それから林道さんとはひと月も経たないうちに再会することとなった。彼がライブの観覧に誘ってくれたからだ。場所はキャパも百人に満たないだろう、小さなライブハウス。林道さんのライブならともかく、僕には縁のない場所だと思っていたため、初めは断った。林道さんが特別だったのだ。普段は音楽とは縁のない生活を送っている、と。しかし、「それならお前は絶対に観た方がいい。絶対に」と林道さんの謎めいた強い推しによって、渋々ながら行くことに決めた。
メールに添付されていた地図を頼りにやってきたライブハウスの戸を開けると、薄暗い階段が下へと続いている。ライブの開演までには一時間ほどまだ余裕があるものの、林道さんの計らいで早めに来るよう指示されてやってきたわけだが、初めての場所のため、緊張して脚が震えている。
階段は全体が黒を基調とした壁に囲まれているせいか、ライトの灯りもそれに吸収されているかのように心許ない。それを降りている途中で、ライブを行うステージのある室内が眼下に広がった。二階部分の床をぶち抜いた構造で、階段の下には天井の高いステージと客席に辿り着く。そのまま階段途中の踊り場で、林道さんがどこにいるか客席を探していると、驚くところで発見した。客席ではなくステージ上にいたのだ。相変わらずのTシャツ姿かと思いきや、スーツに身を包んだ林道さんは路上ライブで使っていたギターの弦を弄りながら、セッティングを行っている。もう引退していたのに、これはどういうことだろう。不思議そうにそれを眺めていた僕に気付いた林道さんは、迷子の幼児が母親を見つけた時のように勢いよく手を振った。早く降りてこいよ、と僕を急かす。
「よく来てくれたな」
自慢の我が家に迎え入れたかのようなテンションで、林道さんは両の手を広げた。
「これってどういうことですか」
「どういうことってどういうことだ?」
「いや、ライブって林道さんの、なんですか」
林道さんは、うーん、と唸った。
「正確には、俺のではないな。俺はただの前座だ」
前座、と言った時の林道さんの表情はとても悔しそうだった。
「でも、この前はあの路上ライブが引退ライブだって……」
僕の問いに対して、ああ、と乾いた声を吐き出す。
「確かにあれは引退ライブだったよ」
林道さんはあっけらかんと答えた。
「ただし、路上ライブでは、という意味だから」
彼の言っていることを僕は理解出来ずにいた。
「俺はバイトとしてこのライブハウスで働いていた。そして俺の汗水流して働いた労をねぎらった店長から、ステージに立ってみないか、と誘われたんだ。それは即ち、ライブハウスでの演奏許可でもあるわけだ。あんな寒空の下での演奏なんか誰がずっと続けるもんか」
あの時、格好いい言葉を紡いでいた同一人物とは思えない発言を彼は堂々と吐き捨てた。というより、正社員云々の話は関係ないじゃあないか。
林道さんは今回のライブのメインではなく、あくまでも場を温めるための前座で演奏するらしい。路上ライブでは一人での演奏だったわけだが、ここではバンドとしてステージに立つという。彼がバンドとしてどういう立ち位置なのか、実際のところはわからないけれど、僕は変わらない林道さんの姿が容易に想像できた。
「ああ、そういえば」
ある程度、会話を終えたところで、林道さんは何かを思い出したように手を叩いた。そして、僕の後方に視線を送る。僕も釣られて振り返ると、目の前には壁と思しき大きな塊が視界を遮った。びっくりして僕は尻もちをつく。すると大きな塊はのそりと動き、僕に覆いかぶさるように傾いた。そこで初めて僕はその塊が人間であることに気付いた。大男は、僕の身長をはるかに凌ぐ大きさで、目算でも二メートル弱はあると窺える。その身長に比例して、身体の線も太く筋肉質ではあるものの、余分なものを削ぎ落とした体躯をしていた。長い黒髪は目にかかるほどだったが、決して清潔感が無いわけではない。髭も生やさず、凛とした立ち姿に加え、彼もまたスーツに身を包んでおり、好青年をそのまま形にしたといっても過言ではないだろう。
