第五章 呪詛返し
ねえ知ってる? ある芸人さんの手記なんだけど。一時期バカ売れしたのに、芸人さんが病んでしまって、その手記は嘘まみれの滅裂思考が書かれてるって絶版になったんだって。私も噂しか知らないけれど、その芸人さんって敵も多かったらしいから、そのストレスでおかしな手記を書いてしまったのかもね。
それが呪詛だということは、端からわかりきったことだった。
毎日、彼は少女に憑りつかれている。背中にぎゅっとしがみつく少女は、子泣き爺よろしく徐々に徐々に体が重くなる。
最初は疲れているのだと思っていた。こんな幻覚を見る自分はおかしいのだとも。
しかし、どこで検査を受けても自分に異常は見つからないし、なんなら精神科の薬も飲んでみたが、まるで効果がない。それどころか薬の副作用で死ぬ思いをしたため、彼はこの少女が、『呪い』なのだと思うしかなかった。
そうだとして、自分を呪う人間など、彼には心当たりが多すぎた。なぜなら彼はテレビ番組でも引っ張りだこの、今が旬のタレントである。
とあるギャグがヒットして、いまや冠番組も持つほどであるし、だからこそ、この少女をどうにかせねばと必死である。
「呪い、ですね。背中に少女がしがみついている」
そう言われたのは、大分由緒ある神社の神主にである。どうもその神社は、『安倍晴明』の子孫らしく、細々ではあるが、それを生業として生計を立てられるくらいである。
だからといって、その神主には、その呪いを解くことは不可能であった。なぜなら、呪いを解く方法はふたつ。
呪詛返しをするか、丑の刻参りをやめさせるか。
彼はそこまでの情報を得ていながら、少女をどうすることもできなかった。できないながらも、有力な情報を得ていた。それが、『坂野弘彦』という人間を探せ、ということであった。
坂野弘彦が何者なのか、教えてくれた神主に問うも『それはお答えできません』その一言だけでそれ以上は聞き出せなかった。
だから彼は、毎日、毎朝、毎晩。
坂野弘彦という男を、心の中で呼び続けた。
シャララ。
鈴の音が聞こえる。八月に入った、蒸し暑い夜のことである。
熱帯夜が続いていたというのに、今日の部屋は冷房なしでもひやりとしているくらいであった。
彼はドキドキと鼓動を速める。聞いた話と同じだ。坂野弘彦、彼は鈴の音とともに現れる、風変わりな男である。
シャララ。
もう一度、彼の部屋に鈴の音が響く。
そうして、
「う、わ!?」
ふわっと彼の目の前に現れたのは、まぎれもなく彼、『坂野弘彦』である。その風貌は、神主に聞いていたものと寸分もたがわない。
くたびれた顔に、年のころは二十代そこそこ。
白い和服のような衣装を身にまとい、首からしめ縄をネックレスのようにぶら下げて、その先端には大きな鈴。
しめ縄は本来神聖なものだ。そのしめ縄を自身にぶら下げるということは、自身を神格化し、この世から隠すための結界のひとつなのだと、神主が言っていた。
なるほど、こうやってふらりと人々の前に現れて、そうして呪われた人間を助けて回っているってわけか。
「坂野弘彦、なのか?」
確認するように、彼が言う。
「大井円くん。僕を呼んだのは君だね? うるさくってたまらない」
どうやら、彼――円が、毎日毎日坂野を呼んでいたことは、坂野も知っていたようだ。知っていたのなら、もっと早く助けに来てくれればいいものを。
「まあ、実家からの命令とあらば、出向くほかないんだけど」
「え?」
「いや、こっちの話。それで、そうかい。君もなかなか、難儀な仕事をしているねえ」
ほうっと息を吐く坂野に、円はこてんと首を傾げた。
