あの頃、きみと陽だまりで




「全身が鈍く痛くて、視界もまともに見えなくて、段々と遠くなってく意識に、『あぁ、ここで死ぬんだな』って直感した。だから、必死に願ったんだ」

「なに、を……?」

「目の前に倒れる女の子だけは、助けてくださいって。最後くらいは、誰かの役に立ちたいって」



『誰かの役に立ちたい』



目の前の女の子だけは、つまり、私のことは助けてほしいって。

それが、新太の願い?



「強く強く願ったら、神様が時間をくれた。信じてもらえないかもしれないけど、俺の意識の世界の中で、1週間だけなぎさと過ごすことを許してくれた」



嘘?

神様?

新太の意識の中?



「な、に……言ってるの、なにそれ、笑えない」



まるで夢の話のようなその内容に、私は顔を引きつらせて笑って流そうとする。

けれど、いつものように笑ってはくれない新太に、作り話ではないのだと知る。



あの日本当は、新太は私を庇った時に命を落としていて、私を救おうと願ってくれた。

この1週間私が過ごしていたのは現実世界ではなく、新太の意識の世界の中。

全ては私の為に用意された時間だった。



……なんて、そんなこと言われて信じられるわけないよ。

信じたく、ない。



そう強く思う反面、だから新太は自分には未来がないかのような言い方をしていたんだ、と、納得できてしまう自分が憎い。





「やだ、やだよ……そんなの嘘でしょ?そんな……」

「……ごめんね」

「私だけが生きていても仕方ないよ……ずるいよ、私には『生きて』って、『頑張れ』って言ったくせに……なんで」



上手くまとまらない言葉とともに、涙で視界が滲む。

信じたくない。なのに、涙がこうして溢れてくるということは、信じてしまっている証拠なのだと思う。



「きっと、俺はあの瞬間に死ぬ運命だったんだと思う。けどなぎさは、『もっと生きてみなさい』って神様が言ってくれてるんだと思う。だから、生きていてくれなくちゃいやだよ」

「やだっ……私だって、新太がいなくちゃいやだ!!一緒に生きて、もっといろんなこと教えてよ……だから、いかないで」



行かないで。

一緒に、同じ世界にいて、いつもみたいに笑ってよ。

いきなりタネ明かししてさよならなんて、そんなのずるい。



止まらない涙を拭う余裕もなく大きな声を出す私に、新太の細められた目元にも涙が浮かべられた。



「……ありがとう、なぎさ。君と出会えて、生きてきたこと、無駄じゃなかったって思えたよ」



新太はそう言って、私の額にそっとキスを落とす。

薄い唇の感触を額に確かに感じた。その瞬間、しっかりとつかんでいたはずの体が、手からすり抜けるように消えた。



まるで空気に溶けるように、その体は透けて、一瞬にして光になっていく。







「やだっ……やだぁっ……」



とめどなく溢れる涙を拭うこともせずに、消えていく彼を繋ぎ留めようと手を伸ばす。

けれど掴むことはできなくて、新太の姿は完全に消えて行った。



『……大好きだよ、なぎさ』



波の音の中、そのひと言だけを残して。



「……う、そ……」



消えて、しまった。

待って、待ってよ、新太。

行かないで。そばにいて。同じ世界に、生きていてほしいよ。



「やだ……新太、新太ぁっ……!!」



冷たい海の中、膝をついて泣きじゃくる。



新太が私のためにくれた時間。最後は笑って過ごすべきだったのかもしれない。

笑って、気持ちよく『ありがとう』って、伝えるのが正解だったと思う。



でも、できないよ。

失う悲しみが大きすぎて、涙ばかりが込み上げる。



泣いて、泣いて、泣きじゃくって、新太との日々を思い出す。

楽しかった、温かかった日々。

全てが過去形になってしまうくらいなら、このままここに居たい。

新太の意識の中で、彼の近くに居たい。



そう強く願うのに、ここにとどまれないことも、なんとなく感じられる。



「新太……新太っ……新太ぁーっ……!!」



何度呼んでも、声は返ってこない。

『なぎさ』、そう笑ってくれる姿を頭に思い浮かべることは出来るのに、現れてなどくれない。



その時、押し寄せた大きな波が私を正面から飲み込んだ。

苦しさと涙に溺れるように波にもみくちゃにされるうちに、手からは力が抜け、キーホルダーを手放してしまった。



待って、キーホルダーが、新太からのお守りがっ……!

