「電気」「井戸」「静かな運命」(王道ファンタジー)
エレクトロボルツ
「つまり……僕にまたあの剣を握れってことなのかい。あの追っ手みたいにバチバチしてゴウライダケを食べたみたいに体に稲妻が走るだけだよ。それよりも、僕はあなたを連れてここに来た。てことはあなたが握る運命なんだ」
セラは静かに首を横に振りました。「いいえ。あなたがそうなのよ。ここはあなたを誘い込んだ道なのよ。私がキッカケなだけよ。運命はきっとあなたの中にある。信じましょう」ケルは瞳を揺らし、不安に心を任せていました。「きっとよ。運命を受け入れなさい。そうすれば大丈夫なはず」セラは思っていないことを自信満々に告げました。口が勝手に動いたというよりも、心が勝手に動いたのです。あの剣を目にした時と同じように。
ケルはしばらく黙っていました。顔を俯け、たまにセラを覗いては訝しげな表情を泡沫の如く何度か浮かべました。
「あの剣を持ち出してくれたらお礼は倍にするわよ」
セラは言いました。するとケルは頭の中で一際大きな泡が弾けたようで一も二もなく剣塚の元へと駆け寄って行きました。自身が剣が言う通りの存在であると確信したわけではありませんが頭にこびり付いた欲は不安を覆い隠すには十分でした。さっきまでの慎重さはどこへやら、大胆にも柄に手を伸ばし、次の瞬間にはガッシリと掴んでおりました。
「ハハ! 握れたぞ! これで報酬は倍だ!」
セラは大きなため息を吐きました。ケルはやいのやいのと騒いでおりました。それも当然で、二千ゴールドの大金が四千に増えたわけですから。ワハハと騒ぐケルの元に再び、嗄れた剣の声が聞こえました。
––––よきかな。
「「え?」」それは二人の耳、心に届きました。不思議な声は一々、まるで太鼓を打った様に胸に響きました。ドン、ドン。心臓が鳴動するかの様でした。
––––我は悠久の時を長く眠っておった。
「やっぱり剣の声。運命はあなたのものだった」
セラの言い草に、ケルはまさかと言う顔をしました。そして剣を塚からゆっくりと引き抜きその刀身を良く見ました。すると、彼は途端に、剣の言うことが信じられなくなりました。
その刀身は明らかに滑らかでした。光に輝く刃の何処にも錆も刃こぼれもなく新品でした。しかも、街でよく見た武具よりもその輝きは大きく、自分の顔が刀身に写って見えました。ケルは一振り二振りと剣を振り、風を切りました。明確な風切りは一本の鞭を振るった様に豪快な音を立てました。ケルはさらに振ってみました。剣は軽々と振るうことができました。まるで細い木の棒を振り回しているように。
ケルはこれが神品だと分かりました。歴史、特に大戦が好きな男の子、ケルは名前が気になりました。物語の勇者や王が振るう剣には名前があるからです。
「名前はなんて言うんだ?」
––––我が名は「剣(けん)」。我が名は「剣(つるぎ)」。
意外な回答でした。武具の名前は剣に間違いはありません。ですが、ケルが知りたのは剣そのものの名前でした。「……そう……か。え、で? 名前は?」聞けば、
––––剣(けん)だ。
またもこう答えます。仕方がないからもう一度。「うん。で?」
––––剣(つるぎ)だ。
これは困った。彼はある疑問をぶつけました。「名前がないのか?」
––––ある。剣だ。
どうやら名前はない様でした。ケルはため息を吐き、それから言いました。まるで幼子をあやすように。
「分かったよ。今まで名前が無かったんだろう。寂しい人生だな。おっと、悪いね。人じゃないな。剣ちゃん」
剣は無言でした。一方、ケルは考えました。この無骨な剣の名前です。柄に派手な飾りはありません。埋まっていても不思議ではない宝玉が一つもなく、ただ丸まった後端と柄、それから異様なまでに洗練された刀身です。ツルツルスライサー。変な考えはすぐに捨てました。次に、この剣との出会いを考えてみました。帝都郊外の枯れた井戸に飛び込んで、逃げた先には剣がありました。そして、奴隷商人が追いつき、ケル達を殺そうとした。そして––––。
「そうだな。エレクトロボルツ。これでどうだ?」
彼は考えを口に出しました。痺れる奴。帝都で目にしたもの、電気。あれを使っていた帝都の商人は最後には痺れて倒れました。まるでゴウライダケを食べたみたいに。その倒れた商人がケルに言っていたのです。「エレクトロ」。それからケルはその商人と知り合いで名前を知っていました。「ボルツ」。単純に組み合わせただけでした。
「もっといい案はないの? ちょっと……ダサい」
「ビリビリ痺れるんだ。他にいい名前ある?」
いい名前だと思った矢先、セラが野次を飛ばしました。ムッとなって言い返してやると、いい名前が思いつかない様で彼女は黙り込みました。それを見てから「無いな」と確認し「じゃあ決まりだ。エレクトロボルツ。ボルちゃんな」
––––……。
剣は無言を貫きました。すると稲妻剣(エレクトロボルツ)を片手にケルが言いました。
「よし。じゃあとっととここを出てヤランタの方まで行こう。そこまであんたを送るのが仕事だ。ちゃんと四千ゴールド払えよ」
––––待て。
「何だよ?」
足元のズタ袋を拾い上げようとしたケルは動きを止めました。
––––邪悪な者がいるであろう?
