二、依り代の章
第一章魔術師
とある呪いの物語は、一時期しずまったかに思えた。それがまた動き出したのは、とある若者の誕生に起因する。それは僕のおじいさんであり、君のおじいさんでもある。彼はいつかの僕らで、僕らはいつかの彼なのだ。
最近巷で噂になっている。呪詛るんというアプリは本物だと。それを信じるに至った人間は、決まって同じ言葉を言う。
「見たんだ! この目で魔術を!」
少年は嬉々とした表情で友人に力説する。その手には、どこかの民芸品なのか、不格好な人形のストラップが握られていた。
「でもよお、なあ?」
「だよな。魔術なんて今どき非科学的だろ」
しかし、友人らが少年の言葉を信じる気配はない。少年はむっと口を結ぶも、友人たちは少年の言葉など聞いていなかったかのように話題を変えた。
「それよかさ、昨日のテレビ、見た?」
「見た見た! 宇宙人とかロマンだよなあ」
なにがロマンだ、少年は思うも口には出さなかった。少年は人形をぎゅっと握りしめて友人たちの輪から外れていった。
放課後になると、少年はとある場所に向かった。この地域では誰も寄り付かない廃墟だ。昔そこにはたくさんの外国人の貴族が住んでいたらしい。しかし、時勢柄外国の人間は日本人に差別され、いつしか人々はその屋敷の人間を迫害し、それどころか虐殺したのだと、そういういわくつきの廃墟である。
廃墟ではあるのだが、その外観は今もきれいなままで、それが余計に不気味さを増幅させる。
少年がその廃墟を訪れたのは、肝試しの一環であった。少年は幽霊や魔術といったたぐいのものを信じている。友人には公言していなかったが、ひそかにそれらを調べ上げ、証拠をつかみ、そうして少年はいつか友人に霊的存在を認めさせようともくろんでいた。
だからこそ、この廃墟に足を向けたのだ。
「また来たのか」
「エドガーさん!」
エドガーと呼ばれた青年は、見るからに『怪しい』身なりだ。黒い服に身を包み、外套をまとったその風貌は、きっと外国の人間であること以上に彼を好奇の目にさらすだろう。
しかしエドガーはなに食わぬ顔で、少年を迎え入れた。
「学校のひとたちにこの人形を紹介しようと思ったんだけど、誰も相手にしてくれなくて」
「そりゃあ災難だったな。でもそうか、そうだよなあ」
にやにやと笑いながら、エドガーは少年を見た。まるで分っていたとでも言いたげに、どこかからかい交じりの表情だった。
「だから私は言ったんだ。どうせそこらの見る目のない人間には通じないって」
「でも、俺はエドガーさんの魔術をこの目で見たし」
「君くらいだよ、幸喜。私の魔術を信じるのも、私の屋敷を訪れるのも」
エドガーは少年――幸喜の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。まるで子供のような扱いに、幸喜は憤慨するも、この魔術師に逆らうつもりはない。
幸喜が抱くこの感情は、あこがれと畏怖と、それから尊敬だ。
エドガーの魔術が本物かはさておき、幸喜にとってそれは大きな問題ではない。とはいえ、幸喜はエドガーの魔術を信じて疑っていないのも事実である。ゆえにこの『ストラップ』をクラスメイトに信じてほしかった。
「この依り代、本当に効果あって」
「だろう? 私の目に狂いはないからね」
「エドガーさんって、この廃墟の管理人さんなんですよね」
「ああ、そうだが?」
流ちょうな日本語に最初は驚いたが、今はさほど驚かない。エドガーはきっとこの国で生まれた在日外国人に違いない。聞いた話によればこの廃墟は、もう百年も前に作られたらしい。しかし、住人は惨殺されたと聞いているから、エドガーはきっとその親戚かなにかに違いないと幸喜は勝手に思っている。