坂野が右手を胸の前に掲げる。そうして人差し指と中指を立てると、ごうっとその場に炎が上がった。
赤い炎だ。そして、その炎の中心に見えるのは、あの少女だ。円の背中に乗っかって、毎日毎日円の邪魔をする、あの少女。
炎の中心にいる少女の表情は、戦々恐々とするものであり、円は思わず目をそらした。
ごうっと赤い炎が円を囲む。そうして炎に人間の顔が浮かび上がって、口々に円を侮蔑する。
『調子に乗るな』
『殺したい』
『一発屋のくせに』
『なんでオマエみたいなヤツが』
『許さない』
『消えてなくなれ』
顔は浮かんでは消え、消えては浮かぶ。数百体、いや、数千体は固いであろうその数は、円がいかに強い呪いを受けているかを物語っている。
円はカタカタと震え、耳をふさぐ。
「坂野! この呪いをどうにかしてくれ!」
しかし坂野は、乗り気ではない。数が多すぎるのだ。それに、この人物とはできればかかわりたくなかった。
スキャンダルまみれのタレントだ、女遊びをしたり、他人を平気で傷つけたり。時にはライバルを蹴落としたりと、これではいくら呪詛を祓っても、きりがない。
それに、現状円の呪いは、命にかかわるものもない。あるひとつを除いては。
「大井円くん。僕が君の呪いを解くことは不可能だ」
「……は? はあ? じゃあなんで俺の前に現れたんだよ」
円は不遜な態度で坂野に言い返す。坂野はやれやれと肩をすくめた。こういう人間が一番たちが悪い。助けてもらって当たり前、だけれど自分は他人を助けようとは少しだって思わない。
自分勝手、身勝手な人間が、坂野は嫌いだ。助ける価値もないと思う。だからこそ、なかなか坂野は円のもとを訪れなかった。坂野だって面倒だと思う人間はいる。
「坂野さん、金ならいくらでも払う。俺の呪いを解いてくれ」
「だから。僕は呪いを解くことはできないんだってば。だから代わりに、ふたつの方法を提案しに来た」
坂野はパチン! と指を鳴らす。すると、今までごうごうと上がっていた炎が消えて、そこには少女がぽつんと、円の目の前に立っているのみになった。
『アンタ、アンタは本当に呪いがいがある。こんなにたくさんの人間に呪われて。アンタの傍にいたら、私は『人間の悪意』には困りそうもない。だからねえ、坂野じゃなく、私を選びなよ?』
少女の口が、耳まで裂ける。
円はブルリと身震いして、坂野のほうをにらみ見上げる。
「いいから、早くコイツをどうにかしてくれ」
「あーもう。だからね、この呪いを解くは、呪詛返しするか、呪詛主の丑の刻参りを終わらせるしかないんだよ」
言いたくなかった、そんな雰囲気をにじませながら、坂野はぼそぼそと円に告げる。みるみる円の顔色が明るくなる。迷いは一切ないようだ。
円は立ち上がり、坂野に詰め寄る。
「『呪詛返し』一択だな。それで、坂野さん。呪詛主のことや呪詛返しについて、もう少し詳しく聞かせてくれ!」
坂野の手を取る円を見て、傍にいた少女がかすかに笑う。
かと思えば、高笑いしておのずから姿を消していく。
『あはは、あははは。坂野、馬鹿だねえ。オマエは本当にお人好しの馬鹿だ。大井円、また会おうね?』
少女はうっそりと円の顔を見つめながら、消えていった。
しかし、円はそれどころではない。呪詛返しの方法を聞くのに精いっぱいである。
「呪詛返すんですってアプリがあって。それに名前を書き込めば、君の呪いは呪詛主に返るけれど」
「そうか、じゃあそのアプリをインストールする。それで、俺を呪ってるヤツの名前は?」
前のめりに聞いてくる円に、坂野はうげえっと舌を出し、げんなりした様子である。
