門を抜けると、其処は現実世界だった。
山の中。見渡す限りの赤松林。
頭上高く鳶が鳴いて、空に大きな円を描いている。
目の前には、獣道の様な頼りない一本道が細く長く延びていた。他には何も無い。さっきまでの凄惨な風景が嘘の様だった。
「あれが、離れです。」
真織の指差す先に、黄泉比良坂で目にした平屋の建物があった。だけど…。
「これを何とかしないと通れませんね。」
足元を見て、蒼摩がボソリと呟いた。
苔むした幾つもの倒木が、細い山道を塞いでいて、足の踏み場も無い。建物は目と鼻の先にあるのに、其処へ繋がる一本道は完全に封鎖されている。
永い間、下界との行き来が無かった事を、あからさまに物語る光景だ。
「酷いな、予想以上だ。或る意味、黄泉比良坂より凄惨な光景だな。」
ぶつぶつボヤキながらも、一慶は散乱する倒木を片付け始めた。真織と蒼摩も、各々に作業を始める。
ボクも手伝おうとしたけれど…
「あー。危ないから、お前は此方に来んな。その辺で、適当に休んでろ。」
…と言う具合に。
あっさり、一慶に止められてしまった。
あれでも一応、ボクを女性扱いしたつもりなのだろうか?却(カエ)って気味が悪い。
実際。ボクが手伝わなくても、ものの数分と経たぬ間に道は開通してしまった。
鬱蒼と生い茂る、草木の海。
その奥に、古びた向坂家の離れ家が佇んでいる。
漸く辿り着いた離れは、見た目以上に老朽化が進んでいた。外廻りからも、破れて桟(サン)だけになった障子戸が、はっきりと確認出来る。
割れたガラス。
穴の空いた雨戸。
壊れ掛けていた裏木戸は、一慶が馬鹿力を振るったお陰で、完全に倒壊してしまった。
「俺は、扉を開けようとしただけだ。」
「でも壊れましたよね、結果として。」
「俺が破壊したとでも?」
「そうです。他に誰がいるんですか。」
一慶と蒼摩の掛け合い漫才は、こんな時でも健在だった。この緊張感の無さ。たった今、死者の世界を見て来たとは思えない。
それからボク等は、生い茂る雑草を掻き分ける様にして、玄関に辿り着いた。引戸に手を掛け、滑らせようとしたが…
ガタガタ、ガタ。ガタガタ!
扉は、恐ろしく建て付けが悪かった。
建物に入る前に、また暫し苦戦する羽目になる。
それにしても、妙だ。
鍵は開いている筈なのに、引戸はビクとも動かない。何度か力任せに引いている内に…
ガタン!
「あれ?」
扉が溝から外れてしまった…。
「あ~あ、壊してやがる。薙の馬鹿力。」
何だと──?
一慶だけには言われたくない!
引っ掻いてやろうかと身構えた途端、蒼摩がボクの袖を引いた。
「見て下さい、首座さま。」
指差す方向に綿埃だらけの廊下がある。
その壁には…
「血痕…?」
「みたいですね。」
くすんで変色してはいたが、明らかにそうと判る大量の血液の跡が残っていた。
「古いものですが、かなりの出血です。…生きていてくれると良いのですが。」
蒼摩の冷静な分析は、ボクを俄かに不安にさせた。
「とにかく探すしかないだろう?二手に分かれるか。」
一慶に背を叩かれて、何とか気を取り直す。
喩え『どんな姿』でも、今は二人を探すしかない。
「紫、何処だ!」
それまで沈黙を守っていた真織が、突如大きな声で叫んだ。だけど返事は無い。
「千里さんは?」
「解りません。私も暫く、此の家には来なかったので。」
ボクの質問に早口で答えながら、真織は次々と部屋の襖戸を開けていった。
──タン!ガタン!
家のアチコチで、襖や戸が開く音がする。
蒼摩は棟続きの納屋を、一慶は東側の客間を──各々、捜索していた。ボクも負けじと、探し回る。
…それほど広くもない邸内。
程無く、尋ね人の一人が見付かった。
「おい、こっちだ。」
東側の和室の前で、一慶が手招きする。
表情が固い。
嫌な予感がする。
ボクと真織が駆け付けると、和室の中には、既に蒼摩が居て、畳に片膝を着き両手を合わせていた。
「…蒼摩…?」
そっと声を掛けると、蒼摩は静かに顔を上げてボクを見た。
「…遅かったみたいです。」
そう言って、畳の上に目線を落とす。
其処には、半ば白骨化した遺体が横倒わっていた。乱れた長い髪の中に、ドス黒く縮んだ小さな顔が埋まっている。
豪華な赤い西陣織りの振袖を着た、『女性』と思われる人物が、布団の上に整然と寝かされていた。
枯枝の様な両手は、胸の上できちんと組まれてある。
「これ…は…?」
「母です。」
感情の篭らない声で呟く真織。
「左の薬指に見覚えのある指輪が…。」
見れば確かに。
萎びた左の薬指に、血赤の珊瑚が填め込まれたプラチナの指輪が、そこだけ不思議な程生き生きと、美しい輝きを放っていた。
…綺麗に調えられた遺体。
こんなに丁寧に、死出の旅支度を調えたのは──
「…紫。紫は?」
ハタと気付いて、ボクは駆け出した。
探さなくては。
一刻も早く探さなくては──紫を!