「…………」
もごもごと何かを発しているのはわかるが、マスクをしていたため何を言っているかはわからなかった。ただ、差し出された右手から察するに、倒れた僕を起き上がらせようとしているのだろう。僕は彼の右手を掴み、勢いに身を任せて立ち上がる。
高身長であることにはかわりないが、しゃがんで見上げていたせいもあって二メートル弱の身長は勘違いであることがわかった。それでも筋肉質の体格のせいで随分と大きく見える。
「あ、ありがとうございます」
「おい、高藤。あんまり驚かせてやるなよ」
林道さんは、高藤と呼ばれた男を窘めながら、口元に手をやって忙しなく動かす。マスクを取れ、ということを彼に伝えているのだろう。
「ああ、すまない」
マスクを取った大男――高藤さんは、僕の目を見て謝った。
これが僕と林道さんの物語には欠かせないキーパーソンの一人、高藤肇さんとの出会いである。
「それにしてもこんなところに彼を連れてくるなんて、林道もどうかしてるな」
こんなところと僕の存在がやはり異質なのだろう、高藤さんは林道さんを見て呆れたように言った。
林道さんは、うるせえな、とバツが悪そうに唇を突き出したが、決して反省しているようには見えなかった。
「今日はこの俺の船出のライブにお前ら二人を呼んだんだ。光栄に思えよ」
「お前のライブではない。あくまでお前は前座、だ」
前座、という言葉を一文字ずつ区切ってはっきりと告げる高藤さんに、うるせえよと一辺倒な返事で濁す林道さん。僕には不思議と息が合った名コンビのようにも思えた。
「せっかくお前達には俺の勇姿を見せようと思ったのにな」
林道さんは僕と高藤さんを誘った理由を語った。
「誘った、というかお前が誘える人間は俺たちぐらいしかいないだろ」
高藤さんはにべもなく突き放す。
「そ、そんなわけないだろう」林道さんはあたふたしながら、指折り数えようとするが、そもそも一つめを折ることができない。
「まあ、秋月さんにでも慰めてもらいなよ」
高藤さんに諭された林道さんは、肩を落としながらステージ裏へと姿を消した。
ステージ上の中央にはドラムやベースにスタンドマイクが置かれており、周辺にはアンプやミキサーといった機材が設置してある。前回の路上ライブとは違う林道さんの演奏が見れるのかと思うと、やはり楽しみではある。
「林道のライブを見に来てくれて、ありがとうな」
高藤さんは僕に頭を下げた。それよりも僕は高藤さんが何の気なしに言った『林道のライブ』といった発言に微笑ましく思った。彼なりに林道さんの門出を嬉しく思っているのだろう。
「いえ、僕も彼の姿には興味があったので」
「彼の姿?」
「僕は音楽の方はからっきしなんですけど、それでも彼の歌う姿に惹かれた珍しいタイプの人間ですから」
「……なるほど」
僕の話を聞いた高藤さんは、ふっと顔を上げてぼそりと呟いた。僕にはそれが聞き取れなかったが、あえて触れずにおいた。
「なんで高藤さんは林道さんと同じようなスーツを着ているんですか」
「ああ、これ?」
スーツの襟を弄りながら、ギターの調弦をとっている林道さんの方を見やる。
「このライブハウスの正装だよ」
「ここの……? 高藤さんも従業員だったんですか」
「あれ? 林道から聞いていないのか」
高藤さんは、呆れたとボヤきながらため息を吐いた。
この高藤さんの反応を見て、林道さんの知らない一面を垣間見た気がした。確かにひと月も満たない知人の全てなんて知ることは不可能だろうし、僕たちも立派な大人であるわけだから、強い衝撃を受けた訳では無い。これが久しく感じていなかった友人というものなのかと感慨深かっただけだ。
