あやかし食堂の思い出料理帖〜過去に戻れる噂の老舗『白露庵』〜


 鏡華は黙ってひかりの後ろを歩いた。

 どうしてひかりはあたしと一緒にいる時、こんなに嬉しそうに笑っているのだろう。

 会話の弾まない自分と一緒にいたって、楽しいはずがないのに。

 跳ねるように前へ進むひかりの姿を見て、鏡華はギリッと歯を食いしばった。



 ――何も知らないくせに。

 あたしが卑怯な手を使って怪我をさせてまで、どうしても一位を奪いたいって思っていることなんて、あんたは絶対に分からないくせに。



 □


 寮に戻ってからは特別なこともなさそうだったので、白露と愛梨は翌日の朝まで時間を飛ばした。

 翌朝、今日もひかりは朝早くからレッスン室で練習をしていた。


 そして、普段とは違うことが一つ。

 今日はコンクールの前日なので、本番用の衣装を着て練習をする授業がある。

 鏡華はいつものように、最初にロッカールームに向かった。周囲に誰もいないのを確認し、ひかりのロッカーを開いてみる。

 彼女がいつもロッカーに鍵などかけていないのは知っていた。

 本番用の衣装も、畳まれてそのまま中に置かれている。

 不用心にもほどがある。


 鏡華はひかりのトゥシューズを手に取り、無言で見つめる。

 突然背後から、何かぞわりとする気配を感じた。

 驚いて振り返ると、白露が真後ろに立っていた。

 白露は笑っていたが、その表情の冷たさに、全身が凍り付く。


「靴に細工をするなら、今ですね」


 それを聞いた愛梨が、焦ったように問いかけてくる。


「鏡華さん、本当にいいんですか?」

「……いいに決まってるでしょ。そのためにここに来たのよ」

「でも鏡華さんは、今まで一生懸命練習していたじゃないですか。だから、その、細工なんてしないで、もっと……」


 心配そうな様子の愛梨を振り払い、鏡華は声を荒げる。


「うるさいわね! それでも勝てないのよ!」


 握っていたシューズを床に投げ捨て、鏡華は叫んだ。


「あたしがどれだけ苦しい思いをして、足がちぎれるほど練習したって、ひかりには勝てないのよ! こうするしかないじゃない!」

「鏡華さん……」


 鏡華は高ぶっていた感情を沈め、汗を拭うと、深い溜め息をついた。


「とはいえ、今はまだ何もやんないわよ。冷静に考えなさいよ。今学校にいるの、あたしとひかりだけなんだから、何かしたらあたしがやったってバレバレでしょ」


 鏡華は床に落ちていたシューズを拾い直し、ひかりのロッカーにしまって扉を閉める。


「とりあえず、タイミングを窺うわ。今日一日あるんだから、どっかでチャンスがあるはずよ。ほら、あたしもレッスン用の服に着替えるから出て行ってよ」


 鏡華は白露と愛梨をロッカールームから追い出すと、扉に背中を預けた。

 愛梨の心配そうな視線が、不愉快だった。

 今さら迷ったって、どうしようもない。

 本当にこんなことをしていいのかなんて、ここに来るまでに何度も自分に問いかけた。

 それでもいいと決意して、自分は過去まで戻ってきたのだ。


 □


 鏡華は憂鬱な足取りでレッスン室に向かった。

 気分はのらない。最悪に近い。

 本来ならコンクールの前日、鏡華はいつも朝使用しているレッスン室に行かなかった。


 この学校では、申請すれば自主レッスン室を借りられる。

 わざわざ申請して許可がおりるまでの過程が面倒なので普段は使わないのだが、コンクール前日は集中したかったし、ひかりの演技を目の当たりにしたくなかったので、ほとんど一日個室にこもり、一人きりで練習していたのだ。

 とはいえ、いつまでも逃げてばかりはいられない。


 鏡華は過去をやり直すことになってから、初めて最初の時とは違う行動を取った。

自分が惨敗するのを知っている今、緊張するからひかりの姿を見ないなどと言ってもしょうがない。


 レッスン室では、今日もひかりが踊っていた。

 鬱々とした気分で、廊下からレッスン室の中をガラス越しに見つめる。

 ひかりは鏡華が来たことに気付いていない。 

 明日がコンクール本番だから、ひかりの練習にも熱が入っている。


 ひかりが踊るのは、くるみ割り人形の金平糖の精だ。

 回転やジャンプ、バランスなど様々な要素の入った難しいバリエーションだけれど、ひかりの姿はまるで本物の妖精のようだった。さすが『純白の妖精』だ。こういう役がよく似合う。

 女性らしい優雅な身のこなしや、身体のすみずみまで生命が宿った流れるような動きは、夢のように美しかった。


 鏡華も同じ役を踊ったことがあるけれど、とてもここまで本物の妖精のように、しなやかで可憐な動きは出来なかった。

 鏡華は元々妖精やお姫様より、ダイナミックな演技の女王や魔女の方が合うと言われているせいもあるだろうけれど。

 ロッカーに入ったいた、あのピンク色の愛らしい衣装を着て踊れば、ひかりはますます華やかになるだろう。

 どうやってあんなのに勝てばいいのか。鏡華は窮地に追いつめられた気持ちでひかりを見ていた。


 ひかりがダンスの最後にターンを決めようとした、その瞬間だった。

 ダンッ、と激しい音が廊下まで響く。

 気が付いた時には、ひかりは大きくバランスを崩し、転倒していた。


 鏡華は驚いて息をのむ。

 愛梨が戸惑った表情で、鏡華のことを見つめている。


「鏡華さん、ひかりさんが!」


 違う、あたしはまだ何もしてない!