「依り代があれば、呪詛るんも呪詛返しも、なにもこわいものはないからね」
「その、呪詛るんって、もしかしてエドガーさんが作ったんですか?」
「まさか。私にはそこまでの素質はなかったよ。だからこそ、その開発者に聞いてみたいね」
なにを、とは聞けなかった。ほうっと宙を見るエドガーの表情に、正直に言えばぞっとした。幸喜にとってエドガーが憧れであるように、エドガーにとってはその呪詛るんを開発した人間は、神にも等しい存在なのだろう。
「いいものをあげよう」
ふっと、エドガーが幸喜を手招きする。
「なんです?」
言われるままに幸喜がエドガーに手を差し出す。そこに乗せられたのはなにか魔法陣のようなものが書かれた札である。よもや、と幸喜は生唾を飲み込んだ。
「それは私の魔術が込められた魔法陣だ。それに手をかざして、呪文を唱えるんだ。そうすれば、魔法陣の真ん中から、悪魔が顕現されるから」
「悪魔が……で、でも、俺には扱えないんじゃ」
「まさか。大丈夫、低級の悪魔さ。時間がたてばすぐに消える」
エドガーの言わんとするところはすぐさま理解した。これを幸喜の友人の前で使って、なんとしても魔術の存在を信じさせろというところなのだろう。そして、友人たちに『ストラップ』を信じ込ませて、ぎゃふんと言わせてやれ。そういうことなのだろうと幸喜は理解した。
しかしながら、意図をくみ取っていても幸喜が浮かぬ顔なのは、幸喜が魔術の存在を熟知しているからこそである。素人が魔術に手を出せば、逆に悪魔に呪われるか、あるいはなんらかのペナルティが課せられるか。
いくら友人を見返すためとはいえ、気が進まないのは当たり前だ。霊的現象を信じているならなおのこと。
「無理にとは言わない。けれど、そうだ。その魔法陣は幸喜にあげよう。お守りに、ね?」
エドガーの言葉に逆らえなかったのは、幸喜のなかの好奇心のたまものだろう。いつの時代も人間は、おのれの好奇心には勝てないものなのだ。
翌日、幸喜は凝りもせず友人たちに魔術のなんたるかを説いていた。友人たちは「またか」といった反応であるが、幸喜は真剣である。
「だから、あの廃墟に本当に魔術師がいるんだって」
「それは何回も聞いた。でも、俺の親父があそこの管理者の知り合いがいるけど、あの廃墟に住人なんていないって言ってたし。おまえ、狐に化かされてんじゃね?」
「あははは、言えてる。オマエっていつもぼうっとしてるもんな」
笑われたことに憤慨する。今までだってずっとそうだ。友人たちが幸喜の言葉を信じてくれたことがあっただろうか。いや、そもそも、はなから馬鹿にされている。スクールカースト下位の幸喜にとって、学生生活は窮屈この上なかった。
だが、もしもここで自分が魔術の存在を証明できたら?
幸喜はカバンに大事にしまっていた魔法陣を取り出した。魔法陣の意味なんて分からない。どんな悪魔が出てくるのかも。それでも、幸喜は知っている、これは本物の魔法陣で、そして悪魔を召喚するまじないも、あのエドガーに教えてもらった。使う気がないと言っておきながら、幸喜は昨日の夜一晩かけて、そのまじないを暗記した。
「なんだなんだ? それっぽいもん出して」
「むきになりすぎなんだよ。オマエがそんなオカルトだとは思わなかった」
友人たちはあからさまに幸喜を馬鹿にし始める。ますます追い詰められた幸喜に、もう迷いなんてなかった。
魔法陣に右手をかざし、幸喜はまじないを唱えた。
「――出現せよ、我が名において!」
唱え切ると、先ほどまで幸喜を馬鹿にしていた友人たちが、ほんの少しだけ好奇心に満ちた目を幸喜に向けた。
鬼が出るか蛇が出るか。
固唾をのんで見守る三人の前に。
ぼぼ、ぼぼぼ!
