲ひとつなくすっきりと晴れ渡っていた。
いきなり眩しい太陽の光を浴びたので、頭がくらくらする。

一瞬、家に帰りたい衝動に囚われた。

このまま、マンションに帰ると。
美咲がスクランブルエッグを作って、微笑みを携えながら俺を待っていて。

いやいや。

そんなのは幻想だ。
今は、全てにけりを付けなければ駄目なのだ。

中央線に乗り、新宿へと向かった。
三鷹から新宿までは20分程だ。あいつが再び移動する前に、間に合えばいいのだが。

通勤混雑帯の時間を過ぎた電車は、空いていた。
向かいの席に、『遅刻しますが、何か?』的なオーラを纏った茶髪の女子高生が、座ってスマホをいじっている。

カナの事を思い出した。

あいつは、どこへ行ってしまったんだろう。
ネットカフェを出る前に、電話を借りてあずさから聞いた電話番号でカナのスマホにかけてみたが、相変わらず圏外だった。
今どきの女子高生が、半日以上もスマホの電源を切っているなんて、考えにくい。

カナが今どきの女子高生と言えるのかどうかは、置いとくとして。

新宿駅で下りて、歌舞伎町の外れにある国際アンバサダーホテルへと向かう。
そのインターナショナルな名称とは裏腹に、実体は古ぼけた3階建ての小さいホテルだった。

建物に入ると、とたんにカビ臭いにおいに包まれた。
こじんまりとしたロビーに置かれている表皮がすり切れたソファも、煤けた壁に掛けられている、すっかり色あせてしまったアルプスの山岳風景の絵画も、何もかもがくたびれている。
まるで、全ての調度品が一斉に、疲れ切ったため息を吐いているようだ。

そしてフロントに、でんと座るおばさん。
ちりちりパーマの髪型で化粧が濃く、人生これまで一日5食欠かした事はありません的な感じの三重顎。

入って来た俺を、蔑むような目でじろりと睨みつけた。

「すみません、さっきここに人が来ませんでしたか?」

「人ならしょっちゅう来ますけど? ここはホテルですから」

その割には、スターウォーズに出て来る巨デブの怪物ジャバ・ザ・ハット似のおばさん以外、人気が無い。

「ええと、じゃあ」

俺は自分の顔を指差した。

「こんな顔の人です。俺と同じ顔をした人が来ませんでしたか?」

おばさんが顔をしかめると、顎の線がひとつ増えて四重顎になった。

「何をおっしゃってるのか、わかりません」

そりゃそうだ、と自分でも理不尽に思う。

「さっきまで、ロビーのソファにカップルの方が座られてましたけど。場所がら、あまり顔は見ないようにしてるので」

場所がらって。
ここは、あっち系のホテルなのか。

「それは、どのくらい前ですか?」

「だから、さっきです」

埒(らち)が明かない、ってのはこういうことなんだな。

ここにいたのがあいつだとすると、一緒にいた女は誰なんだろう。
まさか、美咲じゃないとは思うが。あんなにキッパリと別れを告げたんだから。

俺は四重顎おばさんに軽く会釈をして、ホテルを出た。

間に合わなかったか……。
さて、これからどうしよう。

「葉山さん!」

いきなり後ろから甲高い声を掛けられ、俺はその場で飛び上がった。

振り返ると、ガリガリにやせ細った、緑色のワンピース姿の女が立っていた。
髪はボサボサのショートで、顔は……。

うーん、なんだろう。
絶対本人には言えないが、強いて言えばかまきりに似ている。

名前を呼ばれたが、見た事もない女だ。

「わたし、間違ってました!」

女は、両手を前で合わせながら、まるで祈るような体勢で俺に近づいて来る。
その顔は、今にも泣き出しそうだ。

「ななな、なんですか?」

たじろいで二三歩後ずさった俺に、女はぐいと目と鼻の先まで顔を接近させた。

「さっきは、葉山さんのせっかくの提案を断ってしまってごめんなさい! 私、やっぱり、やります!」

歯を食いしばって、何らかの決意表明をする女。
何の事やら、さっぱりわからない。

「あのー、どちら様、でしたっけ?」

「そんな、とぼけないでください! 私を見捨てないで!」

女は目やら鼻から、たちまち大量の液体を噴出しながら、がっくりと膝をつく。
そして俺のジャケットの裾を握りしめつつ、からだ全体を小刻みに震わし嗚咽を漏らした。

前方から歩いて来たインド系の男が俺たちの様子を見て、『おいおい、やっちまったな』とでも言いたげに肩をすくめて通り過ぎて行く。

いや、勘違いだって。

いきなりのことに、ただただ困惑していたが、はたと気がついた。
この女は、俺をあいつだと勘違いしている。
さっき、あいつがホテルで会っていたのは、この女に違いない。

「言われた通り、ちゃんと整形もします! ストーキングも毎日やります! 私にはあの人しか居ないんです!」

ははあ。
これは、あいつの手口だ。
整形させて、ストーキング相手の彼女か奥さんとすり替える。

俺に成り済まし、ISAの活動員としてストーカー候補者たちと面接してたのか。
あちこち移動していたのは、それが理由だ。

俺は、あいつのフリをすることにした。

「……わかりました。考えておきましょう」

「本当ですか!」

女は顔を上げて、まるで聖者の許しを得た罪人のような、安堵に満ちた表情で俺を見つめる。

「ストーカーは大変ですよ。時には自分や人の人生をめちゃくちゃにする。それでもいいんですね」

「勿論です! あのひとの心を掴むためには、私、なんだってやります!」

それは、まさに獲物を狙わんとする、かまきりの眼光。

「かまきり……いや、はりきりすぎないよう、ほどほどに頑張ってください」

「今、かまきりって言いました?」
 
しまったな。

「それはそうと。あなたの事で思い悩んでいたら、行く場所を忘れてしまいました。私、さっきあなたに、どこへ行くか言いましたっけ?」

女はしばし空を睨むと、思い出したのか激しく首を縦に振った。

「渋谷です! 渋谷ロイヤルワールドホテルで、次の面接があるって言ってました!」





渋谷ロイヤルワールドホテルは、明治通りのにぎやかな繁華街から少し外れた場所にある、意外にも近代的で洒落た建物だった。
広いロビーにはカフェが併設されており、多くの人で溢れかえっている。