「誰のことだ?」
––––足元におるだろう。
剣が言う人物は地に伏し、体を小刻みに揺らし続けておりました。剣を不用意に触ったが故に電気を浴びた奴隷商人ゾラです。彼は剣を手放した今でさえ、ブルブルと痙攣しているのでした。それを、剣は邪悪なるものと呼んだのでした。
「ああ。こいつは俺達を追い掛けてきた追っ手の内の一人だよ。あんたが痺れさせたんだろう? ほら見ろ。動けやしないぞ。痺れちまって」
––––我が力は邪悪なるものと対になっている。我がしたことではなく、我が勝手にしたことだ。邪悪なる者は我に触れられん。
「言葉が分かりづらいな……」ケルは眉をひそめると「つまり、痺れさせたのは無意識で、今喋ってるあんたじゃ無いと? そう言うことだな」なんとか自分の頭で解釈をして「それで? こいつが邪悪で、何だって?」と剣に聞きました。
––––殺せ。
「はあ?」またも意外なことを言いました。ケルは訳がわからないと首を傾げ、剣に向かって手を挙げてみせました。一口に飲み込んでいい言葉ではないからです。
––––殺すのだ。邪悪なるものを抹殺せよ。
「何で?」剣は続けざまに言いました。ケルは益々分からなくなりました。どうしてそんなことを言うのだろう。剣をジッと見て、それから仰向けになっているゾラを見ました。小刻み揺れる足、腹、腕。頰ですらもピクピクと震えていました。そして、その上を見ると––––。
––––生かせば邪悪を働くであろう。悪に堕ちた人間は生かしておく価値などないのだ。
「無理だよ」次には即答していました。今度は剣が聞く番です。
––––何故だ?
「あんたはビリビリ痺れてる人間を突き殺せって言ってるんだろう? そんな寝覚めが悪いことできるかよ。正々堂々の一騎討ちでもないのに」
––––悪は正々堂々と戦わぬ。
「それでも〜……」彼は続けて言葉を口にしようと思いましたが全く続きが出ませんでした。それはそうです。彼も剣が言っていることに同意できたからでした。ゾラは奴隷商人であるどころか、奴隷たる自分をこき使っていた人物でした。それ故、彼の普段の行動も全部知っていました。帝国の役人達に賄賂を渡し、賭け事をしてイカサマをし……。他人の妻や娘をお金で買うこともしょっちゅうでした。今、彼を生かしても同じことをするでしょう。殺した方がいい。そう思い、剣を振り上げました。
「あー。カッコつけるのやめた」
しかし、そう言って剣を力なく下げました。そして剣に言いました。
「目が合っちゃったんだよ。無理。俺には殺せない。それはこいつが悪だろうが善だろうがどっちだって同じだ。死にたくないって目されてるんだぞ。殺せるかよ」
––––……。
「それでも殺せって?」
剣は口を閉ざしました。そして思いました。過去の人間は皆好感を持てる人物でした。それぞれが軍隊を持ち、不正は決して許さず、領民のためなら迷わず悪人を切って伏せました。それが悪を凌駕する手段だからです。悪い人間はいなくならない。ならば切って捨てるしかない。そういう思いだった故、剣は衝撃的でした。そして、ケルを愚か者だと思いました。感情に左右され、やりたくないならばやらない選択肢が取れる人間。愚かだと思いましたが、その行く末が深く気になりました。
––––運命はお前を選んだのだ。我の価値と合致はせずとも受け入れよう。
––––そいつはどうも。ケルは心の中で言いました。自分でも愚かだと感じているのです。だが、奴隷商人を、命乞いをする悪党を切ってなんになるのだろうか。彼は心に従ったまででした。ケルが「じゃあ……」と再び号令をかけようと思ったその時です。
「うぐ……」
小さな、しかし野太い断末魔が響いてきました。すぐ近くから。奴隷商人の方からです。しかも、その声はゾラの声とそっくりでした。
「くたばりなさい。あなたが傷つけてきた人を思い出して死になさい」
ゾラの上にセラがいました。彼女の手がゾラに伸びています。辿ってみると、セラはゾラが落としたナイフをゾラの胸に突き立てていました。すでにナイフの先からは鮮血がコポコポともれ、上着を赤く染めていました。一方、セラは服のおかげで一滴も血を浴びてはおらず、綺麗な令嬢のままでした。ゾラは一層体を震えさせ、ですがあっという間に震えを止めました。
セラは立ち上がりケルを見ました。ケルは口をあんぐりと開けて何も言わずにいました。筋肉一つ動いてはいません。セラはため息を吐きました。そして、
「何よ? 悪い奴は殺すわ。私は剣に賛成」
言うと、セラはさっさと壁に掛かっていた松明を取り外して奥まで進んでいきました。ですが途中でこちらを振り向くと「さあ! 行きましょう! ヤランタへ!」と大きく言い、ケルは肩を竦めて、小声で言いました。
「おっかね」
剣も一緒に。
––––概ね、同意する。
ミエル・キャシャーンを揺るがす大きな運命は、こうして静かに廻り始めました。
「花」「蜘蛛」「最初のヒロイン」(スイーツ(笑))
朝の儀式
※すいぃつ(笑)の意味はWikipediaを参照しています。
武田は朝起きると窓辺に置いてある花に必ず水をやる。
それが彼にとっては起床の合図とも言えた。兄譲りの古めかしいベッドから起き上がり、冷蔵庫の上に置いた小さなジョウロに水を汲んでまた部屋に戻る。そうして花に水をやると、彼の目は冴えた。その形式は決まっており、言わば彼にとっての儀式だった。
彼は布団の中でモソモソと蠢くと布団の脇から右足をニョキッと伸ばしフローリングに下ろす。続いて右手が伸び、ベッドの端を掴むと、左手で布団を剥いだ。左足はゆっくりと動かして地に着ける。それから立ち上がってやっとこさ自室を後にした。
冷蔵庫を目指して、起き抜けだからかすり足で移動する。と、自室からリビングを抜け、冷蔵庫のある台所まで行く途中、リビングと台所の間にある敷居に足をぶつけた。
「あう」
