修学旅行生でごった返す新幹線のホームの端っこの、待合室に奴──霞麗子(かすみれいこ)はいた。
 学校の制服である深緑色のブレザーとスカートに身を包んで、重そうな旅行バッグを足元に置いて、ベンチの片隅でぽつねんとしている。 

 霞は俺のクラスメイトだ。
 背中まで届く黒髪は艶やかで、顔立ちは彫りが深く整っている。
 体つきはスレンダーで、白い肌は輝かんばかり。
 テレビの中のアイドルだって勝てないような最高の美少女だが、今まで一度も浮いた噂が立ったことがない。
 それには大きな理由があって……。



「おい霞。こんなとこでなにしてんだ。向こうで先生がこめかみに青筋立ててんぞ」
 隣に立って話しかけると、霞は宙をさまよわせていた目を俺に向けた。 

「おや隆二(りゅうじ)くん。今日も田辺女史のお使いか。ご苦労なことだね」
 まったく抑揚のない声で、労(ねぎら)いの言葉を述べてくる。
 表情をぴくりとも動かさないので、半ば本気で人形と話しているような気分になる。 

「苦労してると思うなら、もっとそれらしい態度をとって欲しいもんなんだがね」
「それらしいというと……胸元で手を合わせて目をキラキラ輝かせて、『隆二くん、ありがとう』と語尾にハートマークをつけんばかりの勢いで……」
「いや別にそこまでしなくていいけど」
「それこそ君の好きなR18作品に出て来るやたらと豊満な女の子キャラクターのような……」
「ってはいっ、ストッープ、この話やめーっ」 

 色々危ない内容だったので、途中でばっさり断ち切った。
 ……ちっ、こいつ見てないようで人のこと見てやがる。



「んーで? 今日は何を哲学してんだよおまえは」
 隣に座って訊(たず)ねると、霞は首を傾げた。
「どうしたんだい、今日はずいぶんと物分かりがいいね」
「さすがによくもなるだろうよ。入学から数えてもう3年のつき合いだぞ? この状態のおまえがちょっとやそっとじゃ動かないのは身に染みて知ってらあ」

 授業中に先生に差されても反応しない、移動教室なのに移動しないなんてこともざらだ。
 そしてそのつど、霞対策係の俺が出動する羽目になるわけなんだが……。

「どうあれ答えを導き出さんことにはテコでも動かねえ。それが霞麗子だろ?」
「そうだね。その通りだ。キミはよくわかってる」

 霞はこくこくとうなずいた。

「実は最近悩んでいてね……なんというか、産まれそうなんだよ」
「産まれるってとーなんだ、子供か? お姉さんのとか、お母さんのとか、あるいはディオのとか?」
「詩織(しおり)姉さんはまだ男性とお付き合いしたことすらない。母はこれ以上増やす気はないようだ。ディオゲネスはそもそもオスだ」
「じゃあ誰の……」
「ボクのだ」
「はああああっ?」

 驚いた俺が立ち上がると、霞は「おお」と声を上げながら手と手を打ち合わせた。

「すまない。誤解を生むような発言をした。たしかに『子ども』と『産む』は近似性のある言葉だが、この場合はそうではない。別にボクが子どもを産むわけではないんだ」
「そ、そうか……よかった」
「よかった、とは?」

 ほっと胸を撫で下ろしながらの俺の感想に、霞は首を傾げた。

「あ? ああー、いやあ、その、あれだ! おまえがに、にににに妊娠なんてしてたら、高校生としては大変だろうなって思ったんだ! それだけだ! それだけ! 友達としてのあれだ! 心遣い! 気配り! 思いやり!」
「なるほど……たしかに」

 霞は深くうなずいた。

「まだ学生の身でありながら出産、子育てとなると大変だろうからな。キミの心配は実に正しい。またそれを、ただの知人としてではなく友人として心からの言葉で告げてくれたのが嬉しいよ。ありがとう」
「お、おう……まあ、それほどのことでもねえけどよ」

 なんとんなく顔を赤らめながら、俺はベンチに座り直した。



「では整理しよう。産まれるのはボクの子どもではない。ボクの母のでも、詩織姉さんのでもない。ディオゲネスはそもそもオスだ」
「そこからやり直すのかよ……まあー律儀というか……」

 俺のツッコミも気にせず、マイペースで霞は話を続ける。

「産まれるのは生命ではない。答えだ。『哲学の卵(オーヴム・フィロソフィークム)』が孵(かえ)りそうなんだよ」
「オーヴって……ああ、おまえがいつも言ってるやつか?」
「そうだ。実在の実際の卵じゃない。ボクの中にのみ存在する、『哲学の卵』だ」

 以前説明を受けたことがある。
 哲学あるいは錬金術の分野において、卵は「啓示」や「悟り」の象徴であること。
 イースターエッグでも有名なように、「復活」や「誕生」といった意味を持つこと。
 霞は自分の中に『哲学の卵』があると言う。
 中身のわからないそれを温め、刺激を与え、孵すことが人生の最終目標なのだと。
 それが孵るということは……。

「中身がわかったってことか? もう?」

 まだ十八歳のくせに、人生の最終目標に達したって?

