第三章 呪われた家族

 お母さんから聞いた話だ。私の家には代々決め事があって、私もいつか、それを受け継ぐ。とあるアプリにとある名前を書き込むだけの、簡単な仕事だ。


 メリメリメリ、ぢりぢりぢり。
 嫌な音とともに痛みが走る。最初は顔だけだった。
 丑三つ時。彼女はいつも金縛りにあう。毎日毎日、同じ時間に。それがもう、二十日。
 そうして、金縛りにあうと必ず、その枕元に少女が現れるのだ。
『ああ、本当にアナタのお顔って、素敵ね』
 少女はうっそりとした表情で、だけれど、その表情からは想像もできない行動を起こす。
 鋭くとがった爪が彼女の顎にめり込む。そうしてメキっと皮を毟りとり、そのまま顎から額にかけて、ゆっくりといたぶるように彼女の顔の皮が剥がされていくのだ。
「いぁあぉあぁああああ!」
『ねえ、痛い? 痛い? ねえ、素敵。素敵だよ』
 少女はキャッキャと楽しみながら、彼女の顔の皮を剥がしていく。
 ベリベリ、メキメキ。
 相当の力だ、少女のものとは思えない力で、彼女の顔の皮が剥ぎ取られていく。
「いゃあああぁぁああ!」
『あはは、ねえ、ねえ。痛いのね、かわいそう。アナタって呪われているのよ』
 丑三つ時。午前二時から二時半にかけて、三十分にわたって少女は彼女の顔の皮を、時には全身の皮を剥きむしっていく。
 その時間、家族は絶対に彼女を助けることができない。

「愛!」
 丑三つ時になると、どういうわけか愛の家族は睡魔に襲われる。愛が少女に皮をむしりとられている三十分間、愛の家族は絶対に愛を助けることができない。それすら呪いの一部なのである。
 丑三つ時が過ぎると、愛の家族は目を覚まして、愛の部屋へと駆け込む毎日だ。
「お父さん、お母さん……!」
 涙にぬれた瞳の周りの皮膚は、赤黒くただれており、首から下も昨日よりさらにさらにただれが広がっている。
 最初はだれも信じていなかった。愛自身も。
 愛の自宅のポストに、とある手紙が入っていた。プリントされた紙には、「呪ってやる」ただ一言、そう打ち込まれていた。
 最初は単なるいたずらだと思っていた。愛はごく普通の会社員だ、誰かから恨まれるようなことをした覚えはないし、そもそもこんな子供じみたいたずらに動じるような人間は、この世界に存在しない。なぜなら、誰もが呪いなど信じていないからだ。
 しかしながら、その手紙を受け取った日から、愛は毎日金縛りにあうようになった。そして、あの少女だ。
 最初は顎に爪を立てるだけだった。それが、日を追うごとに皮を剥ぎ剥くようになり、今では顔だけでなく全身の皮という皮を毎晩のように剥きとられている。
「どうしよう。あの呪詛探偵もダメだった」
 先日、愛たち家族はとある呪詛探偵に呪詛主の探索依頼を出した。探偵は、呪詛主を突き止め懲らしめたといっていたが、実際また、あの少女が現れた。
 剥がれた皮膚がひりひりと痛む。だが、愛はそれどころではない。早く呪詛主を見つけなければ。
「愛。明日の呪詛探偵さんは本物だって噂だ。予約だって十日も待ったんだ。特例で十日で予約を入れてもらえたんだから、きっと今度こそ本物だよ」
 父親が苦しそうな表情をしている。母親は、ただれた皮膚を少しでも軽くしようと、氷枕を愛の体に当てている。
 一体この子がなにをしたというのだろうか。
 
 愛が呪われてから最初の三日は両親も信じてくれなかった。四日目の夜、両親は愛と一緒に寝ることとなった。一緒に寝れば、愛もその不可思議な夢を見なくなるだろう。そう思ったのだが、そうもいかなかった。
 両親と愛の三人で部屋で待機する中、どういうわけか丑三つ時――午前二時になると両親はどうしても起きていられない。まるでなにか見えない力が働くかのように、両親は丑三つ時になると愛の傍から強制的に離された。
 それが睡魔であることもあったし、玄関のチャイムに呼び出されたり、近所のおばさんに呼び出されたり。
