次の日の昼休み。管理会社へ電話をする。
昨晩は時間も遅く対応が難しいだろうと判断した為だ。
「はい。松岡ハウジングサービスです」
「もしもし。
桜下マンションに入居している高橋です。
マンションの外壁に穴が空いているのを見つけたのですが……」
「左様ですか。
どの辺りか詳しくお聞かせ願えますでしょうか」
和人は穴の位置を詳細に伝える。
マンションエントランス部分の外壁とガラスの境目で植え込みで見にくいが、確かに穴が空いている。と。
「承知致しました。
修繕となりますと管理組合の理事会で承諾を頂いてからの工事になります」
寝耳に水の事態に和人は耳を疑った。
「すぐに修繕工事を依頼してくれるのではないのですか?」
「エントランスはマンションの共用部分ですので」
そういえば契約時にそのような話があった。
自分にすぐには関係のないことだと真剣に聞いていなかったのだ。
マンションに入居する全ての人で構成される管理組合。
マンションの管理を請け負っており、修繕はここを通さなければならない。
管理会社は組合から委託され仕事をしているだけで決定権は管理組合の方にあった。
自身に関係するのは遠い将来、管理組合の役員が回って来る時くらいだと思っていた。
その頃まで独身でいるつもりもなかったし、役員の話が来る頃に組合について知ればいいと思っていた。
まさかこういう場面で関わることがあるとは思いもしなかった。
共用部分どころか自分の家のドアでさえ壊れた際、直すまでに管理組合での承諾を待ったと聞いたことがある。
これは面倒なことになりそうだ。
そう思いつつも脳裏に昨日の紗香の顔がチラついた。
彼女の微笑む顔が見たい。
「和人さんのお陰で綺麗に直りましたね」と言われたい。
邪な思いが後押しして、ものぐさな和人を奮起させた。
「では、直接やり取りするので管理組合の連絡先を教えてください」
管理組合の名簿は入居時にもらっているはずだと指摘され、自分がマンションへの興味もここの住人になった実感も何もかもを持ち合わせていなかったことを改めて感じた。
マイホームに夢を持っていたわけじゃない。
ただ賃貸よりは持ち家でもあれば……程度の軽い気持ちだった。
中古とは言え、軽い気持ちでマンションを買える財力があっただけ恵まれているとは思う。
とりあえず、だ。
紗香へいい顔をする為にも管理組合の理事会へ電話を入れた。
外壁を確認してくれることで話がつき、電話を切った。
息を吐いて窓の外を眺める。
職場の休憩室から見える景色はビルの灰色とくすんだ空。
高層階のここからは街路樹の緑さえ視界に入らない。
いつも通りの風景をしばらく見つめてから仕事へと戻った。
和人が起こした行動の結果は予想以上に芳しくなかった。
数日後、内側から目張りされた黄色のテープが外から確認できた時は思わず「マジかよ」と呟いてしまった。
景観を損なうという言葉を理事会へ贈りたい心持ちになった。
それでもそのテープは『keep out』の意味合いもある気がして、ガラスが割れた部分を塞ぐ役割と人を寄せ付けない意味があるのだと無理矢理思うことにした。
しかし実際は逆の作用をもたらしていたようだった。
目立たなかった小さな穴は悪目立ちする黄色のテープによって、人々の注目を浴びていた。
道行く人が違和感に気づき、立ち止まって塞がれた穴を見ていく。
注目を浴びたことで欠けたガラス部分が危ない、見た目が悪いなどの声が上がり、迅速な修繕工事へ繋がればいいと淡い期待を抱きながら成り行きを見守ることにした。
数日が過ぎ、珍しく早い時刻に帰宅した夕方。
穴の前に小さな人影を見つけて目を丸くした。
手に木の枝を持ち、あろうことかあの外壁の穴を穿っていた。
「おい! 何やってんだ!」
顔を上げた人物と目が合って言葉を失う。
今にも泣き出しそうな瞳は大きく見開いて和人を目に映し揺れている。
つい、「大きな声を出してごめん」と謝ってしまいそうな口を噤んだ。
間違ったことは言っていない。
悪いのはこいつだ。
いつの日か見た小学生と同じくらいの年の頃なのに、明らかに違う。