魔法陣の真ん中に火花が散って、ずるる、となにかが這い出てくる。その『なにか』は次第に姿を現し、大きくなり、大きく、大きく、大きく――
『我を呼ぶは貴様らか?』
やがて幸喜たちなんかよりはるかに大きな悪魔が、幸喜たちの目の前に現れた。びりびりと空気が震え、いつの間にか三人は、教室ではないどこかにいる。
「な、なんだよこれ。幸喜、幸喜、ここどこだよ」
「ちょ、え。待って。エドガーさんの話では低級って……」
「おい、なんとかしろよ、幸喜!」
友人と言い争いになる。どうにかしろって言ったって。
幸喜の足が震える。きっとこの悪魔は、人間の魂を要求してくるような、そんな邪悪な悪魔に違いない。素人の幸喜がどうこうできる代物ではない。
あたふたするも、なにも策が浮かばない。そもそもここはどこだ。
「え、エドガーさん! 助けて!」
「だから、そのエドガーってのが悪いやつなんだろ!」
「悪い人じゃない。エドガーさんはただ……」
ただ、そうだ。幸喜は思い出す。エドガーはただ、この『ストラップ』を普及させたいだけだと言っていた。エドガーの夢だと。なにがエドガーを突き動かすのかわからないが、きっとこのストラップには、それほどの価値があるに違いない。
そして、この事態を収拾するには、このストラップを信じるほかに道はない。
『我を償還したからには、それ相応の代価を』
「こ、これを見ろ!」
幸喜がストラップを悪魔にかざした。エドガーにもらった十個全部だ。民芸品の不格好なストラップ、エドガーが言うにはそれは『依り代』なのだという。本人に訪れるはずの災いを肩代わりする、それが依り代なのだとエドガーは言っていた。
その依り代――持ちうるすべての依り代を、幸喜は悪魔に投げつける。
『くっ……これは……!』
悪魔の様子が一気に変わる。しなしなと体が縮んでいき、魔法陣のなかに吸い込まれていくのだ。しかし悪魔もただでは帰らない。もがいてもがいて、やがて逃げ遅れた幸喜の足をがっしりとつかんだ。
『道連れだ、我ひとりで帰ってなるものか』
「ひ、た、助けて!」
しかし、友人ふたりは幸喜を助けようとはしない。むしろ、早く悪魔とともに消えてくれと言わんばかりの目を向けられた。なんなんだ、友達だろ、友達じゃなかったのか。いや、自分だって同じ状況に置かれたら、同じ対応をとるに違いない。
死を覚悟した。もしかしたら死より重い罰を受けるかもしれない。興味本位で悪魔なんて召喚してはいけなかったんだ。誰もがあきらめかけたその時だった。
シャラアア。
どこからともなく音が聞こえる。鈴の音だ、神社の祠にあるような、そんな清んだ音色である。とうとう耳がおかしくなったのだろうか。幸喜が乾いた笑みを漏らす。
「やんなるよね。本当に」
幸喜の声でも、友人たちの声でも、ましてや悪魔の声でもない。その声が聞こえたのと同時、幸喜は悪魔の手から離れ、あたりは凪いだ。悪魔は魔法陣のなかへと消えて、景色が教室へと移り変わる。放課後の誰もいない教室に、三人は、いた。
「え。え……?」
幸喜の腕をしっかりと握る青年に、幸喜は目を丸くするばかりである。
「依り代をあんなに使ってさ。さすがの僕も、見過ごせないよ」
「なん、誰……」
「僕かい? 僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なのだけれど」
ひょうひょうとした青年に、幸喜がやっと意識を現実に引き戻す。ばっと坂野を振りほどいて、その場に構えて坂野を威嚇した。
「誰です? もしかしてさっきのも、アンタの仕業じゃ」
「やだな。自分の失態をひとのせいにするの?」
「……じゃあ、アンタはどうして俺たちを助けられたんだ? そのそもアンタはあの場にいなかったはず。どこから現れた?」
「質問が多いね。でも、そうだな。君たちが使った依り代。それにちょっと困らされていてね」
坂野がやれやれと肩をすくめた。依り代のことを知っているとなれば、やはり『そっちの』人間であることは確実だ。幸喜はますます坂野から距離を取る。友人たちは腰を抜かし、ただただ坂野と幸喜のやり取りを見るばかりだ。
「依り代ってね。呪いとおんなじなんだ。使えばそこには式神が使役されるんだけど」
パチン、と坂野が指を鳴らす。するとどこから現れたのか、そこには少女がいた。おかっぱ頭で赤い着物を着た少女が、幸喜の周りをらんらんと走り回っている。