しかし、答えないわけにはいかない。坂野はいつも、『呪われる側の人間』に、『呪う側の人間』の情報を与えるようにしている。それがフェアだと思うからだ。呪う側だけがその人物の名前を知っているのはいささか不公平。
だから坂野は、呪われる側の人間にも、呪詛主の情報を与えるのだ。そのうえで、呪われる側の人間がどんな選択をするのか、そこから先は本人次第である。
とはいえ、円のようなタイプはまれだ。呪われる側の人間は、往々にして『気が弱い』。優しいとも言い換えられるが、坂野はそういう人間の弱さが嫌いでもあり、好ましくもあった。
けれどきっと、この大井円という人間は、『それ』をなんなく使うだろう。
「君を呪った人間は多すぎてなんとも。ただ、君を苦しめている呪詛をかけている人間の名前なら、教えてあげられるけど」
「なんだよそれ、全員の名前を書かなきゃ、また俺が呪われるだろ」
「いいや。『普通の人間』であれば、その呪詛は微々たるものだよ。蚊に刺される程度の呪詛力しかない」
それを聞いても、円はやや不満げである。本当に厄介な人間だ。
しかし、呪われた人間には変わりない。この人間がどんな判断を下すにせよ、坂野の知ったことではないのだ。
「君を苦しめているのは、主に『森野花江』。彼女の呪詛だよ」
「森野花江……そいつは、俺のアンチかなんかなのか?」
「いいや。彼女はただの呪詛代行。ひとつ付け加えると、まだ十七歳の分別のない子供だよ。君以外にも、現在進行形で三人の人間に呪いをかけている」
しかし、後半は円の耳には入っていない。さっそくアプリを起動した円は、『森野花江』の名前を打ち込んでいる。
「これで、丑三つ時に五寸釘を打ち込めば、呪詛返しは完了なんだな?」
「……僕が説明するまでもなかったね。そうだね、あとはご自由に」
「ああ、助かった。それに、呪詛るんが本物だってこともわかったしな」
本当に辟易する。
坂野は円の家から姿を消しながら、憂えるように円を見ていた。円の傍には、あの少女の姿が。嬉々とした表情で、円を見ている。
丑三つ時。円は呪詛返すんですを起動して、そうして坂野から知らされた呪詛主の名前を書き込んだ。ほうっと辺りを青白い光が包み込む。
『ほんと、嫌になるわ』
「うわ!?」
あの、少女である。坂野とともに昼間に現れた、あの呪いの少女だ。円が恐れ一歩引いたところで、少女は円にふと笑いかけた。
『大丈夫、私は妹とは違うから』
「妹?」
『そう。呪いを運ぶ式神、と言ったらわかるかな?』
なるほど、似ていて当たり前だ。少女は呪いを運ぶ式神、の双子の姉。ふたりは本来ふたつでひとつ。それが、坂野によって覆された。妹の式神の暴走は、姉にとっては不本意極まりないものらしい。呪詛返しの式神の少女が、円の呪いを両手で包み込むようにして取り去った。
『主のもとへ帰りなさい』
式神が言えば、青白い光――呪いだ――がふわっと宙に浮いて、そして間髪入れずに現れたのは、少女と瓜二つの顔、例の呪詛を運ぶ式神である。
『あはは。大井円。アンタは本当に呪いがいのある人間だ』
「……なんでオマエが」
『坂野から聞いてないの? まあいい。でも、覚えておいて』
呪いを運ぶ式神が、うっそりと円を見ている。呪詛返しの式神のほうは、渋い顔だ。
なにが自分たちを別けたのだろう。坂野の存在だろうか、人間の業だろうか。
『呪詛返しされた呪いを運ぶのは、私のほうだ。姉の能力は呪詛を跳ね返すだけ。だから、アンタがもっとも信頼すべきは、私のほう』
「信頼……」
『そうだ。呪われるくらいなら、最初から呪えばいい。それでも呪われるなら呪詛返しを。世のなかなんて、そんな風にできているって、アンタもよーく知ってるでしょう?』
