取り急ぎ必要な荷物をバッグに詰め、仮住まいへ行こうとマンションを出た。
すると外で揉めている若い男女に出くわした。
男女のいざこざほど関わりたくないものはない。
「紗香さん。だからボクと……」
紗香、だって?
これ以上のいざこざに巻き込まれないように、視界へ入れないようにしていた二人の方へ顔を向ける。
女の方と目があって、その人物は和人の知る紗香だった。
男の方は見るからに不審者よろしくのボサボサ頭によれた服。
男の和人さえも近寄りたくない種類の男。
瞬時にいつの日かの「後、つけられてるんです」が蘇って考えるよりも先に男へつかみかかった。
「お前!
迷惑してるのが分からないのか!」
マンション偽装の騒動後、連絡先も住んでいる号数も知らなかった紗香とは会えずじまいだった。
ストーカーのことももちろん心配だったし、大変な時だからこそ支え合えないかっていう邪な考えがなかったわけじゃない。
そして今まさに心配していたストーカーに付きまとわれている。
助け出し、今後のこと、せめて連絡先を聞けたら……。
「和人さん。いいんです」
「え……」
想像とかけ離れた紗香の言葉に愕然としてストーカー男につかみかかっていた手の力が抜けた。
男はその隙をついて和人の拘束から逃れてしまった。
「いいって、何が……」
紗香が何を考えているのか皆目検討がつかなかった。
和人は自分が正義の味方でヒロインを助けるポジションだとばかり……。
「私、彼とお付き合いしますので」
「は?」
呆気に取られて開いた口を閉じることができない。
格好つかない姿のまま二人を見続けて見送ることしかできなかった。
「行きましょう」
「あ、うん……」
ぎこちなく頷いた男の腕を引いて彼女は和人の前から立ち去った。
しばらく和人はその場から動けなかった。
真夏に差し掛かっている日差しは容赦なく和人を照りつけて心どころか体までもカラカラに干からびさせた。
いつも手厳しい上司が和人のあまりのやつれ具合に休みを取るように勧めてくれた。
マンション偽装に巻き込まれ、心身共にやられたのだと労ってくれた。
思わぬ優しさが身に沁みてありがたく休みをもらうことにした。
慌ただしい日々から一線を画した時の流れ。
ゆったりとした時間を過ごすうちに、紗香と元彼とのいざこざに巻き込まれただけだったのだという結論に達した。
一瞬の夢を見られただけ幸せだったと思うことにしよう。
どう考えてもあんな汚らしい男よりも自分の方がよほどいい男だとの自負はあるが、人の好みなんて分からない。
腑に落ちない点はいくつかあるが、彼女とは何も始まっていなかったのだから文句を言う筋合いもない。
せめてぶつかって気持ちを伝えられていたら違っただろうか。
そんな思いが頭をもたげては消えて、ため息を深くさせた。
次にこの人は、と思う人に出会ったらすぐさま行動に移そう。
今回のことでマンションを決める上での心構えに女性、延いては将来の伴侶になるかもしれない人への接し方まで考えさせられた。
次にマンションを買う時は一人ではなく、二人で選ぶことができるよう努力しよう。
もちろん自分の隣には生涯を共にする伴侶……。
取り留めのない考えが浮かんでは消えた。
和人はカフェでコーヒーを片手に外を眺めていた。
街路樹の新緑は濃い緑に変わり、道行く人へ陰を落とし心ばかりの涼を提供している。
ぼんやり道行く人を見ていた和人はある一人の人物を見つけて思わず立ち上がった。
もう二度と視界に収めたくないと願っていた男。
店員に、知り合いがいたので連れて戻ってくる旨を伝えカフェを飛び出した。
願っていた思いとは裏腹に男の腕をつかんでいた。
「ちょ、何、なんですか」
相手は和人があの日の男とは分かっていないのか、怯えている。
「紗香さんと同じマンションにいた高橋だ。
紗香さんのことで聞きたいことがある」
あぁ、あの日の男。
そう記憶を手繰り寄せた様子が男の表情から見て取れた。
「ボクは何も……」
「いいから来てくれ」
半ば無理矢理、今までいたカフェに連れ込んで男を自分の向かいに座らせた。
「彼にコーヒーを」
店員へ声をかけると「ちょ、ちょっと!」と男は動揺している。
「なんだ」
和人がジロリと厳しい眼差しを向けると「ジ、ジンジャエールで」と小さく告げた。
大の大人の男がジンジャエールだって? と、心の中で失笑する。
こいつへ憂さ晴らしがしたいわけじゃない。
ただ自分の中の色々を整理したいだけだ。
そう自分に言い訳をして男を睨みつけるように観察した。
「名前は?」
「……矢代、拓真」
「歳は? 仕事は何してる」
「二十一で、バイトしながら学生……」
さながら取り調べをする刑事の気分で男の素性を暴いていく。
嘘を言っているようにも見えない。
嘘をつくのなら弁護士をしてるだの、有名な画家だの、見栄えが良さそうなことを言いそうなものだ。
男が言うことが本当だとして、どう考えても彼女に釣り合うとは到底思えない。
こいつに言ったところでどうにもならないことは百も承知だが、何か言ってやりたかった。
しかし、それは叶わぬまま。
話はあらぬ方向へと発展していった。
「なん、ですか?