ダメージは大きくないが、起き抜けに痛覚を覚えると全て億劫になる。片手を冷蔵庫の上に伸ばしつつ、もう片手で痛い方の足を摩った。その結果、ジョウロを掴み損ねて落下したジョウロに頭をぶつけたのだった。面倒臭さは苛立ちに変わる。コロロとプラスチックの安い音を立てて転がるジョウロを拾い上げ水を入れた。帰り道は足をちゃんと上下させてたが苛立ちからか足音は大きい。自室にある窓辺まで近づくと赤いスカビオサの花が一輪、彼を出迎えた。派手さは無いと一般的には言われるが、球状に広がって咲く赤い花は花火、もしくは燦々と照らす太陽の様で彼はこの花を気に入っていた。だから、武田も彼女に水で応える。と次にはギョッとした。スカビオサ、花火、太陽の中から一匹の虫が出てきたのだ。
大きなお尻には丸い模様があり、小さな胴から生えた八本足は妙な毛で覆われている。顔は見えなかったが動きは緩慢で、それがより不気味な感覚を受ける。蜘蛛は蜘蛛でも鬼蜘蛛だった。鬼蜘蛛はまるで花火、太陽から生まれ出でたみたいに這い出てくる。急な水攻めにびっくりしたのだろう。武田はそれにびっくりした。
驚きすぎると人は攻撃的になることがある。しかも、直前まで苛立ちを抱えていた人間は特に。彼はベッドの向かい、彼の歳と同じ年数はそこにある勉強机にジョウロを置き、そこから箱ティッシュを持ち出し、何枚も何枚も取りしては逃げようと鉢植えから飛び出た鬼蜘蛛に被せた。そして、姿が見えなくなったところで……
両手でプレスした。
しばらくすると、重ねたティッシュからはもう蠢く感触は無くなった。彼は大急ぎで全てのティッシュを一つに纏め上げ、リビングにある丸い灰色のゴミ箱に捨てた。フウ。一息吐くとタイミングよく玄関のチャイムが鳴った。
あいつがきた。武田は顔を上げ、リビングから廊下に出て玄関へと向かった。すると、その途中でまたチャイムが鳴る。武田は彼女だと確信した。玄関に着き、施錠を外そうとする。施錠は二重構造になっていてなんと内側でも鍵で開けなければいけない。開けるまでにもう二回チャイムが鳴った。そして三回目のチャイムが鳴った所で、扉が開けた。
玄関の前には武田が思った通りの人物がいた。優子だ。膝丈の黒白ボーダースカート、紺色のブレザー、赤いリボン。彼が通う高校のもので、背は彼と同じくらい美人とは言えない顔立ちだと武田は思うが評判の悪くない明るく可愛らしい顔。優子だ。彼女は幼馴染でよく一緒に登校をするのだが、今は少々事情が違っていた。
「まだ寝巻きぃ? 後一時間しかないよ?」
表情に見合った明るい無邪気な幼子の様な声だ。朝の始業時間までまだ一時間もある。武田は思った。だが、
「う……」
しか言えなかった。
「はいはい。退いて退いて。準備しちゃうから」
優子は家主を退かして家に押し入った。後から入って扉を閉める武田。一方、優子は武田の自室まで迷うことなく進んでいった。
「また元の場所に戻さない……」
言って、優子はまだ水の入ったジョウロをリビングのテーブルに置いた。武田は今頃リビングへと入ってくる。優子は今度は台所にいた。
「たけちゃん。さっさと着替えて」
へい、武田は言って侵入者が言うことに一も二もなく従った。自室で高校の制服一式を用意し、着替える。もちろん、優子の目が入らない自室でだ。武田は着替えながら、優子のことを考えた。今朝食の用意をしているんだろう。毎日毎日、よくやるなぁ。こうなったのには訳がある。
一週間前、武田の両親は夫婦揃って学会に向かった。二人とも、父は大学の教授、母は同じ大学で同研究科の准教授だ。その間彼一人になる。祖母も祖父もいないので完全に一人になる。そこで昔から付き合いのある優子に白羽の矢が立った。だったら武田本人が優子の家に泊まればいい話だが、そこは駄目らしい。武田は不思議がった。
制服に着替えてリビングに行くと、味噌汁の良い匂いが漂ってきた。武田も手伝おうと思ったが、要らなさそうなのでやめた。テーブルに座り、タイミングを待つ。珍しいことにこの家にはテレビがなかった。暇そうに目をあちこちに飛ばしていると、自分のすぐそばにジョウロがあることに気がついた。
「あ、ジョウロ」
「ダメだよ。ちゃんと元の場所に戻さなきゃ」
呟くと優子に聞こえたらしい。彼女はそう返答し、武田はテーブルを立ってジョウロを冷蔵庫の上に戻した。その時に思い出したらしいことを優子に言った。
「ああ、さっき花から出てきた蜘蛛を潰したんだ。それで忘れてた」
「え?」
ポツリとなんでもないことを言ったつもりだったが優子は目を丸くしていた。「何?」と聞くと「潰したの?」と念を押して聞いてくる。そうだよと答えてやるとフライパンに卵を割って入れようとする手を止めて優子は口を尖らせた。
「今日のラッキーアイテムなのに……」
「蜘蛛が?」
聞くと優子は頷く。彼女は占いを信じる。いや、もはや愛していると言ってもいいだろう。毎朝テレビでやる占い。血液型だろうが星座だろうが誕生日だろうがジャンルは不問だ。兎に角今日一日の行動をそれによって決めると言ってもいい。武田はそれに少々うんざりだった。スイーツ(笑)と揶揄したこともある。だが、彼女は決して引かずむしろこう反論する。
「未来の予測なんて科学的だろうと当たらないものよ。当たるも八卦!」
これにはグウの音も出なかった。その通り、科学は未来を見通せないのだ。
「お前、ラッキーアイテムって……。蜘蛛なんか触れるのか?」
武田はティッシュに包まれた蜘蛛を捨てたゴミ箱を見ながら言う。虫、それも八本足で蠢きお尻が大きく、妙にフサフサしている鬼蜘蛛に触れる女子は早々いない。男子ですら中々だろう。というか蜘蛛のアイテムなんてキーホルダーとかでいいだろうに。普通売ってないだろうけど。
「平気よ。私蜘蛛飼ってたことあるもん」
特殊だった。では、第二の疑問をぶつけよう。
「んで、蜘蛛捕まえてどうするんだ? 持ち歩くんだぞ」
「持って行くわよ」