「高藤さん、林道さんとはいつ頃からの付き合いなんですか」
高藤さんは目を細めたが、少しの間天を仰ぐと話し始めた。
「付き合いっていうほど、深いものはぶっちゃけないよ。俺はあんまり人付き合いがいい方ではないから、迷惑に感じていることの方が多いくらいだしね。ただ同じ大学で知り合って、一方的に絡まれて、その絡んだ糸が解けなくなっただけだ。あんたも大変だよ。これからその図太い綱に絡まれるわけだから」
僕は高藤さんの語る『図太い綱』という表現が可笑しくて、思わず笑ってしまった。確かに糸というよりは、綱といったほうがしっくりくる。
「まあそんなわけだからさ」
高藤さんは僕の目を見て、真剣な表情を作った。
「あいつのこと、よろしく頼むよ」
僕には高藤さんがなぜこうまで真剣に言うのか、正直なわからなかったが、「もちろんです」と素直に答えた。
それから高藤さんは口数を減らしてしまったが、林道さんのバンドのことやメインを張るバンドの紹介をしてくれた。ライブハウスの店員ということだけあって、とてもわかりやすく丁寧に教えてくれたのだが、高藤さんの立ち振る舞いを見れば見るほど、林道さんがライブハウスで働いていることが想像できなくて笑えてしまう。
林道さんのバンドはギターの林道さんを中心とした、トランペット、サックスの管楽器に加え、ドラムとベースが入ったインストバンドらしい。端的に言えば、ボーカルのいない楽器の演奏のみを主体としたバンドだ。だが林道さんとしては、ボーカルが欲しいらしく、今もなお探しているらしい。
「目星は付けているらしいが、そいつが全く入る意思を示さないらしい」
「音楽性とか、そういうのもあるんでしょうか」
知ったふうな口を聞いてみたが、僕には全くわかることの出来ない話だ。高藤さんは嫌な顔を一つせず、「どうだろうな」と短く返事をした。
「取り敢えず、今日の演奏を聞いて答えを出す、と話をつけたらしいよ」
つまりは、ここのどこかにそのボーカル候補が来ていることだろうか。
「林道さんは歌わないんですか」
「俺もそれは言ったよ」
高藤さんは即答だった。やはり林道さんの歌は良いのだろうか。
「あいつの歌じゃあ、きっと売れない。だけど、きっと誰かの心に響く歌だ。だから俺は林道に歌えと言った。だけどあいつは首を縦に振らなかったよ」
「それは何故でしょうか」
「さあな」
高藤さんはぶっきらぼうに答える。僕には子供のように拗ねているようにも見えた。
「林道の考えていることはわからん。やっぱり売れたいからなのかもしれないし、自分の歌を信用していないのかもしれない。あれだけ人の心には土足で入るくせに、自分の殻は破らない奴も珍しいな」
「でも、そんな林道さんがどうしても誘いたい、ボーカル候補の人もきっと上手いんでしょうね」
「そんなことはないよ。俺は林道以上に魂で歌っているやつを見たことがない。そのボーカル候補も、今回歌ではなく、インストだけで度肝を抜かすことが出来たのなら、と答えた。林道の歌以外の可能性を見せろってな。林道のギターの横で歌う姿を想像させろ、と」
僕は高藤さんの話を聞きながら、林道さんの様子が気になって、そっと確認する。ギターの調弦をとっていた林道さんは、アンプのつまみを弄っていたが、それも終わったらしくステージの裏へと消えていった。他のメンバーも各々のサウンドチェックを終えると、各自戻っていく。
気付けば周囲に客も増え、賑わいを見せていた。
客は若い世代ばかりで、特に女性が多かった。冬だと言うのに、肌の露出が多く、目のやり場に困る。服装も殆どの客が黒色の服装に身を包み、銀色のアクセサリーを思い思いの場所にあしらっているのが確認出来た。みんなまだ開始前ではあるものの、熱気が湯気となって見えるかのような盛り上がりようだ。
