遥が鏑木家を出た、その日。
向坂紫は《土の星》の当主になった。
《当主継承式》には、六星一座の重鎮達が大勢参集すると聞いてはいたが──その賑わいぶりは、想像を遥かに超えていた。
実を言うと…ボクは内心、不安だったのだ。
向坂家で起きた一連の事件は、公には伏せられている。
それでも、真織に関する不穏な噂は、何処からか漏れ伝わっていた。だから、つい考えてしまう。
もしかしたら、誰も来ないのではないか?
折角のお祝い事に、水を差す様なトラブルが起きはしないか─…?
向坂家に対する不信感が、一座に拡がってしまう事を密かに恐れていたのだが…それらは全て、ボクの取り越し苦労だった。
邸内は、既に多くの招待客で活気付いている。式典会場となった本堂は、最早、立垂(リッスイ)の余地も無い。
各家の当主は勿論、筆頭総代、四天、壇家、門下等々…見知った顔も見知らぬ顔も、沢山あった。
蔡場家は──当主・篝の名代として、妹の瞳子(トウコ)が参座していた。
「この度は、姉が大変なご迷惑を御掛け致しまして、誠に申し訳ございません。」
そう言って深々と頭を下げる瞳子は、とても立派だった。十三歳の少女とは思えない貫禄がある。顔立ちは篝に良く似ているが…どうやら、性格は正反対の様だった。
瞳子は見るからに健康的で明るく、活達な少女だ。短い髪が、強く光を宿す大粒の瞳に良く似合う。自信満々で物怖じしない性格も、篝とは真逆だ。
だがやはり、当主としての『資質』は、篝の方が断然優っている。瞳子に会って、改めてそう実感した。
蔡場篝には、見た目には映らない芯の強さと清廉さ、当主に相応しい責任感と慎重さが備わっている。
同じ姉妹でも、その差は歴然としていた。
「よぅ、薙!遅かったな。」
式場に入るなり、火邑烈火が声を掛けて来た。
「お前の席は此処。俺の隣な?」
「席順は予(アラカジ)め決まっているみたいだよ??」
「そんなの無視無視。良いから座れよ、ほら!此処だ、此処!!」
相変わらずの強引さ…でも、良かった。
怪我もご機嫌もすっかり治ったらしい。
完全に、いつもの調子を取り戻している。
ホッと胸を撫で下ろした、その時。
ドォン、ドォンドン…!
大きく空気を震わせて、式典開始の太鼓の音が轟いた。
現当主・玲一に続いて、新当主・紫が入堂する。二人共、黒地に金糸で《獅子》を刺繍した着物と鶯色の袴を纏っていた。
黒は『死と再生』を表す向坂家の色…。
《獅子》は、その雄叫びで衆生(シュウジョウ)の迷妄(マヨイ)を払うと言われる聖獣で、《土の星》の象徴である。
儀式に臨む紫は、凛として美しかった。
全ての所作を堂々と熟(コナ)す姿に、嘗ての幼さなど微塵も感じられない。
当主たるに相応しい風格が漂っていて…まるで別人の様だ。晴れがましいその様子を、大勢のゲストが見守っている。
この式典には、日本を代表する名刹(メイサツ)の貫主(カンシュ)や、門跡らも大勢招待されていた。本堂の一段高い貴賓席に、ズラリと居並ぶ様子は圧巻である。
ボクの継承式でも、こうした高僧方が、ゲストとしてご臨席になるのだろうか??
…頑張らなきゃ。
今日は紫の所作や姿勢を、ちゃんと目に焼き付けて措こう。
──そうして。荘厳な雰囲気の中、継承の式典は無事成満したのだった…。
その後、祝いの酒席が設けられた。
ご馳走と銘酒がふんだんに振る舞われ…遂には、一座名物のらんちき騒ぎになってしまう。
…まったく。
どうして皆、こうも酒好きなのか?