あはは、うふふ。
呪いを運ぶ式神が、すうっと姿を消していく。あの少女は、毎晩円を苦しめていた、正真正銘の呪いだ。その少女を受け入れることなど、普通の人間では不可能だったに違いない。けれど円は違った。
「そうか、そうだよなあ」
その日から、円は呪詛るんを手放せなくなった。
呪われる側が『いい人間』とは限らない。時には呪う側よりも悪意に満ちた人間だっている。
もしもそんな人間を呪ってしまったら、その人間が呪詛返しの方法を知ってしまったら。
坂野はそうそうに『たんさくん』に頼んで、彼女の居場所を探し出す。『森野花江』。彼女は多くを呪いすぎた。
無差別に呪いすぎた彼女は、もしかすると坂野のせいでしっぺ返しを食らうかもしれない。それはそれで、自業自得だと思う。坂野自身がそうであるように、森野花江もまた、十分な罰を受けてしかるべき。
だけれど、坂野にはそれができない。呪われる側はもちろん、呪う側も救済したい。そうでなければ、呪詛るんを作り出した坂野の贖罪は、未来永劫終わらない。
呪詛返し、呪詛。どちらも他人を呪うことに変わりはないというのに、呪詛に比べて呪詛返しのハードルははるかに低い。
目には目を、歯には歯を。呪いには呪いを。
命に係わるものだけに、呪詛返しの道を選んだ人間を、坂野は責めることができなかった。
とあるテレビ番組で、円が不敵に笑っている。
「大井さん。最近ますます毒舌が加速していますが、アンチとか怖くないんですか?」
「アンチ? そんなの怖がっていたら、この仕事やってられないですよ。それにね、知ってます? 呪いって、存在するんですよ」
今日もまた、呪いが呪いを生み出す。
坂野はまた、新しい呪いを探し出し、そうして呪いに対峙する。いつか自身が死ねるように、いつかこの罪が許されるように。
ねえ知ってる? ある芸人さんの手記なんだけど。一時期バカ売れしたのに、芸人さんが病んでしまって、その手記は嘘まみれの滅裂思考が書かれてるって絶版になったんだって。私も噂しか知らないけれど、その芸人さんって敵も多かったらしいから、そのストレスでおかしな手記を書いてしまったのかもね。
それが呪詛だということは、端からわかりきったことだった。
毎日、彼は少女に憑りつかれている。背中にぎゅっとしがみつく少女は、子泣き爺よろしく徐々に徐々に体が重くなる。
最初は疲れているのだと思っていた。こんな幻覚を見る自分はおかしいのだとも。
しかし、どこで検査を受けても自分に異常は見つからないし、なんなら精神科の薬も飲んでみたが、まるで効果がない。それどころか薬の副作用で死ぬ思いをしたため、彼はこの少女が、『呪い』なのだと思うしかなかった。
そうだとして、自分を呪う人間など、彼には心当たりが多すぎた。なぜなら彼はテレビ番組でも引っ張りだこの、今が旬のタレントである。
とあるギャグがヒットして、いまや冠番組も持つほどであるし、だからこそ、この少女をどうにかせねばと必死である。
「呪い、ですね。背中に少女がしがみついている」
そう言われたのは、大分由緒ある神社の神主にである。どうもその神社は、『安倍晴明』の子孫らしく、細々ではあるが、それを生業として生計を立てられるくらいである。
だからといって、その神主には、その呪いを解くことは不可能であった。なぜなら、呪いを解く方法はふたつ。
呪詛返しをするか、丑の刻参りをやめさせるか。
彼はそこまでの情報を得ていながら、少女をどうすることもできなかった。できないながらも、有力な情報を得ていた。それが、『坂野弘彦』という人間を探せ、ということであった。