「な、なん……」
「この子は呪いを運ぶ式神。『呪詛るん』って知ってるかい?」
「呪詛るん……!」
エドガーから聞いた、あのアプリのことだ。そもそも、エドガーに聞くまでもなく、今を生きる人間なら一度は聞いたことがある。七不思議のひとつとされているくらい有名なアプリだ。それが、この男となにか関係があるのだろうか。
「この子は呪いを運ぶ式神で、使役すればするほどひとの悪意を食べて力を増すんだ。僕はこの手でこの式神を抹消したい。だから、力を与えられると困るってわけ」
「……なんで、なんでアンタはこの式神を消したいんだ」
どっど、と心臓がけたたましく鳴り響く。心のなかは疑問でいっぱいだった。もしかして、エドガーはこの男を呼び寄せるために自分を利用したのではないか。悪魔を召喚すれば、坂野が幸喜を助けに来ると。だが、もし助けに来なかったときはどうするつもりだったのだろう。
ぞっとする。命がいくつあっても足りない。もう嫌だ。魔術だの式神だの。そんなもの、もう信じてもらえなくていいから、だから早く、この非現実的な会話を終わらせたい。
「僕が呪詛るんを作ったから、だからこの式神が力をつけた。僕はこの世界から呪詛るんをなくす義務がある。それと」
坂野がその場に転がる依り代を拾い上げた。もうその依り代になんの力も残っていないのか、もらった時と違って本当に『ただの人形』にしか見えない。
坂野が人形をじっと見つめる。
「この依り代を作った人間を探してる」
「……! それなら、この町にある廃墟の、エドガーさんってひとが……」
「エドガー? 彼が?」
「……?」
坂野の眉間にしわが寄る。まるで知り合いの名前を聞いた時のような反応だった。そもそも坂野は『陰陽師』だと名乗っていた。ならば、きっとどこかで彼らにつながりがあってもおかしくはない。
「山田幸喜くん」
「……は、い……」
「今後はもう、依り代も魔術も悪魔も。それにエドガーのことも。すべて忘れて生きてくれないかな?」
「そのつもりです」
命がいくつあったって足りない。幸喜はもう、霊も魔術も依り代も、あのエドガーのことも忘れたい。ただひたすらに、平穏な暮らしに戻りたい。
スクールカーストがどうとか、友人がどうとか。それは自分の力でどうとでもできる。魔術を使えたからって、霊が見えたからって、幸喜の人生が好転するとはもう思えない。大切なのは、今の幸せを壊さないこと。
思春期のほんの迷いだ。他より目立ちたいとか、誰かより優れていたいとか。そんな見栄なんかもうどうでもいい。今は一刻も早く、この得体のしれない人間から逃げ出したかった。
「話が分かる人間で助かるよ。あと、そうだな」
坂野の姿が消えていく。すうっと半透明になって、幸喜を見て笑っている。
「ないとは思うけど、この話を誰かにしたりしないでね。混乱するから。まあ、そもそも信じてもらえないと思うけど」
坂野の姿が消えていく。幸喜はその場にへなへなと座り込み、やがて友人が這って幸喜のもとに寄り添った。
「幸喜、よかった、よかった!」
幸喜はこの時初めて、友人たちとの絆のようなものを感じることができた。
廃墟に人影がふたつ。
「サカノ! また会えるなんて奇遇だね」
「エドガー。まさかとは思ったけど、この騒ぎは君の目論見かい?」
「やだなあ。私はただ、アナタになりたいだけで」
「……僕に、じゃなくて、不老不死になりたいだけだろ」
坂野の冷たい目に、エドガーの口の端が上がった。
「わかっててあの子たちを助けるなんて、アナタもだいぶお人よしだ」
エドガーは外套を翻して、廃墟のシャンデリアを見上げて両手を広げた。
「私は死にたくない。むろん、老いることも。だから、私もあの式神――呪いを運ぶ式神の力が欲しい」
「無理だね。あの式神がどれだけの力を持っていたって、早々不老不死の呪いなんてかけられない」
「だからこそ、だろ」
だからこそ、エドガーは依り代を広めたい。依り代を使えば、そのひとにかけたられた呪いはある程度跳ね返すことができる。つまり、呪詛るんのユーザーを増やすのがエドガーの目的である。依り代さえあれば、他人を呪っても自分が呪詛返しで殺されることはない。そうすれば、あの呪いを運ぶ式神は、再びあまたの人間の悪意を食らい、力を増す。そこでエドガーがあの式神に頼むのだ。自分を不老不死にしてくれ、と。いや、もしかするとエドガーはすでにあの式神と取引をしているのかもしれない。あまたの人の悪意をささげる代わりに、不老不死の呪いをかける約束を。
