明日も君の声が聴きたくて


 ラジオから流れるしっとりとした音楽に耳を傾けながら、カーテンと窓を開ける。

 今夜はよく晴れているので、この部屋の窓からでも北極星が見えるだろう。北向きの部屋で良かったと思うことは二つ。ひとつは北極星が見えること、もうひとつは日が当たらないから、部屋の中のものが日焼けせずに済むこと。寒いけれど、この部屋を与えてもらえるだけで私には十分すぎるほどの待遇だと思っている。

 思った通り、綺麗な北極星が見えた。丘の上に建つ市営住宅の四階は、星座観察にもってこいの環境だ。

 明日の理科のテストは、私の得意分野が出る予定だから大丈夫。それでも朝起きたらもう一度確認するつもりで、机の上にある教科書をそのままにして布団に潜り込んだ。


 テストが終わった後、六時間目の授業は体育だった。いや、体育のはずだった。

 他の学年と体育館使用枠がカブったとかで、急遽保健体育に変更されたらしい。何も聞いていなかった私は、教科書を持たずに授業を受けることになってしまった。

 音読を当てられ、変更を知らず忘れたと答えた私は教科係の女子から睨みつけられた。


 放課後、廊下で教科係の子を中心とした女子のグループが話している声が響いていた。

「時間割の変更、安本(やすもと)さんだけ家に電話かけなきゃならないの。すっかり忘れてたよ」

「学校からの一斉メールも登録してないんだっけ。親がスマホ持ってないってことでしょ」

「おばあちゃんと暮らしてるって聞いたから、家にパソコンもスマホもないのかも」

「ネットが使えない家ってことかぁ。買い物とかどうしてるんだろう」

「その辺で買うしかないでしょ。あ、でも家に車もないらしいからホントに大変だよね」

「うわー、そんな貧乏生活、絶対耐えられない」

「あんまり言ったら可哀想だよ。これじゃあ悪口じゃん」

「悪口じゃなくて事実だよ。それにうちらと安本さん、一緒に居たことないでしょ」

「じゃあさ、うちらの中にいたとして、何話せばいいの?」

「無理無理。安本さんが混ざっても無視しちゃう」


 面と向かって言われた訳ではないし、貧乏であることやおばあちゃんとの二人暮らしも事実だ。私の存在が周りに迷惑をかけているというのも、今に始まったことではない。なのに心がぎゅっと縮まった気がした。


 親から『あんたさえいなければ』と言われて見放され、友達からも忘れられ、貧乏だと憐れみの眼で見られる毎日。

 自分の力ではどうすることもできない環境を恨んだ。自分で何とかなることは努力した。

 塾に行けないし、参考書も買ってもらえないけれど、常に良い成績を取ることでおばあちゃんから見捨てられないようにした。

 手のかからない良い子でいなくては、また児童相談所へ戻されてしまうという恐怖感が抜けない。

 私にとって安心して生活するために必要なものはスマホじゃない。『保護者』と『家』さえあればいい。そう思って生活してきたら、周りからすっかり浮いた存在になっていた。
 

 消えてしまいたい。
 せめて、この子達に気づかれる前に、この場から遠ざかりたい。
 遠回りして職員室へ行き、部室である理科室のカギを借りて身を潜めた。


 理科室の奥にある準備室に入り、カーテンを閉め丸椅子に座ってテーブルに突っ伏した。涙腺が限界突破する寸前だったが、ここまで何とか持ちこたえたのは私にもプライドがあるから。

 黒いテーブルの上には、片付けるのを忘れたらしいプレパラートとピンセットが無造作に置かれていた。何の標本を作りかけていたのかなど、もうどうでもいい。埃まみれのテーブルの上で、制服が汚れるのも気にせずに私は泣いた。


 一時間ほど経っただろうか。

 理科室のドアが開く音がしたので静かにしようと思ったのだけれど、しゃっくりが止まらない。


「安本さん、ここに来てたんだ」

 顔を見なくてもわかる。準備室のドアを開けたのは、科学部の守屋(もりや)優理(ゆうり)だ。

「そっとしといて……」

 多分彼は気づいている。なぜ私がここで泣いているのか。これでも毎日放課後を一緒に過ごしてきた仲間だ。今はほっといて欲しいという私の気もちが理解できる男子だと思っていた。

「そうしてやりたいけど、もうすぐ総下校だ。鍵締めて帰らなきゃ」

「……私が、っく、締めるから……」

 しゃくりあげながらも、必死に伝えた。早くひとりにして欲しかったから。それなのに。

「泣きながら職員室へ鍵返しに行けないだろ。俺が締めるから、鍵を出して」

 守屋君は穏やかにそう伝えてから、突っ伏したままの私の肩を、軽くトントンと叩いた。こういう時、優しくされると余計に涙が止まらなくなる。




「……ごめ、んね。これ……」

 ポケットから鍵を出した。顔を上げられないまま、テーブルの上にそれを置く。

「じゃあ、ここから出よう。暗くなってきたから大丈夫だよ」

 彼の言う『大丈夫』は、泣き顔を周りに見られる心配はない、という意味なのだろう。私のメンタルはちっとも大丈夫ではないけれど、ここまで気を遣わせてしまって申し訳ないなと思った。こうやって迷惑ばかりかけている自分の存在が本当に嫌になる。

 私は下を向いたまま、ゆっくり立ち上がった。床に置いたリュックを背負い、涙で顔に張り付いてしまった髪を整える。泣きはらして不細工この上ない顔になっているだろうけれど、ちゃんと彼にお礼を言わないと。

「守屋君、ありがと……もう、大丈夫」

 目の前にいる彼は、明らかに困った顔をしていた。黒縁の眼鏡を上げて、切れ長の目をより細めて私を見ている。

「全然大丈夫じゃなかったね。でもここは出ないと」

 外に出ると、綺麗な夕焼けが建物の隙間から見えた。

 ここは世界屈指の夕日が美しく見える街らしい。けれど、夕日なんて世界中どこで見ても同じではないだろうか。そんなひねくれた考えをもつほど、とげとげしい気分だった。


「明日もいい天気になりそうだな」

 何を話していいのかわからなかったんだろう。守屋君が隣でそう呟いた。

「明日なんて来なくていいのに」

「それは俺が困るからやめて。明日、誕生日なんだ。祝ってくれよ」

「そっか。七夕が誕生日だって言ってたもんね。……じゃあ、スマホがない明日が来ればいい!」

「それはそれでみんな困るけどな」

「私はちっとも困らない! 持ってないってだけでハブられてバカにされてもう嫌だ!」

 みっともないけれど、私はまた涙を流した。生まれた家も時代も間違えてしまったと思った。せめて平成の時代だったらここまでバカにされずに済んだかも知れない。

「俺も安本さんがハブられてるのを見るのは嫌だ」

「何で? 守屋君には関係ないでしょ」

「いや、他人事だと思えなくてさ」

「嘘。だって守屋君はお医者様の息子でお金持ちじゃない!」

 彼も私のことをバカにしているのかと、涙を袖で拭いながら睨み上げた。私より頭ひとつ分ほど大きな彼の動きが止まった。そして呟いた。

「俺が今与えられている環境は、俺が努力して勝ち取ったものではない。そんなものはいつ変わるかわからない」

明日も君の声が聴きたくて

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