第三章 呪われた家族
お母さんから聞いた話だ。私の家には代々決め事があって、私もいつか、それを受け継ぐ。とあるアプリにとある名前を書き込むだけの、簡単な仕事だ。
メリメリメリ、ぢりぢりぢり。
嫌な音とともに痛みが走る。最初は顔だけだった。
丑三つ時。彼女はいつも金縛りにあう。毎日毎日、同じ時間に。それがもう、二十日。
そうして、金縛りにあうと必ず、その枕元に少女が現れるのだ。
『ああ、本当にアナタのお顔って、素敵ね』
少女はうっそりとした表情で、だけれど、その表情からは想像もできない行動を起こす。
鋭くとがった爪が彼女の顎にめり込む。そうしてメキっと皮を毟りとり、そのまま顎から額にかけて、ゆっくりといたぶるように彼女の顔の皮が剥がされていくのだ。
「いぁあぉあぁああああ!」
『ねえ、痛い? 痛い? ねえ、素敵。素敵だよ』
少女はキャッキャと楽しみながら、彼女の顔の皮を剥がしていく。
ベリベリ、メキメキ。
相当の力だ、少女のものとは思えない力で、彼女の顔の皮が剥ぎ取られていく。
「いゃあああぁぁああ!」
『あはは、ねえ、ねえ。痛いのね、かわいそう。アナタって呪われているのよ』
丑三つ時。午前二時から二時半にかけて、三十分にわたって少女は彼女の顔の皮を、時には全身の皮を剥きむしっていく。
その時間、家族は絶対に彼女を助けることができない。
「愛!」
丑三つ時になると、どういうわけか愛の家族は睡魔に襲われる。愛が少女に皮をむしりとられている三十分間、愛の家族は絶対に愛を助けることができない。それすら呪いの一部なのである。
丑三つ時が過ぎると、愛の家族は目を覚まして、愛の部屋へと駆け込む毎日だ。
「お父さん、お母さん……!」
涙にぬれた瞳の周りの皮膚は、赤黒くただれており、首から下も昨日よりさらにさらにただれが広がっている。
最初はだれも信じていなかった。愛自身も。
愛の自宅のポストに、とある手紙が入っていた。プリントされた紙には、「呪ってやる」ただ一言、そう打ち込まれていた。
最初は単なるいたずらだと思っていた。愛はごく普通の会社員だ、誰かから恨まれるようなことをした覚えはないし、そもそもこんな子供じみたいたずらに動じるような人間は、この世界に存在しない。なぜなら、誰もが呪いなど信じていないからだ。
しかしながら、その手紙を受け取った日から、愛は毎日金縛りにあうようになった。そして、あの少女だ。
最初は顎に爪を立てるだけだった。それが、日を追うごとに皮を剥ぎ剥くようになり、今では顔だけでなく全身の皮という皮を毎晩のように剥きとられている。
「どうしよう。あの呪詛探偵もダメだった」
先日、愛たち家族はとある呪詛探偵に呪詛主の探索依頼を出した。探偵は、呪詛主を突き止め懲らしめたといっていたが、実際また、あの少女が現れた。
剥がれた皮膚がひりひりと痛む。だが、愛はそれどころではない。早く呪詛主を見つけなければ。
「愛。明日の呪詛探偵さんは本物だって噂だ。予約だって十日も待ったんだ。特例で十日で予約を入れてもらえたんだから、きっと今度こそ本物だよ」
父親が苦しそうな表情をしている。母親は、ただれた皮膚を少しでも軽くしようと、氷枕を愛の体に当てている。
一体この子がなにをしたというのだろうか。
愛が呪われてから最初の三日は両親も信じてくれなかった。四日目の夜、両親は愛と一緒に寝ることとなった。一緒に寝れば、愛もその不可思議な夢を見なくなるだろう。そう思ったのだが、そうもいかなかった。
両親と愛の三人で部屋で待機する中、どういうわけか丑三つ時――午前二時になると両親はどうしても起きていられない。まるでなにか見えない力が働くかのように、両親は丑三つ時になると愛の傍から強制的に離された。
それが睡魔であることもあったし、玄関のチャイムに呼び出されたり、近所のおばさんに呼び出されたり。
どうやっても、丑三つ時になると愛はひとりの状況を『作らされた』し、丑三つ時を過ぎて愛のもとに駆け寄ると、愛の皮膚のただれが前日よりもひどくなっているのだ。
そうして両親も愛の言葉を信じるに至った。
「あの子――少女が私の顔の皮を剥ぐの。これは呪いだって、私は呪われてるんだよって言いながら」
両親も、愛自身も、どうにかして呪いを解かんと必死になっていた。日に日に顔のただれはひどくなり、ここ一週間は仕事も休んでいる。
見るも無残な顔に、愛は自分の顔を見ることをやめた。
そうして最後の頼みで呪詛探偵のもとを転々としているのだが、なかなか『本物』に出会うことができずにいた。もう十件も回っているというのに、愛の呪いは日に日にひどくなるばかりだ。
「今回は本物だったらいいな……」
「大丈夫。愛、大丈夫だから」
「そうだ、愛。希望を捨てるな」
有名な呪詛探偵だと聞いている。評判も良く、確かに呪詛主を探し出してくれる、そんなプレビューも数知れず。
このひとになら。毎回そんな望みを持って依頼に行くのだが、結果から言うと、どこも『似非』だ。
だから、か。
「お嬢さん、呪われてますね」
翌日、呪詛探偵の依頼の帰り、父親と母親と合流した愛の前に現れたその男に、愛はうんざりした顔を向けることしかできなかった。
「私のただれた顔がそんなに面白いですか」
「あれ? 君って呪いを解く方法を探してるんじゃなかったの?」
シャララ、と、男は首から下げた大きな鈴を鳴らしながら、愛たちのもとに歩み寄る。その足元には『毛むくじゃらのなにか』がわふわふと無邪気に走りまわって、ほえている。
「冷やかしはやめてもらえますか」
「あれ。お父さんまで。嫌だなあ、僕はさっきの探偵と違って、『似非』じゃあないですよ?」
「アナタ。警察呼びましょう」
「お母さんまでひどいなあ。僕ってそんなに胡散臭いです?」
ひょうひょうとした男に、愛たち親子は怪訝な目を男に向けた。男はやれやれと肩をすくめて、足元の犬を腕に抱きあげる。
「君たちは呪われてる。この子の案内が外れることはないんだけどなあ」
「やめてもらえますか。娘のことをどこで知ったのかは知りませんけど、これ以上からかうのなら――」
父親が携帯を取り出して一一〇番をかかける。その携帯を母親に渡し、父親は男に一歩詰め寄った。
はずだった。
「僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんですけれどね」
詰め寄ったはずだった。家族をかばうように一歩前に出て、男――坂野を威嚇したはずだった。それなのに、なぜ坂野は父親の背後――愛の隣にいるのだろうか。
父親はばっと坂野を振り返る。
「おっと、暴力はよくない」
そうして、坂野に悟られないように拳を振り上げたのだが、坂はけろりとした顔で、その拳を左ほおに受けた。
坂野の顔が右に傾く。唇は切れ、血が流れていた。
「お父さん、いくらなんでもやりすぎ……」
「いいや、この男は俺の娘を馬鹿にし――」
坂野の唇の血が、逆再生のように傷口に戻っていく。それどころか、殴られて赤くなった頬すらも、何事もなかったかのように元の色に戻っていく。
夢でも見ているのだろうか、あるいは、この男は人間ではないのかもしれない。
父親の背中に隠れるように、愛と母親が後ずさる。だが、存外父親だけは冷静だ。
「アナタ……本当に娘の呪いについて、知っているんですか?」
「最初からそう言ってるじゃないか。アナタの娘さんは呪われているって」
けろっとした顔で、坂野が言う。いつの間にか、腕に抱いていたあの『けむくじゃら』はいなくなっていた。足元にもいない、辺りを見渡してもどこにもいない。
「さっきの犬は……?」
「ああ、たんさくん。彼はここにいますよ?」
坂野がパチンと指を鳴らすと、ふわっと坂野の足元に『たんさくん』が現れる。
わふ! わふ! と吠えながら、愛のほうに向かって声を張り上げている。
「彼は呪いをたどることができる、僕の相棒でね。お嬢さんをしきりに気にしているから、呪われているのがお嬢さんだということはすぐにわかったんですけど」
坂野の表情がやや曇る。神妙な面持ち、とはまた違う。
どこか憂えるような、そんな表情である。
「お嬢さんだけじゃない。お父さんもお母さんも。そのうち呪いが発動するでしょう」
だけれど、その声ははっきりとしたもので、躊躇とかそういった類のものは一切ない。はっきりと、残酷な言葉をなんのためらいもなしに言ってのける。
父親は、一瞬だけ思考を巡らせたが、坂野のほうを、そして愛娘を見ると、
「立ち話もなんですし、ウチに来て、お話を聞かせてください」
坂野を連れて、自宅へ帰ることにする。
いまだ愛も母親も不安げで、坂野のことは信じ切れていないようだが、父親だけは違っていた。
それはもしかすると、なんとしても娘を救いたいという、親心だったのかもしれない。
愛の家は、大分ほこりが溜まっていた。この二十日ほど、母親も父親も愛につきっきりで、掃除も洗濯も、食事さえもままならないのが現状である。愛に至っては、ただれた皮膚の痛みと、なにより醜くなったショックから、食事も喉を通らない。
そんな汚れた部屋に通された坂野は、まるで子供のように、
「相当疲れてますね。掃除もできないなんて」
無遠慮にそう、こぼした。
普通であれば、初対面の、なにものかもわからない男にそのようなことを言われたら、気分を害していたに違いない。だが、今この場に、坂野を責めようと思うものはひとりもいない。
リビングに通された坂野はソファに座り、目の前にいる父親に単刀直入に本題を切り出す。
「お嬢さんは呪われています」
「それはさっきも聞いた。この呪いは、どうやったら解けるんですか」
「ああ、呪いを解く方法ね。ごめん、それは僕では力が及ばないんだ」
ガタタ! っと父親が立ち上がり、坂野の胸ぐらをつかむ。ここまでもったいぶっておいて、そんな答えなど、誰だって腹が立って当たり前だ。
しかし、坂野はなんら動じることはない。胸ぐらをつかまれたまま、だけれど口調は先ほどのままに、返す。
「でも、方法はあります」
「方法?」
「はい。ひとつは『呪詛返すんです』で呪詛返しをする方法。もうひとつは」
「呪詛返し? それは私たちも調べた。そんなことができるのなら、端からやっている!」
「ちょ、お父さん落ち着いて。胸離してください。声が出ない」
ここでようやく、父親が坂野の胸ぐらから手を放す。隣にいた母親に諭される形で、仕方なしに離した形だ。
坂野は胸元の崩れを正しながら、やはり調子を崩すことはない。
「だから、『呪詛返すんです』ってアプリがあるんです。『呪詛るん』で呪われたひとたちを救済するために開発したアプリです」
「『呪詛返すんです』? その口ぶりだと、さもアナタが開発したみたいな言い方ですね!?」
「ああ、ご名答。さすが話が早い」
坂野がにぱっと笑うも、パシン! と坂野の頬に、平手が飛んだ。愛である。
今まで黙っていた愛が、とうとう我慢の限界を超えて、坂野の頬をひっぱたいた。
「アナタのせいで私たちがどれだけ苦しんだと!」
「愛、やめなさい」
ふうふうと息を乱す愛を、母親がなだめる。しかし、その目は怒りに満ちており、視線は坂野に注がれている。
居心地が悪い。だけれど、これでいい。坂野はふうっと息を吐き出す。
「すみません。若気の至りでした。僕は陰陽師で、呪詛るんで呪われた人間が、僕に泣いて助けを乞えばいい。そう思って、呪詛るんを作りました」
「そんな、そんな身勝手な理由で! 私が、お父さんが、お母さんがどれだけ!」
愛からの罰を、坂野は甘んじて受ける。
「そうだ。身勝手だって気づいた。すぐにね。だけれど、呪詛るんを作るにあたって契約した『呪いを運ぶ式神』――君も見たと思うけれど、あの少女は、ひとの悪意を自らの力に替える式神なんだ」
その式神が、ヒトの悪意を一気に食らった。呪詛るんは開始直後から爆発的に流行った。ひとの悪意は底がない。
呪詛るんを使う人間の悪意を、あの少女はあまた食らった。
「悪意を食らった彼女の力は、僕をはるかに凌いでしまった。それは今も変わらない」
「……それで、アナタはその式神に対抗できる手段として、『呪詛返すんです』を開発したと?」
「はい、そういうわけです。ちなみにさっきの犬、彼は『たんさくん』といって、呪詛探索アプリの契約式神です。今日アナタたちが頼みに行った呪詛探偵が使っている、奥の手ですね」
坂野の説明を一通り聞いて、父親はどっかりとソファに腰を据えた。途方もない話だ。式神だの、呪詛だのと。
「ごめんね、筧愛さん。本当は僕が死ねば式神も契約無効になるのだけれど。あいにく僕は、『呪詛るん』の式神に、逆に呪われてしまってね。不老不死になってしまったんだ」
さきほど、外で父親が坂野を殴った時、時を逆巻いたように坂野の傷が治ったことを、愛は思い出した。なるほど、坂野自身ももう十分に罰は受けた。
それはわかっていても、どうしても愛には許せなかった。
「筧愛さん。僕を許す許さないは今は置いておいて。アナタたちには選択肢がある」
坂野が前のめりに話題を戻す。父親も母親も、愛も。坂野の言葉に耳を傾ける。
「ひとつはさっき言った通り、『呪詛返すんです』を使うこと。もうひとつは、呪詛主に呪詛をやめさせる方法」
「呪詛をやめさせる?」
「そう。丑の刻参りってね、効果が出るまで毎日続けなきゃならないんだ。それに、呪詛るんは、呪詛主の呪詛力によって、効果が発動するまでの日数にばらつきがあるんだ」
坂野は膝の上にのっている『たんさくん』を撫でる。いつの間にいたのか、愛も両親もわからない。しかし、最初からいたのだろうと、誰もなにも言及しない。
たんさくんがふんふんとなにかを坂野に伝える。
「君の呪いはあと五日。あと五日で完成する」
「五日……じゃ、じゃあ、私はどうすれば」
愛が動揺する。父親も決めかねているようだ。今すぐ究極の二択の答えをだせ、そういわれて、即答できる人間は少ないだろう。
仮に呪詛返すんですを使ったところで、その呪詛は呪詛主に返ってしまう。それは、もしかしたら、呪詛主に愛と同じか、それ以上の呪いが返ることを意味するだろう。
かといって、呪詛をやめさせるとしても、再び呪いをかけられる可能性も捨てきれない。
迷う。
しかし、母親だけは違った。
「呪詛返すんですを使いましょう」
「お母さん!?」
「オマエ……」
母は強しとよく言うが、まさに愛の母親は、娘のためなら汚れ仕事でもなんでもする覚悟である。
母親が立ち上がり、前のめりに坂野に問う。
「『呪詛返すんです』について、もっと詳しく教えてください」
「ああ。わかりましたよ。アナタならそう言うと思っていました。それからもうひとつ。この呪詛には、『ふたり』の人間がかかわっています。筧愛さんを直接呪っているほうは、お母さんに任せます。けれど、もうひとり、より強力な呪詛を行っている『彼女』に関しては、僕に一任してもらえますか?」
果たして母親は、呪詛返すんですにその人物の名前を書き込んだ。
とある一軒家の一室。
筧愛とは面識もない、とある女性の自宅である。
「死ね、死ね、死ね!」
丑三つ時、呪詛るんのアプリを起動すると、そこには『個人情報』を書き込む欄が表示される。そこに知りうる限りの個人情報を書き込んで、『実行』ボタンを押す。
しばらくすると、画面に藁人形の写真が表示される。その藁人形に五寸釘の写真を打ち込む。
それだけで呪詛るんの呪詛は完成する。
これを、丑六つ時に毎日行う。例外として『あるひと』は丑三つ時以外でも、この呪詛をかけることができるのだが。
たいていの場合、呪詛の発動までに一カ月ほどの時間がかかる。そして、一カ月も時間をかける割には、呪詛の力はほんの少しで、よくて階段から落ちる程度、多くは、日常生活に支障が出ない程度の呪いしか発動しない。
しかし、例外がある。
「ふふふ、今日も苦しんでるかなあ」
呪詛るんを起動して、五寸釘を打ち込んだ女が笑う。
この女は愛とは面識もない人間だ。ただし、女のほうは愛のことを知っている。
愛のSNSがたまたま目に入った。幸せそうな日常、可愛がられている様子。
それだけだ、本当に、それだけ。
女は日常のうっ憤を、愛で晴らそうとした。
最初は自分一人で呪詛を開始した。けれど、女の呪詛力では、そうそう愛にダメージを与えることなどできなかった。だから女は、ある手段をとった。
「やあ、丑の刻参り、ご苦労さま」
「!? アンタ、どこから」
「僕は坂野。陰陽師の坂野弘彦。でもさあ、佐藤かえでさん。君って本当にたちが悪い」
坂野は女――かえでの部屋を我が物顔で歩いていく。かえではすぐにピンとくる。この男は、『呪詛』に関係する人間だ。
でなければ、かえでが今、『丑の刻参り』をしていたなどと、言い当てられるはずがない。
見られたからには、始末しなければ。
「不法侵入ですよ? 警察呼びましょうか」
「やだなあ。そんなこと無駄だって君も気づいているくせに」
「ああ。そう。そうね、それもそうだ。じゃあ、あなたの名前、書きこませてもらうわ!」
かえでは手に持っている携帯に、坂野の名前を書き込んでいく。漢字が分からなくとも、今目の前にいる坂野の写真を撮れば、それなりに呪いの効力は現れるだろう。かえでは素早くカメラを構え、坂野の写真をスマホで撮る。
そのままその写真を呪詛るんにアップロードして、表示された藁人形に五寸釘を打ち込んだ。
「ぐっ……!」
苦しそうに坂野が膝をつく。かえでは甲高い笑い声をあげ、坂野を見下ろしさげすんだ。
「馬鹿ね。本当に馬鹿。名前を名乗った上に写真まで撮らせて。呪ってくれって言っているようなもんでしょ!」
あははは、きゃははは。
狂ったかえでの笑い声が響く。
「あーもう、痛ったいなあ。やっぱり、呪詛力の強い呪いは、僕でも痛いんだね」
「……は?」
けろりと立ち上がった坂野を見て、かえでは唖然とする。
確かに呪いは届いたはずだ。しかも、今のかえでの呪詛力は、それなりに高い。坂野の本名と写真を書き込んだとなれば、呪いの効力も高くなってしかるべき。
それなのに、坂野にはなんら体に変化があるわけでも、災いが降りかかるわけでもない。
「言っておくけど。君が依頼した『彼女』。あの子の呪いは、僕がなんとかしちゃうから。残るは君の呪いだけど」
「ちょっと待って。なんでアンタ、なんともないのよ」
「ああ、僕? あーもう、このくだり面倒だな。僕は不老不死で、呪詛るんを開発した陰陽師だからね。いろいろあるんだよ。それでね」
坂野はやれやれと肩をすくめながら、かえでを指さす。
「君には、もうすぐ『呪詛返し』がなされる」
「え、え。ちょっと、呪詛返し?」
「そう。君の名前は、もうすでに彼女のお母さんに伝えてある。今頃書き込んでるんじゃあないかな」
「待って、呪詛返しなんて聞いてない。私はただ、ただ、あの女に少し痛い目見せたかっただけで」
「ふうん。痛い目見せるためだけに半年にわたって彼女に呪いをかけるわけ? まあ、彼女の呪いは君が依頼した『あの子』からのものがほとんどだけれど。でもね、『呪詛返すんです』は依頼した呪詛主の分の呪詛力も、悪意を向けた張本人に返るようにできているんだ」
矢継ぎ早に説明されて、かえでは理解が追い付かない。聞き返したくても、それはかなわない。
かえでの体に、痛みが走った。
ズキン、ズキンと走る痛みは、もしかしたら、これが呪詛返しなのだろうか。恐怖するかえでを横目に、坂野の姿が消えていく。
「待って、待って。私を助けて。反省してる、呪詛返しなんて聞いてなかった」
「今更もう遅いよ。君みたいな人間には、罰が必要だね。無差別に悪意を持つ君みたいな人間には」