そう手を伸ばすけれど、再び押し寄せる波が、私からキーホルダーを奪い引き離す。



待って、待ってよ、ねぇ

行かないで





意識が遠く、なっていく。















大きな悲しみが、喪失感が心を覆う。

力が抜けて、体は波にのまれて、水が肺に入り込んでいく。



苦しいよ、新太

助けて



そう叫ぶように願うのに、心のどこかではちゃんとわかってる。

もう彼とは、会えないこと。



まるで体に魂がかえっていくように、全身に重みがずしりと感じられた。











閉じた瞼の向こうに、明るさを感じる。

ぽかぽかとしたあたたかさに起こされるように、私はそっと目をひらいた。



頭上に広がるのは、真っ白な天井。



ここ、どこ……。

心の中で呟きながら小さく息を吸い込むと、消毒液の独特な匂いがした。



目を動かし見える範囲で確認すると、真っ白な壁の室内で、真っ白なカーテンが揺れているのが見える。

自分ひとりしかいない室内と腕につながれた点滴に、ここが病院であることを察した。



なんで私、病院に……?

置き上がろうとするけれど、ひどくだるい体は簡単には起き上がれない。

仕方なく寝返りを打つだけでも、とそっと動かすと、肩や足からはズキッとした痛みが伝う。



「いっ……」



その痛みについ声を漏らした、その時だった。

ガシャン、となにかが割れる音が響いた。



その音がした方向へ顔を向けると、そこには病室のドアをあけたところだったらしいお母さんが、驚いた顔でこちらを見ていた。

その足元には割れた花瓶と、きれいな花が散らばってしまっている。



「お母さん……どうしたの?」



なんでそんなに驚いているの?

枯れた小さな声で問い掛けた私に、お母さんは丸くした目に涙を浮かべると、それをこぼすより早くこちらへ駆け寄った。

そして横になったままの私の枕元に膝をつき、左手をぎゅっと握った。






「お、お母さん?」

「なぎさっ……なぎさ、なぎさ、なぎさっ……!!」



何度も何度も名前を呼んで、私の手を両手でぎゅっと握り、手の感触を確かめる。

それは、私の存在を確かに確認するように。



初めて見る、瞳から大粒の涙をこぼし、顔をぐしゃぐしゃにして泣くお母さんの姿。

その姿ひとつで、お母さんがどれほど自分のことを思ってくれていたか、言葉にしなくても伝わってきた。



お母さんの声に応えるように、私はうまく力の入らない手でその手をきゅっと握り返した。





それから、駆けつけた看護師さんや医師からの検査等を終えた私は、ベッドにもたれながらも体を起こせるようにまでなった。

そんな私の横で、時間の経過とともに落ち着きを取り戻したお母さんが現在までの状況を話してくれた。



あれから、今日で丸1週間が経っていたこと。

あの日、私が家を出て行ったことに気付いたお父さんとお母さんは、ふたりで必死に私を探してくれたこと。

見つからず、諦めかけていたところで救急車の音を聞き、嫌な予感がして事故現場に行ったこと。



「怪我自体はひどくはなかったんだけど、強く体をぶつけていて……お医者さんの話では『この1週間が勝負になるでしょう』って言われてたの」



『1週間』。その時間に、ああだからかと納得できた自分がいた。

新太が言っていた、神様がくれた『1週間』。それは私の命が繋がっていられるギリギリの期限だったんだ。







「なぎさが事故に遭って、お母さん本当に後悔した。だから……なぎさが目覚めたら絶対言おうって思ってた言葉があるの」

「え……?」



言おうと思っていた言葉……?