 どうやっても、丑三つ時になると愛はひとりの状況を『作らされた』し、丑三つ時を過ぎて愛のもとに駆け寄ると、愛の皮膚のただれが前日よりもひどくなっているのだ。
 そうして両親も愛の言葉を信じるに至った。
「あの子――少女が私の顔の皮を剥ぐの。これは呪いだって、私は呪われてるんだよって言いながら」
 両親も、愛自身も、どうにかして呪いを解かんと必死になっていた。日に日に顔のただれはひどくなり、ここ一週間は仕事も休んでいる。
 見るも無残な顔に、愛は自分の顔を見ることをやめた。
 そうして最後の頼みで呪詛探偵のもとを転々としているのだが、なかなか『本物』に出会うことができずにいた。もう十件も回っているというのに、愛の呪いは日に日にひどくなるばかりだ。
「今回は本物だったらいいな……」
「大丈夫。愛、大丈夫だから」
「そうだ、愛。希望を捨てるな」
 有名な呪詛探偵だと聞いている。評判も良く、確かに呪詛主を探し出してくれる、そんなプレビューも数知れず。
 このひとになら。毎回そんな望みを持って依頼に行くのだが、結果から言うと、どこも『似非』だ。

 だから、か。
「お嬢さん、呪われてますね」 
 翌日、呪詛探偵の依頼の帰り、父親と母親と合流した愛の前に現れたその男に、愛はうんざりした顔を向けることしかできなかった。
「私のただれた顔がそんなに面白いですか」
「あれ? 君って呪いを解く方法を探してるんじゃなかったの?」
 シャララ、と、男は首から下げた大きな鈴を鳴らしながら、愛たちのもとに歩み寄る。その足元には『毛むくじゃらのなにか』がわふわふと無邪気に走りまわって、ほえている。
「冷やかしはやめてもらえますか」
「あれ。お父さんまで。嫌だなあ、僕はさっきの探偵と違って、『似非』じゃあないですよ?」
「アナタ。警察呼びましょう」
「お母さんまでひどいなあ。僕ってそんなに胡散臭いです?」
 ひょうひょうとした男に、愛たち親子は怪訝な目を男に向けた。男はやれやれと肩をすくめて、足元の犬を腕に抱きあげる。
「君たちは呪われてる。この子の案内が外れることはないんだけどなあ」
「やめてもらえますか。娘のことをどこで知ったのかは知りませんけど、これ以上からかうのなら――」
 父親が携帯を取り出して一一〇番をかかける。その携帯を母親に渡し、父親は男に一歩詰め寄った。
 はずだった。
「僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんですけれどね」
 詰め寄ったはずだった。家族をかばうように一歩前に出て、男――坂野を威嚇したはずだった。それなのに、なぜ坂野は父親の背後――愛の隣にいるのだろうか。
 父親はばっと坂野を振り返る。
「おっと、暴力はよくない」
 そうして、坂野に悟られないように拳を振り上げたのだが、坂はけろりとした顔で、その拳を左ほおに受けた。
 坂野の顔が右に傾く。唇は切れ、血が流れていた。
「お父さん、いくらなんでもやりすぎ……」
「いいや、この男は俺の娘を馬鹿にし――」
 坂野の唇の血が、逆再生のように傷口に戻っていく。それどころか、殴られて赤くなった頬すらも、何事もなかったかのように元の色に戻っていく。
 夢でも見ているのだろうか、あるいは、この男は人間ではないのかもしれない。
 父親の背中に隠れるように、愛と母親が後ずさる。だが、存外父親だけは冷静だ。
「アナタ……本当に娘の呪いについて、知っているんですか?」
「最初からそう言ってるじゃないか。アナタの娘さんは呪われているって」
 けろっとした顔で、坂野が言う。いつの間にか、腕に抱いていたあの『けむくじゃら』はいなくなっていた。足元にもいない、辺りを見渡してもどこにもいない。
「さっきの犬は……?」
「ああ、たんさくん。彼はここにいますよ?」
 坂野がパチンと指を鳴らすと、ふわっと坂野の足元に『たんさくん』が現れる。
 わふ! わふ! と吠えながら、愛のほうに向かって声を張り上げている。
