……俺は目を覚ました。

ヘルメットのバイザー越しに、目の前に広がるアスファルト。
その先には、横倒しになったバイク。

道路の真ん中で寝転がっていた。

路面に接地した右半身が、焼け付くように熱い。
灼熱の太陽がアスファルトを溶かし、自分もその中にずぶずぶと沈んで行くようだ。

半身を起こして辺りを見渡す。

森の中のワインディングロード(うね道)で、車が通る気配はない。
抜けるような青空から差し込む、真夏の陽の光が眩しい。
静けさの中に、なんとも爽やかな鳥のさえずり声が聞こえる。

そうだ、急コーナーをバイクで攻めている時に、目の前をイタチだかタヌキだかの小動物が飛び出した。
避けきれずに、俺は派手に転倒して意識が飛んだのだ。

ライダーズジャケットの右腕に、アスファルトを滑った跡が生々しく残っていた。
ゆっくりと、体を動かしてみる。
幸い、プロテクターのおかげで、右肩が少し痛む以外は無事……。

痛ッ!

立ち上がろうとして、急に猛烈な頭痛に襲われた。
割れるような痛みだ。
目に見える風景が、ぐにゃりと曲がる。

俺は座りこんだまま、ヘルメットを脱いだ。
大きく息をして、新鮮な空気を体内へと取り込む。

頭痛は徐々に治まっていったが、頭の中はぼんやりと霞がかかっている。
ヘルメットの右側頭部に、大きな擦り傷がついていた。
転んだ際に、頭も酷くぶつけたらしい。

頭を振りながら立ち上がり、横倒しになったバイクへと向かう。
ブルーとシルバー、ツートンカラーのビックバイク。

スズキGSX1300R。通称、ハヤブサ。

幸いオイル漏れはないようだ。
腰を屈め、全身の力を腕に集中させてバイクを起こす。
なにせ250kgもあるので、起こすのに汗だくとなる。

スタンドを立てて、ふうっと息を吐いた。
ハヤブサはカウルに派手な傷が付いた以外は、見たところ問題はない。
セルを回すと、図太い排気音が森の中に響き渡った。

腕時計を見ると、ちょうど9時。
相変わらず、ぼんやりした頭で記憶をたぐり寄せる。

ここは、どこだ?

奥秩父にある、山沿いの林道のはず。
そう、俺はいつも日曜の朝にここへ走りにやって来る。
気晴らしのツーリングってやつだ。

やれやれ。

取り敢えず、家へ帰ろう。
頭も痛むし、病院へ行った方が良いかもしれない。

あれ?

そこで、俺は固まってしまった。

帰るって、どこへ?

何故か自分の家が思い出せない。

待てよ。

俺は、誰だ?

自分の名前が出て来ない。

バイクのバックミラーを覗き込む。
20代半ばの青年の姿が、そこにある。

長めで少し跳ねた前髪、二重のぱっちり目。通った鼻筋。少し口角の上がった口元。イケメン?

そう、確かにこれは「俺」だ。

だが、「俺」に関する記憶がない。

名前、生年月日、住所、職業、家族構成。

何ひとつ思い出せない。

あわててポケットを探るが、免許証が入った財布やスマホも何もない。
家の鍵すら見つからない。
出てきたのは、和尚のカッコをした猫の絵柄が描かれた、赤い御守りだけ。

なんだこりゃ。

頭に意識を集中させる。
だが、「俺」に関する記憶に手を伸ばそうとすると、とたんに霞がかかる。
全身に冷たい汗が流れた。

どうする、俺。

ふと、バイクに取り付けられたナビに目が留まる。
画面に「自宅」ボタンがある。
タップすると、三鷹の地図が表示された。

三鷹?