「正確にはまだだ。だが、わかりかけている」
「……軽くで、説明できる?」
「うーん……。それがだなあ……難しいんだ。どうも上手く言葉に出来ない」

 うんうんと唸った後、霞は俺の目を覗き込むようにしてきた。

「なあ隆二くん、ちょっと聞いていいかな?」
「ああ? なんだよ」
「キミ、好きな人はいるかい?」

 ぶふーっ。
 俺は盛大に噴いた。

「な、な、な、なんだってっ? 今なんてったおまえっ?」
「キミ、好きな人はいるかい?」

 ぶふーっ。
 俺は再び噴いた。
 二度目なのに、やっぱり凄まじい衝撃だった。
 あの霞麗子が、好きな人がどうとか言ってる。
 しかもそれを俺に聞いている。

「い、い、いいいいったいどうしてそんなことをっ? よりにもよって俺にっ?」
「キミ以外にまともに聞いてくれそうな人がいないからだ」
「たしかにそうかもしれんけど! おまえみたいな面倒な奴の面倒を見るのは俺だけだと思うけども!」
「いるのかいいないのかい?」
「い、いねえよ! いるもんか!」
「なるほどいないのか」
「反応薄っ? 反応薄っ? その気がなくてももうちょっと反応してくれたっていいんじゃないのちょっとっ?」
「反応したほうがいい、とは?」
「おまえに望んだ俺がバカだったあー!」

 取り乱した俺が落ち着くまで待って、霞は言った。
「そうか、いないのか。残念だな。参考にしようと思ったんだが……」
「……はっ? おまえ今なんてったっ? 参考っ? 参考にしようって言った? あの霞麗子がまさか、誰かを好きになったとでも言うつもりか?」
「おそらくは」

 霞はあっさりとうなずいた。

「マジでぇえぇえぇえぇっ?」
「そうなんだ。驚くだろう? ボクも正直、戸惑っているんだ」

 のけ反りながら驚く俺に、霞は淡々と告げてきた。 

「何せ初めての経験だし、知識もゼロだしね。だからキミに聞こうと思ったんだ。でもキミは好きな人がいないんだろう? だったら参考にならないから聞かない」
「ちょまっ……待て! 今はいないがかつてもいなかったとは言ってない!」 

 話を納めようとした霞を、慌てて止めた。
 とにかく霞が気にしてる奴のことを聞き出さないと!
 そして可及的速(かきゅうてきすみ)やかに抹殺しないと!

「……なるほど、それは真(しん)だな」

 霞はふむとうなずいた。

「では聞くが、かつてあったというその人への気持ちはどういうものだったんだい?」
「そ……っ、それは……っ」

 いったいなんの公開処刑だよと思ったが、俺は耐えた。

「まあ……なんちゅうか……おかしな行動ばかりするその人のことが気になってしょうがないというか? 俺の見てないところで何かしでかしてやしないかハラハラするというか? 父性の発露(はつろ)というか? 保護者目線的な?」
「ずいぶんと面倒な人を好きになったものだな?」
「そ……そうだな」
 霞の直視に耐えられなくなって、俺は思わず目を反らした。



「しかし面白いな。キミにとっての『恋』はそういうものなのか」
「……面白い?」
「うん。だって、ボクのとは全然違うから」
「ほう……ちなみに聞くけど、おまえの相手はその……どんな感じの奴なんだ?」
「ボクの場合かい? そうだな……ボクとは違ってちゃんとしているよ。失敗しても自分でなんとか出来て、そもそもボクの助けなんか必要としないんだ。それどころかボクが困っていたらどこへでも飛んできてくれて、辛抱強く面倒を見てくれるんだ」
「へえ……」
「ボクのように世界に適合していない人間にとっては、まさに神様のような人物だよ」
「おお……」

 どんな奴だろう。
 霞にここまで言わせる、その超絶うらやましい奴は。

「ほら、真逆だろ? キミの相手とは正反対のタイプだ。実に興味深くて、実に面白い事実だ」
「そうだな……面白いかもな」

 もごりと、腹の底で気持ちの悪い何かが蠢く。

「んで、なんだよ? おまえが長年温め続けてきた『哲学の卵』の中身は恋心だったってことか? そんなものが人生をかけた難問の答えだって? 言い方は悪いけどさあ……」 

 なんとかして否定してやろうと頑張っていると……。

「それは違う」

 霞はあっさりと首を横に振った。

「え、違う?」
「近くはあるけれど、そのものズバリではない。それも含めるけれど、それだけではない。もっと先に何かがあるんだ。もっと大きくてずっと強い、光のような何かが。それをボクは知りたいと思ってる。そうだな……この修学旅行中に」
「っておまえ、まさか……っ?」

 霞の繰り返す謎めいた言葉。
 その行きつく先に気づいた俺は、真っ青になった。

「そうだ。この四泊五日のうちに、ボクは答えを出すよ」