渋谷駅から走ってここまで来たので、冬だというのに汗だくだ。
息も荒いまま、なかなか落ち着かない。

まるで自分の体じゃないように、動きが鈍く感じてどこか違和感がある。
昨日の酷い精神的疲労が、今頃になってどっと溢れ出て来たのかもしれない。

俺はジャケットを脱ぎながら、カフェにいる客の顔を見渡す。

だが、あいつの姿は見当たらない。

トレーを持って通りがかった、カフェの若い女性店員に声を掛けた。

「あの、人を捜しているんですが」

「はい、どちら様でしょう?」

笑顔を携え、はきはきと明るい声で返事をする店員。
先ほどの四重顎おばさんとは対応が違いすぎて、まるで異世界に来たようだ。

「ええと、葉山浩介と言って、」

やむを得ず、自分の顔を指差す。

「こんな顔をしてます」

店員が、不思議そうな表情で頭を傾げる。

「……双子の弟なんです。だから顔も同じなんです」

「ああ、そうでしたか。少々、お待ち頂けますか?」

店員はカウンターへ行き、俺の方をちらちら見ながら他の店員と何やら話している。

咄嗟に口から出た嘘だが、まずかったかな。
どうも俺は、いろんなところで不審者扱いされる体質のようだし。

暫くして店員が戻って来た。

「お客様、その方ですが、つい5分程前までいらっしゃったのですが」

また、入れ違いか……。

「女性のお連れ様とご同席でしたが、電話がかかってきて、お一人で慌ただしく出て行かれたようです」

「何か言ってましたか?」

「ええ。大声で電話で話されていたので、うちの店員の耳に入ってしまったのですが、『それは俺じゃない!』とか興奮されていたようで」

「それは俺じゃない、って言ってたのですか?」

誰かが、あいつを見間違えたということか。
おそらく、見た目がそっくりな俺を、あいつと勘違いした。

それが誰かと言えば。

さっきの、かまきり女しか考えられない。
あの女があいつに電話をしたのだ。

まずいな。
俺が生きていて、あいつを追っている事に気づかれた可能性がある。

「このホテルに、駐車場はありますか?」

「ええ、地下がお客様向け駐車場となっております」

まだ、間に合うかもしれない。

お礼もそこそこに、エレベーター脇にある階段で地下まで駆け下りた。

青白い蛍光灯の光に照らされた駐車場には十数台の車が停まっていたが、人の気配はなく辺りはしんとした冷気に包まれている。
俺は乱れた呼吸を整えながら、耳を澄ました。

どこからか、ピピッという、リモートキーの解錠音が聞こえる。

こちらからは見えないが、奥側のブロックだ。
音がした方へと、車の間を縫いながら急いで向う。

目に入ったのは、赤いオープンのミニクーパー。
そしてドアを開け、まさに車に乗り込もうとする、あいつの姿。

やっと、見つけた。
ほんの数メートル先に、探し続けたあいつがいる。

「おい!」

俺の姿に気づいたあいつは、驚きの表情を浮かべた。

「まさか、本当に生きていたとはね」

ドアを開けたまま俺のほうへ向き直ると、顔をしかめる。
手に持ったスマホに、ちらりと目をやった。

「なるほど、このスマホを追ってきたのか」

いきなりスマホを振り上げると、そのまま床に叩きつけた。
ガラスが砕け散る音が、コンクリート壁の駐車場内に反響する。

「なぜ、こんなことをする」

「なぜって、君になるためさ。そう何度も言っただろう」

鋭い目はそのままに、口元にだけ薄笑いを浮かべる、あいつ。

「復讐ってどういう意味だ。おまえにそんなことされる覚えはない」

「君に覚えはなくても、俺にはちゃんとした理由があるんだよ」

「どういうことだ」

「説明する気はないね」

あいつは、にべもなく言い放つ。

「とにかく、君に生きてもらってちゃ困るんだ。せっかく時間をかけて組み上げたパズルがバラバラになってしまう。頼むから死んでくれないかな?」

「ふざけるな。俺の人生を無茶苦茶にしやがって。元に戻せ! 美咲にちゃんと説明しろ!」

「わかってないなあ」

あいつはそう言いながら、人差し指を左右に振った。

「君の人生はとっくに終わっているんだよ。今や完全に、俺とすり替わったのさ。まだ気づいてないようだけれども、いずれ、その本当の意味がわかる時が来る」

「本当の意味だと?」

「それを知った時、君はどうするのかな?」

そう言うと、するりと体をミニクーパーに滑り込ませた。

「おい! 待て!」

駆け寄る寸前に閉まるドア。
エンジンが掛かり、ミニクーパーは急発進した。

追いかけようとするが、なぜか思うように足が動かない。
ミニクーパーは、タイヤの激しいスキール音を響かせながら、あっと言う間に駐車場から消え去っていった。



やはり体が重くて、どうにも言う事をきかない。
体力にはそこそこ自信があったはずなのに、少し歩いただけでも息切れする。
何かが、おかしい。

俺は重い足取りで、三鷹の喫茶店へと戻って来た。

やっぱり、カナの姿はない。
喫茶店にいるのは、いつもの如く、マスターと『かあっ』爺さんだけだ。

いつもの窓側の席に腰を下ろすと、俺はぐったりと背もたれに体を預けた。

あいつを取り逃して、ふたたびスタート地点に戻ってしまった。
床に叩き付けられたスマホは壊れていて、使い物にならない。
この先、あいつを追いかける唯一の手段も、今や無くなってしまった。

もう、俺は死んだも同然だな。
これからどうすれば良いかも、なにもかもがわからない。
まるで、側溝から下水道に落ちてしまったカルガモのような絶望感。
闇の中から、網目のフタ越しに遠い空を見上げている。

陰鬱な気分で、窓の外をぼんやり眺める。
この季節ともなれば陽は短い。既に、空が赤く染まり始めていた。

ん、あれはなんだ?

通りを、何かがゆっくりとこちらに向ってくるのが見える。
ブルーとシルバー、ツートンカラーの車体。

あれは、ハヤブサだ。
誰も乗っていないハヤブサが、亀が歩くような速度で動いている!?

幻覚か。
まさか、そんな馬鹿げたことが……。

俺はあわてて喫茶店を飛び出した。

目を凝らして見ると、ハヤブサは自走しているのでなく、ちっちゃい何者かがハンドルにぶら下がるような体勢で必死に押していた。
ハヤブサの影に隠れて見えなかったのだ。

それは、カナだった。

制服姿のカナが、滴り落ちる汗を拭おうともせず、歯を食いしばりながら、ひたすらハヤブサを前に進めていた。

「カナ!」

思わず大声を上げていた。
カナは俺の姿に気づくと、にこっと笑った。

「よっ!」

駆け寄って、カナの代わりにハヤブサを支える。
カナはその場に、力が尽きたように、ぺたんと座り込んだ。

「ハヤブサ、取り戻して来たよ」

「取り戻したって、どこから持って来たんだ」

「横浜のバイクオークション施設。バイク買い取りなんたらに電話して聞いたら、そこにあるって言うから、行って勝手に持ってきちゃった」

「はあっ!? 横浜からここまで押してきたのか!?」

「だって、私、ハヤブサの動かし方わからんし」

横浜からここまで、距離にして50キロメートルはある。
250キロの車体を50キロメートルも押して歩くなんて、どんなマッチョでもできることではない。

「ハヤブサはオジサンの宝物じゃん」

「だからって、おまえ……」

カナの姿が涙でにじむ。

「途中でスマホの電池が切れちゃって、連絡できなかったのだ。それで、オジサンにひとつ頼みがあるんだけど」

「なんだ。なんでも言え」

「死ぬほど腹減った。なんか食わせてくれ」





テーブルの上に積み上げられた皿の数々。

カナは、ナポリタンとカレーライスとハンバーグ定食とパフェ5杯をあっという間に平らげた。

「ハヤブサさえあれば、あいつを追いかけられるね」

おなかをぽんぽんと叩きながら、満足げに言うカナ。
カギが無かったとは、今は言えないな。

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■現在のアイテム
女子高生から借りたお金の残額 ¥2530
壊れたスマホ
動かないハヤブサ
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いや、アイテムなんてこの際、どうだっていい。
カナがここにいるだけで充分だ。