それって、と聞こうとした私に、お母さんは突然私の顔を両手でがしっと掴んで、一瞬躊躇う。

けれど勇気を振り絞るように口をひらき、まっすぐに目を見て言った。



「……ごめんね、なぎさ」

「え……?」



『ごめん』、それは、予想もしなかったひと言。



「お母さんもお父さんも、なぎさに甘えてた。仕事なら仕方ないって納得してくれるだろうとか、しっかりしてる子だから大丈夫だろうとか、勝手に思って甘えてたの」



続いてお母さんからこぼされるのは、初めて知るその胸の内の本音。



「だけど、そんなわけないよね。しっかりしてるんじゃなくて、しっかりした子でいてくれてたんだよね」

「お母さん……」

「だからこそ、あの日からなぎさにどう接していいかがわからなかった。自分の言葉がなぎさを傷つけるかもしれないって、そう思ったら怖かった」



お母さんも、悩んでいたんだ。

ただ逃げていたんじゃなくて、考えて考えて、苦しんでいた。



「事故に遭った日も、今日こそはなぎさと向き合って話そうって思ってて……だけど、言えなくて」



私のことを思って、苦しんで、向き合おうとしてくれていた。

なにも知らないくせにって、そう思っていた自分が恥ずかしい。

なにも知らないのは、私の方だったんだ。






「こんな親でごめんね……こんなこと言う資格ないって分かってるけど、でもね、あの日なぎさが生きててくれてよかったって、本当に思った。今も、助かってよかったって、心から思ってる……」



言葉を詰まらせながら、そう言ったお母さんの瞳からは、またポロポロと涙がこぼされる。



「大好きよ、なぎさ。あなたを生んだあの日から、今日までずっと。世界で一番、大切に思ってる」



『大好き』

ああ、その言葉がうれしい。愛しい。胸の奥からあたたかさが込み上げてくる。

愛情の込められたお母さんの言葉に、瞳からは涙がこぼれた。



「っ……うん……」



寂しかった。

いい子でいなくちゃ、心配かけちゃいけない、そんな優等生ぶった気持ちで本音をずっと隠してた。



だけど、本当はずっと、その言葉がほしかった。

甘えられる存在や、言葉がほしかったんだ。



お母さんが泣きながら伝えてくれた言葉に、自然と、新太が言ってくれた言葉を思い出していた。



『生きてほしいって、思ってるよ』



本当だった。

自分を包んでくれるあたたかさがこんなにも近くにあることを、知った。








それから、初めてに近いくらい、長い時間お母さんと話をした。

いきなりそんなに沢山は話せないし、度々言葉もつまってしまう。

話せば話すほど、互いのことで知らなかったことばかりなのだと思い知る。



だけど、少しずつ、少しずつ、心の距離を埋めていこう、と。そう思い話すお互いの距離は、一歩ずつ近づく。



そのあと、私が目を覚ましたという一報を聞いて駆けつけたお父さんも、泣きながら私を抱きしめてくれた。

お母さんと同じように、「ごめん」の言葉を繰り返して。


そんなお父さんを素直に抱きしめ返せたのは、きっと、その胸の内と、教師として立派な姿、デスクに飾られた写真の存在を知っているから。




お父さん、お母さん

ごめんね。

心配かけて、ごめんなさい。



その腕が、涙が嬉しいと思えるほど、大好きだよ。

だから、これから家族としてやり直していこう。

足りなかった言葉を補って、遠かった距離を縮めて、ここから。





少し迷ったけど、ふたりに新太のことは聞けなかった。



本当に存在しているかわからない人と1週間過ごした、なんて変なことを言い出したと余計に心配かけるのも嫌だった。

それに仮に新太が言っていたことが事実だったとして、ふたりがその話をしないということは『自分の為に亡くなった人がいる』ということに私の心が耐えきれるか考えてくれてのことだったと思うから。



今は、問いかける言葉を飲み込もうと、決めた。



……それに、誰にも聞かなくても、きっと。

記憶を頼りに歩き出せば、証はきっと、そこにあるはず。