「彼は呪いをたどることができる、僕の相棒でね。お嬢さんをしきりに気にしているから、呪われているのがお嬢さんだということはすぐにわかったんですけど」
 坂野の表情がやや曇る。神妙な面持ち、とはまた違う。
 どこか憂えるような、そんな表情である。
「お嬢さんだけじゃない。お父さんもお母さんも。そのうち呪いが発動するでしょう」
 だけれど、その声ははっきりとしたもので、躊躇とかそういった類のものは一切ない。はっきりと、残酷な言葉をなんのためらいもなしに言ってのける。
 父親は、一瞬だけ思考を巡らせたが、坂野のほうを、そして愛娘を見ると、
「立ち話もなんですし、ウチに来て、お話を聞かせてください」
 坂野を連れて、自宅へ帰ることにする。
 いまだ愛も母親も不安げで、坂野のことは信じ切れていないようだが、父親だけは違っていた。
 それはもしかすると、なんとしても娘を救いたいという、親心だったのかもしれない。

 愛の家は、大分ほこりが溜まっていた。この二十日ほど、母親も父親も愛につきっきりで、掃除も洗濯も、食事さえもままならないのが現状である。愛に至っては、ただれた皮膚の痛みと、なにより醜くなったショックから、食事も喉を通らない。
 そんな汚れた部屋に通された坂野は、まるで子供のように、
「相当疲れてますね。掃除もできないなんて」
 無遠慮にそう、こぼした。
 普通であれば、初対面の、なにものかもわからない男にそのようなことを言われたら、気分を害していたに違いない。だが、今この場に、坂野を責めようと思うものはひとりもいない。
 リビングに通された坂野はソファに座り、目の前にいる父親に単刀直入に本題を切り出す。
「お嬢さんは呪われています」
「それはさっきも聞いた。この呪いは、どうやったら解けるんですか」
「ああ、呪いを解く方法ね。ごめん、それは僕では力が及ばないんだ」
 ガタタ! っと父親が立ち上がり、坂野の胸ぐらをつかむ。ここまでもったいぶっておいて、そんな答えなど、誰だって腹が立って当たり前だ。
 しかし、坂野はなんら動じることはない。胸ぐらをつかまれたまま、だけれど口調は先ほどのままに、返す。
「でも、方法はあります」
「方法?」
「はい。ひとつは『呪詛返すんです』で呪詛返しをする方法。もうひとつは」
「呪詛返し? それは私たちも調べた。そんなことができるのなら、端からやっている!」
「ちょ、お父さん落ち着いて。胸離してください。声が出ない」
 ここでようやく、父親が坂野の胸ぐらから手を放す。隣にいた母親に諭される形で、仕方なしに離した形だ。
 坂野は胸元の崩れを正しながら、やはり調子を崩すことはない。
「だから、『呪詛返すんです』ってアプリがあるんです。『呪詛るん』で呪われたひとたちを救済するために開発したアプリです」
「『呪詛返すんです』? その口ぶりだと、さもアナタが開発したみたいな言い方ですね!?」
「ああ、ご名答。さすが話が早い」
 坂野がにぱっと笑うも、パシン! と坂野の頬に、平手が飛んだ。愛である。
 今まで黙っていた愛が、とうとう我慢の限界を超えて、坂野の頬をひっぱたいた。
「アナタのせいで私たちがどれだけ苦しんだと!」
「愛、やめなさい」
 ふうふうと息を乱す愛を、母親がなだめる。しかし、その目は怒りに満ちており、視線は坂野に注がれている。
 居心地が悪い。だけれど、これでいい。坂野はふうっと息を吐き出す。
「すみません。若気の至りでした。僕は陰陽師で、呪詛るんで呪われた人間が、僕に泣いて助けを乞えばいい。そう思って、呪詛るんを作りました」
「そんな、そんな身勝手な理由で! 私が、お父さんが、お母さんがどれだけ!」
 愛からの罰を、坂野は甘んじて受ける。
「そうだ。身勝手だって気づいた。すぐにね。だけれど、呪詛るんを作るにあたって契約した『呪いを運ぶ式神』――君も見たと思うけれど、あの少女は、ひとの悪意を自らの力に替える式神なんだ」
 その式神が、ヒトの悪意を一気に食らった。呪詛るんは開始直後から爆発的に流行った。ひとの悪意は底がない。