一緒に参座したおっちゃんなどは、既に酩酊状態だ。ベロンベロンに酔っ払って手が付けられない。
置いて帰ろう…。
こんな大きな人、ボク一人で連れ帰るなんて、到底無理だ。
盛り上がる宴席を半ば呆れつつ眺めていると、不意に、ボクの向かいに向坂玲一が座った。
「首座さま、この度は…何と御詫び申し上げれば良いか…」
そう言って、深々と頭を下げる。
少し窶れたその顔を見ていると、胸がギュッと締め付けられた。
…ボクの中で、真織の魂が強く反応している。
「誠に面目次第もございません。私が不甲斐ないばかりに、この様な不始末を…。」
玲一は益々深く体を折って、額を畳に擦り付ける。ボクは恐縮して、それを制した。
「頭を上げて下さい。折角の祝いの席じゃないですか…」
「いえ。本来ならば、もっと早くに、こうして御詫び申し上げなければならなかったのです。それを…」
玲一の気持ちが、『痛み』となって魂に刺さる。嘆いているのは、ボクか…それとも、半分に分けた真織の魂なのか。区別は到底付かなかったけれど…。
ボクは、彼の肩を支えて無理矢理面を上げさせた。
「貴方が悪いんじゃない。最初から誰も悪くなんか無かった。だからもう、この事を語るのはやめにしましょう。」
「首座さま…」
「首座命令です。やめましょう。ね?」
玲一は、ガクリと頭を下げると、項垂れたまま頷いた。
《土の星》は、変わるのだ。
新当主・向坂紫の着任によって。
だからもう、前を向いて歩まねばならない。
大騒ぎしている宴席を抜け出し、ボクは独り中庭へと降りた。
外の空気が吸いたい。
どんちゃん騒ぎは懲り懲りだ。
打って変わって静かな中庭では、真っ赤に色付いたナナカマドが、夜風に揺れて、静かに葉を散らしていた。
ヒンヤリと秋の夜露が降りて来る。
酒気と熱気に当てられて、ほんのり汗ばんだ額を、冷たい秋風が心地好く撫でた。
…見れば。
此方の中庭にも、古い数寄屋がある。
甲本家のそれよりは小さいけれど、風情ある立派な建物だ。興味本位で近付けば、其所には既に先客がいた。
「…隆臣さん?」
小さく声を掛けると、数寄屋の前に立つ人影が、ゆっくりと振り返る。月明かりを背にした長身のシルエットが、一歩だけ、こちらに近付いた。
「これは首座さま──。如何なさいました?此方で、何を?」
…先に言われてしまった…それは此方の台詞なのに。
向坂隆臣。
新生《土の星》の北天を相承《そうしょう》した人。底知れぬ力の、降伏の行者。
返答に困って立ち尽くしていると、隆臣は直ぐ目の前まで歩み寄った。圧倒的な身長差に、思わず上目遣いになる。
隆臣は、ボクを見るなりフワリと表情を和らげた。
「夜気は、お体に良くありません。首座さまは着任式を控えておいでなのだから。」
そう云うと。
隆臣は、自分の羽織を脱いでボクに着せ掛けた。
「では…御前、失礼致します。」
そのまま小さく一礼して立ち去ろうとする。
その時。屋敷の方から此方に向かって歩いて来る、紫の姿が見えた。
擦れ違いざま、隆臣は一度足を止め、新当主に何やら耳打ちする。それに小さく頷くと、紫は、ゆっくり顔を巡らせてボクを見た。
何を…話していたのだろう?
思わずパチクリと瞬きをする。
紫は、そのままゆっくり歩を進めてボクの前に立った。
「薙。」
こうして名前を呼ばれると、『あぁ、やっぱり紫なんだな』と思う。
式典での堂々とした姿を見ていたら、まるで知らない人の様で…ボクは、情けなくも気後れしてしまった。
またこの笑顔に会えて、嬉しい。
微笑み返すと、紫も安心した様な顔をした。
「薙が外へ出て行くのが見えたから、追い掛けて来ちゃった。どうしたの?気分でも悪いの??」
そう言って傾げた白い顔が、闇の中に際立って見える。ボクは、小さく首を振って答えた。
「平気だよ。ちょっと気分転換がしたかっただけ。それより、良いの?主役が抜け出したりして…」
「いいよ。どうせ、みんなもう酔っ払ってグチャグチャだし。二人抜けたところで、誰も気付いていない。」
「確かに、そうかも。」
二人で顔を見合わせて、また笑った。
紫は、あらゆる意味で、ボクに『近い』気がする。
年齢も勿論だが、感性や視点が似ているのだ。異性なのに、他人の様な気がしない。
もし、ボクに兄弟がいれば、きっとこんな風なのだろう。──何しろ、添い寝までした仲だし。
そんな事を考えていたら、紫がフワリと抱き付いて来た。
「…こうしていると安心出来るんだ。今日は少し頑張り過ぎちゃったから、ちょっとだけ充電させて?」
「あ、あはは…充電かぁ。一日中大変だったものね。お疲れ様。」
紫の行動には、他意が無い。
それが解るだけに、ボクも拒まなかった。
いつもの癖で、背中をトントン叩く。
すると…
「駄目だなぁ、薙は…!」
パッと顔を上げるや、紫は怒った様な顔で、ボクの眼を覗き込んだ。
「あのね、薙?ここは、キッパリ拒絶するところだよ?簡単に、男の手の内に入っちゃ駄目!!」
「え…だって、紫だし…。」
「俺、そんなに子供っぽい?」
「いや…決してそういう意味では…」
紫の一人称が、『俺』に変わっている。
いつから?──そして。
何故ボクは怒られているのだろう??