 思わずそんな言い訳がもれそうになった。

 鏡華は身動きが取れず、その場で硬直していた。

 ひかりは辛そうに右の足首を押さえている。バーにつかまり、立ち上がろうとして――右足が床に触れた瞬間、また苦痛に顔を歪め、その場にうずくまった。


 鏡華は困惑しながら白露に質問をぶつける。


「どういうこと!? ひかりはどうしてケガをしたの!?」


 白露は冷静な声でそれに答えた。


「ひかりさんがケガをしたことを、知らなかったのですか?」

「知らない! コンクールの時はそんな様子、全然なかったもの!」

「鏡華さんはコンクールの前日のこの時間帯、本来なら何をしていましたか?」

「本来なら? 前回の時は、個室に籠もって練習してたけど」

「でしたら鏡華さんは、本当ならこの時間ひかりさんを見ていないはずですから、知らないのは当然です。けれど時間軸は、基本的に以前と同一のままに進んでいます」




鏡華は白露の言葉を、何度も何度も頭の中で反芻させた。


「以前と同一って、それってつまり……」

「そうです。ひかりさんは、大会の前日の練習中、ケガをしていたということです」


鏡華は目を見開き、悲鳴のように叫んだ。


「嘘でしょ!? まさかあいつ、この足の状態でコンクールに出ていたの!?」


 そんなの信じられない。

 ただでさえ、難易度の高いバリエーションだ。万全の状態で挑んでも、成功するかどうか。

 なのに誰にもケガを気付かれずに、それを隠しきり、コンクール当日は完璧な演技を披露して、優勝した?


 鏡華は全身がぞわりと粟立つのを感じた。

 どうしてそんなことが出来るの?

 コンクール当日も、ひかりは本物の妖精のようだと賞賛を浴びていた。

 だけどひかりが本当にケガを負った状態で、それを成し遂げたのだとしたら。

 鏡華はとても、妖精だなんてかわいらしいものだとは思えなかった。


 むしろ、化け物みたいじゃないか――。

 普通の人間にそんなことが出来るとは、到底考えられない。


 鏡華が青ざめていると、いつの間にかひかりの視線が自分のことを突き刺していた。

 心臓がドクリと高鳴る。

 鏡華は弾かれたように顔を上げ、レッスン室の扉を開いてひかりの元へ駆け寄る。


「ひかり、大丈夫? 今の転び方、普通じゃなかった。骨が折れてるかもしれない」

「あはは、転んじゃった。私よく転んじゃうんだよねぇ。鏡華ちゃん、今日は個人レッスン室を使うんじゃなかったの?」

「気が変わったのよ。それより足は……?」


 そう言いかけて、鏡華は床をじっと見つめる。


 するとレッスン室の床の一部に、透明な液体がこぼれているのを発見する。


「床が濡れてる? 何よこれ……!」


 ひかりは辛そうな顔で笑いながら、いつもの口調でのほほんと説明する。


「昨日、整備点検があったんだっけ? それでこの部屋を使った人が、何か飲み物とかこぼしたのかもー」


 ひかりにしては不自然な転び方だと思ったのだ。

 レッスン室に水がこぼれていたから、ひかりはそれに足を取られて転倒した。

 鏡華は眉をつりあげて叫ぶ。


「ふざけるなっ! 今すぐ業者に電話して、責任取らせてやるっ! 絶対許せない……!

そうだ、それよりすぐに医者に連絡しないと!」


 携帯を取りに部屋から出て行こうとした鏡華を、ひかりが必死に引き留める。


「待って! 鏡華ちゃん、誰にも言わないで!」

「……は? 何言ってるの?」
 ひかりの足首は、真っ赤に腫れ上がっている。少し動かしただけでも、痛みのためかひかりは辛そうに顔を歪めた。


「こんなに腫れてて。明日までに完治するのは不可能でしょ。コンクールに出られるわけないじゃない!」


そう言ってから、思わず口元を押さえた。


 いや、鏡華は知っている。

 この状態でも、ひかりはコンクールに出たのだ。そして優勝した。

 鏡華は自分の服の裾を、ちぎれるほど握り締めた。

 彼女の正面にしゃがみ、視線を合わせてきっぱりと言う。


「ひかり、明日のコンクール、辞退しなさい」


 ひかりは激しく首を横に振り、それを否定した。



「嫌。絶対に出る」

「無理よ。やめなさい」

「ダメなの!」

「どうして!? 今年は見送りなさいよ! コンクールなんて、来年も再来年もあるでしょう!? そりゃ、チャンスではあるけど……だけどあんたなら、他のもっと大きな大会でだって、優勝出来る! 今無理したら、一生踊れなくなるわよ!? 選手生命潰す気なの!?」