「なんで、病室にいたあいつが、俺のニセモノだと気づいた?」

「簡単だよ」

カナはマスターにパフェの追加を頼むと、身を乗り出す。

「ひとつ。オジサンが最大の武器であるハヤブサを手放すはずがないこと。もうひとつは、アマテラス猫のお守り。あいつはそれを見て、『なんだ、これは』って言ってた。見た事もないって感じでね。それで確信したのさ。この人はオジサンじゃなくて、あいつ、だってことをね」

なるほど、さすがカナだ。
あいつの正体を見抜いていたのか。

「俺に化けたあいつは、美咲と別れやがった。これまで何の為にストーキングしていたのか、意味がわからん」

「ほうほう」

カナ様は腕を組んで天井を見上げる。

「あいつは、本当に美咲さんのストーカーだったのかな?」

「え? どういうことだ」

「実は、オジサンのストーカーだったんじゃない?」

なんだって? そんなバカな。

あいつは美咲に執拗にメールを送り、後をつけていた。マンションの別の部屋に、うちとそっくりのコピールームを作り上げ、俺と入れ替わって美咲と暮らそうとまでした。

それほどにまで、美咲に執着しているのだとばかり思っていたが。

「すっかり、思い違いしてたんだよ」

「何の為に、俺をストーキングするんだ。あいつはBLか」

「それは、まだわからないけど。でも、そうじゃないと美咲さんと別れた説明がつかない」

あいつは、これは復讐だと言っていた。
ストーカーは見せかけで、俺に復讐するために美咲に近づいたということなのか。

しかし、何に対する復讐なのか、さっぱりわからない。

「いずれにしても、あいつの正体を暴かないことには、どうにもならん。なんとか捕まえる方法はないものか」

「昨日の夜、あいつが持っていたスマホの電源が切れたって言ってたよね」

「ああ、朝になったら、ふたたび電源が入っていた」

「夜の間、電源を切る必要があった、って事じゃない?」

「ほうほう」

つい、カナの口癖がうつってしまった。
電源を切るのは、どんな理由があるだろう。

「スマホの存在を、知られたくない誰かがそばにいたのかもね」

「確かに、そうかも知れんな」

「電源がどこで切れたか、覚えてる?」

頭の中に、地図のイメージが広がった。
成城学園駅の近く。

金持ちばかりが住む、世田谷の高級住宅街だ。

「行ってみようよ。今日はちょいとばかり疲れて食欲もないから、明日にでも」

カナはそう言うと、マスターがテーブルに置いたばかりのパフェを瞬時に食べ尽くした。





翌日。

カナとふたりで電車を乗り継ぎ、成城学園前駅へと辿り着いた。

豪邸が建ち並ぶ閑静な住宅街。
すっきりと晴れ渡った柔らかな陽の光が照らし出すその場所は、明らかにそこらの住宅街とは異なる、金持ちのオーラが漂っている。

「このあたりだと思う、スマホの電源が切れたのは」

俺はカナのスマホで地図アプリを見ながら、周囲を見渡した。

「なんか、いけすかない場所だねえ」

「社長やら芸能人やらが住むところだ」

「芸能人に会えるの?」

「おまえ、興味あるのか?」

「いいや、家にテレビがないからわからん」

いったい、カナはどんな生活を送っているのだろうか。

「前から聞こうと思ってたんだが、おまえの家は、その、普通じゃないのか」

「普通、って何さ」

「いや、家族構成とか、お父さんは何をしてるとか、言ってみろ」

「オジサンは刑事か」

「おまえ、自分のこと、一切話そうとしないだろうが」

「ほうほう。ワタシに興味があるのかね?」

「付き合い長けりゃ、知りたくもなるだろ」

「パパは、国のお偉いさんだよ。離婚しちゃって別のとこに住んでるけど」

ええっ!?
俺は思わず声を上げた。

「そして、ママは凄腕の殺し屋なのだ」

「……おまえ、冗談はよせ」

「冗談だと思うなら、そう思ってれば?」

カナは本気とも冗談とも判別が付かない素の表情で、俺を見上げる。

「複雑な家庭環境なのさ」

「……わかった、今はそれ以上、聞かないでおく」

もし、その話が本当なら、カナに近づく不審な男はどうなるのだろう。
例えば、俺みたいなやつ?

パパの闇の権力で、この世から抹殺されるか。
ママの手にかかって、この世から抹殺されるか。

いやいや、考えたくもない。

「旦那様! お疲れさまです!」

突然、後ろからドスの効いた声が響き渡った。

驚いて振り返ると、目付きが異常に悪いスキンヘッドの若い男が立っている。
高級住宅街にまるでマッチしない、昇り龍の柄が入ったスカジャン姿で、少しまくり上げた袖口からは入れ墨がうかがえる。
どう見たって明らかに、そっち系の人だ。

「今日は帰りがお早いですね」

男はそう言って、瓦屋根が立派な数寄屋門の扉を開け、さあ、どうぞとばかりに腰を低くする。
屋敷を取り囲む漆黒のコンクリート塀は高く、ここからは中の様子を伺う事はできないが、雰囲気がわかりやすくもそっち系のお宅だ。

この男は、俺をあいつと勘違いしている。
そして、ここはどうやら、あいつの本拠地らしい。

「どうするよ、カナ」

「行こうよ。あいつも出掛けてるみたいだしさ。『郷に行っては郷に従え』だよ」

「相変わらず、言葉の使い方が間違ってるぞ。少しは勉強しろ」

「おおきなお世話じゃ」

意を決して門をくぐると、そこには見事に和の空間を創作した広大な庭が広がっていた。
松の木のたもとに完璧なまでに美しく配置された庭石、池に泳ぐ大きな錦鯉。
まさに枯山水の世界。

庭の向こう側には、古い平屋の日本家屋が静謐(せいひつ)な趣きを以て佇み、ぴかぴかに磨かれた縁側の床に、やわらかな陽の光が淡く輝いている。

その古風で風情のある雰囲気が、逆に不気味さを感じさせる。

「あいつじゃないことがバレたら、ここから二度と出れないかもしれん」

「拷問されるだろうね。まるでこの世の地獄のような残酷非道なやつ。その後で、生きたまま砂の粒になるまで粉々にされて、土に埋められるであろう」

「縁起でもない事を言うな」

俺は緊張で足が震えているが、カナはけろっとしている。

勢いであいつの家に潜入したのはいいが、全くのノープランだ。
まさか、そっち系の家だとは思ってもみてなかったし、何が待ち受けているかも想像がつかない。

「カナ、ひとまず出直すか」

「ここまで来て、何おじけついてるのさ」

「いやいや、一度、作戦を立て直す必要があるって」

「作戦てなによ」

「だから、それを考えなきゃ、どうすればいいかもわからないだろ」

「オジサン、こういう時は勢いでいかなきゃ。『当たって砕けろ』って言うじゃん」

「ホントに砕けてどうする」

小声でカナと揉めていると、縁側の引き戸が開く音がした。

艶やかな紫色の着物を着た、背が高くすらりとした女が顔を出し、不審そうな顔でこちらを見やる。
歳の頃は、50歳くらいだろうか。黒髪を後ろできっちりと結び、かつてはモデルだったかのような、目鼻立ちのくっきりとした美形。
だが、きりりとした自己主張の強い眉と、見るもの全てを切り裂くような鋭い眼光が、明らかにただ者ではないことを表していた。

