だけどそんな私にも、唯一の楽しみができた。
それは、昼休みに目にした偶然。
友人と机をくっつけ、いつものように持参したお弁当を食べていたある日、麗らかな日射しに誘われて不意に目を向けた窓の先に、クラスメイトと楽しそうにサッカーに興じる藤倉君の姿があったのだ。
その瞬間の彼は、夜空を見上げた際にひらりと舞った、流れ星のように映った。流星群のように予め見られることが決まっている、そんな無粋なものでは決してない。
ディフェンスを見事に掻い潜り快進撃を見せる華麗なドリブル。弾丸のように真っ直ぐな軌道を描きゴールへと吸い込まれるボール。目にしただけで、良いことがありそう、そんな予感すら抱かせてしまう。
ああ、私は藤倉君が好きだ。
この僅かな時間だけ、窓際の席を引き当てた私は彼を見つめることを許されている、そう思った。でも同時に、私たちの繋がりはこんなにも希薄になってしまったんだと思わざるを得なかった。
彼が何度かこちらを見たような気もしたけど、本当のところは分からない。私の都合の良い妄想が見せた幻影かもしれない。いつも目が合う前に、私から逸らしてしまっていたから。
だって、気のない女子にじっと見られて、気持ち悪いと思われるのだけは絶対に避けたかったんだ。
お母さんの言うことを聞いてランクを下げていれば、こうして彼を目にすることはできなくとも、今頃友人たちと放課後ファストフードやカラオケに寄って、これぞ女子高生というように、取り留めもない話に花を咲かせていられたのだろうか。
こんなことすら考えてしまう。私は何故、そして何をしにここへ来たのだろう、と。
心はとても弱く、脆くなっていた。
勉強はとにかく難しくて、ついていくのが精一杯。部活動は所属が原則として義務付けられていたので、勉強に支障が出ないよう活動が地味で楽そう、そんな理由で手芸部を選んだ。
友人は何人かできたけれども、D組ともなれば皆同じように勉強に必死で、気軽にどこかへ寄って帰ろうと声もかけられなかった。
けどそんな中学時代よりも地味に過ごす私の元にも、藤倉君の近況だけは引っ切り無しに入ってきた。あの頃と同じ。女子が集まれば、彼は噂の的だった。
それによれば、藤倉君は中学時代と同じく、バスケ部に入部したという。副キャプテンを務めていた彼だったが、新入生で即レギュラーは相当に難しいことらしく、未だボールにすら触らせてもらっていない、と自分のことのように嘆いている女の子がいた。
でも彼は、三年生のキャプテンにどうやら見込まれているようだ。部活が終わった後、いつまでも消えない体育館の照明。覗いてみれば、遅くまでこっそりと特訓を受ける彼がいたとのことだった。
藤倉君ならやっぱり、と自分のことのように嬉しく思う反面、噂を聞けば聞くほど私から遠ざかり、手の届かない人になっていった。
楽そうだ、そんな理由で部活を選んだ自分は、努力を惜しまない彼と比べてしまうと、酷く惨めで、そして恥ずかしかった。
頼みの綱だったラインすら、いつしか送れなくなっていた。
そして私はある日遂に、決定打とも言える噂を耳にしてしまう。友人の友人のそのまた友人、そんな遠くから流れてきた噂だったけど、それは私を打ちのめすのに十分だった。
――藤倉羽宗は、小柄で優秀な女の子がタイプらしい。
中学時代は一度だって、彼のそんな噂が流れたことはなかった。あれだけ彼にまつわる情報が氾濫していたにもかかわらずだ。その意味するところは即ち、特定の人物ができたということに他ならないと思った。
そして、それにぴったりの女の子を私は知っていた。
藤倉君と同じA組の、琴平美雨(ことひらみう)さん。
遠目から見たことがある程度だが、彼女もまた、噂をよく耳にする人物だ。可愛い上に性格も良く、頭も良い。新入生代表の挨拶は、確か彼女が務めていたはずだ。
天から二物も三物も与えられている女の子。
百六十五に届きそうな私の身長とは反対に、百五十台前半の、小動物のような可愛らしさ。
彼が語るタイプ、その全てが彼女を指していると思った。
そして彼女は、バスケ部のマネージャー。
