幕間 呪いをかけた陰陽師
今までの話をまとめると、つまり彼の生い立ちにたどり着く。彼は何者で、誰だったのか。とある記録が神社に残っている。僕が権威ある研究者だから、読むことだけは許された。他言はしないようにと念を押されたが。だから、公にはできないけれど、せめて日記にしたためることは許されたい。一度読んだだけだから、記憶違いもあるだろうけれど。僕が読んだ話は、以下の通りだ。
まれな才能を持った少年であった。坂野弘彦と名付けられた彼は、陰陽師の家系の跡取りとして、大切に、しかし英才教育を受けながら、すくすくと成長していった。
陰陽師の家系といっても、誰もが彼のような才能を持って生まれる訳ではない。遡れば平安の世には、安倍晴明を筆頭とする陰陽師が活躍したのだが、今はもう昔の話だ。彼の才は希少なものであったし、彼もそれは理解していた。
彼が十七の時のことである。
坂野はこの世界にずっと疑問を抱いていた。学校では、『やーい、陰陽師の跡取り!』と馬鹿にされ、クラスメイトがけがをすれば、『坂野の呪いだ!』と教師に隠れていじめられた。
家の外で陰陽術を使うことは禁止されていた。だから坂野は、その言いつけをずっとずっと、律義に守って、誰も傷つけないように生きてきた。
けれど、思春期に入って、それは崩壊した。
陰陽術を使える自分こそが正義で、なにも力を持たない人間は、ただただ自分にひれ伏せばいい。
たぐいまれなる霊力を持っていた坂野は、必死にアプリの勉強をした。
そうして、自身で開発した最初のアプリ、『呪詛るん』に、『呪いを運ぶ式神』を使役できる契約をした。契約条件は、『ひとの悪意を食らう』ことである。
しかして、呪詛るんは開発からものの数日でユーザーが一億を超えた。毎日、少しずつ、あるいは多大な悪意を、『呪いを運ぶ式神』は食らった。
式神の制御が利かなくなるまで、そう時間はかからなかった。
式神は本来、自分より力が弱いものと契約する。万が一式神が暴走した場合、自身の手で滅することができるようにだ。
しかし、その式神はひとの悪意を食いすぎた。もはや、坂野の手に負える代物ではなくなっていた。それどころか、式神を滅しようとした坂野は、逆に式神によって呪いをかけられた。こんなことは前代未聞である。
そしてこれは、式神がどれだけ多くの人間の悪意を食らってしまったかを物語るには十分な出来事であった。
不老不死の呪いをかけられた坂野は、当然家からも勘当されて、行くあてもなくなった。そもそも、不老不死であるため、死に場所さえ失った。
式神の力を弱める必要があった。
坂野が次に開発したのは、『呪詛返すんです』である。
しかし、このアプリは思いのほか世間に浸透しなかった。呪詛返すんですが浸透すれば、呪詛るんのユーザーが減ると踏んでいたのだが、その期待は見事に外れた。
それどころか、呪詛るんがますます力をつけていき、もはや坂野に残された方法は一つしかなかった。
呪詛るんの式神より大きな力を持つ式神と契約して、この世界から霊的干渉をなくす。
坂野は調べに調べて、ようやく『冥界の王』との交渉に持ち込んだ。しかし冥界の王は、無理難題を坂野に押し付けた。
霊的干渉をなくすことは可能。だが、引き換えに坂野の命を所望したのだ。
「馬鹿げてる! 僕が不老不死の呪いをかけられたと知っていて、そんなことを言うのですか」
「そんなことはない。私は単純にオマエの命が欲しい。しかしそうか、オマエは不老不死なのか」
にたりと笑う冥界の王の魂胆なんて見え見えだ。人間と契約すれば、人間の悪意が食える。
それが、呪詛るんほどでないにしても、式神にとって人間の悪意はなによりのごちそうだ。坂野を飼い殺しにして、人間の悪意を食うだけ食う。坂野は不老不死であるから、それこそ半永久的にそれを食らうことができるという魂胆だ。
「そうだ、オマエ自身に呪いを掛けたらどうだ? あのアプリに、何億人、あるいは、呪詛力の高まった人間が書き込めば、オマエもきっと、死ねるのではないか?」
一理ある提案である。しかし、保証はどこにもない。
だけれど、坂野には考える余地すらない。この契約をなんとしても成立させたかった。冥界の王ほどの式神が、今後坂野の前に現れることなど、この機会を逃したら二度とないかもしれない。
「わかった、それで契約を成立させよう」
「うむ。それから、私にもくれるのだろう? 人間の悪意を」
「……僕に向けられる悪意でいいのなら、微々たるものだけれど、その悪意を代償にあげよう」
「それだけか? オマエが私に差し出すものは。それっぽっちでこの世界から霊的干渉という理をなくせと?」
後付けの条件を提示され、坂野はやや不服そうに冥界の王をにらみあげた。しかし、冥界の王はなにくわぬ顔である。
坂野はふうっと息を吐き出す。
「僕のこの霊力の五割をアナタにあげよう」
「五割……それだけか?」