 呪詛るんを使う人間の悪意を、あの少女はあまた食らった。
「悪意を食らった彼女の力は、僕をはるかに凌いでしまった。それは今も変わらない」
「……それで、アナタはその式神に対抗できる手段として、『呪詛返すんです』を開発したと?」
「はい、そういうわけです。ちなみにさっきの犬、彼は『たんさくん』といって、呪詛探索アプリの契約式神です。今日アナタたちが頼みに行った呪詛探偵が使っている、奥の手ですね」
 坂野の説明を一通り聞いて、父親はどっかりとソファに腰を据えた。途方もない話だ。式神だの、呪詛だのと。
「ごめんね、筧愛さん。本当は僕が死ねば式神も契約無効になるのだけれど。あいにく僕は、『呪詛るん』の式神に、逆に呪われてしまってね。不老不死になってしまったんだ」
 さきほど、外で父親が坂野を殴った時、時を逆巻いたように坂野の傷が治ったことを、愛は思い出した。なるほど、坂野自身ももう十分に罰は受けた。
 それはわかっていても、どうしても愛には許せなかった。
「筧愛さん。僕を許す許さないは今は置いておいて。アナタたちには選択肢がある」
 坂野が前のめりに話題を戻す。父親も母親も、愛も。坂野の言葉に耳を傾ける。
「ひとつはさっき言った通り、『呪詛返すんです』を使うこと。もうひとつは、呪詛主に呪詛をやめさせる方法」
「呪詛をやめさせる?」
「そう。丑の刻参りってね、効果が出るまで毎日続けなきゃならないんだ。それに、呪詛るんは、呪詛主の呪詛力によって、効果が発動するまでの日数にばらつきがあるんだ」
 坂野は膝の上にのっている『たんさくん』を撫でる。いつの間にいたのか、愛も両親もわからない。しかし、最初からいたのだろうと、誰もなにも言及しない。
 たんさくんがふんふんとなにかを坂野に伝える。
「君の呪いはあと五日。あと五日で完成する」
「五日……じゃ、じゃあ、私はどうすれば」
 愛が動揺する。父親も決めかねているようだ。今すぐ究極の二択の答えをだせ、そういわれて、即答できる人間は少ないだろう。
 仮に呪詛返すんですを使ったところで、その呪詛は呪詛主に返ってしまう。それは、もしかしたら、呪詛主に愛と同じか、それ以上の呪いが返ることを意味するだろう。
 かといって、呪詛をやめさせるとしても、再び呪いをかけられる可能性も捨てきれない。
 迷う。
 しかし、母親だけは違った。
「呪詛返すんですを使いましょう」
「お母さん!?」
「オマエ……」
 母は強しとよく言うが、まさに愛の母親は、娘のためなら汚れ仕事でもなんでもする覚悟である。
 母親が立ち上がり、前のめりに坂野に問う。
「『呪詛返すんです』について、もっと詳しく教えてください」
「ああ。わかりましたよ。アナタならそう言うと思っていました。それからもうひとつ。この呪詛には、『ふたり』の人間がかかわっています。筧愛さんを直接呪っているほうは、お母さんに任せます。けれど、もうひとり、より強力な呪詛を行っている『彼女』に関しては、僕に一任してもらえますか?」
 果たして母親は、呪詛返すんですにその人物の名前を書き込んだ。

 とある一軒家の一室。
 筧愛とは面識もない、とある女性の自宅である。
「死ね、死ね、死ね!」
 丑三つ時、呪詛るんのアプリを起動すると、そこには『個人情報』を書き込む欄が表示される。そこに知りうる限りの個人情報を書き込んで、『実行』ボタンを押す。
 しばらくすると、画面に藁人形の写真が表示される。その藁人形に五寸釘の写真を打ち込む。
 それだけで呪詛るんの呪詛は完成する。
 これを、丑六つ時に毎日行う。例外として『あるひと』は丑三つ時以外でも、この呪詛をかけることができるのだが。
 たいていの場合、呪詛の発動までに一カ月ほどの時間がかかる。そして、一カ月も時間をかける割には、呪詛の力はほんの少しで、よくて階段から落ちる程度、多くは、日常生活に支障が出ない程度の呪いしか発動しない。
 しかし、例外がある。
「ふふふ、今日も苦しんでるかなあ」