身長の高さで知られるスポーツだ。その中で小さい琴平さんが懸命に彼らをサポートする、そんな姿を想像したら、女の私ですら庇護欲が湧いた。
あの二人なら、お似合いだよね。付き合ってるんじゃないのかな? 二学期の後半ともなれば、そんな噂がまことしやかに囁かれるほどまでになっていた。
どんなことがあっても近くにいたい、そう思って必死で頑張った日々に、私はもはや後悔しか見出せなくなっていた。
何だが朝から妙な胸騒ぎがする、そんな日ってたまにあると思う。
目が覚めたのは、時計を見ればいつもより二時間も早かった。毎日寝不足であるここ最近、こんなに早く目が覚めるのは物凄く珍しい。カーテンの向こうはまだ白んですらいない。
勿体ない、もう一度寝直そう。そうやって暖かいベッドに潜り込んでも、何故だか一向に眠気はやってこなかった。睡眠時間は、確実に足りてないはずなのに。
私は一つため息を吐くと、諦めてベッドから抜け出す。途端に足元から這い上がってくる冷気に体を震わせながら、急いでエアコンのスイッチを押した。
ただ起きているだけなら勉強でもした方が良いかもしれないと机に向かったけど、目は参考書の文字の上を滑るだけで一つも頭に入ってこない。
何だろう、心が変にざわついた。
シャーペンを放り出し、天井を仰ぐ。体を背もたれに預けると、重いとでも言うように、椅子がギシッと抗議の声を上げた。
そういえば今日は終業式だ。あまり期待できない通知表に、落ち込んででもいるんだろうか。
ぼーっと考えていると、外から「ワンッ」と元気な鳴き声が聞こえてきた。それで思い立つ。
そうだ、こんなに早いならハナの散歩に行こう。一緒に走ったら、少しはすっきりするかもしれない。
つけたばかりのエアコンを早々に切ると、私はパジャマ代わりにしているスウェットのまま上からダウンを羽織り、階下へと向かった。
「あら、おはよう」
扉を開ければ、キッチンで既に朝食を作っているお母さんと、ダイニングについて新聞を読むお父さんの姿。
「おはよ」
「どうしたの? 今日は早いのね」
お母さんが、カウンターから顔を覗かせた。
「目が覚めちゃった。お父さん、ハナの散歩、もう行った?」
「催促の声が聞こえたから、今行こうと思ってたんだ。行ってくれるのか?」
「うん、良いかな?」
「ハナもその方が嬉しいだろ。美麗みれいに一番懐いてるんだから」
新聞から顔を上げたお父さんが、老眼鏡を鼻にずらして私を見やる。その目は、建前ではそう言ったけど、凍えるような冬の早朝に外へ出なくて済む、そんな嬉しさが隠しきれていない。私は思わず笑ってしまった。いつもごめんね、お父さん。
私は頷いて、「行ってきます」とリビングを後にした。
「ハナ」
玄関を出ると、既にハナは小屋から出てスタンバっていた。
私を認めると立ち上がり、ハッハッ、と白い息を弾ませる。尻尾は千切れんばかりに振られていて、その姿が堪らなく可愛かった。
「最近ごめんね、忙しくて」
優しく頭を撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細め、すり寄ってくる。
ハナは私が小学生の頃に飼い始めた秋田犬だ。きっかけはお母さんの知り合いが、子犬が産まれたからもらってくれないか、と打診してきたことによるものだった。我が家に来たばかりの頃は、ぬいぐるみみたいに小さくてふわふわで、兄弟姉妹のいなかった私は、突然できた新たな家族を大歓迎した。
毎日毎日撫で回し、一時構い過ぎたのか避けられたりもして落ち込んだのを思い出し、小さく笑ってしまう。あの頃と変わらず色は真っ白で手触りもふわふわ。だけど、サイズはとてもビッグになった。
西紅を受験しようと決める前までは、毎朝欠かさず私が散歩していたのだけれど、勉強が忙しくなってからは、ほとんどをお父さんにお願いしていた。
「久しぶりに私と行こっか」
言葉が通じているのかは分からないけど、ハナは元気よく「ワンッ」と鳴くと、お利口なことにリードを咥えて戻ってきた。
「いつの間にこんなことできるようになったの?」
だけどそう言ってから、教えるのは面倒くさがりなお父さんしかいないか、とまた笑ってしまった。