「馬鹿げてる。君の思惑通りにはならないし、あの式神は僕が滅する」
「できるのかな? アナタはもう何年同じことをのたまっている?」
高らかに笑うエドガーをよそに、坂野は廃墟を後にする。
「せっかく久しぶりに会ったのに、もう行くのか?」
「君に付き合ってる暇はないんでね」
依り代を作ったのはエドガーではない。エドガーは魔術こそ使えるが、依り代を作れる技術を持ちあわせていない。
そもそも作れたとしても、魔術での依り代には限度がある。それを、この依り代はどんな不幸でも跳ね返すような、そんな強い力が込められている。ここまでの霊力をエドガーが持っていたのなら、はなから呪いを運ぶ式神に頼まずとも、不老不死になれているだろう。
誰だ、一体。
「早く見つけないと」
日に日に依り代の存在が大きくなっている。その存在の認知度が上がれば、きっと坂野の目的の妨げになる。それではだめだ。すべての呪いを断ち切らなければ、坂野の悲願はかなわない。
「まったく、嫌になるね、たんさくん」
わふ! とたんさくんが同意を示すように声高にほえた。
第一章魔術師
とある呪いの物語は、一時期しずまったかに思えた。それがまた動き出したのは、とある若者の誕生に起因する。それは僕のおじいさんであり、君のおじいさんでもある。彼はいつかの僕らで、僕らはいつかの彼なのだ。
最近巷で噂になっている。呪詛るんというアプリは本物だと。それを信じるに至った人間は、決まって同じ言葉を言う。
「見たんだ! この目で魔術を!」
少年は嬉々とした表情で友人に力説する。その手には、どこかの民芸品なのか、不格好な人形のストラップが握られていた。
「でもよお、なあ?」
「だよな。魔術なんて今どき非科学的だろ」
しかし、友人らが少年の言葉を信じる気配はない。少年はむっと口を結ぶも、友人たちは少年の言葉など聞いていなかったかのように話題を変えた。
「それよかさ、昨日のテレビ、見た?」
「見た見た! 宇宙人とかロマンだよなあ」
なにがロマンだ、少年は思うも口には出さなかった。少年は人形をぎゅっと握りしめて友人たちの輪から外れていった。
放課後になると、少年はとある場所に向かった。この地域では誰も寄り付かない廃墟だ。昔そこにはたくさんの外国人の貴族が住んでいたらしい。しかし、時勢柄外国の人間は日本人に差別され、いつしか人々はその屋敷の人間を迫害し、それどころか虐殺したのだと、そういういわくつきの廃墟である。
廃墟ではあるのだが、その外観は今もきれいなままで、それが余計に不気味さを増幅させる。
少年がその廃墟を訪れたのは、肝試しの一環であった。少年は幽霊や魔術といったたぐいのものを信じている。友人には公言していなかったが、ひそかにそれらを調べ上げ、証拠をつかみ、そうして少年はいつか友人に霊的存在を認めさせようともくろんでいた。
だからこそ、この廃墟に足を向けたのだ。
「また来たのか」
「エドガーさん!」
エドガーと呼ばれた青年は、見るからに『怪しい』身なりだ。黒い服に身を包み、外套をまとったその風貌は、きっと外国の人間であること以上に彼を好奇の目にさらすだろう。
しかしエドガーはなに食わぬ顔で、少年を迎え入れた。
「学校のひとたちにこの人形を紹介しようと思ったんだけど、誰も相手にしてくれなくて」
「そりゃあ災難だったな。でもそうか、そうだよなあ」
にやにやと笑いながら、エドガーは少年を見た。まるで分っていたとでも言いたげに、どこかからかい交じりの表情だった。
「だから私は言ったんだ。どうせそこらの見る目のない人間には通じないって」
「でも、俺はエドガーさんの魔術をこの目で見たし」
「君くらいだよ、幸喜。私の魔術を信じるのも、私の屋敷を訪れるのも」
エドガーは少年――幸喜の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。まるで子供のような扱いに、幸喜は憤慨するも、この魔術師に逆らうつもりはない。
幸喜が抱くこの感情は、あこがれと畏怖と、それから尊敬だ。