 呪詛るんを起動して、五寸釘を打ち込んだ女が笑う。
 この女は愛とは面識もない人間だ。ただし、女のほうは愛のことを知っている。
 愛のSNSがたまたま目に入った。幸せそうな日常、可愛がられている様子。
 それだけだ、本当に、それだけ。
 女は日常のうっ憤を、愛で晴らそうとした。
 最初は自分一人で呪詛を開始した。けれど、女の呪詛力では、そうそう愛にダメージを与えることなどできなかった。だから女は、ある手段をとった。
「やあ、丑の刻参り、ご苦労さま」
「!? アンタ、どこから」
「僕は坂野。陰陽師の坂野弘彦。でもさあ、佐藤かえでさん。君って本当にたちが悪い」
 坂野は女――かえでの部屋を我が物顔で歩いていく。かえではすぐにピンとくる。この男は、『呪詛』に関係する人間だ。
 でなければ、かえでが今、『丑の刻参り』をしていたなどと、言い当てられるはずがない。
 見られたからには、始末しなければ。
「不法侵入ですよ? 警察呼びましょうか」
「やだなあ。そんなこと無駄だって君も気づいているくせに」
「ああ。そう。そうね、それもそうだ。じゃあ、あなたの名前、書きこませてもらうわ!」
 かえでは手に持っている携帯に、坂野の名前を書き込んでいく。漢字が分からなくとも、今目の前にいる坂野の写真を撮れば、それなりに呪いの効力は現れるだろう。かえでは素早くカメラを構え、坂野の写真をスマホで撮る。
 そのままその写真を呪詛るんにアップロードして、表示された藁人形に五寸釘を打ち込んだ。
「ぐっ……!」
 苦しそうに坂野が膝をつく。かえでは甲高い笑い声をあげ、坂野を見下ろしさげすんだ。
「馬鹿ね。本当に馬鹿。名前を名乗った上に写真まで撮らせて。呪ってくれって言っているようなもんでしょ!」
 あははは、きゃははは。
 狂ったかえでの笑い声が響く。
「あーもう、痛ったいなあ。やっぱり、呪詛力の強い呪いは、僕でも痛いんだね」
「……は?」
 けろりと立ち上がった坂野を見て、かえでは唖然とする。
 確かに呪いは届いたはずだ。しかも、今のかえでの呪詛力は、それなりに高い。坂野の本名と写真を書き込んだとなれば、呪いの効力も高くなってしかるべき。
 それなのに、坂野にはなんら体に変化があるわけでも、災いが降りかかるわけでもない。
「言っておくけど。君が依頼した『彼女』。あの子の呪いは、僕がなんとかしちゃうから。残るは君の呪いだけど」
「ちょっと待って。なんでアンタ、なんともないのよ」
「ああ、僕? あーもう、このくだり面倒だな。僕は不老不死で、呪詛るんを開発した陰陽師だからね。いろいろあるんだよ。それでね」
 坂野はやれやれと肩をすくめながら、かえでを指さす。
「君には、もうすぐ『呪詛返し』がなされる」
「え、え。ちょっと、呪詛返し?」
「そう。君の名前は、もうすでに彼女のお母さんに伝えてある。今頃書き込んでるんじゃあないかな」
「待って、呪詛返しなんて聞いてない。私はただ、ただ、あの女に少し痛い目見せたかっただけで」
「ふうん。痛い目見せるためだけに半年にわたって彼女に呪いをかけるわけ? まあ、彼女の呪いは君が依頼した『あの子』からのものがほとんどだけれど。でもね、『呪詛返すんです』は依頼した呪詛主の分の呪詛力も、悪意を向けた張本人に返るようにできているんだ」
 矢継ぎ早に説明されて、かえでは理解が追い付かない。聞き返したくても、それはかなわない。
 かえでの体に、痛みが走った。
 ズキン、ズキンと走る痛みは、もしかしたら、これが呪詛返しなのだろうか。恐怖するかえでを横目に、坂野の姿が消えていく。
「待って、待って。私を助けて。反省してる、呪詛返しなんて聞いてなかった」
「今更もう遅いよ。君みたいな人間には、罰が必要だね。無差別に悪意を持つ君みたいな人間には」
 そうして坂野が部屋から消える。
 かえでは取り乱す。呪詛返しとは、どの程度のものなのだろうか。よもや、命にまで及ぶのだろうか。それとも、愛のように『あの少女』に皮を剥ぎ取られるのだろうか。