いつもの散歩コース。ハナのリードを引きながら考える。この胸騒ぎの正体は、いったい何なのだろう、と。
気分転換にと引き受けた散歩。可愛いハナが久々に見られて、嬉しくは思っている。なのに、完全には拭いきれない胸の違和感。
例えば、それほどしょっちゅう行くような近場でもないのに、何故か知り合いと遭遇する変な確信があったり、あまり得意でない人物と、その日行なわれる予定の席替えで隣になる嫌な予感がしたり。
些細な電波を受信でもしてるんだろうか。心の表面を、かさつく指先でそうろりと撫でられたような、ちょっとした違和感。今日の予感は酷く漠然としていて、良いことか悪いことか、どちらなのか判断がつかない。その曖昧さが却って何だか気持ち悪かった。
通知表じゃないとすれば……明日から冬休みに入るから、それで落ち込んでる? いやいやまさか、今更。学校で藤倉君に会えなくなる、なんて寂しがるほど会ってないじゃない。自嘲気味に笑って目を伏せると、いつの間にかこちらを見ていたハナと目が合った。
「どうしたの?」
訊くけど、勿論答えは返ってこない。でもなんだかその瞳が、「それは私の台詞よ」そう言ってるように見えて、思わず頭をくしゃくしゃと撫でてしまった。
ときどき思うのだ。動物というのはしゃべることができない分、瞳が語る雄弁さをとてもよく理解しているのではないか、と。時として、誰よりも感情の機微に敏感なのだ。
しゃがんで瞳を合わせ、大丈夫よ、と抱きしめた。
本当はあんまり大丈夫じゃない。だけど言葉にすれば、それが現実になるかもしれないと思ったんだ。
納得したのかしなかったのか、結局のところは分からなかったけど、ハナはまた私の隣をお行儀よく歩き出した。
行く場所はいつも同じ。駅とは反対側にあるわりと大きな河川敷だ。この時期になると川の一部が凍ったりして、そしてハナはそれを見るのが大好きなのだ。冷たくてビクリとなるくせに、薄い氷の膜を鼻先でつつくのがよほど楽しいらしい。夢中になる姿がとてつもなく可愛くて、私はそれ見たさに、寒いけど冬も必ずここへ来てしまう。
「行くから行くから」
既にテンションが高くなって私を引っ張り始めているハナに、引き摺られるようにしながら、私は土手を下りようとした。
でも次の瞬間、思ってもみなかった強さでぐんっと引っ張られ、バランスを崩す。久しぶりすぎて感覚を忘れていたみたい。その拍子に、前から走ってくる一人の女の人とぶつかりそうになった。
「ごめんなさいっ」
何とか体勢を立て直し、咄嗟に謝って顔を上げる。そのときに目が合って、私は思わず息を呑んだ。
向こうはそんな私の様子に気付くこともなく、会釈を返すとそのまま走り去る。
――驚いた、まだ走ってたんだ。
次第に小さくなる背中を見送りながら、私は詰めていた息を吐き出し、そして少しだけ切ない気分になった。
彼女はきっと、私のことを知らない。でも私は、知っている。
彼女の名前は、美濃部鞠(みのべまり)さん。
西紅高校の一年生だ。クラスは、藤倉君と同じA組。
でも、今はもう来ていない。
階も違う私が彼女を知っているのには、もちろん理由がある。それは、彼女がある事件を起こし、一躍時の人となったからだ。
あれは、照りつける太陽の日射しが強くなり始め、春から夏に移り変わる、そんな緑が眩しい時期だったと記憶している。
彼女は、普段あまり使われることのない実験棟の女子トイレで煙草を吸ったとされ、自宅謹慎処分になったのだ。
当時はとてもセンセーショナルな事件だったため、学校中がこの話題で持ち切りとなった。進学校で、しかもAクラス。そんな優秀な生徒が学校で煙草を吸う、俄かには信じられない行為だった。
美濃部さんの見た目は、確かに少し派手だったと思う。背は私よりも高くて、スカートは膝上十センチ、若しくはそれ以上だったかも。惜しげもなく美しい脚をさらし、毅然と歩く姿は印象的だった。髪も校則ぎりぎりの茶髪。肩までのセミロングには、緩くパーマをかけていた。
うちは進学校だけど、そういった裁量は基本的に生徒個人に委ねられているので、わりと自由だ。Aクラスなのに、ガリ勉とは対極のような容姿。
