……俺は目を覚ました。
ヘルメットのバイザー越しに、目の前に広がるアスファルト。
その先には、横倒しになったバイク。
道路の真ん中で寝転がっていた。
路面に接地した右半身が、焼け付くように熱い。
灼熱の太陽がアスファルトを溶かし、自分もその中にずぶずぶと沈んで行くようだ。
半身を起こして辺りを見渡す。
森の中のワインディングロード(うね道)で、車が通る気配はない。
抜けるような青空から差し込む、真夏の陽の光が眩しい。
静けさの中に、なんとも爽やかな鳥のさえずり声が聞こえる。
そうだ、急コーナーをバイクで攻めている時に、目の前をイタチだかタヌキだかの小動物が飛び出した。
避けきれずに、俺は派手に転倒して意識が飛んだのだ。
ライダーズジャケットの右腕に、アスファルトを滑った跡が生々しく残っていた。
ゆっくりと、体を動かしてみる。
幸い、プロテクターのおかげで、右肩が少し痛む以外は無事……。
痛ッ!
立ち上がろうとして、急に猛烈な頭痛に襲われた。
割れるような痛みだ。
目に見える風景が、ぐにゃりと曲がる。
俺は座りこんだまま、ヘルメットを脱いだ。
大きく息をして、新鮮な空気を体内へと取り込む。
頭痛は徐々に治まっていったが、頭の中はぼんやりと霞がかかっている。
ヘルメットの右側頭部に、大きな擦り傷がついていた。
転んだ際に、頭も酷くぶつけたらしい。
頭を振りながら立ち上がり、横倒しになったバイクへと向かう。
ブルーとシルバー、ツートンカラーのビックバイク。
スズキGSX1300R。通称、ハヤブサ。
幸いオイル漏れはないようだ。
腰を屈め、全身の力を腕に集中させてバイクを起こす。
なにせ250kgもあるので、起こすのに汗だくとなる。
スタンドを立てて、ふうっと息を吐いた。
ハヤブサはカウルに派手な傷が付いた以外は、見たところ問題はない。
セルを回すと、図太い排気音が森の中に響き渡った。
腕時計を見ると、ちょうど9時。
相変わらず、ぼんやりした頭で記憶をたぐり寄せる。
ここは、どこだ?
奥秩父にある、山沿いの林道のはず。
そう、俺はいつも日曜の朝にここへ走りにやって来る。
気晴らしのツーリングってやつだ。
やれやれ。
取り敢えず、家へ帰ろう。
頭も痛むし、病院へ行った方が良いかもしれない。
あれ?
そこで、俺は固まってしまった。
帰るって、どこへ?
何故か自分の家が思い出せない。
待てよ。
俺は、誰だ?
自分の名前が出て来ない。
バイクのバックミラーを覗き込む。
20代半ばの青年の姿が、そこにある。
長めで少し跳ねた前髪、二重のぱっちり目。通った鼻筋。少し口角の上がった口元。イケメン?
そう、確かにこれは「俺」だ。
だが、「俺」に関する記憶がない。
名前、生年月日、住所、職業、家族構成。
何ひとつ思い出せない。
あわててポケットを探るが、免許証が入った財布やスマホも何もない。
家の鍵すら見つからない。
出てきたのは、和尚のカッコをした猫の絵柄が描かれた、赤い御守りだけ。
なんだこりゃ。
頭に意識を集中させる。
だが、「俺」に関する記憶に手を伸ばそうとすると、とたんに霞がかかる。
全身に冷たい汗が流れた。
どうする、俺。
ふと、バイクに取り付けられたナビに目が留まる。
画面に「自宅」ボタンがある。
タップすると、三鷹の地図が表示された。
三鷹?
三鷹駅のイメージが、頭の中に広がる。
新宿から西に中央線で20分程のターミナル駅。隣は吉祥寺だ。
小さい駅ビルがあって、南口は商店街が続いている。
三鷹駅周辺の光景が、はっきりと頭の中で構築されていく。
だが、三鷹にあるはずの「自宅」が浮かばない。
全ての記憶が失われたのではなく、「俺」に関する記憶だけが抜け落ちているのだ。
もやもやしたまま、俺はナビの目的地に「自宅」をセットし、バイクに跨がった。
◇
三鷹駅から数分程走ったナビの終着点は、閑静な住宅街の中にある5階建てのマンションだった。
茶色の外壁に見覚えがある。
確かに俺の家だ。記憶がひとつ蘇る。
だが、何号室が俺の部屋かは思い出せない。
バイクを入り口に停めて、マンションをぼんやりと見上げる。
「オジサン、不審者?」
背後からいきなり声を掛けられて振り向くと、そこには制服姿の女の子がいた。
白の半袖シャツに緩んだネクタイ、紺色の丈の短いスカート、といった今どきの女子高生っぽい格好。
身長は150cmくらいで小柄。毛量の多いボブカットの髪を、軽く茶色に染めている。
壁にもたれてアイスのチョコバーを舐めつつ、猫のように大きな丸い目を怪訝そうに歪めながら、俺をしげしげと眺めていた。
「最近、不審者が出没してるから気をつけなさいって、ママが言ってた」
「……俺はここの住人だ。ほっといてくれ」
「じゃあ、なんで自分ち見上げたまま、ぼーっと突っ立ってるのさ?」
「自分のマンション見てたら不審者かよ」
「なんかキョドってる。真夏なのに長袖着てるし。どっからどう見ても」
女の子はチョコバーの最後のかけらを頬張ると、険しい表情でバーを俺に突きつけた。
「オジサンは不審者」
バーに『当たり』の文字が浮かんでいる。
「ライダーズジャケットは、転倒しても怪我しないように夏でも長袖なの。それにオジサンって言うな。まだ……」
しまった。年齢が出て来ない。
「……まだ、25歳くらいだ」
くらい?とリピートして、女の子の顔がさらに歪む。
いかん。記憶がないせいで話せば話すほど、怪しい人になってしまう。
早々に追い払わなければ。
「俺のことはいいから、早く学校へ行けよ」
「今、夏休みなんだけど」
「制服着てるだろ」
「数学の補習だから。でも行かないし。一応行く振りしないとママがうるさいから、着てるだけ」
「とにかく、どっか行ってくれ。俺は帰るからな」
女の子の鋭い視線を背中に感じながら、マンションへと入る。
そうだ。
郵便受けのネームプレートを見れば自分の名前を思い出すかもしれない。
エレベーターホールに並ぶ郵便受けに、かたっぱしから目を通す。
山田総一郎、山田さやか、山田純……。
山田姓がやけに多くて混乱するばかりだ。
俺の名字も山田なのか?
だとしても、ピンとくる名前が見当たらない。
頭を抱えて必死に脳みそを探っていると、エレベーターが開いた。
降りて来たおばさんが、怪訝な目をこちらに向ける。
いかんいかん。またさっきと同じパターンだ。
俺はぎこちなく会釈して、エレベータにいそいそと乗り込んだ。
1階から5階までのボタンが並んでいる。
適当に、4階のボタンを押した。
エレベータの扉が閉まり、壊れかけのような、がこんと大きな音を立てて動き始める。
その瞬間、頭の中にあるイメージが湧いた。
ベランダから見下ろした公園。
小さい児童公園でタコの形を模した滑り台やブランコがある。
そうだ。俺の部屋のベランダから見える光景だ。
ある程度の高い場所から見下ろしている光景だから、4階あたりというのは正解かもしれない。
エレベーターが4階で、またがこんと音を立てて止まり、扉が開く。
左右に続く外廊下。
ふと、角部屋の前に置かれた黒い自転車に目が留まる。
おおっ、俺の記憶が確かなら……。
あれは、SPECIALIZEDのクロスバイクだ。
そう、俺が近所へ買い物に行くのに愛用している自転車。
逸る思いで自転車に近づき、フレームのロゴを確認する。
SPECIALIZED。
思わず、軽くガッツポーズ。
だんだん記憶が断片的に戻って来る。そう、たぶん時間の問題なのだ。
ジグソーパズルのように隙間を埋めていけば、やがて全ての記憶が補完されるはず。
ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
だから鍵を持ってなかったのか。
しかし不用心だな、俺は。
一応、そっとドアを開けて中を覗き込む。
廊下の先に、ダイニングキッチンが見える。
中央に木製のダイニングテーブルと、二脚のチェアー。
「ただいま。どなたかいますか?」
我ながら不条理なセリフを、部屋の奥に向かって投げかける。
返事が返ってこないのを確認して、俺はおずおずと部屋に上がり込んだ。
ダイニングキッチン。
部屋を見れば、また記憶が蘇るかと思ったが、いまいちピンとこない。
テーブルには赤白ギンガムチェックのテーブルクロスが掛かり、中央には小振りのひまわりとヒペリカムをアレンジした花瓶が置かれている。
食器棚には整然と並べられた皿やボウル、カップ類。
シンク周りも綺麗に片付けられている。
おかしい。妙に女子力が高い。いや、高すぎる。
もしかして俺、結婚してるのか?
ガスコンロに乗ったフライパンには、トロトロのスクランブルエッグが湯気を立てていた。
スクランブルエッグ。
その匂いが食欲を掻き立て、遠い微かな記憶をまさぐる。
確か、俺の大好物だ。
だが、料理はできない(と思う)。
もしかしてコレ、奥さんが作った?
奥さんって?
記憶にもう少しで手が届きそうで届かない。
まるで、海岸の砂場を熊手で必死に掻いても掻いても、アサリがひとつも出て来ないようなもどかしさ。
ふと、スクランブルエッグを指で掬って、口の中に入れてみた。
甘すぎず、薄すぎず、絶妙な味加減……。
うっ!!
その味覚が脳へと接続されたとたん、雷に打たれたように頭の中を電気が走り、数多のイメージがシャワーのごとく降り注ぐ。
奥さん、いや同居している彼女の屈託のない笑顔。声。しぐさ。寝顔。吐息。頬を撫でる指。唇の感触。
西内美咲(にしうち みさき)。
そう、美咲だ。
美咲はどこにいる?
あたりを見渡し、ダイニングの奥にあるドアを、気が急く思いで開いた。
エスニック調のラグが敷かれた部屋に、小さい木の机。
壁側には本棚と、色とりどりの服が掛けられたハンガーラック、全身鏡。
ベランダが見える大きな横引き窓から、明るい陽光が降り注いでいる。
記憶にある。ここは確かに美咲の部屋だ。
俺はここで美咲と住んでいる!
……はず?
いや、おかしい。
何か妙な違和感を感じる。
美咲と同居しているのは確かだが、何かが引っかかる。
俺は引き窓を開けて、ベランダに出た。
手すりに寄りかかって見下ろすと、遊具のある小さい公園が見える。
さっきエレベーターで、頭の中に閃いたイメージの通りだ。
だが、なぜか違和感が消えない。
階段を一歩一歩上がるように、着実に記憶が戻って来ているのは確かなんだが。
まずはともあれ、美咲を見つけなくては。
バスルームや寝室を片っ端から覗いてみたが、美咲の姿は見当たらない。
途方にくれてダイニングに戻り、ふとテーブルの上に置かれたスマホに目が留まった。
猫キャラモチーフのストラップが付いたスマホ。
これは美咲のだ。そう確信する。
彼女のスマホを覗くのは気が引けるが、こんな事態ではやむを得ない。
俺に関する情報を得られるかもしれない。
電源を入れて、まずは写真を開く。
猫の写真だ。野良猫が寝そべって、こちらを怪訝そうに眺めている。
スワイプすると次も別の猫の写真。次も次も次も、猫だらけ。
最後に開いた写真で手が止まった。
なぜかこの写真だけ、アングルが傾いていてブレている。
男が写っていた。
カメラに向かって、満面の笑みを浮かべている。
髪型や顔かたちは俺にとてもよく似ているが、目だけが違う。俺より目が細く一重だ。
誰だこれ?
男の後ろに展望台が見える。
この展望台は見覚えがあるぞ。確か……そうだ、江ノ島の頂上にある展望灯台だ。
江ノ島は湘南地区のほぼ中央に位置する小さい島。ここから2時間弱で行ける近場の観光地。
野良猫が多く生息していて、猫の島としても有名だ。
美咲は猫好きで、しばしば一人で江ノ島へ猫を見に訪れていたはずだ。
俺もたまに同行した記憶がある。
美咲は全ての猫の居場所を把握しており、それぞれに勝手に名前を付けていた。
この写真は、江ノ島で撮られたものだ。
しかし、俺によく似たこの男はいったい誰なんだ?
不審に思いながら写真を閉じ、今度はメールアイコンに指を伸ばす。
ああ、見て良いのだろうか。
彼女とは言え、プライベートを盗み見るようでかなり気が引ける。
いや、これは非常事態なんだ。仕方がないんだ。
たがしかし、親しき仲にも礼儀あり。やはり人としてこんなことは……。
ぽち。←あっさり
なんだこれ?
差出人不明、件名なしのメールが並んでいた。
ひとつずつ、中身を開いてみる。
『美咲ちゃんの夢をみた。いつも一緒だね』
は?
『君のことを思うと、苦しくって我慢ができないよ』
えっ?
『美咲ちゃん、どうして俺の気持ちわかってくれないの』
なんと。
『美咲ちゃん、俺はいつでも近くにいるよ。君のぬくもりをずっとそばに感じてる』
これって。
『美咲ちゃん、今日こそ会いたいな』
マジかよ。
『これから会いに行くよ。待っててね』
おい待て。
『今、家の前にいるよ。ドア、開けておいてくれたんだね!』
俺は思わず持っていたスマホを、テーブルの上に放り投げた。
こ、これは所謂、ストーカーからのメールってやつ!?
しかも最後のメールがヤバい。ヤバすぎる!!
「美咲! 美咲!!」
俺は大声で、美咲の名前を呼んだ。
だが部屋の中は、相変わらず静まり返っている。
その時だった。
いきなり玄関のドアがガタンと開いて、一人の男が姿を現した。
すわ、ストーカー!?
緊張のあまり心臓が縮み上がる。
「みさきー。帰ったよ」
その男は靴を脱ぎながら、いかにも呑気な声を発して、しれっと部屋に入ってきた。
そして、ダイニングで俺と鉢合わせ。
お互いに、固まった。
男は身長も体型も顔かたちも、俺に良く似ていた。
ただ目が細くて一重なところだけが異なる。
そうだ、あの写真の男だ。
トレーナーにスウェットパンツという、ワンマイルウエアな格好で、手にはコンビニの袋をぶら下げている。
細い目を丸くしながら(表現が変だがやむを得まい)、先に驚きの声を発したのは男のほう。
「あんたは、いったい何故……!?」
「そ、そっちこそ、誰だ?」
「こっちの台詞だ。俺の家で何してる?」
「おまえの家、だと?」
「ケチャップを切らしたから、ちょっとそこまで買いに行ってたんだ。なんであんたはここにいる!」
「いや、ここは俺の家……のはずだ」
「……はず?」
しまった。余計なことを言ってしまった。
「バイクで転んで記憶をなくしたんだ。だがこの部屋へ戻って少しずつ思い出した。ここは俺の家で、美咲という彼女の同居人がいる」
「ふうん」
男は、冷やかな目で俺をじっくり上から下まで眺めると、とんでもない事を口にした。
「……あんたなんだな。美咲のストーカーは」
「えっ?」
「俺は葉山浩介(はやま こうすけ)。美咲は俺の嫁だ。ここ最近、ずっとストーカーに付け回されてるって怯えていた。あんただったんだな」
「えっ、えっ?」
頭が混乱する。俺が美咲のストーカー?