優子はやや憤慨した様子で答える。一体どうやって持って行くつもりなんだろう。高校だし、生物の実験とか理由は幾らでもあるだろうけど。そう思った武田はその方法を聞いた。すると優子は黙った。しばらく考えるように目を左右にゆっくり動かして、あるものを見つけた。今や有料になり、エコ化したあれである。
「レジ袋に。口は縛って。空気穴開けて」
小刻みにそう言う。田舎の小学生か。考えてはいなかったが持ち歩こうとはしていた様だ。ある意味ですごい女の子だった。
すごい女の子は目玉焼きができたらしく、二つの目玉焼きを別々の皿に分けてこっちへと運んでくる。その間に武田は小さな茶碗と大きな茶碗にそれぞれご飯を装っていた。しかしどこかモタついていた。茶碗を戸棚から出す作業と杓文字を取ろうと引き出しを開ける動作を混同してしまったのだ。その間に優子は温めていた味噌汁の温度を確認し、追加指令を発する。
「たけちゃん。味噌汁椀」
あいよ、と言って引き出しを閉め、茶碗と汁椀を二つずつ取り出した。そして優子の方を見ずに茶碗を差し出す。
「たけちゃん。逆逆」
ごめん、と言ってようやく汁椀を寄越した。それから武田は杓文字を探して引き出しを引き、手前側を確認する。いつもの場所に杓文字が無かった。
「たけちゃん。炊飯器の上」
優子は二人分の味噌汁を椀に装い、テーブルに運ぶところだった。武田は目を細めて炊飯器の方を見た。その上に杓文字が乗っている。ようやく武田はご飯を装い、テーブルに運んでくる。大きい方の茶碗は優子、小さい方は自分だ。コト、とそれぞれの場所にご飯を置いた。テーブルを見やるともう味噌汁の湯気が立っていた。それからニヤケて座る優子の姿も目についた。彼女は武田が座ると言う。わざとらしい幼声で。
「はい。よくできましたー。偉い偉い」
「……」
変な醜態を晒しておいて文句は言えない。武田は我慢の子だった。頭を撫でるジェスチャーを他所に箸を取り、いつもの挨拶をご飯にかます。その為に息をスッと吸ったとき、彼は唐突に思い出した。
「あ」
「何?」
クク、という笑いが収まった優子は不思議な顔をして聞いた。すると、今度は武田がニマリと口角を上げ、言った。
「死骸ならあるよ」
「何の?」
武田は丸い灰色のゴミ箱を箸で指差した。優子はニマニマとした顔は正直気味が悪く不気味で、目を細める。何の話だろうと思いつつ、ついで武田の行儀が悪いことを咎めようと思った。だが、武田の口が先に動いた。
「蜘蛛さ! あそこのゴミ箱にいるよ」
優子の口がポカンと開いた。そして、「そう」と小さく呟き、下を向いた。スマホを取り出してラインを見ている。丁度よく誰かから何かメッセージでも来たのだろうか。ポチポチと指先を動かした。
「持っていかないの?」
対して武田は意気揚々と彼女に聞いた。すると彼女は返信を終えたらしく、スマホの画面を下にしてテーブルに置き、「もちろん」と答える。武田はまたも意気揚々に。
「持ってくの? ティッシュに包まれてるよ。ゴミをポケットに入れておくなんてよくあることだろう?」
と言う。優子はスッと真面目な顔になると極めて冷淡に、
「持っていかない」
とキッパリ言って、不機嫌を露わにした。椅子に腰を落としてソッポを向く。テーブルの上からではわからないがついでに足で武田を小突いた。
今度は武田が笑う番だ。小さくクククと笑う。してやった。そう言う笑みだった。一頻り笑うと、武田は
「おあいこさま」
と言い、強制的に手打ちとした。
それでも仏頂面を構えていた優子だったが、やがて箸を手に取り、両親指で挟んで胸の前まで持ってくる。そしてため息を一度吐くと無愛想な顔を解いて晴れやかではないにしろ花のある顔に戻った。
優子向かいには優子と同じ姿勢の武田がいる。二人は目配せをして同時に息を吸い、朝食の儀式を行った。
「「いただきます」」
「黄色」「雑草」「最後の城」 (悲恋)
干涸びた城
灼熱と渇ききった砂だけが主だった。
延々と続く砂は近くで見れば平坦だが、離れてみればみるほど徐々に盛り上がりを見せていき、やがては下りになって、また昇り……。遠くには何も見えず、近くにはただが砂が舞うばかりであった。生命はすでに滅び、骨は砂に埋もれるか、ただ砂と一緒くたになって風と共に小さな旅をするだけだった。今いた砂丘から次の砂丘へと移り、運が悪ければ風の当たらない下り坂に落ちる。だが、それでも砂の一生はそこで続いていく。ただただ無意味に。
ここがかつては緑に溢れていたと誰が信じるだろう。今よりももっと古い時代のことだ。緑の中に豊かな作物と美しい小川があった。小川は支流ではなく本流でそこからさらに細い用水路が作物に隅々まで水を行き渡らせ、かつ水の流れは穏やかで透き通り太陽の光を流れに任せて反射するその水はそのまま飲むこともできた。
小川はやがて農作地を過ぎると二手に分かれる。誰が分けたかと見上げてみれば、鈍く光る黄金の蠍が小川を二つに割いていた。城門はこの国の守護者、蠍を象ったエンブレムが取り付けられ、人の背丈を優に越え、また天窓の付いた高い家ですらも通り抜けられるほど門そのものも大きかった。門の開閉は城壁の上にいる体格の良い男二人が受け持っていた。この門を手回しで開けようというのだ。むしろ、それ以外にこの門を開くことは何人も敵わないほど強固だった。だが、この屈強な男二人で巻き上げられるほど効率化された仕組みがあるのも確かだった。また城壁はここからほど近い断崖から採取された凝灰岩を使っていた。赤みがかった多孔質の岩石は加工がしやすく、重量もそこまで人手を必要とはしなかった。二手に分かれた小川は赤い城壁を辿って深さを増し、透明な清水はあるところから波打ち、泡の立つ荒々しい流れへと変動し、最後には広い広い海原へと旅に出る。
スラッグは海を有し、温暖な天候と豊かな土壌を持つ美しい国だった。あの重たい城門を一度潜ってしまえばそこに広がるのは終わることのない宴、もちろん酒を煽り、罵声が飛び交う海賊達の宴ではなく、人々が朝は踊って食事を取り、隣人を兄弟の様に深く愛し、昼には酒を、語らいは尽きることがなく、夜には深々と鼾をかきあった。王は節制を愛し、悪事を許しはせず、領民を想って政治をした。スラッグはかつてない栄光の中にあったのだ。平和が人々の信仰となり、皆が今溢れる自然を愛していた。人生についての語らいはより多くの知識を増やした。英知を以って人々は欲望を抑えられた。他人は他人を愛し、他人に愛された。