だから事件が起こったときの周りの反応は、彼女ならやりそうだよね、見た目も手伝ってかそんな声ばかりが聞かれた。見かけるときはほとんど一人、友人とわいわいするというイメージもない。だから私も最初は同じように思っていた。そして、少しだけ怖いとも思った。だって、煙草を吸うなんて、不良の代名詞みたいな行為だったから。
でもD組の私は、彼女との接点は全くと言っていいほどなくて、同じ学校だというのに、それは何だか遠い出来事のようで。だから強い関心も、噂が囁かれなくなれば次第に薄らいでいった。
けど私は、美濃部さんをハナの散歩の度に見かけるようになる。そして、彼女の人物像は、本当に思い描いていた通りなんだろうか? いつしかそんな疑問を抱くようになっていった。
美濃部さんは噂によると陸上部だったようだ。この事件のせいで、陸上部は新人戦を辞退せざるを得なくなったと聞いたから、多分本当。
謹慎処分になる以前は、部活の朝練があったからこうして早朝の自主練はしていなかったのだろう。それまで会ったことは一度もなかった。
でも謹慎処分が下った次の日に、私はたまたまハナの散歩で、彼女を目にしたのだ。
驚いたけど、でもそれで思った。謹慎中は、恐らく外出は禁止のはず。それなのに、走ることを優先したんだな、と。
素人の私でも、思わず見とれてしまうほどの美しいフォーム。脇目も振らず、真っ直ぐと遥か彼方に輝く朝日へ向かって走るその姿は、見れば見るほど煙草とはかけ離れていった。謹慎をくらってむしゃくしゃしている、そういう風にも見えなかった。
静かだけど凛とした強さ。そう、ちょうど今みたいな、冬の早朝、そんな厳かとも言える空気を身に纏っていたんだ。
どうしてあんな行為に及んだのかは分からなかったけど、もしかしたら何かのっぴきならない事情があったのではないか。
でも親しくもない私が声をかける勇気もないし、かけたところで何て言っていいのかも分からなかった。そのうち勉強も忙しくなって散歩をしなくなった私は、いつしか彼女のことを忘れてしまっていた。
だけどそう、美濃部さんは、謹慎が解けて大分経つ現在も、学校へは来ていないのだ。それなのに、こうして真面目に自主練に取り組んでいる。
彼女は何を思って毎朝走り、そして何故学校へ来なくなってしまったのだろうか。
非人道的な己の行為を恥じて? とてもそんな風には思えなかった。
相反する二つの姿を持つ彼女。いったいどちらが本当なんだろう?
「うわっ」
すっかり考え事に没頭していた私は、ハナに強く引っ張られ我に返った。見下ろせば、心なしか瞳には非難の色が。
大好きなおやつを目前にして、長い時間『待て』をさせられている気分だったのかもしれない。
「ごめんごめん」
苦笑を返し、鼻息の荒いハナに引き摺られるようにしながら、今度こそ土手を下った。
「行ってきます」
家を出た途端に空っ風が体を貫き、私は堪らずコートの前を掻き合わせた。
ふと庭先に目をやると、三輪のクリスマスローズが風に煽られ、揃って同じ方向に首を傾げている。可愛らしい所作だけど……
「相変わらず地味な見た目だね」
私は薄く笑って、そのまま学校への道を歩き始めた。
見上げた空は鈍色。いつもより雲が低い気がして、そのまま落ちてきて押し潰されたりしたらいったいどうなるんだろう、なんて水蒸気の塊相手に変な心配をしたりした。
するとそれが良くなかったのだろうか、ぽつりと頬に一粒の雫。お、と思ったのも束の間、学校までの中間地点に差し掛かる頃には、視界がけぶるほどの大雨へと変化していた。
折り畳み傘を取り出そうにも、普段使わないそれは財布やらポーチやらの下敷きになり、なかなか顔を出してくれない。雨に打たれながら探すよりはと、私は近くのバス停まで猛然とダッシュすることにした。
屋根のある場所まで来て漸く一息吐き、取りあえずタオルを取り出しコートの雫を払う。靴と靴下は、とっくに手遅れになっていたので諦めた。
「嫌だねぇ」
すると突然、後ろで声がした。私が折り畳み傘に手を掛けた、まさにそのタイミング。驚き振り向くと、そこには一人のおばあさんが座っていた。