「目当ては、林道ではなくメインのバンドの客ばかりだぞ」
林道さんの後に演奏するバンドは巷でもメジャーとして知られるようになってきたロックバンドらしく、つい先月アルバムをリリースして話題にも挙がったらしい。
前座とはいえ、そんなメジャーなバンドと一緒のステージに立てるなんて、やはりすごいことなのではないかと思うのだが、高藤さんは首を横に振った。
「舐められてるんだよ。単純に」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた高藤さんに僕は理由を問う。
「そのバンドのドラムとベースは元々林道と組んでいたバンドのメンバーだったんだ。だけど、先が無いと見るや否や、寝返りやがった。ドラムやベースがいないとバンドとしては成立しないから、林道のバンドはやむなく解散。そして、寝返った奴らのバンドが日の目を見る。結末としてはこれ以上ないくらいのバッドエンドだ。そして、ようやくバンドとして形が整った矢先にそいつらのバンドとの前座──何かあるとしか考えられないよな。恐らくメジャーデビューしたバンドと拵えたばかりのバンドとの差を見せつけようとしているんじゃないかな」
「そんな……」
僕は言葉を失った。しかし、それと同時に林道さんには負けないだろうな、とも思った。僕の知っている林道さんは常に何かと抗いながら戦っている人だったからだ。戦うことには慣れている。
そんなことを考えていると、急に目の前が真っ暗になった。客も突然の事で、先程までの喧騒がピタリと止んだ。時間にして一秒から二秒くらいの出来事だっただろうか。ぱっとステージの中央にスポットライトが差し込む。そこにはギターを構える林道さんが顔を伏せ、だらんと力の抜けた状態で立っていた。止まった時間が動き出したように客はざわめきを取り戻す。それを待ちわびたかのように林道さんは右腕をゆっくりと高く掲げると、勢いよく振り下ろした。
弾かれた弦はアンプを通じて空気を震わせ、僕らの鼓膜を揺らす──いや、心を揺さぶる。
林道さんのステージが今、幕を開けたのだ。
メールに添付されていた地図を頼りにやってきたライブハウスの戸を開けると、薄暗い階段が下へと続いている。ライブの開演までには一時間ほどまだ余裕があるものの、林道さんの計らいで早めに来るよう指示されてやってきたわけだが、初めての場所のため、緊張して脚が震えている。
階段は全体が黒を基調とした壁に囲まれているせいか、ライトの灯りもそれに吸収されているかのように心許ない。それを降りている途中で、ライブを行うステージのある室内が眼下に広がった。二階部分の床をぶち抜いた構造で、階段の下には天井の高いステージと客席に辿り着く。そのまま階段途中の踊り場で、林道さんがどこにいるか客席を探していると、驚くところで発見した。客席ではなくステージ上にいたのだ。相変わらずのTシャツ姿かと思いきや、スーツに身を包んだ林道さんは路上ライブで使っていたギターの弦を弄りながら、セッティングを行っている。もう引退していたのに、これはどういうことだろう。不思議そうにそれを眺めていた僕に気付いた林道さんは、迷子の幼児が母親を見つけた時のように勢いよく手を振った。早く降りてこいよ、と僕を急かす。
「よく来てくれたな」
自慢の我が家に迎え入れたかのようなテンションで、林道さんは両の手を広げた。
「これってどういうことですか」
「どういうことってどういうことだ?」
「いや、ライブって林道さんの、なんですか」
林道さんは、うーん、と唸った。
「正確には、俺のではないな。俺はただの前座だ」
前座、と言った時の林道さんの表情はとても悔しそうだった。
「でも、この前はあの路上ライブが引退ライブだって……」
