「そうちゃーん、おかえりなさい!」
玄関の扉が開き、中学校から帰ってきた大好きな颯ちゃんに駆け寄った。
小さな腕をいっぱいに広げて、減速なしで猪のように突進し抱き着く。
颯ちゃんは「おっと!」とよろけると、バランスをとるように壁に手をつき身体を支えた。
体勢を整えて、私を軽々と抱き上げると、すっぽり自分の胸におさめる。
目線の高さを合わせると、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「うちのお姫様は元気だなぁ。ただいま、リリー」
颯ちゃんの色素の薄い茶色の瞳に覗き込まれると、頬が一気に熱をおびるのが解った。
私は兎に角嬉しくて、感情のまま颯ちゃんの首に巻き付く。
「そうちゃん、あいたかったー」
ぎゅっと腕に力を込めて、すり寄る。
「リリー、苦しいよ……」
一見困った素振りを見せるけど、本当はそんな事はないのを知っている。
私がどんなワガママを言っても怒られた事はないし、寧ろ私に振り回される事を楽しんでいるかのように感じられる時もあった。
今だって、苦しいと言いながら、身体を支え頭を撫でる大きな手は、温かくて優しい。
名前の『梨々子』ではなく、颯ちゃんが呼ぶ私の愛称『リリー』の響きも凄く好きで安心する。
シンデレラや白雪姫、いばら姫。
お伽話に出てくる王子様みたいに、金髪じゃなくても、白馬に乗ってなくても。
颯ちゃんは私の素敵な王子様。
「今日、学校はどうだった?」
颯ちゃんの部屋に移動すると、制服を着替えながら尋ねられた。
小学校に上がったばかりの私の学校生活が気になるらしい。
特に、今一番の気がかりは、隣の席の男の子の事だろう。
その子とは、入学式当日の第一印象から最悪だった。
朝の挨拶方法で『これから朝は起立して先生に挨拶をした後、隣同士挨拶をしましょう』と説明があった後、実践する事になった。
私は、これから新たに始まる学校生活。
保育園から小学生になるって、ちょっと大人になった気分で心を弾ませていた。
まして、颯ちゃんも通っていた『学校』という響きが、殊更私を高揚感で満たしていた。
それなのに、張り切って隣の席の男の子と向き合った時、男の子は私の顔を見て早々「ブスっ!」と吐き捨ててきたのだ。
慌てる先生。
固まる私。
普段、颯ちゃんに「お姫様」て言われてるから、自分をお姫様だと思った事はあっても、ブスだと思った事も勿論なかった。
初めての学校生活、黒歴史の幕開けの瞬間だと、この時はまだ気づいていなかった。
それ以来、朝の挨拶なんかまともに交わさなかったし、ずっと「ブス」と暴言を吐かれる日々が続いた。
最初のうちは相手にしていなかったけど、それが毎日となると、流石に落ち込む日に日に増していった。
そんな私を慰めてくれたのは、勿論私の王子様。
颯ちゃんの膝に顔を埋めて、涙で大きなシミをつくって泣く私の頭を優しく撫でたり、抱きしめて背中をトントン叩いて慰めてくれるのだ。
泣き腫らした瞼や頬や額にキスをして「大丈夫」と繰り返す。
王子様のキスには魔法の効果があって、どんなに辛い事でも元気にしてくれる。
颯ちゃんの魔法で、なんとか立ち直って翌日登校するんだけど。
その男の子は、毎日飽きずに私をブスと連呼してくるの。
もう大嫌い!
着替え終わった颯ちゃんは、ベッドに腰掛けると私を膝の上に座らせる。
此処が私の定位置だ。
広い胸に背中をあずけ、その温もりに身を委ねる。
どんなに嫌な事があっても、颯ちゃんの温もりに包まれていると安心できる。
守られてるって、実感する。
お父さんもお母さんも仕事で居ない事が多いけど、代わりに颯ちゃんが傍に居てくれるから、寂しいなんて思わなかった。
「きょう、あのおとこのこと、ふぃーりんぐがあわないことにきづいたの」
「フィ、フィーリングって、そんな難しい言葉何処で覚えたの?いつもの和歌ちゃん?」
難しい事の解る子だと褒められた気分で、何度もコクコク頷く。
和歌ちゃんとは、一番仲の良いお友達。
大人びてて物知りで、頼れるお姉さんタイプの女の子で、落ち込む私を「こどものいうことなんて、まにうけちゃダメよ」といつも励ましてくれる。
その話をすると、颯ちゃんは大声で笑った。
「凄いな、6歳でそのセリフ。大人の会話だね」
「しゅくじょのたしなみよ」
「しゅ……淑女って……」
「わかちゃんは、りかおねえちゃんから、いろいろおべんきょうしてるから、ものしりなんだよー」
「………成程」
梨歌お姉さんってのは、和歌ちゃんのお姉さんで颯ちゃんと同級生。
お人形さんのように綺麗で、物知り。
いつも違う男の人と一緒にいて、和歌ちゃんの言うところの、エキゾチックなお姉さんだ。
(わかちゃんが、わたしのおねえちゃんはえきぞちっくなのよ、ていってたからえきぞちっくえきぞちっくなのだ)
颯ちゃんは何故か、いつも梨歌お姉さんの名前を出す度に「あれを見習ってはいけません」と念を押してくる。
どうやら、梨歌お姉さんをあまり良く思ってないっぽいんだよね。
なんでだろう?
「リリー、あのね。その男の子は、リリーと仲良くなりたいだけなんだよ?」
「じゃあ、どうしていじわるするの?」
「小さい時の男って、そういう手段でしか気の引き方を知らないんだ」
「え~、そんなのおかしぃー!いじわるするこきらーい!」
「そうだね。でも、まだ感情をうまくコントロール出来ないからね」
「かんじょうのこんとろーるぅ?」
『子供』の単語に、今日の颯ちゃんへの報告事項をもう1つ思い出した。
「あっ!それ、わかちゃんもいってたー。おとことおんなでは、おとこのほうがこどもだから、つきあうならとしうえのほうが……」
「リリーっ。それは、もう少し、大人になってから、話そうね?今は、まだ、早い」
語尾を奪うと、一語一語ゆっくり言い聞かせるように颯ちゃんは言う。
それが子供扱いされてるようで「わたし、もうおねえさんだもーん」と主張したけど、窘めるように髪を撫でられる。
「このまま俺のお姫様は、大きくなったらどうなるのか心配だよ……」
「おおきくなったら、そうちゃんのおよめさんになるよー」
「俺のお嫁さん?」
「うん、およめさーん。そうちゃんはおうじさまでー、わたしがおひめさまだからー、おおきくなったらけっこんするのー」
お伽話のセオリーに則り、純然たる事実を雄弁に語ると。
何故か、颯ちゃんは大声で笑い始めた。
「そうだね。じゃあ、リリーが大きくなっても俺でいいって思ってくれてたら、お嫁においで」
優しい笑顔で言うと、額にキスを落とされる。
颯ちゃんのお嫁さんになる!
それがただ嬉しくて、颯ちゃんの首に飛びついた。