坂野が逆らえないのをいいことに、冥界の王がつけあがる。しかし、坂野はなんとしても契約をとりつけたい。
「六割」
「八割だ」
「七割。それ以上は譲れないね」
一瞬の沈黙ののち、冥界の王が豪快に笑った。
「よかろう。小僧、その度胸に免じて、七割で妥協してやろう」
そうして契約は成立し、坂野は三割の霊力しか使えなくなった。それでも坂野には、通常以上の霊力が残っている。『なけなしの』三割の霊力は、普通の陰陽師の何倍にも及ぶ。しかし、陰陽師の力とは、式神の使役によるものがほとんどである。例外として、坂野は呪詛を行った人間に、呪詛の対象者の人生を追体験させること、それから、ほんの僅かばかりの呪詛を跳ね返す呪符を作ることができる。坂野はそれだけ稀有な存在だった。
ただし、坂野が急に消えて現れるのは、陰陽術でも霊力でもない。坂野自身が呪われてしまったため、この世界のものではなくなってしまったからだ。だから坂野は、自分の好きな時に現れ、消える。その存在は式神に近しいものなのかもしれない。応用で、坂野に手を取られた人間もまた、ひとから見えなくすることができる。
陰陽師にとって式神との契約は、その能力と言っても過言ではない。それを承知で、坂野は冥界の王との契約を結んだ。その時点で坂野が契約できる式神は残りあと一体になっていた。ゆえに、坂野が最後に契約した式神は、『呪詛探索アプリ』の、『たんさくん』である。
たんさくんは、長い間坂野の相棒として行動を共にしてきた、冥界で言う『犬』である。温厚な性格で坂野になついていたため、彼はひとの悪意という見返りを欲しなかった。
呪詛るんは広まる一方で、『呪詛返すんです』も、『呪詛探索アプリ』も、まるで浸透しなかった。
だが、そもそも坂野が『たんさくん』と契約したのは、『呪うひと』と『呪われるひと』をたどり、自らの手でその呪いを絶とうと決めていたからだ。
その過程で、少なからず坂野はひとの悪意を受け取る。それは、『呪詛るんを開発した』ことに対する怒りや侮蔑である。
それでいい、と坂野は思う。冥界の王への餌にもなるし、自身への戒めにもなる。自分を許さないでくれ、と坂野はいつも心の中で願っている。
呪詛に負けた坂野のことを、自分の弱い心に負けた坂野のことを。誰も許さないでくれと坂野は願う。
そうして今日も、坂野は呪いをたどって、見知らぬ誰かを、呪われた誰かを助けんと、不死のときを過ごすのだ。
今までの話をまとめると、つまり彼の生い立ちにたどり着く。彼は何者で、誰だったのか。とある記録が神社に残っている。僕が権威ある研究者だから、読むことだけは許された。他言はしないようにと念を押されたが。だから、公にはできないけれど、せめて日記にしたためることは許されたい。一度読んだだけだから、記憶違いもあるだろうけれど。僕が読んだ話は、以下の通りだ。
まれな才能を持った少年であった。坂野弘彦と名付けられた彼は、陰陽師の家系の跡取りとして、大切に、しかし英才教育を受けながら、すくすくと成長していった。
陰陽師の家系といっても、誰もが彼のような才能を持って生まれる訳ではない。遡れば平安の世には、安倍晴明を筆頭とする陰陽師が活躍したのだが、今はもう昔の話だ。彼の才は希少なものであったし、彼もそれは理解していた。
彼が十七の時のことである。
坂野はこの世界にずっと疑問を抱いていた。学校では、『やーい、陰陽師の跡取り!』と馬鹿にされ、クラスメイトがけがをすれば、『坂野の呪いだ!』と教師に隠れていじめられた。
家の外で陰陽術を使うことは禁止されていた。だから坂野は、その言いつけをずっとずっと、律義に守って、誰も傷つけないように生きてきた。
けれど、思春期に入って、それは崩壊した。
陰陽術を使える自分こそが正義で、なにも力を持たない人間は、ただただ自分にひれ伏せばいい。
たぐいまれなる霊力を持っていた坂野は、必死にアプリの勉強をした。
そうして、自身で開発した最初のアプリ、『呪詛るん』に、『呪いを運ぶ式神』を使役できる契約をした。契約条件は、『ひとの悪意を食らう』ことである。
しかして、呪詛るんは開発からものの数日でユーザーが一億を超えた。毎日、少しずつ、あるいは多大な悪意を、『呪いを運ぶ式神』は食らった。
式神の制御が利かなくなるまで、そう時間はかからなかった。
式神は本来、自分より力が弱いものと契約する。万が一式神が暴走した場合、自身の手で滅することができるようにだ。
しかし、その式神はひとの悪意を食いすぎた。もはや、坂野の手に負える代物ではなくなっていた。それどころか、式神を滅しようとした坂野は、逆に式神によって呪いをかけられた。こんなことは前代未聞である。
そしてこれは、式神がどれだけ多くの人間の悪意を食らってしまったかを物語るには十分な出来事であった。