「アンタ、そこで何してるんだい?」

凄みのあるハスキーボイスだ。

この女は、何者か。
あいつの母親、にしてはまだ若いような気がする。

「なに黙ってんだい。その娘は誰?」

なんて答えればいいか迷っていると、女は突っ掛けに足を通し庭へと下りて来た。
そして、まっすぐ俺を見つめると、眉をひそませる。

「……違うね。おまえ、何者だ?」





20畳はある、広々とした和室。
壁の一角には神棚、床の間の大きな掛け軸には「忠孝仁義」の文字。

天然木の一枚板であつらえられた大きな座卓を前に、並んで正座する俺とカナ。
その向かい側には、ぴしりと背筋を伸ばしたあの女が、瞬きもせずに真っすぐ俺を睨み続けている。

「……すみません」

状況的に、とりあえず謝る以外の言葉が見つからない。

「何が、すみませんなんだい」

「いえ、なんか押しかけて、ご迷惑をお掛けしてしまったようで」

「ここへ来た理由はわかっている」

女はそう言うと、漸く視線を外して湯のみに手を伸ばした。

「おまえの事は記憶にある。おおかたアイツが何かやらかしたんだろ」

俺を知っているって、どういうことだ。
この女も、あいつの仲間なのだろうか。

「私の旦那だよ、アイツは」

驚きの声を上げたい衝動を、寸でのところで抑えた。
あいつが結婚してた?
しかも、かなり歳の離れた年上女房?

「婿入りさ。とんでもない穀潰し(ごくつぶし)野郎だ」

「じゃあ、あいつ、いや旦那さんがしてることもご存知なんですね?」

「いいや、何も知らん。うちの商売は、見ればだいたい想像がつくだろ。アイツは商売に関わらずに、金だけは使って好き勝手になんかやっている」

「ストーカー商売をやってます。そのせいで、俺は生活をめちゃくちゃにされた」

「だから、どうした」

女は湯のみを卓上に置くと、ふたたび俺を氷のような視線で睨みつける。

「知った事じゃない。アイツが何しようが、私は関知しない」

「そんな、あなたの旦那さんの事ですよ!」

「ああそうだ、どんなロクデナシだろうが、私の夫には違いない。関知はしないが、火の粉が飛んで来たら振り払わなきゃならん。本業に影響が出ないようにな。どうやらあんたがたは、その手のたぐいらしい」

部屋にピンとした空気が張りつめる。

「あのさ、オバサン」

その空気を切り裂くのは、カナのすっとんきょうな声。
女の方眉がぴくりと吊り上がる。

「なんか、茶菓子とかない?」

「おまえ、今はやめろ。空気を読め」

「だって腹へって、限界じゃ」

「帰ったら何か食わせてやるから、黙ってろ」

女がわざとらしく咳払いをした。

「おまえら、ここから生きて帰れると思ってるのか」

ああ。
嫌な予感が現実となった。
考えろ、俺。さもないと、本当に土に埋められてしまう。

「……旦那さんが、何されても関知しない、っておっしゃいましたね」

「それが、どうした」

「本当に、何をしても自由なんですか?」

「どうしようもないやつでも、アイツは身内だ。私を裏切るようなことをしなけりゃ、どうでもいい。まあ、アイツにそんな度胸など、あるはずもないが」

「俺の恋人とディープキスをするのは、裏切り行為じゃないんですか?」

表情を変えぬまま、女の顔がみるみる赤らんでいく。

「そんな嘘に、引っかかると思ってるのか」

「そんな嘘をつく為に、わざわざこんなところまで来ません!」

女は突然、思いっきり両手を卓上へと振り下ろした。
バタン、と大きな音がして湯のみがひっくり返り、飲み口からゆるやかに流れ出た液体が、天板を四方に彷徨い始める。
無感情を装った女から、何かが溢れ出した瞬間だった。

「証拠はあるのか!」

「ありませんが、あいつは俺に化けて、見せつけるように俺の恋人とキスをしました。そうして、俺の人生を踏みにじった。だから、あいつを追っているんです。本来の自分を取り戻す為に」

女は大きく息を吐くと、小首を傾げて俺を見つめる。

「……こうして見ると、本当にそっくりだ」

しばらくそのまま長い長い沈黙が辺りを包み、時間が止まったかのような錯覚を覚え始めた頃、漸く女が口を開いた。

「証拠を持ってこい。1日だけ待ってやる」

気づくと、頭から水を掛けられたかのように、全身がぐっしょりと汗で濡れていた。





「意外と、たいしたことなかったね」

屋敷を出て、葉の無い桜並木に囲まれた路地を駅へと向う道すがら、カナが能天気に呟く。

「は? 相当ヤバかっただろうが」

「無事に帰れたじゃん」

「少しばかり寿命が延びただけだ。1日以内にあいつが美咲とキスした証拠を持ってかないと、俺たちは消されちまうんだぞ」

「オンナの嫉妬って恐ろしいね」

「おまえも女だろうが」

「そうさ。オジサンには分からんだろうが、私だって嫉妬することもあるんだよ」

ん?
カナの口から、こんな言葉が出て来るとは。
驚いてカナを見やると、憂いを含んだ目で俺をじっと見つめている。

「……オジサン」

「な、なんだ」

「頼む。もう我慢ができん」

そう言って指さした先には、住宅街の中に佇む洒落たベーカリーの軒先に並べられたフランスパン。

やれやれ。

ため息をつきながら小銭を出そうとポケットを探ると、突然スマホが鳴り出した。
不審に思いながら取り出してみると、粉々に砕けたガラスのディスプレイには、着信中の文字がうっすらと表示されている。

壊れてなかったのか。

通話ボタンを押して耳に当てると、怒気を孕んだあいつの声が飛び込んで来た。

『……ヤッてくれたジャないか……』

ノイズが酷く、音量も不安定で良く聞き取れない。

「なに? 何のことだ?」

『……まサか、そう来るトハ想定……なカッタよ。……俺は終わリダ。……アノ女……怒らセタラ、死……』

「おいっ、聞こえないぞ! もしもし!」

『……こうナッタら……しテヤる。……後悔しテモ遅い……』

「なんだって? もう一度ちゃんと話せ!」

だが、ノイズの音は次第に大きくなり、やがて通話は途絶えた。
スマホを見ると電源が切れている。電源ボタンを何度押しても、それから二度とオンになることはなかった。

「ろうした?」

いつの間にか、細長いフランスパンを口に咥えたカナが、きょとんとした目で俺を見ている。

「どうしたも、こうしたもない。あいつからだ。どうやら、あいつのかみさんに会った事が知れたようだ」

あいつのウィークポイントは、裏稼業の親分である、かみさんだった。
かみさんに内緒で、入れ替わりストーカー商売に手を染めると同時に、自らもストーカーになっていった。
今回の俺との周到な入れ替わり計画も、秘密裏に進めていたんだろう。