そうして坂野が部屋から消える。
かえでは取り乱す。呪詛返しとは、どの程度のものなのだろうか。よもや、命にまで及ぶのだろうか。それとも、愛のように『あの少女』に皮を剥ぎ取られるのだろうか。
「い、やぁぁぁあああああ!」
机の上に置いてあるカッターを手に取って、かえでは『式神』を殺さんと暴れる。だが、その部屋には誰も『いない』。
「アンタ、夜中になに騒いでる――」
隣の部屋に寝ていた母親が、かえでの様子を見に来る。しかし。
サク。
かえでが振り回していたカッターが母親の胸に突き刺さる。事故だ、これは、事故だ。
殺そうとしていたわけではない。自己防衛のためだった。もっと言えば、かえでは『正気じゃなかった』。
だけれど、それをいくら警察に相談したところで、警察は呪いも、呪詛返しも、坂野のことも。
かえでの言い分を信じる者は誰一人としていなかった。かえでの父親もしかりである。
かえでが一番大事にしていたもの、それはもしかすると命よりも、世間体だったのかもしれない。
しかして、かえでに降りかかった災いが、呪詛返しによるものなのかは、誰にもわからない。
愛のただれはみるみるよくなっていった。あの男――坂野は『本物』だったのだと、愛も父親も母親も、坂野に感謝してもし足りない。
ただれが収まってからしばらくたったころのことである。
「やあ、お嬢さん」
「あ。坂野さん。ずっとお礼を言いたかったのに、住所もなにも知らなくて!」
すっかり皮膚もきれいに治った愛と、一緒に買い物に来ていた母親の前に、坂野がひょっこりと顔を出した。
坂野は愛の顔を指さして、
「マスクをとったらそんなに美人だったなんてね。もうすっかりいいみたいだね?」
茶化すように言った。
愛も母親も、坂野の言葉に朗らかに笑い、改めて親子ふたりで坂野に頭を下げる。
「本当に、なんといったらいいのか」
「いえいえ。こっちもただで慈善事業してるわけじゃないんで」
ふっと坂野の雰囲気が変わる。その目が暗く濁ったことに、愛も母親も気づかないほど鈍感ではない。
慈善事業ではない。つまり、もしかすると金銭を請求されるのではないか、そう覚悟した親子だったが、存外、坂野の言葉は的外れなものであった。
「『呪詛るん』に、僕の名前を書いてほしいんです。できればアナタたちが死ぬまで毎日」
「え……。でも、それじゃあ、坂野さんが呪われて……」
愛が困惑気味に答える。坂野はにぱっと表情をやわらげた。
「大丈夫。今すぐ死んだりっていうのは無理だと思う。なにせ僕、不老不死だから。でも、アナタたちのように、呪詛にかかわり、呪詛力が上がってしまったひとたちが、僕の名前を呪詛るんに『書き続けて』くれたら、あるいは僕も、死ねるかもしれない」
愛は思い出す。
坂野は呪詛るんを作り出してしまったことを後悔している。だからきっと、愛のように呪われた人間を助けてくれるのかもしれない。不老不死になったことが自業自得だとしても、下心があるにしても、ひとを助けることは尊いことであるし、苦しいことでもあると思う。
不老不死になってどのくらい生きてきたのか、愛には計り知れない。
「でも、私……ひとを呪うなんて……」
「私が書きますよ。他でもない、坂野さんの頼みなら」
坂野の口が弧を描く。
「お母さんならそういってくれると思いましたよ」
「お、お母さん。いくら坂野さんのためって言ったって、呪詛るんなんて使ったら……」
愛が母親を止めるも、母親は大きく首を横に振った。
「もとより、私は『呪詛返すんです』を使いました。今さら自分だけきれいなままでいられるはずもない。それに、あなたが死ななければ、今後も呪詛の被害が消えないというのなら、私は喜んで手を汚します」
坂野は再び、笑った。
安堵と、喜びと、申し訳なさの入り混じった笑みだった。
「本当に、助かります。ありがとう、ありがとう」
母親のわきで、愛が唇をかみしめている。
だけれど、それがどうした。坂野の姿が消えていく。いつものように、気まぐれに現れて気まぐれに消える。
坂野には、やらなければならないことがある。自分は死ななければならない。そうしなければ、この世界から呪詛るんはなくならない。ひとの悪意はなくならない。
それに、坂野が死ねば、『あの契約』が発動される。坂野の悲願だ、この世界を変えるために、必要な――
第四章 呪う女
お母さんは、年老いてボケた。いつもありもしない作り話を僕らに聞かせては困らせる。そんなもの存在しないよ。何度も何度も同じ話を聞かされる度に、僕らはその話を否定する。本当は、認知症の人の妄想って、否定も肯定もしちゃいけないらしい。
毎朝、毎日。少女は起きてすぐに、アプリを起動する。
呪詛探索アプリ。
少女は呪詛探索アプリのヘビーユーザーにして。
「ひゃあ、今日の依頼十件とか!」
呪詛るんのヘビーユーザーである。
きっかけは些細なことだった。クラスでも成績優秀な女子生徒が、教師に褒められるのを見て嫉妬した。だから、呪詛るんにその子の名前を書き込んだ。
毎日、毎日だ。
普通の人間であれば、途中で怖気づいたり飽きたりするものを、少女は毎日飽きもせず、根気よく呪詛るんに彼女の名前を書き続けた。
その効果だったのか、あるいは偶然だったのか。
呪詛るんに書き込み始めてから実に半年、彼女は階段から落ちて大けがをした。
今にして思えば、それは大いに偶然であったに違いないのだが、その日以降、少女は呪詛るんの虜になった。
そして、一年間、毎日毎日、飽きもせずに誰かを呪い続けた。ちょうど一年目のことである。
アプリからのメッセージが届いていた。その内容は、
『おめでとうございます。呪詛るんの裏設定がご利用できるようになりました。呪詛探索アプリからの検索避けをして、よりよい呪詛ライフを!』
少女はそこで初めて、呪詛探索アプリの存在を知った。そして、その日から呪詛探索アプリを併用するようになった。
なにより、少女はこの時点で、呪詛るんの悪用方法を思いついてしまったのだ。
とあるアカウントがある。捨てアカウントなのだろうが、内容が物騒だ。
『呪詛代行、請け負います』
TLとプロフィールにはその一言だけが書かれており、知るひとぞ知るアカウントとなっている。
このアカウントこそが、あの少女のアカウントである。検索に引っかからないで呪詛るんを使用することができる。
少女はそれを悪用して、呪詛を代行する小遣い稼ぎを思いついた。
最初はそれこそ、月に何件かの依頼しか来なかった。しかし、この時点で少女の呪詛力はそれなりの力があったため、依頼された呪詛の効力は普通の人間に比べれば、何十倍、何百倍もの威力を持っていた。
「今日は三件。二週間……念のため一カ月見てもらおっか」
依頼主に返信する。
少女の呪いは大概二週間ほどで完成するが、念のため一カ月の猶予期間をもらっている。そして、報酬は前払い制だ。
それから、一番重要なのは、少女のアカウントを呪わないこと、途中放棄はできないこと。
ルールはたったそれだけである。
「しっかし、夏休みだけでどれだけ稼げるんだろう」
暇を持て余す少女は、近場のコンビニでお気に入りの氷アイスを買って、食べながら帰路を歩いている。
真夏の真昼間から、呪詛について思いをはせる女子高校生がいるなどと、よもや誰が思うだろうか。
「森野花江さん」
「んえ?」
無防備に少女――花江が振り返る。
シャララ。
鈴の音が花江の耳にいやに響いた。なにより、花江を呼び止めた男は、不審な男に違いなかった。
太いしめ縄を首から下げて、その先端には鈴がぶら下がっている。大きな鈴だ。特注だろうか。
花江はじりじりと後ずさる。ふらっと出かけてきたため防犯ブザーは持っていない。だとしたら、大声を出すか走って逃げるか。
周りを見渡すも、人通りは少ない。やられた。
花江は迷うことなく走り出す。
「ったく、なんなのよ、ついてない!」
だけれど、花江はもうだいぶ度胸がある。愚痴をこぼせるくらいにはどこか他人事のように、その男から逃げおおせた。
両親は共働きで、昼間は花江の家にいない。だから、花江はいつもひとりだ。隣の離れに祖母が住んでいるが、最近は顔もあわせない。花江も思春期であるし、花江の両親も知らん顔だからだ。
せっかくアイスを食べて体が冷えたというのに、あの不審者から逃げるために走ったせいで汗だくである。少し早いが風呂にでも入ろうか。
そんなことを考えながら、花江は自宅の玄関を潜り抜けた。
「お帰り」
「……は?」
しかして、その先にいたのは、例の不審者である。
花江は今潜ってきた玄関を再び開けて外に逃げようとする。しかし。
「逃げても無駄だって。僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんだけれど」
玄関を潜り抜けた先にも、あの男――坂野がいた。一瞬で移動した、と考えるのが自然であるが、果たしてそんな非科学的なこと、あり得るのだろうか。
「アンタ……何者?」
「ああ、若いわりに飲み込みが早いね。実は、君が使っている呪詛るんについて、話があるんだ」
坂野が単刀直入に切り出すと、花江はすべてを理解したように、「ふうん」とうなる。
「アンタ、『あの子』と同系列?」
「『あの子』?」
「そう。呪詛るんちゃん」
「へえ、森野花江ちゃん。君って呪詛るんの式神が見えているんだね。それもはっきりと」
これは誰にも話したことはない。花江にはあの少女が見える。呪詛るんの『呪いを運ぶ式神』だ。
だが、花江はそれに対してなんら感想も感動も抱いていない。
呪詛るんの呪いがどのように運ばれるのか、ずっと気になっていた。きっと目に見えないなにかが運んでいるのだろうと思ってはいたが、まさかそれが、少女だったとは思いもしなかった。
その少女は、花江によくなついていた。毎日『今日は誰を呪うの?』などと、いい話し相手になっていたほどである。
共働きで両親がいない部屋で、式神の少女と話す。
花江にとってそれが、もう当たり前になっていた。
「『彼女』を呼んでもらえるかい?」
「無理だよ。あの子はいつもふらっと現れてふらっと帰る。それに、アンタには教えたくない」
「なんでよ。ケチ」
「なんでも。私の勘がそう言ってる」
なるほど、この子には素質がある。坂野はそう思うも、さてどうやって諭そうかと思案する。
現状、花江にとって呪いによる不都合は一切ないのだから、呪詛をやめてくれと頼んだところで、それは却下されるだろう。そもそも、花江は呪詛で商売をしているわけだから、そう簡単には呪詛るんを手放すわけもない。
「そうだなあ。じゃあ、僕に付き合ってよ」
「は? 付き合うとか……お兄さん、本当に不審者なの?」
「失礼な子だな。いいや、もう。ちょっと来てよ」
坂野が花江の手を握る。そうして、右手を胸の高さまで上げて、人差し指と中指を立てる。
一瞬のことだった。花江には抵抗する余地すらなかった。
「え……?」
ぐわん、と目の前の景色がゆがんだかと思えば、花江はもう、『そこにはいなかった』。
松坂武雄。
例の少女によって毎晩夢でうなされている。彼は花江が呪詛るんで呪いをかけている最中の男の子である。こうして姿を見るのも、彼が同い年であることも、花江は今初めて知る。
頭の中に流れてくるのだ。
武雄は夢の中で足を圧迫されている。うっ血した足、膿んだ足、痛み。つらい気持ち、恐怖に脅かされる毎日。
この子はそうだ、今朝からずっと連絡が来ている。呪いの依頼を取り消してほしいと。
だけれど花江はそれを突っぱねた。今ここで呪いをやめれば、武雄が呪詛返しをしかねない。だから花江は、依頼主の言葉を無視している。
筧愛。
普通のオーエルだ。彼女もまた、花江が呪詛るんで呪っている最中の女性である。その情報が、なぜだか頭に流れ込んでくる。こんな顔をしたひとなのか。こんな家族と過ごしているひとなのか。
最初は愛だけの依頼だった。だけれど最近は、その家族も一緒に呪ってくれと依頼内容が変更された。変更に当たり依頼金は三倍になった。もちろん、二つ返事で請け負った。
そして、彼女が毎夜金縛りにあい、どんなふうにあの少女にいたぶられているのかを知った。なんなら、痛みすら伝わってきた。
脂汗が流れる。
高野一井。
彼は直接依頼を受けて呪った人間ではない。よく覚えている。花江が久々に危機感を感じて、自ら呪いをかけた人間である。
しかし、一井は悪徳の探偵、懲らしめても罰は当たらないのではなかろうか。花江はどこか他人事である。
現に、一井にかけた呪いは『一日のみ』である。単なる脅しだ、筧愛の件で『呪詛探索アプリ』を使った一井への、けん制である。
呪詛検索アプリを使えば、当然そこに呪詛の力が働く。つまり、呪詛探索アプリを使った人間は、呪詛検索アプリで検索されると、その名前が割れてしまう。
一井はそこまで呪詛探索アプリに詳しくなかった。だから花江に呪い返された。
花江は、呪詛探索アプリで毎日、自分の名前以外に、呪詛対象の名前も検索する。
例えば、筧愛の名前を検索して、呪詛探索アプリに誰かの名前がヒットすれば、誰かが筧愛に対して呪詛――呪詛探索アプリを含む――を使ったことになる。
同時に、自分自身の名前を検索してヒットすれば、誰かが花江に対して呪詛を使ったことも確認できる。
花江が最も恐れているのは、呪われる側の人間が、第三者を使って、あるいは自分自身で呪詛探索アプリを使って花江の存在を探り当てることだ。
しかし、花江は現状、呪詛るんの裏設定により、呪詛検索アプリには名前が表示されない設定になっている。
しかして、『筧愛』で検索して、『高野一井』がヒットした。つまり、高野一井という人間が、筧愛を呪った、あるいは呪詛探索アプリで検索をかけた。
花江はすぐさま『高野一井』をネット検索する。今の時代、SNSやネットを使えば、個人情報など簡単に調べ上げることができるのだ。
結果、高野一井は『呪詛探偵』だった。だから花江は、ためらうことなく呪詛るんにその名前を書き込んだ。その呪いが軽くすんだのは、花江が一井に呪いをかけのが『昼間』だったからである。呪詛力の高まった人間に限り、丑三つ時以外の呪いでも呪詛の力は発揮される。これは呪詛るんのヘビーユーザーである花江だからこそ知りうる使い方だ。
それが花江にとっての日常である。
時には、まったく無関係の人間を『けん制』と称して呪ってしまうこともあるのだが、それも大体一日で終わらせる。
花江の呪いはそれだけ強力で、一回の呪いだけでも相手に十分な恐怖を与えられるからだ。
だから、興味本位、あるいは友人や家族から相談を受けて、呪詛探索アプリを使った人間の名前を呪詛るんに書く、という行為は、花江にとって息をするのと同じ感覚でできてしまうのだ。
そして、呪詛探索アプリなんてものを使ったその夜に、怪奇現象に襲われたとなれば、大概の人間はもう二度と呪詛とかかわらなくなる。
それからあとひとり、花江は呪いをかけている人間がいる。最近売れ出したタレントだ。だが、この男はやりたい放題で、それこそ敵を多く作り出すような芸風である。
花江自身も、この男は呪われても仕方がないのではと思うほどだ。だから、呪詛代行の依頼が来たときは、なんら驚くことはなかった。それどころか、少しお灸を据えて、大いに自分の不遜な態度を改めればいい、そんな思いさえあった。
男もまた、呪いに毎日を蝕まれ、どこか気だるげな表情を浮かべている。しかし花江には、それが悪いこととは感じられない。
男の辛さは伝わってくるが、それ以上に男の『醜い部分』も花江に伝わってくるのだ。
呪詛を行うことはあれど、呪われる側の気持ちを考えたことなど、花江にはなかった。
気づくと花江は、『そこにいた』。
自分の家の玄関である。
ペタンと地面に尻をつく花江を、坂野が無表情に見下ろしている。
「森野花江ちゃん。少しは呪われる側の気持ち、わかったかい?」
「……なにが、悪いことなの?」
花江は立ち上がり、坂野をにらみ上げた。全く臆することなく、なんら悪びれる様子もなく。
「だって、法律で『呪い』は禁止されてないじゃない。そもそも、私が殺したって証拠はあるの? 私が手を下したっていう証拠は」
「……はあ。そう、そうだよねえ。君みたいな子供が、そう簡単に『罪』を認めるなんて思っていないよ」
坂野はふうっと大きく、わざとらしくため息をつく。そうして、自身の携帯を取り出すと、
「じゃあ、君が今までに呪いをかけたひとの分。全部上乗せして、僕が呪詛返ししてあげようか」
「……ふん。脅したって無駄。呪詛返しは本人か、呪いを受けている人間に近しいひとがやらなければ、その効力はない。『呪詛返すんです』はすでに検証済み」
「へーえ。そうかい。そう。じゃあ、書いちゃうけれど」
「……そんな脅し、きかないんだから!」
花江は半ば強引に坂野を玄関の外に押し出して、そうしてバタンと玄関のドアを閉めた。
その、夜のことである。
花江の家族は、徹夜の仕事が入ったとかで、今夜はふたりとも帰れなくなった。
だが、だからどうした。花江は丑三つ時に備えて仮眠をとる。もうだいぶ、こんな生活だ。
午前二時に起きるために、早めに就寝する。丑三つ時になったら、依頼されている分の呪いを実行して、二時半までにすべてを終わらせる。
丑の刻参りが終ったら、また何事もなかったかのように眠る。
花江の生活は、もうだいぶ狂っている。
『あーあ。ねえ、なんで見つかっちゃったのかなあ』
少女の声が聞こえる。普段、夜に現れることはない、あの少女の声だ。
花江は明るく少女の声にこたえようと思ったのだが、ギシリ。その体がベッドに横になったまま動かない。金縛り、というものらしい。
ぴちゃ、ひたり。
少女の手が、花江の体を触りまわる。
『何処かなあ、どこにしようかなあ』
少女の声が、心なしかいつもと違う。いつもは無邪気な、ただの子供のような明るい声であるというのに、今日の少女は、どこか恨みがましい、あるいは、憎々しさをこらえるような、そんな声である。
『あー、ここにしよっか』
少女の手が、花江の胸にあてられる。そこでようやく、花江にも少女の表情が見える。
笑っている。
確かに笑っているのだが、その口は耳まで裂け、鋭い犬歯がギラリと光っている。
眼は大きく見開かれ、おかっぱの髪の毛もぼさぼさに乱れている。
そして、花江の胸にあてられた少女の手の爪は、今までにないほどに鋭くとがり、花江の胸に突き立てられている。
サクリ。
少女の爪が、花江の胸の肉を切り裂いた。
「痛っ、なに、するの……」
『だって、だって、だって。だって! アンタはへまをした。アイツが来た、アイツに見つかった。アイツが来たら、私はもう、ここにはいられない!』
少女の爪が、さらにさらに花江の胸に刺さりこんでいく。
「アイツって、だれ……」
『アイツ、坂野。アイツは私を消そうとしてる……アイツのせいで、呪いが跳ね返された。呪詛返しされた。だから私は、アナタを殺す』
「ま、って……呪詛返しって……」
痛みに顔をゆがめる。ギリギリギリ、と少女の爪が胸を貫通する。どうやら心臓を狙っているようだ。
少女の手が花江の心臓を握る。
「……! ぁ!」
今までに感じたことのない痛みである。内臓の、しかも心臓をぎゅっと圧迫されて、息が止まった。脂汗は止まらない。
少女が花江に馬乗りになる。むろん、胸に手を突っ込んだまま、心臓を柔く握ったまま。
少女の表情は狂喜に満ちていた。
今まで仲良くやってきたのに。言われるままに、少女のために、呪詛を行ってきたというのに。それなのに、邪魔になったら花江すら呪い殺してしまうのだろうか。
苦しい、苦しい。
ジタバタともがく。
『ちっ!』
