「ふざけんじゃないわよ……!!」

 新年は晴れやかな気持ちで迎えるつもりだった。それなのに、わたしは叫んでいる。空は、わたしの気持ちとは正反対だ。雲ひとつなく晴れわたる青空。そんなところでわたしは荒んだ気持ちを吐き出している。
 そうして、それは白い息に変わる。
 晴れていても、暖かさは感じない。セーターと厚手のコートを着て、十分暖かい格好をしているはずなのに寒く感じるほど、気温は低かった。

 わたしは右手で持つ薄いピンクの風呂敷に包まれたお重を睨みつけた。
 昨日、本を見ながら初めて作ってみたおせちだ。今頃、これを彼氏と一緒に食べるはずだったのに、わたしは一人でここにいる。
 瞳にこみ上げてきそうな熱いものをこらえるため、いったん空を見上げて目をつむる。ようやく瞳の熱がおさまり、首をおろすと、辺りを見回した。

 舗装されてない砂利道と葉の落ちた茶色の木々、花壇には赤い実のついた低い木や草。
 ここは駅から住んでいるマンションの帰り道にある小さな公園だった。遊具も何もなく、ただ緑とベンチがあるだけで、5分もあればぐるっと一周できる。
 普段なら、こうやって歩けば誰かとすれ違う。
 犬の散歩する人、緑を見て和みにくる人。
 だけど、1月1日、元旦の今日は静まりかえっていた。
 そりゃそうよね。元旦は初詣だったり、福袋を買いにだったりで、公園でのんびりする人なんていない。

 砂利道を10メートルほど歩くと、ベンチのそばに目当てのごみ箱を見つけ、早足でそこへ向かった。
 たどり着くなり、包みをもった手をのばして、ごみ箱の上にやる。
 作るのは大変だったけど、食べる気分にはとてもなれなかった。でも、家で捨てると、このおせちが目に入って、その度に彼のことを考える自分が想像できて、嫌なんだ。そこで、本当はこんなところで食べ物なんて捨ててはいけないんだけど、公園のゴミ箱で捨ててしまうことにしたんだ。

「おせちを作って、重い女で悪かったわね!!」

 すうっと息を吸い込むと、どうせ誰もいないんだから、と心に溜まったうっ憤を震える喉にのせて発散する。

「一緒にお正月らしいことしたいと思って、どこが変なの。結婚考えちゃいけないの!?」

 ああ、ダメだ。もう限界かもしれない。
 まつげが濡れる。
「健吾(けんご)は21歳でも、わたしは25歳なんだ。結婚してる友達だっている。結婚してもおかしくない歳だっつーの!!!」

 でも、こうして叫びながら気づいたことがある。
 わたしは彼のことを好きじゃなかったのかもしれない。悲しいのではなく、悔しさから涙がにじむ。
 脳裏には、30分前に別れたばかりの、整った顔が思い浮んだ。

 ゆるいパーマをくしゃくしゃにセットした、少し長めの茶髪、二重の大きな瞳、きりりとした眉、すっと通った鼻筋、薄い唇で、いわゆる、イケメンの彼氏だった。
 今思えば、彼、健吾のことをわたしは見た目で選んだんだ。
 自己中で、わたしのことなんて考えてくれない。だけど、ときどきは振り返って待ってくれる。
 そんなところがあるから「付き合おう」って言われて、頷いてしまった。

 彼だって、きっと、わたしが好きなわけはなかったと思う。
 付き合ってから、わたしよりも可愛い女の子と歩いてるところを見たこともあった。浮気しても文句を言わない彼女が欲しかっただけなのかもしれない。

 わたしも、ただ温もりが欲しかっただけなんだ。あの人のことだけを悪く言えた立場じゃない。
 でも、荒れた気持ちはそう簡単におさまりそうもなく、最後にもうひと怒鳴りした。

「絶対にもっといい彼氏を見つけるんだからー!!」

 そうして、包みを掴んでいた手を離そうとした。
 しかし、その前に、どこからかパチパチと拍手の音が聞こえてきた。

「え?」

 一瞬、自分の耳が変になったかと思った。
 なんで、拍手?
 音の発生源を探そうと、振り返る。それは私の真後ろにあった。
 少し離れた位置に立っている長身の男性だ。わたしと目が合うと、関西かどこかの独特のイントネーションで話しかけてくる。

「えらい意気込やね。思わず、応援したくなるやん」

 声は低く、それでいてどこか甘い。ずっと聞いていたくなるような不思議な声の持ち主だ。自分が声フェチだなんて思ったことないんだけど、こういうのを美声って言うんだろうか。

 男はグレーのジャンパーに、黒のパンツ、黒の靴という装いで、髪は短い黒だ。
 ニッと笑いながら、近づいてくる。

「ところでさ、それ、捨てるん?」
「そ、そうだけど」

 見知らぬ男に話しかけられ、警戒心を抱きながらも、頷いた。

「この時期に四角い包み。しかも、さっきの叫び。てことは、それっておせちやろ」

 わたしは言葉もなく、ただ首を縦に振った。
『さっきの叫び』って、一体、どこから聞かれてたんだろう。
 いけないことをしてる気分になり、お重をごみ箱の上から胸の前に抱えなおした。