いつから? 疑問が湧いたけど、濡れていないところを見ると、私がここへ辿り着いたときには既にいたことになる。気付かなかっただけのようだ。ここのバス停の蛍光灯は、もう随分前から切れている。加えて背後には大きな欅の木が立っていて、結構薄暗いのだ。
話しかけられたのかと思ったけど、おばあさんの瞳は私を捉えてはいない。どうやら独り言だったらしい。でも振り向いてしまった手前何となく気まずくて、私は一応軽く会釈をして再び鞄に手をやった。
「あぁ嫌だよ」
するとまた聞こえた。今度はさっきよりもはっきりと。
バスでも遅れているのだろうか? もう一度振り向くと、今度はこちらを見ている気がした。
年齢は、八十歳くらい? 顔には歳と共に増えたであろう年輪が刻まれ、髪もそのほとんどが白くなっていた。しかし対照的に瞳は黒く鋭く輝きを放ち、何でも見透かしてしまいそうな感覚を抱かせる。腰は少し曲がっていたが、黒いタイツに包まれた足は意外としっかりしていて、矍鑠(かくしゃく)とした老人、まさにそんな印象だった。
「どうかされたんですか?」
もしかしたら話を聞いて欲しかったのかもしれない。何となくのお年寄りのイメージだけど、そう声をかけてみた。
「濡れるのは嫌だねぇ」
でも聞いているのかいないのか、またもや独り言のような言葉を呟く。そしてそんなおばあさんの視線は、私の鞄から僅かに顔を覗かせた折り畳み傘へと注がれていた。
思わず苦笑してしまう。なんだ、そういうことか。
「宜しければどうぞ」
私は傘を引き抜くと、おばあさんへと差し出した。
「ほー、こりゃたまげた。親切な人もいたもんだ」
漸く合った視線。そう思ったけど、途端に違和感を覚える。近くで見つめているというのに、本当にこちらを見ているのだろうか、それは不思議と噛み合わないのだ。斜視かと思えば、どうやらそうでもない。
そしてその瞳は、どんなに経っても瞬き一つしなかった。
――バラバラバラバラ
激しくぶつかる雨音が、やけに煩い。
見ればそれは、季節外れとも取れる雹へと変化したようだった。
垂れ込める雲は、まるで癇癪を起こした子供でも内包しているかのように、手当たり次第氷の粒を投げつけてくる。古びたトタン屋根は、堪らず悲鳴を上げた。
なに? なんなの?
寒さのせいだけじゃない、肌が粟立った。
白々しく紡がれる台詞も、まるで台本でも読んでいるかのようで。
「だけどね、これしきのことで感謝してもらおうなんて、そりゃあお前さん、虫が良いよ」
この人は、いったい何が言いたいの?
「そんなこと思ってませんよ」
天候も手伝ってか少しだけ得体の知れない不安を感じながらも、差し出してしまったからには引き下げることも躊躇われて、貼り付けた笑顔のままにもう一度傘を差し出す。
すると、何故かおばあさんは私の顔をまじまじと見つめたようだった。
「――なんだ、お前さんか、そうかい。それならまぁ昔の恩もあるしね、一つだけ、忠告をしてやろうじゃないか」
叩きつける雹の音に掻き消され、しわがれた声はひどく聞き取りづらい。
「え?」
だけどおばあさんは、やはりというか案の定というか、私の期待を裏切ることなく、そのまま話を続けた。
「今日の黄昏時、今じゃ確か夕暮れ時って言うのかね。音楽室へ行っちゃあいけないよ」
「今日の、夕方?」
思わず首を傾げた。
今日は終業式。言わずもがな帰りは早い。
県大や国大に出るような強豪の部活動ならいざ知らず、私が所属するのは帰宅部一歩手前の手芸部。もちろん活動は無く、そんな時間まで学校に残っていようはずもない。
意味が分からず、私はおばあさんに曖昧に笑いかけた。突然何言い出すんだろう、この人頭大丈夫かな? 申し訳ないけど、そういう思いもあった。
だけどおばあさんは、そんな私に何故だかニヤリと笑いかけた。微笑むなんて可愛らしいもんじゃない。ひっひっ、そんな引き笑いが聞こえてきそうな、ちょっとだけ気味の悪い笑みだった。
「ほっときゃいいさね」
そして最後に、そうぽつりと零した。
「ええと……はあ……」
背中にうすら寒いものを感じていた私は、急がなければ遅刻する、そんな思いと相まって、曖昧に返事を返すと、おばあさんの隣に傘を置き早々に暇を告げた。