花江の抵抗が効いたのか、花江は運よく少女から逃れることができた。先ほどまで空いていた胸の穴は、すでに閉じている。不思議な感覚だ。
花江は少女から逃げるように部屋のドアに走る。しかし、走っても走っても、一向にドアにたどり着けない。
そうする間にも、花江の背後に少女が迫る。ひたり、ぎぃ、ぎし。
足音が心なしか弾んでいる。獲物を追い詰めていたぶっているのだろうか、花江はもう、袋のネズミである。
『ねえ、なんで逃げるの?』
「こ、殺さないで」
『なんで? アナタはたくさん、殺したでしょう? いまさら自分だけ助かるとでも思っているの?』
「やめ、ころさないで――」
『大丈夫。私たち、お友達だもの。痛くないようにしてあげるから、ね?』
少女の気配がいよいよ真後ろまで迫ってくる。
花江は死を覚悟し、抵抗をやめた。目を瞑り、ただひたすらに、後悔した。
今まで自分は、なんてことをしてきたのだろうか。呪いがこんなに怖いものだったなんて、知らなかった。
もしもやり直す機会があるのなら、中学生のあの日、呪詛るんを初めて使ったあの日に戻りたい。そしてその時の自分に言うのだ。
「こんなもの、使っちゃだめだ」
花江の思いを、誰かが言葉にした。
ふっと目を開けると、少女の気配は消え、花江はそこにいた。自分の部屋だ。なにもかも元通りの、部屋である。
声の主は、坂野である。いつからいたのだろうか、坂野が少女をけん制するように、部屋の真ん中に立っていたのだ。
「これだけの悪意だと、僕の霊力ではなかなかコントロールできなくてね」
おどけた調子で坂野が言う。少女は口惜しそうに坂野を見て、唇を血がにじむほどにかみしめている。
『またオマエだ。オマエのせいでまた、私はひとを殺せない』
「いいじゃん。君は悪意を食べるのが本来の目的なんだから。今回の悪意はなかなかおいしかったんじゃない? もうこの子に用はないでしょ。式神は帰らせていいよね、森野花江ちゃん?」
坂野が花江に促すと、花江は力なくうなずいた。
『口惜しや、口惜しや』
少女がすうっとなりをひそめる。
「森野花江ちゃん」
「……呪詛返し、できてうれしいですか」
しかし、花江の口から出てきたのは、その言葉である。坂野は目をぱちくりとしばたたかせて、くっくと声を殺して笑った。
「僕が本当にそんなことしたと思っているの?」
「ほかに誰がいるんです?」
人間は懲りない生き物である。自分の命の危機に貧すれば、普段は信じてもいない神さまに願い事をしてみたり。
命からがら助かったとしても、人間は神さまに感謝なんてしない。そもそも、そういう人間は、『こんな目』に遭ったりしない。
花江はふるえる足で立ち上がり、坂野のもとへと歩いていく。
「私をあざ笑って楽しかった?」
「やだなあ。本当に気付いていないの?」
坂野は自身の携帯を取り出すと、呪詛探索アプリを起動する。そうしてその検索欄に入れたのは、花江の名前である。
検索開始、と同時に画面がローディング中に切り替わる。
「呪詛探索アプリなんて、今更……」
「知ってる? アプリって開発者特権があるの。僕はね、呪詛るんの裏オプションで検索無効に設定されているユーザーも、検索できるんだけれど」
坂野がふんふんと鼻歌交じりに携帯を見る。
花江もつられて坂野の携帯を見る。
検索完了、の文字。
「森野花江。ヒット百件」
「え……え……?」
「信じられないって顔してるね。そうだなあ、この百人はね、僕がかかわった数百人のうち、ほんの一部」
坂野は携帯をちらつかせながら、花江の顔を覗き込んだ。
「君が呪ったひとたちは、僕がみんな助けたんだよ。まあ、初期段階だったから、君の呪いは僕の呪符で十分跳ね返せたんだけれど。知っているかい? 『ちりも積もれば山となる』」
花江は自分の携帯を取り出して、自身も呪詛検索アプリを起動する。そして自分の名前を検索するが、一件もヒットする様子はない。
「開発者特権その二。特別なコマンドを入力すると、呪詛返しは呪詛探索アプリに引っ掛からないようにできる」
坂野はずっと、ずっと呪いをたどっていた。花江が呪ったひとたちを、自身のなけなしの霊力で作った呪符で囲って、花江の存在をずっとずっと探していた。
花江には才能がある。霊力の才能だ。だからこそ、呪いを毎日続けられたし、一年たらずで強力な呪詛力を手に入れた。普通の人間であれば、呪詛るんをここまで使いこなせない。
坂野は花江の呪いをたどり、呪われたひとを助けてきた。助けたひとのほとんどは、呪詛返しを使おうとはしなかった。呪われる側の人間とは、大概がそんなお人好しだ。坂野にはそれが理解できなかった。
けれど、中には、あの、愛のようなケースも存在する。
愛の場合、母親が呪詛返しをした。あの呪詛返しは、直接愛を呪った女と、そして花江自身にも跳ね返ってしかるべき。
そんな小さな呪詛返しが、積もり積もって、花江のもとへと返ってきた。今までその効力が発揮されなかったのは、花江自身に霊力があったからである。呪詛返しされた、あるいは純粋な呪いさえ、花江には跳ね返すほどの霊力があった。
そもそも、呪詛返しされた呪いのひとつひとつの力は弱い。呪詛の初期段階で返されたものがほとんどであるし、呪詛返しにも呪詛力が関与してくる。なにより、呪詛返しする本人の悪意の量が、すなわち呪詛返しの強弱を別ける。呪われた側からすれば、呪いの恐ろしさを知っているため、進んで強い呪詛を呪った側に返そうとはしない。自身に降りかかる呪詛を返せればいい。その程度の思いである。
ではなぜ、今日に限って呪詛返しが発動したのかといえば、
「君には霊力があった。だから呪詛返しが発動しなかった。けれど、その霊力を一時的に下げることが、僕にはできる。といっても、僕がそばにいることで、君の霊力を干渉しただけなんだけれど」
簡単な仕組みだ。無線LANに同じ周波数の電波が流れ込むと干渉しあうのと同じ要領で、坂野は花江の霊力に干渉した。むろん、花江が素人ゆえに通じた作戦のため、霊力を自在に扱える人間には無意味だ。
「……陰陽師だから? 悪用したの?」
「悪用だなんてひどいな。霊力の高い人間同士がそばにいると、おのずと霊力を干渉できてしまうだけなんだ。でも、君もこれで少しはわかったんじゃない? 呪われる側の気持ちってやつが」
あっけらかんとした口調で坂野が言う。言い負かされたようで花江は悔しくて仕方がない。しかし認めよう。この男は花江よりも何枚も上手で、そして実力のある陰陽師だ。
だが、だからこそ、疑問がわく。
「そんな力を持ってるんなら、あの式神を無効にする方法くらい、あるんじゃないの?」
「ああ、そうだねえ。そうだ。式神ってね、生涯に四体までしか契約ができないんだけれど」
坂野は花江にぐっと顔を近づける。赤い瞳に花江の姿が映し出される。すっかり毒気を抜かれた顔だ。これでは、もう今後は呪詛代行だなんて、そんなこと、できっこない。
少なくとも、『当分の間は』呪詛にかかわりたくないと花江は思った。
「『呪詛るん』、『呪詛返すんです』、『呪詛探索アプリ』。これが今、この世界にある、僕の契約した式神なんだけれど」
坂野は指を三本立てて、花江に説明する。
「それともうひとつ。僕は式神と契約済みでね」
「もったいぶらないでよ」
「そう言わずに。それで、その式神っていうのが、『冥界の王』ってわけ」
坂野の指が、四の形を作る。
花江は首をかしげる。冥界の王、聞いたことがない。
「冥界の王との契約はこうだ。僕の命と引き換えに、この世界から『霊的干渉』を消し去る」
「え……? でも、それができてないってことは、坂野さんにもなんらかの事情があるんでしょ」
「よく気づくね。そう、僕は不老不死だ。だからこそ、冥界の王はそんな大それた僕の願いを聞き入れたのさ。そもそも、僕が死ねば契約した式神は無効化できるんだけどね」
口調からすると、坂野の話は信じがたい。だがしかし、現状、坂野が呪詛るんの式神に対抗できていないのもまた事実だ。この話は飲み込まざるを得ない。
しかし、納得いかない、花江はそんな顔をしている。
「呪詛るんの式神、彼女は短期間にひとの悪意を大量に食らいすぎてね。僕の手には負えなくなった。あまつさえ、彼女を始末しようとした僕は、逆に不老不死の呪いをかけられてしまった」
相変わらず花江は納得いかない様子である。
百歩譲って、坂野が不老不死で、呪詛るんの式神に呪われたことは認めよう。
そして、そんな不老不死の坂野が死ねれば、呪詛るんは自然消滅する。
だというのに、霊的干渉そのものをなくす必要があるのだろうか。
無理難題を押し付けているだけのように思う。坂野の存在を殺す方法など、この世界には存在しない。だからこそ、冥界の王はそんな口約束ができたのではないか。
それでもきっと、坂野は希望を持ちたかっただけなのかもしれない。自分の行いを悔い改める機会を、作りたかっただけかも。
「君みたいな人間がいるからだよ」
まるで見透かすかのように、坂野が笑った。
「私が……?」
「そう。君みたいな霊力の高い人間の呪詛がね、『彼女』――『呪いを運ぶ式神』を助長してしまうんだ。僕が契約するまでもなく、彼女は常に人々の生活に溶け込んでいたからね。だから僕は、この世界から霊的干渉をなくす必要がある」
坂野はたてていた四本の指を引っ込めて、その手を自分の胸の前に持ってくる。そうして人差し指と中指を立てると、花江にもう一度、笑いかけた。
「呪詛るんを使う使わないは君の自由。だって、呪詛るんを作った僕に説教されたって、なんにも響くわけないと思わない?」
それは暗に、花江と坂野が『同類』だといっているようで、花江には居心地が悪かった。
しかし、現に花江は、呪詛るんを悪用した。金儲けに使ってしまった。もしかすると、花江が知らないところでひとを殺していたのかもしれない。
そうでなくとも、たくさんのひとを不幸にして悲しませたことには変わりない。
罪悪感、というものは、誰しもが持ち合わせているのだと、花江は今この時に気づいた。
奇しくもそれは、坂野の言葉によってである。
自分は運がよかっただけだ。坂野は運悪く式神に呪い返された、花江は運よく坂野に助けられた。
ただ、それだけだ。
「約束はできないけど」
消えゆく坂野に、花江は小さな、か細い声を振り絞る。
「私はもう、呪詛るんは使わない。呪詛返すんですも、呪詛探索アプリも。それから」
坂野がかすかに笑う。
自分と同じ過ちは犯すな。そんな表情にも、安堵した表情にも見える。
「呪詛るんのレビューに書いておくよ。『呪詛るんなんて使うべきじゃない。使ったら後悔する』って」
「そうかい。それは助かるよ。助かるついでに、ひとつ頼んでもいいかい?」
うっすらと、もう坂野の輪郭は見えない。だけれど、声だけははっきりと聞こえる。花江はその声に耳を傾ける。
「呪詛るんに、僕の名前を書いてほしいんだ。できれば毎日」
「……ごめん、それはできない。私はもう。呪詛るんとかかわりたくない」
「……そういうと思った」
最後は笑っていたのだろうか、花江にはもう、わからない。
自身の死をもって、契約式神を無効にする。さらに、冥界の王との契約で、坂野の死により霊的干渉をこの世界からなくす。
そんなこと、本当にできるのだろうか。花江はとうとう、その疑問を聞くことはできなかった。
果たしてそれが、花江と坂野の最後の言葉となった。花江はその後、呪詛から足を洗った。けれど、花江の罪はきっと一生許されない。坂野と同じように、一生をかけて償っていくものなのだ。
花江は生涯、罪も、坂野の言葉も存在も、忘れることはなかった。
きっと今も、坂野は呪いをたどって、自身の死のために、犯した罪を償うために、どこかで誰かを助けているのだろう。
第五章 呪詛返し
ねえ知ってる? ある芸人さんの手記なんだけど。一時期バカ売れしたのに、芸人さんが病んでしまって、その手記は嘘まみれの滅裂思考が書かれてるって絶版になったんだって。私も噂しか知らないけれど、その芸人さんって敵も多かったらしいから、そのストレスでおかしな手記を書いてしまったのかもね。
それが呪詛だということは、端からわかりきったことだった。
毎日、彼は少女に憑りつかれている。背中にぎゅっとしがみつく少女は、子泣き爺よろしく徐々に徐々に体が重くなる。
最初は疲れているのだと思っていた。こんな幻覚を見る自分はおかしいのだとも。
しかし、どこで検査を受けても自分に異常は見つからないし、なんなら精神科の薬も飲んでみたが、まるで効果がない。それどころか薬の副作用で死ぬ思いをしたため、彼はこの少女が、『呪い』なのだと思うしかなかった。
そうだとして、自分を呪う人間など、彼には心当たりが多すぎた。なぜなら彼はテレビ番組でも引っ張りだこの、今が旬のタレントである。
とあるギャグがヒットして、いまや冠番組も持つほどであるし、だからこそ、この少女をどうにかせねばと必死である。
「呪い、ですね。背中に少女がしがみついている」
そう言われたのは、大分由緒ある神社の神主にである。どうもその神社は、『安倍晴明』の子孫らしく、細々ではあるが、それを生業として生計を立てられるくらいである。
だからといって、その神主には、その呪いを解くことは不可能であった。なぜなら、呪いを解く方法はふたつ。
呪詛返しをするか、丑の刻参りをやめさせるか。
彼はそこまでの情報を得ていながら、少女をどうすることもできなかった。できないながらも、有力な情報を得ていた。それが、『坂野弘彦』という人間を探せ、ということであった。
坂野弘彦が何者なのか、教えてくれた神主に問うも『それはお答えできません』その一言だけでそれ以上は聞き出せなかった。
だから彼は、毎日、毎朝、毎晩。
坂野弘彦という男を、心の中で呼び続けた。
シャララ。
鈴の音が聞こえる。八月に入った、蒸し暑い夜のことである。
熱帯夜が続いていたというのに、今日の部屋は冷房なしでもひやりとしているくらいであった。
彼はドキドキと鼓動を速める。聞いた話と同じだ。坂野弘彦、彼は鈴の音とともに現れる、風変わりな男である。
シャララ。
もう一度、彼の部屋に鈴の音が響く。
そうして、
「う、わ!?」
ふわっと彼の目の前に現れたのは、まぎれもなく彼、『坂野弘彦』である。その風貌は、神主に聞いていたものと寸分もたがわない。
くたびれた顔に、年のころは二十代そこそこ。
白い和服のような衣装を身にまとい、首からしめ縄をネックレスのようにぶら下げて、その先端には大きな鈴。
しめ縄は本来神聖なものだ。そのしめ縄を自身にぶら下げるということは、自身を神格化し、この世から隠すための結界のひとつなのだと、神主が言っていた。
なるほど、こうやってふらりと人々の前に現れて、そうして呪われた人間を助けて回っているってわけか。
「坂野弘彦、なのか?」
確認するように、彼が言う。
「大井円くん。僕を呼んだのは君だね? うるさくってたまらない」
どうやら、彼――円が、毎日毎日坂野を呼んでいたことは、坂野も知っていたようだ。知っていたのなら、もっと早く助けに来てくれればいいものを。
「まあ、実家からの命令とあらば、出向くほかないんだけど」
「え?」
「いや、こっちの話。それで、そうかい。君もなかなか、難儀な仕事をしているねえ」
ほうっと息を吐く坂野に、円はこてんと首を傾げた。
坂野が右手を胸の前に掲げる。そうして人差し指と中指を立てると、ごうっとその場に炎が上がった。
赤い炎だ。そして、その炎の中心に見えるのは、あの少女だ。円の背中に乗っかって、毎日毎日円の邪魔をする、あの少女。
炎の中心にいる少女の表情は、戦々恐々とするものであり、円は思わず目をそらした。
ごうっと赤い炎が円を囲む。そうして炎に人間の顔が浮かび上がって、口々に円を侮蔑する。
『調子に乗るな』
『殺したい』
『一発屋のくせに』
『なんでオマエみたいなヤツが』
『許さない』
『消えてなくなれ』
顔は浮かんでは消え、消えては浮かぶ。数百体、いや、数千体は固いであろうその数は、円がいかに強い呪いを受けているかを物語っている。
円はカタカタと震え、耳をふさぐ。
「坂野! この呪いをどうにかしてくれ!」
しかし坂野は、乗り気ではない。数が多すぎるのだ。それに、この人物とはできればかかわりたくなかった。
スキャンダルまみれのタレントだ、女遊びをしたり、他人を平気で傷つけたり。時にはライバルを蹴落としたりと、これではいくら呪詛を祓っても、きりがない。
それに、現状円の呪いは、命にかかわるものもない。あるひとつを除いては。
「大井円くん。僕が君の呪いを解くことは不可能だ」
「……は? はあ? じゃあなんで俺の前に現れたんだよ」
円は不遜な態度で坂野に言い返す。坂野はやれやれと肩をすくめた。こういう人間が一番たちが悪い。助けてもらって当たり前、だけれど自分は他人を助けようとは少しだって思わない。
自分勝手、身勝手な人間が、坂野は嫌いだ。助ける価値もないと思う。だからこそ、なかなか坂野は円のもとを訪れなかった。坂野だって面倒だと思う人間はいる。
「坂野さん、金ならいくらでも払う。俺の呪いを解いてくれ」
「だから。僕は呪いを解くことはできないんだってば。だから代わりに、ふたつの方法を提案しに来た」
坂野はパチン! と指を鳴らす。すると、今までごうごうと上がっていた炎が消えて、そこには少女がぽつんと、円の目の前に立っているのみになった。
『アンタ、アンタは本当に呪いがいがある。こんなにたくさんの人間に呪われて。アンタの傍にいたら、私は『人間の悪意』には困りそうもない。だからねえ、坂野じゃなく、私を選びなよ?』
少女の口が、耳まで裂ける。
円はブルリと身震いして、坂野のほうをにらみ見上げる。
「いいから、早くコイツをどうにかしてくれ」
「あーもう。だからね、この呪いを解くは、呪詛返しするか、呪詛主の丑の刻参りを終わらせるしかないんだよ」
言いたくなかった、そんな雰囲気をにじませながら、坂野はぼそぼそと円に告げる。みるみる円の顔色が明るくなる。迷いは一切ないようだ。
円は立ち上がり、坂野に詰め寄る。
「『呪詛返し』一択だな。それで、坂野さん。呪詛主のことや呪詛返しについて、もう少し詳しく聞かせてくれ!」
坂野の手を取る円を見て、傍にいた少女がかすかに笑う。
かと思えば、高笑いしておのずから姿を消していく。
『あはは、あははは。坂野、馬鹿だねえ。オマエは本当にお人好しの馬鹿だ。大井円、また会おうね?』
少女はうっそりと円の顔を見つめながら、消えていった。
しかし、円はそれどころではない。呪詛返しの方法を聞くのに精いっぱいである。
「呪詛返すんですってアプリがあって。それに名前を書き込めば、君の呪いは呪詛主に返るけれど」
「そうか、じゃあそのアプリをインストールする。それで、俺を呪ってるヤツの名前は?」
前のめりに聞いてくる円に、坂野はうげえっと舌を出し、げんなりした様子である。
しかし、答えないわけにはいかない。坂野はいつも、『呪われる側の人間』に、『呪う側の人間』の情報を与えるようにしている。それがフェアだと思うからだ。呪う側だけがその人物の名前を知っているのはいささか不公平。
だから坂野は、呪われる側の人間にも、呪詛主の情報を与えるのだ。そのうえで、呪われる側の人間がどんな選択をするのか、そこから先は本人次第である。
とはいえ、円のようなタイプはまれだ。呪われる側の人間は、往々にして『気が弱い』。優しいとも言い換えられるが、坂野はそういう人間の弱さが嫌いでもあり、好ましくもあった。
けれどきっと、この大井円という人間は、『それ』をなんなく使うだろう。