不老不死の呪いをかけられた坂野は、当然家からも勘当されて、行くあてもなくなった。そもそも、不老不死であるため、死に場所さえ失った。
式神の力を弱める必要があった。
坂野が次に開発したのは、『呪詛返すんです』である。
しかし、このアプリは思いのほか世間に浸透しなかった。呪詛返すんですが浸透すれば、呪詛るんのユーザーが減ると踏んでいたのだが、その期待は見事に外れた。
それどころか、呪詛るんがますます力をつけていき、もはや坂野に残された方法は一つしかなかった。
呪詛るんの式神より大きな力を持つ式神と契約して、この世界から霊的干渉をなくす。
坂野は調べに調べて、ようやく『冥界の王』との交渉に持ち込んだ。しかし冥界の王は、無理難題を坂野に押し付けた。
霊的干渉をなくすことは可能。だが、引き換えに坂野の命を所望したのだ。
「馬鹿げてる! 僕が不老不死の呪いをかけられたと知っていて、そんなことを言うのですか」
「そんなことはない。私は単純にオマエの命が欲しい。しかしそうか、オマエは不老不死なのか」
にたりと笑う冥界の王の魂胆なんて見え見えだ。人間と契約すれば、人間の悪意が食える。
それが、呪詛るんほどでないにしても、式神にとって人間の悪意はなによりのごちそうだ。坂野を飼い殺しにして、人間の悪意を食うだけ食う。坂野は不老不死であるから、それこそ半永久的にそれを食らうことができるという魂胆だ。
「そうだ、オマエ自身に呪いを掛けたらどうだ? あのアプリに、何億人、あるいは、呪詛力の高まった人間が書き込めば、オマエもきっと、死ねるのではないか?」
一理ある提案である。しかし、保証はどこにもない。
だけれど、坂野には考える余地すらない。この契約をなんとしても成立させたかった。冥界の王ほどの式神が、今後坂野の前に現れることなど、この機会を逃したら二度とないかもしれない。
「わかった、それで契約を成立させよう」
「うむ。それから、私にもくれるのだろう? 人間の悪意を」
「……僕に向けられる悪意でいいのなら、微々たるものだけれど、その悪意を代償にあげよう」
「それだけか? オマエが私に差し出すものは。それっぽっちでこの世界から霊的干渉という理をなくせと?」
後付けの条件を提示され、坂野はやや不服そうに冥界の王をにらみあげた。しかし、冥界の王はなにくわぬ顔である。
坂野はふうっと息を吐き出す。
「僕のこの霊力の五割をアナタにあげよう」
「五割……それだけか?」
坂野が逆らえないのをいいことに、冥界の王がつけあがる。しかし、坂野はなんとしても契約をとりつけたい。
「六割」
「八割だ」
「七割。それ以上は譲れないね」
一瞬の沈黙ののち、冥界の王が豪快に笑った。
「よかろう。小僧、その度胸に免じて、七割で妥協してやろう」
そうして契約は成立し、坂野は三割の霊力しか使えなくなった。それでも坂野には、通常以上の霊力が残っている。『なけなしの』三割の霊力は、普通の陰陽師の何倍にも及ぶ。しかし、陰陽師の力とは、式神の使役によるものがほとんどである。例外として、坂野は呪詛を行った人間に、呪詛の対象者の人生を追体験させること、それから、ほんの僅かばかりの呪詛を跳ね返す呪符を作ることができる。坂野はそれだけ稀有な存在だった。
ただし、坂野が急に消えて現れるのは、陰陽術でも霊力でもない。坂野自身が呪われてしまったため、この世界のものではなくなってしまったからだ。だから坂野は、自分の好きな時に現れ、消える。その存在は式神に近しいものなのかもしれない。応用で、坂野に手を取られた人間もまた、ひとから見えなくすることができる。
陰陽師にとって式神との契約は、その能力と言っても過言ではない。それを承知で、坂野は冥界の王との契約を結んだ。その時点で坂野が契約できる式神は残りあと一体になっていた。ゆえに、坂野が最後に契約した式神は、『呪詛探索アプリ』の、『たんさくん』である。
たんさくんは、長い間坂野の相棒として行動を共にしてきた、冥界で言う『犬』である。温厚な性格で坂野になついていたため、彼はひとの悪意という見返りを欲しなかった。
呪詛るんは広まる一方で、『呪詛返すんです』も、『呪詛探索アプリ』も、まるで浸透しなかった。
だが、そもそも坂野が『たんさくん』と契約したのは、『呪うひと』と『呪われるひと』をたどり、自らの手でその呪いを絶とうと決めていたからだ。
その過程で、少なからず坂野はひとの悪意を受け取る。それは、『呪詛るんを開発した』ことに対する怒りや侮蔑である。
それでいい、と坂野は思う。冥界の王への餌にもなるし、自身への戒めにもなる。自分を許さないでくれ、と坂野はいつも心の中で願っている。
呪詛に負けた坂野のことを、自分の弱い心に負けた坂野のことを。誰も許さないでくれと坂野は願う。
そうして今日も、坂野は呪いをたどって、見知らぬ誰かを、呪われた誰かを助けんと、不死のときを過ごすのだ。