だが、それももう過去の話となり、やがて戦乱の世が始まった。戦いは何処をも巻き込んだ。スラッグでさえも。小国は小国同士の対決を良しとするも、大国にはその志を折られる要素となった。戦乱は小国を一つに纏め上げようとしていたのだ。だから統一され、もっと洗練された帝国が誕生するその時までこの戦いは終わらず、延々と続く。だから海に面し、資源豊富であるこの国は戦争を続ける国にとって絶好の獲物だった。兵を養う作物、海産物を補充でき、さらに大陸の外へと繰り出せる。人の卑しい魔の手がスラッグに届こうとしていた。
「剣の振り方も碌に知らないのに戦えるわけないよ」
城壁の外、少し離れた場所に小さな村があった。夜を照らせないほど灯りの乏しい街だったが、その分人々は明るい声をたくさん振りまいていた。そんな中にあって、彼女、シレスクの声は良く響いた。
まだ二十にもならない娘は、だが、もう立派に成人になっていた。落ち着いた物腰でズタ袋を引き下げる青年、ジライヤにそう詰め寄った。ジライヤは面倒な物を見たと言わんばかりにかぶりを振って答えた。
「みんな行くって言ってるんだ。僕も行かなきゃ」
スラッグは、この時はそうと言えないまでも緊張の中にあった。地元で兵隊を徴収し始めたのだ。大国であるバルデアランがスラッグに使者を送りつけた。内容は協定の締結だった。戦争前に良くある類の。無理な条件を突きつけ、戦争の口実を作るのである。その条件は自分達に土地の半分の割譲せよという、あまりにも身勝手な内容であった。
そして、王は使者を追い払った。
「取っ組み合いで私に勝ったことあるの?」
シレスクは暗がりの中でまた聞いた。だが、その口調は緊張感を欠いていた。
「いつの話だい? もう僕の方が体は大きいんだ。やらなくても僕が勝つよ」
「ただの農家の息子じゃない。鍬でも持って戦うの?」
「違うよ。剣だ。鋭い刃。重たい鎧。チュニックでもなんでも着てやるんだよ」
「お化粧もするの?」
「しないよ」ジライヤは笑いながら言うと「白粉くらいは塗るかもね」と付け加えた。若い二人のくだらない言い合いだった。二人は松明一本の灯りの中で笑いあった。だが、長い笑いは段々と尻すぼみに小さくなって、やがて二人の間に静寂が訪れた。シレスクは顔を下に俯け、モゴモゴと何かを言いたげにしている。その内、おずおずと口を開こうとした時、ジライヤが先に動いた。
「これを上げる」言って、彼女の前に握った拳を手の平を上にして突き出した。ゆっくりと手を開き、その中にある物を見せる。「家の前に咲いてたんだ。ほら、昔キャベツ畑の近くに咲いてただろう?」
「……あれは食べられる花。タンポポじゃない」
それはたった一本のタンポポだった。何処にでもある雑草で、特別な価値などない。ただのタンポポだ。貰わなくても明日にでも道端に生えていることだろう。きっと暗いから見えないだけで、足元にも生えているかもしれない。だがシレスクは文句を言いつつもしっかりとその一本を受け取った。
ジライヤは「そうだっけ?」とおどけてみせた後、「大丈夫。僕は生き残る。そしてスラッグはきっと勝つ」意気込みの様に言って、ジライヤはズタ袋を片手にシレスクに背を向けた。だがその途中で立ち止まり、顔だけ振り向いて、
「またね」
そう言って城門の方へと歩いていった。シレスクは彼を笑って見送っていた。戦争なんて遠くの出来事だと思っていた。彼女もジライヤもである。伝聞でしか伝わらず、もう何年も、スレスク達は一度も戦争なんて経験したことはなかった。シレスクは徴兵を難しい御使いと考えていたのだ。しかし、心の中に戦争という漠然とした言葉が小さいが硬いシコリを残していた。彼女は早くも白み始めた海を見て、その広々とした世界が朝日に輝く姿を、また大きな火の玉が海の色を変えていく様を見てゾクッと背筋を震わせた。
「ここはもう駄目だ」
スラッグの蠍は破られようとしていた。
「逃げましょう? 船があるから。一緒に逃げましょう」
すでに城壁の外は火が回っていてそこら中から黒い煙が立ち込めていた。敵はやはり正義の名の下に戦争を始めた。スラッグはよく戦い、大軍相手に一進一退を続けてきた。だが、国境の戦いに敗れ、スラッグ軍は城まで撤退。シレスク達、外の住民も城へと避難した。すると堅固なスラッグを攻撃するため、敵はまず農作地を焼き払った。
「駄目だ。君だけ逃げて欲しい。それを伝えに来た」
豊かな土壌はまだ健在ではあるが、収穫を逃した作物達、また捕まった家畜は敵の腹の中へと収まった。緑の大地は炎によって黒く煤け、それから敵は城を取り囲んだ。海を除いて。
「何言ってるの? もう駄目なら早く逃げなきゃ」
スラッグ城は前方を防衛のため強固にし、後ろはまんま港として使っていた。この近辺に別の港は存在せず、このまま安全に海へと航海、逃亡が可能となる。
「駄目だ。僕は兵士だ。この国を言葉もわからないやつらになんか好きにさせない」
だが、もう何隻も船は出てしまい、残るはたった一つの貨物運搬船だった。この国で一番巨大で一番遅い船。出航には時間稼ぎが必要だった。
「あなたは農家の息子でしょう? あなたのお父さんは戦場で死んだの? 剣なんか今まで持ったこともないのに! 誰かを殺したことなんかないでしょう!」
シレスクはジライヤと一緒に居たかった。戦争が始まってからやっと彼に会えたのだ。感情はもう爆発していた。シレスクは村で次々と誰かの息子が戦死したと聞く度、大きく唾を飲み込んで、それから誰が死んだのかを聞いた。そして、ジライヤではないとわかるとそうとは悟られない様に安堵していた。安心していたのだ。水を入れた小さな花瓶に一本のタンポポを差して。