僕の問いに対して、ああ、と乾いた声を吐き出す。
「確かにあれは引退ライブだったよ」
林道さんはあっけらかんと答えた。
「ただし、路上ライブでは、という意味だから」
彼の言っていることを僕は理解出来ずにいた。
「俺はバイトとしてこのライブハウスで働いていた。そして俺の汗水流して働いた労をねぎらった店長から、ステージに立ってみないか、と誘われたんだ。それは即ち、ライブハウスでの演奏許可でもあるわけだ。あんな寒空の下での演奏なんか誰がずっと続けるもんか」
あの時、格好いい言葉を紡いでいた同一人物とは思えない発言を彼は堂々と吐き捨てた。というより、正社員云々の話は関係ないじゃあないか。
林道さんは今回のライブのメインではなく、あくまでも場を温めるための前座で演奏するらしい。路上ライブでは一人での演奏だったわけだが、ここではバンドとしてステージに立つという。彼がバンドとしてどういう立ち位置なのか、実際のところはわからないけれど、僕は変わらない林道さんの姿が容易に想像できた。
「ああ、そういえば」
ある程度、会話を終えたところで、林道さんは何かを思い出したように手を叩いた。そして、僕の後方に視線を送る。僕も釣られて振り返ると、目の前には壁と思しき大きな塊が視界を遮った。びっくりして僕は尻もちをつく。すると大きな塊はのそりと動き、僕に覆いかぶさるように傾いた。そこで初めて僕はその塊が人間であることに気付いた。大男は、僕の身長をはるかに凌ぐ大きさで、目算でも二メートル弱はあると窺える。その身長に比例して、身体の線も太く筋肉質ではあるものの、余分なものを削ぎ落とした体躯をしていた。長い黒髪は目にかかるほどだったが、決して清潔感が無いわけではない。髭も生やさず、凛とした立ち姿に加え、彼もまたスーツに身を包んでおり、好青年をそのまま形にしたといっても過言ではないだろう。
「…………」
もごもごと何かを発しているのはわかるが、マスクをしていたため何を言っているかはわからなかった。ただ、差し出された右手から察するに、倒れた僕を起き上がらせようとしているのだろう。僕は彼の右手を掴み、勢いに身を任せて立ち上がる。
高身長であることにはかわりないが、しゃがんで見上げていたせいもあって二メートル弱の身長は勘違いであることがわかった。それでも筋肉質の体格のせいで随分と大きく見える。
「あ、ありがとうございます」
「おい、高藤。あんまり驚かせてやるなよ」
林道さんは、高藤と呼ばれた男を窘めながら、口元に手をやって忙しなく動かす。マスクを取れ、ということを彼に伝えているのだろう。
「ああ、すまない」
マスクを取った大男――高藤さんは、僕の目を見て謝った。
これが僕と林道さんの物語には欠かせないキーパーソンの一人、高藤肇さんとの出会いである。
「それにしてもこんなところに彼を連れてくるなんて、林道もどうかしてるな」
こんなところと僕の存在がやはり異質なのだろう、高藤さんは林道さんを見て呆れたように言った。
林道さんは、うるせえな、とバツが悪そうに唇を突き出したが、決して反省しているようには見えなかった。
「今日はこの俺の船出のライブにお前ら二人を呼んだんだ。光栄に思えよ」
「お前のライブではない。あくまでお前は前座、だ」
前座、という言葉を一文字ずつ区切ってはっきりと告げる高藤さんに、うるせえよと一辺倒な返事で濁す林道さん。僕には不思議と息が合った名コンビのようにも思えた。
「せっかくお前達には俺の勇姿を見せようと思ったのにな」
林道さんは僕と高藤さんを誘った理由を語った。
「誘った、というかお前が誘える人間は俺たちぐらいしかいないだろ」
高藤さんはにべもなく突き放す。
「そ、そんなわけないだろう」林道さんはあたふたしながら、指折り数えようとするが、そもそも一つめを折ることができない。