ちらりと振り返れば、本当に必要としているのだろうか、私が立ち去るそのときまで、おばあさんがベンチを動く気配は全くなかった。
寒い……身体が怠い……
長ったらしい式。
降り出した雹は、どうやら今度は雪に変わったようだった。
凍えるような体育館で代わる代わる話す教師や、何事か表彰される生徒を横目に見ながら、私は不調を訴える体と闘っていた。
冷たい雨と雹に打たれ、早くも風邪をひいたようだ。
ちゃんとあの傘、使ったんでしょうね? 心の中でおばあさんに悪態を吐く。そうでもしてないと倒れてしまいそう。
何とか終わるまでは耐えきったものの、それが限界だった。ホームルームは辞退することにし、私は暫く休ませてもらおうとその足を保健室へ向ける。けれども、その道すがら。運悪く正面から、口うるささでは右に出る者のいない生活指導の沼田(ぬまた)が歩いて来るのが目に入ったのだ。
条件反射のように、回れ右、と体が傾きかけたところで……残念なことに目が合ってしまった。
「こんな時間に何してるんだ? 教室に戻りなさい」
こっそりため息を吐く。
頭が固く、何事も決めつけてかかる融通の利かない沼田。
生徒の間で毎年密かに行なわれる嫌いな教師ランキングでは、常にダントツの一位だそうだ。しかも沼田が赴任して来てから、まだその地位を誰にも明け渡していないという。
渋面を作り歩いて来るその姿は、竹刀かハリセンでも握ってた方がよっぽどしっくりくる。
小さな舌打ちが聞こえてきて、恐らくは私をサボりだとでも思っているのだろう。
「具合が悪くて、保健室へ行くところです」
面倒だけど、ここで説明しないともっと面倒なことになる。私は重い口を開いた。
それを訝しげな眼差しで見つめる沼田。
本当に勘弁してほしい……
「ならついていってやる」
上から目線な物言いに、結構です、喉元まで出かかった言葉を必死で飲み込んだ。
相手にするだけ疲れる。ここで追い払おうと無駄な労力を使うより、本当に熱があるんだし、それが分かれば諦めて帰るだろう。
私は黙って会釈した。
――ガンガンッ。
扉を叩く音が廊下中に響き渡った。
コンコンじゃない、ガンガンだ。仮にも病気の生徒が寝ている可能性のある保健室の扉を、力の限り叩くなんて、配慮? それともデリカシー? どちらにせよ欠片もない。
私が呆れていると、案の定顔を覗かせた養護教諭の影森(かげもり)先生も、迷惑という表情を隠しもしていなかった。
「沼田先生、お静かに。保健室ですよ」
「ふんっ」
ふん? 信じられない横柄さに耳を疑う。
影森先生は確か今年の四月、私たちの入学と同時にこの西紅に赴任して来た、まだまだ年若い養護教諭だ。
年功序列を重んじる旧態依然のステレオタイプ。そんな沼田は、若造が生意気にもこの俺に意見するのか、とでも言いたいらしい。
「ここに学年とクラスと名前、記入できる?」
だけどそんな態度にももう慣れっこなのか、影森先生は沼田を一瞥すると、すぐに私に向き直り、クリップボードを差し出した。
受け取ると、悪寒のせいか思いの外手が震えていて、なかなか上手く書くことができない。それを見て漸く納得したのか、でも沼田は「体調管理もしっかりできないなんて気合いが足りん! たるんでる証拠だ!」そんな捨て台詞を残して保健室を後にした。
「聞いた? 気合いだって……。あの人、本当にそんなんでウイルスに勝てるとでも思ってるのかな?」
だったらこの世から全ての病気はなくなるのにね、去っていく後ろ姿を見ながら、苦笑した目を私に向ける。
多分軽口を叩くことで、気にするな、そうフォローしてくれたんだと思った。
お世話になったのは初めてだったけど、年が近いからか、こちらの気持ちをよく理解してくれる優しい先生、私の中で彼はそんな印象になった。
やっとのことで記入し終えたクリップボードを返そうとしたとき、ふと視界の端で白い紙がはためいたのに気付く。気になって視線を向けると、『保健室』と書かれたプレートの下に、A4サイズの紙がセロハンテープで貼り付けられていた。それが風にひらひらしていて、それで目に入ったようだった。
――お悩み相談室?