坂野弘彦が何者なのか、教えてくれた神主に問うも『それはお答えできません』その一言だけでそれ以上は聞き出せなかった。
だから彼は、毎日、毎朝、毎晩。
坂野弘彦という男を、心の中で呼び続けた。
シャララ。
鈴の音が聞こえる。八月に入った、蒸し暑い夜のことである。
熱帯夜が続いていたというのに、今日の部屋は冷房なしでもひやりとしているくらいであった。
彼はドキドキと鼓動を速める。聞いた話と同じだ。坂野弘彦、彼は鈴の音とともに現れる、風変わりな男である。
シャララ。
もう一度、彼の部屋に鈴の音が響く。
そうして、
「う、わ!?」
ふわっと彼の目の前に現れたのは、まぎれもなく彼、『坂野弘彦』である。その風貌は、神主に聞いていたものと寸分もたがわない。
くたびれた顔に、年のころは二十代そこそこ。
白い和服のような衣装を身にまとい、首からしめ縄をネックレスのようにぶら下げて、その先端には大きな鈴。
しめ縄は本来神聖なものだ。そのしめ縄を自身にぶら下げるということは、自身を神格化し、この世から隠すための結界のひとつなのだと、神主が言っていた。
なるほど、こうやってふらりと人々の前に現れて、そうして呪われた人間を助けて回っているってわけか。
「坂野弘彦、なのか?」
確認するように、彼が言う。
「大井円くん。僕を呼んだのは君だね? うるさくってたまらない」
どうやら、彼――円が、毎日毎日坂野を呼んでいたことは、坂野も知っていたようだ。知っていたのなら、もっと早く助けに来てくれればいいものを。
「まあ、実家からの命令とあらば、出向くほかないんだけど」
「え?」
「いや、こっちの話。それで、そうかい。君もなかなか、難儀な仕事をしているねえ」
ほうっと息を吐く坂野に、円はこてんと首を傾げた。
坂野が右手を胸の前に掲げる。そうして人差し指と中指を立てると、ごうっとその場に炎が上がった。
赤い炎だ。そして、その炎の中心に見えるのは、あの少女だ。円の背中に乗っかって、毎日毎日円の邪魔をする、あの少女。
炎の中心にいる少女の表情は、戦々恐々とするものであり、円は思わず目をそらした。
ごうっと赤い炎が円を囲む。そうして炎に人間の顔が浮かび上がって、口々に円を侮蔑する。
『調子に乗るな』
『殺したい』
『一発屋のくせに』
『なんでオマエみたいなヤツが』
『許さない』
『消えてなくなれ』
顔は浮かんでは消え、消えては浮かぶ。数百体、いや、数千体は固いであろうその数は、円がいかに強い呪いを受けているかを物語っている。
円はカタカタと震え、耳をふさぐ。
「坂野! この呪いをどうにかしてくれ!」
しかし坂野は、乗り気ではない。数が多すぎるのだ。それに、この人物とはできればかかわりたくなかった。
スキャンダルまみれのタレントだ、女遊びをしたり、他人を平気で傷つけたり。時にはライバルを蹴落としたりと、これではいくら呪詛を祓っても、きりがない。
それに、現状円の呪いは、命にかかわるものもない。あるひとつを除いては。
「大井円くん。僕が君の呪いを解くことは不可能だ」
「……は? はあ? じゃあなんで俺の前に現れたんだよ」
円は不遜な態度で坂野に言い返す。坂野はやれやれと肩をすくめた。こういう人間が一番たちが悪い。助けてもらって当たり前、だけれど自分は他人を助けようとは少しだって思わない。
自分勝手、身勝手な人間が、坂野は嫌いだ。助ける価値もないと思う。だからこそ、なかなか坂野は円のもとを訪れなかった。坂野だって面倒だと思う人間はいる。
「坂野さん、金ならいくらでも払う。俺の呪いを解いてくれ」
「だから。僕は呪いを解くことはできないんだってば。だから代わりに、ふたつの方法を提案しに来た」