いやいやいやいや。
じゃあ、この部屋や美咲の記憶は何なのだ。美咲は確かに俺の彼女(のはず)だ。
急に男が声を張り上げる。
「みさきー、みさきー! どこだー! 家の中にストーカーが侵入してるぞ!!」
「ちょ、ちょっと待て、俺はストーカーじゃない。美咲と俺は付き合ってる!」
「そう、それ!」
男は勝ち誇ったように、俺に人差し指を突きつける。
「その思い込みがストーカーなんだよ。付き合っているという妄想に取り憑かれてる。美咲はどこだ。まさか、あんた美咲を……」
急に青ざめて俺を突き飛ばすと、部屋中をせわしなく探しまわり、息を切らして戻って来た。
「み、美咲をどこへやった!」
「いないから、俺も心配している」
「ストーカーが何をほざく! 警察だ。警察呼ぶからここで待ってろ!」
男は俺を睨みながら、慌ただしくポケットからスマホを取り出すと、番号をタップし始めた。
「……あ、もしもし警察ですか! 葉山浩介と言います。今うちに不法侵入者、いやストーカーが来てるんです! 住所は……」
やばい。
なんだか凄く、やばい予感がする。
気がつくと、俺はテーブルにある美咲のスマホを引っ掴み、玄関に向かって走り出していた。
「おいっ! 待て!!」
待つわけがない。
靴を引っ掛けながらドアを開け、外廊下を全力で走った。
開いていたエレベーターに飛び乗り、「1」のボタンと「閉」ボタンを同時に連打する。
エレベーターが閉まる直前に、般若のごとき表情へと変貌した男の姿が現れた。
猛然と扉に掴みかかるが、寸でのところでがこんと下降を始める。
……まるでホラーだ悪夢だサイコだスリラーだ。
俺は、ほっと息を吐いてエレベーターの壁に寄りかかる。
いったい、どうなっているんだ。
あの男が言っている事が正しければ、メールを美咲に送ったのは俺。
すなわち、俺はストーカー。
だが、まるで美咲と一緒に暮らしていたかのような、リアルな記憶は何なんだ。
それもストーカーとしての妄想なのだろうか。
マジか。
がこんとエレベーターが止まり、開いたドアからふらふらと外へ出た。
強烈な太陽の光線が、心身ともに弱った俺を容赦なく痛めつける。
停めたバイクに戻ると、タンデムシートに先ほどの女の子がちょこんと座って空を見上げていた。
「おい、何してる」
「いやー今日も暑いねー」
「いいから、降りろ」
「帰ったんじゃなかったの? 不審者のオジサン」
「……また、出かけるんだよ。そこをどけ」
「ほうほう」
女の子は小悪魔的なたくらみの笑顔で、俺を見つめる。
「どこへ行くのかなー。美咲って人をストーカーしに行くのかなあ」
「ちょ、おまえ何でそれを!」
「へへ、盗み聞き。不審者を見かけたら監視、通報するのは国民の義務ですから。みーなーさーんー! ここにすとーかーがいますよー!!」
急に大声を張り上げたので、俺は思わず女の子の口を押さえつけた。
「きゃーっ!! たすけてー!!」
閑静な住宅街に、女子高生の甲高い悲鳴が響き渡る。
はたから見れば、俺はか弱き少女を白昼堂々と襲う変質者。
その正体も、女性を執拗につけ狙うストーカー。
完全にサイテーの犯罪者じゃないか。
俺は押さえつけていた手を離すと、がっくりと膝をついた。
悲鳴を上げていた女の子は、一転して低い声で俺にささやく。
それは、まさに豹変。
「さて、オジサン。取引きと参りますか」
「取引き……?」
「パフェを奢ってくれれば、今のことは忘れてあげよう」
何を言っているのだ、この子は。
そもそも、こんな怪しげな俺が怖くないのか?
「ふざけんな。付き合ってる暇はない」
「ほうほう。暇ならあるんじゃない。記憶をなくして困ってるんでしょ? 私が記憶を取り戻す手助けをしてあげても良くってよ」
「おまえが何の役に立つってんだ。だいたい、今持ち合わせがない」
「ヘルメットの裏」
女の子は、バイクのミラーに掛けてあるヘルメットを指差した。
「万札が挟まってるよ。いざというときの為に自分で入れておいたんじゃない? 記憶を無くす前のオジサンがね」
女の子は座ったまま軽く伸び上がるようにジャンプすると、すとんと地面に着地した。
その身軽さは、まるで猫のようだ。
「じゃあ、交渉成立ってことで」
大きな目をくりくりとさせながら、ニヤリと笑った。
目の前に、空のパフェグラスが2個並んでいる。
そして、今女の子がスプーンを口に運んでいる3個目も、そろそろグラスの底が見えそうだ。
マンションにほど近い住宅街の中に佇む、昔ながらの渋い喫茶店。
経年変化ですっかり煤けた木調の内装は、古き昭和の香りが漂う。
客は俺たちと、奥の席でスポーツ新聞を手で開いたまま、微動にだにしない爺さんがひとり。
喉にたんが絡むのか、たまに、かあっ、と発する声で生きている事を確認する。
無口で無愛想なマスターは、白髪まじりの後ろで縛ったロン毛に長い髭を生やし、その佇まいは、これまた『ザ・純喫茶』の主人にふさわしくも見事な調和を醸し出している。
大きな壁時計を見やると、11時前。
俺は何をやっているのだ。見知らぬ女子高生と寂れた喫茶店で。
しかし小柄なのに良く食う。何なんだこの生き物は。
「……カナ」
パフェカップの底に残ったクリームを掬って口に運びながら、彼女はぼそっと言う。
「え?」
「私、カナって言うんだ。よろしくね、オジサン」
空になった3個目のパフェカップを脇に置くと、満足そうに微笑んだ。
「さてさて。それでは、不審者オジサンの身の上話を聞いて進ぜよう」
「いや、話すことなんかないし」
「記憶なくしたんでしょ。話しているうちに思い出す事あるかもよ?」
それはそうかもしれない。
正直混乱して、自分だけじゃどうにもならなくなっている。
「それとも警察に相談する? やぶ蛇だと思うけど」
そう、現時点での相談相手の選択肢は、警察か、目の前にいる謎の女子高生。
だが警察は、マズイ予感がする。
さっきの男が、俺の事を通報した可能性が高い。
もし、あの男の話が正しければ、俺はやっかいな事態になりそうだ。
となると、消去法で目の前の女子高生しか残らない。
まあ誰でもいい。彼女の言う通り、話しているうちに記憶が蘇るかもしれないし。
俺はため息をついて仕方なく、バイクで転んでからの一部始終を、カナなる女子高生に話した。
◇
「ほうほう」
カナは俺の話を聞き終わると、腕組みをして天井を見上げた。
「現時点で判明した事がふたつ」
「なんだ」
「ひとつは、オジサンが美咲さんのストーカーである可能性が非常に高いこと」
女子高生に冷静に宣告されると、酷く落ち込む。
「もうひとつは、なんかの刺激がキッカケで、部分的に記憶が戻ること」
ふむ。
確かに、エレベーターが動くがこんという音で、ベランダからの風景が頭に浮かんだし、スクランブルエッグを食べたら、美咲のことを思い出した。
テーブルに置かれたスマホを見た瞬間、それがすぐに美咲のだとわかったし。
しかし、それは俺が美咲という女性の情報を、執拗かつ入念に調べ上げていたストーカーであるという事実に他ならない。
美咲の家に侵入して、勝手にスクランブルエッグを食ったり、部屋を覗いたりもしていたのか。
ああ、我ながらなんておぞましい。
「ただ気になるのは、美咲さんに関する記憶がリアルすぎることだね。オジサン、もしかして昔、美咲さんと付き合っていたんじゃない?」
「えっ?」
「美咲さんの記憶ばかり思い出してる。よっぽど好きだったんだ。でも美咲さんはオジサンと別れて葉山という男と結婚した。で、オジサンは今でも美咲さんのことが忘れられずにストーカーになった」
ほう。
なるほど、理にかなっている。
あの部屋に美咲と住んでいた可能性もあるわけだ。
それならば記憶が残っていても不思議はない。
全く期待していなかったが、カナの分析は、なかなか侮れない。
「そして、わからないことがひとつ」
カナが眉間に皺を寄せながら、身を乗り出す。
「美咲さんは、どこへ消えたのか」
ぴろろん。
突然、ポケットから音がした。
美咲のスマホが鳴っている。
あわててて取り出すと、画面にメール着信の文字が表示されていた。
恐る恐るメールを開くと、目に飛び込んで来たのはこんな文面。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を本日発送しましたので、お知らせします。
お届け予定時間:30分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:日傘おばさん
返品、交換は一切受け付けられませんのでご了承ください。
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
な、なんだこれは。
迷惑メールか何かか?
「何固まってるの、オジサン。美咲さんからメールでも来た?」
カナの声で我に返る。
「いや、訳のわからんメールだ」
スマホの画面を見せると、カナは黄色い声で叫んだ。
「あー! これ来ちゃったんだ!!」
奥の席に陣取る爺さんが、耳をほじりながら不愉快そうにわざとらしく「かあっ」「かあっ」を連発する。
「なんだよ、来ちゃったってどういうことだよ」
カナは辺りを見やり、声を潜めた。
と言っても店内には、かあっ爺さんと昭和のマスターしかいないが。
「オジサン知らないの? これ最近話題の『殺し屋派遣ネットショップ』だよ。この殺し屋発送メールを受け取った人は、必ず殺される。ここに書いてあるお届け予定時間までにね」
カナが真面目そうな顔で話すので、俺は吹き出した。
所詮はオカルトや都市伝説好きの女子高生か。
「くだらない。そういうのマンガとかで散々見たよ。このメールが届いたら死にます。このアプリを起動したら死にます。なにがなんでも死にます」
「バカにしてるね? いいこと、このメールは本物。オジサン本当に死ぬよ」
「はいはい。でも、これ注文者は【ストーカー】って書いてあるぞ。ストーカーって俺のことじゃないのか?」
カナは、はっとしたように大きい目をさらに見開く。
「で、そのスマホは美咲さん、のだよね?」
からんころん。
涼しげなドアベルの音色とともに扉が開き、髪の毛を紫に染め、花柄のワンピースを着た60歳くらいのおばさんが店に入って来た。
手には白い日傘。
「あらあら、今日も暑いわねえ」
おばさんは誰に話しかけるでもなく、そう口にする。
顔の汗を手に持ったハンカチで拭いながら、よたよたと隣りのテーブルの椅子に腰掛けた。
俺はスマホを手に取り、改めてメールの文面に目を通した。
お届け予定時間:30分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:日傘おばさん
日傘おばさん?
いや、まさかな。
おばさんはマスターに、アイスミルクティーね、と言うと、取り出した扇子で顔を扇ぎながら、窓の外を眺めている。
どこからどう見ても、そこら辺にいる普通のおばさんだ。
だが、カナは緊張した面持ちで、目配せする。
いやいやいや。
おばさんが、ふとこちらを見やり、話しかけて来た。
「暑いわね、本当に。あなた達、兄妹?」
「……いえ、違います」
「あらそう、どうりで顔がそっくりね」
話が噛み合っていない。
なんとなく嫌な予感がした。
「そのスマホ、あなたの?」
「ええ、いや、その」
「あなたのよねえ。かわいらしいスマホだこと、猫ちゃんのストラップ付いてて」
「はあ」
カナの言う事を信じる訳ではないが、背筋に寒気を感じるのは、冷房が効きすぎた店内の影響だけではないようだ。
長居は無用、と急かすは心の声。
カナに出ようか、と言って、ライダーズジャケットを羽織り、スマホをポケットにしまいながら立ち上がる。
その瞬間、視野の片隅で、おばさんの手が信じられないスピードで動くのが見えた。
ハッと気がつくと、俺の胸のちょうど心臓部あたりに、白い日傘の先端が突き刺さっている。
おばさんが、にやりと口元を歪ませた。
えっ……!?
「ごめんなさいねえ。まだお若いのに」
おばさんは日傘を俺に突き刺したまま、哀れみの視線を投げかける。
きゃああああああああっ!!