ボクは紗香さんの居場所なんて知りませんよ」
オドオドしながら言葉を発した矢代は信じられないことを抜かした。
わざとなのかと思ったが、そこまで頭が回るタイプには思えなかった。
「……付き合って、いるんだろう」
絞り出すように言った言葉が情けなくテーブルの上に転がった。
嫌な沈黙が流れてから、矢代は力なく首を横に振った。
首を振るたびにフケが舞いそうな汚い頭に閉口するが、今はそうも言ってられない。
自分のコーヒーを最大限、自分の近くへ置いて男と距離を取って訴えた。
「今さら嘘はやめてくれ。
お前は紗香さんの元交際相手で、元サヤに戻ったとか、そういうことだろう?」
今度は矢代が目を丸くする番だった。
それからまとわりつくような視線を浴びせられ、気持ちの悪い笑みを顔に浮かべた。
「お兄さんもボクと同じなんですね」
肌をウジ虫に這われたような錯覚を覚えて「お前と一緒にするな」と低い声を出した。
「ボク、紗香さんのことが好きなんです」
そりゃそうだろうな。
ストーカーだからな。
そう言い出しそうな言葉を飲み込んだ。
矢代が言った「お兄さんもボクと同じ」に囚われて言えなかった。
自分は目の前のこの気味の悪いストーカー男と同類なのだろうか。
一方的に想いを寄せて恋人と思っていた男に詰め寄っている。
自分の方がイタイ男なのではないか、と。
和人が思い悩んで黙っていると矢代は饒舌に話し始めた。
「紗香さんも大変だ。
あなたから逃げたい一心でボクを使って恋人のフリをしたんだから」
そうなのか? その為に……。
矢代の想像でしかない言葉に蝕まれいく。
偽装が発覚し、しばらくしても紗香の居場所はつかめなかった。
苦心の末、心配と多少の下心で『大塚紗香』がどうしたのか管理組合へ問い合わせた。
管理組合は「個人情報ですので」と、教えてくれなかったが、電話応対した人の呟いた声が耳から離れたかった。
「大塚紗香なんて住んでないよなぁ」
その時は偽名を使われたのだと理解してひどくショックを受けた。
だから矢代の「ボクと同じ」にも反応してしまった。
偽名を使われるような間柄だったのだ、と。
「だから住んでるところも解約したのかなぁ」
矢代のまどろっこしい喋り方に苛立ちを募らせながらも言葉尻に引っかかった。
「解約……売却じゃなく?」
あのマンションは賃貸ではない。
渦中のマンションが売れるとは思えないが、解約ではどうにもおかしい。
購入した誰かから借りていたというのか。
そうであるのなら、全ての辻褄が合う。
管理組合が言う「住んでいない」も、矢代の「解約」も。
管理組合は購入者の名前しか知らないということは十分ありそうだ。
一縷の希望を持った和人へ矢代は非情な言葉をかけた。
「前から解約する予定だったみたいですよ。
よほど嫌がられていたんですね、お兄さん」
確かにすぐ退去できないだろう。
そうだとしても聞きたいのはそんなことじゃない。
「だから、紗香さんはどこにいるんだよ!」
苛立ちで声を荒げると周りの注目を集めてしまった。
バツが悪くなり小さくなると矢代はクスクスと笑った。
その仕草が嫌味にしか思えず、和人の気持ちを逆撫でした。
「今まで住んでいたアパートをボクの知らないうちに解約したので、今、紗香さんがどこにいるのかボクにも分かりません」
肩を竦めて見せた矢代に愕然とした。
マンションでなく、アパート。
「それは、もちろん……桜下マンションではないってことだな」
呆然とする和人を嘲笑うように「お兄さんも大概だな。それ、あなたの妄想でしょ?」と言ってのけた。
あぁ、だからストーカー呼ばわりされたのか。
妄想で同じマンションの住人だと言い張っていると。
和人にしてみれば桜下マンションの住人と思っていた紗香が忽然と姿を消した。
偽名を言われたと思ったが、矢代の情報を頼りに購入者から借りていたのかと思い直した。
けれど、根本が違っていた。
偽名でも、また借りでもなく、大塚紗香は桜下マンションに住んでいなかったのだ。
しかし……。
思い返してみてハッとした。
紗香と一緒に帰った日は全て。
エントランスのオートロックは和人が解錠していた。
住人だと信じて疑わず後ろをついてくる彼女に何の疑問も感じなかった。
それにしてもタイミングが良過ぎないだろうか。
住んでいなかったとはいえ、住んでいるフリをしていた桜下マンションに住めなくなった途端、姿を消した。
まるでこうなることを予期していたかのように。
「それに可哀想なんですよ。紗香さん。
前に住んでいたところが今回みたいに偽装マンションで。
だからアパートへ引っ越したんですけどね」
知らなかった紗香の事情に俯いていた顔を上げた。
立て続けに……。
「お、お前、何か他に知ってるだろ」
どうしてか、胸騒ぎがして矢代に詰め寄った。
「何がですか? ボクは何も知りませんよ」
とぼけているのか、本当に知らないのか。
矢代は煩わしそうに返事をするばかりで話にならない。