何度見ても確かにそこにはそう書かれていて、思わず影森先生をじっと見てしまった。
訝しげな視線に気付いただろうに、先生はにこにこしたまま保健室へと私を促す。
「結構辛そうだね。とりあえずそこ座って、はい、これね」
保健室によくある回転する丸い椅子。それを勧められて腰を下ろした。
体温計を手渡され、脇の下に挟むと、
「あんな物ぶら下げてるから、俺は多分沼田先生に目の敵にされてるんだろうなぁ。生徒の人気取り、そんな邪な考えで看板を掲げてると思ってるみたいなんだ」
あ、でもその前からチャラいとか何とか、難癖付けられてたか、そう言って頭を掻く。
答えてくれないのかと思ったけど、違ったみたいだ。私が辛そうだから、とりあえず先に座らせた、多分そう。
言動を見ていれば確かに、さり気なく気配りのできる、見た目も今どきのお兄さん。でもチャラいかどうかと問われれば、それには首を傾げたくなる。髪だって黒くて短くてとても清潔そうだし、白衣だって着崩してるわけじゃない。強いて言うなら、掛けている眼鏡だろうか。スクエア型のアンダーリムで、目元のほくろのせいか、少しだけ色っぽく見えた。でも、それだけだ。
大方得意の思い込みで、見た瞬間にチャラいと勝手に決めつけたのだろう。
推察する間、先生はクリップボードに私の入室時間を記入していた。
と、その手が少しだけ止まり、ちらりとこちらに目を向ける。何か間違いがあっただろうかと首を傾げたけど、先生はにこりとしただけで特に何も言わなかった。
奥からブランケットを持ち出してきて、それを肩に掛けてくれる。
愚痴ったのは内緒ね、と告げた顔は苦笑していて、念を押したくて私を見たのかとも思ったけど、何だか少し違う気がした。でもそれを訊く雰囲気では何となくなくて。
「ありがとうございます」
だから私はぺこりとお辞儀をして、お悩み相談室されているんですか? 無難にそう続けた。
「うん。スクールカウンセラー一応いるけどさ、あの部屋に入ること自体、少し敷居が高いと感じる子もいるんじゃないかと思ってね。ここなら、体調不良や怪我を訴えればいつでも来られるでしょ? たとえそれが仮病でもさ」
確かにカウンセラーは常駐しているが、私は一度も利用したことがない。悩みがあったって、行こうとすら考えたこともなかった。
「だから月島さんも、何か悩みがあったら相談に来てね」
そう言って笑った顔は、とても優しいお兄さんだった。この笑顔を見て邪な考えを抱いているなんて、よくもそんな邪推ができたものだと、ある意味沼田を感心してしまったくらい。
――ピピッ。
話が途切れた頃、電子音が静かな部屋に鳴り響いた。取り出してみれば、表示された数字は三十九度を超えていて、見た途端、視覚情報も合わさったからか一層体が重く感じられた。
「おお、高いな。迎え呼ぶ?」
体温計を覗き込んだ先生が提案する。だけど高校生にもなって、たかが熱で親を呼ぶのは何だか恥ずかしい気がして、私は咄嗟に首を振った。
「きっと少し寝れば楽になると思います。ダメそうだったら、そのとき親に連絡してみます」
先生は軽く頷き、インフルエンザかもしれないから帰ったら病院に行くこと、そう言って、ドラッグストアで売っているごく一般的な風邪薬と水の入ったコップを差し出してくれた。
ありがたくそれを飲み、真っ白なベッドに横になる。一時間もすれば、家に帰る体力くらいは回復するだろう。
枕が変わると眠れない、そんな神経質な体質だったから眠ることは半ば諦めていたけど、薬が効いてきたせいか、睡魔はすぐに訪れた。それならそれでありがたい。私は抗うことなくそのまま意識を手放した。
眩しい――そんな感覚が意識を浮上させた。
徐に目を開けると、赤い光が飛び込んできて、私はその強さに眉を顰めた。体を僅かに起こして窓の外を見やれば、ビルの合間から覗く西日が、直接顔を照らしていた。
晴れたの? 変な天気。そう思って起き上がる。体は幾分か楽になっていた。
そこで、はたと気付く。
西日?