俺と入れ替わったことを、かみさんに知られたくないから、家に帰るとスマホの電源を切った。
万が一、美咲から電話がかかってきたりして、あの勘が鋭く嫉妬深いかみさんにバレるのを恐れていた。
だから、夜はスマホがオフラインだったのだ。

だが、俺がかみさんに暴露したせいで、あいつの立場は一変した。

「まずいぞ、カナ。かみさんにバレた事を知ったあいつが、何をしでかすかわからん」

カナはフランスパンが喉につかえたのか、目を白黒させている。

「よく聞き取れなかったが、何かを『してやる』って言っていた。後悔しても遅いと」

「また殺し屋を送ってくるとか?」

ごほごほと咳をしながら、苦しそうに答えるカナ。

「いいや、おそらくもっと酷いことだ。あいつは俺を恨んでいる。俺に最もダメージを与えるのは何かと言えば……」

思わずカナと顔を見合わせた。

「美咲だ!」
「美咲さん!!」



小田急線を終点の新宿で降りて、JR中央線に乗り換える。
夕方の帰宅ラッシュには少し早い時間で、電車の中は空いていた。

俺はカナと並んで座席に座り、両足の激しい貧乏揺すりを抑えられずにいる。
三鷹まであと15分、そこからマンションまで5分。
間に合うだろうか。

「なあ、オジサン」

「なんだ」

「どうも、気になる事があるんだけどさ」

「なにが気になるんだ」

「……いや、やっぱり気のせいかもしれん」

「いいから、言ってみろ。こっちが気になるだろうが」

カナは観察するかのように、じっと俺の顔を見つめた。

「……なんとなく、なんとなくなんだけど、オジサンの雰囲気がいつもと違う気がする」

「違うって、どこらへんが」

「それは、わからん。だけど、なんか違和感があるっていうか」

「なんだ、そのアバウトな分析は。あいつに人生を乗っ取られてからこの3日間。ずっと追いかけ続けて、風呂にも入ってない。もう少し体力ある方だと自分でも思ってたんだが、疲労もピークだ。だから、いつもと違って見えるのは当たり前だろうが」

「そりゃそうだけどさ」

カナは、なんとなく釈然としない様子で、持っていたスマホに目を落とす。

「あっ。殺し屋派遣ネットショップに、あいつから依頼が入ったみたいだよ」

「そんなことが、わかるのか?」

「うん、殺し屋登録していれば、いつ誰が依頼したのかわかるのだ」

「ターゲットはもしや、美咲じゃないだろうな」

「いいや、オジサン」

またか。また、狙われるのか。
まあ、ターゲットが美咲じゃなくて本当に良かったが。

「派遣される殺し屋は誰だ?」

「えーっとね。『ニセ医者』だね」

「あの、最も殺し屋に向いていない奴か……相手にならんな」

おそらく、殺し屋を差し向けたのは、あいつの時間稼ぎだろう。
あいつも今、美咲の元へと向っているはずだ。
一刻も早く、マンションに行かなければならない。『ニセ医者』なんか、相手にしている暇はないのだ。

「とにかく『ニセ医者』を見掛けたら、有無を言わさず倒すからな。あいつの、まだるっこい話し方に付き合っている場合じゃない」

電車が三鷹駅に着くやいなや、ホームを全速力で走り抜け、階段を二段飛びで駆け上がった。

だが、そこで力が尽きた。
両手を膝について、ぜいぜいと肩で息をする。

「どうした、オジサン。なに、休んでるのさ」

「ちょっと、待ってくれ……息が切れた……」

「たった、これくらいで? もう、オジサンじゃなくて、ジーサンだね」

「なんとでも言え」

「ほら、早く」

駆け出したカナの後を追って、力を振り絞るように走った。

改札を抜け、南口の階段を下りてロータリーに出る。
そこで、カナの姿を見失った。

立ち止まって辺りを見渡すが、人ごみに紛れてしまいどこにも見当たらない。

まったく、あいつは体力だけはモンスター級だ。
まあ、仕方ない。とにかくマンションへ急ごう。

そう思って再び走り出そうとした時、ふいに何者かに、背後から羽交い締めにされた。

「なっ!」

声を上げようとして、赤いゴムボールが口にねじ込まれる。

もうひとりの男が現れ、俺の両足を抱え上げた。なぜか救急隊員の服装だ。
二人で俺の体を抱きかかえるように持ち上げて、近くに置いてあったストレッチャーに乗せ、腕と足をベルトで固定した。

あっと言う間の出来事だった。
救急隊員の男達は終止無言のまま、手際よく瞬時に俺を拘束したのだ。

ストレッチャーに乗せられたまま、ガラガラという音とともに何処かへと運ばれて行く。
体は全く動かす事ができない。声も発せられない。

そして、ストレッチャーが停まると同時に、男達が持ち上げて、そのまま車の中へと押し込まれた。
バタンと、車のバックドアが閉まる音がする。

首を動かして周りを見渡した。
白い室内灯に照らされた車内に窓はなく、なにやら医療用の機械が並んでいる。きついアルコール臭もする。
そう、ここは、救急車の中だ。

そして、頭上からひょっこり視界に入って来たのは、ボサボサの髪、ぎょろりと大きな目をした怪しい男。
あの、『ニセ医者』だった。

「や、や、や、やあ!」

心から楽しそうに、満面の笑みを浮かべている。

しまった。
殺し屋がニセ医者だと聞いて、完全に油断していた。
こんな手を使うとは。

力を振り絞って体を左右に捻り、ベルトを外そうと試みたが、きつく固定されていてびくともしない。

「あ、あ、あ、あ、あばれても、む、む、むだむだむだですよお!」

ニセ医者は右手に持った巨大な注射器を掲げると、プランジャを軽く押した。
針の先から、ぴゅっと液体が飛び出す。

「こ、こ、こ、これが何だかわかりますか? 塩化カリ、カリカリカリウムと言って、ワンショットの注入で、や、や、や、約1000mEq/Lのカリウムが心臓に送られ、し、し、し、しししし心停止に至るのでございます!」

ニセ医者は俺に顔を近づけ、注射針をゆっくりと首元に当てる。

やばい。
これは、かなりのピンチだ。

この窮地から逃れるには……。

あの手しかない。

俺は、とっさに口の中のゴムボールを吐き飛ばした。
ぱこんという音とともに、ゴムボールは眼前に接近していたニセ医者の額に当たり、奴はおおげさに後ろに仰け反りかえる。