エドガーの魔術が本物かはさておき、幸喜にとってそれは大きな問題ではない。とはいえ、幸喜はエドガーの魔術を信じて疑っていないのも事実である。ゆえにこの『ストラップ』をクラスメイトに信じてほしかった。
「この依り代、本当に効果あって」
「だろう? 私の目に狂いはないからね」
「エドガーさんって、この廃墟の管理人さんなんですよね」
「ああ、そうだが?」
流ちょうな日本語に最初は驚いたが、今はさほど驚かない。エドガーはきっとこの国で生まれた在日外国人に違いない。聞いた話によればこの廃墟は、もう百年も前に作られたらしい。しかし、住人は惨殺されたと聞いているから、エドガーはきっとその親戚かなにかに違いないと幸喜は勝手に思っている。
「依り代があれば、呪詛るんも呪詛返しも、なにもこわいものはないからね」
「その、呪詛るんって、もしかしてエドガーさんが作ったんですか?」
「まさか。私にはそこまでの素質はなかったよ。だからこそ、その開発者に聞いてみたいね」
なにを、とは聞けなかった。ほうっと宙を見るエドガーの表情に、正直に言えばぞっとした。幸喜にとってエドガーが憧れであるように、エドガーにとってはその呪詛るんを開発した人間は、神にも等しい存在なのだろう。
「いいものをあげよう」
ふっと、エドガーが幸喜を手招きする。
「なんです?」
言われるままに幸喜がエドガーに手を差し出す。そこに乗せられたのはなにか魔法陣のようなものが書かれた札である。よもや、と幸喜は生唾を飲み込んだ。
「それは私の魔術が込められた魔法陣だ。それに手をかざして、呪文を唱えるんだ。そうすれば、魔法陣の真ん中から、悪魔が顕現されるから」
「悪魔が……で、でも、俺には扱えないんじゃ」
「まさか。大丈夫、低級の悪魔さ。時間がたてばすぐに消える」
エドガーの言わんとするところはすぐさま理解した。これを幸喜の友人の前で使って、なんとしても魔術の存在を信じさせろというところなのだろう。そして、友人たちに『ストラップ』を信じ込ませて、ぎゃふんと言わせてやれ。そういうことなのだろうと幸喜は理解した。
しかしながら、意図をくみ取っていても幸喜が浮かぬ顔なのは、幸喜が魔術の存在を熟知しているからこそである。素人が魔術に手を出せば、逆に悪魔に呪われるか、あるいはなんらかのペナルティが課せられるか。
いくら友人を見返すためとはいえ、気が進まないのは当たり前だ。霊的現象を信じているならなおのこと。
「無理にとは言わない。けれど、そうだ。その魔法陣は幸喜にあげよう。お守りに、ね?」
エドガーの言葉に逆らえなかったのは、幸喜のなかの好奇心のたまものだろう。いつの時代も人間は、おのれの好奇心には勝てないものなのだ。
翌日、幸喜は凝りもせず友人たちに魔術のなんたるかを説いていた。友人たちは「またか」といった反応であるが、幸喜は真剣である。
「だから、あの廃墟に本当に魔術師がいるんだって」
「それは何回も聞いた。でも、俺の親父があそこの管理者の知り合いがいるけど、あの廃墟に住人なんていないって言ってたし。おまえ、狐に化かされてんじゃね?」
「あははは、言えてる。オマエっていつもぼうっとしてるもんな」
笑われたことに憤慨する。今までだってずっとそうだ。友人たちが幸喜の言葉を信じてくれたことがあっただろうか。いや、そもそも、はなから馬鹿にされている。スクールカースト下位の幸喜にとって、学生生活は窮屈この上なかった。
だが、もしもここで自分が魔術の存在を証明できたら?
幸喜はカバンに大事にしまっていた魔法陣を取り出した。魔法陣の意味なんて分からない。どんな悪魔が出てくるのかも。それでも、幸喜は知っている、これは本物の魔法陣で、そして悪魔を召喚するまじないも、あのエドガーに教えてもらった。使う気がないと言っておきながら、幸喜は昨日の夜一晩かけて、そのまじないを暗記した。
「なんだなんだ? それっぽいもん出して」
「むきになりすぎなんだよ。オマエがそんなオカルトだとは思わなかった」
友人たちはあからさまに幸喜を馬鹿にし始める。ますます追い詰められた幸喜に、もう迷いなんてなかった。
魔法陣に右手をかざし、幸喜はまじないを唱えた。
「――出現せよ、我が名において!」
唱え切ると、先ほどまで幸喜を馬鹿にしていた友人たちが、ほんの少しだけ好奇心に満ちた目を幸喜に向けた。
鬼が出るか蛇が出るか。
固唾をのんで見守る三人の前に。
ぼぼ、ぼぼぼ!
