「大丈夫でしょうか。なんだか怖い……」
紗香は不安げな声を上げた。
その声は庇護欲を掻き立てた。
和人は紗香に近い方の腕を微かに動かしたが、グッと拳を握りしめた。
「大丈夫。俺がなんとかするって」
「……和人さん、が?」
「あぁ。だから心配しないで」
どこから出てきた正義感なのか。
裏切られた気持ちでさえいたのに、やはり彼女を守りたい。
その思いに囚われていた。
彼女とエレベーターホールで別れ、エレベーターを待っている間に管理組合へ電話を入れた。
「先日、マンションのエントランス部分に穴が空いていると電話した高橋です。
今日、見たら穴が大きくなっていました。
早急に対応をお願いできないでしょうか。」
役員はおじいちゃんなのか、いつもくぐもったハッキリしない返事しかくれない。
「そう。でもねぇ、ガラスっていったらそこだけ修復って難しいだろう?
外壁にはめ込んであるガラスを全部外して付け替えってなったら費用も馬鹿にならないし」
本当にこいつも同じ住民なのか。
そもそも自分が住んでいるマンションの目立つ正面部分にあの黄色のテープを貼る神経を疑う。
そして穴が大きくなったと訴えているのに心配するのは費用のこと。
外観、安全、耐久性、耐震性。
それらはどれもどうでもいいのかと物申したい。
しかしこの理解しがたい人も隣人なのだ。
出来れば穏便に済ませたかった。
「修繕には理事会役員の承諾が必要なんですよね?
招集をかけていただいて、とにかく早急に……」
「分かってますよ。
こちらも善処してるんですから」
「そう、ですか。
では……引き続きよろしくお願いします」
電話は切れ、消化不良の気持ちを残した。
なんでこっちが苛立った言い草をされなきゃいけないんだ。
こっちは声を荒げて「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと修繕工事を依頼しろよ!」と、言ってやりたいのを我慢したっていうのに。
嘆息すると恨めしげにエントランス隅の黄色のテープを目の端にとらえた。
こちらからは見えない穴が嘲笑っているような気がしてならなかった。
いつも通りに戻った日々は黄色のテープさえも日常になりつつあった。
今晩も遅くなった帰宅に足取り重くマンションへと歩く。
曲がり角を行った先に紗香が歩いていた。
和人は歩を早めた。
しかし一向に距離は縮まらない。
かなりの早足、それはもうほぼ駆け足くらいになってようやく紗香へと追いついた。
「紗香さん」
「……ッ」
顔を引きつらせた紗香にこちらが驚いてしまった。
紗香は和人の顔を確認するとあからさまに安堵した。
「……なんだ。和人さん」
何に、怯えているというのか。
怪訝な表情が顔に表れていたようで謝られた。
「ごめんなさい。あの、別の人かと思って」
「別の、人って?」
視線を彷徨わせた紗香は言いにくそうに横髪に手を入れて顔を隠すように口を開いた。
「後、つけられてるんです」
「は?」
思わず体を強張らせ、辺りを警戒する。
遅い時間は人もまばらで皆、足早に歩いて行く。
こちらを伺っているような人影は見当たらない。
「今は大丈夫みたいです。
和人さんがいてくださるから」
丸い声がストンと心に降りて顔が緩んでしまいそうになる。
それをなんとか堪えて紗香へ声をかける。
図らずも頼られて喜んでる場合じゃない。
後をつけられているということは……。
「ストーカー?」
和人は声を落として紗香だけに聞こえるように囁いた。
紗香はおずおずと頷いてみせた。
空気が張り詰めたのを感じた。
「あの〜。すみません」
「キャッ」
背後から突然声をかけられて心臓が縮み上がった。
紗香も口に手を当てて悲鳴を上げると息を飲んだようだった。
戦々恐々としつつ、彼女を守らなければと振り返ってますます目を丸くした。
立っていたのは、警官?
「失礼ですが、お二人はどのようなご関係で?」
和人は紗香と顔を見合わせて口を開いた。
「ここのマンションの、住人。ですが」
「そう、ですか。
いえね。最近、不審者がうろついていると聞いてパトロールを強化しているんですよ。
失礼ですが身分証のご提示をお願いできますか?」
「身分証と言われても……」
突然のことに動転してしまう。
動揺すればするほど警官の視線が鋭く突き刺さる。
「あ、会社の社員証で良ければ」
失念していた社員証の存在を思い出し、財布から取り出して警官へと差し出した。
警官はにこやかな態度で接しつつも鋭い眼光は社員証をくまなく観察してから返された。
もしかして彼女のストーカーとでも思われたのか。
「彼女の方もお願いできますか?」
「あ、あの。私は何も持っていなくて……」
「そう、ですか」
何をチェックしているのか。
和人も紗香もそれこそ穴が空くほど見てから「では、お気をつけてお帰りください」と解放された。
警官へ軽く会釈をしてからマンションへと足を向ける。
本当にマンションの住人なのか疑っているような警官の視線が背後に刺さるのを感じた。
「とにかくマンションに帰ろう」
紗香をいざなってマンションへと向かう。
人通りが少ないとはいえ、往来で突っ立っていてはあまりにも目立ったようだ。
警官に再び言いがかりをつけられる前に帰ろうと不自然にならない程度に急いだ。
言葉少なに二人並んでマンションまでの道のりを歩く。
オートロックを開け、エントランス部分に入ってやっと息をつけた。
「大丈夫?」
「……はい」
和人をストーカーと勘違いして、その上、警官に職務質問されたら、普通でいろと言う方が難しいだろう。
自分で聞いておいて大丈夫そうではない紗香に、つい本音がこぼれた。
無意識に口が動いていた。
「俺の、部屋来る?」
「え?」
目を丸くした彼女に慌てて訂正した。
「いや、一人じゃ不安かと思って。
平気なら、いいんだ」
馬鹿みたいな言い訳が出て、紗香は能面だった顔を崩して微笑んだ。
血の気までも引いていたことに今、気が付いた。
「和人さん、お優しいですね」
「いや、そんなことは……」
頭をかいて力なく乾いた笑いを吐く。
紗香は部屋へ来ることの返事をすることなく頭を下げた。
「心配してくださって、ありがとうございます。
おやすみない」
「……あぁ、おやすみ」
紗香はいつもみたいに階段の方へと歩いて行った。
紗香を見送るとふらりと体を移動させエレベーターのボタンを押した。
一階にあったらしいエレベーターはすぐさま扉が開いた。
体を預けたエレベーターで一人になるとため息が出て独りごちた。
「弱みに付け込んで、何やってんだか」
エレベーター内は上へ上がる浮遊感とともに、ただ虚しく機械音がするばかりだった。
あれ以来、日に日に穴は大きくなっている気がした。
しかも毎日少しずつ、気にしていなければ分からない程度に。
しかし確実に大きくなっている穴は外壁にまで侵食し始めた。
どう考えても自然に空いた穴ではなさそうだ。
そして自然に大きくなっているとも考えにくい。
だとしたら、誰が何の為に……。
不意に、見たこともない紗香のスートーカーが思い浮かんだ。
小さな穴のうちは思いもしなかったが、日に日に大きくなる穴に想像が膨らむ。
ここを足掛かりにマンションへ忍び込もうとしているのでは……と。
あり得ない憶測はあり得ないと断言できない怖さがあった。
何より、穴は着実に大きくなっていた。