「ひいい!」

「何をやってんだ!」

わざと大声で怒鳴りつけた。
今の俺にできること。それは、あいつに成り済ます事だ。

「俺は、葉山浩介を殺せと命じたはずだ。とり違えるとは、どこまで間抜けなんだ! バカ者め!」

「えええ? あなたは依頼主さま? だって、か、か、か、顔がおんなじなんだもの」

「いいから早くこのベルトを外せ。あいつはまだそこらにいるハズだ。とっとと捕まえろ!」

「す、す、す、すみませんでした!」

ニセ医者は、あわてて震える手でベルトを外しにかかる。
腕、足と、ようやく解放された俺は、むっくりと上半身を起こした。
目の前に、媚びるように無理矢理笑みを浮かべたニセ医者の顔がある。

「こ、こ、こ、今度こそは必ず……」

有無を言わず、やつの額に思いっきり頭突きを食らわせた。
ニセ医者は、白目を剥いて声もなく、その場にばたんと崩れ落ちる。

「いたた……」

自分も激しい頭痛に、両手で頭を抱えた。
慣れない事は、するもんじゃない。

突然、救急車のバックドアが開いて、外の光が車内に差し込んだ。
姿を見せたのは、カナ。路上には、先ほどのニセ救急隊員たちが転がっている。

「こんなところで、なにしてるのさ!」

「なにって、おまえ……それより、なぜここにいるとわかった?」

「救急車のそばで救急隊員がのんびりタバコ吸ってりゃ、誰だっておかしいと思うわさ」

こいつらは、やっぱりどこか抜けている。

「ぼうっとしてないで、早く行こうよ!」





マンションの前に、赤いオープンのミニクーパーが停まっていた。
あいつの車だ。
だが、あいつの姿は見当たらない。

「カナ、あいつは恐らく部屋にいる」

「美咲さんを、どうするつもりだろう」

最悪の光景が頭に浮かぶ。

血に濡れたナイフを握りしめたまま、呆然と立ち尽くすあいつの姿。
床に倒れた美咲は、血溜まりの中でぴくりとも動かない。
その周りで、にゃーにゃーと鳴き叫ぶ猫たち。

「美咲!」

エレベーターは5階で止まっている。
降りて来るのを、待っている余裕はない。

迷わず非常階段を駆け上がった。

息を切らしながら5階の外廊下に出ると、下の方から大きな声が聞こえた。

「なに? どういうことか説明して!」

それは美咲の声だ。

あわてて手すりから見下ろすと、エレベーターから降りて路上に出た、美咲とあいつの姿が見えた。
あいつは美咲の腕を掴み、車の方へと無理矢理引っ張っている。

「だから、全ては俺にそっくりなストーカーが仕組んだことだったんだよ!」

「コースケ、何を言っているのかさっぱりわからない」

「詳しくは後でちゃんと説明するから! 兎に角、あいつが来る前に逃げよう!」

助手席のドアを開けて、美咲を強引に押し込む。

「おい、待て!」

思わず大声で叫んでいた。
こちらを見上げて、動きが止まる二人の姿。
美咲が悲鳴をあげた。

「コ、コースケが二人いる!?」

「あれがストーカーの正体だ! わかっただろ! ここにいたら殺される!!」

あいつは俺の方を指差すと、ドアをジャンプして運転席に滑りこんだ。

まずい、このまま美咲を連れ去られてしまう。

俺とカナは再び上って来たばかりの階段を駆け下りた。
美咲と一緒に逃げるストーカーを追いかける、ストーカー呼ばわりされてる俺。
頭の中がパニックで、もう何がなんだか訳がわからない。

ようやく1階に辿り着いて視界に入ったのは、猛烈な勢いで走り去って行くミニクーパー。

「オジサン、ハヤブサで追いかけよう!」

「カギがない。いや部屋に戻れば、合カギがあるが……」

そんな余裕はない。

辺りを見渡すと、エンジンを掛けたまま停まっている新聞屋のカブがある。
持ち主は、配達中なのか姿がない。

俺は迷わず、シートに跨がった。
カナも、新聞が積み上げられた荷台に飛び乗る。

「しっかり捕まってろ!」

スロットルを捻り、全開でミニクーパーの後を追いかける。
だが所詮は、原付50cc。1300ccのハヤブサと比べるまでもない。
ビーンという甲高いエンジン音の割に、ゆっくりと景色が流れて行く。

これで、追いつけるのか。

だが角を曲がると、ミニクーパーは前方に停止していた。
その前の横断歩道では、そろいの黄色い帽子を被った大勢の幼稚園児が、はしゃぎながらてくてくと道路を横切っている。
カブを車の横に着けると、あいつに向って叫んだ。

「おい! 停めろ!」

あいつは肩をすくめて答える。

「停まってるだろ?」

俺を見て、美咲が悲鳴を上げる。

「きゃあああああ!」

なんだ、このシチュエーション。
俺は、いったいどうすればいいんだ。

幼稚園児の列が途切れ、堰を切ったように飛び出して行くミニクーパー。
あわててハンドルを握り直し、後を追いかける。

「なあ、カナ」

「どうした」

「俺はどうやって、本当の俺だと証明すればいいんだ?」

「オジサンは、オジサンだよ」

「答えになってない」

「自分を信じるのさ。これまでやってきたこと、全てをしっかりその手に握りしめれば、人生なんとかなるもんさ!」

「そうだな……そうしてみるぜ!」

俺はアクセルを握る手に、ぐっと力を込めた。

入り組んだ狭い路地。右へ左へと小回りを効かせながら逃げるミニクーパーを必死に追いかける。
大通りに出られたら終わりだ。
カブのパワーじゃ、絶対に追いつけっこない。

「オジサン!」

カナが叫ぶ。

「もう少しだけ接近して!」

「どうするんだ」

「いいから、もっと近づいて!」

カナは荷台の上に立ち上がり、俺の肩に手を掛けた。
俺はタイトコーナーを後輪を滑らせながら曲がると、身を屈めて一気にスロットル全開にする。

ほんの一瞬、数メートルまで距離が縮まった。

ふっと、後ろが軽くなる。
見上げると、猫のように大きく跳躍したカナの姿が空に浮かんでいる。

それは、まるで時が止まったように。

次の瞬間、カナはミニクーパーの後部座席にすとんと着地した。
そして後ろから腕を回して、あいつの首を締め上げる。

あいつは思わずハンドルから手を離し、カナの腕を振り解こうと、苦しそうにもがいた。
操縦を失ったミニクーパーは、ふらふらと彷徨いながら何度か左右の塀に車体をぶつけ。
やがて前方の住宅地の隙間にぽっかりと空いた畑へと突っ込み、激しく土煙を上げながら漸く停止した。