「君を呪った人間は多すぎてなんとも。ただ、君を苦しめている呪詛をかけている人間の名前なら、教えてあげられるけど」
「なんだよそれ、全員の名前を書かなきゃ、また俺が呪われるだろ」
「いいや。『普通の人間』であれば、その呪詛は微々たるものだよ。蚊に刺される程度の呪詛力しかない」
それを聞いても、円はやや不満げである。本当に厄介な人間だ。
しかし、呪われた人間には変わりない。この人間がどんな判断を下すにせよ、坂野の知ったことではないのだ。
「君を苦しめているのは、主に『森野花江』。彼女の呪詛だよ」
「森野花江……そいつは、俺のアンチかなんかなのか?」
「いいや。彼女はただの呪詛代行。ひとつ付け加えると、まだ十七歳の分別のない子供だよ。君以外にも、現在進行形で三人の人間に呪いをかけている」
しかし、後半は円の耳には入っていない。さっそくアプリを起動した円は、『森野花江』の名前を打ち込んでいる。
「これで、丑三つ時に五寸釘を打ち込めば、呪詛返しは完了なんだな?」
「……僕が説明するまでもなかったね。そうだね、あとはご自由に」
「ああ、助かった。それに、呪詛るんが本物だってこともわかったしな」
本当に辟易する。
坂野は円の家から姿を消しながら、憂えるように円を見ていた。円の傍には、あの少女の姿が。嬉々とした表情で、円を見ている。
丑三つ時。円は呪詛返すんですを起動して、そうして坂野から知らされた呪詛主の名前を書き込んだ。ほうっと辺りを青白い光が包み込む。
『ほんと、嫌になるわ』
「うわ!?」
あの、少女である。坂野とともに昼間に現れた、あの呪いの少女だ。円が恐れ一歩引いたところで、少女は円にふと笑いかけた。
『大丈夫、私は妹とは違うから』
「妹?」
『そう。呪いを運ぶ式神、と言ったらわかるかな?』
なるほど、似ていて当たり前だ。少女は呪いを運ぶ式神、の双子の姉。ふたりは本来ふたつでひとつ。それが、坂野によって覆された。妹の式神の暴走は、姉にとっては不本意極まりないものらしい。呪詛返しの式神の少女が、円の呪いを両手で包み込むようにして取り去った。
『主のもとへ帰りなさい』
式神が言えば、青白い光――呪いだ――がふわっと宙に浮いて、そして間髪入れずに現れたのは、少女と瓜二つの顔、例の呪詛を運ぶ式神である。
『あはは。大井円。アンタは本当に呪いがいのある人間だ』
「……なんでオマエが」
『坂野から聞いてないの? まあいい。でも、覚えておいて』
呪いを運ぶ式神が、うっそりと円を見ている。呪詛返しの式神のほうは、渋い顔だ。
なにが自分たちを別けたのだろう。坂野の存在だろうか、人間の業だろうか。
『呪詛返しされた呪いを運ぶのは、私のほうだ。姉の能力は呪詛を跳ね返すだけ。だから、アンタがもっとも信頼すべきは、私のほう』
「信頼……」
『そうだ。呪われるくらいなら、最初から呪えばいい。それでも呪われるなら呪詛返しを。世のなかなんて、そんな風にできているって、アンタもよーく知ってるでしょう?』
あはは、うふふ。
呪いを運ぶ式神が、すうっと姿を消していく。あの少女は、毎晩円を苦しめていた、正真正銘の呪いだ。その少女を受け入れることなど、普通の人間では不可能だったに違いない。けれど円は違った。
「そうか、そうだよなあ」
その日から、円は呪詛るんを手放せなくなった。
呪われる側が『いい人間』とは限らない。時には呪う側よりも悪意に満ちた人間だっている。
もしもそんな人間を呪ってしまったら、その人間が呪詛返しの方法を知ってしまったら。
坂野はそうそうに『たんさくん』に頼んで、彼女の居場所を探し出す。『森野花江』。彼女は多くを呪いすぎた。
無差別に呪いすぎた彼女は、もしかすると坂野のせいでしっぺ返しを食らうかもしれない。それはそれで、自業自得だと思う。坂野自身がそうであるように、森野花江もまた、十分な罰を受けてしかるべき。
だけれど、坂野にはそれができない。呪われる側はもちろん、呪う側も救済したい。そうでなければ、呪詛るんを作り出した坂野の贖罪は、未来永劫終わらない。
呪詛返し、呪詛。どちらも他人を呪うことに変わりはないというのに、呪詛に比べて呪詛返しのハードルははるかに低い。
目には目を、歯には歯を。呪いには呪いを。
命に係わるものだけに、呪詛返しの道を選んだ人間を、坂野は責めることができなかった。
とあるテレビ番組で、円が不敵に笑っている。
「大井さん。最近ますます毒舌が加速していますが、アンチとか怖くないんですか?」
「アンチ? そんなの怖がっていたら、この仕事やってられないですよ。それにね、知ってます? 呪いって、存在するんですよ」
今日もまた、呪いが呪いを生み出す。
坂野はまた、新しい呪いを探し出し、そうして呪いに対峙する。いつか自身が死ねるように、いつかこの罪が許されるように。
幕間 呪いをかけた陰陽師
今までの話をまとめると、つまり彼の生い立ちにたどり着く。彼は何者で、誰だったのか。とある記録が神社に残っている。僕が権威ある研究者だから、読むことだけは許された。他言はしないようにと念を押されたが。だから、公にはできないけれど、せめて日記にしたためることは許されたい。一度読んだだけだから、記憶違いもあるだろうけれど。僕が読んだ話は、以下の通りだ。
まれな才能を持った少年であった。坂野弘彦と名付けられた彼は、陰陽師の家系の跡取りとして、大切に、しかし英才教育を受けながら、すくすくと成長していった。
陰陽師の家系といっても、誰もが彼のような才能を持って生まれる訳ではない。遡れば平安の世には、安倍晴明を筆頭とする陰陽師が活躍したのだが、今はもう昔の話だ。彼の才は希少なものであったし、彼もそれは理解していた。
彼が十七の時のことである。
坂野はこの世界にずっと疑問を抱いていた。学校では、『やーい、陰陽師の跡取り!』と馬鹿にされ、クラスメイトがけがをすれば、『坂野の呪いだ!』と教師に隠れていじめられた。
家の外で陰陽術を使うことは禁止されていた。だから坂野は、その言いつけをずっとずっと、律義に守って、誰も傷つけないように生きてきた。
けれど、思春期に入って、それは崩壊した。
陰陽術を使える自分こそが正義で、なにも力を持たない人間は、ただただ自分にひれ伏せばいい。
たぐいまれなる霊力を持っていた坂野は、必死にアプリの勉強をした。
そうして、自身で開発した最初のアプリ、『呪詛るん』に、『呪いを運ぶ式神』を使役できる契約をした。契約条件は、『ひとの悪意を食らう』ことである。
しかして、呪詛るんは開発からものの数日でユーザーが一億を超えた。毎日、少しずつ、あるいは多大な悪意を、『呪いを運ぶ式神』は食らった。
式神の制御が利かなくなるまで、そう時間はかからなかった。
式神は本来、自分より力が弱いものと契約する。万が一式神が暴走した場合、自身の手で滅することができるようにだ。
しかし、その式神はひとの悪意を食いすぎた。もはや、坂野の手に負える代物ではなくなっていた。それどころか、式神を滅しようとした坂野は、逆に式神によって呪いをかけられた。こんなことは前代未聞である。
そしてこれは、式神がどれだけ多くの人間の悪意を食らってしまったかを物語るには十分な出来事であった。
不老不死の呪いをかけられた坂野は、当然家からも勘当されて、行くあてもなくなった。そもそも、不老不死であるため、死に場所さえ失った。
式神の力を弱める必要があった。
坂野が次に開発したのは、『呪詛返すんです』である。
しかし、このアプリは思いのほか世間に浸透しなかった。呪詛返すんですが浸透すれば、呪詛るんのユーザーが減ると踏んでいたのだが、その期待は見事に外れた。
それどころか、呪詛るんがますます力をつけていき、もはや坂野に残された方法は一つしかなかった。
呪詛るんの式神より大きな力を持つ式神と契約して、この世界から霊的干渉をなくす。
坂野は調べに調べて、ようやく『冥界の王』との交渉に持ち込んだ。しかし冥界の王は、無理難題を坂野に押し付けた。
霊的干渉をなくすことは可能。だが、引き換えに坂野の命を所望したのだ。
「馬鹿げてる! 僕が不老不死の呪いをかけられたと知っていて、そんなことを言うのですか」
「そんなことはない。私は単純にオマエの命が欲しい。しかしそうか、オマエは不老不死なのか」
にたりと笑う冥界の王の魂胆なんて見え見えだ。人間と契約すれば、人間の悪意が食える。
それが、呪詛るんほどでないにしても、式神にとって人間の悪意はなによりのごちそうだ。坂野を飼い殺しにして、人間の悪意を食うだけ食う。坂野は不老不死であるから、それこそ半永久的にそれを食らうことができるという魂胆だ。
「そうだ、オマエ自身に呪いを掛けたらどうだ? あのアプリに、何億人、あるいは、呪詛力の高まった人間が書き込めば、オマエもきっと、死ねるのではないか?」
一理ある提案である。しかし、保証はどこにもない。
だけれど、坂野には考える余地すらない。この契約をなんとしても成立させたかった。冥界の王ほどの式神が、今後坂野の前に現れることなど、この機会を逃したら二度とないかもしれない。
「わかった、それで契約を成立させよう」
「うむ。それから、私にもくれるのだろう? 人間の悪意を」
「……僕に向けられる悪意でいいのなら、微々たるものだけれど、その悪意を代償にあげよう」
「それだけか? オマエが私に差し出すものは。それっぽっちでこの世界から霊的干渉という理をなくせと?」
後付けの条件を提示され、坂野はやや不服そうに冥界の王をにらみあげた。しかし、冥界の王はなにくわぬ顔である。
坂野はふうっと息を吐き出す。
「僕のこの霊力の五割をアナタにあげよう」
「五割……それだけか?」
坂野が逆らえないのをいいことに、冥界の王がつけあがる。しかし、坂野はなんとしても契約をとりつけたい。
「六割」
「八割だ」
「七割。それ以上は譲れないね」
一瞬の沈黙ののち、冥界の王が豪快に笑った。
「よかろう。小僧、その度胸に免じて、七割で妥協してやろう」
そうして契約は成立し、坂野は三割の霊力しか使えなくなった。それでも坂野には、通常以上の霊力が残っている。『なけなしの』三割の霊力は、普通の陰陽師の何倍にも及ぶ。しかし、陰陽師の力とは、式神の使役によるものがほとんどである。例外として、坂野は呪詛を行った人間に、呪詛の対象者の人生を追体験させること、それから、ほんの僅かばかりの呪詛を跳ね返す呪符を作ることができる。坂野はそれだけ稀有な存在だった。
ただし、坂野が急に消えて現れるのは、陰陽術でも霊力でもない。坂野自身が呪われてしまったため、この世界のものではなくなってしまったからだ。だから坂野は、自分の好きな時に現れ、消える。その存在は式神に近しいものなのかもしれない。応用で、坂野に手を取られた人間もまた、ひとから見えなくすることができる。
陰陽師にとって式神との契約は、その能力と言っても過言ではない。それを承知で、坂野は冥界の王との契約を結んだ。その時点で坂野が契約できる式神は残りあと一体になっていた。ゆえに、坂野が最後に契約した式神は、『呪詛探索アプリ』の、『たんさくん』である。
たんさくんは、長い間坂野の相棒として行動を共にしてきた、冥界で言う『犬』である。温厚な性格で坂野になついていたため、彼はひとの悪意という見返りを欲しなかった。
呪詛るんは広まる一方で、『呪詛返すんです』も、『呪詛探索アプリ』も、まるで浸透しなかった。
だが、そもそも坂野が『たんさくん』と契約したのは、『呪うひと』と『呪われるひと』をたどり、自らの手でその呪いを絶とうと決めていたからだ。
その過程で、少なからず坂野はひとの悪意を受け取る。それは、『呪詛るんを開発した』ことに対する怒りや侮蔑である。
それでいい、と坂野は思う。冥界の王への餌にもなるし、自身への戒めにもなる。自分を許さないでくれ、と坂野はいつも心の中で願っている。
呪詛に負けた坂野のことを、自分の弱い心に負けた坂野のことを。誰も許さないでくれと坂野は願う。
そうして今日も、坂野は呪いをたどって、見知らぬ誰かを、呪われた誰かを助けんと、不死のときを過ごすのだ。
二、依り代の章
第一章魔術師
とある呪いの物語は、一時期しずまったかに思えた。それがまた動き出したのは、とある若者の誕生に起因する。それは僕のおじいさんであり、君のおじいさんでもある。彼はいつかの僕らで、僕らはいつかの彼なのだ。
最近巷で噂になっている。呪詛るんというアプリは本物だと。それを信じるに至った人間は、決まって同じ言葉を言う。
「見たんだ! この目で魔術を!」
少年は嬉々とした表情で友人に力説する。その手には、どこかの民芸品なのか、不格好な人形のストラップが握られていた。
「でもよお、なあ?」
「だよな。魔術なんて今どき非科学的だろ」
しかし、友人らが少年の言葉を信じる気配はない。少年はむっと口を結ぶも、友人たちは少年の言葉など聞いていなかったかのように話題を変えた。
「それよかさ、昨日のテレビ、見た?」
「見た見た! 宇宙人とかロマンだよなあ」
なにがロマンだ、少年は思うも口には出さなかった。少年は人形をぎゅっと握りしめて友人たちの輪から外れていった。
放課後になると、少年はとある場所に向かった。この地域では誰も寄り付かない廃墟だ。昔そこにはたくさんの外国人の貴族が住んでいたらしい。しかし、時勢柄外国の人間は日本人に差別され、いつしか人々はその屋敷の人間を迫害し、それどころか虐殺したのだと、そういういわくつきの廃墟である。
廃墟ではあるのだが、その外観は今もきれいなままで、それが余計に不気味さを増幅させる。
少年がその廃墟を訪れたのは、肝試しの一環であった。少年は幽霊や魔術といったたぐいのものを信じている。友人には公言していなかったが、ひそかにそれらを調べ上げ、証拠をつかみ、そうして少年はいつか友人に霊的存在を認めさせようともくろんでいた。
だからこそ、この廃墟に足を向けたのだ。
「また来たのか」
「エドガーさん!」
エドガーと呼ばれた青年は、見るからに『怪しい』身なりだ。黒い服に身を包み、外套をまとったその風貌は、きっと外国の人間であること以上に彼を好奇の目にさらすだろう。
しかしエドガーはなに食わぬ顔で、少年を迎え入れた。
「学校のひとたちにこの人形を紹介しようと思ったんだけど、誰も相手にしてくれなくて」
「そりゃあ災難だったな。でもそうか、そうだよなあ」
にやにやと笑いながら、エドガーは少年を見た。まるで分っていたとでも言いたげに、どこかからかい交じりの表情だった。
「だから私は言ったんだ。どうせそこらの見る目のない人間には通じないって」
「でも、俺はエドガーさんの魔術をこの目で見たし」
「君くらいだよ、幸喜。私の魔術を信じるのも、私の屋敷を訪れるのも」
エドガーは少年――幸喜の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。まるで子供のような扱いに、幸喜は憤慨するも、この魔術師に逆らうつもりはない。
幸喜が抱くこの感情は、あこがれと畏怖と、それから尊敬だ。
エドガーの魔術が本物かはさておき、幸喜にとってそれは大きな問題ではない。とはいえ、幸喜はエドガーの魔術を信じて疑っていないのも事実である。ゆえにこの『ストラップ』をクラスメイトに信じてほしかった。
「この依り代、本当に効果あって」
「だろう? 私の目に狂いはないからね」
「エドガーさんって、この廃墟の管理人さんなんですよね」
「ああ、そうだが?」
流ちょうな日本語に最初は驚いたが、今はさほど驚かない。エドガーはきっとこの国で生まれた在日外国人に違いない。聞いた話によればこの廃墟は、もう百年も前に作られたらしい。しかし、住人は惨殺されたと聞いているから、エドガーはきっとその親戚かなにかに違いないと幸喜は勝手に思っている。
「依り代があれば、呪詛るんも呪詛返しも、なにもこわいものはないからね」
「その、呪詛るんって、もしかしてエドガーさんが作ったんですか?」
「まさか。私にはそこまでの素質はなかったよ。だからこそ、その開発者に聞いてみたいね」
なにを、とは聞けなかった。ほうっと宙を見るエドガーの表情に、正直に言えばぞっとした。幸喜にとってエドガーが憧れであるように、エドガーにとってはその呪詛るんを開発した人間は、神にも等しい存在なのだろう。
「いいものをあげよう」
ふっと、エドガーが幸喜を手招きする。
「なんです?」
言われるままに幸喜がエドガーに手を差し出す。そこに乗せられたのはなにか魔法陣のようなものが書かれた札である。よもや、と幸喜は生唾を飲み込んだ。
「それは私の魔術が込められた魔法陣だ。それに手をかざして、呪文を唱えるんだ。そうすれば、魔法陣の真ん中から、悪魔が顕現されるから」
「悪魔が……で、でも、俺には扱えないんじゃ」
「まさか。大丈夫、低級の悪魔さ。時間がたてばすぐに消える」
エドガーの言わんとするところはすぐさま理解した。これを幸喜の友人の前で使って、なんとしても魔術の存在を信じさせろというところなのだろう。そして、友人たちに『ストラップ』を信じ込ませて、ぎゃふんと言わせてやれ。そういうことなのだろうと幸喜は理解した。
しかしながら、意図をくみ取っていても幸喜が浮かぬ顔なのは、幸喜が魔術の存在を熟知しているからこそである。素人が魔術に手を出せば、逆に悪魔に呪われるか、あるいはなんらかのペナルティが課せられるか。
いくら友人を見返すためとはいえ、気が進まないのは当たり前だ。霊的現象を信じているならなおのこと。
「無理にとは言わない。けれど、そうだ。その魔法陣は幸喜にあげよう。お守りに、ね?」
エドガーの言葉に逆らえなかったのは、幸喜のなかの好奇心のたまものだろう。いつの時代も人間は、おのれの好奇心には勝てないものなのだ。
翌日、幸喜は凝りもせず友人たちに魔術のなんたるかを説いていた。友人たちは「またか」といった反応であるが、幸喜は真剣である。
「だから、あの廃墟に本当に魔術師がいるんだって」
「それは何回も聞いた。でも、俺の親父があそこの管理者の知り合いがいるけど、あの廃墟に住人なんていないって言ってたし。おまえ、狐に化かされてんじゃね?」
「あははは、言えてる。オマエっていつもぼうっとしてるもんな」
笑われたことに憤慨する。今までだってずっとそうだ。友人たちが幸喜の言葉を信じてくれたことがあっただろうか。いや、そもそも、はなから馬鹿にされている。スクールカースト下位の幸喜にとって、学生生活は窮屈この上なかった。
だが、もしもここで自分が魔術の存在を証明できたら?
幸喜はカバンに大事にしまっていた魔法陣を取り出した。魔法陣の意味なんて分からない。どんな悪魔が出てくるのかも。それでも、幸喜は知っている、これは本物の魔法陣で、そして悪魔を召喚するまじないも、あのエドガーに教えてもらった。使う気がないと言っておきながら、幸喜は昨日の夜一晩かけて、そのまじないを暗記した。
「なんだなんだ? それっぽいもん出して」
「むきになりすぎなんだよ。オマエがそんなオカルトだとは思わなかった」
友人たちはあからさまに幸喜を馬鹿にし始める。ますます追い詰められた幸喜に、もう迷いなんてなかった。
魔法陣に右手をかざし、幸喜はまじないを唱えた。
「――出現せよ、我が名において!」
唱え切ると、先ほどまで幸喜を馬鹿にしていた友人たちが、ほんの少しだけ好奇心に満ちた目を幸喜に向けた。
鬼が出るか蛇が出るか。
固唾をのんで見守る三人の前に。
ぼぼ、ぼぼぼ!
