新田愛華さんは、二年ほど前に新幹線の事故によって耳が不自由になったそうだ。その事故はテレビでも大々的にニュースで流されていたため、僕もよく覚えている。死亡者も多数出ていたはずだ。その中には、新田愛華さんの父親も含まれていたらしい。家族三人で実家へ帰省している途中の事故だったらしい。詳しい話までは一家庭教師が聞けるはずもないので、皆まではわからないが、元来大人しい性格の彼女も、心根は優しく笑顔の多かった毎日が、この事件を境にぐちゃぐちゃに飛散した。そして、彼女は心を深い底の底まで沈め、閉ざしてしまった。
 それでも母親は諦めず、彼女を守り続けた。そして継続していた心の籠った支えもあって、何とか立ち上がろうと試みた彼女は、まずは自分の好きだった勉強から始めようと、家庭教師を雇った。まだ外に出歩くことの出来ない彼女にとって、選択肢は大きく狭められる。新田愛華さんの場合は、全聾ではなく、声のボリュームを通常より大きく話せば聞こえると言ったレベルの難聴者である。補聴器を付ければ、周囲の音をカバー出来るため、日常生活に大きな支障は出ないが、彼女はそれを付けていない。まだ自分が難聴者だと認めたくない気持ちなのか、真意はわかりかねるが、彼女は自分の耳で聴く努力をしている。
 まあ、そんなことから、僕が手話をできることを知っていた塾長が、新田さんの家庭教師に任命した、という話だ。
 彼女にとって、それがいいことなのかどうかはわからない。それを決めるのは彼女であって僕ではない。ただ、少なくとも彼女の味方であることはわかってもらえたようだ。先程までの敬遠した態度が少し和らいだようなのも思える。
 今日の残り時間は彼女との談話で過ごした。
 新田さんは口数自体は少なかったが、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。個人的にはこれから徐々に心を開いてくれればいいと思っていたので、これは御の字だった。
 新田さんにとって一番悲しいのは、大好きだった音楽が聞けなくなってしまったことだと言う。完全に聴力を失った訳では無いが、それでも耳をすまして聞こうとすると、かなりの負荷になるため、あまり聞かなくなってしまったそうだ。僕はそれを聞いて悲しい気持ちになった。僕も初めは音楽なんて、という生活を送っていたが、林道さんの音楽に触れたことで、未開の地に足を踏み込んだ高揚感を得ることが出来た。正直なところ、彼以外の音楽には触れていないが、それでも充分と思えるくらいのインパクトだったから、僕は満足している。
 新田さんも同じような出会いをしてくれれば、きっと立ち上がるきっかけになるのだろうな、と思った。
 林道さんのライブが僕の脳裏に掠めたが、すぐにそれを振り払った。林道さんのような荒々しい演奏を彼女が望んでいるとは限らないし、あれは確かに人の心を引きつけるものだが、彼女には少し刺激が強すぎるようにも思えたからだ、
 ただ、彼女にはおいおい林道さんの話をして、気が向けば、ライブに連れて行ってあげよう、と思った。まずは彼女の学力向上が僕の使命であることを忘れてはいない。

「少しはすっきりしたかな」
 帰り際に新田さんに問いかけてみた。今度はしっかり僕の顔を見ており、軽く頷いてみせた。僕もそれに倣って小さく相槌を打ち、新田家を後にする。外は午後六時を過ぎていたが、もう陽は完全に沈み、辺り一面を黒く染め上げていた。僕は街灯を頼り、家路につく。
 帰宅途中に林道さんからのメールが届いた。
「新しい生徒はどうだった?」と何とタイミングの良いことか。
 僕はまずまずです、とだけ返信した。どうせ、近いうちに林道さんから呼び出しが入るだろう。林道さんも教職に就いてから、まだ勝手がわからないのか、忙しいからなのか、呼び出される回数は減ったものの、相変わらず音楽活動は続けているし、僕や高藤さんとご飯を食べに行くことも辞めてはいない。教師という職業がどれだけ忙しいのか、部外者が語るのは難しいが、それでも林道さんは林道さんらしく日々の生活を楽しく謳歌しているようで、何よりだった。
 また着信を知らせるバイブレーションが胸を揺らした。
『近々集まろう。俺たちにとっての重大発表があるぞ』
 文面だけでも、林道さんの声が踊っているのがわかる。
 俺たち、というのに、僕にはそれが何を指すのかまるでピンと来ないけれども、林道さんが言うのならそうなのだろう。僕はスマホをしまい、前を真っ直ぐ見据える。
 住宅街から駅まで一直線の大通りに出ると、目の前には忙しない雑踏の様子が映った。その雑踏に呑まれないよう、慎重に足を踏み入れたつもりだったが、僕はびっくりして立ち止まる。後ろから突然自転車がやってきたからだ。自転車に乗っていたのは僕ぐらいの男性だったが、通り過ぎざまに僕を睨んだ。僕は頭を下げたが、もうその自転車は雑踏の隙間を縫うように走り抜けていた。
 僕は小さくため息を吐く。深呼吸のそれに近い。
 ここからだ、と自分に言い聞かせる。しっかり自立した姿を親に見せるまで、僕はなんとしても失敗できない。

 翌日、久しぶり集まった僕たちは、互いの近況を語らいながら、酒を呑んだ。そして、席も半ばに差し掛かったところで、林道さんは徐ろに立ち上がる。
「──ここで私、林道倫一郎から重大なお知らせがあります」
 そこで、一旦台詞を区切り、僕の反応を窺う。僕はもう薄々と何を言いたいかはわかっていたが、無粋な真似はせず、じっくりと彼の次の句を待つ。
「──……『BUMP』でのライブが決定したぞっ!」
 林道さんは高々と腕を突き上げた。
 僕はこれでもか、と大きな拍手を、林道さんと高藤さんに送る。高藤さんは「おう」と小さく頷いただけだったが、顔は紅潮しているのが見てとれた。
 この時の僕たちは、目の前の雄大に広がる景色──未来を眺め、その風景にただただ酔っていた。しかし、広がる景色の雄大は、まさに人生の頂上を意味する。そして、頂上の先に待つのは、下山のルートであることを、僕たちは理解していなかった。