「もう殺した! それに農家の息子だった友達はみんな死んだ! みんなだ! ロークも! リピも! 僕と全く同じ、農家の息子がだ!」
だが、ジライヤはシレスクとは違っていた。戦争が長くなるほど死にたがっていたのだ。友を失い、負けて逃げる。自分だけが生き残ってまた負ける戦いをする。それがどんなに悔しく、どんなに辛いことなのか。殺し合っていないシレスクにわかるはずがない。ジライヤも暴発していたのだ。
「……」
それから気が付いた。残っている友、それよりも大事なシレスクがたった今怯えた目をしていることを。虹彩が揺れ、瞼が小さく痙攣していた。
ジライヤは一息、吸って、吐いた。それから陽気な青年の顔を無理やり作り上げて、ありもしないことを言った。
「大丈夫。まだ勝てるんだ」
「……嘘」シレスクは殆んど反射的に答えていた。
「本当さ。イラハリ王が言ってたんだ。まだ起死回生の一発があるって。奴らはこの国を欲しいとは思わなくなるって」
ジライヤは嘘を言わなかった。だが、シレスクはそれも嘘だと分かっていた。彼女はもう分かっていたのだ。口だけが彼に調子を合わせた。
「本当なの?」
「本当さ。でも君は、君達は念の為にここを離れて欲しいんだ」
そのための船だ。彼はシレスクの後ろに聳え立つ巨大な帆船を指差した。シレスクは小さく「わかった」と言った。船が出航準備を告げる鐘を三回鳴らし出した。もうそろそろ、という合図だった。彼女が一度船を確認し、もう一度ジライヤの方を振り返るともう彼の背中しか見ることはできず、もう何かを言う事もできなかった。
シレスクは一本のタンポポを握り締め、血が出るほど唇を噛んでから船に乗り込んだ。船の中はありえないほどの人混みで、動くこともままならないほどだった。すでに船倉はいっぱいいっぱいで甲板さえも同じ状況にあった。だから船員達の殆んどは甲板の少し上、綱を掴んで甲板上に落ちない様に注意していた。また甲板上で作業しなければいけない船員達は空の樽を自分の周りに置いて作業スペースを確保していた。
シレスクはその人混みを、無理やり抜けていった。城が一番見える場所。この船の一番後方だ。如何にか着いてみると、思ったよりも巨大で重い帆船が速く進めることが分かった。既にもう港が小さくなり始めていたのだ。シレスクは願った。たった一本のタンポポに。
その時だった。
城は何の前触れもなく巨大な火の玉に包まれた。シレスクは思わず目を瞑り、それでも眩しいのか顔を両手で覆った。光は何の音もしなかった。発生した音、そのまま光り続ける音。何もなかった。やがて、光が収まるのを感じ、シレスクは城をもう一度見た。そして驚愕した。立ち込める黒煙はそのままだった。港もそのままで、ただ城と、その周りまでもが圧倒的に変わっていた。赤い城壁が白く輝いていた。緑がまだ残っていた赤い街は真っ白に変わっていた。
城は巨大な光と共にその色を失ったのだった。だが、不思議なことに争いも失われた。シレスクは遠い海原からそれを見ていた。耳を澄ませていた。船が波に揺れ軋む音がする。海風が吹き抜ける威勢の良い音がする。それ以外は何も聞こえなかった。いや、聞こえなくなったのだ。船には女子供が数百人いた。彼女らが口々に言うのは不安と恐怖だけだった。不穏の音頭が止めどなく垂れ流れ、気が付けばそれは狂気にも似た叫びに近かくなっていたはずだ。それが、あの光の後、全く掻き消えてしまった。船員達は吹き抜ける風を感じて帆を動かし続けなければいけない。だから常に掛け声を絶やさず、船上は活気に満ちているはずだった。
だが、今では誰も声を上げてはいなかった。
そして、その中でも聞こえていた戦いの激しい音頭、怨恨や断末魔が時折、風に乗って船にまで届いていたはずだった。それは船にいた彼女らの不安を煽り、断末魔に恐怖の叫びを返していた。だが、全くもって何の音もしなかった。
シレスクは願った。この後に聞こえる言葉が自分達の言葉であることを。たった一本の、ジライヤがくれたたった一本のタンポポに。目を瞑り、茎を強く握り締めてまで願った。
だが、聞こえたのは自分達の言葉とは程遠かった。
「ボラー! ボラー! ボラー!」
彼女ら、シレスクも、その言葉に驚いた。知らない言葉は幾度となく連呼され、海を渡って響いてくる。その中に知っている言葉は一つも聞き取れず、船にはどよめきだけが広がっていった。誰もその言葉の意味を知らない。誰かが言った。そうだ。彼らは口々に降参を叫んでいるのではないだろうか。だが、反論は早かった。敗残兵が一斉に口を揃えて降参を叫ぶものか。また誰かが言った。では、休戦、協定を結ぼうという印ではないのか。これにも早い反論があった。ただ簡潔に。休戦の狼煙は上がっていない。誰かが事態を好意的に捉えようと奮闘していたが、誰もそれを肯定しようとはしなかった。
シレスクは心の奥からある言葉が這い出てこようとするのを如何にかうち鎮めようと必死だった。船上では誰もが皆そうだったのだ。彼らを包もうとする悪夢からさっさと這い出たかった。だが、誰もがこうも思っていた。さっさと認めてしまいたい。悪夢に包まれ、いっそ苛まれてしまえば良いのだ。自棄と理性の狭間にあった。
そこで、彼らにまた、大きな試練が降ることとなる。
船員の一人がマストの上から落ちてきたのだ。落下する人体に数人の老女が当たり、周りの数人も一斉にその場から後ずさった。そして、落ちてきた彼をよく見た。まだ二十代ほどで若い彼の喉には黒い羽根の付いた矢が一本刺さっていた。
誰もが第二の敵との戦いを強いられることとなったのだ。自暴、である。すでに自棄へと落ちた人間もいたが、自暴へと転ずる人間の方が圧倒的に多かった。絶叫が合図となって人々は走り回り船倉へと降りようと階段へと人が詰め寄り、あっというまに人々は統制の取れない羊の群れへと変わった。最早階段まで辿り着けないと知って座り込み、自棄に転ずるもの、ただ恐慌の渦から抜け出せず甲板をただただ走り回るもの。海に飛び込むものさえいた。
