僕と林道さんの物語は、道端で路上ライブをやっていた林道さんの様子を僕が眺めていたところから始まっている。
 電車を降りて、バスのロータリーへ向かっていると、道端にどかりと座り込んで、ギターを弾いている男の姿が見えた。秋も終わりを告げ、冬の到来が囁かれているなか、男は半袖のTシャツを汗だくにして歌っていた。客は誰もいない。そんなことはお構いなしに、アコースティックギターの弦を激しく弾き、口を大きく広げて歌っていた。いつもの僕ならそんなものは気にせず通りすぎるのだが、彼の荒々しく歌う姿がなぜか僕の足を止めた。僕には彼の歌が上手いのか下手なのか、わからない。ただ、それを見ているだけで、沈んでいた気持ちが手荒だが確実に持ち上げられるような感覚があった。
 僕が彼の歌を立ち止まってから一曲目が終わったのか、持っていたギターから手を離した。そして後ろに置かれた鞄からハーモニカを取り出すと、首に取り付ける器具を身に付け、次の曲へと移行した。
 時間にして三十分ほど経っただろうか。彼は人の目も憚らずにただひたすらに歌い続けた。歌っている曲がどんな曲なのかを想像し、思いを馳せてみるが、わかるのは彼が必死に歌っていることだけだった。歌うことでしかこの場にはいられない。そんな決意めいたものすら感じさせる。どちらかといえば、人に届けようというより、道いく人々に闇雲にぶつけているかのような表情と立ち振る舞いのせいか、彼の歌に立ち止まるのは僕以外に誰もいなかったわけだが、歌い終えた彼は満足そうにギターをケースにしまいはじめた。
 もう、終わりか……。
 正直な感想が僕の口から漏れた。素直に彼のファンへとなった、と言っていい。僕の想いが──もとい、僕の呟きが彼の耳にも届いたのか、男はこちらに顔を向けた。ぼさぼさの髪に無精髭を生やし、額からは汗が滲み出てきて、目にかかり、泣いてるようにも見えた。彼は僕を睨むように視線を向けた。文句を言おうものなら噛みつくぞ、と言っているような気がした。
「あ、あの……」
 僕は勇気を振り絞って声をかけた。
「ずっと聞いてくれていたよな。あんた」
 微かに届いた言葉は、僕が想像していたものより、ずっと暖かく、優しいものだった。
 彼は僕の目を見て答えてくれた。先程まで激しく喉を震わせていたせいか、肩で息をしている。
「ありがとう。長い間、ここで路上ライブをやってきたけど、あんたが俺の初めての客だよ」
 そう言って僕の目の前に手を差し出す。
「記念の握手だ」
 僕はどうしたらいいかわからなかったが、とりあえず彼の右手に僕の右手を重ねた。先程までギターを弾いていた彼の手は少し汗ばんでいて、ごつごつと硬い掌だった。
 それから僕たちはその場で少しだけ世間話をした。その時に彼――林道さんの名前を知った。名は林道倫一郎。歳は僕と同齢の二十六歳。風貌と佇まいから年上だと思っていた僕は心底驚いた。ただ、この頃からの影響、というか惰性といったなかで、僕にとっては林道さんは林道さんであり、呼び捨てにすることは出来ていない。
 林道さんは時折ここでギターとハーモニカを駆使して路上ライブを行っているそうだ。普段はアルバイトなどで生計を立てていたが、ようやく正社員の雇用が決まり、今回が引退ライブだということを自慢話のように語っていた。客が僕一人であり、しかも音楽に明るくない僕なんかが初めての客になってしまったにも関わらず、林道さんは文字通り自然体だった。とても強がっているようには見えず、恐らくこの引退ライブに客が例え一人もいなかったとしても、この表情を浮かべることだろう。それくらい、この状況には慣れていたのかもしれない。そう考えれば、僕という存在はどうあれ、林道さんにとって幸運なことだったのだろうか。
「寒くないんですか」
 彼の服装を見て素直な感想を述べると、林道さんは「ああ、寒いよ」と平然と言った。
「だけど、歌っている俺が寒がってたら誰の心にも響かないだろう。俺は魂で歌っているんだ。この道行く人たちの魂に訴えかけているんだ。魂を震わせているかぎり、寒さなんか吹き飛ばせる」
 言っている意味は何一つわからなかったが、つまり僕の魂は彼によって震わされたということか。
「俺の唄に耳を傾けてくれたのはあんたが初めてだったから嬉しかったよ」
 林道さんはにんまりと笑った。
「今日歌っていた曲はなんという曲だったんですか」
「どこにでも流れているありふれた曲だよ」
 そう言いながら、何曲かメモを書いて僕に渡してくれた。
 乱雑に書き殴られた文字だったが、なんとか読めないことはない。
 今思うと、こうして人と会話をすることも久しぶりだと気付かされた。元来よく話すほうではないが、それでも人と会話をするには神経を使うため、日頃から避けてきた節がある。林道さんは早口ではあったが、面と向かって話をしてくれるため、聞き取りやすかった。そして僕の会話にもしっかりと反応してくれる。
「あ、そうだ」
 林道さんは思い出したように携帯を取り出して、僕に画面を開いてみせた。
「連絡先、教えてくれよ」
 画面には『林道倫一郎』の個人情報が記されていた。
「どうせ、メールやLINEの方が都合がいいだろう」
 見ず知らずの他人に対して、ここまでずかずかと入り込んでくる人間を僕は見たことがなかったが、不思議と悪い印象は受けなかった。それも彼の持つ人間性のおかげだろう。
 普段から友達の少ない僕は、その申し出に二つ返事でOKをした。先述の通り、見ず知らずの他人に対して、浅はかな考えだったことは潔く認めよう。だが、今こうして思えば、僕は僕を受け入れてくれる友達が欲しかったのだと思う。そして久しぶりに会話をした相手が林道さんで良かったと今でも思っている。
「よろしくな、兄弟」
 兄弟、といういかにも耽美な響きに耳を澄ます。
 こうして僕──小林明にも数少ない友達が出来た。