運転席では、一慶が不機嫌極まりない顔で、ルームミラーを睨んでいる。
「今日はヤケに絡むな、蒼摩!?」
「はい。朝から気が立っています。」
「何処がだよ、鉄面皮が!」
「お褒めに預かり光栄です。」
乾いた言葉の応酬が続く…。
ルームミラーに映る姫宮蒼摩は、極めて冷静だった。本人が言う程、苛立っている様には見えない。
ふと気になって、ボクは彼に訊ねてみた。
「ねぇ。蒼摩って、いくつ?」
空気を変えるのには丁度良い話題だった。
蒼摩の仮面が、ふわりと緩む。
「僕の年齢ですか?十六歳です。」
「十六!? 高校生なの?!」
「はい。もう学校には行っておりませんけれど。」
「え?? どうして学校に行かないの?引き篭り!? 登校拒否?? もしや、その…イジメにあっているとか?」
ボクの矢継ぎ早な質問に、蒼摩は面喰らった様に小首を傾げた。
「いえ、別にそういう事では…。来春、音大を受験するので、退学届けを出したんです。」
「退学届…って。大学受験するなら、尚更、退学は不味いんじゃない?よく、庸一郎さんが許してくれたね。」
「父には話しておりません。」
「えぇ!?話していないの??」
「はい、反対されるでしょうから。」
「そりゃ…反対するよ。」
「ええ。ですから、話しませんでした。僕はもう音楽だけを学びたいんです。体育だ化学だ古文だと、必要の無い教科に時間やお金を費やすのは非合理でしょう?煩わしいし、無駄なだけです。僕が目指す音大には、一般コースがあって、実技のみの受験が可能なので。高校卒業資格は、不要なんです。」
澄ました顔で、蒼摩は言う。
いや。喩えそうだとしても、だ。
親に内緒で退学しちゃうなんて──。見掛けによらず大胆な子だ。
「蒼摩ってドライなんだね。」
「良く言われます。」
「感情的になったりしないの?」
「勿論そんな時もありますよ。今も、こう見えて興奮しているのですが。」
「興奮…どうして?」
遠慮がちに訊ねると、意外な答えが返ってきた。
「これから、向坂家に伺うので。」
「それはどういう意味?」
立て続けに質問したのがいけなかったのか…蒼摩は、細い顎を指で支える様にして黙り込んでしまった。
辛抱強く答えを待つと…不意に、蕾の様な朱唇が解ける。
「向坂家の土地は、少し──いえ、かなり特殊な事情があるんです。」
特殊…。
そう言えば、一慶も同じ事を言っていた。
どんな風に特殊なのだろう?
ボクが口を噤むと、蒼摩がやおら顔を上げてルームミラーを覗いた。
「先生…。やはり首座さまには、ちゃんとお話して措いた方が宜しいんじゃありませんか?」
神妙に寄り合わせた彼の秀眉に、ボクは本能的な不安を覚えた。
「それは、俺も考えていた。」
一慶が、ミラー越しにボクを一蔑して頷く。
「今日は、薙も安定している様だし…話しても良いだろう。」
『そうですね』と頷くと、蒼摩は、綺麗な顔を巡らせてボクを見据えた。
「驚かないで訊いて頂けますか?」
「それは、内容に因るよ。」
そう言うと、蒼摩は華やかに破顔した。
「あはは…成程。確かにそうです。大変失礼致しました。」
初めて見る彼の自然な笑顔に、ボクは一瞬、目を奪われた。綺麗な顔だと思ってはいたが、笑うと急に幼くなる。控え目な笑い声といい、はにかんだ目元といい…年相応の可愛らしさがあった。
その魅力的な笑顔のまま、蒼摩は驚くべき事を語り始める。
「ご存知でしたか?向坂家は代々、《黄泉の番人》を務める一族なんですよ。」
黄泉(ヨミ)の──番人!?