 目の前に立つ男は、5センチのヒールを履いて170センチ近くあるはずのわたしより、さらに頭ひとつ高かった。
 頬は少しこけていて、無駄な肉がついてるようには見えない。それなのに、決してやせ細った印象を与えないその体は鍛えられているんだろうか。
 奥二重の瞳は、元カレに比べたら小さいけど、まっすぐに伸びた太い眉もあいまってか、顔が濃く見える。
 冬なのに浅黒い肌をしているし、精かんな男といった感じだ。

 脱いだらすごそう。
 つい、変な方向へ思考がいってしまった。

「捨てるんなら、俺にくれへん?」
「は?」

 男はわたしの前まで来ると、おせちを指さして言った。
『くれへん』って『ちょうだい』って意味だよね。

「食べるの、これを?」
「ああ。一人で暮してるから、もう何年もおせちなんか食べてへんねん。やっぱ、正月にはおせちが食べたくなるやん」
「何年も食べてないって、お正月なのに実家に帰らないの?」

 大きな声を出してしまい、たくさんの息が白に染まった。
 この人が何歳だか知らないけど、わたしよりは年上に見える。学生じゃあるまいし、帰省するお金がないようには見えなかった。

「仕事が忙しいねん。31日まで仕事やから、帰る気になれへんくて。帰っても、ゆっくりできんと疲れるだけやし。で、それ、食べてもええんか」

 もう一度訊かれ、自分の抱える包みを見た。
 今頃、彼氏――『元彼氏』が正しいんだけど――に食べてもらうはずだったコレ。
 おせちって品数は多いし、手間のかかるものばかりだから、昨日一日がかりで作った。
 あんなに頑張ったんだから、食べてもらったほうが救われるのかもしれない。
 いくら嫌な目にあったからといって、ごみ箱行きはこのおせちもかわいそうだよね。

「……いいよ。あげる」

 そう言って、包みを差し出す。でも、男は受け取らずに、辺りを見回した。
 伸ばした腕をどうしたらいいのかわからなくて、戸惑った。

「あの、だから、これ……」

 男は顔をわたしの前に戻すと、ポケットの両手を突っ込んで訊いた。

「ここやと寒いし、どうする」
「ここやとって?」

 どうする、と訊かれても、彼が何を尋ねてるのかわからなかった。
 ここだと寒いってことは、食べる場所を探してる?

「おせちはいらないから、家に持って帰って、全部食べてくれていいよ」

 食べてもらいたかった人には受け取ってもらえなかった。
 それどころか、おせちを作る女なん重いって、そんな家庭的な女なんて求めてないって言われたんだ。
  当分は作ろうなんて思わないだろうし、こんな嫌な思い出のこもった重箱もいらない。

 わたし達のあいだを、びゅっと冷たい風が吹き抜ける。
 手袋をしていない手から体が冷える。
 早く家に帰りたくなって、受け取ってもらえない包みを男の胸に押しつけた。

「入れ物ごと持って帰ってくれて構わないから!」

 それでも、男は受け取らない。
 欲しいって言っておいて、一体、何なの?
 顔をあげていぶかしげに男を見ると、白い歯を見せて笑っていた。

「そんな冷たいこと言うな。一人で食べるんは寂しいし、付き合ってくれや。それがここにあるってことは、あんたもまだおせち食べてないんやろ」

 図星だった。
 今年は一人寂しく食べなくていいんだと思ってたんだもん。健吾と食べるのを楽しみにしてたから、家でも食べてきてない。
 せいぜい、作ってるときに少し、味見でつまんだくらい。

「……わかったわ。でも、ここじゃなかったら、どこで食べるの? 店に持ち込んだら、怒られるわよ」
「だよなぁ」

 男は顎に手をあてて、考える仕草をした。

「……仕方ない。俺の部屋に来るか」
「は?」

 悩んだ末に男の出した結論の驚き、ぽかんと口を開けた。

「あなたの、家?」
 わたしは顔をしかめた。
 それはどう考えたって、マズイでしょ。知らない男の家についていけるわけがないじゃない。
 おせちを食べるだけで終わるとは思えないし、ついてく時点で何をされても文句を言えなくなる。

「気にせんでも、変なことはせえへんよ。ゆきずりの女抱くほど、女に困ってへんし」

 その言い草にカチンときた。腰に手をあて、偉そうに言い返してしまう。

「あっそう。じゃあ、連れてってもらおうじゃないの」

 売り言葉に買い言葉ってやつだ。
 わたしだってゆきずりの男なんかとどうこうなりたいわけじゃないけど、女としての価値がないと言われてるようで、むかついた。

 そりゃあ、普段はトレーナーにジーンズなどカジュアルな格好で、仕事に行くときはブラウスにカーディガン、パンツなどで、どちらかと言うと手抜きな格好ばかりだけど、今日は違う。
 久々のデート、しかも年初めだから、気合いを入れてオシャレしたんだ。