坂野はパチン! と指を鳴らす。すると、今までごうごうと上がっていた炎が消えて、そこには少女がぽつんと、円の目の前に立っているのみになった。
『アンタ、アンタは本当に呪いがいがある。こんなにたくさんの人間に呪われて。アンタの傍にいたら、私は『人間の悪意』には困りそうもない。だからねえ、坂野じゃなく、私を選びなよ?』
少女の口が、耳まで裂ける。
円はブルリと身震いして、坂野のほうをにらみ見上げる。
「いいから、早くコイツをどうにかしてくれ」
「あーもう。だからね、この呪いを解くは、呪詛返しするか、呪詛主の丑の刻参りを終わらせるしかないんだよ」
言いたくなかった、そんな雰囲気をにじませながら、坂野はぼそぼそと円に告げる。みるみる円の顔色が明るくなる。迷いは一切ないようだ。
円は立ち上がり、坂野に詰め寄る。
「『呪詛返し』一択だな。それで、坂野さん。呪詛主のことや呪詛返しについて、もう少し詳しく聞かせてくれ!」
坂野の手を取る円を見て、傍にいた少女がかすかに笑う。
かと思えば、高笑いしておのずから姿を消していく。
『あはは、あははは。坂野、馬鹿だねえ。オマエは本当にお人好しの馬鹿だ。大井円、また会おうね?』
少女はうっそりと円の顔を見つめながら、消えていった。
しかし、円はそれどころではない。呪詛返しの方法を聞くのに精いっぱいである。
「呪詛返すんですってアプリがあって。それに名前を書き込めば、君の呪いは呪詛主に返るけれど」
「そうか、じゃあそのアプリをインストールする。それで、俺を呪ってるヤツの名前は?」
前のめりに聞いてくる円に、坂野はうげえっと舌を出し、げんなりした様子である。
しかし、答えないわけにはいかない。坂野はいつも、『呪われる側の人間』に、『呪う側の人間』の情報を与えるようにしている。それがフェアだと思うからだ。呪う側だけがその人物の名前を知っているのはいささか不公平。
だから坂野は、呪われる側の人間にも、呪詛主の情報を与えるのだ。そのうえで、呪われる側の人間がどんな選択をするのか、そこから先は本人次第である。
とはいえ、円のようなタイプはまれだ。呪われる側の人間は、往々にして『気が弱い』。優しいとも言い換えられるが、坂野はそういう人間の弱さが嫌いでもあり、好ましくもあった。
けれどきっと、この大井円という人間は、『それ』をなんなく使うだろう。
「君を呪った人間は多すぎてなんとも。ただ、君を苦しめている呪詛をかけている人間の名前なら、教えてあげられるけど」
「なんだよそれ、全員の名前を書かなきゃ、また俺が呪われるだろ」
「いいや。『普通の人間』であれば、その呪詛は微々たるものだよ。蚊に刺される程度の呪詛力しかない」
それを聞いても、円はやや不満げである。本当に厄介な人間だ。
しかし、呪われた人間には変わりない。この人間がどんな判断を下すにせよ、坂野の知ったことではないのだ。
「君を苦しめているのは、主に『森野花江』。彼女の呪詛だよ」
「森野花江……そいつは、俺のアンチかなんかなのか?」
「いいや。彼女はただの呪詛代行。ひとつ付け加えると、まだ十七歳の分別のない子供だよ。君以外にも、現在進行形で三人の人間に呪いをかけている」
しかし、後半は円の耳には入っていない。さっそくアプリを起動した円は、『森野花江』の名前を打ち込んでいる。
「これで、丑三つ時に五寸釘を打ち込めば、呪詛返しは完了なんだな?」
「……僕が説明するまでもなかったね。そうだね、あとはご自由に」
「ああ、助かった。それに、呪詛るんが本物だってこともわかったしな」