魔法陣の真ん中に火花が散って、ずるる、となにかが這い出てくる。その『なにか』は次第に姿を現し、大きくなり、大きく、大きく、大きく――
『我を呼ぶは貴様らか?』
やがて幸喜たちなんかよりはるかに大きな悪魔が、幸喜たちの目の前に現れた。びりびりと空気が震え、いつの間にか三人は、教室ではないどこかにいる。
「な、なんだよこれ。幸喜、幸喜、ここどこだよ」
「ちょ、え。待って。エドガーさんの話では低級って……」
「おい、なんとかしろよ、幸喜!」
友人と言い争いになる。どうにかしろって言ったって。
幸喜の足が震える。きっとこの悪魔は、人間の魂を要求してくるような、そんな邪悪な悪魔に違いない。素人の幸喜がどうこうできる代物ではない。
あたふたするも、なにも策が浮かばない。そもそもここはどこだ。
「え、エドガーさん! 助けて!」
「だから、そのエドガーってのが悪いやつなんだろ!」
「悪い人じゃない。エドガーさんはただ……」
ただ、そうだ。幸喜は思い出す。エドガーはただ、この『ストラップ』を普及させたいだけだと言っていた。エドガーの夢だと。なにがエドガーを突き動かすのかわからないが、きっとこのストラップには、それほどの価値があるに違いない。
そして、この事態を収拾するには、このストラップを信じるほかに道はない。
『我を償還したからには、それ相応の代価を』
「こ、これを見ろ!」
幸喜がストラップを悪魔にかざした。エドガーにもらった十個全部だ。民芸品の不格好なストラップ、エドガーが言うにはそれは『依り代』なのだという。本人に訪れるはずの災いを肩代わりする、それが依り代なのだとエドガーは言っていた。
その依り代――持ちうるすべての依り代を、幸喜は悪魔に投げつける。
『くっ……これは……!』
悪魔の様子が一気に変わる。しなしなと体が縮んでいき、魔法陣のなかに吸い込まれていくのだ。しかし悪魔もただでは帰らない。もがいてもがいて、やがて逃げ遅れた幸喜の足をがっしりとつかんだ。
『道連れだ、我ひとりで帰ってなるものか』
「ひ、た、助けて!」
しかし、友人ふたりは幸喜を助けようとはしない。むしろ、早く悪魔とともに消えてくれと言わんばかりの目を向けられた。なんなんだ、友達だろ、友達じゃなかったのか。いや、自分だって同じ状況に置かれたら、同じ対応をとるに違いない。
死を覚悟した。もしかしたら死より重い罰を受けるかもしれない。興味本位で悪魔なんて召喚してはいけなかったんだ。誰もがあきらめかけたその時だった。
シャラアア。
どこからともなく音が聞こえる。鈴の音だ、神社の祠にあるような、そんな清んだ音色である。とうとう耳がおかしくなったのだろうか。幸喜が乾いた笑みを漏らす。
「やんなるよね。本当に」
幸喜の声でも、友人たちの声でも、ましてや悪魔の声でもない。その声が聞こえたのと同時、幸喜は悪魔の手から離れ、あたりは凪いだ。悪魔は魔法陣のなかへと消えて、景色が教室へと移り変わる。放課後の誰もいない教室に、三人は、いた。
「え。え……?」
幸喜の腕をしっかりと握る青年に、幸喜は目を丸くするばかりである。
「依り代をあんなに使ってさ。さすがの僕も、見過ごせないよ」
「なん、誰……」
「僕かい? 僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なのだけれど」
ひょうひょうとした青年に、幸喜がやっと意識を現実に引き戻す。ばっと坂野を振りほどいて、その場に構えて坂野を威嚇した。
「誰です? もしかしてさっきのも、アンタの仕業じゃ」
「やだな。自分の失態をひとのせいにするの?」
「……じゃあ、アンタはどうして俺たちを助けられたんだ? そのそもアンタはあの場にいなかったはず。どこから現れた?」
「質問が多いね。でも、そうだな。君たちが使った依り代。それにちょっと困らされていてね」
坂野がやれやれと肩をすくめた。依り代のことを知っているとなれば、やはり『そっちの』人間であることは確実だ。幸喜はますます坂野から距離を取る。友人たちは腰を抜かし、ただただ坂野と幸喜のやり取りを見るばかりだ。
「依り代ってね。呪いとおんなじなんだ。使えばそこには式神が使役されるんだけど」
パチン、と坂野が指を鳴らす。するとどこから現れたのか、そこには少女がいた。おかっぱ頭で赤い着物を着た少女が、幸喜の周りをらんらんと走り回っている。
「な、なん……」
「この子は呪いを運ぶ式神。『呪詛るん』って知ってるかい?」
「呪詛るん……!」
エドガーから聞いた、あのアプリのことだ。そもそも、エドガーに聞くまでもなく、今を生きる人間なら一度は聞いたことがある。七不思議のひとつとされているくらい有名なアプリだ。それが、この男となにか関係があるのだろうか。
「この子は呪いを運ぶ式神で、使役すればするほどひとの悪意を食べて力を増すんだ。僕はこの手でこの式神を抹消したい。だから、力を与えられると困るってわけ」
「……なんで、なんでアンタはこの式神を消したいんだ」
どっど、と心臓がけたたましく鳴り響く。心のなかは疑問でいっぱいだった。もしかして、エドガーはこの男を呼び寄せるために自分を利用したのではないか。悪魔を召喚すれば、坂野が幸喜を助けに来ると。だが、もし助けに来なかったときはどうするつもりだったのだろう。
ぞっとする。命がいくつあっても足りない。もう嫌だ。魔術だの式神だの。そんなもの、もう信じてもらえなくていいから、だから早く、この非現実的な会話を終わらせたい。
「僕が呪詛るんを作ったから、だからこの式神が力をつけた。僕はこの世界から呪詛るんをなくす義務がある。それと」
坂野がその場に転がる依り代を拾い上げた。もうその依り代になんの力も残っていないのか、もらった時と違って本当に『ただの人形』にしか見えない。
坂野が人形をじっと見つめる。
「この依り代を作った人間を探してる」
「……! それなら、この町にある廃墟の、エドガーさんってひとが……」
「エドガー? 彼が?」
「……?」
坂野の眉間にしわが寄る。まるで知り合いの名前を聞いた時のような反応だった。そもそも坂野は『陰陽師』だと名乗っていた。ならば、きっとどこかで彼らにつながりがあってもおかしくはない。
「山田幸喜くん」
「……は、い……」
「今後はもう、依り代も魔術も悪魔も。それにエドガーのことも。すべて忘れて生きてくれないかな?」
「そのつもりです」
命がいくつあったって足りない。幸喜はもう、霊も魔術も依り代も、あのエドガーのことも忘れたい。ただひたすらに、平穏な暮らしに戻りたい。
スクールカーストがどうとか、友人がどうとか。それは自分の力でどうとでもできる。魔術を使えたからって、霊が見えたからって、幸喜の人生が好転するとはもう思えない。大切なのは、今の幸せを壊さないこと。
思春期のほんの迷いだ。他より目立ちたいとか、誰かより優れていたいとか。そんな見栄なんかもうどうでもいい。今は一刻も早く、この得体のしれない人間から逃げ出したかった。
「話が分かる人間で助かるよ。あと、そうだな」
坂野の姿が消えていく。すうっと半透明になって、幸喜を見て笑っている。
「ないとは思うけど、この話を誰かにしたりしないでね。混乱するから。まあ、そもそも信じてもらえないと思うけど」
坂野の姿が消えていく。幸喜はその場にへなへなと座り込み、やがて友人が這って幸喜のもとに寄り添った。
「幸喜、よかった、よかった!」
幸喜はこの時初めて、友人たちとの絆のようなものを感じることができた。
廃墟に人影がふたつ。
「サカノ! また会えるなんて奇遇だね」
「エドガー。まさかとは思ったけど、この騒ぎは君の目論見かい?」
「やだなあ。私はただ、アナタになりたいだけで」
「……僕に、じゃなくて、不老不死になりたいだけだろ」
坂野の冷たい目に、エドガーの口の端が上がった。
「わかっててあの子たちを助けるなんて、アナタもだいぶお人よしだ」
エドガーは外套を翻して、廃墟のシャンデリアを見上げて両手を広げた。
「私は死にたくない。むろん、老いることも。だから、私もあの式神――呪いを運ぶ式神の力が欲しい」
「無理だね。あの式神がどれだけの力を持っていたって、早々不老不死の呪いなんてかけられない」
「だからこそ、だろ」
だからこそ、エドガーは依り代を広めたい。依り代を使えば、そのひとにかけたられた呪いはある程度跳ね返すことができる。つまり、呪詛るんのユーザーを増やすのがエドガーの目的である。依り代さえあれば、他人を呪っても自分が呪詛返しで殺されることはない。そうすれば、あの呪いを運ぶ式神は、再びあまたの人間の悪意を食らい、力を増す。そこでエドガーがあの式神に頼むのだ。自分を不老不死にしてくれ、と。いや、もしかするとエドガーはすでにあの式神と取引をしているのかもしれない。あまたの人の悪意をささげる代わりに、不老不死の呪いをかける約束を。
「馬鹿げてる。君の思惑通りにはならないし、あの式神は僕が滅する」
「できるのかな? アナタはもう何年同じことをのたまっている?」
高らかに笑うエドガーをよそに、坂野は廃墟を後にする。
「せっかく久しぶりに会ったのに、もう行くのか?」
「君に付き合ってる暇はないんでね」
依り代を作ったのはエドガーではない。エドガーは魔術こそ使えるが、依り代を作れる技術を持ちあわせていない。
そもそも作れたとしても、魔術での依り代には限度がある。それを、この依り代はどんな不幸でも跳ね返すような、そんな強い力が込められている。ここまでの霊力をエドガーが持っていたのなら、はなから呪いを運ぶ式神に頼まずとも、不老不死になれているだろう。
誰だ、一体。
「早く見つけないと」
日に日に依り代の存在が大きくなっている。その存在の認知度が上がれば、きっと坂野の目的の妨げになる。それではだめだ。すべての呪いを断ち切らなければ、坂野の悲願はかなわない。
「まったく、嫌になるね、たんさくん」
わふ! とたんさくんが同意を示すように声高にほえた。
第二章 魔術師と陰陽師
呪いは呪いを呼ぶのだと、私の師匠は言っていたわ。今も魔術は存在して、たとえば白魔術や黒魔術という言葉を、一度は聞いたことがあるでしょう? ネットで調べれば呪いの手順だってわかるのに、この話は一部の魔術師にしか伝わっていない。
イタリアでは、実に五人にひとりの割合で、魔術を信じている人間がいるのだという。エドガーもまたそのひとりで、幼いころから曾祖母に聞かされていた魔術のなんたるかを信じてきた人間である。
魔術と陰陽術の違い、それは式神か悪魔かの差異であるが、厳密には式神も悪魔もさほど変わらないため、共通事項が多く存在する。
一、霊力に見合った悪魔しか扱えないこと。
二、自分より格上の悪魔を召喚してしまった場合、命を落とすか報復をうけることがある。
三、生涯で契約できる悪魔の数は四体まで。
四という数字は安定や基盤を現す。椅子が四点で支えられるように、四という数字は安定を意味する。
一は点、二は線、三で平面ができ四は四次元を意味することから、この数字の持つ意味は大きい。ゆえに陰陽師や魔術師が契約できる式神や悪魔の数は、四となるのだ。
エドガーは魔術の基礎を学び、さてなんの悪魔と契約を結ぼうかと思案する。現状、ひとつは既に決まっているため、実質残りの三体だ。
「家をきれいにする悪魔……物を思い通りに動かせる悪魔だな」
最初に、エドガーの拠点である『廃墟』の管理ができる悪魔を召喚した。これはさほど霊力がなくとも使役できる初級の悪魔であるため、初心者のエドガーでもなんなく顕現することができた。
残るはあとふたつ。
「まあ、あとはおいおいってところかな」
エドガーは鼻歌交じりに廃墟を後にする。廃墟では、契約した悪魔が外壁をせわしなく修復したり、廃墟のなかのものを動かして、廃墟とは思えぬ外観へと作り変えていた。
エドガーが日本に来てからもうだいぶ月日が流れた。エドガーの当初の目的は、とある人物を探すことである。
日本にたぐいまれな才能を持った陰陽師がいる、そんな噂はたびたび耳にしていた。しかもその陰陽師は不老不死と来たから、エドガーはなにがなんでも彼に会いたかった。エドガーの最終目的、それは不老不死である。
「っと。これでどうかな……?」
エドガーは日本で派手に暴れた。街なかで悪魔を召喚したり、ある時は一般の人間相手に魔術を広める活動もした。
魔術を使えば、そこには必ず霊力が働く。そして、少なからず呪いも。
魔術は呪いの一種だ。それを行使すればおのずとあの『呪いを運ぶ式神』もかかわってくる。
「すごい、すごいよ、エドガーさん! これなら大儲けできる」
「そうかい? そうだなあ、私の魔術は本物だからね」
エドガーは少年――相野武に魔術を披露し虜にした。
そばではぼっぼと魔法陣が燃え盛り、エドガーが契約した最初の悪魔が武の前に鎮座している。そのいでたち、なにより魔法陣から悪魔が現れるときの物々しさ。武を魔術の虜にするには十分すぎる出来事だった。
「武、武はこの町でなにか不可解な事件が起きていると思わないかい?」
「事件?」
「そう、事件」
うーん、と武がうなる。すぐにぱっと顔を明るくして、
「呪詛るんのこと?」
「そう、それだ」
呪詛るん、エドガーも聞いたことくらいはある。丑の刻参りができる怪しげなアプリ。
それがきっと、例の男と関係している。エドガーはそう踏んでいた。呪詛るんあるところに彼の噂あり。エドガーはだんだんと確信に近づいている実感を持っていた。
エドガーの目的はただ、その男に出会うことだ。そして、あわよくば自分も不老不死にしてもらおうと思ったのだ。その男ならばきっと、不老不死になる手段を知っているのだと、エドガーは思っていた。
「武。魔術を習ってみる気はないかい?」
「俺が? できるの?」
「もちろん。誰だってできるさ」
ただし、自分の力に見合った悪魔ならば。肝心なところを隠して、エドガーは武に黒魔術を教えた。武はその日から、黒魔術に傾倒していく。
エドガーは目的の人間をたどることができる悪魔と契約をした。どうにも要領を得なかったからだ。エドガーの目的とする男は、隠れるのがうまい。エドガーが彼を探していると知っていて、雲隠れしていることは明らかであった。
しかし、悪魔に彼の居場所をたどらせても、いつも最後の最後で彼に逃げられる。どうしても会うことがかなわないため、エドガーはさらに別の悪魔と契約を結んだ。それが、願いをかなえる悪魔である。本来黒魔術や白魔術は、願望成就や恋愛成就に使われることが多い。ゆえにこの悪魔もまた、それほど力は強くない。
強くないながらも、エドガーは悪魔と取引をした。
「私の霊力を好きなだけあげよう。だから、私の願いを、強く、強くかなえてくれないか」
『よかろう。オマエの霊力は私のものだ』
こうしてエドガーは、『彼』に会うために霊力をほぼ失った。簡単な魔法陣は使えるが、もうエドガーには低級の悪魔を使役するくらいの霊力しか残らなかった。
しかし、それでもエドガーはいいと思っていた。これで『例の男』が見つかれば、自分は晴れて不老不死だ。
不老不死になれば、契約した悪魔を滅することができる。エドガーは死なないため、消耗戦に持ちこめば勝算はあった。
だからエドガーは、無茶な契約を悪魔と結べたのだ。あとからその悪魔を滅し、契約を無効にすればいい。
「私は、呪詛るんを開発した陰陽師に会いたい」
『それはいくら私でも時間を要するが』
「いい、時間くらい。いつまででも待つさ」
果たして、エドガーが例の男と出会ったのは、そこから一週間後のことである。
武の呪いが呪いを呼ぶ。
武の学校で、呪いが一大ブームを巻き起こしている。もとをただせば、武の黒魔術が始まりなのだが、それを含めてエドガーの思惑通りといったところなのだろう。
「今日はあの悪魔呼び出そうぜ」
「俺は呪詛るんで忙しいし」
魔術はまじないを唱える必要がある。それに比べて、呪詛るんは丑三つ時に釘を打ち込むだけの簡単なものだ。
ことの発端は、武の発言にある。
「魔術も呪いも、本物なんだって。エドガーさん――魔術師の師匠が言ってたんだけど」
「呪いも?」
「そう。特に『呪詛るん』あれはほんものなんだって言ってたな」
武の魔術は学校中、町内中の噂になっていた。簡単な願望成就なら武でも行えたため、武の周りにひとが絶えない。そんな武が嬉々として言うのだから、呪詛るんはきっと本物なのだろうと誰もがその言葉を信じた。
「でも、呪詛るんは長期戦とも言ってたなあ」
「言って、魔術は悪魔に食われるかもだけど、呪詛るんはそういうのないみたいだし。俺はこつこつ呪詛るんで呪いを試してみるわ」
呪いに対するハードルが低い。本来呪いとは、一般の人間とは縁遠いものだったに違いない。それを、まるでルーティンのように日常生活に取り入れるようになったのは、いつからだっただろうか。
呪詛るんが爆発的に流行りだす。武の噂はSNSを通して若者の間に広まって、それに呼応するように呪詛るんの利用者が再び増えた。
「そろそろ俺も、特定の悪魔と契約しようかな」
武は相変わらず魔術に傾倒している。今までは低級の悪魔を一回きり呼び出す方法で魔術を使用していたが、魔術の知識もついた今、エドガーのように特定の悪魔との契約を結ぶのも悪くないと思い始めていた。しかし、契約には欠点もある。契約を結べば、今までのように好き勝手に悪魔を召喚できなくなることだ。低級の悪魔を召喚して、願望成就を行う。悪魔との契約は結ばれていないないため、霊力の消費も悪魔との取り引きも契約するのとは段違いに安全だ。代わりに、願望成就の力は弱く、いつでも悪魔を呼び出せるとも限らない。すべては悪魔の気分次第。
武はもっと、もっと強力に魔術を使えるようになりたかった。
最近の生活はとても心地いい。みんなが武を持ち上げあがめ、武はどこかのお偉いさんにでもなった気分だ。
「でも、どの悪魔にするか」
ふとよぎったのは『呪詛るん』である。あのアプリにはどんな悪魔が契約されているのだろうか。
「使ってみるか」
そんな、興味本位のそれであった。武にとって呪詛も魔術も、なんら危険の及ばない、自己顕示欲を満たすためのツールに過ぎなかった。
丑三つ時、武は呪詛るんを起動した。存外子供だましな設定だった。起動画面に呪いたい相手の個人情報を書き込む画面が現れて、武はそこらの見ず知らずの芸能人の名前をそれに書きこんだ。
次いで現れたのは藁人形の画像と五寸釘。その五寸釘を藁人形に打ち付ければ、呪いは完了である。実に手ごたえがない。
「ほんとにこれで呪えるのか……?」
疑問を口にしたその時である。
『あはは。うふふ』
どこからともなく聞こえた声に、武は自分の部屋をぐるりと見渡した。どこにも誰もいない。はずだった。
ぼっぼ、ぼぼ。とあたりを青い炎が取り囲む。
『あいつのせいだ』
『呪詛なんて』
『あいつが魔術なんて流行らせなければ』
青い炎のひとつひとつが、人間の顔をなす。その顔は、次々に武をののしって、憎々しげに武雄をにらんでいる。なんだこれは。
そしてなにより武を戦慄させたのは、その炎の中心に少女がいたことだ。おかっぱ頭のいかにもな少女。赤い着物の袖を翻して、武雄をうっそりと見つめている。
『あんた。アンタみたいに呪詛力の高い人間の呪い』
少女が音もなく武雄の真ん前に移動した。そうして少女の口が耳まで避けて、仰々しい笑みを湛えて武を見上げる。
『悪意だ。アンタに足りないのは』
「あ、悪意……」
『そう。呪詛には悪意が大いに関与する。呪詛を成功させたいのなら、いや。魔術もそうだ。あらゆる霊的な現象を成功させたいのなら、もっと悪意を持ってそれを使わなきゃ』
「悪意を持って……」
武が復唱する。少女はにたりと笑い、武も周りをぴょんぴょんと走り回っている。
武はここにきて、霊力の核心を得た。自分の魔術がいまいちだったのは、もしかしたらそれが原因かもしれない。
「ありがとう。君は……」
『礼には及ばないよ。私はただ、お前の悪意が食べたい』
少女が笑う。武もつられて笑い返す。しかし、どこかで武の本能が叫ぶ。この少女は『危険だ』。
少女に促されて再度呪詛るんに目を向ける。だが武は、呪詛るんに再び向き合っても、その呪いを行うことができない。なにか言い知れぬ不安だ。第六感と言ってもいい。
なまじ武は魔術に関与してきたからか、自分が今からしようとしていることに一抹の不安を覚えた。
『どうしたの。早く書き込んで』
「でも」
『早く、早く。早く!』
ごうごうっと少女の周りに再び炎が立ち上った。恐ろしい光景だ。人間の顔が幾重にも折り重なって、武をにらみそしってくる。そのひとつひとつの顔に見覚えはないが、なぜかひとごとのようには思えない。
先ほど書いた芸能人の名前を呪詛るんに書き込む。あとは、藁人形に釘を打ち付けるだけだ。
『ほら、ほら。新しい世界が見えるよきっと』
少女が誘惑する。武はごくりと生唾を飲み込んだ。新しい世界、新たな可能性。呪詛のなんたるか、魔術のなんたるかを知ることができる。
武雄の指先が震えている。携帯の画面に指を滑らせる。五寸釘を動かす、藁人形まであと少し。あと少し――
「だめだよ、相野武くん」
その手を、ひやりとした手が制止した。驚き顔をあげれば,たいそう顔色の悪い男が、そこにいた。
誰だろうか、しかし、少女と同じ匂いがする。
「誰ですか」
「肝が据わってるね。そうだな、僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なのだけど」
男――坂野は武の手を引っ張りながら、淡々と答えた。
そばにいた少女の雰囲気が豹変する。
ごおおっとあたりの景色がすさぶ。部屋のなかだというのに凍てつくほど寒い。風が武を殴る。今にも飛ばされそうなほどの強風だ。そもそもここはどこだ。ここは武の部屋だったはず。辺りは真っ黒と真っ白に侵されて、上も下も右も左もわからない。
「た、助けて……!」
「相野武くん。君がしてることは危険なことだ」
辺りが荒れすさぶなか、坂野だけはなにも変わらない。そこにただまっすぐに立ち続け、もしかすると吹きすさぶ風も寒さも、彼は感じていないのではと武は思った。
「坂野さん、アナタは悪魔ですか?」
「ひどいな。陰陽師だって言ったじゃん」
「陰陽師って、魔術師と大して変わらないはずじゃないですか。なのにあなたは、この状況になんら動揺もしていない」
少女の笑い声が四方八方から聞こえてくる。ここはどこなのか、武はいまだにわからない。わからないのだが、ここが異空間だということだけはわかった。早く逃げ出さなければ。
「坂野さん! 坂野さんならここから逃げ出せる方法、知ってるんじゃないですか!」
声が大きくなってしまうのは、武の周りに嵐が巻き起こっているからだ。対して坂野は、のんきな、間延びした声で答える。
「相野武くん。君が使おうとしたものは、危険なものなんだ」
「……呪詛るんのことですか?」
「そう、それに。そうだな。魔術も」
坂野がパチン、と指を鳴らす。すると辺りの景色がぐるんと回って、武と坂野はそこにいた。武の部屋のベッドの上である。
その、武の足元にはあの少女がいて、憎々しげに坂野をにらみ上げている。ぞっとした。武は「ひっ」と声をあげて、後ずさり少女から距離を取る。
『なんで? なんで私の言う通りにしないの』
「お、俺は……」
「彼女は呪詛るんの契約式神、って言ったら、君には全部理解できるかな」
つまり、坂野がわざわざここに現れたことを加味すれば、あの少女と坂野は『グル』だ。
とたん、武は坂野に敵意を見せる。
「俺を脅しに来たんですか」
「おどすなんて。僕はね、君みたいに呪いを使役する人間を減らしたいんだ」
まるで要領を得ない返しかたに、武はますます憤慨する。坂野から距離を取り、坂野をぎっとにらみつけ、なんならすぐさま『攻撃』大勢に入れるように、机の引き出しから魔法陣を取り出した。
「だから、それをやめてほしいんだって」
「なにを」
「僕が契約した呪詛るんの式神。彼女はひとの悪意によって力を増す。だからね、君みたいな人間が呪詛るんを使うと、おのずと彼女を滅する日が遠のくんだよ」
その言葉で、ようやく武は理解した。この男は『失敗した』のだ。
悪魔にしろ式神にしろ、契約の際は自分より格下のものを選ぶのがセオリーだ。それを、この男は見誤った。この少女はひとの悪意を食らい続け、今や坂野の力をしのぐほどに肥大化した。
無遠慮に武が笑いを漏らす。坂野は表情ひとつ変えずに武を見ている。
「坂野さん。自分の尻は自分で拭ってくださいよ」
「そう、そうかい。君って本当に嫌なヤツだね」
見下すように笑う武に、坂野ははあっとため息をついた。
さて、どうわからせるか。
「相野武くん。他人事じゃあないんだ。君だって僕になりうるんだって、わからないかい?」
「わかりませんね。だって俺は、自分の力をわきまえてる」
そうはいっても、先ほど武は式神の少女にまるで対抗できていなかった。それをどうわからせるか。
坂野が思案するなか、武は躊躇なく悪魔を顕現した。
「――我が名において、現れよ!」
エドガー仕込みの魔術である。魔法陣の真ん中がぼぼぼ、と火花を散らし、そうして現れた悪魔が、坂野を見るなり武を振り返った。
『主。私ではこの男にはかないません』
「なにを言ってるんだ。ただの陰陽師だろ」
『主。できぬものは』
「いいからいけ! 思い知らせてやれ!」
武は、今までの怪奇現象はすべて坂野のせいだと思ったのだ。だから自分の力を示して、追い返そうとした。ただ、それだけ。
悪魔が仕方なしに坂野に向き直る。しかし、硬直状態が続く。動かないのだ、悪魔も坂野も。
「おい、どうしてなにもしないんだ!」
次第に武は悪魔を責め立てる。しかし悪魔はそれどころではない。動いたら『殺される』。いくら悪魔といえど、殺されるのは不本意だ。坂野の霊力にあてられて、悪魔は指の一本すら動かせない。
武が責める、悪魔は動けない。やがて悪魔が腹をくくる。
『私は死にたくない!』
そうして、あろうことか悪魔は標的を武に定めた。主に逆らうことと、坂野に向かうこと、この二つを天秤にかけたとき、どう考えても前者のほうが有利だと踏んだのだ。
「な、この!」
魔法陣にまじないを唱える。悪魔が苦しそうに頭を押さえ呻いている。傍ら、坂野がなにかを唱えている。
させるものか。武は今一度まじないを唱え、悪魔を坂野に向かわせる。しかし。
「は……?」
悪魔が物の一瞬で消し飛んだ。今の今まで気づかなかった、坂野はなんて強大な『力』を持ち合わせているのだろうか。魔術に触れてきたからこそわかる、坂野の力は異質だ。だが、なぜ最初に気づかなかったのだろうか。
「ひとは自分より力が弱いものを侮るからね。そういうときこそ、本性が現れる」
「……試したんですか」
「人聞きの悪い。でも、そうだなあ。君はきっと、呪いも魔術もやめないんだろうね」
そもそも武は、魔術によって不都合など起きたためしがない。呪詛るんだって、今日初めて使った。今後は使う予定もない。だからこそ、坂野にはなすすべがない。
「相野武くん。君には魔術の才能がある、それは認める。けれど、それをおごってはいけない」
「なんで? 俺は誰も呪っていない。呪詛るんにあの式神を契約したアナタと違って」
はああ、と坂野はため息を漏らす。どうにもやりづらい。本来坂野は魔術は専門外だ。魔術と陰陽術は似て非なるもの。とはいえ、魔術を使用すれば少なからず呪いの力が働く。そうなればあの式神もおのずと力を増してしまう。
だから坂野は、この少年の前に現れた。あわよくば説得しようと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。
「僕はもう行くけれど」
坂野がすうっと消えていく。そのそばに、武は『なにか』をとらえる。悪魔だ。坂野は悪魔に憑かれている。だからこそ、武の前に現れたのだ。
「君に魔術を教えた彼。彼には注意したほうがいい」
「余計なお世話です。そもそも陰陽師が魔術師に説教なんて、お角違いだ」
それはもっともだ。
坂野は姿を消しながら、少年の姿を最後まで憂えるように見つめいていた
***
夕暮れの廃墟に音あり。
シャラ!