 明るめのカラシ色のセーターに、灰色と黒のチェックのスカート、白いコートを着ている。足元は薄手の黒タイツと黒のストレッチブーツ。
 髪の毛だって、クリスマスの直前に美容院に駆け込んで、腰まで伸びた髪を切りそろえ、ふんわりとパーマをあてて、赤系の焦げ茶に染めた。
 眉も整え、化粧もいつも以上に気合いを入れた。
 女として見れないほど、ひどくはないはずだ。

 男はふっと笑うと、背を向けて歩き出した。
 ついて来いってこと?
 重箱はわたしが持ったままだ。受け取らないことで、わたしが逃げ出さないように計算してるように思えて、一層、むかついた。
 このまま、男の後を追わずに、自宅に帰ってやろうかしら。

 歩いて5分ほどのところにわたしの住んでいるマンションがある。
 でも、逃げだしたと思われるのは癪だし、この男について来られても困る。
 仕方なく、男の一歩後ろをついて歩いた。
 公園を抜けて、右に曲がる。
 うちと同じ方向だ。

「ねえ、この辺りに住んでるの?」
「ああ。そうやで」
「ふーん」

 ということは、ご近所さん?

 公園の前の道には飲み屋さんなどの小さな店が立ち並び、その前を通って、次の信号で左に曲がる。
 それもうちと同じ。
 歩き慣れた道なのに、今は逆にそれが落ち着きをなくさせ、キョロキョロと周りを見てしまう。
 すると、男がいきなり振り返った。

「そういや、おたく、名前なんていうんや」
「わ、わたし?」
「そう。なんていうんや」

 名前まで知られるのは嫌だ。着いてきてしまったことを後悔している。
 どうしよう。
 迷った末、下の名前だけ教えることにした。

「……カスミ」
「カスミ? 可愛い名前やな。俺は誠司(せいじ)。誠実の誠に司るや」

 ――反則だ。
 誠司と名乗った男の顔を見て、思う。そんな顔をされると、嫌だと突き放すことができなくなりそうだ。
 彼は目を細めて嬉しそうに笑っていた。

 どうしてそんな風に笑えるんだ。苗字も漢字も教えない、ひらがなかカタカナでしか認識できないカスミなのに。本名かどうかもわからないはず。
 それでも、わたしはずる賢く、漢字を伝えない。
 会ったばかりの男に本名をそのまま教えると、わたしのすべてを知られてしまいそうで怖い。

 ぼそっと小さな声で、名前を褒めてもらったお礼を言うと、あとは無言で歩いた。
 やがて、わたしの住むマンションが見えた。

 茶色の外壁の5階建ての5階に部屋がある。エレベーターのない古くて安いマンションなので、毎日、上り下りが大変だ。運動をする機会があまりないので、ダイエットだと思って頑張ってる。
 そのせいもあって、ヒールの高い靴は履かない。今日は5センチだけど、普段はもっと低い。
 行きは下りだからいいんだけど、帰りはただでさえ疲れてるのに上りなんだ。くたくたの足で上るのは、わたしには重労働に感じる。

 そんなことを考えてるうちに、マンションのすぐ前まで来て、不安になった。
 まさか、同じマンションじゃないよね?
 ドキドキしながら誠司さんの動向を見守っていると、彼の足はマンションの玄関口を素通りし、わたしはホッと小さく息をついた。
 さすがに、そこまで偶然は重ならない。
 さらに、信号を3つ渡ってすぐ、グレーのマンションの前で誠司さんは立ち止まった。

「ここやから」

 ポケットから手を出して、マンションを指さす。わたしはそれを見て頷いた。
 わたしのマンションより少し高く、7、8階はありそうだ。マンションの横手から後ろにかけて広い駐車場がある。
  大きな玄関口は道に面してあり、中に入るととても綺麗だった。外観も綺麗で、おそらく新しい建物なんだろう。
 駅からは少し離れているけど、わたしのマンションよりいいマンションな気がする。

 郵便ポストを横目に見ながら、玄関ホールを抜けると、その奥にエレベーターホールがある。
 エレベーターは一機。
 1階に下りていたので、すぐに乗り込むと、ボタンは7階まであり、誠司さんは6階を押した。
 浮遊感をわずかに感じ、しばらくしてから6階に着く。

 エレベーター自体は古いタイプなのか、すぐに目的階につく最新のエレベーターに比べると、ひとつ上るのに時間がかかる。
 そういうところにちょっと安心した。
 オートロックでもないし、綺麗に見えても安めの部屋なのかもしれない。
 比べても仕方ないことだけど、住んでる部屋にあまりにお給料の差を感じると少し悔しくなってしまう。

 6階で降りると、廊下は左右に伸びていて、誠司さんは右の道を行く。
 ついて行こうとすると、彼はすぐに止まった。

「ここや」

 指し示された扉を見る。603号室、そこが彼の部屋だった。
 表札に名前は書かれてないので、苗字はわからないままだ。
 誠司さんは扉を開けて、先にわたしを促した。

「どうぞ」
「おじゃまします」

 中を観察しながら上がりこんだ。