魔法陣の真ん中に火花が散って、ずるる、となにかが這い出てくる。その『なにか』は次第に姿を現し、大きくなり、大きく、大きく、大きく――
『我を呼ぶは貴様らか?』
やがて幸喜たちなんかよりはるかに大きな悪魔が、幸喜たちの目の前に現れた。びりびりと空気が震え、いつの間にか三人は、教室ではないどこかにいる。
「な、なんだよこれ。幸喜、幸喜、ここどこだよ」
「ちょ、え。待って。エドガーさんの話では低級って……」
「おい、なんとかしろよ、幸喜!」
友人と言い争いになる。どうにかしろって言ったって。
幸喜の足が震える。きっとこの悪魔は、人間の魂を要求してくるような、そんな邪悪な悪魔に違いない。素人の幸喜がどうこうできる代物ではない。
あたふたするも、なにも策が浮かばない。そもそもここはどこだ。
「え、エドガーさん! 助けて!」
「だから、そのエドガーってのが悪いやつなんだろ!」
「悪い人じゃない。エドガーさんはただ……」
ただ、そうだ。幸喜は思い出す。エドガーはただ、この『ストラップ』を普及させたいだけだと言っていた。エドガーの夢だと。なにがエドガーを突き動かすのかわからないが、きっとこのストラップには、それほどの価値があるに違いない。
そして、この事態を収拾するには、このストラップを信じるほかに道はない。
『我を償還したからには、それ相応の代価を』
「こ、これを見ろ!」
幸喜がストラップを悪魔にかざした。エドガーにもらった十個全部だ。民芸品の不格好なストラップ、エドガーが言うにはそれは『依り代』なのだという。本人に訪れるはずの災いを肩代わりする、それが依り代なのだとエドガーは言っていた。
その依り代――持ちうるすべての依り代を、幸喜は悪魔に投げつける。
『くっ……これは……!』
悪魔の様子が一気に変わる。しなしなと体が縮んでいき、魔法陣のなかに吸い込まれていくのだ。しかし悪魔もただでは帰らない。もがいてもがいて、やがて逃げ遅れた幸喜の足をがっしりとつかんだ。
『道連れだ、我ひとりで帰ってなるものか』
「ひ、た、助けて!」
しかし、友人ふたりは幸喜を助けようとはしない。むしろ、早く悪魔とともに消えてくれと言わんばかりの目を向けられた。なんなんだ、友達だろ、友達じゃなかったのか。いや、自分だって同じ状況に置かれたら、同じ対応をとるに違いない。
死を覚悟した。もしかしたら死より重い罰を受けるかもしれない。興味本位で悪魔なんて召喚してはいけなかったんだ。誰もがあきらめかけたその時だった。
シャラアア。
どこからともなく音が聞こえる。鈴の音だ、神社の祠にあるような、そんな清んだ音色である。とうとう耳がおかしくなったのだろうか。幸喜が乾いた笑みを漏らす。
「やんなるよね。本当に」
幸喜の声でも、友人たちの声でも、ましてや悪魔の声でもない。その声が聞こえたのと同時、幸喜は悪魔の手から離れ、あたりは凪いだ。悪魔は魔法陣のなかへと消えて、景色が教室へと移り変わる。放課後の誰もいない教室に、三人は、いた。
「え。え……?」
幸喜の腕をしっかりと握る青年に、幸喜は目を丸くするばかりである。
「依り代をあんなに使ってさ。さすがの僕も、見過ごせないよ」
「なん、誰……」
「僕かい? 僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なのだけれど」
ひょうひょうとした青年に、幸喜がやっと意識を現実に引き戻す。ばっと坂野を振りほどいて、その場に構えて坂野を威嚇した。
「誰です? もしかしてさっきのも、アンタの仕業じゃ」
「やだな。自分の失態をひとのせいにするの?」
「……じゃあ、アンタはどうして俺たちを助けられたんだ? そのそもアンタはあの場にいなかったはず。どこから現れた?」
「質問が多いね。でも、そうだな。君たちが使った依り代。それにちょっと困らされていてね」
坂野がやれやれと肩をすくめた。依り代のことを知っているとなれば、やはり『そっちの』人間であることは確実だ。幸喜はますます坂野から距離を取る。友人たちは腰を抜かし、ただただ坂野と幸喜のやり取りを見るばかりだ。
「依り代ってね。呪いとおんなじなんだ。使えばそこには式神が使役されるんだけど」
パチン、と坂野が指を鳴らす。するとどこから現れたのか、そこには少女がいた。おかっぱ頭で赤い着物を着た少女が、幸喜の周りをらんらんと走り回っている。
「な、なん……」
「この子は呪いを運ぶ式神。『呪詛るん』って知ってるかい?」
「呪詛るん……!」
エドガーから聞いた、あのアプリのことだ。そもそも、エドガーに聞くまでもなく、今を生きる人間なら一度は聞いたことがある。七不思議のひとつとされているくらい有名なアプリだ。それが、この男となにか関係があるのだろうか。
「この子は呪いを運ぶ式神で、使役すればするほどひとの悪意を食べて力を増すんだ。僕はこの手でこの式神を抹消したい。だから、力を与えられると困るってわけ」
「……なんで、なんでアンタはこの式神を消したいんだ」