様々な疑問が脳裡を掠めて、咄嗟に整理が付かない。
すると。混乱するボクを見て、紫が苦笑混じりに溜め息を吐いた。
「──もう大丈夫なんだ、そんな事をしなくても。夜も、独りで眠れるしね。」
「ごめん…以後気を付けます…」
「うん。これからは、年相応に見て欲しいな。薙と同じ十九歳の男として。」
「そ、そうか…当主になったんだもんね。黒い着物も良く似合っている。」
それは、正直な感想だった。
白い小さな顔に黒目がちの大きな瞳。
着物の色と同じ漆黒の短髪が、ぬばたまの夜に溶けてしまいそうだ。
闇の支配者──黄泉の番人、向坂紫。
もう…成長を止めた小さな男の子じゃない。
彼の変化を、改めて反芻していると、不意に紫が語り始めた。
「黒は、無と混沌を意味しているんだ。人は皆、無から生まれて、最期は、無に還って逝く…その虚無を表す漆黒が、向坂家の『色』なんだ。」
そうして密着していた体を、静かに離す。
「薙も、良く似合っているよ。白い菊花模様が秋らしいね、京友禅かな?綺麗な着物だね。」
「えーと…和装に詳しくないから、良く解らないんだけれど。苺が選んでくれたんだ。」
「マイちゃんが?」
刹那、紫の顔が曇った。
「マイちゃん…どうして、逃げちゃったんだろう?久し振りに、ゆっくり話がしたかったのに。」
ぽつりと呟いて視線を落とした紫は、今にも泣き出しそうな顔をしている。そうして、やおら突拍子も無い事を言い出した。
「…俺達…付き合っていたんだ。」
───はい?
今…物凄い事を、さらりと言われた気がする。
だが、訊き返して確認するのが怖い。
『付き合っていた』とは、どういう事だ??
正しい意味を理解した上で言っているのか?
紫は男の子で、苺も…以前は男の子で。
その二人が『付き合っていた』、と──??
「…それ、いつの話?」
「俺が小学六年の時。マイちゃんは、中学二年生で、髪もまだ短くて…『男の子』の格好をしていた。」
し、小学生───っ!?
「二人は昔から仲が好かったんだね?」
単に、それだけの意味であって欲しいと願いながら、わざと明るい口調て訊ねてみる。すると紫は、カクンと首を傾げて─…
「うーん。仲が好い…と言うか。普通に恋愛関係だったけど?」
…いや。それは、あまり『普通』じゃない。
衝撃のカミングアウトに、ボクは頭が真っ白になった。どうにか事情を理解しようと努力するのだが、思考が凍結して、それ以上働かない。
密かに顔色を無くすボクを他所に、紫は当時を回想しながら言う。
「付き合って欲しいって言い出したのは、マイちゃんの方だったんだ。最初は、どういう事なのか意味が解らなくて…マイちゃんの言う通りにしていた。その内に、『付き合う』という意味が解ってきた。」
何、意味が解った…だと!?
それはつまり、彼等は承知の上で──その…つまり、そういうあれで、あれなのか?!
「あ、ああああのさ…紫?それってつまり、二人で遊びに行ったりだとか…単にそれだけの事だよね?」
「勿論、遊びに行ったりもしたけど。キスもしたよ。それ以上の事も…」
──キス以上。
駄目だ、目眩がしてきた。
二人がそういう関係だったなんて…。
いや。恋愛は個人の自由だ。
理性では、そう思うのだが…。色事に免疫の無いボクには、あまりにもハードルが高過ぎて、附いて行けない。
出来れば知りたくなかった二人の過去。
なのに紫は、何でも無い事の様に話を続ける。
「そりゃ最初は、びっくりしたよ。凄く痛かったし、何をされているのか自分でも良く解らなかった。だけど回数を重ねる内に、段々…」
「解った!! 解ったから、その先は…!」
「薙?」
…もう続きを聞く勇気がない。
両手で耳を塞いだボクを、紫は怪訝に覗き込んだ。
「どうしたの?物凄く顔色が悪い。俺…何か気に障る様な事した??」
「ごめん…ちょっと目眩が…」
「本当に?? 大変だ、どうしよう?! 何処かで休もうか?ごめんね、気が利かなくて。『無理させちゃいけない』って、今も隆臣に言われたばかりなのに…」
心配そうにボクを支える腕は、意外に逞しい。やはり彼は男性なのだ。
解ってはいたが、このタイミングで思い知らされるのは少々キツい。もう駄目だ、気が遠くなってきた…。
「ち、ちょっと薙、大丈夫?寒いから中に入ろう、ね??」
労る紫の言葉に、ボクは無言で頷いた。
肩を抱かれる様にして屋敷に入ると…程無く、控え室で待機していた氷見が、血相を変えて駆け付けて来る。
…そうして。ボクは急遽、帰宅の途に着いた。
内心ほっとしながらも、次々に押し寄せる雑多な思念に翻弄されて、なかなか気持ちが鎮まらない。
…ふと。これからの事が頭を過り、漠然とした不安に襲われた。
明日は、ボクの着任式。
一通りの作法は習ったが、やはり心配だ。
付け焼き刃の所作で大丈夫だろうか?
本当なら、もう一度お浚いをして措きたい處ろだが、今は一刻も早く布団を被って眠りたかった。
もう…何も考えたくない。
蓄積した疲労が、心地好い眠りに変わる事を念じて、ボクはギュッと目を瞑った。