店内にカナの悲鳴が響き渡った。
いや、しかし。
痛みは無い。
俺が体を軽く捻ると、日傘の先端は根元からぽっきりと折れた。
「えっ、何故!?」
おばさんの表情が、瞬時に驚愕へと変貌する。
おそるおそるライダーズジャケットの胸元を開くと、針のように尖った日傘の先端が、胸部に装着された樹脂製のプロテクタに突き刺さっていた。
(ライダーズジャケットには、事故の衝撃を抑える為に、各所にプロテクタが装備されている)
『着けよう、命を守るプロテクタ』
ふと頭に浮かんだのは、交通安全の標語。
「な、何するんだ! 死ぬとこだったぞ!」
「いや、オジサンそれ違うから。殺す為に刺したんだから!」
「こ、殺すって、なぜ?」
「理由はわからない。誰かが殺し屋を送ったの!」
これはリアルなのか。
気が動転して、何がなんだかわからない。
日傘おばさんは、いつの間にかガラケーを耳に当て、どこぞに電話をしている。
「はい私です。いえね、受け取り拒否でしたの。ほほほ。こんなこと、初めてですわ。本当にすみませんでした。では」
のんびりした口調で通話を終えると、俺を見てにっこりと微笑んだ。
「それでは、お気をつけて」
「は、はあ」
深々と丁寧に頭を下げるので、俺もつられてなんとなく会釈する。
「何してるの! ほら、早く出よう! マスター、コレつけといて!」
カナに無理やり腕を引っ張られ、俺は茫然自失のまま店の外へ出た。
なんだ。
いったい、これは何なんだ。
カナは俺の手を引きながら、骨までをも焦がすような陽の光が煌々と照りつける住宅街の路地を、ひたすら走り続けた。
女子高生と手を繋ぎながら全力で走る、25歳(くらい)の男。
端から見れば、こんな奇妙で怪しい光景はない。
敢えて深読みするならば、痴漢男が女子高生に扮したロリ婦人警官に連行されている、といったところか。
「ちょっと待て、どこへ行くんだ」
俺は息を切らして、足を止めた。
両手を膝に付いて、肩で息をする。
長袖のジャケットを着ているせいで、全身汗だくだ。
もう走れない。
「殺しは失敗したんだろ? 逃げる必要なんてないんじゃないか」
カナが眉間に皺を寄せて、俺を睨む。
「オジサン、わかってない。一度殺し屋発送メールが届くと、ターゲットは必ず殺されるの。どんな手段を使ってでもね」
「いやでも、あのおばさんがここまで付いて来れるとは思えないし」
「配達される殺し屋が、ひとりだけだと思う?」
マジかよ。
俺は、あわてて辺りを見渡したが、路地に人影は見当たらない。
野良猫があくびをしながらゆっくりと、目の前を横切って行った。
ちょっと整理しよう、と言いながらカナが額に手を当てて考え込む。
「殺し屋派遣ネットショップに注文を出したのは、【ストーカー】だよね。で、襲われたのはオジサン」
「という事は、俺はストーカーじゃなかったと言う事か」
「いや、殺し屋配送メールが届いたのは、美咲さんのスマホ。日傘おばさんは、スマホがオジサンのかどうか確認していた。つまり殺し屋のターゲットは、スマホの持ち主である美咲さんという事になる」
「えっ、美咲が狙われてるのか?」
「そして、殺し屋を注文した【ストーカー】なる人物は……」
カナは顔を上げると、俺に向かって真っすぐ指差した。
「記憶をなくす前のオジサン、あなたよ」
頭の中を、某少年探偵アニメのテーマソングが鳴り響く。
「お、俺が美咲を殺すだと? なぜだ」
「さあ、愛情と憎しみは表裏一体ってこと? 生憎、ストーカーの心理には詳しくないんだよね」
愛していた美咲が自分のものにならないから、殺すしかないと判断したってことか?
俺って異常なまでに執着心が強い性格だったの?
いや、そんなまさか。
記憶がない俺は、いたってニュートラルな思考で動いている。
極端に何かを思い詰めるような、そう、ストーカーのような性格とは、自分自身とても思えない。
だが、ともあれこの状況をなんとかせねば。
「とにかく、美咲は俺のせいで殺し屋に狙われているんだな」
「うん。奴らは必ず美咲さんを見つけ出す」
「殺し屋の注文をキャンセルする方法はないのか?」
「あるけど」
微かな希望が芽生える。
「殺し屋派遣ネットショップのサイトにアクセスして、注文した時のパスワードを入れればキャンセルできるはず」
俺は頭を抱えた。
自分に関する記憶が一切ないのに、得体の知れないサイトのパスワードなんて覚えているわけが……。
待てよ。
これまでのパターンからすると、カナが言う通り、なんらかの刺激によって記憶が戻る可能性がある。
殺し屋派遣ネットショップのサイトを見れば、パスワードも思い出すかもしれない。
俺は美咲のスマホを取り出した。
「そのサイト、どうやったらアクセスできるんだ」
だが、カナは顔を曇らせる。
「わからない。ネットや学校でも散々噂になってるけど、誰も見つけたものはいない。伝説のサイトなんだ」
ぷるるるるる。
手に持ったスマホの着信音が唐突に鳴り始めたので、俺は飛び上がった。
もしかして、美咲か?
あわてて通話ボタンを押すと、耳に飛び込んでしたのは、葉山のがなり声。
「あんた! 美咲のスマホを持ち逃げしただろう!」
「いや、それより大変なんだ。美咲は帰って来たか?」
「おい、ストーカー風情が人の妻を呼び捨てにするな。どこにいるかわかったとしても、あんたなんかに教えるものか!」
「その言い方からすると、まだ帰ってないんだな」
唇を噛み締める。
「いいか、よく聞け。美咲は殺し屋に狙われている。早く見つけ出さないと大変なことになる。戻って来たらすぐに警察で保護してもらえ。わかったか!」
「なに寝言を言ってるんだ。あんたこそ警察に確保されちまえ。バカ!」
いきなり通話が切れた。
苛立ちながらスマホの画面を見ると、メール着信1件の表示。
「おまえが、受取人か?」
低く野太い声に、はっとして目を上げる。
道路の真ん中に、毛むくじゃらの巨大な着ぐるみが腕を組んで立っていた。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】再発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を発送しましたが、受け取り拒否されましたね?
商品の性質上、受け取り拒否はお断りしております。
【殺し屋】を再発送しましたので、お知らせします。
お届け予定時間:10分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:ゆるキャラ
返品、交換は一切受け付けられませんのでご了承ください。
注)勿論、受け取り拒否もです!
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
ゆるキャラ、だと?
この着ぐるみが?
2mはあるかという長身。
顔はペンギンだが、体はふさふさの毛に覆われている。全身渋い紫色だ。
大きな頭部に対して、胴体はウエットスーツのように細身の体にぴったりとフィットしており、見るからにアンバランスで異様な姿。
星が描かれた大きな目と、緑色の大きい長靴だけが、ゆるキャラらしさを辛うじてアピールしている。
「再配達に伺いましたー」
そう言って肩をすくめながら、だるそうに羽根を腰のポケットに突っ込む。
まるで、ペンギンのお面を被った厳冬地のヤンキー兄ちゃんだ。
「カナ、こいつは、ゆるキャラという殺し屋らしい」
「カワイイ」
カナは目をキラキラさせている。
女子高生の特異な感性は理解できない。
「とっとと済ませましょうや。こちとら死ぬほど暑いんでね」
ゆるキャラらしくないドスの効いた声を発する、ゆるキャラ。
ポケットからゆっくりと取り出したのは、魚?
いや魚の形をした鈍器か何かだ。
ゆるキャラが魚を振ると、びゅっと言う、重厚な風切り音が聞こえた。
だが、カナは「カワイイ」を連発しながら、ゆるキャラに突進する。
そのまま、怯んだゆるキャラに思いっきり体当たりすると、ゆるキャラはもんどり打って後ろに倒れた。
いくらスリムな身体とは言え、かぶり物を被っていれば俊敏には動けない。
そのまま、ごろごろと地面を転げ回る。
「今のうちよ! 逃げよう!」
ふたたびカナに手を引っ張られて、全力で走り始める。
また走るのか。
だが後ろを振り返ると、起き上がったゆるキャラは、驚異的な脚力で俺たちに接近していた。
「まずいぞ、カナ」
あっと言う間に俺の背後に迫るやいなや、両羽根で突き飛ばされた。
前につんのめった俺は、カナと一緒にアスファルトに叩き付けられる。
すかさずゆるキャラは、地面を蹴って大きく跳躍すると、俺に向かって魚を振り下ろす。
その姿はまさに、空飛ぶペンギン。
ビシッ!
とっさに避けた頭をかすめて地面に魚が叩き付けられ、砕け散ったアスファルトの破片が顔に振りかかる。
こいつ、日傘おばさんとはレベルが違う……。
ふたたび魚を振り上げたゆるキャラの、数多の星が描かれた大きな目の奥に、狂気の笑みが垣間見える。
次の瞬間、ゆるキャラの側頭部にカナのドロップキックが食い込んだ。
その躍動する太ももは、夏の太陽に白く輝き、無意識に俺の脳裏へと焼き付けられる。
そう、ゆるキャラは前しか見えていないから、横から攻めたカナは死角となったのだ。
カナの不意打ちは成功し、ゆるキャラは再び地面を転がる。
「てめえ、ただモンじゃねえな」
ゆらりと立ち上がったゆるキャラは、腰を低く構えたカナと向かい合う。
ペンギン vs. 女子高生(猫娘)。
後にも先にも、まず目にすることはない、不条理な光景。
俺は様子を伺いながら、そっとゆるキャラの背後に回った。
前しか見えないゆるキャラは、俺の動きに気がついていない。
ゆるキャラとカナは、睨み合いを続けている。
お互いの動きを探り、間合いを計るその様子は、異様な殺気に満ちていた。
カナが注意を引いたおかげで、俺は難なくゆるキャラの背後に接近する。
頭の被り物を両手で掴むと、一気に反対側に回転させた。
「うおっ!!」
いきなり視界を奪われ、悲鳴を上げるゆるキャラ。
背中を押すと、簡単にうつぶせに倒れた。
と言っても、ペンギンの顔はこちらを向いているのがホラーだが。
ふと、閃いた。
俺はゆるキャラの背中に馬乗りになると、胸のジャケットに突き刺さったままの、針のような日傘の先端を引っこ抜いた。
ペンギンの両羽根を後ろ手にくっつけると、針を通し折り曲げて固定する。
視覚を奪われ、後ろ手(いや羽根か)を繋がれたゆるキャラは、うなり声を上げながらその場をごろごろと転がった。
もう、こいつは起き上がれない。
「やるじゃん、オジサン」
カナが感心したように、手を叩く。
と、背後で女の子の泣き声がする。
振り返ると、5才くらいの小さな女の子が、俺を睨んで号泣していた。
「ぺんぺんをいじめないれ!」
そのぺんぺんは路上で悶えながら、とても子供に聞かせられない汚い言葉を吐き続けている。
俺は女の子に近づくと、しゃがんで優しく声を掛けた。
「ぺんぺんをたすけるほうほうがひとつある。いまからいうじゅもんをおかあさんにつたえるんだ。いい?」
女の子は涙を零しながら、深く頷く。
「じゅもんはこうだ。『ふしんしゃがいるからけいさつをよんで』」
「ふひんひゃがいるからけーさつをよんれ!」
「そう、いいこだ。はやくおかあさんにつたえないと、ぺんぺんはみずがなくなってしんでしまう。いそいで」
女の子は踵を返すと、全力で走り去っていった。
◇
「不審者が不審者をやっつけるなんて、笑える!」
カナはひとりでウケている。
「笑うな。殺し屋はもうたくさんだ」
早足で歩きながら、来た道を戻る。
「どこ行くの、オジサン」
「美咲を探す。殺し屋に狙われているのが俺のせいだとすれば、なんとしても助けなきゃ」
「ほうほう、ストーカー愛ってやつですかい」
確かに美咲のことは愛している、ような気がする。
「でも、どうやって探す気? 美咲さんがどこ行ったかもわからないのに」
「ひとつだけ心当たりがある。付き合ってた頃の記憶かもしれないが、美咲は休日になると、よくひとりで江ノ島へ行っていたんだ。野良猫に会うために」
「江ノ島? 海行くの!?」
カナの表情が、ぱあっと明るくなる。
「おまえを連れて行くわけないだろうが」
ふたたび、マンションの前まで戻ってきた。
美咲とあの男が住むマンション。
だが、なぜか俺を引き寄せる。
マンションの前に停めたハヤブサにキーを差し込み、エンジンをかける。
夏のねっとりした空気を、1300ccの排気音が切り裂いた。
腕時計を見ると11時半。かっとばして、江ノ島まで1時間半くらいか。
美咲が見つかるかどうかは分からないが、少しでも可能性があるなら行ってみる価値はある。
ふと横を見ると、暴走族御用達の半キャップヘルメットを手にしたカナがいた。
「……それ、どこから持って来た」
カナが指差した先には、完全ヤンキー仕様の改造バイク。
ちょっと、待て。
カナはひょいと、タンデムシートに飛び乗る。
「おい」
「連れてかないと、ナンバー、警察に通報するからね。殺し屋を雇ったストーカーが江ノ島に向かってますってさ」
……マジかよ。
俺は深くため息をついた。
はくしょんっ!
思いっきりクシャミをして、鼻をすすりながらふと思い出した。
俺は猫アレルギーだ。
猫に近づくと、くしゃみが止まらなくなる。
美咲は大の猫好きだが、俺は苦手。いや、猫は嫌いじゃないんだが、体が受け付けない。
しかし、どうでも良いことは思い出す。もっと肝心な記憶を掘り起こす方法はないものか。
はあくしょんっ!