顔は色白く、手足も細い。
生気を感じられないのだ。
小学生男子と言えば煩くてやんちゃで悪ガキ。
その枠組みから大きく逸脱しているであろう目の前の男の子に胸が痛くなった。
まるで昔の自分を見ているようで。
「ごめ、んなさい」
消え入る声が耳に届いて我に返る。
慌てて厳格な大人の顔を取り戻して言った。
「危ないからこんなところで遊んでちゃダメだ」
「……はい」
頭を下げた男の子は背負っていたランドセルの肩にかかるベルト部分を握りしめて走っていく。
今まさに穿っていた外壁のマンションの中に。
「自分のマンションに悪戯しちゃダメだろ」
呟いた言葉は空を彷徨った。
正論を振りかざしているはずなのに、心はどこか晴れなかった。
穴の前の植え込みに少年が置き去りにした木の棒が転がって哀愁さえ漂っているように感じた。
和人は胸の痛みを感じながら、それを植え込みの奥へ追いやった。
剥がれてしまった黄色のテープ。
マンションのエントランス側に回って貼り直してみる。
凄まじい粘着力に苦心したがなんとか再び穴を塞ぐことが出来た。
大人しそうな子がどうして悪戯なんてしていたのか。
深く考えてみれば何か違ったかもしれない。
しかしその時は、もう少し穏やかに叱ってやれば良かった。
そんなことしか思い浮かばなかった。
あれ以来、紗香に会っていない。
しかし、いつ会うかは分からない。
同じマンションだ。
思いがけず会うこともあるだろう。
穴が綺麗に塞がれるまで自分が見届けなければとの思いが芽生えていた。
どこにそんな使命感を持ち合わせていたのか自分でも不思議でならない。
数日経った今も黄色のテープは健在で、いつになったら修繕工事に取り掛かるのだろうと不信感を募らせた。
休日出勤を終えて帰る帰り道。
昼過ぎの帰宅は鋭い日差しに晒されて焼け焦げてしまいそうな暑さだった。
真夏はまだまだ先のはずなのにサラリーマンにはつらい季節がすぐそこまで音を立ててやって来ている。
ネクタイに指をかけ首を振りながら緩めると幾分楽になった。
いつも通りコンビニに寄って昼間っからビールでも飲もうと物色して再び暑い日差しのもとへ舞い戻った。
木陰の下を歩いているといつの日かのデジャブのように騒がしい声が響いた。
「そう! こっち! スゲー!」
「次、俺やる! 俺やる!」
嫌な予感がして足早にマンション正面へ回り込んだ。
ガッ。
不穏な音を立てた外壁。
すぐ近くに石が落ちている。
毎日気にしていたから、この石が今朝までなかったことは明らかだ。
加えて賑やかだった声は静まり返り「ヤッベ。またあのジジイ……」と呟いた声を聞いた。
それだけで十分だった。
沸点は振り切れて頭に血が上った。
そもそも俺はジジイでも、おっさんって歳でもない!
怒りに我を忘れ、悪ガキどもをよく確認せずに怒鳴りながらそいつらの方へ向かって意見した。
「お前ら! いい加減にしろよ!
前にも危ないって注意……した、よな」
焦点はある一点に集中して言葉を詰まらせた。
小学生に紛れて突っ立っている、紗香。
いくら小柄でもさすがに小学生に混じっていると目立っていた。
目が合った紗香は口早に言い訳を始めた。
「ごめんなさい。
石蹴りだなんて懐かしくて。
どこまで飛ばせるかなって競争してしまっていたんです」
「だって、飛ばした石は外壁に当たって……」
自分があんなにも心を砕いて穴へ関心を寄せていたのに、紗香は何も考えていなかった。
空回りしていただけの行動が痛々しくてやり切れない。
「つい夢中で……。本当にごめんさない」
申し訳なさそうに謝られても虚しいだけだった。
固まったままだった小学生達は和人と紗香のやり取りを傍観していたが、示し合わせたように声を揃えて頭を下げた。
「すみませんでした!」
それだけ言うと逃げるように去っていく。
残された二人は二人の間にある地面を見るともなく見つめた。
「……あの穴。
テープ、貼ってもらえたんですね」
初めて気付いたような口ぶりに辟易する。
それでも穴の方へ歩み寄る紗香の後ろ姿を目で追った。
自分の横を通り過ぎる時に香ったフローラルに胸が疼く。