「まあ、秋月さんにでも慰めてもらいなよ」
高藤さんに諭された林道さんは、肩を落としながらステージ裏へと姿を消した。
ステージ上の中央にはドラムやベースにスタンドマイクが置かれており、周辺にはアンプやミキサーといった機材が設置してある。前回の路上ライブとは違う林道さんの演奏が見れるのかと思うと、やはり楽しみではある。
「林道のライブを見に来てくれて、ありがとうな」
高藤さんは僕に頭を下げた。それよりも僕は高藤さんが何の気なしに言った『林道のライブ』といった発言に微笑ましく思った。彼なりに林道さんの門出を嬉しく思っているのだろう。
「いえ、僕も彼の姿には興味があったので」
「彼の姿?」
「僕は音楽の方はからっきしなんですけど、それでも彼の歌う姿に惹かれた珍しいタイプの人間ですから」
「……なるほど」
僕の話を聞いた高藤さんは、ふっと顔を上げてぼそりと呟いた。僕にはそれが聞き取れなかったが、あえて触れずにおいた。
「なんで高藤さんは林道さんと同じようなスーツを着ているんですか」
「ああ、これ?」
スーツの襟を弄りながら、ギターの調弦をとっている林道さんの方を見やる。
「このライブハウスの正装だよ」
「ここの……? 高藤さんも従業員だったんですか」
「あれ? 林道から聞いていないのか」
高藤さんは、呆れたとボヤきながらため息を吐いた。
この高藤さんの反応を見て、林道さんの知らない一面を垣間見た気がした。確かにひと月も満たない知人の全てなんて知ることは不可能だろうし、僕たちも立派な大人であるわけだから、強い衝撃を受けた訳では無い。これが久しく感じていなかった友人というものなのかと感慨深かっただけだ。
「高藤さん、林道さんとはいつ頃からの付き合いなんですか」
高藤さんは目を細めたが、少しの間天を仰ぐと話し始めた。
「付き合いっていうほど、深いものはぶっちゃけないよ。俺はあんまり人付き合いがいい方ではないから、迷惑に感じていることの方が多いくらいだしね。ただ同じ大学で知り合って、一方的に絡まれて、その絡んだ糸が解けなくなっただけだ。あんたも大変だよ。これからその図太い綱に絡まれるわけだから」
僕は高藤さんの語る『図太い綱』という表現が可笑しくて、思わず笑ってしまった。確かに糸というよりは、綱といったほうがしっくりくる。
「まあそんなわけだからさ」
高藤さんは僕の目を見て、真剣な表情を作った。
「あいつのこと、よろしく頼むよ」
僕には高藤さんがなぜこうまで真剣に言うのか、正直なわからなかったが、「もちろんです」と素直に答えた。
それから高藤さんは口数を減らしてしまったが、林道さんのバンドのことやメインを張るバンドの紹介をしてくれた。ライブハウスの店員ということだけあって、とてもわかりやすく丁寧に教えてくれたのだが、高藤さんの立ち振る舞いを見れば見るほど、林道さんがライブハウスで働いていることが想像できなくて笑えてしまう。
林道さんのバンドはギターの林道さんを中心とした、トランペット、サックスの管楽器に加え、ドラムとベースが入ったインストバンドらしい。端的に言えば、ボーカルのいない楽器の演奏のみを主体としたバンドだ。だが林道さんとしては、ボーカルが欲しいらしく、今もなお探しているらしい。
「目星は付けているらしいが、そいつが全く入る意思を示さないらしい」
「音楽性とか、そういうのもあるんでしょうか」
知ったふうな口を聞いてみたが、僕には全くわかることの出来ない話だ。高藤さんは嫌な顔を一つせず、「どうだろうな」と短く返事をした。
「取り敢えず、今日の演奏を聞いて答えを出す、と話をつけたらしいよ」
つまりは、ここのどこかにそのボーカル候補が来ていることだろうか。
「林道さんは歌わないんですか」
「俺もそれは言ったよ」