ボクは、家の隅から隅まで駆け廻った。
何処にも紫の姿は無い。
残るは、この西奥の和室だけだ。
キッチリ閉じられた襖の向こうには、微かに人の気配がしていた。
「紫…?」
慎重に声を掛けてみる。
でも、返事は無い。
「入ってもいい?」
やはり、返事は無かった。
もしかしたら、声が出せない状態なのかも知れない。
「入るよ!」
ボクは思い切って、襖を開けた。
タン──!
大きく開け放った其処には、長い黒髪を華奢な背に垂らした性別不祥の人物が、虚ろに宙を見上げて座り込んでいた。
破れた障子。
蜘蛛の巣だらけの天井。
散らかってはいないけれど、どこもかしこも灰色の綿埃が堆積している。
「…紫…くん?」
恐る恐る声を掛けるが、華奢な背はピクリとも動かなかった。
死装束の様な白い着物と袴を身に纏い、何かをジッと見詰める様に、いつまでも虚空を眺めている。
「あの…君、紫…だよね?」
ゆっくりと近付いてしゃがみこみ、もう一度声を掛けてみる──すると。
白装束の人物が、突然ボクを振り向いた。
長い髪を振り乱し、いきなりガバッと覆い被さって来る。
「ぅわ!」
バタンと畳に押し倒されて、ボクの視界が反転した。
色褪せた天井画が見える。
胸の上には小さな頭が乗っていて…枯れ枝の様に細い腕が、首に確り巻き付いていた。
「紫…??紫だよね?」
静かな声で訊ねると、ボクの胸の上で、小さな頭がコクリと頷いた。
「お母さん…。」
弱々しい囁きが聞こえる。
今の声は、紫──?
驚いて顔を覗き込むと、白装束の人物は、か細い声でまた呟いた。
「お母さん。何処に行っていたの?」
「あ、え…と…。」
直ぐに、勘違いされていると解ったが…それでもボクは、動揺してしまった。
こんな風に男の人に抱きつかれるのも、『お母さん』と呼ばれるのも生まれて初めての経験だ。
「遅いよ、お母さん。ずっと待っていたのに…どうして早く来てくれなかったの?」
「紫、あの…ボクは、お母さんじゃな」
すると紫はフルフルと首を横に振って、ボクの言葉を遮った。
「お母さん、お母さんお母さん。」
頻りに母を呼びながら、紫は益々キュウッと抱き付いて来る。ボクを千里さんだと思い込んでいる…。
「紫──。」
ボクは思わず、紫の頭を撫でた。
痩せた腕。骨張った肩。のし掛られているのに…まるで重さを感じない。
こんなに痩せ細って、顔も小さくて…
ボクと同じ年齢の男性だとは、とても思えない。本当に、小さな男の子みたいだ。
離れに閉じ籠った日…。
紫は、未だ十三歳だった。
その日から、彼の時間は止まっている。
向坂紫は十三歳の少年のままなのだ。
「お母さん。」
ボクの胸に頬を擦り付けて来る紫。
気が付くと、ボクは紫の細い体をギュッと抱き締めていた。
今の彼には、それが一番必要だと思ったのだ。
「薙!」
不意に名前を呼ばれて…ボクは思い切り頭を反らせる。逆さまな景色の中に、細くて長い脚が見えた。
一慶が、部屋の入口に立ってキョロキョロと部屋中を見回している。
「一慶、此処だよ!」
「??…何やってんの、お前?」
埃だらけの部屋で、畳に寝転がっているボクを見て、一慶は不審に眉根を寄り合わせた。
二歩三歩と近付き、不意に足を止める。
「それ、紫か?」
「うん。眠っちゃった…。」
抱き締めて直ぐに、紫は眠ってしまった。
ボクの体の上で、仔犬の様に小さく背中を丸めて、スゥスゥ寝息を立てている。芯まで冷えていた体も、すっかり温まっていた。
人肌の温もりが、心地良かったのかも知れない。紫は…永い事、それに触れていなかったのだ。
其処へ、蒼摩と真織が駆け付けた。
「紫!なんて事を…!?」
弟の姿を見た途端、真織は、何とも言えない表情になった。
「申し訳ありません、首座さま。直ぐに弟を退かして…」
「いいよ、このままで。」
「しかし…」
「良いんだ。このまま寝かせてあげて。」
真織は、困った様に沈黙してしまった。
ボクの手は、無意識の内に彼の背中をトントン…と叩いている。まるで赤ん坊を寝かし付けるみたいに。
ややあって、蒼摩が足音も無く寄って来た。
紫の長い前髪を、指先で優しく払う。
「変わりませんね、紫さん。あの頃と同じ顔だ。」
そう呟いて、懐かしそうに目を細める蒼摩は、いつになく優しい顔をしていた。
「何日も眠っていなかったんですね。」
「そうみたいだな。恐らく、千里さんが亡くなってから…紫は、安眠した事が無かったんだろうよ。」
