和人はやるせない気持ちで歩いていた。
足は自然と桜下マンションへ向かっていた。
大塚紗香が偽名ではないとは言い切れない。
しかし、彼女があの大塚夫婦の娘さんだとしたら、偽装を深く憎んでいる彼女が偽名を使えなかったと言われれば納得がいく。
「両親を早くに亡くしているので……」
寂しそうに告げた彼女の横顔が頭から離れない。
慣れ親しんだ通勤経路はもはや存在しなかった。
カバーで覆われ外観はすっかり様変わりしてしまったマンション。
カバーの奥に『keep out』の黄色いテープが揺れている。
思い起こせば穴を見つけたのは彼女と初めて会った日だった。
穴が大きくなっていた日も側には彼女がいた。
石蹴りをしていた小学生を焚きつけたのも彼女だ。
シロアリについては……。
そこまで考えて、もしかして公園で少年へシロアリのことを教えたのは……。
そんなことまで考えて頭を振った。
住人を装っていたのはマンションへ頻繁に足を運んでも不審がられない為か。
そして自分へ近付いたのも住人へ穴について管理組合がどう動いているのか確認する為。
そもそもストーカーである矢代は全てを知っていて今回の出来事に加担しているのではないか。
ストーカーはスートーキングする相手のことを深く調べ上げるのではないか。
で、あるとしたら……。
先ほどまで目の前に座っていたうだつの上がらない男を思い浮かべて、あの男に協力を求めるなど考えられなかった。
あの男に協力を求めたとしたら、すぐ警察に……。
いつの日か警官に職務質問をされた時を思い出した。
あの日、顔色が悪かった紗香は果たして……。
そうかもしれないと思うと全てがそうであると思えてきてしまう。
しかしどんなに考えを巡らせても全ては想像の域を脱し得ない。
どこまで彼女が関与しているのか。
全く関与していないのかもしれないが、関与していたとして、彼女は悪なのか正義なのか。
そして……。
奇しくも同じ末路を辿った設計事務所社長の自殺。
あれは本当に、自殺……。
照りつける太陽が容赦なく和人へ降り注ぐ。
暑さからの汗なのか冷や汗なのか分からない額の雫を拭って和人はその場を立ち去った。
二度と偽装が起こらないことを祈って。
そして、自殺する人が二度と現れないことも祈りつつ。
遠くの方から子ども達の元気な声が聞こえて、それらが自分を置き去りにして、別の世界で起きていることのように思えた。
例え、いつの日かの小学生が悪いことをしていても今なら寛大な気持ちで通り過ぎることが出来そうだった。
大通りに出るとすれ違った人混みの中から、彼女から香ったフローラルの同じ匂いがした。
爽やかでほのかに甘いそんな匂いだ。
振り返って彼女を探そうかと思ったが和人は振り返らなかった。
大塚紗香がどこかで生きていて、これからは心穏やかに過ごせていればいい。
ただそれだけだ。
彼女の花が綻ぶように笑う姿へ想いを馳せて、どうかこの世から憎しみが消えますように。と願った。
結末まで書いてあります。
読まれる方は注意してください。
高橋和人はマンションの外壁に小さな穴を見つけた。同じマンションの住人、大塚紗香へ恋心を抱き、彼女の為にも穴を修繕しようと奮起する。
しかし、穴の修繕は腰の重い管理組合のせいでなかなか行われない。
その間に穴は大きくなっていく。
疑わしい人物は誰なのか。様々な人物に翻弄され、釈然としないまま事態は思わぬ方向へと転がっていく。
穴からマンションの偽装が発覚。そして紗香は姿を消した。
後日、紗香のストーカー矢代を問いただすと彼も居場所を知らないと言う。和人のストーカー行為から逃げる為に嘘を言ったのだろうと言われてしまう。そして紗香がマンションの住人ではなかったことを知る。
一人思い悩む和人の元に建築事務所の社長が自殺したニュースが舞い込む。そこから過去の事件を思い出す。
過去にもあった偽装事件。その時に自殺した大塚夫婦。大塚紗香は復讐を果たしたのか。
真実ははっきりしないままエンド。