おかしい。なぜかクシャミが止まらない。
もしかすると、後ろで俺にしがみついている猫娘のせいかもしれない。
東京と横浜を結ぶ、第三京浜道路。
ハヤブサに乗り、時速200キロでかっとばしていた。
まだまだアクセルには余裕がある。なにせこのバイクの最高速度は300キロだ。
速度差がありすぎて、まるで止まっているように見える車を、左右に車体を倒しながらかわしていく。
後ろから、カナの悲鳴のような、笑い声のような叫び声がするが、風にかき消されてよく聞き取れない。
既に殺し屋に、二度襲われた。
たまたま美咲のスマホを持っていたせいで、俺が間違われて襲われたんだろうが、いつまでも「誤配」が続くとも思えない。
次の殺し屋は、美咲のところへ行くかもしれない。
運良く俺は2人の殺し屋を躱(かわ)せたが、か弱い美咲だったら、ひとたまりもないだろう。
しかも本人は、殺し屋に狙われていることすら知らないのだ。
心が焦る。
それは、俺のせいで美咲が殺されることに対する罪悪感なのか、それとも、美咲への愛情なのか。
今はまだ、どちらなのか、自分の気持ちがわからない。
◇
「キャハハハハハハハ……」
バイクから降りたカナが、狂ったように笑い続けている。
三鷹と江ノ島の、ほぼ中間地点である保土ヶ谷インターチェンジのサービスエリア。
カナがトイレに行きたいと、後ろで暴れ始めたのでやむを得ずバイクを停めたとたん、これだ。
「いつまで笑ってんだ。早くトイレ行ってこいよ」
「……だって……速い、速すぎるよ、その乗り物……」
カナはお腹をかかえたまま、地べたに座り込んで笑い続けている。
人は想像を絶する体験をすると、恐怖を通り越して、笑いが止まらなくなるらしい。
子供連れの家族が、不審そうに目をやりながら通り過ぎていく。
その目は、カナのそばにいる俺(保護者)にも注がれる。
やれやれ、ここでも不審者扱いかよ。
俺はカナを放置して、スマホを取り出した。
幸い、次の殺し屋発送メールはまだ来ていない。
写真アプリを起動して、猫の写真をもう一度、眺める。
江ノ島は周囲4キロと小さな島ではあるが、江島神社の社殿が3箇所にあり、展望台や洞窟もある。
島に入ると以外と広く、観光スポットも多い。
当ても無く美咲を探している時間はない。
美咲がいるとすれば、猫がいる場所だ。
猫はそれぞれ縄張りを持っているから、生息している場所も各所に分かれている。
俺は猫写真の背景に目を凝らして、場所を確認しようと試みる。
だが、どれも猫のアップで、後ろの景色が殆ど見えない。
次々と写真をスワイプしているうちに、あの男のにやけた写真で手が止まる。
「誰、それ?」
いつの間にか素に戻ったカナが、スマホを覗き込んでいた。
「葉山浩介っていう、美咲の旦那。なんか、俺に似ていて気味が悪いが」
「ふうん。でも、なんか変な写真だね」
「え? どこが」
「この写真だけブレてる。他の猫の写真は綺麗なのに。それに……」
「それに、何だ」
カナは大きい目をくりくりさせながら、何事か考えている。
「いや、ちょっと気になっただけ」
「おまえな……」
「さあ、早く行こうぜ。海が待ってるぜ!」
またもや、いきなり豹変したカナは、低い声で俺の肩を叩く。
「……その前に、ホットドック食べていい?」
また食うのかよ……。
◇
砂浜には海の家が立ち並び、色とりどりの水着を身につけた多くの海水浴客で溢れかえっていた。
遠くの海に目をやると、反射した太陽の光が水面(みなも)に無数の輝く星を造り出し、まるで女神の衣が海に漂っているような、そんな神々しさすら感じる。
海岸通りの渋滞した道を、少しスピードを落として車をすり抜けながら慎重に進んで行った。
カナは後ろのシートで、ひとり興奮して暴れまくっている。
「海だあ!!」
そりゃ、見ればわかるって。
「泳ぎたいなら、ここで降ろしてやるぞ」
降りるという返事を期待して聞いたのだが。
「いや、私カナヅチだし!」
そうですか。
稲村ケ崎を越えた先で、それは唐突に姿を現した。
陸続きの小さな島、江ノ島。
「ひゃっほう! 江ノ島来るの初めて!」
まあ、夏休みだというのに、学校の補修サボってアイス食ってるような地味な日々を送る女子高生にとって、これは非現実な光景なんだろうな。
なんとなくだが、カナを連れて来てやって良かったと思い始めている。
警察に尋問されたら「未成年者略取」とやらで言い訳立たないが。きっと。
何の因果か、こんなところまで連れて来てしまったが、つい数時間前に会ったばかりの奇妙な女の子だ。
俺は全然カナのことを知らない。
おそらくあのマンションの近所に住んでいて、数学が苦手で、食欲旺盛で。
知っているのは、その程度。
だが、そんなカナをどこか可愛いと感じている自分もいる。勿論、恋心とかそういう意味ではなく。
どこか、不思議な魅力を持った猫娘だ、こいつは。
「ねえっ!!」
いきなりヘルメット越しに、カナのがなり声が脳天を貫き、俺は飛び上がった。
弾みで車体がふらふらと蛇行し、あわててハンドルを握り直す。
「なんだよ、急に大声出すなよ。心臓停まるだろ。殺し屋か、おまえは」
「さっきから、話しかけてるのに反応がないからだよ。何、ぼうっとしてるのさ」
「それは……美咲の事が心配だからだ」
「殺されたらオジサンのせいだもんねー」
その言葉でふと、現実に引き戻される。
俺はなんで美咲を殺そうと思ったのだろう。
葉山浩介なる男に、美咲を奪われたから?
美咲が、もう自分の元に戻らないと知って、殺す気になった?
しかし愛する女性を殺す為に、あんな怪しい殺し屋派遣ネットショップなるものを使うだろうか。
うーむ。
ストーカー心理は今の自分には良くわからないが、自分を愛してくれないなら、いっそ自分の手で、とか考えたりするものじゃないのだろうか。
そう、異常な独占欲や支配欲が度を超した時に、そういう事件が起きるって聞いた事がある。
「なんかさー、気になるんだけど」
カナが俺の思考に割り込んで来る。
「なにが?」
「いや、なんで美咲さん、ひとりで江ノ島に行ったんだろうなって」
「そりゃ、夫婦だっていつも一緒に行動する訳じゃないだろうし」
「でもさあ、ストーカーに狙われていると知ってたら、もっと用心するもんじゃない? スマホのメール見るだけでも恐怖だよ。私だったらひとりで出歩きたくないなあ」
おまえなら、ひとりでも大丈夫だよ、きっと。
「なんか言ったあ?」
こいつは、人の心が読めるのか。
「……確かにな。出歩くにしても、あの葉山浩介って旦那が連れ添うはずだ。旦那にしても心配だろうしな」
いや、待てよ。
あのマンションでの葉山との会話が頭をよぎる。
「葉山は美咲がいなくなったことに慌ててた。行き先もわかってないみたいだったぞ」
「それ、変だね。なんで美咲さんは、自分がストーカーに狙われていると知りつつ、葉山に黙って家を出たんだろう?」
わからない。
美咲はおとなしいが、しっかりした性格だった。
どんなに仕事が忙しくて夜帰るのが遅くても、朝は必ず同じ時間に起きて、ちゃんとした朝メシを作っていたし。
多少体調が悪くても休まず会社に行って、しっかり仕事をこなしていた。
愚痴ひとつ言わずに。
『生きるってね、目の前のモノをしっかりと片付けていくことなの。無造作に積み上がった段ボール箱を、崩さないようにひとつずつ丁寧に降ろすみたいにね。そうしてるうちに、片付けた隙間からきっと素晴らしい何かが現れるの』
たまには会社なんてサボってのんびりしろよ、って俺が言った時の美咲のセリフだ。
今でも、はっきり覚えてる。
美咲は、いいかげんに生きている俺とは、たぶん違うセカイを見つめていた。
あれ、俺いろいろ思い出しているぞ。
やっぱり、俺は美咲と暮らしていたんだ。
そして、俺はそんな美咲が大好きだった。
「ねえ、美咲さんは葉山とうまくいってたのかな?」
「ん、なんでだ」
「うーん、なんとなくだけど」
どうにも解せない。
そんなしっかり者の美咲が、葉山と何があったにせよ、鍵も開けっ放しで家からいなくなるなんて。
気がつくと、江ノ島大橋の交差点まで来ていた。
左に曲がった先に、真っすぐ伸びた2車線の道路が江ノ島へと続いている。
横断歩道を、高校生くらいの水着姿のカップルが、楽しそうにじゃれあいながら渡って行った。
焼けた肌には水滴が煌めき、持て余す若い力を青い海にすっかり解き放っている。
カナは黙っているが、そんな同年代の彼らに対する羨望の想いを、背中からひしひしと感じた。
なんだか愛おしい奴だ。
信号が変わると同時に、俺はアクセルをいつもより多く捻り、目の前に見える江ノ島に向けて飛び出した。
◇
立ち止まったまま、腕時計に目をやる。
13時過ぎだ。時間は容赦なく過ぎて行く。
しかし、人の列は一向に前へと進まない。
江島神社に向かう緩やかな登りの参道は、老若男女はたまた白人黒人東洋人関西人に至るまで、多くの観光客でごったがえしていた。
先を急ごうにも人の列は遅々として進まないが、江ノ島を巡るには、島の入り口から続くこの参道を抜ける必要がある。
「くんくん」
横を歩くカナの声がしたので、目を向けるといつのまにか消えている。
あたりを見渡すと、カナは土産物屋の店先に設置されたガラスケースに貼り付いていた。
しらすクレープ。
おまえ、本当にそれを食べたいのか?
江ノ島の名産と言えば生しらすだが、しらすは土産用として様々な姿に形を変えていた。
観光地名物特有のありがちな商法だ。
しらすせんべい ←まあ、わかる。
しらすクッキー ←わからない。
しらすクレープ ←!?
「ねえ……」
こいつ、オンナの眼をしてやがる。
そこから動きそうもないので、やむを得ずポケットから1万円札を取り出した。
「観光に来たんじゃないんだからな」
目をくりくりさせながら、しらすクレープを頬張るカナを睨む。
「わかってるって。戦(いくさ)の前には腹ごしらえじゃ」
別に戦をする気はないのだが……。
ふと、目の前を歩いていた女の子が、持っていたカメラを振り上げたので、俺は思わず身構えた。
が、どうやら自撮りだったらしい。
カメラのモニタを見ながら、友達らとはしゃいでいる。
「なに、びくついてるのさ」
呆れた顔をするカナに、俺は黙ってスマホの画面を見せた。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】再再発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を発送しましたが、またもや受け取り拒否されましたね?
繰り返しお伝えしますが、商品の性質上、受け取り拒否は断固としてお断りしております。
【殺し屋】を再再発送しましたので、お知らせします。
お届け予定時間:30分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:カメラ女子
返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください ←ここ重要!
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
「カメラ女子?」
「そうだ、今はやりのカメラ女子だ。まわりを見てみろ」
プロが使うような高級一眼カメラを、首からストラップでぶら下げた女性がそこらじゅうにいる。
あまりに多すぎて、どれが殺し屋なのかわからないのだ。
「カメラ女子って、大した相手じゃなさそうだね。武器はカメラ? それで殴るの?」
カナが小バカにしたように鼻を鳴らす。
「いや、甘く見ない方がいいぞ。最近の一眼カメラはマグネシウム合金っていう、軽くて頑丈な金属で出来ている。充分破壊力は高いはずだ」
屈んで猫を撫でている無防備な美咲の背後にカメラ女子が忍び寄り、一眼カメラを振りかざすイメージが頭に浮かぶ。
ガッ!!
倒れた美咲の頭から流れ出た真っ赤な血が、地面に小さな溜まりを作り、それは次第に大きな広がりを形成していく……。
猫はミルクのように、その血をぴちゃぴちゃと舐めるのだろうか。
口元を真っ赤に染めながら。
ああ、なんて恐ろしい……。
「どうした!」
カナの恫喝で、はっと現実に引き戻される。
「ぼうっとしてる暇あったら、美咲さん見つけなよ」
「ずっと探してるが、こう人が多いとな」
俺は困惑しながら、あたりを見渡す。
「なんか美咲さんの特徴ないの? 髪を腰まで伸ばしてるとか、身長が2m近くあるとかさ」
「そんな極端な特徴はない、はずだ」
美咲のイメージを、断片的な記憶の欠片から繋ぎ合わせてみる。
「髪は肩までのセミロング。身長は165cmくらい。体型はスリムですらっとしている。均整の取れた顔立ちで、笑うとえくぼができて」
「ああ、そうですか!」
カナは何故かムスっとしている。
「とりあえず、痩せていて美人、オトナの女を探せばいいんだね?」
「そうだ。見つけてくれ」
「いた」
カナが指差す先には、中年のオッサンに腕をからます、いかにもケバそうなキャバ嬢らしき女の姿。
「違う。オトナの女ってそういう意味じゃない」
「まだ高校生の私に、オトナの女の定義とやらは難しいんですけど!」
なんだか機嫌が悪い。
「もういい。美咲は俺が探す。おまえはカメラ女子が襲ってこないか見張れ」
参道を抜け、漸く辺津宮神社の門口に立する、大きな赤の鳥居に辿り着いた。
江ノ島には、この他にも中津宮、奥津宮と、合計3箇所に神社が点在している。
さっそく、池の脇で寝ころんでいる数匹の猫を見つけたが、近くに美咲の姿はない。
猫の周りには、シャッターを切りまくるカメラ女子がずらりと並ぶ。
「猫いるね」
「ああ、カメラ女子もな」
「これじゃ美咲さんは、呉越同舟、とやらだね」
「学校で覚えたのか知らんが、言葉の使い方が間違ってるぞ」
時計に目をやる。
【殺し屋】再再発送メールが着信してから、15分が経っている。
お届け予定時間は30分以内。
残りあと15分で美咲を探し出さねば。
気が焦る。
「とりあえず、頂上にある展望台を目指そう。途中に何箇所か猫スポットがあったはずだ」
◇
目の前の塀の上で、黒と白のぶち猫が俺を睨んでいる。
てめえ見てんじゃねえよ。うんざりなんだよ、観光客の相手するのは。
コイツはおそらく、そう思ってる。
俺はスマホを取り出し、改めて写真を眺めた。
最後から2枚目の写真が、この猫だ。
スワイプして最後の写真を開くと、展望台をバックにした葉山の気持ち悪いにやけ顔。
スマホから目を上げて振り返ると、そこには展望台がそびえ建っている。
美咲は、この目付きの悪い猫に会った後、ここで最後に、おそらく同行していたであろう葉山の写真を撮った。
そう、この場所で猫の見回りを終えたのだ。
俺は深くため息をつく。
あやふやな記憶を頼りに、なんとか猫スポットを巡り、写真アプリに入っていた猫は全て確認した。
だが、美咲はどこにもいなかった。
殺し屋の配達予定時間は過ぎようとしている。
美咲はもう、どこかで……。
目付きの悪いぶち猫の額を何気なく撫でながら、最悪の結果を想像して気分が落ち込む。
はくしょん!
つい撫でていたが、俺、猫アレルギーだった。
「かわいい猫ちゃんですね」
声がして目を上げると、いつの間にか、隣で見知らぬ女の子がにこにこしながら猫を眺めていた。
アースカラーのふわふわしたワンピースを着たハタチくらいの女の子。癒し系で、なかなかキュートな顔をしている。
「ああ……良かったらどうぞ。俺はもう撫で飽きたので」
「猫、お好きなんですか」
「いや、まあ、それほどでも」
「かわいいですよね! 猫ちゃん」
女の子はたすき掛けにした大きなバッグから、猫用のドライフードを取り出した。
ぶち猫の鼻先に差し出すが、奴はぷいっと横を向く。
「食わないですよ。ここら辺の野良猫は近所の食堂からたっぷり餌もらってるんで」
「そうなんですか……」
女の子は寂しそうに餌をバッグにしまうと、ポケットから小さな飴の袋を取り出した。
「飴でもいかがです?」
「ああ、どうも」
袋を破って出て来たのは、赤い猫の形をした飴玉。
よっぽどの猫マニアなんだろう。
姿見は異なれど、美咲と雰囲気が似ているな、とぼんやり思う。
「江ノ島にたくさんの猫がいるって聞いて、会いに来てみたんですよ」
「そうですか。猫が好きなんですね」
「ええ、とっても! でも、家が賃貸アパートだから猫飼えなくて……」
女の子は、寂しそうな笑顔を見せる。
なんだか、気分が落ち着く。
美咲と話しているような、どこか懐かしい感覚を覚える。
何気なく、もらった飴を口に放り込もうとしながら隣を見やると。
女の子は鞄から取り出したカメラを猫に向けていた。
……ん? カメラ?