シレスクはそのどれとも違った、いやある意味彼らと同じだった。その場を動かず、ただ一本のタンポポと向き合った。去来する絶望の象徴にも思えた。だが、彼女にとってそのタンポポは違ったのだ。
叫びや恐れなどどうでも良かったのかもしれない。自暴自棄に曝され、戦えない者達がそのまま戦いをせず、暴れる羊になることなどどうでも良かった。彼女は羊じゃ無かった。だが、彼女はその羊の柵の中にいることを忘れるべきでは無かった。
「ギャ」
羊の一匹が彼女を押し倒し、シレスクはそのまま横倒しになった。不測の事態に体は反射的に行動する。床に手を着き、全身への痛みを和らげようとする。彼女もそうした。一本のタンポポを犠牲にして。
彼女はすぐに気が付いた。自分の手からジライヤが消えたこと。周りを見渡しても羊達が居場所を無くして暴れていることしかわからず、自分の足元にあるわけでもない。この時、初めて彼女の唇は震えた。
そして、もう一度倒れた。違う羊が彼女を蹴ったのだ。きっと無自覚だったことだろう。本能で逃げる動物には周りが見えていなくても構わない。逃げられれば良いのだ。シレスクは頭を強く蹴られたことで軽い脳震盪を起こしていた。もう正常な思考は叶わず、鼻の頭が痛くなった。鼻の下を拭うと、血がベットリと付いている。彼女の目に涙が浮かんだ。
恐怖や絶望では無かった。彼女は這って、踏みつけられ蹴られながら、文字通り血眼になってあるものを探し始めた。震える口が微かに動き、それの名を呼んだ。
「ジライヤ」
感情のままの声だった。彼女は今危機にさらされている。誰かが助けなければこのまま敵ではない人々によって踏み殺されることだろう。しかし、彼女にとってはそれよりも一本のタンポポだった。
「ジライヤ!」
感情のまま、強く叫んだ。彼女は今危機にさらされている。誰かが助けなければこのまま敵ではない人々によって踏み殺されることだろう。しかし、彼女にとってはそれよりも彼だった。
「ジライヤ!」
シレスクは叫び続けたが、誰かがその声に応えることも、一本のタンポポが再び見つかることも無かった。
「星」「リンゴ」「静かな城」(SF)
リンゴ人
彼らは地球人ではない。
地球という星は三世紀ほど前に亡くなり、しかし人類は生き残った。亡くなることを予期していた科学は星を去って彼らが生き残るようにコロニーを建設していたのだ。ただ、それは全地球人類を乗せられるほど大きくはなく、選ばれた数千の人々と後は食物連鎖を維持するよう選別された動物達だった。ノアの箱舟が動物達と共に大洪水を乗り切り、再び地上へと帰ってきたが、この船は行き、無限に続く宇宙をただ静かに彷徨った。
やがて、地球出身は人類でも、その他の動物でもいなくなり、地球は伝説となった。宇宙を漂う静かな城は、今や人類の土壌はこの円筒形に伸びたコロニーしかなかった。
「ねえ、トログ」
B-776番、イサダは自分の肩に乗っているリスに聞いた。脳の大小が知能を決定付けるわけではない。イサダの肩に乗るリスの首筋には微小ながらLEDの青い光が点滅している。リスは鼻をヒクヒクと動かし、彼に答えた。
「どうしたの?」
「地球ってどんな所だったんだろうねぇ」
イサダはのんびりと間延びして遠くを見つめている。イサダの視線の先には広大な点々が広がっていて、それは常に漆黒の中を瞬いていた。
「アーカイブを調べればいいじゃない? 仮想体験だってあるし」
「うん。そうなんだけどさぁ」
手摺を摩って、下を向いた。イサダは今年十八歳になる。未だに弾ける冒険心はそこら中に向いていた。だから、彼はすでにコロニー内の殆どを歩き通し、コロニーの中を隅々まで探検していた。数百の人類が生きる居住区、動物達のいるサファリ、農作物を育てる食料区、小さいがその全てを循環するように設けられた湖。人類が意図的に作った自然環境は清々しいほどに完璧で予測不可能な事態はない。風は空調が作り出し、光はコロニーの中心にある円柱状に伸びた高出力LEDから放出され、これまた制御される。ドローン編隊が農作地に雨を降らし、昆虫型のロボットが受粉や土壌の改善を行っていた。それをイサダは全部見たのだ。しかしだからこそ、彼は物憂げなのだった。リスは自分の頭を撫でると彼に聞いた。
「ひょっとして、まだ宇宙に行きたいのかい?」
「行きたいねぇ」
彼の目は虚空たる宇宙に向いていた。退屈な日常を抜けて星々の光だけに包まれ、常に興奮だけを患いたい。が、彼はそう言った直後、
「行きたいけど、行けないねぇ」
と言って、またを下を向いた。コロニーでの生活は完璧で安全だったが、それでも資源は限られていた。宇宙を航行する巨大な城は堅牢そのものだが、堅牢なだけなのだ。当初、このコロニーの資源は多量にあり、コロニーにはそもそも二つの目的があった。一つは地球の生態系を保存すること。もう一つは地球の代わりを探すこと。巨大な船は探査には向かない。だから探査機を作って宇宙を旅した。そこまでは計画通りだった。しかし、その探査機は一機たりとも帰ってくることはなかったのである。宇宙には何があるかあまりに未知で、地球観測上で知り得る知識などたかが知れていたのかも知れない。または居住可能な星を見つけたが、帰れなくった。もしくは帰らなかった。はたまた宇宙人に、航行中事故に……。理由はそれぞれあるのだろうが、一機たりとも帰らず数千機旅たった資源は戻ってこなかった。今、このコロニーに残っている資源はこのコロニーの存続に欠かせないものしか残っていないのだ。
「……君がいないと困る人は大勢いるよ」
また、人的資源も大いに減った。数千人の生き残った人々は宇宙に、文字通り散った。その中にはこのコロニーを管理する、もしくは改築をする人間が最も多かった。故に、残った管理職はかなりの激務となった。なんせ人類の補充が効かないのだ。イサダは残った管理職の子孫にあたる。しかも最高とは行かないまでも責任ある立場で、彼は常に飛び回っているのだ。コロニー中を回っているのは一重に冒険心だけではないのだ。