「えぇ。少し難しくなりますが…」
そう前置きするや、蒼摩は、慎重に言葉を選びながら話を進めた。
《黄泉の番人》──。
向坂家がそう呼ばれているのは、彼等が護る土地そのものに関係していた。
そもそも向坂の『坂』という字は、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に由来しているらしい。黄泉比良坂とは、霊界と現生界(ゲンショウカイ)を繋ぐ坂だ。
『あの世』と『この世』を結ぶ場所。
生と死の境目──つまり。
『坂』とは、『境』を意味している。
死者は皆等しく、この黄泉比良坂を通って黄泉の国──冥界へ赴くのだ。
蒼摩は云う。
「何でも…向坂の総本家がある土地は、《黄泉比良坂》に通ずる場所だとか。其処に活動の拠点を置く向坂一門が『霊的な作用』を受け易いのは、寧ろ当然の事なんです。」
冥界思想は元々、神道に由来する信仰だ。
だが、その理念を仏教に包摂(ホウセツ)する為に、向坂家は、わざわざ曰く付きの土地に寺を建てたと言う…。
『坂』に『向かう』死者達。
その黄泉路の旅を護る者…それが向坂一族なのである。
『古事記』等の文献に依れば、《黄泉比良坂》は島根県の某所にあると言われている様だが──
「実際には、この世界の到る所に《黄泉比良坂》は存在します。向坂家が護る《坂》は、特に重罪を犯した亡者達が通る道なのです。それ故、《土の星》の行者は、《狐霊遣い》等の異能者が多いんですよ。」
そこまでの話を訊いて──ボクは、自分が無意識に緊張していた謎が解けた気がした。
今から向かう先には、《黄泉の国》の入口がある。それを、神子の本能が察知していたのだ。
漠然とした不安が胸に迫り、どうにも気持ちが落ち着かない。蒼摩が苛立っている理由も、これと同じなのだろう。
真織が《狐霊遣い》である訳も理解した。
善と悪──二つの顔を持ち併せる精神の不安定さは、《黄泉比良坂》という、生と死の境界に立って生きる行者の宿命なのだ。
まるでパズルのピースが合わさる様に、あらゆる出来事がピタリピタリと符合する。…何やら恐い程だ。
ボクが、こうして向坂家を訪れる事になったのも、恐らく偶然などではない。
全ての事象に何等かの理由があるのだ。
暫くして…車は県境を越えた。
幾つもの村や町を行き過ぎ──やがて、大きな街の郊外に出る。
真っ赤に色付いたナナカマドの街路樹。
外国の石畳を思わせる様な、インターロッキングの道を右折して…ボク等は、とある小さな病院に到着した。
正面入口の前に立ったところで、改めて建物の全容を見る。
ガルバリウム鉱板の外壁と、傾斜のキツい屋根。周囲の景観を考慮した、落ち着いたデザインだ。
ステンレス製の看板には、細いフォントで品良く《向坂クリニック》と書かれた文字が彫り込まれている。
天然の緑で囲まれたシンプルモダンな外観が、如何にも彼の職場らしかった。
建物の中は、大勢の患者で犇(ヒシ)めいている。待合室は、既に立錐(リッスイ)の余地も無い。
間もなく診察も終わろうかという時間だったが、受付を済ませた途端、診察室から真織本人が姿を現した。
「やぁ、いらっしゃい。」
穏やかな微笑みが、ボク等を出迎えてくれる。《狐憑き》だなんて…とても、そんな風には思えない。
白衣に身を包み、シンプルなフレームの眼鏡を掛けた真織は、信頼出来る優秀な青年医師にしか見えなかった。
「お忙しい中、遠路お越し頂いて申し訳ありません。直ぐに検査を始めましょう。」
「忙しいのは真織の方だよ。ゴメンね、こんなに大勢の患者さんがいるのに、わざわざ時間を割いてくれて。」
ボクが頭を下げると、真織は優しく双眸を細めて言った。
「ご心配には及びません。当院には優秀な医師が、もう一人居りますので。」
…そう云うと。ボクを手招きして、二つある診察室の一つに案内する。中には、老人の目を丁寧に診ている妙齢の女医が座っていた。
「妻の叶(カナエ)です。彼女が居なければ、とてもこの病院は回りません。彼女こそが当院の要です。」
すると、向坂叶が不意に顔を上げて、華やかに会釈をした。優しそうで暖かい雰囲気を持った女性だ。
こんな素敵な奥さんがいるのだから、真織はきっと大丈夫。喩え彼が《狐霊遣い》だとしても、その力に溺れてしまう事など或る筈が無い。
ボクは、そう自分に言い聞かせた。
検査室に通されるなり、真織は医師の顔になった。眼鏡のフレームを中指で押し上げ、安心させる様な口調で言う。
「…今回は、少し時間を掛けた検査になります。一慶くん達には、二階の応接室で休んで貰いましょう。さあ、こちらへ。」
柔らかな物腰でボクに椅子を勧めると、手際良く検査を進めていく真織。医師としての献身的な姿を目の当たりにして、ボクは改めて思った。