「それ、食べちゃダメ!!」
振り返ると、みたらし団子を手にしたカナが叫んでいた。
はっと我に返って、口に入れかかった飴を投げ捨てる。
それを見た女の子は、みるみるうちに狂気を孕んだ殺し屋の顔に豹変すると、低い声で「ちっ」と呟いた。
「テトロドキシン。つまりフグの毒。経口摂取で青酸カリの850倍の毒性を持ち、少量でも体内に吸収されれば神経伝達を遮断し麻痺を起こして死に至る……はずだった」
感情の無い声を発すると、カメラを俺に向けてシャッターを連射する。
「せめて写真に撮られて、魂を抜かれるがよい!」
いつの時代の迷信だよ。
それにしてもカメラをバッグに隠し持った、カメラ女子。
それ、反則だろ……。
「じゃ、俺、先急ぐんで」
狂ったようにシャッターを切りまくるカメラ女子を無視して、カナに向き直る。
「おまえ、どこ行ってたんだよ。あやうく殺されるとこだったぞ」
「オジサンこそ、若い女殺し屋に鼻の下伸ばして。面倒見切れんわ」
みたらし団子の長男を口に入れながら、呆れた顔をするカナ。
俺もおまえの食い意地っぷりには、面倒見切れんよ。
「だが、アレが発送された殺し屋なら、美咲はまだ無事ってことだ」
「これから、どうするのさ」
「疲れた。取り敢えず、そこらの茶店で作戦会議だ」
ひゃっほーい、と歓声を上げるカナ。
そのとき、ふと何者かの強い視線を感じたような気がした。
だが、辺りを見渡しても、それらしき人影は見当たらない。
うん……気のせいか?
◇
「白玉あんみつ!」
あちこち表面のニスが剥げ落ちた古い木製のテーブルにつくなり、カナが叫ぶ。
「わかったわかった。もう何も言わない。好きなモン、食えばいいさ」
展望台の近くにある、見るからに古い家屋の甘味処。
店内は予想に反してガラガラだった。
俺たちの他には、おそらく強い陽に当たりすぎたせいで、精も根も尽き果てて無口となった二人連れの婆さんしかいない。
普通の観光客は近隣に山ほど立ち並ぶ、しらす丼屋に集中しているのだろう。
「いらっしゃーい。暑いねー」
ダイエットなんて言葉に背を向けた、小太り体型の店のおばさんがせかせかと寄って来て、テーブルの上に水の入ったコップを並べる。
「えっと、注文は……」
「白玉あんみつ!!」
「……と、アイスコーヒー下さい」
「はいはい。あれっ?」
おばさんは首に掛けたタオルで顔の汗を拭いながら、目をまるくして俺の顔を見つめる。
「お客さん、また来てくれたんだねえ」
「えっ?」
「いつも女のひとと一緒だから、気づかなかった」
「あの、私も一応、女なんですけど」
カナが、ぶすっとした顔でおばさんを睨む。
「あれあれごめんねえ。この子は妹さんかな? いやね、いつもはすらっとした綺麗な人と一緒だから」
おそらく全く悪気は無いであろうおばさんのさり気ない発言が、カナの怒りを加速的に増幅させているに違いないが、今はそれどころではない。
「待ってください。私はよくここへ来てるんですか? その女性と」
「なによう、とぼけちゃって。おしどり夫婦のくせに」
おばさんが俺の肩を思いっきり叩く。痛い。
俺が美咲と一緒に、何度もこの甘味処に来ている?
いや、待てよ。
「それは俺じゃなく、こんな目をした俺に良く似た男じゃないですか?」
俺は目を精一杯目を細めて、葉山の顔模写を試みる。
おばさんも目を細めて、俺の作り顔をたっぷりと時間をかけて見つめた後、頭を傾げた。
「いんや、わからん。わたしゃド近眼だし」
肩をすくめて、すたすたと店の奥へ戻るおばさん。
その後ろ姿を睨み続けるカナ。
「何さ、感じ悪い」
「とにかく、美咲がここに良く来てたのは確かなようだ。おそらく葉山とな」
「でも、今日は来てないみたいだね。これだけ探しても見つからないし、やっぱり江ノ島には来なかったんじゃ」
「うーん」
俺は頭を抱える。
無駄足だったのか……。
「だが、殺し屋はここにも現れたぞ。美咲を狙っているなら、江ノ島に美咲が来ている可能性も否定できないだろ」
「ん……ちょっと、美咲さんのスマホ見せてよ」
スマホを渡すと、カナは猛烈な勢いで何やらタップし始めた。
「……ふむふむ。『スマホを探す』設定がされていて、位置情報提供機能もオンになっている。なるほどなるほど」
「なんだ、どういう事だ」
「このスマホは、今どこにあるかがわかるようになっているのさ。つまりだね、殺し屋はこのスマホの位置情報を追っている可能性が高いってこと」
「じゃあ、俺がこのスマホを持ってる限り、美咲は狙われないのか?」
「オジサンは狙われるけどね」
「コレを捨てちまったら?」
「殺し屋は追跡方法を切り替えて、別の方法でターゲットを追いかけるだろうね」
俺は頭を抱えた。
スマホを俺が持ってさえいれば、美咲は無事。
それは、ひとまず安心だ。
だが、俺のところにはこれからもずっと殺し屋が配達されるだろう。そう、俺が死ぬまで。
どうすりゃいいんだ……。
「はい、お待ちー」
店のおばさんが、テーブルの上に白玉あんみつとアイスコーヒーを並べた。
カナは満面の笑みを浮かべて、待ちきれんばかりに両手をふるふると動かしている。
ふと、おばさんの腰にぶらさがる、巫女のような格好をした猫が描かれたお守りに目がいった。
はっと気づいてポケットから、赤いお守りを取り出す。
俺のは和尚の猫が描かれているが、良く似ている。
「おばさん、コレは!?」
「ああ、これ? うちで売ってるお守りだよ。夫婦猫(めおとねこ)って言うのよ」
「夫婦猫?」
「江ノ島に3箇所ある江島神社。これは三女神といって、つまりは神話に出て来る天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の子供、三姉妹の女神様を祀ってるのさ。それにあやかって、アマテラス猫とスサノオ猫、ふたつセットで売ってるのよ。ほら、そこに並んでるでしょ」
おばさんは店の壁側にある、土産物コーナーを指差す。
「うちのオリジナルグッズ。結構人気なんだよ。これをカップルで持ってると絆が深まるってね」
「……神話では、スサノオが暴れたせいで、アマテラスは岩戸に逃げたんじゃなかったっけ?」
「細かい事は、私ゃ知らん」
いいかげんだな。
和尚と思っていたが、これはスサノオだったのか。
しかし、なぜ俺が、ここでしか売っていないお守りを持っているんだ。
美咲と葉山の後をつけて江ノ島までやって来て、自分でお守りを買ったのだろうか。
何のために?
気がつくと、カナが土産物コーナーにしゃがみこんで、なにやら物色している。
白玉あんみつの皿は、いつの間にやら空っぽだ。
相変わらず、食うのが早い。
呆れながら席を立って近寄ってみると、カナは安っぽいビニール袋に入ったアマテラス猫とスサノオ猫のお守りセットを手に取って、じっと見つめていた。
「欲しいなら、買ってやるぞ」
「ホントに!?」
カナは俺を見上げて、目をくりくりさせる。
コイツは食い気だけかと思っていたが、やっぱり普通の女の子なんだな。
店の外へ出ると、とたんに真夏の強烈な陽光が降り注ぎ、軽く目眩を覚える。
観光客の姿はさっきより増えて、路上は多くの人でごったがえしていた。
容赦なく耳に飛び込んでくる雑多な話し声と人いきれで、暑苦しさが倍増する。
カナが小さな手で、俺のジャケットの裾を握りしめた。
はぐれたら、おそらく二度と会う事はないだろう。
ただ、こんな真夏に長袖のライダーズジャケットを着た男と制服姿の女子高生の二人連れは、観光地には似合わないようで、通りすがりの人々の奇異な目に晒されている、ような気がする。
「さて、どうするのさ」
周囲の雑音に負けないように、カナが大声を出す。
「そうだな、もう一度美咲のマンションへ戻ってみるか。何か思い出すかもし……」
言い終わらぬうちに、激しく誰かとぶつかってよろけた。
相手は若い女性だ。謝りもせず、そのまま通り過ぎる。
酷いな、こっちは人ごみを避けて歩いてるのに。
……ん?
ぶつかった時に感じた、微かな香水の香り。
この香りは覚えている。なんだか、ふわっとした懐かしい香り。
美咲だ。
今、感じたのは美咲だ。
あわてて後ろを振り返る。
しかしその姿は、既に人海の彼方に消えていた。
「どうした?」
「今、美咲がいた……」
俺は伸び上がって、懸命に美咲の姿を探す。
だが、それらしき人影は見当たらない。
「気のせいじゃないの?」
「いや、あれは確かに美咲だった」
間違いない。美咲の感触が、記憶としてふっと蘇ったのだ。
美咲はやはり、江ノ島に来ていた。
無意識にポケットに手を突っ込むと、スマホがない事に気がついた。
「カナ、スマホがない」
「私、持ってないよ。店出る時にオジサン、ポケットに入れてるの見たし」
すられた?
もしや、今ぶつかってきた美咲に?
「ぶつかったのが本当に美咲さんだとすれば、わざとだね。どこかでオジサンの姿を見掛けて、スマホを取り返す機会を狙ってたのかもしれん」
美咲は俺たちが江ノ島に来た事に気づいた。
おそらく、たまたま姿を見掛けたんだろう。
ストーカーが自分の後をつけて来たと思って、逆に俺たちを見張っていた。
そして、俺たちがさっきまでいた茶店を影から覗き見し、スマホを俺に盗まれた事を知って、取り返した。
「まずいぞカナ。殺し屋はあのスマホの持ち主を狙ってるんだろ」
「そうね。今度こそ、本来のターゲットである美咲さんが殺される」
逡巡してる場合ではない。なんとかしないと。
「おそらく美咲は、すぐに家に帰るはずだ。俺から逃げるために。……カナ、おまえのスマホで、次の小田急ロマンスカーの出発時刻を調べてくれ」
カナはスマホを取り出し、猛烈な勢いでタップする。
「次の片瀬江ノ島発新宿行きは……15時31分だね」
時計を見ると、15時をまわったところだ。
急いで、人ごみを掻き分けながら来た道を戻り始める。
「あと、悪いお知らせがあるよ、オジサン」
歩きながら、カナはスマホの画面を俺に差し出した。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】再再再発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を、なぜ受け取り拒否なさるのですか?
これ以上受け取り拒否を続けられる場合は、弊社としましても断固とした対応を取らざるを得ません。
いいかげんにしてください!
【殺し屋】を再再再発送しましたので、お知らせします。
お届け予定時間:1時間以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:ジェイソン
返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください。
いいですか? 「一切」ですよ!!
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
「カナ、なぜおまえのスマホにこのメールが来てる?」
「さっきスマホを借りたとき、こっそりメールの転送設定をしたの。だってさあ、伝説の殺し屋派遣ネットショップからのメールだよ。友達に自慢できるじゃん」
こいつは……。
「まあいい、許す。ある意味でかした。しかし、ジェイソンって何モノだ」
今までは、名前通りのわかりやすい殺し屋だった。
そのため、ある程度予測する事ができた。
しかし、今度の殺し屋は「ジェイソン」。さっぱり見当がつかない。
殺し屋派遣ネットショップの連中も、このままでは埒があかないと、情報提供の方針を変えたのかもしれない。
スマホをタップして検索していたカナが答える。
「ジェイソン。スプラッタームービー『13日の金曜日』に出て来る殺人鬼。アイスホッケーのマスクを被った巨体の男。不死の怪物」
「なんだと」
「倒しがいがありそうだねえ」
カナがポキポキと指を鳴らす。
冗談じゃない。
今や俺じゃなくて、美咲が狙われている。
そんな化け物に襲われたら、ひとたまりもないだろう。
「ちょっとすみません、通して下さい!!」
俺は大声を張り上げて人を避けながら、先を急いだ。
◇
片瀬江ノ島駅に辿り着いたのは、ロマンスカーの発車時刻ちょうどだった。
発車のベルが鳴り響いている。
俺は迷わず改札ゲートを飛び越えた。
カナも小柄とは思えない驚くべき跳躍力で、軽々とゲートを通過する。
「ちょっと! お客さんっ!」
駅員が叫んでいるが、構わず停車しているロマンスカーに駆け寄った。
が、無情にも目の前でドアが閉まる。
間に合わなかったか……。
俺はホームを走りながら、車窓から車内を覗き込んで美咲を探す。
ロマンスカーは隣駅の藤沢でスイッチバックするため、片瀬江ノ島駅には後ろ向きで停車する。
そのため、縦に並んだクロスシートの乗客はこちら側を向いており、その顔をつぶさに確認することができた。
血相変えて車内を覗き込む俺を、皆怪訝な目で見ている。
電車がゆっくりと動き出した。
そのとき、ふと、見覚えのある顔と目が合った。
美咲。
美咲は固い表情のまま、冷たい目で俺の顔を見つめていた。
そこには、何の感情も読み取れない。
あえて表現するなら、敵意。
俺は思わず、その場に固まってしまった。
そのまま電車は動き出し、遠ざかって行く。
俺は肩で息をしながら両膝に手をついて、去り行く電車を上目で追った。
「オジサン、いい顔してるねえ。まさにそれは、ストーカーの目つきだよ」
追いついたカナが、俺の顔を覗き込んで、心から感心したように頷く。
確かに俺は、獲物を逃したオオカミのような鋭く暗い視線を、遠く去りゆく電車に向けて浴びせ続けていた。
美咲のあの表情。
驚きや、恐れや、怒りですらなく。
もちろん、愛情のかけらもなく。
俺はやはり、美咲に完全に拒絶されたストーカーだったのだ。
走ったせいで体は熱いのに、背中にだけ、ひんやりとした冷たさを感じる。
気がつくと、憤懣(ふんまん)に満ちた駅員たちに取り囲まれていた。
おとなしく連行されて、改札の外へと放り出される。
「カナ……今の電車、何時に新宿駅に着く?」
ちょっと待て、と言いながらスマホを叩くカナ。
「新宿着16時39分だね。どうする気さ?」
美咲が新宿駅に到着するまで……残り65分。
不可能に近いが、やってみるしかない。
「バイクで追いかけるぞ」
「……ほう」
「ここからだと外環道路通って八王子から中央道に乗るのが近いが、この時間は酷く混んでいるだろう。とすれば、遠回りだが横浜横須賀道路から湾岸道路、大井ジャンクションから首都高速C2山手トンネルで都心を突っ切るルートしかない」
「よくわからんが、バイクで電車に追いつく気?」
俺は駅前に停めたハヤブサに跨がり、ヘルメットを手にする。
「距離にしておよそ80キロくらいか。高速に乗れば早いが、乗るまでの渋滞を考えるとギリ間に合うかどうかだ」
おそらくこれから、ハヤブサの性能を最大限まで引き出す事になるだろう。
俺はポケットから千円札を取り出して、カナに差し出す。
「かなり危険だからおまえは乗せられない。これで帰れ」
「イヤだ。殺し屋発送メールが届くスマホは、私が持っているんだよ?」
うっ、そう来たか。
おそるおそる、今度は5千円札を出してみる。
「コレでスマホを借してくれないか?」
「お金には釣られないよ。ここまで来たんだから、最後まで見届けるんだ」
「……」
「ほら、3分経過。あと62分しかないよ!」
「……乗れ」
◇
横浜を過ぎて、湾岸道路に入る。
メーターは300キロを優に振り切っていた。
タコメーターもレッドゾーンから動かない。
道路を走行している全ての車は止まって見えて、まるで次元の異なる世界に迷い込んだようだ。
俺の腰をぎゅっと握りしめたカナの手から、必死さが伝わってくる。
予想通り、江ノ島から最寄りの逗子インターチェンジまでは道路が酷く混んでおり、無駄な時間を食ってしまった。
ロマンスカーが新宿駅に到着するまで、あと20分ほどしかない。
だが、間に合わせる。必ず。
俺は美咲を、何故必死に追っているのだろう。
これこそ、まさにストーカーの行動そのものじゃないか。
勿論、正当な理由はある。
俺が注文したであろう殺し屋から、美咲を守るためだ。
それは、自分が殺人教唆罪に問われたくないから?