どっど、と心臓がけたたましく鳴り響く。心のなかは疑問でいっぱいだった。もしかして、エドガーはこの男を呼び寄せるために自分を利用したのではないか。悪魔を召喚すれば、坂野が幸喜を助けに来ると。だが、もし助けに来なかったときはどうするつもりだったのだろう。
ぞっとする。命がいくつあっても足りない。もう嫌だ。魔術だの式神だの。そんなもの、もう信じてもらえなくていいから、だから早く、この非現実的な会話を終わらせたい。
「僕が呪詛るんを作ったから、だからこの式神が力をつけた。僕はこの世界から呪詛るんをなくす義務がある。それと」
坂野がその場に転がる依り代を拾い上げた。もうその依り代になんの力も残っていないのか、もらった時と違って本当に『ただの人形』にしか見えない。
坂野が人形をじっと見つめる。
「この依り代を作った人間を探してる」
「……! それなら、この町にある廃墟の、エドガーさんってひとが……」
「エドガー? 彼が?」
「……?」
坂野の眉間にしわが寄る。まるで知り合いの名前を聞いた時のような反応だった。そもそも坂野は『陰陽師』だと名乗っていた。ならば、きっとどこかで彼らにつながりがあってもおかしくはない。
「山田幸喜くん」
「……は、い……」
「今後はもう、依り代も魔術も悪魔も。それにエドガーのことも。すべて忘れて生きてくれないかな?」
「そのつもりです」
命がいくつあったって足りない。幸喜はもう、霊も魔術も依り代も、あのエドガーのことも忘れたい。ただひたすらに、平穏な暮らしに戻りたい。
スクールカーストがどうとか、友人がどうとか。それは自分の力でどうとでもできる。魔術を使えたからって、霊が見えたからって、幸喜の人生が好転するとはもう思えない。大切なのは、今の幸せを壊さないこと。
思春期のほんの迷いだ。他より目立ちたいとか、誰かより優れていたいとか。そんな見栄なんかもうどうでもいい。今は一刻も早く、この得体のしれない人間から逃げ出したかった。
「話が分かる人間で助かるよ。あと、そうだな」
坂野の姿が消えていく。すうっと半透明になって、幸喜を見て笑っている。
「ないとは思うけど、この話を誰かにしたりしないでね。混乱するから。まあ、そもそも信じてもらえないと思うけど」
坂野の姿が消えていく。幸喜はその場にへなへなと座り込み、やがて友人が這って幸喜のもとに寄り添った。
「幸喜、よかった、よかった!」
幸喜はこの時初めて、友人たちとの絆のようなものを感じることができた。
廃墟に人影がふたつ。
「サカノ! また会えるなんて奇遇だね」
「エドガー。まさかとは思ったけど、この騒ぎは君の目論見かい?」
「やだなあ。私はただ、アナタになりたいだけで」
「……僕に、じゃなくて、不老不死になりたいだけだろ」
坂野の冷たい目に、エドガーの口の端が上がった。
「わかっててあの子たちを助けるなんて、アナタもだいぶお人よしだ」
エドガーは外套を翻して、廃墟のシャンデリアを見上げて両手を広げた。
「私は死にたくない。むろん、老いることも。だから、私もあの式神――呪いを運ぶ式神の力が欲しい」
「無理だね。あの式神がどれだけの力を持っていたって、早々不老不死の呪いなんてかけられない」
「だからこそ、だろ」
だからこそ、エドガーは依り代を広めたい。依り代を使えば、そのひとにかけたられた呪いはある程度跳ね返すことができる。つまり、呪詛るんのユーザーを増やすのがエドガーの目的である。依り代さえあれば、他人を呪っても自分が呪詛返しで殺されることはない。そうすれば、あの呪いを運ぶ式神は、再びあまたの人間の悪意を食らい、力を増す。そこでエドガーがあの式神に頼むのだ。自分を不老不死にしてくれ、と。いや、もしかするとエドガーはすでにあの式神と取引をしているのかもしれない。あまたの人の悪意をささげる代わりに、不老不死の呪いをかける約束を。
「馬鹿げてる。君の思惑通りにはならないし、あの式神は僕が滅する」
「できるのかな? アナタはもう何年同じことをのたまっている?」
高らかに笑うエドガーをよそに、坂野は廃墟を後にする。
「せっかく久しぶりに会ったのに、もう行くのか?」
「君に付き合ってる暇はないんでね」
依り代を作ったのはエドガーではない。エドガーは魔術こそ使えるが、依り代を作れる技術を持ちあわせていない。
そもそも作れたとしても、魔術での依り代には限度がある。それを、この依り代はどんな不幸でも跳ね返すような、そんな強い力が込められている。ここまでの霊力をエドガーが持っていたのなら、はなから呪いを運ぶ式神に頼まずとも、不老不死になれているだろう。
誰だ、一体。
「早く見つけないと」
日に日に依り代の存在が大きくなっている。その存在の認知度が上がれば、きっと坂野の目的の妨げになる。それではだめだ。すべての呪いを断ち切らなければ、坂野の悲願はかなわない。
「まったく、嫌になるね、たんさくん」
わふ! とたんさくんが同意を示すように声高にほえた。