「美咲! カナ!」

カブを乗り捨てると、急いで車へと向う。
開いたエアバッグの上に、ぐったりと突っ伏せる美咲とあいつ。そして、後部座席にちょこんと座って目をくりくりさせているカナ。

「大丈夫か!」

ピースサインを出すカナを横目に、美咲に駆け寄る。

「う、ううん……」

苦しそうな息をつきながら、美咲が頭を起こす。
そして、俺の顔に気づくや否や、ひゃっと悲鳴を上げて跳ね起きて、あいつにすがりついた。

「車から離れろ!」

いつの間にか目を覚ましたあいつが、強い口調で俺に怒鳴る。
あまりの剣幕に押され、俺は思わず後ずさった。

美咲とあいつが、よろけながら車を降り、俺たち3人はそれぞれ距離を取ってお互いを見合った。
美咲は泣きそうな表情で、俺とあいつを交互に見比べている。

「……どっちが、どっちが本物のコースケなの……」

「美咲、騙されちゃだめだ。追いかけて来たのはあいつだ。あいつが整形したストーカーなんだよ! 追いつめられて美咲を殺しに来たんだ!」

あいつは俺を指差し、唾を飛ばしながら叫び続ける。

「ほらっ。前にストーカーされてたこと、あっただろ? しつこくメールを送り続けて、江ノ島にまで追って来た。それが、あいつ、あいつなんだ!」

「なんで、その事知ってるの? 話した覚えがないのに」

「……それは、なんだ。その、美咲のスマホを見ちゃったんだよ! なにかいろいろ悩んでいるようだったから心配で。本当にごめん! だけど俺の言っている事は本当だろ。間違いないだろ!」

「間違いないけど……ストーカーなら知ってることだし……」

「じゃ、じゃあ、そうだ。そこにいる女子高生。あいつはカナって言う殺し屋なんだ。あいつと組んで俺たちを狙っていた。だからこうやって、危うく殺されそうになったじゃないか! これが何よりの証拠なんだよ!」

俺は黙って、あいつが叫び続ける声を、ただ聞いていた。
美咲が振り返って、俺に声を掛ける。

「……あなたは? あなたは何も話す事はないの? あなたが私のストーカーなの?」

何かを口に出さなきゃならないのは、わかっている。
だけど、何も言葉が浮かんで来ない。
まるで記憶が遠い空の彼方へと飛んで行ってしまったかように、何ひとつ出て来やしない。

俺は今更ながらに気がついた。
美咲との記憶。そう、数多の思い出を失ってしまっている。
おそらく、あのエレベーター事故の衝撃で。
ずっと感じていた体の違和感は、このせいだったのか。

「そうなのね。あなたが、ストーカーだったのね」

美咲は俺を険しい目で見つめながら、ゆっくりあいつの方へと後ずさって行った。

その時だった。

ブチの野良猫が歩いて来ると、鳴き声を上げながら、あいつのコーデュロイパンツに体を擦り寄せた。
あいつは猫を抱え上げると、にこやかに笑いながら顔を擦り寄せる。

「ほらっ。美咲が猫好きなのも知ってるよ。家には5匹の猫がいる。この猫も連れて帰ろう!」

言い終わらないうちに、あいつは立て続けに大きなクシャミをした。

「そうだった。俺、猫アレルギーだった。ははっ」

抱いていた猫を美咲に手渡すあいつ。
美咲は猫を抱きしめたまま、何やらじっと考え込んでいた。

そして踵を返すと今度は俺に近寄り、猫を差し出す。

俺はそのまま猫を抱き受ける。
クシャミは出なかった。

「……確かにうちには猫がいる。私が好きなせいで、猫アレルギーのコースケには本当に辛い思いをさせてしまった」

美咲はあいつに振り返ると、そう言った。

「でも、コースケも頑張ってくれたの。病院に通って、抗アレルギー薬を飲み続ける事で、猫アレルギーを克服した。だから、クシャミはもう出ない」

「は?」

あいつは、困惑したような作り笑顔を顔に貼り付けたまま、その場に固まった。

「美咲……」

ふと、頭の中にイメージが湧きあがる。
波打ち際で、俺を見つめる美咲の夕陽に染まった顔。

自然と、口から言葉が溢れ出た。

「あの日、七里ケ浜で美咲が俺に言った言葉を覚えてるか?」

俺は猫をそっと下ろすと、真っすぐ美咲に向き直った。
それは記憶からではなく、心から出た言葉。

「『最後じゃないよ、これからだよ』……そう言ったんだ」

美咲は目を潤ませて、俺の顔をじっと見つめた。
そして、俺に向かってこう呼びかける。

「コースケ……あなたなのね」


突然、背後から図太いハスキーボイスが轟いた。

「はい、そこまで!」

振り返ると、いつからそこにいたのか、あの着物姿の女がしゃんと背筋を伸ばして立っていた。
その声を合図として、道路脇に停められた黒塗りのメルセデスから、目付きの悪いスーツの男衆がわらわらと姿を現す。

女はあいつを刺すような視線で睨むと、こう言った。

「あんたの負けだね。男なら潔く観念しな」

男衆が無言で走り寄り、あいつの腕をがっしりと押さえて連れて行く。
その様子を横目で見やりながら、女は俺の方へとゆっくりと歩み寄った。

「アイツが迷惑かけたね」

「どうして、ここがわかったんですか?」

「ふん、私だってアイツに全て好き勝手させてるわけじゃないさ。車に発信器くらい付けてある」

女は俺の顔をじっと見つめると、いきなり深々と頭を下げた。

「今回のことは、全て私のせいだ。このとおり謝る」

「ど、どういうことですか?」

「何年か前に、街なかであんたと美咲さんが歩いているところを見掛けたんだよ。二人とも幸せそうで、あんたはとってもいい表情をしていた。それ見て、なぜかとても腹立たしくなっちまってね、ついアイツに言っちまったんだ。あの男と同じ顔に整形しろって。本当はあんたたちが、羨ましかったんだろうねえ」

あいつは無理矢理、偶然街で見掛けた見も知らぬ他人の顔に整形させられた……。
そう、俺の顔に……。

そうか。
そういうことだったのか。

だから俺を心底憎み、執拗にストーキングを行い、最後は『復讐』へと至ったのだ。

「……でも、この後、美咲を連れてどうするつもりだったんでしょう」

「さあね。帰ってから吐かせるけど、おそらく美咲さんと新しい人生をやり直そうとしたんじゃないかしら。こんなババアから逃げ出して、過去の自分を捨ててることでね」

あいつはずっと、これまで女の言うがままに耐え忍んで来たのだろう。
だから、俺と入れ替わることで、そこから逃げ出そうとしたのかもしれない。

「これっきりだ。アイツがあんたたちの前に現れることは二度とないさ」

女は最後にそう言うと踵を返し、メルセデスへと戻って行った。
ウインドウ越しに、拘束されたあいつの顔が見える。

だがその顔は、なぜか笑っているようにも見えた。

エンジンがかかり、メルセデスはゆっくりと視界から消え去って行く。

あたりは、ほっとしたような静けさに包まれた。
柔らかな夕陽が、この空間を淡い紫色へと染めてゆく。

「コースケ、ごめんなさい」

美咲が目に涙を浮かべながら、俺に体を預けてくる。

「疑ってしまって……」

「いいや、こっちこそごめん。しっかり守ってやれなくて」

美咲をしっかり抱きしめた。

その柔らかい感触に、心がぐっと締め付けられる。
同時に、失われていた美咲との記憶が、波のように押し寄せ、俺の体内へと吸い込まれていくのを感じる。

あれから、あまりにも長い時が経ったように感じた。
やっと、やっとのことで、美咲と自分の人生をこの手に取り戻したのだ。

今度こそ俺は一生をかけて、美咲を守り、愛し続ける。
そう決意すると、俺も自然と目から涙が溢れ出した。

「美咲……心から愛してる」

ありきたりかもしれないが、唯一無二の言葉。

「私も……愛してるよ、コースケ」

お互いに涙混じりの目で、しっかりと見つめ合う。


……そして。

美咲の肩越しに、ミニクーパーのドアを開けて降りて来た、カナの姿が目に映る。
決まり悪そうに、おずおずとこちらに近寄ってくる。
それはそれは、どうにも居心地が悪そうに。