いや、違う。
美咲に死んで欲しくない。
俺は美咲を愛しているから。
自分勝手なストーカー愛だ、と言われようが構わない。
警察に捕まろうが、殺し屋に殺られようが、今となってはどうでもいい。
俺は全力で、美咲を守ってみせる。
あっという間に大井ジャンクションを通過し、山手トンネルに入った。
全長18キロメートルの都心の地下を横断するトンネルで、その長さは日本最長だ。
片側2車線の道路だが、地上に乱立する建物の地下基礎部分を避けるため、タイトなカーブが連続している。
走行車両もそこそこ多いため、少しスピードを落とさざるを得なかった。
とは言え、スピードメーターは軽く200キロを指している。
後ろのカナを振り落とさないように細心の注意を払いながら、左右に素早くハヤブサを傾けて次々と車をパスしていく。
ふと気がつくと、横に一台の車が並走していた。
黒塗りのBMW。
ハイスペックな高級車だ。
この速度で並んでいる?
と、BMWはこちらに向きを変え、幅寄せをしてきた。
衝突する、と思った瞬間、また少し離れる。
俺はスピードを上げた。
だが、BMWはぴったりと横につけて追走する。
ドライバーに目をやると、白人だ。
スーツ姿に細いネクタイ。頭は禿げ上がっていて……。
これって、ハリウッドアクション俳優の、ジェイソン・ステイサムか?
あの、高級車を使ったプロの運び屋役の映画で有名な。
俺を見て、口角を歪めクールにニヤリと笑う。
ジェイソンって……おい。
そっくりさんかよ。
ジェイソンは再びハンドルを切って、フェンダーをハヤブサにぶつけてきた。
衝突によってハヤブサは反対側にはじき飛ばされ、トンネルの壁にミラーが接触し、細かい火花が散る。
必死にハンドルをコントロールし、なんとか車体を立て直した。
やつは、本気だ。
俺はギアを一段落とすと、スロットルを全開にした。
ひょいと一瞬ハヤブサのフロントが浮き上がり、爆発的な加速でBMWを引き離す。
だが、コーナーに入るとBMWは瞬く間に追いつき、俺の後ろにぴたりと付ける。
相当、手を入れて改造された車のようだ。
狭いトンネルで逃げ場が無い。
後方から衝撃を感じる。
フロントをハヤブサのリアに、ぶつけてきているのだ。
この速度で転倒したら、俺もカナも命は無いだろう。
このままじゃ、圧倒的に分が悪い。
考えろ、俺。
前方に大型トレーラーが見えてきた。
これは……。
イチかバチか、やってみるしかない。
スピードを一旦100キロまで落とし、後ろのジェイソンを挑発するように蛇行する。
ミラー越しに見える奴の顔に、一瞬当惑の表情が浮かんだ。
今だ!
いきなりフルスロットルで加速し、トレーラーを追い越すと、その前に出る。
不意を突かれ遅れを取ったBMWも、続いてトレーラーを追い越しにかかる。
頼む!
俺は、心の中で必死に神に祈りを捧げながら、思いっきりブレーキを握りしめた。
ちょっとでもタイミングがずれて、このままトレーラーに追突されたら、一巻の終わりだ。
だが祈りが通じたのか、衝突する寸前にトレーラーは急ブレーキをかけ、その反動で車体はつんざくようなスキール音とともに、大きく横へとスライドした。
貨物部分が、横に並んでいたジェイソンのBMWに激突する。
トンネルの壁面とトレーラーに挟まれ、ひしゃげたBMWはまるでダンスをするように上へと跳ね上がり、そして爆発した。
バックミラーに映る派手な爆炎は、すぐに小さく遠ざかっていった。
16時39分。
ロマンスカーの到着時間ちょうどに、新宿駅西口に辿り着いた。
ハヤブサをロータリーに停めてヘルメットを脱いだ瞬間、エンジンから焼けた鉄の匂いが、激しく立ち昇っていることに気づいた。
よく、ここまで持ってくれたよ。
労うように、ハヤブサのタンクをそっと叩く。
カナはシートからずり落ちるよう降りると、そのままぺたんと路上に座り込んだ。
見ると目がぐるぐる回っている。
「おい、大丈夫か?」
「……ダメじゃ。早く行って。まだ間に合う」
「だけど、おまえ……」
「何の為にここまで来たのさ。わたしゃちょっと酔っただけだよ。すぐ追いかけるから先に行け」
「わかった。ここで休んでろ」
後ろ髪を引かれつつも、俺は小田急線の改札へ向けて駆け出した。
巨大な新宿駅は人で溢れ帰っている。
全く、江ノ島もここも、どこへ行っても人だらけだ。
人ごみを掻き分け、ぶつかりながらも、ひたすら全力で走った。
小田急線の改札までは、あと少しだ。ほんの数百メートル。
いや、待て。
ふと心の中の、もうひとりの自分が俺を呼び止める。
美咲に会って、どうしたいんだ?
俺は、ある重大な事実に気がついていた。
ずっと勘違いをしていたのだ。
もっと早く気づいてしかるべきだった。
会って、何を話せばいいと言うのか。
美咲の前に、のこのこ顔を出す資格もない。
俺はストーカーなんだ。
殺し屋に狙われていたのも俺。
ジェイソンが美咲を狙わず、俺のところに姿を現してやっと理解した。
殺し屋は、スマホの持ち主である美咲を狙っていた訳ではなかった。
最初から配達先は、「俺」だったのだ。
ストーカーの俺を抹殺するために、おそらく葉山が殺し屋を注文したに違いない。
足が止まった。
その場に立ちすくむ。
顔から汗が滝のように滴り落ちる。
俺はその場から、動けなくなっていた。
顔を上げて、目を瞑る。
もはや、どうすればいいのか自分でもわからない。
だが。
やはり美咲に会うべきではない。
それは、明確かつ断定的な、自分自身への結論だった。
戻ろう、カナのもとへ。そして、これからのことをゆっくり考えよう。
意を決した瞬間、人の気配を感じた。
はっとして目を開けると、そこには美咲が立っていた。
◇
すぐ目の前に美咲がいる。
何かしらの感情を伴った表情はなく、ただ少し頭を傾げて俺を見つめている。
「美咲……」
と、いきなり美咲は俺に抱きついて来た。
予期せぬ美咲の行動に怯みながらも、ふわっとした懐かしく甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず体が固まってしまう。
柔らかい体の感触。ずっと待ち望んでいた感覚。
俺の耳元で、掠れた声がした。
「会いたかったよ」
俺は、はっとして思わず美咲の体をはねのけた。
「なに? どうしたの?」
「おまえ、美咲じゃないな」
「何言ってるの? 美咲だよ」
「声が違う。いやとても良く似せているが、俺にはわかる。わずかにトーンが違うんだ」
美咲は俺の目を見ながら、寂しそうに微笑んだ。
次の瞬間、何かを隠し持っていた右の後ろ手が、俺に向かって突き出される。
それが腹部に当たった瞬間、切り裂くような激しい痛みを感じて、俺はその場に崩れ落ちた。
彼女の手には、大型のスタンガンが握られていた。
バチバチと不快な音と瞬く光、そして激しい衝撃を継続的に与え続けるそれは、倒れた俺の腹部を容赦なく抉っていく。
手足の自由が利かない。ただ、倒れたままのけぞるだけだ。
心臓が悲鳴を上げているのがわかる。これは違法に電圧を上げて改造した殺人スタンガンに違いない。
「あ、大丈夫です。この人痴漢なんで、少し懲らしめているんです」
にせものの美咲が、足を止めて俺たちの様子を伺う周囲の人々に、少し困ったような作り顔で説明しているのが微かに見える。
俺はこのまま死ぬのか。
遠ざかる意識の片隅で、遠くから様々な記憶の塊が、次々と自分の体内に飛び込んでくるのを感じた。
そうか。
そうだったのか。
俺はやっと理解した。
自分が何者なのかを。
目の前がだんだん暗くなりはじめた。
冷たい永遠の暗黒が、すぐそこまで迫っていた。
もう、何もかもが消え始める……。
薄れゆく視界の片隅で、何かが素早く動くのが見えた。
小柄なそれは、信じられないスピードで、にせものの美咲の首に右腕を叩き込む。
見事なラリアート。
にせものの美咲は、のけぞって地面に激しく頭を叩き付ける。
手から離れた殺人スタンガンが、カラカラと音を立てながら転がっていった。
ゆっくりと、視界が戻って来る。
そう、ハヤブサで転倒したあの時のように。
目の前には心配そうに顔を歪めたカナがいた。
「大丈夫? オジサン」
俺は激しく痛む腹を押さえながら、ゆっくりと起き上がった。
にせものの美咲が、白目を開けて万歳の体勢で路上にのびている。
「ああ、俺は平気だ。もう少しであの世行きだったが。なぜ美咲がニセモノだと気がついた?」
「これ。さっき届いた」
カナはスマホを取り出すと、画面を俺に向けた。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】再再再再発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を、再再再再発送しましたので、お知らせします。
弊社が自信を持ってお送りする、あなたにとっての最終兵器となります。
もっとも、このメールを見ずして、あなたは死ぬ事になるでしょうが。
お届け予定時間:10分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:ミサキ
返品、交換、および受け取り拒否は一切受け付けられませんのでご了承ください。
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
「殺し屋のターゲットは美咲さんじゃない。これまでの殺し屋発送メールは美咲さん宛てじゃなかったんだ」
「ああ、最初っから俺宛てだったんだな」
「知ってたの?」
「ああ、わかっていたさ。俺がなかなか殺されないものだから、にせものの美咲を使ってスマホを奪い取った。殺し屋の情報を与えないためにな。だが、ジェイソンも失敗に終わったもんだから、にせものの美咲を改めて殺し屋として派遣したんだろう。最終兵器としてだ。さすがに俺も、うっかり気を抜いてしまった」
「ほうほう。奴らもいろいろ策を練っていたわけだね」
「それに、今の電気ショックで色々思い出した。まだぼんやりしているところもあるが、大方理解した。俺はストーカーなんかじゃない」
「えっ? どういうことさ?」
「……なぜなら、俺が葉山浩介だからだ」
◇
傾いた陽の光に、黄金色に眩しく照らされた青梅街道を、三鷹に向けてバイクをゆっくり走らせる。
壊れかけたラジエーターから立ち上る白煙が、辺りを蜃気楼のようにゆらゆらと揺らす。
まるで、長かった灼熱の「今日」というろくでもない日の残影のように。
やがて、18時。
殺人スタンガンの影響で、しばらくその場から動く事ができなかった。
痛みを堪えながらジャケットを脱いでみると、腹部に酷い火傷ができていたのだ。
カナにコンビニで氷を買って来てもらい、ひたすら冷やして、なんとかハヤブサに跨げるくらいまでには復活した。
歩くのはしんどいが、バイクに乗ってしまえば運転はできる。
バイク乗りは、どんなに弱っていてもシートに座ればしゃんとするものだ。
ハヤブサも俺も、既にポンコツ。
だが、まだやるべき事は残されている。
行方不明の美咲を探し出すこと。
そして、俺の名を語っていた、あいつとの対決。
カナが後ろから、ヘルメットをゴツンとぶつけて来る。
「なんだ」
「ハラが減って死にそうだ」
「もうすぐ着く。おまえも家に帰してやるからそれまで我慢しろ」
「今、何か食わせろ。すぐにだ。この誘拐犯め」
「誘拐って。おまえが勝手に付いて来たんだろうが」
誘拐犯か。
客観的に見て、俺はいったい今日一日で、いくつの犯罪を犯したんだろう。
・窃盗 ←美咲のスマホ
・暴行 ←ゆるキャラ
・未成年者略取 ←カナ連れ去り
・道路交通法違反 ←200キロ超オーバー
・殺人? ←ジェイソンを車ごと爆破。生死は不明だが
罪状のオンパレード。まさに極悪人だ。
思わず、声を上げて笑ってしまう。
「何、笑ってるのさ。気持ち悪い」
「いや、俺って我ながらすげえなと思ったんだ」
「うん、オジサンはすごいよ」
何もわかってないな、コイツは。
「なにせ、凄腕の殺し屋たちを倒してきたんだから」
「それは、カナに助けられたからだ」
「そうね。少しは助けた」
「いや、おまえがいなかったら、とうに死んでたよ」
「感謝するが良い。カナ様に」
「ああ、そうだな」
「そして全てが終わったら、私にパフェを奢るのじゃ」
「ああ、10杯でも100杯でも奢ってやる」
「ホントに!?」
……コイツに冗談は通じなかったんだ。
◇
俺はハヤブサを止めてヘルメットのバイザーを開けると、夕焼けに赤く染まるマンションを見上げた。
やはり、ここが俺の家だ。
なぜ、あいつが俺と美咲の部屋に現れたのかはわからないが、全てのカギはあいつが握っている。
おそらく美咲の居場所も知っているハズだ。
初めて対面した時の、あいつの第一声。
『あんたは、いったい何故……!?』
この時に、気づくべきだった。
自分の家に、知らない人間がいたらこんな話し方はしない。
『あんたは誰だ!』
こう、言うだろう。
『いったい、何故』。
そう、俺を知っていたからこそ、『何故』ここにいるんだ、という反応をしたのだ。
ヘルメットを脱いでタンクの上に置くと、ジャケットのポケットから、にせものの美咲から奪い返した本物の美咲のスマホ(ああ、ややこしい)を取り出す。
着信履歴からあいつの電話番号を選ぶと、通話ボタンを押した。
だが、いくら待ってもあいつは電話に出ない。
「カナ、おまえは帰れ」
「ヤダ。ここまで付き合ったんだから、最後まで見届ける」
「ダメだ。これはあいつと俺の問題だ」
「でも……」
「ダメ」
きっぱりと言うと、カナはしばらくもぞもぞしていたが、やがてストンとシートから飛び降りた。
少し寂しげな目で俺を見る。
「……ありがとな、ここまで付き合ってくれて」
「オジサンも、がんばれ。達者でな」
ぼそっと言い残すとカナは、名残惜しそうに何度も振り返りながら、やがて住宅街の中へと姿を消していった。
なんだか、急に寂しさが込み上がる。
もう、二度と会う事はないであろう不思議な女子高生。
捉えどころがなかったが、奇妙な魅力に満ち溢れていた。
ありがとう、カナ、本当に。
もう一度心の中で呟いて、俺は痛む腹部を押さえながら、ゆっくりとマンションへと足を向けた。
◇
がこん、と音がしてエレベーターが4階で止まる。
ドアが開くと同時に、一日の最後を締めくくるがごとく、ありったけの力を絞り絞って鳴く蝉の声が耳に飛び込んで来た。
ゆっくりと外廊下へ出て、一番奥の部屋の前に立て掛けられた、SPECIALIZEDの自転車を見やる。
あれは、確かに俺の自転車だ。
そして、あの部屋は俺と美咲のものだ。
俺は、まるで誰も住んでいないかのような静けさに包まれた廊下を歩いて、「自分の部屋」の前に立った。
あいつは、まだ中にいるのだろうか。
それならそれで、対決だ。
一度大きく深呼吸をすると、わざと音を立ててドアノブを回し、中へと入る。
陽が落ちていくと共にゆっくりと這い上がる薄闇が、部屋の中を包み始めていた。
人の気配は感じられない。
俺は美咲のスマホを手にして、再び、あいつの携帯にかけた。
発信音はするが、部屋のどこからも着信音は聞こえてこない。
ここにはいないのか。
ダイニングは、朝ここへ来た時のままだった。
ただ、フライパンの中にあったスクランブルエッグは、綺麗に無くなっている。
美咲の部屋に入ると、横引き窓から差し込む西日が、静かに家具を照らしていた。
美咲、いったいどこへ行ったんだ。
俺は床に敷かれたラグの上に、倒れ込むように寝ころんだ。
腹の痛みのせいもあるが、全身の力が抜けたようだった。
手枕をして、ぼんやりと天井を見つめる。
どうして良いのかわからなかった。
時が止まったままのこの部屋で、だたひたすら、美咲が帰って来るのを待つしかないのか。
今や、それは奇跡と呼ぶに等しかった。
ふと、たくさんの服が掛けられたハンガーラックを見やる。
シンプルだが、色彩豊かな美咲好みの服が並んでいる。
手前にあるカーキ色のチュニック。
あれは美咲にせがまれて、俺が買ってやったやつだ。
彼女のお気に入りで、休日二人で出掛ける時は、いつも着ていたな。
ぼんやり服を眺めていると、襟元から何かが垂れ下がっているのに気がついた。
ん? なんだ?