高藤さんは即答だった。やはり林道さんの歌は良いのだろうか。
「あいつの歌じゃあ、きっと売れない。だけど、きっと誰かの心に響く歌だ。だから俺は林道に歌えと言った。だけどあいつは首を縦に振らなかったよ」
「それは何故でしょうか」
「さあな」
高藤さんはぶっきらぼうに答える。僕には子供のように拗ねているようにも見えた。
「林道の考えていることはわからん。やっぱり売れたいからなのかもしれないし、自分の歌を信用していないのかもしれない。あれだけ人の心には土足で入るくせに、自分の殻は破らない奴も珍しいな」
「でも、そんな林道さんがどうしても誘いたい、ボーカル候補の人もきっと上手いんでしょうね」
「そんなことはないよ。俺は林道以上に魂で歌っているやつを見たことがない。そのボーカル候補も、今回歌ではなく、インストだけで度肝を抜かすことが出来たのなら、と答えた。林道の歌以外の可能性を見せろってな。林道のギターの横で歌う姿を想像させろ、と」
僕は高藤さんの話を聞きながら、林道さんの様子が気になって、そっと確認する。ギターの調弦をとっていた林道さんは、アンプのつまみを弄っていたが、それも終わったらしくステージの裏へと消えていった。他のメンバーも各々のサウンドチェックを終えると、各自戻っていく。
気付けば周囲に客も増え、賑わいを見せていた。
客は若い世代ばかりで、特に女性が多かった。冬だと言うのに、肌の露出が多く、目のやり場に困る。服装も殆どの客が黒色の服装に身を包み、銀色のアクセサリーを思い思いの場所にあしらっているのが確認出来た。みんなまだ開始前ではあるものの、熱気が湯気となって見えるかのような盛り上がりようだ。
「目当ては、林道ではなくメインのバンドの客ばかりだぞ」
林道さんの後に演奏するバンドは巷でもメジャーとして知られるようになってきたロックバンドらしく、つい先月アルバムをリリースして話題にも挙がったらしい。
前座とはいえ、そんなメジャーなバンドと一緒のステージに立てるなんて、やはりすごいことなのではないかと思うのだが、高藤さんは首を横に振った。
「舐められてるんだよ。単純に」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた高藤さんに僕は理由を問う。
「そのバンドのドラムとベースは元々林道と組んでいたバンドのメンバーだったんだ。だけど、先が無いと見るや否や、寝返りやがった。ドラムやベースがいないとバンドとしては成立しないから、林道のバンドはやむなく解散。そして、寝返った奴らのバンドが日の目を見る。結末としてはこれ以上ないくらいのバッドエンドだ。そして、ようやくバンドとして形が整った矢先にそいつらのバンドとの前座──何かあるとしか考えられないよな。恐らくメジャーデビューしたバンドと拵えたばかりのバンドとの差を見せつけようとしているんじゃないかな」
「そんな……」
僕は言葉を失った。しかし、それと同時に林道さんには負けないだろうな、とも思った。僕の知っている林道さんは常に何かと抗いながら戦っている人だったからだ。戦うことには慣れている。
そんなことを考えていると、急に目の前が真っ暗になった。客も突然の事で、先程までの喧騒がピタリと止んだ。時間にして一秒から二秒くらいの出来事だっただろうか。ぱっとステージの中央にスポットライトが差し込む。そこにはギターを構える林道さんが顔を伏せ、だらんと力の抜けた状態で立っていた。止まった時間が動き出したように客はざわめきを取り戻す。それを待ちわびたかのように林道さんは右腕をゆっくりと高く掲げると、勢いよく振り下ろした。
弾かれた弦はアンプを通じて空気を震わせ、僕らの鼓膜を揺らす──いや、心を揺さぶる。
林道さんのステージが今、幕を開けたのだ。