三鷹駅のイメージが、頭の中に広がる。
新宿から西に中央線で20分程のターミナル駅。隣は吉祥寺だ。
小さい駅ビルがあって、南口は商店街が続いている。
三鷹駅周辺の光景が、はっきりと頭の中で構築されていく。

だが、三鷹にあるはずの「自宅」が浮かばない。

全ての記憶が失われたのではなく、「俺」に関する記憶だけが抜け落ちているのだ。

もやもやしたまま、俺はナビの目的地に「自宅」をセットし、バイクに跨がった。





三鷹駅から数分程走ったナビの終着点は、閑静な住宅街の中にある5階建てのマンションだった。
茶色の外壁に見覚えがある。

確かに俺の家だ。記憶がひとつ蘇る。

だが、何号室が俺の部屋かは思い出せない。

バイクを入り口に停めて、マンションをぼんやりと見上げる。

「オジサン、不審者?」

背後からいきなり声を掛けられて振り向くと、そこには制服姿の女の子がいた。

白の半袖シャツに緩んだネクタイ、紺色の丈の短いスカート、といった今どきの女子高生っぽい格好。

身長は150cmくらいで小柄。毛量の多いボブカットの髪を、軽く茶色に染めている。

壁にもたれてアイスのチョコバーを舐めつつ、猫のように大きな丸い目を怪訝そうに歪めながら、俺をしげしげと眺めていた。

「最近、不審者が出没してるから気をつけなさいって、ママが言ってた」

「……俺はここの住人だ。ほっといてくれ」

「じゃあ、なんで自分ち見上げたまま、ぼーっと突っ立ってるのさ?」

「自分のマンション見てたら不審者かよ」

「なんかキョドってる。真夏なのに長袖着てるし。どっからどう見ても」

女の子はチョコバーの最後のかけらを頬張ると、険しい表情でバーを俺に突きつけた。

「オジサンは不審者」

バーに『当たり』の文字が浮かんでいる。

「ライダーズジャケットは、転倒しても怪我しないように夏でも長袖なの。それにオジサンって言うな。まだ……」

しまった。年齢が出て来ない。

「……まだ、25歳くらいだ」

くらい?とリピートして、女の子の顔がさらに歪む。
いかん。記憶がないせいで話せば話すほど、怪しい人になってしまう。
早々に追い払わなければ。

「俺のことはいいから、早く学校へ行けよ」

「今、夏休みなんだけど」

「制服着てるだろ」

「数学の補習だから。でも行かないし。一応行く振りしないとママがうるさいから、着てるだけ」

「とにかく、どっか行ってくれ。俺は帰るからな」

女の子の鋭い視線を背中に感じながら、マンションへと入る。

そうだ。
郵便受けのネームプレートを見れば自分の名前を思い出すかもしれない。

エレベーターホールに並ぶ郵便受けに、かたっぱしから目を通す。
山田総一郎、山田さやか、山田純……。

山田姓がやけに多くて混乱するばかりだ。
俺の名字も山田なのか?
だとしても、ピンとくる名前が見当たらない。

頭を抱えて必死に脳みそを探っていると、エレベーターが開いた。
降りて来たおばさんが、怪訝な目をこちらに向ける。

いかんいかん。またさっきと同じパターンだ。
俺はぎこちなく会釈して、エレベータにいそいそと乗り込んだ。
1階から5階までのボタンが並んでいる。
適当に、4階のボタンを押した。

エレベータの扉が閉まり、壊れかけのような、がこんと大きな音を立てて動き始める。
その瞬間、頭の中にあるイメージが湧いた。

ベランダから見下ろした公園。
小さい児童公園でタコの形を模した滑り台やブランコがある。

そうだ。俺の部屋のベランダから見える光景だ。
ある程度の高い場所から見下ろしている光景だから、4階あたりというのは正解かもしれない。

エレベーターが4階で、またがこんと音を立てて止まり、扉が開く。

左右に続く外廊下。
ふと、角部屋の前に置かれた黒い自転車に目が留まる。

おおっ、俺の記憶が確かなら……。

あれは、SPECIALIZEDのクロスバイクだ。
そう、俺が近所へ買い物に行くのに愛用している自転車。

逸る思いで自転車に近づき、フレームのロゴを確認する。

SPECIALIZED。

思わず、軽くガッツポーズ。
だんだん記憶が断片的に戻って来る。そう、たぶん時間の問題なのだ。
ジグソーパズルのように隙間を埋めていけば、やがて全ての記憶が補完されるはず。

ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
だから鍵を持ってなかったのか。
しかし不用心だな、俺は。

一応、そっとドアを開けて中を覗き込む。
廊下の先に、ダイニングキッチンが見える。
中央に木製のダイニングテーブルと、二脚のチェアー。

「ただいま。どなたかいますか?」

我ながら不条理なセリフを、部屋の奥に向かって投げかける。
返事が返ってこないのを確認して、俺はおずおずと部屋に上がり込んだ。

ダイニングキッチン。

部屋を見れば、また記憶が蘇るかと思ったが、いまいちピンとこない。
テーブルには赤白ギンガムチェックのテーブルクロスが掛かり、中央には小振りのひまわりとヒペリカムをアレンジした花瓶が置かれている。
食器棚には整然と並べられた皿やボウル、カップ類。
シンク周りも綺麗に片付けられている。

おかしい。妙に女子力が高い。いや、高すぎる。
もしかして俺、結婚してるのか?

ガスコンロに乗ったフライパンには、トロトロのスクランブルエッグが湯気を立てていた。

スクランブルエッグ。

その匂いが食欲を掻き立て、遠い微かな記憶をまさぐる。
確か、俺の大好物だ。
だが、料理はできない(と思う)。

もしかしてコレ、奥さんが作った?

奥さんって?

記憶にもう少しで手が届きそうで届かない。
まるで、海岸の砂場を熊手で必死に掻いても掻いても、アサリがひとつも出て来ないようなもどかしさ。

ふと、スクランブルエッグを指で掬って、口の中に入れてみた。

甘すぎず、薄すぎず、絶妙な味加減……。

うっ!!

その味覚が脳へと接続されたとたん、雷に打たれたように頭の中を電気が走り、数多のイメージがシャワーのごとく降り注ぐ。

奥さん、いや同居している彼女の屈託のない笑顔。声。しぐさ。寝顔。吐息。頬を撫でる指。唇の感触。

西内美咲(にしうち みさき)。

そう、美咲だ。
美咲はどこにいる?

あたりを見渡し、ダイニングの奥にあるドアを、気が急く思いで開いた。

エスニック調のラグが敷かれた部屋に、小さい木の机。
壁側には本棚と、色とりどりの服が掛けられたハンガーラック、全身鏡。
ベランダが見える大きな横引き窓から、明るい陽光が降り注いでいる。

記憶にある。ここは確かに美咲の部屋だ。
俺はここで美咲と住んでいる!
……はず?

いや、おかしい。

何か妙な違和感を感じる。

美咲と同居しているのは確かだが、何かが引っかかる。

俺は引き窓を開けて、ベランダに出た。

手すりに寄りかかって見下ろすと、遊具のある小さい公園が見える。
さっきエレベーターで、頭の中に閃いたイメージの通りだ。

だが、なぜか違和感が消えない。
階段を一歩一歩上がるように、着実に記憶が戻って来ているのは確かなんだが。

まずはともあれ、美咲を見つけなくては。

バスルームや寝室を片っ端から覗いてみたが、美咲の姿は見当たらない。
途方にくれてダイニングに戻り、ふとテーブルの上に置かれたスマホに目が留まった。

猫キャラモチーフのストラップが付いたスマホ。
これは美咲のだ。そう確信する。

彼女のスマホを覗くのは気が引けるが、こんな事態ではやむを得ない。
俺に関する情報を得られるかもしれない。

電源を入れて、まずは写真を開く。

猫の写真だ。野良猫が寝そべって、こちらを怪訝そうに眺めている。
スワイプすると次も別の猫の写真。次も次も次も、猫だらけ。

最後に開いた写真で手が止まった。
なぜかこの写真だけ、アングルが傾いていてブレている。

男が写っていた。

カメラに向かって、満面の笑みを浮かべている。
髪型や顔かたちは俺にとてもよく似ているが、目だけが違う。俺より目が細く一重だ。

誰だこれ?