目を凝らすと、それが値札のタグであることに気がついた。
あいつ、タグ外すの忘れたまま着てたのか?
可笑しくなって笑いかけた瞬間、突如ある事に気付き、背筋に寒気を覚えた。
服を買ってやったのは去年だ。
タグを付けたままなんて、ありえない。
俺は飛び起きると、ハンガーラックの服を片っ端から調べた。
全ての服に、値札タグが付いている。
……どういうことだ。
改めて、部屋の中を見渡す。
確かに、美咲の持ち物が並んではいるが、猛烈な違和感を感じる。
生活感が無い……。
全てのモノに、使われた形跡が見当たらないのだ。
まさか俺は、大きな勘違いをしていた?
急いで引き窓を開けて、ベランダから外を見下ろす。
マンションの裏には小さな公園があって、いくつかの遊具が置かれている。
タコの形をした滑り台の奥側には、ブランコが見えて……。
なんてことだ。
全てを理解した俺は、激しい恐怖感に襲われて、美咲の部屋の中へと後ずさりした。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
呼吸がうまくできない。
「……全く、しぶとい奴だな」
突然発せられたしわがれ声に、はっとして振り返ると、そこには包丁を手にしたあいつが無表情に立ちつくしていた。
◇
俺はあいつを、正面から睨みつける。
「いったい、ここは何なんだ!」
「何って、美咲ちゃんと俺の部屋だよ。あんたの部屋に何度も忍び込んで、全てを念入りに調べ上げて忠実に再現したんだ。美咲ちゃんをここへ連れて来ても、違和感無く生活を続ける事ができるようにね」
「ストーカーは、おまえだったんだな」
「ストーカーという言葉は正しくない」
あいつは顔を歪めると、違うというように包丁を左右に振った。
「あんたは美咲ちゃんにふさわしくないのさ。俺こそが美咲ちゃんの『正しい葉山浩介』になるべき男なんだ。だから、顔も整形している。あとは目を直すだけだ」
まず、その陰湿な目から直せよ。
「あんたはいずれ、殺し屋の手でこの世から消える。そうすれば俺はあんたと入れ替わり、ここで美咲ちゃんと一緒になることができる。もともと、そうするべきだったんだよ」
「狂っている。おまえはいかれたストーカーだ」
「だから、その言い方をやめろ!」
あいつは大声で叫ぶと、包丁を振りかざした。
俺は構わず声を張り上げる。
「俺が記憶を失ったと聞いて、とっさに俺をストーカーにでっち上げた。美咲から引き離すためにな。そして、殺し屋派遣ネットショップを使って、密かに俺を抹殺しようとした」
包丁を振り上げたまま目をきょろきょろと激しく動かしている、あいつ。
「だが誤算だったのは、俺が、狙われているのは美咲だと思い込んだことだ。一日じゅう殺し屋を躱しながら、美咲を助ける為に探し続けた。そして、やっとわかったんだよ。おまえの奸知がな」
「高い金を払ったのに、全く使えないネットショップだ。だがもういい、俺があんたを処分してやるさ」
あいつは長い舌を出して包丁をぺろりと舐めると、狂気に満ちた目でそれをゆっくり俺に向ける。
ぴろろん。
手に持っていた美咲のスマホが鳴る。
意識をあいつに集中させつつ、ちらりと画面に目をやった。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】最終発送のお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】を発送しましたので、お知らせします。
これが最終発送のご案内となります。
お届け予定時間:1分以内
お届け先:あなた
お届けする【殺し屋】:女子高生
受け取り拒否は不可能です。
ご不明な点につきましては、【ストーカー】様にお問い合わせください。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
「ぐっ!?」
あいつに目を向けると、背後から何者かの腕が首に絡まり、のけぞっていた。
いや、それが何者なのかは、すぐに理解した。
「カナ、何でおまえが……」
カナは腕に力を込め、ギリギリと音を立ててあいつの首を締め上げる。
あいつは舌をだらんと出しながら、床に倒れ込んだ。
手からぽとりと包丁が落ちる。
だがカナは力を緩めない。
「葉山浩介を殺すよう、『指示』を受けた。あなたが『葉山浩介』なのよね。自分でそう言っていた。そうでしょ?」
あいつは白目を剥きながら、ただ言葉にならない声を発するだけだ。
「カナ! やめろ!」
「邪魔しないで、オジサン。これは私の『仕事』なの」
カナは今まで見た事も無いような厳しい目で、俺を睨みつける。
そんな。カナが。どうして。
「全てわかってて今日、俺にくっついてたのか? 俺を殺すために」
「違う! 『指示』が来ない事をずっと願ってた。オジサンに出会ったのは偶然。こんなことになるとは知らなかったよ。わたしはただ、オジサンを助けたかっただけ!」
今思うと、カナは誰も知らないはずの殺し屋派遣ネットショップについて、注文キャンセルの方法や再配達のシステムなど色々詳しく、妙だとは感じていた。
まさか、殺し屋の一味だったなんて。
しかし、他の殺し屋たちから俺を守ってくれたのも事実だ。
なぜなんだ。
頭が混乱して、うまく考えが纏まらない。
だが今は……兎に角こんなことをカナにさせるわけにはいかない。
「頼むからやめてくれ、カナ! そんなおまえを見たくない!」
「無理。『指示』は絶対なの」
「……そうだ。注文をキャンセルすればいい。おいおまえ、今すぐキャンセルしろ!」
意識が殆どなくなったあいつに、必死に呼びかけるが返事は無い。
俺は祈る気持ちで、あいつの首を絞め続けるカナの肩にそっと手を置く。
「カナ。俺はおまえが好きだ。だから、もうやめようこんなこと。な。全て忘れて、これから例の喫茶店へ行って一緒にパフェを食いまくろう。ありったけ全部のパフェを、食い尽くそうぜ」
だが、カナは表情ひとつ変えずに俺を睨んだまま、金切り声を上げた。
「出て行って! 今すぐに! オジサンに見せたくないの!」
これは、俺が知っているカナじゃない。
カナにはカナの裏の事情があるのだろう。それは、深い闇に包まれた不条理な何か。
俺が入り込めない世界。
どうすることもできないのか……。
俺は最後に、カナの目をじっと見つめた。
無垢で澄んだ、大きな目。
その奥にあるのは、悲しみか、怒りか。
今や、カナは俺を完全に拒絶していた。
……わかったよ、カナ。
俺は立ち上がると、まっすぐ早足で部屋を出た。
振り返ること無く。
外は既に陽が沈み、残りかすのような淡い夕焼けに包まれていた。
強い風がびゅっと廊下を吹き抜けて行く。
ここは、4階。
あのとき、エレベーターで4階のボタンを押したのがそもそもの間違いだった。
部屋のベランダから、裏の公園を見て確信した。
俺の部屋からは、タコの形をした滑り台の裏側に、ブランコ全体が見える。
だが、この部屋からはブランコの上の支柱しか見えなかった。
つまり、階が違ったんだ。
俺はエレベーターに乗って、5階のボタンを押す。
がこんとエレベーターが止まり、出て廊下の奥を見ると、そこには同じように自転車が立て掛けられていた。
黒いSPECIALIZEDの自転車。
疲れた。本当に。
ドアノブを回して家に入る。
懐かしい匂いがする。そう、この匂いを忘れていた。
ダイニングテーブルの上には、俺の財布とスマホが置いてある。
こいつを持って行くのを忘れたせいで。
ため息をつきながら、美咲の部屋のドアを開けた。
ラグの上で、美咲が体を丸めて寝り込んでいる。
ごく自然にリラックスした様子で。
「美咲……」
美咲は、うーんと言いながら体を動かし、薄目を開ける。
「もしかして、今日ずっとここにいたのか?」
「どこまで行ってたの? 待ちくたびれて寝ちゃったよ」
屈託の無い顔で微笑む。形の良いえくぼが浮かんでいる。
ずっと会いたかった美咲が、そこにいた。
「ねえ、変なの。コースケのために作ったはずのスクランブルエッグが、なくなったの」
あいつは、朝俺が出かけた後、ここへ忍び込んで、スクランブルエッグと美咲のスマホを盗んだ。
それは言わない方がいいだろう。
「……寝ぼけて自分で食べたんじゃないか?」
この階下では今頃……。
意識を向けると、心が重く沈んでいく。
ぴろろん。
ポケットのスマホが鳴った。
「それ、私のスマホの着信音じゃない?」
「いや、違うよ」
とぼけてそう答えて。
俺はダイニングに戻ると、スマホを取り出し、メールボタンをタップした。
----------------------------------------------------------
件名:【殺し屋】発送キャンセルのお知らせ
本文:
毎度ありがとうございます、【殺し屋】派遣ネットショップです。
【ストーカー】様よりご注文頂きました【殺し屋】ですが、【殺し屋】の判断によりキャンセルされた事をお知らせします。
またのご利用をお待ちしております。
※このメールアドレスは配信専用です。このメッセージに返信されても回答しかねます。
----------------------------------------------------------
カナ、あいつ……。
気づくと、いつの間にか目から涙がこぼれ落ちていた。
ほっとしたのか、嬉しいのか。
泣くなんて、いつ以来だろう。
酷くろくでもない一日が、やっと終わったのだ。
そして俺は、これまでのメールを全て消去した。
最後に、江ノ島の展望台をバックに写っている、あいつの薄気味悪い写真を開く。
美咲は、あいつにストーカーされていることを黙っていた。
俺に心配をかけないように。
江ノ島までつけて来たあいつを、とっさに撮影したのだろう。証拠を残す為に。
だから、こんなにブレて傾いて写っている。
俺は消去ボタンを押すと、あいつに別れを告げた。
もう、来ないだろう。
もし再び姿を見せたら、今度こそ俺の手で抹殺してやる。
ジャケットを脱ごうとして、ふとポケットを探ると例のスサノオ猫のお守りが出て来た。
しかも何故か、2個。
1個増えている。
カナめ。
思わず、熱いものが込み上げて来て、胸がいっぱいになる。
俺は、まだ部屋でまどろんでいる美咲に向かって声を掛けた。
「なあ」
「ん?」
「……猫、飼おうか」
それは、数年前のこと……。
◇
カメラのファインダー越しにマニュアルフォーカスで、彼女が着ているブラウスにピントを合わせる。
緊張しているのか、体が小刻みに震えているのがわかる。
シャッターを切った瞬間、スタジオ内のモノブロックストロボが一斉に点灯した。
うーん、体のラインが固いな。
「はい、ポーズ変えて」
声を掛けると、小声ではい、と答えながらぎこちなく少しだけ体を捻る彼女。
「あ、ちょっと待ってください」
アシスタントが近寄って、ブラウスの裾のしわを整え始める。
まいったな。
この子はおそらく、モデルは今日が初めてなんだろう。
後からクライアントに、ダメ出しされなきゃいいが。
スタイルは勿論いい。背が高くて手足も長い。
だが、そんなのはこの業界では当たり前だ。
カメラマンの俺にとっては、いくら美人だろうがスタイルが良かろうが、撮られるのに慣れている子の方が有り難い。
なにせ、1日あたりのアパレル撮影商品数のノルマは決まっているのだ。
グズグズされると、その分無給の残業時間が増える。
おそらく大学生のバイトだろうが、軽い気持ちで応募されてもなあ。
ここは、埼玉のはずれにあるアパレルメーカーの倉庫。
その片隅に併設されたスタジオで、俺はネットショップに掲載するアパレル商品の撮影業務を請け負っていた。
所謂、雇われカメラマンってやつだ。
日給は2万円ほど。
だけど毎日撮影があるわけじゃないから、月給にすると悲惨なものだ。
実績のない、駆け出しのカメラマンは辛い。
モデルは大抵が学生バイト。
いろんな服を着れて、給料もそこそこいいから人気らしい。
憧れの職業を疑似体験できるというのも、魅力なんだろう。
しかし、画像をネットに掲載する際には、顎より上は切られてしまう。
あくまで商品としての服がメインであるのと、顔が写っていると、ネットユーザーに余計なイメージを与えてしまうからだそうだ。
これを業界用語で「顔切りモデル」という。
なんだかホラーな名前だが。
つまりスタイルさえ良ければ、顔はちょっとばかしアレでも、「顔切りモデル」に採用される可能性は高いのだ。
彼女が改めてポーズを取り直したところで、ふたたびシャッターを切る。
アシスタントが次に撮影する別のブラウスを持って、彼女のそばに寄り、服を脱ぐのを待つ。
彼女はあせりながらボタンを外し、ブラウスを脱いでいく。
と言っても、裸になるわけじゃない。
下には、大抵の服には合わせやすい、白いチューブトップを着ている。
着替えている間、俺は何気なくファインダーを覗きながらレンズを上に持ち上げた。
彼女の顔にピントを合わす。
焦点が定まった瞬間、全身に鳥肌が立った。
緊張した面持ちで、俯いてブラウスのボタンを留めている彼女。
その顔に、なぜか突然ときめいて……。
ふと、彼女が顔を上げ、ファインダー越しに目が合った。