本当に辟易する。
坂野は円の家から姿を消しながら、憂えるように円を見ていた。円の傍には、あの少女の姿が。嬉々とした表情で、円を見ている。
丑三つ時。円は呪詛返すんですを起動して、そうして坂野から知らされた呪詛主の名前を書き込んだ。ほうっと辺りを青白い光が包み込む。
『ほんと、嫌になるわ』
「うわ!?」
あの、少女である。坂野とともに昼間に現れた、あの呪いの少女だ。円が恐れ一歩引いたところで、少女は円にふと笑いかけた。
『大丈夫、私は妹とは違うから』
「妹?」
『そう。呪いを運ぶ式神、と言ったらわかるかな?』
なるほど、似ていて当たり前だ。少女は呪いを運ぶ式神、の双子の姉。ふたりは本来ふたつでひとつ。それが、坂野によって覆された。妹の式神の暴走は、姉にとっては不本意極まりないものらしい。呪詛返しの式神の少女が、円の呪いを両手で包み込むようにして取り去った。
『主のもとへ帰りなさい』
式神が言えば、青白い光――呪いだ――がふわっと宙に浮いて、そして間髪入れずに現れたのは、少女と瓜二つの顔、例の呪詛を運ぶ式神である。
『あはは。大井円。アンタは本当に呪いがいのある人間だ』
「……なんでオマエが」
『坂野から聞いてないの? まあいい。でも、覚えておいて』
呪いを運ぶ式神が、うっそりと円を見ている。呪詛返しの式神のほうは、渋い顔だ。
なにが自分たちを別けたのだろう。坂野の存在だろうか、人間の業だろうか。
『呪詛返しされた呪いを運ぶのは、私のほうだ。姉の能力は呪詛を跳ね返すだけ。だから、アンタがもっとも信頼すべきは、私のほう』
「信頼……」
『そうだ。呪われるくらいなら、最初から呪えばいい。それでも呪われるなら呪詛返しを。世のなかなんて、そんな風にできているって、アンタもよーく知ってるでしょう?』
あはは、うふふ。
呪いを運ぶ式神が、すうっと姿を消していく。あの少女は、毎晩円を苦しめていた、正真正銘の呪いだ。その少女を受け入れることなど、普通の人間では不可能だったに違いない。けれど円は違った。
「そうか、そうだよなあ」
その日から、円は呪詛るんを手放せなくなった。
呪われる側が『いい人間』とは限らない。時には呪う側よりも悪意に満ちた人間だっている。
もしもそんな人間を呪ってしまったら、その人間が呪詛返しの方法を知ってしまったら。
坂野はそうそうに『たんさくん』に頼んで、彼女の居場所を探し出す。『森野花江』。彼女は多くを呪いすぎた。
無差別に呪いすぎた彼女は、もしかすると坂野のせいでしっぺ返しを食らうかもしれない。それはそれで、自業自得だと思う。坂野自身がそうであるように、森野花江もまた、十分な罰を受けてしかるべき。
だけれど、坂野にはそれができない。呪われる側はもちろん、呪う側も救済したい。そうでなければ、呪詛るんを作り出した坂野の贖罪は、未来永劫終わらない。
呪詛返し、呪詛。どちらも他人を呪うことに変わりはないというのに、呪詛に比べて呪詛返しのハードルははるかに低い。
目には目を、歯には歯を。呪いには呪いを。
命に係わるものだけに、呪詛返しの道を選んだ人間を、坂野は責めることができなかった。
とあるテレビ番組で、円が不敵に笑っている。
「大井さん。最近ますます毒舌が加速していますが、アンチとか怖くないんですか?」
「アンチ? そんなの怖がっていたら、この仕事やってられないですよ。それにね、知ってます? 呪いって、存在するんですよ」
今日もまた、呪いが呪いを生み出す。
坂野はまた、新しい呪いを探し出し、そうして呪いに対峙する。いつか自身が死ねるように、いつかこの罪が許されるように。