もう一度見ると、それは熟れ過ぎて落ちた柿のよう。背筋がぞくりとする。風邪のせいだけとは思えなかった。
そのままゆっくりと起き上がり、ベッドを仕切るカーテンを開ける。
「先生?」
声をかけるが返事はない。どうやら不在のようだった。
どの部活ももう活動を終えたのか、外からも内からもいつのも喧騒は聞こえてこない。
自分の息遣いすら耳障りなほどの静寂。寝ている間に、小さな箱庭にでも閉じ込められたのだろうか? そんな錯覚すら抱かせた。
長く伸びる自分の影を見つめていると、それに引っ張られるかのように、私の足は一歩、また一歩と勝手に動き出した。扉を開ければ勿論そこは箱庭などではなく、見慣れた廊下が姿を現す。なのにちっともほっとしない。
どこへ向かうというの? 私は見えない何かに操られるようにして、保健室を後にした。
行くなと言われたじゃない。
――あんな世迷言、信じてるの?
そうじゃないけど、嫌な予感がするの。
――感じの悪いおばあさんだった。真に受けて怖がって、何だか癪じゃない?
自問自答を繰り返す。きっと今の私は、怖いもの見たさ、そんな心境。
本能は必死に停止を呼びかけるけど、好奇心がそれを上回る。
気付けばいつしか私は、音楽室の前まで来ていた。
どくどくどく、早鐘を打つ心臓が警告音に姿を変える。これ以上は、やめておけ。
でも私は、そのとき音楽室から微かに漏れ聞こえた人の声が、彼のものであることに気付いてしまったのだ。
息を殺し、扉にそっと手を掛ける。比較的新しい校舎のそれは、音も抵抗もなくあっさりとスライドした。
僅かな隙間の先、それほど遠くはなかった。
ああ、何という絶望。
暗くなり始めた窓を背に、愛しい彼、藤倉羽宗は、噂の彼女、琴平美雨と抱き合っていた。
どこをどう帰って来たのか、さっぱり分からなかった。周りを見れば、既に家の近くの商店街。
すっかり暮れた空。だけど都会の明るさ故か、星一つ見ることはできなかった。
不意に、聞き覚えのある陽気な音楽が設置されたスピーカーから流れてきて、それで気付いた。そうか、今日はクリスマスだ。そんな日に、何てもの見ちゃったんだろう。
ショーウィンドウに映し出された自分が、波打つ薄い膜の向こうにぼやけて見える。そのときまで、泣いてることにさえ気付いていなかった。
急いで拭えば、この世の全ての不幸を背負っています、そう書かれた顔が姿を現す。
泣き腫らした目は、元が細いから既に開いてるのかどうかすら怪しかった。我ながら、酷い顔。そうやって視線を外したって、意識してしまったからだろう。三百六十度どこを向いても、目に入るのは幸せそうな恋人たちばかりだった。
藤倉君も今頃は――――……
考えた途端、またしても涙が零れそうになって、慌てて上を向いた。でも見上げた夜空のスクリーンに映し出されたのは、抱き合う二人の幻影。私はそれを、懸命に振り払う。それなのにちっとも消えてくれなくて、それどころか二人は、私の方を見て幸せそうに笑ったんだ。
浮足立った空気が、街が、総動員して私を苛めにかかる。
イルミネーションという名の化粧を施した商店街は、昼間降った雪の残滓を仕上げとばかりの白粉に。乱反射する七色は、星の代わりに漆黒の夜空を彩っていた。
吸う息すら甘く感じられる気がして、早々に吐き出す。息だけじゃない、本気で吐きそう。こんな所、一秒だっていたくなかった。
勢いよく駆け出した私の足は、けれども商店街を抜けてしまえば途端に失速してしまう。すると取って代わるように、耐え切れなくなった涙が勢いよく溢れた。寒さのせいか鼻水までもが出てきて、益々酷い有様だと思ったけど、体裁を気にする余裕がもう私にはなかった。よくここまで我慢したもんだって、誰かに褒めてほしいくらいだった。
彼を想い、我武者羅に頑張った日々。それが今、その全てを持って私を苦しめた。
同じ学校に行こうだなんて思わなければ。
頑張った報いがこれなんて、酷すぎる。
「うっ……っ……うっ……」
声くらいは家まで我慢したかったけど、もう限界だった。何なら膝だって着きたかった。
「――見ちまったのかい? まったく、馬鹿だねぇ」
突如聞こえる、しわがれた声。私は勢いよく顔を上げた。