 肩で息をしながら、ほとんど無意識に叫んでいた。

 唇をかみ締めないと、思っていることが全部あふれてしまいそうになる。


 ひかりなら、たとえ来年でも再来年でも、トップになれる。今年だけ、今回だけ、あたしに勝ちを譲ってよ。どうしてそこまで明日のコンクールにこだわるの!?

 あたしはずっと、叶野さんに認めてもらうために踊っていたようなものなのに。

 下手したら一生影響が残るようなケガを抱えてまで踊るのに、あんたはどんな理由があるっていうの!?


 ひかりはそれでも頑なに訴えた。


「明日のコンクールじゃないとダメなの!」

「どうして!?」


 ひかりは今までに見せたことのない、不安げな顔で言った。


「お母さんが、見に来てくれるの」

「……お母さん?」


 彼女は静かに頷く。


「私のお母さん、今、仕事で海外にいるの。私が小さい頃、お父さんと離婚して。私はずっとお父さんと暮らしていて、お母さんとは一度も会えなくって……。何度も手紙を送った。だけどお母さんから、返事が来ることはなかった」


 まったく知らなかった。

 ひかりの生い立ちに興味など持ったこともなかった。


 この学校の生徒は、ほとんどが裕福な家庭のお嬢様だ。バレエはお金がかかる習い事だから、当然といえば当然だ。だからてっきりひかりもそうだと思い込んでいたけれど、違うのだろうか。


「今回もダメだろうなって思いながら、手紙とコンクールのチケットを送ったの。元々、お母さんがバレエが好きだって聞いたことがあったから、バレエを始めたの。そうしたら、今回初めてコンクールを見に来てくれるって、返事がかえってきた」


 ひかりは鏡華の手を握り、必死に訴える。


「お願い、次のコンクールじゃダメなの。明日じゃないとダメなの! 

明日を逃したら、もう一生お母さんに、見て貰えないかもしれない。一生お母さんに、会えないかもしれない」


 真剣なひかりの様子に、鏡華は無言でレッスン室を去るので精一杯だった。 


 二人の様子を見ていた白露が、相変わらず冷たい声で笑った。


「怪我をさせるために来たはずなのに、ずいぶんひかりさんを配していたようですね」


 鏡華は思い切り白露を睨みつける。


「……あんなの、ポーズよ。心配したふりしとかないと、不自然でしょ」


 そうやって虚勢を張るのがやっとだった。


 今までひかりには、悩み事なんて一つもないと思っていた。

 いつも脳天気にへらへら笑っているし、唯一無二の才能を持っていて、周囲の人間からも認められている。


 けれどひかりが踊るのには、ひかりだけの譲れない理由がある。


 ――それを知ったからって、あたしはどうすればいいの?



 □


 時間の流れは一瞬で、どんなに嘆いても待ってはくれない。

 なんて言いながら、遡って来てしまったけれど。とにかくこれが最後のチャンスだ。


 あっという間にコンクール当日。泣いても笑っても今日で全部終わり。

 鏡華のコンディションはどうかというと――絶不調である。


色々考えすぎて、踊りに集中するどころの騒ぎではない。

 鏡華はプルプルと頭を振った。


 いやいや、せっかくまたとない機会を手にして過去に戻って来たのに、前回より悪い順位になったんじゃ話にならない。


 とりあえずひかりのことは頭から追い出して、自分の演技に集中しないと。

 そう考えると、胃がキリキリと痛んだ。

 その様子を見ていた愛梨も、心配そうに鏡華の背中をさする。


「鏡華さん、大丈夫ですか? 体調悪いんですか?」

「平気よ。いざとなったら持って来た胃薬飲むし」


 鏡華がポーチをひっくり返すと、中から白い錠剤がたくさん飛び出してきた。


「ずいぶんいっぱい薬があるんですね?」

「といってもサプリメントと胃薬と、あと夜眠れない時の睡眠薬くらいだけよ。念のために持ってるだけ。今は飲まなくても大丈夫」


 そう言いながら鏡華は薬をポーチに戻した。

 白露はひどく楽しそうに扇子を扇いでいる。


「おや、鏡華さんいつも威勢がいいのに今日は胃が悪いんですか? それはお気の毒ですねぇ」


 気の毒でも何でもない口調でそう言い放つ。

 鏡華はギラリとした目で白露を睨みつけた。


「あいつ、全部終わったらしばきたおしてもいい?」


 愛梨は快く許可を出す。


「はいっ、どうぞやっちゃってください!」

「アホなこと言ってないで、最終確認しないと」