男の後ろに展望台が見える。
この展望台は見覚えがあるぞ。確か……そうだ、江ノ島の頂上にある展望灯台だ。

江ノ島は湘南地区のほぼ中央に位置する小さい島。ここから2時間弱で行ける近場の観光地。
野良猫が多く生息していて、猫の島としても有名だ。

美咲は猫好きで、しばしば一人で江ノ島へ猫を見に訪れていたはずだ。
俺もたまに同行した記憶がある。
美咲は全ての猫の居場所を把握しており、それぞれに勝手に名前を付けていた。

この写真は、江ノ島で撮られたものだ。
しかし、俺によく似たこの男はいったい誰なんだ?

不審に思いながら写真を閉じ、今度はメールアイコンに指を伸ばす。

ああ、見て良いのだろうか。
彼女とは言え、プライベートを盗み見るようでかなり気が引ける。
いや、これは非常事態なんだ。仕方がないんだ。
たがしかし、親しき仲にも礼儀あり。やはり人としてこんなことは……。

ぽち。←あっさり

なんだこれ?

差出人不明、件名なしのメールが並んでいた。
ひとつずつ、中身を開いてみる。

『美咲ちゃんの夢をみた。いつも一緒だね』

は?

『君のことを思うと、苦しくって我慢ができないよ』

えっ?

『美咲ちゃん、どうして俺の気持ちわかってくれないの』

なんと。

『美咲ちゃん、俺はいつでも近くにいるよ。君のぬくもりをずっとそばに感じてる』

これって。

『美咲ちゃん、今日こそ会いたいな』

マジかよ。

『これから会いに行くよ。待っててね』

おい待て。

『今、家の前にいるよ。ドア、開けておいてくれたんだね!』

俺は思わず持っていたスマホを、テーブルの上に放り投げた。

こ、これは所謂、ストーカーからのメールってやつ!?
しかも最後のメールがヤバい。ヤバすぎる!!

「美咲! 美咲!!」

俺は大声で、美咲の名前を呼んだ。
だが部屋の中は、相変わらず静まり返っている。

その時だった。
いきなり玄関のドアがガタンと開いて、一人の男が姿を現した。

すわ、ストーカー!?
緊張のあまり心臓が縮み上がる。

「みさきー。帰ったよ」

その男は靴を脱ぎながら、いかにも呑気な声を発して、しれっと部屋に入ってきた。

そして、ダイニングで俺と鉢合わせ。

お互いに、固まった。

男は身長も体型も顔かたちも、俺に良く似ていた。
ただ目が細くて一重なところだけが異なる。

そうだ、あの写真の男だ。
トレーナーにスウェットパンツという、ワンマイルウエアな格好で、手にはコンビニの袋をぶら下げている。
細い目を丸くしながら(表現が変だがやむを得まい)、先に驚きの声を発したのは男のほう。

「あんたは、いったい何故……!?」

「そ、そっちこそ、誰だ?」

「こっちの台詞だ。俺の家で何してる?」

「おまえの家、だと?」

「ケチャップを切らしたから、ちょっとそこまで買いに行ってたんだ。なんであんたはここにいる!」

「いや、ここは俺の家……のはずだ」

「……はず?」

しまった。余計なことを言ってしまった。

「バイクで転んで記憶をなくしたんだ。だがこの部屋へ戻って少しずつ思い出した。ここは俺の家で、美咲という彼女の同居人がいる」

「ふうん」

男は、冷やかな目で俺をじっくり上から下まで眺めると、とんでもない事を口にした。

「……あんたなんだな。美咲のストーカーは」

「えっ?」

「俺は葉山浩介(はやま こうすけ)。美咲は俺の嫁だ。ここ最近、ずっとストーカーに付け回されてるって怯えていた。あんただったんだな」

「えっ、えっ?」

頭が混乱する。俺が美咲のストーカー?