鬱々とした彼の部屋の扉がプシュという音と共に開き、そこからタブレット端末を持った一人の女性が現れた。彼女は入るなり言う。
「また問題発生」
「あー、問題、問題。モーマンタイ……」
すると、問題、と聞いた瞬間にイサダはそっぽを向いた。頭を抱えて「モーマンタイ。モーマンタイ……」と呟いている。それを尻目に彼女は彼の肩に挨拶をする。
「こんにちは。トログ。今日は向日葵?」
「違う。朝飯はドングリでした」
二人はフッと微笑み合う。リスなのに口角がニュイっと上がって見えた。と、ミキと呼ばれた彼女は頭を抱えるイサダにもう一度言う。
「さて、問題発生って……」イサダは彼女が口を開いた瞬間に耳を手で塞いだ。「塞ぐな。耳を」彼女は多少苛立ち、彼が耳から手を離すと続けた。「循環器のシステムがイかれてきて、その原因がニュートラルパッケージの腸機変換機構にあるみたいなんだけど……」
「つまり、船外の復調器を一旦止めてその間にパッケージの腸機の調子を取り戻せって?」
途中でイサダが分かった分かったとばかりに要件を要約した。彼は技術管理職。小間使いには慣れている。
「……そう」
「ああ、乳酸菌万歳」
虚ろな目でそう言う。腸機とは、当然生物的な腸とは違う。いわば下水などのリサイクル機構のことだった。その工程はかなり複雑でコロニーにとっては何よりも大事な場所だ。誰かが生んだゴミがそのままだったなら恐らくコロニーは半年も持たないだろう。イサダはトログを肩から下ろし、一発の欠伸と共に彼女と部屋を後にした。
「どうイかれてるんだ?」
白い廊下を歩きながらイサダは彼女に聞いた。
「前と同じ」
「ああ、汚水が逆流か。変圧器に問題は?」
「ない」
「本当に? チェックは?」
「した」
「じゃあ腸機だな」
「だから言ってるじゃない」
「叩いて直す」
「冗談よね?」
二人はある扉の前で立ち止まり、向かい合った。ミキは困惑した表情で彼を見ている。イサダは冷静に言った。
「いや、船外に出て、プレートを開いて、回路基板についたゴミを払い落とす。コイルかコンデンサーがずれたのかもな。とにかく叩いて直す。いつもそうやってる」
ミキは目を丸くした。
「それで直ってたの?」
「回路が焼ききれない限りはな。資源が無いんだ。節約しないとな」
一機械をなるべく長く使うこと。もう三世紀以上使い込まれた機械群はあちこちガタがきている。しかし、修理するにも資源は限られていて、酸素供給機などの最重要機械を除いて完全に壊れてからではないと資源を回すことはできない。以前の修理の際、上役に資源を回す様お願いしたところこんな返答が帰ってきたのだった。この時、お前らの家を解体してやりたいと彼は思った。上役達の贅沢な住居は資源の宝庫と言っても過言では無いほど壮麗で先進的なのだ。行こうか。と言って、彼らは立ち止まった扉を開き中に入る。すると分厚く白く、背中の大きなバックパックが特徴的な宇宙服が並んだ部屋に出る。部屋の奥にはもう一つ扉があって、その奥にはもう一つ扉がある。だが入ってきた扉とは違いこちらも分厚く、重々しい扉だった。
「減圧したら言ってね。それじゃあ」
イサダは座り、宇宙服を着込み始めながら去り行く彼女に手を振って答えた。
宇宙服は軽量に作られているが背中のバックパックは重力下だと存外重たい。彼は前屈みになり分厚い扉に入る。と、扉が閉まり、減圧が開始された。
赤いランプが点灯しそこら中で白い煙が立っている。やがて耳が鳴り出し、ランプは消灯した。続いて、そのさらに奥の扉が開いた。そこにはもう光が瞬く虚空の宇宙だ。
「調子はどう?」
ミキが若干の砂嵐と共に聞いてくる。
「耳鳴りがする以外は特に」
「そう。気をつけて」
「次はアイアンマンのスーツにしてくれ。股間が妙に痒くなってきた」
イサダは冗談を言って宇宙へと足を踏み出した。地に足が着かない独特の不安が彼の心臓を高鳴らせも、警告も発する。放っておけばどこまでも体が流れていく様なこの感覚を彼は不思議と好んでしまう。が、そんなことをすれば死しか待っていないのは重々承知だ。彼は船外の表面を掴みながら移動した。目指すは腸機だ。
「復調器は切ったわ」
彼が船外で最も明るい場所、白い光の中を通っている時にそう聞こえた。この光は優しい灯りくらいのものだが、今は宇宙空間であっても塵に汚れていることがわかる。光っているから余計に。
光を乗り越え、彼は腸機の真上まで来る。白い船体の中に取っ手見える。彼はそこを掴んで開き、内部を覗き込む様に見た。そして、直観で判断し、ある回路基板を右に殴った。もう一発。あ、やべ。今度は左に、優しく。すると。
「……直ったみたい。本当に叩いたの?」
「三十センチ代のコンデンサーが左に曲がってた」
「……叩いたのね」
もう、いいか? と通信を切る。念の為、一応直った様だが、他の箇所も見回っておく。使い込まれた基盤は錆こそ無いものの表面が焦げつくか溶けているものがある。集積回路は治しやすい様巨大に設計されているので多少の焦げならそこまで心配はいらない。彼は回路達から目を離し、
「これで……よし」
とプレートを締め直した。そしてふと、後ろを振り抜いて無限の宇宙を眺めた。光を失わない星々は何億年も、遥か昔の爆発の残響だ。そう勉強してはいるが彼にとってはクリスマスの飾り付けの電球同等に美しい彩りに満ちて見えた。
「終わったのなら戻って。酸素切れになりたいんだったら止めないけど」
イサダは分かったと言い、ハッチへと船の表面を手掴みで這う様に進む。一歩一歩と確実に。そうしていくと途中でかの果物と合間見える事になる。
コロニーの外、彼らの故郷の外には彼らの救い主がいる。円筒形の大地の外側。もう彼らは誰も目にしたことがない地球の果物だ。彼らの救い主。
彼らはリンゴの子供。
白く光るリンゴがコロニーの表面で、イサダの背中でもしっかりと白く輝いていた。