鈴の音がエドガーの耳に響いた。来た、と心拍が徐々に徐々に上がっていくのがわかる。今やほとんどの霊力を持たないエドガーは、武を中心に魔術を広めていた。
それが今、実を結ぶ。
シャラン。
鈴の音がやんだかと思えば、すうっとエドガーの目の前に現れた人影。
聞いていた姿と寸分もたがわない。くたびれた顔をした男が、そこにいた。
上下白の服、狩衣のような装束に身を包み、首からしめ縄をぶら下げている。その先端の大きな鈴が、彼の不気味さをより一層際立たせた。
「僕を探しているのは君かい? うるさくって仕方がない」
「アナタが……不老不死の陰陽師ですか?」
「わかってて呼んだんでしょ。この悪魔、君のでしょ」
パン、っと彼が手を鳴らすと、彼のそばに、あの悪魔がいた。エドガーが契約した悪魔だ。その悪魔が、彼をエドガーのもとに引き寄せた。毎日毎日、しつこく坂野に付きまとって、我が主に会えと、我が呪いを思い知れと、毎日。
さすがの彼も面倒くさくなり、渋々エドガーの前に姿を現した。
「アナタの名前は……?」
「坂野」
「サカノ。サカノ、私を不老不死にしてくれ」
単刀直入なエドガーの言葉に、彼――坂野は嫌そうに顔をゆがめた。隣に付きまとう悪魔をようやく振り払って、そうして右手に握られているのはエドガーの魔法陣である。
「君のこれ。これのせいで呪詛るんにまで興味を持たれて困ってるんだ」
「なにがいけないのです?」
「なにって。君は僕をどこまで知っているの」
「不老不死の陰陽師。偉大なる力を持った」
ほうっと紅潮するエドガーに、坂野は大きく息を吐きだした。
「愚かで幼稚な陰陽師、の間違いじゃないの?」
「まさか! 不老不死は人類の悲願。アナタはそこにのぼり詰めた」
嫌気がさす。不老不死のなにがいいのか、坂野にはまるで分らない。しかし、こうやって坂野――不老不死に憧れてしまうのも、人間が人間たるゆえんだろう。
坂野は面倒くさそうに息を吸う。
「僕は呪詛るんを開発した。その時に契約した『呪いを運ぶ式神』が人間の悪意をあまた食らい、僕の力を超えてしまった。僕の不老不死はその罰さ。僕は式神に呪い返された」
一息に説明するも、エドガーは目をぱちぱちとしばたたかせるのみである。
「それで?」
「それで、って。だから、不老不死になる手段なんて、僕は持ち合わせてないよ。あまつさえ、僕は僕を殺すために旅をしているのだから」
今度はエドガーの顔がゆがんだ。
「なにをわけのわからないことを。不老不死になれたのだから、不変の時を享受して、霊力を使って人間に知らしめればいいでしょう」
「知らしめる?」
「そう、私たちのような人間こそが、上に立つべき人間なのだと」
エドガーはもうだいぶ『やられてる』。かつての自分を重ねてしまい、坂野は邪険にもできなかった。
しかし、エドガーももういい大人だ。分別を持たせなければ、自分の二の舞になる。
「エドガー。君は不老不死にはなれない」
「なぜ? 私も坂野を不老不死にした式神と契約すれば、可能でしょう?」
「無理だね。彼女は僕と契約してるから」
式神も悪魔も、基本的に契約はひとりの人間のみとである。しかしエドガーは食い下がる。
「自分だけ不老不死になっておいて、私のことは否定するのか」
「いや、そういうわけじゃない。君もわかってるだろ」
「わからないね」
はあ、っと坂野がため息をつく。これ以上は言っても無駄だ。エドガーにどんな事情があれど、こういう人間を諭せるほど坂野も暇ではない。なにより、陰陽術と魔術は勝手が違うため、どうにもやりづらい部分は否めない。
「今日は君に会いに来たけど。今後はもう、この悪魔を僕のもとによこさないでくれるかい?」
「ああ、ああ、そうだな」
嫌な予感がしなかったわけではない。この先坂野は、ことあるごとにエドガーと出くわすようになる。しかしそれを、彼らはまだ知らない。
「エドガー。もう会わないことを願ってるよ」
坂野がすうっとなりを潜めていく。その傍ら、エドガーの口の端が引きあがる。
「そうか、式神の力で不老不死になったのか」
エドガーの目的はもう、坂野にはない。坂野を不老不死にした式神、それにすり替わっていた。エドガーはその日以来、武の前から姿を消した。しかし、武が魔術をやめることはなく、坂野はますます自身の死を急ぐ日々に身を投じていく。
第三章呪詛るんと依り代
友達の学校で呪いが流行ってるんだって。私には興味もなかったけれど、聞くだけ聞いて、『大変だね』って他人事に答えた。だって呪いだよ? そんなものあるわけないじゃん。友達の話によれば、こうだ。
呪詛るんというアプリは、今やだれもが知っている。無料アプリであるため、一度は誰でも試したことがあるだろう。
「ねえ、最近亜子、調子悪いんじゃない?」
「え、なんでわかるの? そうなんだ。最近よく眠れないしだるさが抜けなくて」
少女の口元がいびつにゆがんだ。
「私、いいもの持ってるんだけど」
「え、なになに」
少女はポケットからなにかを取り出す。アクセサリーだ。手作りの、少しいびつな形をしたネックレスだ。
「これね、特別なネックレスなの。持ち主を守ってくれる、特別な力があるんだって」
「……嘘くさ! なに、若菜ってそういうの好きだったっけ?」
少女――若菜は、それでも説明をやめようとはしない。
「いいから。一晩ただで貸したげる。それで効果があったら買い取ってくれればいいよ」
「うさんくさ! でも、心配してくれてうれしいよ。気休めに借りてくね!」
亜子は信じやすい性格だ。今時素直すぎるほど素直で、だまされやすい。だからこそ、若菜は彼女を『最初の』ターゲットに絞ったのだ。
翌朝、亜子は若菜にネックレスの効果を嬉しそうに報告している。若菜はうんうんと話を聞きながら、腹のなかでは皮算用を始めている。
「すっごいの! こう、体が楽になって。こんなに眠れたのも何か月ぶりかもわかんない」
亜子の噂はあっという間にクラス中に広まっていく。若菜はアクセサリーを大量に学校に持ち込んで、休み時間に売りさばく。
「今日の分の依り代販売しまーす! 依り代の効果はひとそれぞれだけど、一か月を目安に交換をお勧めするね」
「ありがとう、若菜。これのおかげで本当に調子いいんだ」
「私も! なんかいろんなことがうまくいくし」
クラスのみならず、学校中から若菜のもとに依り代を求める生徒が集まるようになっていた。
ことのはじまりは、とある日の帰り道だった。若菜はたいそう胡散臭い青年に出会った。
「やあ、お嬢さん。お金を稼いでみないか?」
目が合うなり、だしぬけに言われて、さしもの若菜も青年を無視した。しかし、その横を通り過ぎたはずなのに、青年はどういうわけか若菜の『目の前にいる』。気のせいかと、また青年のわきを通り過ぎるも、その先に青年の姿がある。振り返れば、先ほどまでそこにいたはずの青年の姿はない。
何者なのか、気にならなかったわけではない。だが、その正体を聞いてしまえば、自分はなにか恐ろしい目にあうような気がして、若菜は青年の正体を聞くことはしなかった。代わりに、その提案に乗ることにしたのだ。
「世の中お金だよね。わかってる。お嬢さんのことは誰も責めないよ。むしろ、お嬢さんはこれから、いろんなひとに感謝される。お嬢さんは『いいこと』をするんだから」
まるでどこかのペテン師のような言葉だ。だが、若菜はその言葉に乗った。なにより、母子家庭で育った若菜は、いつもいつもお金に困っていた。友人たちはお小遣いをもらって放課後に好きなものを食べたり買ったり、それがうらやましくもあり妬ましかった。見返すためにたくさん勉強をしたところで、若菜の家庭状況では大学すらいけないだろう。ならば、この話に乗って、自分でお金を稼げば、すべての人間を見返せる。
だから若菜は、青年が何者かも知らずに、青年からアクセサリーを仕入れるのだ。
元来頭のいい人間だった若菜は、この依り代が友人にもクラスメイトにも信じてもらえないことはすぐにわかった。ならば、と考えたのが、これだ。
「呪詛るん起動、っと」
自作自演。つまりは、若菜は友人を呪詛るんで呪った。そのうえで、呪った友人に不具合が現れたころに依り代の話を持ち掛けて、そして口コミで依り代の効果を広めるのだ。
ただ、全員を呪詛るんで呪っているわけではない。一か月にひとりかふたり、思い込みがより激しい人間を選んで呪いをかける。若菜の呪詛力はそれほど高くはないが、普通の人間よりははるかに高い。それがなぜかといえば、若菜はひたすら呪ってきた、ただそれだけである。
若菜が呪詛るんを使い始めたのはもう半年前で、若菜は毎日、毎日誰かを呪い続けた。あと半年もすれば呪詛るんの裏設定を知ることになるが、果たして若菜はその時にどんな行動を取るのだろうか。
とにもかくにも、半年間毎日呪詛るんを使ったとなれば、呪詛力はそれなりに高まっているのが現状だ。だから若菜は、一回こっきり呪詛るんでターゲットを呪って、その翌日に呪った相手に依り代の話を持ち掛ける。
完璧だ。
人間は思い込みの激しい生き物だ。依り代を持っているだけで、いいことがあれば依り代のおかげだとあがめ、悪いことがあれば、依り代を持っているからこの程度で済んだ、と安堵する。
もとより、この依り代には確かに効果があるのだが、若菜自身はそれほど信じてはいない。
「ひえー、今日だけで売り上げ二十万か」
依り代はあの青年が定期的に届けてくれる。しかもただでくれるというのだから、青年の真の目的がわからない。わからないが、深くは考えないようにしている。利害関係が一致しているのだから、深く詮索するまい。
シャラン。
帰り道のことだ。今日の売り上げを通帳に入れて、財布に残ったお金でクレープを買って食べながら歩く、帰路。
どこからともなく聞こえた鈴の音に、若菜は「来たか」と身構えた。
そして、すうっと、若菜の背後に冷たい空気が現れる。
「中井若菜さん。君がしていることは見過ごせないな」
「サカノ。意外と早いお出ましだったね」
「なんだ、僕を知っていてやってるの」
あの青年から話は聞いている。この依り代を取り扱えば、おのずと邪魔する人間が現れるだろう、と。それが坂野弘彦、今、若菜の背後に現れた人間である。
その足元に毛むくじゃらのなにかが走り回り、若菜を見てわっふ、と鳴いた。
「君がしていることは危険なことだ」
「危険? 私はただ、みんなを救っているだけよ」
「本当にそう思ってるの?」
坂野が面倒くさそうにため息をついた。足元にいた毛むくじゃらも、わふわふとせわしなく若菜の周りを走り回り、なにかを伝えようとしているようだ。
「毎日呪詛るんを使ってるでしょ」
「だったらなに」
「うん。そうだな。呪詛返しのアプリがあることは知ってるかい?」
「え」
若菜は慌てて自分の携帯を取り出して、SNSを起動する。呪詛返し、で検索すると、様々な情報が表示された。それらは呪詛返しによるしっぺ返しを食らった人々つぶやきだった。
さかのぼる、どこか回避策があるはずだと、若菜はタイムラインをさかのぼる。十分間休まず探し続けるも、やはり呪詛返しの対応策は見つかることはなかった。
「なんで……」
「ひとを呪わばあなふたつ。呪詛るんも、呪詛返しのアプリも僕が作った」
「そんなもの作るくらいなら、初めから呪詛るんなんて作らないでよ!」
若菜は本気で友人たちを呪った訳じゃない。だが、もしも若菜が友人を呪ったとばれたのなら、きっと呪詛返しをされるに違いない。恐怖より先に、若菜は憤る。すべてはこんなアプリを開発した坂野が悪い。
怒気を含んだ若菜の声に、坂野は毅然と言い返す。
「依り代なんて、そんなもののために呪詛るんを使っちゃダメだ」
「アンタになにがわかるの! 私はただ、貧乏が嫌で……」
「そう。じゃあ、これも知っていたの?」
いつの間にか足元を走り回る毛むくじゃらは消えていた。そして坂野が若菜の手を握ると、若菜はもう、そこにはいなかった。
ぎゅるる、と辺りの景色が回ったかと思えば、若菜の目の前に見えたのは、若菜のよく知る顔だった。
「お母さん……?」
若菜の母親は、若菜には気づいていない。通帳を眺めながら頭を悩ませ、泣いているようにも見える。
「あの子、なにに手を出したのかしら……」
若菜はばれていないつもりだったのだろうが、最近の若菜が学校で依り代を売りさばいていることは、若菜の母の耳にも入ってきていた。
「そんなはずない。だって、ちゃんと口止めして……」
ぐるん、と景色がまた回った。
先ほどまでいた道端に、若菜はたたずんでいた。しかし、前にも後ろにも道はない。前方も後方も、先が見えないほどの闇に包まれ、そうして、「あはは、うふふ」その笑い声だけがあたりに響く。
「坂野なの? ふざけるのはやめて!」
『あはは。ねえ、ねえ。アナタ、呪われてる』
「ひっ!」
足元に絡みつくなにか。恐る恐る見れば、口が耳まで避けた少女が、若菜の足を圧迫していた。ぎりぎりぎり、と足がちぎれる音がする。
『ねえ、ねえ。まだ続けるんでしょ? まだ呪うんでしょ?』
「やめて、離して……!」
少女が若菜の足をどんどん引きちぎる。若菜が返事をするまで、きっとこの少女は若菜を苦しめて離さない。だけど、この少女はいったい何者なのだろうか。
「その子は呪いを運ぶ式神。君が使った呪詛るんのね」
ぱっとその場が明るくなる。若菜は脂汗をかきながら、その場に座り込んで自分の足をさすった。よかった、くっついている。
「ひどいね。私にわからせるためにこんなことするの」
「いや。僕はまだ、君のお母さんやお友達のところに連れていく予定だったんだけど。彼がね」
坂野が若菜の後ろを指さす。振り向けば、そこにはあの青年がいた。若菜に依り代を渡していた、あの得体のしれない青年だ。
「ひどいなあ、お嬢さん。さっき、サカノに見せられたアレで、呪詛から足を洗おうって考えたでしょう?」
否定はできなかった。一瞬ではあるが、母親の思い悩む姿を見て、若菜の良心が痛んだ。それに、もう十分だと思ったのだ。これ以上友人をだますのは気が引ける。本当は、呪詛るんを使うのだって心苦しかった。
完璧だと思った若菜の行動でも、心はごまかせなかった。どんな人間だって、今回のような誘惑に駆られれば、それに負けてもおかしくはない。ことさら、金銭の問題は根が深い。お金がすべてではないとわかっていても、先立つものがなければなにもできないのも事実だ。だからこそ、若菜は依り代に、呪詛るんに手を出した。だけれどすぐに心は疲弊して、それをごまかすようにより一層依り代に依存した。
もうこれで終わりにしたかった。
「私、もうこれ以上は……」
「裏切るの? 私がどれだけお嬢さんを助けたと」
パンパン、と青年が手をたたく。するとまた、あの少女が現れて、若菜のほうに音もなく迫る。
ころされる、本能で感じ取った若菜は、その場から立ち上がることすらできなかった。阿漕なことをした自覚があった若菜は、これは自分への罰だと死を受け入れたのだ。目を瞑ってその時を待つ。しかし、若菜の周りを温かいなにかが包み込んだ。
「わかったでしょ。呪詛るんなんてろくなもんじゃない」
坂野の凛とした声に目を開ける。あの少女を遮るように、坂野が目の前に立っている。しかも坂野は少女によって腹に穴をあけられており、死はまぬかれない傷をおっていた。
「坂野! なんで……!」
どさり、坂野が若菜の目の前に倒れる。青年も少女も、笑いながら坂野を見るだけだ。若菜は坂野ににじり寄る。腰が抜けていまだに立つことができない。
坂野の傷に手を当てて、息を確認して脈をとる。今はまだ生きているようだが、死ぬのは時間の問題だ。
「救急車、救急車!」
カバンから携帯を取り出した時だった。
ひゅるるる、とあたりに飛び散った坂野の血が、逆再生のように坂野のなかに戻っていく。若菜は呆然とそれを見て、開いた口がふさがらない。
「痛ったいなあ。相変わらず容赦ないね、君たちは」
「サカノこそ、私たちの邪魔はしないでくれるかい?」
「邪魔してるのはそっちだろ、エドガー」
立ち上がり、坂野はパチンと指を鳴らす。
とたん、あたりの景色がゆがんで、どこからともなく現れた毛むくじゃらの犬が、ぱっくりと口を開いた。そうしてまるでケルベロスのようにその姿を変えたかと思うと、青年――エドガーと少女をバクリと飲み込む。
対してエドガーはなんの抵抗もしない。代わりに、式神の少女が坂野の術を解き、食われた犬の腹を裂き出る。
『きゃん!』
「たんさくん!」
しなしなと犬がしぼみ、元の姿に戻る。裂けた腹を庇うように縮こまり、その犬――たんさくんに坂野が霊力を送れば、みるみるたんさくんの傷が癒えていく。
やがて傷が完全に塞がって、たんさくんがすうっと消えていく。
『坂野。アンタじゃ私に勝てないよ』
「そうだね。今のは君を殺すために放ったんじゃない。エドガー、君はやっぱり」
坂野がエドガーをにらむ。エドガーはうっそりとした表情で坂野を見ていた。
「そうだ、ご名答。私はこの式神と契約をした」
なんてことを、と坂野がつぶやく。式神の少女がエドガーを庇う理由、それはすなわち、ふたりの間になんらかの契約が発生したことを意味する。
本来式神はひとりの人間としか契約できない。しかし、この少女の式神は別格だ。なぜなら少女の式神は、神に近しい力を手に入れた。ほかならぬ坂野が開発した呪詛るんのせいで。あまたの悪意を食らった少女の式神は、今や『例外』の存在となった。だからエドガーとも契約を結べたのだ。
若菜はまるで話についていけない。ただひとつ、確かなのは、今後若菜は呪いとは無関係に生きると決めたことだ。
エドガーと式神の少女が、坂野を見て笑っている。坂野は心底いやそうに顔をゆがめた。
「私はこの式神と契約した。この子に人間の悪意を食わせる代わりに、私を不老不死にする約束だ」
「だから、依り代なんて利用していいと思ってるのかい?」
「『彼』もこれで満足しているからね。私はただ、死にたくない。それのなにが悪い?」
不老不死などいいものではない。それは坂野が一番よくわかっている。しかし、人間は太古の昔から死を、老いを恐れてきた。ゆえに、不老不死に憧れるのが自然なことというのもわからなくはない。
坂野自身も、自分が『ただの』不老不死であるのなら、それはそれで自業自得だと納得して、不変の時を生きただろう。だが、坂野が生きている限り呪詛るんと契約した『呪いを運ぶ式神』は消えない。坂野が不老不死になったことで、半永久的に式神との契約が続いてしまうのだ。
だから坂野は、死ななければならない。不老不死から逃れなければならないのだ。
「君が不老不死になるのは勝手だけど」
「つれないな。私はサカノ、アナタに憧れて不老不死になりたいっていうのに」
「それはそっちの都合だろ。僕はその式神を御さなければならない。だから、君のしようとしていることは、なんとしても止める」
坂野は少女の式神に人間の悪意を与えたくない。対してエドガーは、少女の式神に多大な人間の悪意を与えたい。
相容れぬ関係だ。若菜にもそれだけは理解できた。
「それじゃあ、私たちはもう行く。そのお嬢さんはもう使えないみたいだからね」
あっさりと引いてくれたのは不幸中の幸いだ。坂野と若菜を残し、エドガーと少女は消えていく。
「中井若菜さん。もうわかったと思うけれど」
坂野の冷ややかな声に、若菜は背中を丸めながら返答する。
「はい、私はもう、呪詛るんも依り代も、なにもいりません」
いまだひとりではうまく立てない若菜をよそに、坂野はそのなりを潜めていく。
ぱあっとあたりに光が差し込む。下校途中の道端で、若菜はひとり、そこにいた。
夕日が帰路を照らし出す。
明日は朝一番に、みんなにお金を返そう。そうして依り代を回収して、全部燃やして処分しよう。母親にもちゃんと謝って、これから先はまっとうに生きよう。
若菜の決意は固い。綺麗な夕日の帰路で、強く強く誓ったのだ。その後若菜は、どんなに生活が苦しくても、呪いに手を出すことはなかった。
第四章 依り代の暴走
いわくつきの物件は、なにも珍しいことじゃない。実際になにも起きないことが多いから、きっと思い込みなのだと思う。けれど私が聞いた話は、本物っぽくて怖かったな。アナタなら、事故物件に住みたいと思う?