いやいやいやいや。

じゃあ、この部屋や美咲の記憶は何なのだ。美咲は確かに俺の彼女(のはず)だ。

急に男が声を張り上げる。

「みさきー、みさきー! どこだー! 家の中にストーカーが侵入してるぞ!!」

「ちょ、ちょっと待て、俺はストーカーじゃない。美咲と俺は付き合ってる!」

「そう、それ!」

男は勝ち誇ったように、俺に人差し指を突きつける。

「その思い込みがストーカーなんだよ。付き合っているという妄想に取り憑かれてる。美咲はどこだ。まさか、あんた美咲を……」

急に青ざめて俺を突き飛ばすと、部屋中をせわしなく探しまわり、息を切らして戻って来た。

「み、美咲をどこへやった!」

「いないから、俺も心配している」

「ストーカーが何をほざく! 警察だ。警察呼ぶからここで待ってろ!」

男は俺を睨みながら、慌ただしくポケットからスマホを取り出すと、番号をタップし始めた。

「……あ、もしもし警察ですか! 葉山浩介と言います。今うちに不法侵入者、いやストーカーが来てるんです! 住所は……」

やばい。

なんだか凄く、やばい予感がする。

気がつくと、俺はテーブルにある美咲のスマホを引っ掴み、玄関に向かって走り出していた。

「おいっ! 待て!!」

待つわけがない。

靴を引っ掛けながらドアを開け、外廊下を全力で走った。
開いていたエレベーターに飛び乗り、「1」のボタンと「閉」ボタンを同時に連打する。

エレベーターが閉まる直前に、般若のごとき表情へと変貌した男の姿が現れた。
猛然と扉に掴みかかるが、寸でのところでがこんと下降を始める。

……まるでホラーだ悪夢だサイコだスリラーだ。

俺は、ほっと息を吐いてエレベーターの壁に寄りかかる。

いったい、どうなっているんだ。

あの男が言っている事が正しければ、メールを美咲に送ったのは俺。

すなわち、俺はストーカー。

だが、まるで美咲と一緒に暮らしていたかのような、リアルな記憶は何なんだ。
それもストーカーとしての妄想なのだろうか。

マジか。

がこんとエレベーターが止まり、開いたドアからふらふらと外へ出た。

強烈な太陽の光線が、心身ともに弱った俺を容赦なく痛めつける。

停めたバイクに戻ると、タンデムシートに先ほどの女の子がちょこんと座って空を見上げていた。

「おい、何してる」

「いやー今日も暑いねー」

「いいから、降りろ」

「帰ったんじゃなかったの? 不審者のオジサン」

「……また、出かけるんだよ。そこをどけ」

「ほうほう」

女の子は小悪魔的なたくらみの笑顔で、俺を見つめる。

「どこへ行くのかなー。美咲って人をストーカーしに行くのかなあ」

「ちょ、おまえ何でそれを!」

「へへ、盗み聞き。不審者を見かけたら監視、通報するのは国民の義務ですから。みーなーさーんー! ここにすとーかーがいますよー!!」

急に大声を張り上げたので、俺は思わず女の子の口を押さえつけた。

「きゃーっ!! たすけてー!!」

閑静な住宅街に、女子高生の甲高い悲鳴が響き渡る。

はたから見れば、俺はか弱き少女を白昼堂々と襲う変質者。
その正体も、女性を執拗につけ狙うストーカー。

完全にサイテーの犯罪者じゃないか。

俺は押さえつけていた手を離すと、がっくりと膝をついた。

悲鳴を上げていた女の子は、一転して低い声で俺にささやく。
それは、まさに豹変。

「さて、オジサン。取引きと参りますか」

「取引き……?」

「パフェを奢ってくれれば、今のことは忘れてあげよう」

何を言っているのだ、この子は。
そもそも、こんな怪しげな俺が怖くないのか?

「ふざけんな。付き合ってる暇はない」

「ほうほう。暇ならあるんじゃない。記憶をなくして困ってるんでしょ? 私が記憶を取り戻す手助けをしてあげても良くってよ」

「おまえが何の役に立つってんだ。だいたい、今持ち合わせがない」

「ヘルメットの裏」

女の子は、バイクのミラーに掛けてあるヘルメットを指差した。

「万札が挟まってるよ。いざというときの為に自分で入れておいたんじゃない? 記憶を無くす前のオジサンがね」

女の子は座ったまま軽く伸び上がるようにジャンプすると、すとんと地面に着地した。
その身軽さは、まるで猫のようだ。

「じゃあ、交渉成立ってことで」

大きな目をくりくりとさせながら、ニヤリと笑った。