カナなりに、気を遣っているみたいだが。
だけど俺は、胸を張ってこう言うのだ。

「美咲、紹介するよ。こいつはカナ。俺の親友であり、最高のパートナーなんだ」



「コースケ、新しいバスタオル、そこへ置いておいたからね」

キッチンから、美咲の明るい声が聞こえる。

「ああ、ありがとう」

生返事をしながら、俺は洗面台の鏡に映った自分の顔を覗き込んだ。

全ては終わり、大団円を迎えた。
そう、思っていた。

だが、こうやって自分の顔を改めて見ると、なぜか胸騒ぎがしてならない。
いや、鏡に映った顔は確かに俺であり、それは当たり前のことなのだが。

しかし。

なんなんだろう、この胸に渦巻く違和感は。
何か、大事なことを見逃しているような気がしてならない。

シャワーを浴びようとシャツのボタンを外しながら、ふと、手が止まる。
渋谷のホテル地下駐車場で、あいつが言っていた台詞が頭の中にこだました。

『君の人生はもう終わっているんだよ。今や完全に、僕の人生とすり替わったのさ。まだ気づいてないようだけれども、いずれ、その本当の意味がわかる時が来る』

本当の意味って何だったんだ?

わからない。
何故、今になってそんなことを思い出したのかも。

いや、俺は疲れてるんだ。
あいつの呪縛からようやく逃れたばかりで、まだ心の整理ができていないのかもしれない。

大きくため息をついて心を落ち着かせ、ふたたびボタンに手を掛けようとした時、着信音が鳴り出した。

洗面台の棚に置いた、さっき携帯ショップで受け取って来たばかりの新しいスマホからだ。
手に持って見ると、非通知のテレビ電話。

なぜか、出るな、という心の声が聞こえる。
電話に出たら最後、全てが取り返しがつかなくなるような、そんな漠然とした恐怖感に襲われる。

だが。

俺は無意識に着信ボタンを押していた。

画面に、男の顔が映し出される。
酷く殴られたのか、顔は腫れ上がって、あちこち血がこびり付いている。
周囲は真っ暗で、スマホのライトだけが唯一の光源だ。
車に乗って路面の悪い場所を移動しているのか、しばしば画面が大きく揺れ動く。

その男は、あいつだった。

『やあ。繋がって良かったよ』

「おまえと話す事は、もう何もない」

『まあ、そう言うなよ。今、トラックの荷室に詰め込まれ、どこかへと連れていかれる最中だ。終着点はおそらく人知れぬ深い山の中かな? そこで埋められちまうんだろう。どうせ死ぬんだから、哀れな男の最後の世間話に付き合ってくれてもいいじゃないか』

その顔を見ていると、俺自身が自分に話しかけてきているような、奇妙な感覚に囚われる。

「なぜスマホを持っているんだ。捕まったとき、取り上げられなかったのか?」

『靴下の内側に一台隠してたのさ。いずれ、こうなることは予想していたし。そんなことよりもさ』

あいつは興奮した様子で、身を乗り出す。

『……気がついたかい?』

「何がだ」

『なんだよー、まだ気がつかないのかよ。こんな大事なことだってのに、あんた意外と鈍感なんだな』

「だから、何のことだ」

『服を脱いでみろよ。そうすりゃ一発で理解する』

ニヤニヤ笑いながら、それっきり黙りこくった。
電話を切ってしまいたいのに、それがなぜかできない。

あいつの言葉に引き寄せられるように、スマホを置いて、シャツのボタンを外していった。
3日ぶりに見る、鏡に映った自分の肉体……。

……驚きのあまり、心臓が止まりそうになった。

『どうだい、わかったかい?』

スマホから聞こえるあいつの声。

『正直に告白しよう。俺は実は35歳なんだ。整形して無理矢理若く見せてるけど、体の全てを改造するのは無理がある。当然、10歳も歳の離れたあんたと比べようもない』

鏡に映ったこの体は、俺のじゃない。

あいつの体?

混乱の余りよろけて、棚に置いてあった美咲の化粧品を払い落としてしまった。

大きな音に気づいたのか、美咲の声がする。

「コースケ、どうしたの? 大丈夫?」

「……だ、大丈夫だから! 気にしないで!」

こんな姿、美咲に見せられるはずもない。

スマホを掴み、改めてあいつの顔と対峙する。
いや、それは、あいつではなく、俺自身の顔なのか。

『全く想定外だったんだよ。まさか、あのエレベーター事故の衝撃で、体まで入れ替わってしまうとはさ。そんなありえないこと、想像つくかい?』

そんな、バカな。
だが、すべて合点がいく。
あの事故からずっと続いていた体の違和感、そして、明らかに自分ではないこの肉体。

はっと気がついた。
あいつが猫を抱き上げたときクシャミをして、俺はしなかった。
確かに抗アレルギー薬は服用していたが、あの薬は毎日必ず飲まないと効果がないのだ。
俺は3日間も飲んでなかったのに、クシャミは出なかった。

なんてことだ。

あいつと体が入れ替わっている!

『いやあ、10歳も若返ると、体がこうも軽いなんて。やっぱり若いってのはいいねえ。さて、ここからが本題だ』

あいつの顔から笑みがふっと消え、素の表情となる。

『俺の体は君のところで生き続けるけど、君のこの体はやがて死を迎えようとしている。君はそのことを素直に受け入れられるだろうか』

スマホにメール着信のメッセージが表示された。

『今送ったのは、このスマホのIDとパスワードだ。君は位置情報を使って、俺が今いる場所を探し出すことができる。あと、どのくらいで目的地に着くかはわからないが、君のハヤブサなら追いつける可能性もなくはない』

俺は、何も言えなかった。
ただスマホに映る自分の顔を、食い入るように見つめるだけだ。

『悩んでいる時間は、あまり残されていない。さあ、どうする? 君の答えを楽しみにしてるよ』

ぶつっと音がして画面が暗くなり、通話完了の文字が表示された。

俺はスマホを床に落とすと、ふらふらと洗面台に寄りかかり、改めて鏡に映し出された「その顔」を見つめ続ける。

ここにいる俺は、本当に俺なのか。

いや、本当の俺って、いったい何なんだ。

「コースケ、本当に大丈夫なの?」

どこか遠くから、美咲の声が聞こえてきた。



ー 完 ー


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