ズル、ヒタ。ズル……。
夜な夜な、不可解な音に悩まされるようになった。そして、手だ。夜眠りにつくと、あまたの小さな手が、ひたりひたりと体にへばりつく。ベタベタと品定めするように触られて、はっと目を開けると夜のはずなのに部屋は明るく、ふと窓ガラスが目に入る。その窓に、びっしりと手形がついていて、ベタベタベチャベチャと音がする。ひゅっと息が詰まる。息をしようともがけばもがくほど肺が圧迫されて、やがて意識が霞んでいく。死を覚悟して目を閉じようにも、それすら叶わない。酸欠で頭の血管がブチブチと切れる音がして、次に目の血管も切れるのがわかる。充血した目が最後に捉えるのは、にたりと笑う、少女の姿。この一連の流れが、毎日続いている。もしかすると、『アレ』のせいかもしれない。
女は普通の会社のOLだった。普通の高校に行って、普通の大学を出て、普通の会社に就職した。
就職して五年もたてば、後輩もでき友人も増え、もういっぱしの会社の歯車だ。そんな彼女にも、不満はある。同期の明子が気に入らない。
明子は同僚にもモテた。仕事もできるし先輩からの信頼も厚い。後輩からは慕われて、よく仕事後に食事がてらいろいろな相談をされているようだ。
そんな明子と自分を比べては、彼女は深く落胆した。彼女は普通に生きてきた、それが悪いことだとは思わないが、普通に生きてきた彼女の周りには、明子のようにひとでにぎわうことがほとんどない。
人望がないとも言い換えられるが、彼女はそれを認めたくなかった。
彼女は最近家を引っ越した。給料も安定してきたため、駅チカの安い物件に越したのだ。その部屋がいわゆる『訳アリ』で、なんでも幽霊が出るのだとか。だからその部屋は、いつもひとが居つかないし、家賃もほかの部屋の六割ほどだ。
彼女は霊というものを信じない。それらは単なる見間違いか思い込みなのだと、彼女はそう思っている。
「ったく、やってらんない」
そんな彼女は、先日ついに明子への報復に出た。しかし、それは一回限り、魔が差したも同然の、たった一回の過ちである。
「呪詛るんって本当に効くのかな」
彼女は霊をはじめ、非科学的なものの存在を信じない。だからこそ、この手段で憂さ晴らしを決行した。
「よし。さて、寝よう」
それっきりだ。彼女が明子になにかをしたのは。悪意を向けたのは。
そこからだったように思う。彼女に『異変』が起きたのは。夜の怪奇現象に加え、朝起きると、不自然に体が重い。そして、部屋の空気がじめじめとよどんでいる。
なんだこの違和感は。そう思うも、気のせいだと気を取り直して、彼女は会社へ向かった。
しかし、道中も石につまずいたり、鳥の糞が当たったり、極め付きは会社で言い渡された辞令である。
「今日から君には、営業部に行ってもらう」
「え、営業部ですか……? でも」
「でも? なんなだね?」
「あの……なんでこの時期に異動なんですか」
「さあ。上からの直々のお達しだ」
なにか悪い予感がした。
彼女は広報部の人間で、営業部への異動なんて今まで聞いたことがない。だというのに、なぜよりにもよって自分が異動にならなければならないのだろうか。
しかし、気の弱い彼女は上司にも言い返せない。仕方なしに営業部に異動したものの、まるで勝手がわからない。
「君、営業舐めてるの?」
「いや、あの」
「全然契約取れないなんて、君みたいな無能な社員、初めてだよ」
泣きたくなる。
今まではぱっとしないながらもそれなりにひとの役に立てている自信はあった。だがここにきて、彼女の自尊心はボロボロに崩れ去った。
家に帰るとよどんだ空気が部屋に広がっていて気が休まらない。なにより、彼女は『夢』を見るようになった。
『ねえ、ねえ。アナタ、素敵ね』
「こ、こないで」
『なんで? ねえ、アナタ、すごく素敵。また――しないの?』
ばっと体を起こして無理矢理夢から逃れる。まただ。
いくら疲れているからと言って、同じ夢を毎日見るものなのだろうか。しかも夢の中のあの少女は、いかにも『それっぽい』。
おかっぱ頭に赤い色の着物、なによりあの声。一度聴いたら忘れられない。まるで無邪気な子供のようなのに、どこか恐ろしさを感じる。耳にこびりついて離れない。
彼女は眠るのが怖くなった。もうだめだ、これはきっと、『呪詛るん』を使った自分が呪われてしまったからだ。
「すみません、しばらく休みます」
『休む? どういうつもりだ?』
「すみません。有給全部使います」
『もういい! そのまま辞めてしまえ!』
電話でもさんざん言われながら、彼女はとうとう長期の休みを取った。本当ならば、旅行に充てるはずだった有休を、二十日間全部、一気に。
「もうだめだ……」
思考がどんどん沈んでいく。もはや生きる糧がない。なにをしてもうまくいかない、おまけにこの部屋だ。この部屋にいるだけで気分がどんどん暗くなるし、嫌なことが立て続けに起こる。
やはり引っ越したほうがいいのだろうか。
シャララ。
鈴の音が、聞こえた。
とうとう耳が壊れたのだと思った。彼女は布団にもぐりこむ。耳をふさいで、なにもかもを拒絶した。
『わん! わふ!』
犬の鳴き声まで聞こえてくる。本当にどうかしている。もう末期だ。このまま。そうだこのまま窓から飛び降りよう。もう生きる意味が分からない。毎日なんのために働いているのか、なにが楽しくて生きながらえているのか。
「やあ、八戸みことさん」
シャララ。鈴の音とともに聞こえたのは、若い男の声である。
彼女――みことはかぶっていた布団を引っぺがされて、そこで初めて、鈴の音の正体を知った。
「……不審者……」
しかし、叫びをあげることも、警察に電話をすることもしなかったのは、もうだいぶみことが疲弊しているからである。
ふらりと立ち上がった彼女は、男を無視して窓際に歩く。そのままガララと窓を開け放ち、桟に足をかけた。
その、みことの手を男がつかんだ。
「離してください」
「君はちょっと呪われてるだけなんだ」
「のろい……? はっ、そんなもの、私が信じるとでも? 新手の詐欺ですか?」
男がどこから現れたのかは、この際もうどうでもいい。というよりは、みことはそこまで思考が回らないのだ。擦り切れた脳みそは正常には働かない。
これが『うつ』なのだとみことはうっすらと思うも、死にたい気持ちは内から消えない。
「僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なんだけれど」
男――坂野がみことの腕を引っ張る。そうして部屋の真ん中まで連れてきて、ふうっとひとつ、ため息をついた。
「今、面倒な女って思いました?」
「そんなこと」
「でも、ため息つきましたよね」
「うーん、重症だね」
笑みを湛えながら、坂野が天井を指さした。
「君の部屋には、『いる』んだよね」
「いる……?」
坂野の言葉に、思わずみことが反応する。いる。つまり、霊的なものだろうか。
確かにこの部屋はどこか不可解だ。しかし、最初からそうだったわけではない。
「君、呪詛るん使ったでしょ」
「……! なんでそれを……」
一番知られたくない、人生で最大の汚点だ。誰かを呪うなんて、人間としてあるまじきこと。だというのに、この男はどこでその秘密を知ったのだろうか。
「盗聴器……盗聴器仕掛けたんですか?」
「まさか。僕は坂野弘彦。陰陽師なんだけれど」
「陰陽師……?」
まるでファンタジーの世界だ。みことは胡乱な目を坂野に向ける。そんなことを信じる人間がいてたまるか。
しかし、坂野はひょうひょうとした表情で、続ける。
「君の天井裏。見てごらんよ」
「……怪しいひとの言うことなんか」
「いやだなあ。じゃあ、証拠見せる?」
「なにを……。!?」
みことが言い返した時である。坂野が胸の前に人差し指と中指を立てて、そうしてみことの脳に鮮明に流れるなにか。
なにか、ではない。これは明子だ。大嫌いな明子の『記憶』だ。
「最近、ついてないなあ」
そんなことに悩んでいるとは思わなかった。みことはいつも、明子をうらやんでいた。明子には悩みなんてひとつもないと思っていた。すべてに恵まれ甘やかされて、そうやってなにひとつ苦労なく生きてきたのだと思っていた。
「お母さん、体調はどう?」
「ああ、お陰でよくなったよ」
母親が病気だなんて一言も聞いたことがなかった。
「なんでお母さんが、癌なのよ」
しかも癌だなんて、そんなこと、顔に出したことだってない。
お母さんの余命がもう長くないことも、毎日理由のない不調に悩まされていることも。なにも知らなかった。自分は明子のなにを見てきたというのだろう。
「みことさん、異動先でうまくやれてるかな」
そしてなにより、みことのことを気にかけてくれていたなんて、全く知らなかった。
人間は薄情だ。それはみことが今まで生きてきて知りえた嘘偽りなき真実。だが、明子のような人間も存在するのだと、みことは今、この瞬間まで気づけなかった。自分に余裕のない人間は、他人のやさしさに気づけないものなのだ。むろん、明子のような人間ばかりとは限らないが、それでもみことは、自分が恥ずかしくなってくる。
「……っは……! 今のは……」
「わかった? 僕は陰陽師で」
「それはもういいから。今見たのは、なに?」
「わかってるくせに。僕の陰陽術で、明子さんのほんの一部を見せただけだよ」
坂野がうさん臭く笑っている。信じるほかにない、こうまでされては。
みことはベッドに椅子を乗せて、天井を外す。懐中電灯で天井裏を覗けば、端っこのほうになにかが見えた。
「なにかあります」
「うん。それを取ってきて」
目いっぱい手を伸ばして、みことはそれを手に取った。小さくて柔らかな感触に、ぞっと背筋が粟だった。
天井裏から戻ってきて、みことはそれをまじまじと見る。不細工なぬいぐるみだ。しかもくまの。
みことの手のなかで、人形が震える。
『ががっががっがが』
人形がなにかをしゃべる、いや、地響きに近い。うめき声のようなそれが、みことの部屋に響く。
「これは依り代」
「依り代……?」
「そう。これは好きな人間を振り向かせるためのまじないがかけてあるんだ」
みことは首をかしげる。この部屋には誰も呼んだことがない。だとしたら、前の部屋の住人によるものだろうか。
坂野がぬいぐるみに触れると、ぴたりとうめき声がやんだ。
「昔はね、呪いって書いて『まじない』って読んだんだ。だからね、このぬいぐるみは君の呪いに反応した」
言わずもがな、みことは呪詛るんを使った。坂野はそのことを言いたいのだ。しかし、みことのなかでそれらは結びつかない。
「つまり、どういうこと?」
「君が呪詛るんを使ったから、このぬいぐるみにかけてあった呪いが暴走してしまった」
合点がいく。確かにみことが呪詛るんを使ったあの日から、不可解なことが続くようになった。
みことは坂野に懇願する。
「の、呪いを解くにはどうしたらいいんです?」
「どうもこうも。だからこうして僕が来たんじゃない」
あーあ、と坂野が肩をすくめる。
「呪詛るんってね、僕が作ったアプリなんだけど」
「え……ちょっと意味が」
「うん。それでね、まあ呪詛るんを使ったせいでこの依り代が暴走したのなら、まあギリギリ僕の責任範囲かなって」
「え、え?」
「わからなくていいよ。でもね、これだけは覚えておいて」
坂野はぬいぐるみを握りつぶす。ぐちゃりと歪んで、やがてぬいぐるみは消えていく。なにがなんだかわからない。わからないながらも、みことはこれ以上言及するのはやめた。踏み込んではならないと思ったのだ。
みことは今も霊やその類は信じない。信じてしまえば、この先みことは、呪詛るんを使ったことを後悔しながら生きなければならない。そんなのごめんだ。
「君の罪は、ほかの誰が見ていなくても、君自身のなかにある。わかるね?」
そう甘くない。この坂野という男は。
自覚したくなかった。みことは呪詛るんを確かに使った。けれど、それは呪詛るんが『本物』だと知らなかったからだ。だからこそ、呪詛るんなんてものを使ってしまった。自分は悪くない、そう思いたかった。だが、きっとこの罪は、未来永劫許されない。
「ひどいですね、坂野さんは」
「そうだね。だから、僕は僕自身も許してないよ」
「そんなの、ただの自己満足じゃないですか」
呪詛るんを作ったと言っていた。ならばすべての元凶は坂野自身にある。坂野はそれを知っているからこそ、他人にも厳しい言葉を向ける。そんなのただの自己満足だ。
「今日を境に、また普通の生活に戻れると思うけど」
「……」
「忘れないで。呪詛るんなんて使っちゃいけない」
言われなくともそうするつもりだ。
後味の悪い事件だった。みことはその後、広報部へと戻ることができた。しかし、明子への罪悪感は消えることはなかった。
依り代が思いのほか世間に浸透している。先の件のぬいぐるみも、依り代のひとつである。おそらくその人物は、依り代となるものにまじないをかけている。先の件では、ぬいぐるみにまじないをかけた。意中の相手を振り向かせるまじないであるが、依り代を相手の近くに置く必要があったのだろう、あの部屋の天井裏にぬいぐるみがあったのがいい証拠だ。まじないの効果はそう長くは続かない。よくて一か月程度だ。だが、みことの件では、みことが呪詛るんを使ったことによりそのまじないが暴走した。呪詛るんとの相性は最悪だ。
坂野は呪いをたどる。みことの家で回収したぬいぐるみに染みついた呪いを、たんさくんにたどらせている。月食が月を食む、夜のことだ。
「たんさくん……?」
その、道中である。少し目を離した隙に、たんさくんがいなくなった。辺りの気配を探っても、どこにも見当たらない。
よもや、契約が切れたのだろうか、あるいは、坂野よりも霊力を得て、契約が無効になったか。
いずれにせよ、たんさくんなしに坂野は呪いをたどれない。
「あら、どうかしたのかしら?」
あっちこっちとたんさくんを探し回る坂野に、とある女性が話しかけてきた。金髪の、スタイルのいい女性である。容姿からするに、日本の女性ではない。しかし日本語は流ちょうであるから、日本で生まれ育ったのかもしれない。
そんなことをぼんやりと思いながら、坂野は女性を凝視した。どうして自分のことが見えるのだろうか。
坂野は普段、一般人からは見えない存在だ。坂野自身が呪われているため、この世のものではなくなったからだ。そんな坂野を目視できるとなれば、呪詛にかかわってきた人間か、あるいは霊力の高い人間か。
どちらにせよ、厄介だと坂野は思った。
「こんにちは、お嬢さん。なんでもないんだ、ちょっと探し物をしているだけで」
「あら、じゃあ手伝うわ。ひとりよりふたりのほうが早いでしょう?」
「いや、君じゃ見つからないと思うから、遠慮しとくよ」
「ひどいわね。私、こう見えて探し物は得意なのよ」
女性がぷいっと頬を膨らませた。坂野は心底迷惑顔だ。どうにかしてこの女性を巻かなければ、たんさくんを探すことも、ぬいぐるみの呪いをたどることもできない。
いや、待て。この女性は坂野の姿が見える。ならば。
「こう……毛むくじゃらのこれくらいの犬を見ませんでした?」
「犬? これくらいの、可愛い犬かしら?」
「いや、可愛くはないかな。ふてぶてしくて、太ってる」
「ひどいわね。ワンちゃんがかわいそう」
なぜか女性はたんさくんの肩を持つ。愛犬家なのだろうか。しかし、今はそんなことはどうでもいい。坂野が今一度問えば、女性は「知らないわ」と答えた。
「でも、そうね。アナタが探している呪いなら、私知ってるわ」
「何者だ……?」
ずずず、っと坂野から威圧感が放たれる。しかし女性はものともせず、すました顔で答えた。
「ひどいわね。私ってほら、鼻が利くのよ」
「……同業者かい? ならなおのこと、僕の正体はわかると思うが」
「ええ、知ってるわ。よーく知ってる。この業界じゃ、有名だもの」
女性の真っ赤な唇が弧を描いた。うさん臭い。この女はなにか妙だ。そう思うも、坂野はいまいち女性を突き離せない。
正直、たんさくんがいなければ坂野は呪いをたどれない。だが、どういうわけかたんさくんはどこかに行ってしまった。もしかすると、あのエドガーが連れ去ったのかもしれない。そう考えると、なにより先にたんさくんを探し出さねばと思わされる。
「じゃあ、犬を探してくれるかい?」
「犬を? もう、その前にそのぬいぐるみの呪いが先。その呪い、今日がリミットよ」
なぜそれをこの女が知っているのだろうか。坂野が女性から距離を取るも、女性は何食わぬ顔で歩き出す。
坂野はその背中を、鋭く見ていた。
「そんなに見られたら、恥ずかしいわ」
「君が何者かは知らないけれど、僕が君に従ういわれはない」
「そうなの? それならいいんだけれど。でも、その呪い、あそこが元凶よ。もしかしたらたんさくんも、先にそこにいるのかも」
女性は振り向きもせずに進んでいく。坂野はいまだ、足が動かない。女性に感じる違和感と、それ以上にどこか信頼できるような、相対する感情。自分はまだ人間だと思っていたのだが、もしかするともう、坂野は人間ではなく式神に近い存在になってしまったのだろうか。だからこの、得体のしれない人間に従ってしまうのだろうか。
「行くの? 行かないの?」
試すように言われ、坂野は逡巡する。答えなんてわかりきったことだ。正体もわからない人間の言うことなんて、聞いていいわけがない。そのはずだった。
「真偽を確かめに行くだけ、だからね」
嬉しそうに女性が笑う。いったいこの人間はなんだというのだろうか。坂野にはわからない。わからないが、従ってしまう。
意識を女性からそらすように、坂野はぬいぐるみの呪いに思いを馳せた。
たんさくんとはぐれた場所からすぐそこのマンションの一室。
「ここの七〇一号室よ」
「嘘だったら許さないからね」
「あら、心外」
女性が笑う。坂野が右手を胸の前に掲げる。そのまま人差し指と中指を立てて、坂野の姿が消えていく。その様子を見て、女性が満足そうに笑っている。なにがおかしいのだろうか。坂野は顔をゆがませて、不機嫌に七〇一号室へと姿を移動した。
***
最近、妙な視線を感じる。
男は疲れた体を引きずって、ようよう家までたどり着いた。
「ただいま」
「お帰り。早かったね」
同棲している彼女の笑顔を見るだけで、男は一日の疲れが吹き飛ぶような気がした。
男の恋人は、二歳年下の後輩である。高校時代に知り合って、大学時代に一度告白を受けている。しかし、男はその告白を断った。単純に、彼女を女性として見られなかったからである。
だが彼女はめげなかった。男にお弁当を作ってきたり、毎年バレンタインにはチョコレートを手作りした。おかずの差し入れをもらったり、いい愚痴聞き相手になってくれたりと、彼女の献身的な態度に、男は少しずつ心を開いていった。それが今では結婚も考えるほどの仲で、周りからもラブラブカップルともてはやされている。
「そういえば。結婚したら家はどうする? さすがにここじゃ狭いし」
「いいよここで。私は狭いほうがたつくんとくっついていられてうれしいな」
「かわいいかよ!」
今日も今日でふたりはいつもの一日を終えるはずだった。鈴の音が、聞こえるまでは。
シャララ。
彼女の顔色が変わる。
「今、鈴の音聞こえなかった?」
「き、気のせいだよ。ねえ、買い物、買い物行かない?」
「え? 今から? 夜中なのに?」
「ほんと、君たちって馬鹿なの?」
ぬっとあらわれた人影に、男だけが驚きを見せた。彼女はすぐさま身構えて、手あたり次第物をその男に投げつけた。
「いたた。痛いな」
「な、アンタどこから」
「いやね、僕は陰陽師の坂野弘彦って言うんだけど。痛いな、ちょっと、やめてくれる?」
どこか不機嫌に、人影――坂野は彼女をびっと指さした。とたん、彼女の動きが止まり、目だけがぎょろぎょろと動いている。
「うー! うー!」
「ちょっと黙ってて。それで、中村達也くん。君、呪われてる」
「……は?」
坂野は部屋中に飾られているぬいぐるみをぐるりと指さして、そのままなにかを唱え始める。
やがてぬいぐるみが呻き震え、男――達也はその場で頭を抱えた。
「痛い……痛い、なんだこれ……!」
「うん、もうそろそろ目が覚めるかな?」
がががっがっが、とぬいぐるみが震えている、その振動が止まった時、男の頭がクリアになって、その場の光景に絶句した。
「あやみ……! なんでここに……俺は……」
「斎藤あやみさん、君って本当に趣味が悪い」
坂野があやみを指させば、あやみの口の自由が解かれる。
「……っは。や、やだな、たつくん。私だよ、あやみ……」
「知ってる! そんなことは! 君はストーカーで、警察にも接近禁止命令が出てて」
「な、なに言ってるの。私たち、結婚するんでしょ」
必死の形相のあやみに、達也は恐怖の視線を向けた。
簡単な話だ。あやみはストーカーで、ぬいぐるみの依り代の力で、嘘の恋人になっていただけ。ただそれだけの話なのだ。
しかし、普通の人間ならば、ここまで依り代を何重にも使うことはしないだろう。あやみの常軌を逸した行動に、坂野もややあきれている。
「本当なら、僕は依り代は専門外なんだけれど。知ってしまったからにはほっとけないし」