これこそが、彼の本質なのではないか──否、そうであって欲しい。衝撃的な真実を知って尚、ボクは、そう願わずには居られなかった。
…ややあって。
全ての検査が終わった頃には、あれほど混み合っていた待合室も、すっかり落ち着きを取り戻していた。
残っているのは、会計待ちの数人だけである。
──見れば。明らかに待ち草臥れたらしい一慶が、ソファに長身を預けて眼を閉じていた。やや離れた処に、熱心に本を読んでいる蒼摩の姿がある。
応接室で待っているとばかり思っていたボクは、慌てて彼等の元に向かった。
「蒼摩。」
静かに声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げて、ボクを見る。
「終わりました?」
「うん。ゴメンね、付き合わせて。」
「いえ。僕は結構、有意義な時間を過ごしましたから。先生も…ある意味、有意義な時間を過ごしていると思いますので、お気遣いなく。」
そう言って、ソファを一脚丸ごと占領している一慶に視線を投げる。
窓から射し込む日溜まりの中で、彼は、実に気持ち良さそうに爆睡していた。お休みの所ろ誠に気の毒だが、やはり起こすべきだろう。
溜め息を吐きながら一歩踏み出すと、突然目がチカチカして、開けていられなくなった。
「…ん!」
眩しい。
視界がボヤけて、周囲が良く見えない。
顔を背けて後退った途端、ボクはソファの角に躓いた。バランスを崩して倒れ掛けた處ろを、間一髪、誰かに支えられる。
「大丈夫ですか?」
背後には、向坂真織が立っていた。
差し延べられた腕が、確りとボクを抱き止めている。
「だ…大丈夫。ありがとう。」
身を起こしてお礼を云うと、真織は心配そうに眉を曇らせた。
「まだ良く見えないでしょう?散瞳薬で瞳孔を拡げているので、暫くは眩しいと思います。視界がボヤけますから、足元には充分気を付けて下さいね?」
そうだった…。
事前に説明を受けていたのに、すっかりそれを忘れていた。
「…ところで、首座さま。生憎、私は未だ少し仕事が残っているのです。お呼び立てしておきながら、誠に申し訳ないのですが…先に、私の実家へ向かって頂けないでしょうか?」
「あ、でも…お会計は??」
「後程、請求書をお持ちします。」
「そう…解った。」
返事をした途端。
背後で大きな欠伸が聞こえた。
「あぁ、よく寝た。なかなか寝心地の良い椅子だな。流石は向坂クリニック。インテリアまで一味違うわ。」
一慶…
相変わらず、なんてマイペースな…。
「運転手も起きた事ですし…参りましょうか、首座さま?」
蒼摩も相変わらずだ。
淡々と呟いて立ち上がると、会釈をしてサッサと玄関ホールへ向かう。
…そうして。ボクらは、一足先に向坂家に向かう事になったのであった。
向坂クリニックから、車で北に8Km程。
松林の衣を纏った小高い丘陵地に、向坂家の屋敷はあった。
壮麗で威厳ある門は、甲本家のそれより、やや大きい。太い柱には、古木の板に流麗な筆文字で《護黄山 嶺泉寺》と書かれた看板が掲げられていた。
「ご…おう…ざん?」
「…『ごおうざん れいせんじ』と読みます。こんな風に、キチンと寺院の看板を掲げているのは、六星一座の中でも、向坂家と蔡場家だけになりました。」
山門を見上げて蒼摩が言う。
確かに…甲本家の門には、それらしき看板が無い。通って来る檀家も極僅かだ。
「うちの檀家は殆んどが親族だからな。」
一慶が、然り気無く補足する。
「え?そうなの??」
「あぁ。お陰で、お布施も顔触れも、増えもしなけりゃ減りもしない。政府や警察関係の仕事があるから、何とか財源は保っているけれどな。」
「…そうなんだ…。」
一門の経済状況までは、考えた事がなかった。
「なかなか厳しいね。」
「まぁな。天魔討伐に集中したいのは山々だが…政府や警察機関からの捜査協力は断れない。なんせ、貴重な収入源だ。それが無けりゃ、とっくに破綻しているよ。」
一慶の言葉に、ボクは少し驚いた。
それでは…甲本家は最早、寺院としての機能を果たしていないも同然だ。
「甲本の本家は、親族専用の寺みたいなもんだ。昔は信者も沢山居たんだがな。神崎も火邑も、今じゃ似た様な状態だろう。」
「姫宮家もです。」
成程──。
それで護法や門下も皆、親族ばかりなのだ。
ボクの側仕えを務めている氷見秋彦も、甲本家の遠縁に当たる家の出身だ。護法の多くが、そういう出自の者である。
「親族ばかりじゃあ、行者や護法が減るのも仕方がないよね。」
「…そうだな。その辺の打開策も立てていかなきゃならないって事だ。現実は現実として正しく捉えなければ、先へも進めない。《当主継承式》の後は、山積している細かい問題とも向き合う事になるぜ。覚悟しとくんだな、薙?」
意地悪い笑みを履きながら、そんな事を言う一慶。
脅しに良く似た冗談だ。
流石に、これは笑えない。
ボクは、人知れず溜め息を吐いた。