一慶が、静かに同意した。
「ぅ…ん…。」
ほんの僅か身動ぎすると、紫はまた気持ち好さそうに寝入ってしまった。
ボクは、蒼摩に手伝って貰って、ゆるゆると上体を起こす。
紫を起こさない様に、彼の頭をそっと膝の上に乗せると、一慶は細い腰に手を当て、呆れ顔で嘆息した。
「しかしまぁ気持ち良さそうに。膝枕とは良い気なもんだな。まぁ、紫だけでも無事で良かったよ。」
「僕は向坂家に連絡します。迎えに来て貰いましょう。千里さんの亡骸も一緒に。」
「そうだね。頼むよ、蒼摩。」
──すると。ボクの声に反応する様に、紫の手がキュッと拳を握る。
可愛い…。
生まれたての赤ん坊みたいだ。
紫の前髪を手櫛で鋤きながら、ボクは誰にともなく呟いた。
「結局、千里さんが離れに引き篭った理由は、解らず仕舞いだったね…。」
紫を当主にしたくないという、彼女の『母』としての気持ちは解る。きっと、ボクの親父と同じ想いがあったんだろう──だが。
あの《黄泉比良坂》を越えてまで、こんな場所に、紫を匿う理由が解らない…。
「当(マサ)しく『死人に口無し』ですね。」
真織が皮肉に呟やいた。
「行者の家に嫁いだ女が、別居の上、変死だなんてね…。恥の上塗りも甚だしい。」
吐き捨てる様に言う真織。
それを聞いて…蒼摩が、ゆっくりと立ち上がった。
「千里さんに、その機会を与えたのは貴方でしょう?」
「まるで私が、母を殺した様な言い方だね、蒼摩くん?」
「違うんですか?僕は、てっきりそうだと思っていたのですけど。」
「…母は病死だった。君は、私の《霊視》に立ち合ってくれたじゃないですか。あの遺体を視て解ったでしょう?」
《霊視》──?
聞き慣れない言葉に、思わず眉間を皺立てると、絶妙なタイミングで蒼摩が説明してくれた。
「霊視とは、文字通り『霊の状態を視る』術です。残留思念から、死者の記憶を辿る事も出来ます。その術で…千里さんが、死の直前に見た映像を辿ってみました。《天解》の行者には容易い事です。」
成程。それで苺は、天解の行者である蒼摩の同行を歓めていたのか…。
「…それで?千里さんの死因は??」
「直接の死因は、大量の喀血(カッケツ)による失血性ショックでしょう。」
真織が淡々と答えた。
「現時点で、病名までは特定できませんが…状況から考えて、特発性喀血症(トッパツセイカッケツショウ)の可能性が濃厚です。」
「え…と、つまり?」
「血を吐いて死んだんだよ、大量にな。」
一慶の説明の方が、ボクには解り易かった。
突然の大量吐血──。
彼女は、持病があったのだろうか?
「じゃあ…廊下の血痕も?」
「母のもので間違い無いでしょう。」
真織は、あくまで淡々としていた。
先程から、ずっとそんな風で──それが、とても奇妙に思える。
母親の遺体を見ても、真織は全く動揺した様子が無い。寧ろ、ホッとした様にすら見えたのは…穿(ウガ)ち過ぎだろうか?
喩(タト)え血の繋がりは無くても、真織は千里さんを『母』として慕っていた筈だ。
なのに…彼は、その母の死を喜んでいる。
そんな事、絶対にあって欲しくはないのに。
押し黙るボクを見て──真織は、言い聞かせる様な口調で語り始めた。
「彼女は《狐憑き》でした。私に共鳴したばかりに…稲綱狐(イイヅナギツネ)に憑依されたのです。稲綱狐は、狡猾で霊力も強い。行者でもない母には、抵抗すら出来なかった。あッと云う間に塊儡(カイライ)にされてしまいましたよ。」
「だから、離れに幽閉したんですか?」
いつも以上に抑揚の無い声で問い質す、蒼摩。
「私が?母を幽閉!? まさか!知っているでしょう?彼女はあくまで、『自分の意志で』黄泉比良坂を登ったのです。私は只、《門》の開錠を頼まれただけだ。」
「彼女が望んだから門を開けた…。黄泉比良坂を自らの意志で登った者は、二度と生きて戻れないという理(コトワリ)を知っていながら…貴方は、門を開けたのですね?」
静かな──だが。たぎる様な怒りを籠めて、蒼摩は切り返した。彼の性格からは、まるで想像出来ないくらいに…憤り、苛立っている。
「何故止めなかったんです?貴方には、それが出来た筈だ。何れこうなる事を承知の上で、《黄泉の門》を開放するなんて…殺人も同然の行為です。貴方は、その責を負って然るべきだ。」
峻厳な一語が放たれて──室内に、重い沈黙の帳(トバリ)が降りた。