「さ、坂野さん。助けてください」
「うーん。僕もこの依り代の作り手を探してはいるんだけれど」
坂野が依り代とかかわるのは、その作り手を探しているからだ。もしかすると、この依り代が坂野の明暗を分けるかもしれない。だからこそ、こうして呪詛るんと関係のない呪詛をたどっているのだ。
「中村達也くん。僕ができるのはここまでだ。依り代の出どころは調べはするけれど」
「そんな、そんなの無責任だ。アナタ、陰陽師だって言ってたじゃないか」
「それはそうだけど」
今日の坂野は機嫌が悪い。いつもならこんな手荒な真似はしない。だが、それでも坂野も人間だ。機嫌が悪いことも、調子が悪いことだってある。
坂野は「うーん」と考えるそぶりを見せる。やがて、懐から一枚の紙切れを出して、そこに霊力を込めていく。
「とりあえず、依り代の効力を無効にする呪符。これであの子からは身を守れると思うけれど」
「あ、ありがとうございます!」
「やめろ! 私とたつくんの仲をさくなんて!」
あやみが吼える。こればかりはどうしようもできない。呪詛るんの関係者であれば、もう少しやりようがあったものを、坂野は依り代に関しては素人も同然だ。荒療治でしか対処できない。
坂野があやみの額に人差し指を当てる。するとあやみは黙り込んだかと思えば、けたたましい叫び声をあげて、その場に意識を失った。
一部始終を見ていた達也は、恐る恐る坂野に問う。
「なにをしたんですか……?」
「いや。知らなくていいよ」
これでよかったのか、坂野にもわからない。
坂野は少しだけ、ほんの僅かばかりあやみに知らしめたのだ。自分がしてきたことを、あやみ自身にも疑似体験させた。
これで効果があるのかは坂野にもわからない。だが、きっとしばらくは頭を冷やして、達也へのストーカー行為もやむだろう。
「ひとの心は呪いでは得られないからね」
「ありがとうございます。坂野さん」
「うん。それで、そうだ。犬を見なかったかい?」
思い出したように坂野が言うと、達也は首をかしげて、坂野の足元を指さした。
「そこにいるじゃないですか」
『わん! わうわう!』
「あれ? たんさくん、いつからいたの」
初めからいたと言わんばかりに、たんさくんが坂野の腕のなかに飛びあがった。反射的にたんさくんを抱きとめて、坂野ははて、と首を傾げた。
「それじゃあ、僕らはこれで行くけれど」
坂野の姿が消えていく。依り代となったぬいぐるみたちとともに。
腕のなかのたんさくんが、満足げに眠りにつく。
ひどく疲れた一日だった。そう思いながら、達也は休む間もなく荷物をまとめる。
しばらくは仕事も休みことになるだろう。いや、もしかしたらもうここにはいられないかもしれない。ここから遠く離れた場所で、あやみに知られないよう、息をひそめなくてはならない。
依り代によって嘘の恋人として生きていくほうが幸せだったのだろうか。そんな考えを払しょくするように、達也はこの日以来、あやみの知らぬ地で生きていくこととなる。
第五章 依り代の主
隣の家の息子さん。なんだか怪しい人間と関わってるみたいなのよ。なんなのかしらね、気持ち悪い。あとでお祓いに行こうかしら。あの息子さん、妙な雰囲気があって怖いのよね。アナタはこうなる、明日は晴れる。あの息子さんの言葉は預言みたいに、すべてのことを覆すんだもの。
稀有な力だ。どこの誰かもわからない男に、彼はそそのかされた。
もともと彼は、順風満帆な人生を歩んできた。有言実行とはまさにこのことで、彼はいつ、なにがあっても失敗したことがない。
運動会の日、台風の予報が出されていた時、彼は強く強く願った。『明日の天気を晴れにしてください』強く強く願って、なんなら声にした。
すると運動会当日、どういうわけか台風が日本列島をそれて、見事なまでの秋晴れとなった。
それだけではない。遠足の日だってそうだったし、受験だって、どんなに難しいと言われる学校でも、彼は一発で合格できた。しかも勉強もせずに。
自分は『ツいてる』のだと、彼自身も自覚していた。彼はなんでも手に入ったし、なんでも思い通りにできた。
そんな矢先だった。
「アナタが林田正友くん?」
予感がした。この男は、自分の正体を知っているのだと。
彼――正友は初対面の男に言った。
「俺は特別なんですか?」
「話が早い。そうです、アナタは特別です」
ならば、と正友はさらに踏み込んだ質問をする。
「アナタは何者ですか」
「私? 私はエドガー。そうだな。ぜひともアナタの力を貸してほしい。アナタの力は、他人を幸せにできる」
正友はその日以来、エドガーの言う通りに生きた。
エドガーには契約した悪魔が四体いる。そのうちの一体が『目的の人物を探し出す』悪魔だ。いまやほとんど霊力を使えないエドガーが、微々たる霊力を使って探し出したその人物が、正友であった。正友の力を利用して、エドガーは呪詛るんを世間に浸透させようともくろんだのだ。
そうとも知らず、正友はエドガーの言葉をすべて信じた。
まず、正友自身も気づいていない、その力のことについて教えられた。
「正友には霊力がある。その霊力を言霊として発することも」
「なるほど、言霊……」
思い当たる節は多々あった。正友が口にした願いごとは、なんだって叶った。つまり、正友の言葉に霊力が宿るのだ。
だとして、この力で他人を幸せにする、とはどういうことなのだろうか。
正友が聞くまでもなく、エドガーが答える。
「依り代を作るのです」
「依り代?」
「はい。言霊をものに込めて、身代わり人形を作るのです。身代わりだけじゃない、願望をかなえる言霊も」
「なるほど。それならこの力を、いろんなひとにわけられるね」
しかし、言うは易し。言霊をものに込めるのは、なかなか苦戦した。なにより、ダイレクトに言霊を使うのとは違い、ものに込められた言霊の威力はオリジナルの一割にも満たない。
だから、正友は、何度も、何度もものに言霊をかけて依り代を作った。
そのかいあってか、徐々に依り代の存在が世間に知れ渡り、今では正友は、依り代による収入だけで生計を立てている。
「正友。そんなにまじめに言霊を込めなくとも大丈夫だ」
「でも。ひとつでも効果がないものが混じっていたら、みんな買わなくなるよ」
「真面目だねえ」
エドガーが依り代をたくさんの人間に広めていく。
よくよく考えれば、依り代として売り出すのではなく、正友自身が言霊使いとして活動したほうが効率的ではあるのだが、正友はそれをしようとはしなかった。あくまで自分は裏方の人間に徹したい。正友のまじめな性格も、エドガーからしてみれば計算内だ。
さあ、これにつられて呪詛るんがどれだけ浸透するか。
タネは撒いた。エドガーの誤算があるとすれば、この正友の言霊の能力こそが、坂野の欲していた力であったことだろう。
夜の部屋に鈴の音が響いた。
その日も正友は夜遅くまで依り代を作っていた。集中しすぎて鈴の音に気づかないくらいだった。
「やあ」
「う、わ! え、だれ?」
正友を遮るように、坂野が正友をのぞき込む。そこでようやく正友も坂野の存在に気づく。しかし、驚いた様子はない。
「あ、もしかして、エドガーさんの知り合いですか?」
「やっぱりエドガーが絡んでたか」
「あれ、もしかして商売敵でした?」
「いや。まさか。でも、そうだね。君の依り代、本当に厄介でさあ」
坂野は「よっこいしょ」とその場に座り込む。正友も作業の手を止めて、坂野の話に耳を傾けた。
「依り代が悪用されていることは知っているかい?」
「え、悪用って、誰が?」
「はー。やっぱりか」
まるでなにも聞かされていないのは予想内だが、本人に全く悪気がないのが本当にやりづらい。
坂野はどうしたものかと考えるも、ここは正直に答えることにする。
「エドガーが君に依り代を作らせる理由っていうのが、多くの人間に呪詛るんを使わせるためで」
「え。待って。呪詛るんって、あの?」
「そう。あの。君の依り代があれば、呪詛るんの呪いは跳ね返せるからね。だから、依り代をたくさん配って、呪詛るんのユーザーも増やそうって魂胆」
「……ちょっと待ってください。なにかの間違いじゃ」
ここまで話しても、正友はエドガーを疑おうとはしない。こういう人間が一番厄介だ。正友のように、悪意なく悪に加担してしまう人間が。
坂野はふうっとため息をつく。その膝に、けむくじゃらのなにかがいることに正友も気づいた。
「犬……? うちのマンション、ペット禁止なんですけど」
「いや、この子は式神。わかるでしょ。僕は人間じゃない」
「あ、やっぱりそうでしたか。エドガーさんとは少し違うなと思っていたんですけど」
わかっていてなお、警戒心を見せない正友はやりにくい。
これをどう説得するか、坂野は迷っていた。
「坂野さん。それでも俺は、依り代を作りますよ」
「そう言うと思った。なんでそんなに必死なの」
「そりゃ、自分にしかできないことってあるじゃないですか。坂野さんもそうでしょう?」
「僕、自分が陰陽師だって言ったっけ」
「いえ。でも、なんとなく、俺と同じかなとは思ってて」
霊力の高い人間は勘も鋭いことが多い。しかし、霊力の高い人間はそうそうこの世界に生まれてこない。そうでなければ、世界のバランスが崩れる。
「昔、おばあちゃんに言われたんです」
「おばあさんに?」
「はい。誰かのために生きなさいって」
「へえ。殊勝な心掛けだけれど、君の力で、誰かが不幸になってるのに?」
「でも、幸せになっているひともいます」
「折れないねえ」
いっそ呪詛るんを悪用している人間であったのならば、少し痛い目見せて説教してやるところを、正友にはそういった悪意がひとつもない。
「でも、こうも言ってました」
ふいに思い出したように、正友が付け加えた。
「呪詛るんだけはなにがあっても使うな。もし使った人間がいたら、道を正してやりなさいって」
「へえ。なかなか見込みのあるおばあさんだねえ」
正友が、いまさっき出来上がったばかりの依り代を手に取る。アクセサリーだったりストラップだったりぬいぐるみだったり。
思うところがあるのか、正友がすうっと深呼吸をした。
「俺、依り代作るの――」
「やめる、とか言わないですよね?」
「エドガーさん……?」
部屋の空気が一気に凍る。
エドガーの魔術によって空間がゆがんで押しつぶされて、正友は息ができなくなる。苦しさのあまり喉をかきむしるも、エドガーはいたぶるように正友を眺めている。
「あ……あ……おれ、は……」
「嫌だ嫌だ。サカノの目的が正友だったなんて」
「う、あ……!」
魔術と陰陽術は似て非なるもの。ゆえに坂野は出遅れた。エドガーが作り出した空間から締め出された坂野は、陰陽術を駆使してエドガーの空間に穴をあける。
間一髪のところで正友を救い出し、正友を背中にかばいエドガーに立ちふさがる。
「エドガー! 君はどこまでひとをあざ笑えば……!」
「サカノ。アナタが私に説教か? 呪詛るんを作っておいて、私に説教か?」
「げほっ、坂野さん。呪詛るんを作ったって……」
正友がひゅうひゅうと肩で息をしながら坂野に問い詰める。坂野は後ろ手に頷くだけで、なにも言わない。
エドガーが甲高い笑いを漏らした。正友が坂野に侮蔑の目を向けたからだ。
「馬鹿だったんだ。僕はおろかだった。だからこそ、僕は君を探していた」
「サカノ。なにを企んでいるのか知らないが、依り代を手に入れたところでオマエは」
「僕が欲しいのは依り代じゃない。林田正友くんの言霊だ」
エドガーがまた、笑いを漏らす。正友には確かに霊力がある。だが、その霊力をもってしても、坂野の足元にも及ばない。坂野を殺すことも、式神を滅することもできるわけがない。余裕の笑みだ。なんなら、馬鹿にして見下してあざ笑った。
しかし、そんなエドガーの余裕はすぐに崩される。
「君に、僕の存在を否定してほしいんだ」
「坂野さん……?」
「僕が消えれば、すべての式神がこの世から消える。霊的干渉が消えるんだ。むろん、呪詛るんも使えなくなる。そういう契約を、冥界の王とね」
「サカノ!」
エドガーが吼えた。いくらなんでも、そのようなことは不可能なはずだ。そう思う反面、坂野の存在を否定するだけならば、正友の霊力でもなし得る可能性は充ある。
万が一の可能性を考慮して、エドガーが正友を説得にかかる。
「正友、それは殺人と同じだ」
「正友くん、お願いだ。坂野弘彦がいない世界を、願ってくれないか」
「で、でも……」
坂野は多くの人間に自分の名前を呪詛るんに書かせてきた。それに加えて、正友がその言霊を使えば、坂野の存在を消すことが可能になるかもしれない。
いや、待て。エドガーの脳裏にある可能性が浮かぶ。それならば、言霊の力で自分を不老不死にすることも可能ではないか。
「正友! サカノは悪いやつだ」
「エドガーさん……?」
「だから私を不老不死にしてくれ。私はサカノを止めなければならない」
まるで嘘八百だ。エドガーは正友を利用するだけ利用して、自分の目的を遂行したいだけだ。
しかし、正友は首を縦に振らなかった。代わりに、エドガーへの不信の目と、坂野への希望の目を見せる。
ダメだ。正友はすべてを知ってしまった。
エドガーは本能的に理解して、正友を殺すことに決める。
がっと床をけり、エドガーが走る。しかし、正友のほうが速かった。正友に迷いがなかったわけではない。だが、呪詛るんの存在は正友自身も知っていたし、なにより。
「花江おばあちゃんの遺言です。坂野さんに助けを求められたら、助けてあげろって」
「ああ、そうか。懐かしい霊力だと思ったら。森野花江さんの孫だったのか」
ほんの一瞬のやり取りだ。それだけ語って、正友はその言葉を口にした。強く、強く願いながら。
「坂野弘彦、彼のいない世界に」
果たして、坂野の存在が消える。
時が逆巻く、逆巻く、逆巻いて――。
坂野も、正友も、エドガーも。世界のすべての存在が、リセットされていく。そのさなか、坂野が最後に見たものは、エドガーの人生、それであった。
***
エドガーは日本に住むイタリア系のクオーターだ。曾祖母がイタリア人で、日本に渡り帰化したため、日本語も流ちょうに話せる。そして、この屋敷の主である。
とある町のはずれに、廃墟がある。町の人々は昔殺人があった屋敷だからと、誰も近寄らない廃墟だ。だが実際、ここは迫害された人間が住んでいたのだから、噂話も馬鹿にならないものである。
エドガーの曾祖父は日本のこの町で生まれた。観光地としても有名なこの地で、観光ガイドをして生計を立てていた。そこで出会ったのがエドガーの曾祖母である。エドガーの曾祖母は、イタリアから観光で日本を訪れていた。それを、曾祖父が一目ぼれし、観光滞在中に猛アタックして彼女の心を射止めたのだ。
しかも曾祖母はイタリアでもかなり有名な財閥で、日本に移住するにあたり両親からこの屋敷をプレゼントされた。
屋敷のつくりはとても豪華で、日本には似合わない外観をしている。それに加えて、曾祖父の時代はまだ外国人が珍しく、エドガーの曾祖母はたいそう不便な思いをしたと、エドガーは聞いている。
「大おばあさま、お話を聞かせて」
「またかい、エドガー」
エドガーが四歳になるまで、曾祖母は生きていた。曾祖父は早々に亡くなり、曾祖母はいつも寂しそうに夫婦写真を眺めていた。
その、曾祖母から聞くイタリアの話が、エドガーはなにより好きだった。
エドガー自身も、日本という国で差別され、学校では肩身の狭い思いをしていた。だから余計に、曾祖母の話を聞くのが楽しかった。自分の居場所は日本ではない。イタリアなのだと思うほどであった。
「イタリアには魔術というものが存在してね」
「『まじつ』! それは、お化けとか幽霊とか?」
「いいえ。魔術はね、悪魔や天使を召喚するものよ」
「悪魔を!? でも、悪魔って悪いやつじゃん」
「使いかたを誤らなければ大丈夫。魔術師は、悪魔を従えることができるのよ。だから、悪魔を召喚しても平気なの。すごいひとたちなのよ」
よもや、自分が魔術師になろうとは、この時のエドガーは思いもしなかった。
「イタリアに行けば、おれも『まじつし』になれる?」
「どうかしら。魔術師になれるのはほんの一握りよ」
「おれ、たくさん練習する」
「あら、エドガーは魔術に興味があるの?」
エドガーの曾祖母が優しく笑う。エドガーは曾祖母の膝に乗り、こぶしを作って曾祖母に見せる。
「おれは強いから。きっとだいじょぶ」
「そう、エドガーは強いのね」
「うん、つよいの」
だが、曾祖母は知っている。エドガーが幼稚園でどんな扱いを受けているか。曾祖母がイタリア人なばかりに、この子は不憫な思いをしている。
土地柄仕方のないことだとわかっていても、エドガーには心の広い大人に育ってほしいと願ってしまう。
「大おばあさま?」
「エドガー。どんなことがあっても、素直に育っておくれ」
「すなお?」
「そう。まっすぐにってことよ」
「わかった! まっすぐな『まじつし』になるよ!」
曾祖母との会話はいつでも楽しく、エドガーを異世界へといざなった。
曾祖母は日本に来てから、たくさんのことを勉強した。日本語に始まって、風土のこと、食べ物のこと。
だが、唯一理解できなかったのは、閉鎖的な、排他的な町の人々のことだった。
日本は島国だ、隣り合う国がないためか、異国の人間にことさら過敏で、平気で他人を虐げる。
日本は好きだが、その文化だけが、気がかりだった。こと、エドガーは素直すぎるほど素直で、ひとの悪意に簡単に侵されてしまう。だからこそ、この子にはもっと世界の広さを教えねばと思ったのだ。
曾祖母の心配などつゆ知らず、エドガーは曾祖母の膝の上でこくりこくりと居眠りをしていた。
曾祖母が亡くなったのはそれから数週間後のことだった。
エドガーは泣いた。居場所がなくなった。なにより悲しかったのは、クラスメイトが「悪魔が死んだ!」と揶揄したことだった。子供にとって異国の人間は、人間ではないらしい。
「大おばあさまは悪魔なんかじゃない!」
「やーい、悪魔の一族! お前も一緒に死ねばよかったんだ!」
差別的な町だった。ゆえに、教師も大人も、誰ひとりエドガーをかばうものなどいなかった。悔しさと悲しさとやるせなさと、無力感。
国が違うだけでなぜこうも無碍に扱われるのだろうか。同じ人間なのに、なぜ。
幼いながらもエドガーはこの世界の不条理を経験した。世界を憎みさえした。
復讐してやろうと思った。同時に、エドガーは死が怖くなった。
動かなくなった曾祖母は、生きているときとなんら変わらないはずなのに、その死骸には妙な恐怖があった。
昨日まで息をして、温度をもっていた体が、今はもう冷たく動かない。
死に化粧がその恐怖をさらに高めた。大おばあさまはこんな派手な化粧はしない。もっとしとやかで柔らかく、あたたかなひとだった。
この時、エドガー少年の中に目覚めたのは、死への恐怖――いや、不死への興味と熱望である。
「お父さん、お母さん。おれは、日本にいたくない」
「そうか。幼稚園でもうまくいってないみたいだしな」
「そうね。私たちではどうにもできないわ。エドガーだけでも、イタリアの親戚に預けますか?」
両親は日本を離れられなかった。ずっと日本で暮らしてきた両親にとっては、多少窮屈でも生まれ育った町のほうがいいのだろう。
こんな町、嫌いだ。エドガー少年はその後、十五になるまでイタリアで暮らすこととなる。
イタリアでは、多くの人間が魔術を信じている。なかには、魔術を行う人間もいるほどだ。エドガー少年はのびのびと育った。曾祖母のことも忘れ、死への恐怖も薄れた。
そんな、エドガーに、訃報が入った。屋敷が火事になったのだ。その火事で、両親も兄弟も焼け死んだ。
うそだ、と思った。こんなことがあってたまるか。
つい先日も、国際電話で話したばかりだ。寒くなったから火のもとには気を付けて。そう言ったのは母のほうだ。そんな母が、火の不始末なんてあり得るのだろうか。
すぐさま日本に帰国して、エドガーは葬式で喪主を務めた。
町の人々が焼香に訪れる。しかし、泣いている者はいない。
その代わり、陰口を言うひとはたくさんいた。
「これで町の治安が良くなる」
「家も燃えてなくなればよかったのに」
「あの息子、見ないと思ってたら海外に逃げてたんですって」
「帰ってくるのか? やめてくれ」
唇をかみしめる。こんな町、こちらから願い下げだ。
心に反して、エドガーは日本に帰国する決意をする。この屋敷は修繕して、以前のままに残すことにした。家族の痕跡をこの世にとどめておくためにも、エドガーは定期的にこの屋敷を訪れている。ただし、町の人間に気づかれないように。
「俺は絶対に、不老不死になるよ」
墓前で誓った。エドガーは、未来永劫この町の住人を呪うことにした。自分が生き続けている限り、自分の家族も、エドガー自身もこの世界から消えてなくなることはない。それこそがこの町の人間への復讐だと、エドガーはその日から魔術を学んだ。
そんななかで、坂野弘彦と呪詛るんの存在を知った。エドガーがそれまで呪詛るんの存在を知らなかったのは、エドガーの人生が幸せで充実したものだったからだ。
エドガーはこの世界に復讐を果たしたい。この世界、エドガーの知る世界、日本のとある町の、狭い狭い世界に。