俺は、あわててファインダーから目を外す。
まるで覗き見していたのを気づかれたようで、バツが悪い。
いやいや、俺、カメラマンだし。
だが、俺は彼女のさりげない目力に、すっかりやられてしまっていた。
その日の撮影が終わって、帰り支度をしている彼女に、俺は思い切って声を掛けた。
「西内さん……だよね。あ、あのさ、良かったら今度、ポートレートモデルやってくれないかな?」
格安ショップで作った、薄っぺらい名刺を差し出す。
『カメラマン 葉山浩介 電話:080-○○○○-○○○○』
それしか書いてない。
実績のないカメラマンなので、それ以上、書きようがないのだ。
彼女は、白く小さい手で、少し戸惑ったようにそれを受け取る。
なんだろう、どきどきするぞ。
初恋の人に告白する高校生の気分だ。
「……バイト代は、あまり出せないんだけど」
「いいですよ。私、美咲って言います。西内美咲」
彼女は顔を上げて相好を崩し、柔らかい眼差しで俺を見つめた。
これが美咲との、はじめての出会いだった。
◇
そして、話は今に戻る……。
日曜の朝。
少し肌寒さを感じながらも、雲ひとつない抜けるような10月の青空に感謝して。
ヘルメットを掴んで、心弾ませながらマンションのバイク駐車場へ行くと。
「……また、おまえか」
カナがハヤブサのリアシートにちょこんと乗っかって、足をぶらぶらさせていた。
ボブカットの茶髪は、そのままで。
相変わらずの制服姿だが、季節がら紺のカーディガンを羽織っている。
「よ、久しぶり!」
「先週もここにいただろうが。無理矢理俺を喫茶店に拉致して、パフェ5杯奢らせただろうが!」
「その時は世話になった」
「頼むから俺をツーリングに行かせてくれ。これが楽しみで仕事してるようなモンなんだから」
「また転んで記憶を失わないように、妨害してあげてる優しさが理解できないかなあ」
「そんな優しさはいらん。とにかくそこをどけ」
カナの腕を掴んで引きずり降ろそうとすると、やつはシャーっと奇声を上げて手を振りほどく。
「おまえは猫か。もう猫は勘弁してくれ。美咲が先週また野良猫を拾って来た。これで3匹目だ」
おかげで猫アレルギーの俺は、鼻炎薬が手放せない。
急にカナが真顔になる。
「今日は他でもない。オジサンに折り入って相談があって来たのだ」
「なんだ、相談て」
ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、カナと同じ制服を着た女の子が立っていた。
小柄で、身長はカナと同じくらいか。黒髪で眼鏡を掛けており、地味で真面目そうな子だ。
というか、ちょっとオタクっぽい感じがする。
目の上まで降ろした髪のせいか、表情が良く見えない。
俯き加減で、なんだか暗いオーラを放っている。ふてぶてしいカナとは真逆の雰囲気だ。
「だれ?」
「あずさ。私の友達じゃ」
カナはぴょんとハヤブサから飛び降りると、あずさと呼んだ女の子の横に並ぶ。
不良娘とオタク娘。
なんだかアンバランスだ。
「この子がどうした」
「ストーカーの悩みを抱えて困っている。助けてくれ」
口にはできないが、とてもストーカーに付け回されるようなタイプとは思えない。
「……信じてないね?」
「てか、本当にそうなら先生に言えよ。俺は役には立てん」
「元ストーカーとしての助言をくれ」
「俺はストーカーじゃなかっただろうが!」
「ほうほう」
カナはにやりと顔を歪めた。
「本当に、そう言い切れるのかね、オジサン」
こいつめ。
やはり先週、美咲との馴れ初めを話したのは失敗だった。
「……あの話は、忘れろ」
「忘れるには、賄賂が必要じゃないかなあ?」
そして、結局いつもの渋い喫茶店。
相変わらず店の奥には「かあっ」爺さんがいて、新聞紙を手に広げたまま仮死状態を続けている。
席につくなり、カナは当たり前のようにパフェを3つ注文した。
「あずさは?」
オタク少女は俯き加減でカナの耳元で何事かささやき、カナが頷く。
「マスター、レモンティーもね」
未だ、この子の声を聞いた事が無い。
「で、なんなんだ」
何が悲しくて、秋晴れの日曜の朝から、女子高生の悩み相談をしているのか。
「あずさが男につきまとわれている」
「いいじゃないか。そのまま付き合ってしまえ。青春を謳歌しろよ」
カナが冷たい目で俺を睨む。
「適当なこと言わないで。あずさ、本気で悩んでるんだから」
カーディガンのポケットからスマホを取り出すと、1枚の写真を開き、机の上に置いた。
教室で撮ったスナップだろうか。
数人の男子高校生が、机に腰掛けたり伸び上がったりしながら、この年頃特有のバカ面下げて写っている。
「この中に犯人がいる」
「俺に探せと」
「いや、犯人はわかっている」
なんだよ。じゃあ、直接そいつに言えよ。
写真の右側に、半分見切れている、いかにも影の薄い男子がいた。
背が低く丸顔で顔のパーツが小さい、黒ぶちの大きな眼鏡を掛けた少年。
見るからに、ザ・オタク。
俺はそいつを指差す。
「こいつだろ。間違いない」
「違う。トシオじゃない。確かにトシオはそれっぽい雰囲気だけど」
カナは写真の中央に写っている、手をポケットに突っ込んで机に腰掛けた長身の男の子を指差した。
髪はウェーブがかったミドルで、きりっとした目。シャープな顔の輪郭に整ったパーツ、誰が見ても超イケメンだ。
クールなイメージだが、少し吊り上げた片側の口元に、少年のようなやんちゃさも持ち合わせている。
「ユータ。こいつが、あずさのストーカー」
いやいやいや。
それは、勘違いってやつじゃないのか。
「テニス部の主将で、成績もトップクラス。明るくて優しくてクラスの人気者」
やれやれ。
「そんなパーフェクト男が、裏ではこの子をストーカーしてると」
ちっちゃい小動物二匹が、同時に深く頷く。
「ほうほう。ちなみに、このユータって奴は見るからにモテそうだが?」
「うん。それはもう、凄まじいモテっぷり。付き合った彼女は数知れず。でも、なぜか長続きはしないみたい」
「そんな奴が、なぜこの子をストーキングする必要がある?」
二匹は同時に顔を見合わせる。
「モテて彼女に困らない男が、そんなことするわけないだろ。そもそも、あずさちゃんとやらは、ユータと付き合った事があるのか?」
あずさは俯いたまま、ぽっと顔を赤くする。
えっ、あるのかよ。
「……ないです」
初めて彼女の口から出た言葉に、思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「でも、彼に突然……告白されたんです。2週間前に」
えっ?
口数少ないあずさを見て、カナがもどかしそうにフォローを始めた。
あずさはその日、下校時間まで図書室で本を読んでいて、鞄を取りに誰もいない教室に戻り、帰り支度をしていた。
そこへいきなりユータが現れ、真面目な表情で、付き合ってくれと告白したそうだ。
「……あまりに突然だったんで、あずさ、頭の中が真っ白になっちゃって、何も言わずに教室から逃げ出してしまったの」
「それは夢だったんじゃないのか」
「夢ではない。現実なのだ」
こんな見るからに地味人生一直線な子に、モテ男が突然告白するなんてことがあるのだろうか。
「それから始まったの、ユータのストーキング。何度も無言電話を掛けてきたり、夜中、家の前でずっと2階のあずさの部屋を見上げていたり」
「本当か?」
あずさは自分のカバンからスマホを取り出すと、電話の着信履歴を俺に見せた。
確かに、ユータの名前が並んでいる。時間は夜の22時以降、深夜に及んでいた。
ん、なんか妙だな。
理由はわからんが、どこか引っかかる。
「普段、学校で会ってる時はどうなんだ。妙なそぶりはあるのか?」
「それがね」
急にカナは声を潜める。
「ユータ、あずさにフラれてから、学校に来なくなっちゃったの」
ぷるるるるる。
あずさが手にしていたスマホが、ふいに鳴り出した。
びくっとして、恐る恐る画面を見るあずさ。
「ユータか?」
「違う。トシオ」
あずさはそう答えると、俯いてスマホを耳に当て、小声で話し始める。
なんだ、トシオと仲いいんじゃないか。オタクどうし。
「心配してるんだよ、トシオ。ユータのストーキングが始まってから、よくあずさに電話かけてくる」
ふーん。
「というわけでオジサン。今晩、付き合え」
「なにをだ」
「あずさの家の前に張り込んで、ユータをとっ捕まえるのだ」
ちょっと待て、と言おうとした、その時。
からんころん。
喫茶店のドアが開いて、現れたのはあの、日傘おばさん。
「まあまあ、やっと涼しくなったわねえ」
凶器である白い日傘を手に持ちながら、さり気なく店内を見渡す。
俺は緊張して、日傘おばさんの手の動きを注視する。
あれから「殺し屋発送メール」は、来てないはずだが。
おばさんは、ゆっくりと俺たちのテーブルの脇を通り過ぎていく……。
と、その瞬間。おばさんの手元が素早く動き、日傘の先端がカナの胸元に向かって突き出された。
だがカナは攻撃を予期していたかのごとく、余裕で日傘を片手で掴むと、そのまま上に捻り上げる。
おばさんが握りしめた日傘の柄が跳ね上がって自らの顎を直撃し、アッパーカットを食らったボクサーの如く体をのけぞらせると、椅子をなぎ倒しながらその場に崩れ落ちた。
白目を剥いて、床にのびている日傘おばさん。
一瞬の攻防を、口を開けたまま唖然と眺める俺。
カナは日傘を放り投げると、平然とした顔で両手を払う。
「『仕事』を抜けるのも、いろいろ大変なのさ」
「どういうことだ?」
「殺し屋を勝手に辞めたせいで、同業の殺し屋たちに命を狙われてるのだ」
奥の席で、爺さんが不快そうに「かあっ」を連発している。
「さて、オジサン。か弱き女子高生を、ひとりで夜中に張り込みさせるってことはないよね?」
か弱きって。
ふとあずさを見やると、何事もなかったように電話を続けていた。
これが今時の高校生の日常かよ。
◇
夜の住宅地。
道路沿いには戸建てが立ち並び、窓から家庭の明かりがぽつぽつと放たれている。
俺も美咲がいる暖かな部屋に帰りたい。
10月ともなると、夜はさすがに冷える。
薄手のシャツ姿で来てしまった事を後悔した。
あずさの家から2軒離れた路地角から、俺とカナは辺りを窺っていた。
ユータらしき男は、毎晩きっかり20時に現れるらしいが。
それが本当だとすると、ストーカーにしては、なんだか几帳面すぎて妙な気もする。
「20時まであと3分だ」
カナが塀の影から首を伸ばして、あずさの家を見上げる。
2階のあずさの部屋からは、閉め切られたカーテンを通して蛍光灯の淡い光が漏れている。
何をやってるのだ、俺は。
夜中に女子高生の部屋を覗いている。
まるで俺たちの方が、ストーカーか変質者だ。
ふと我に返り、むなしい気分に襲われた。
「……なあ、カナ」
「なんじゃ?」
「日を改めて直接ユータの家に行って、本人を問いつめた方がいいんじゃないか。夜中に張り込みとか、俺たち探偵じゃないんだから。だいたい……」
「ちょっと待って!」
カナが興奮したように、小声で俺を制する。
路地の向こう側の暗闇から、ふいに男が姿を現した。
黒色っぽいパーカーのフードですっぽり頭を覆い、ポケットに手を入れ俯き加減で、ゆっくりとこちらに歩いて来る。
「あいつがユータか?」
「わからん。体型はそれっぽいけど」
男はあずさの家の正面まで来ると、道路の反対側にある街灯の下に立って2階を見上げた。
だが、フードが街灯の光を遮り、顔は見えない。
俺は肩に掛けたメッセンジャーバッグから、商売道具である一眼カメラを取り出した。
ファインダーを覗き、レンズを望遠側にズームさせる。
ダメだ。
アップにしても、暗すぎて顔の表情は捉えきれない。
シャッタースピードを3秒に設定して、手ぶれを抑えるために塀の壁に腕を押し当てながらカメラを構え、慎重にシャッターを押す。
長時間露光だ。
シャッターを長く開ける事により、暗い部分を明るく撮影する。
撮った画像を、カメラの液晶画面でカナに見せた。
「ブレてて全然わからん。オジサンほんとにプロのカメラマンか」
あきれた表情でカナが肩をすくめる。
「どんなプロでも手持ちじゃこれが精一杯だ。それにここからじゃわからないが、あいつは落ち着かなく顔を動かしている。だからブレて見えるんだ」
落ち着かないというか、何故かオドオドしてるような気もする。
「もういい、こうなったら出たとこ勝負だ」
カナはひとつ大きく息を吐くと、男に向かって真っすぐ歩み寄っていった。
「ユータ! あんたユータなんでしょ!」
静かな住宅街を、カナの声が切り裂く。
男はびくっとしてカナを見るや否や、反対側に向かって駆け出した。
カナも後を追って走り出す。
やれやれ。
俺はカメラを小脇に抱えたまま、カナに続いた。
男は足音を大きく響かせながら、全速力で逃げて行く。
その先は、車通りの多い片側2車線の大通りだ。
カナは必死に追いかけるが、男の足も早くその差はなかなか縮まらない。
やがて男は大通りに達すると、角を左に曲がって姿を消した。
先を行くカナもその後に続く。
息を切らしながら遅れて漸く角を曲がると、カナがひとりで呆然と立ちつくしていた。
真っすぐ続く歩道には、人の気配がない。
「いきなり消えたよ。あいつ」