「い、やぁぁぁあああああ!」
 机の上に置いてあるカッターを手に取って、かえでは『式神』を殺さんと暴れる。だが、その部屋には誰も『いない』。
「アンタ、夜中になに騒いでる――」
 隣の部屋に寝ていた母親が、かえでの様子を見に来る。しかし。
 サク。
 かえでが振り回していたカッターが母親の胸に突き刺さる。事故だ、これは、事故だ。
 殺そうとしていたわけではない。自己防衛のためだった。もっと言えば、かえでは『正気じゃなかった』。
 だけれど、それをいくら警察に相談したところで、警察は呪いも、呪詛返しも、坂野のことも。
 かえでの言い分を信じる者は誰一人としていなかった。かえでの父親もしかりである。
 かえでが一番大事にしていたもの、それはもしかすると命よりも、世間体だったのかもしれない。
 しかして、かえでに降りかかった災いが、呪詛返しによるものなのかは、誰にもわからない。

 愛のただれはみるみるよくなっていった。あの男――坂野は『本物』だったのだと、愛も父親も母親も、坂野に感謝してもし足りない。
 ただれが収まってからしばらくたったころのことである。
「やあ、お嬢さん」
「あ。坂野さん。ずっとお礼を言いたかったのに、住所もなにも知らなくて!」
 すっかり皮膚もきれいに治った愛と、一緒に買い物に来ていた母親の前に、坂野がひょっこりと顔を出した。
 坂野は愛の顔を指さして、
「マスクをとったらそんなに美人だったなんてね。もうすっかりいいみたいだね?」
 茶化すように言った。
 愛も母親も、坂野の言葉に朗らかに笑い、改めて親子ふたりで坂野に頭を下げる。
「本当に、なんといったらいいのか」
「いえいえ。こっちもただで慈善事業してるわけじゃないんで」
 ふっと坂野の雰囲気が変わる。その目が暗く濁ったことに、愛も母親も気づかないほど鈍感ではない。
 慈善事業ではない。つまり、もしかすると金銭を請求されるのではないか、そう覚悟した親子だったが、存外、坂野の言葉は的外れなものであった。
「『呪詛るん』に、僕の名前を書いてほしいんです。できればアナタたちが死ぬまで毎日」
「え……。でも、それじゃあ、坂野さんが呪われて……」
 愛が困惑気味に答える。坂野はにぱっと表情をやわらげた。
「大丈夫。今すぐ死んだりっていうのは無理だと思う。なにせ僕、不老不死だから。でも、アナタたちのように、呪詛にかかわり、呪詛力が上がってしまったひとたちが、僕の名前を呪詛るんに『書き続けて』くれたら、あるいは僕も、死ねるかもしれない」
 愛は思い出す。
 坂野は呪詛るんを作り出してしまったことを後悔している。だからきっと、愛のように呪われた人間を助けてくれるのかもしれない。不老不死になったことが自業自得だとしても、下心があるにしても、ひとを助けることは尊いことであるし、苦しいことでもあると思う。
 不老不死になってどのくらい生きてきたのか、愛には計り知れない。
「でも、私……ひとを呪うなんて……」
「私が書きますよ。他でもない、坂野さんの頼みなら」
 坂野の口が弧を描く。
「お母さんならそういってくれると思いましたよ」
「お、お母さん。いくら坂野さんのためって言ったって、呪詛るんなんて使ったら……」
 愛が母親を止めるも、母親は大きく首を横に振った。
「もとより、私は『呪詛返すんです』を使いました。今さら自分だけきれいなままでいられるはずもない。それに、あなたが死ななければ、今後も呪詛の被害が消えないというのなら、私は喜んで手を汚します」
 坂野は再び、笑った。
 安堵と、喜びと、申し訳なさの入り混じった笑みだった。
「本当に、助かります。ありがとう、ありがとう」
 母親のわきで、愛が唇をかみしめている。
 だけれど、それがどうした。坂野の姿が消えていく。いつものように、気まぐれに現れて気まぐれに消える。
 坂野には、やらなければならないことがある。自分は死ななければならない。そうしなければ、この世界から呪詛るんはなくならない。ひとの悪意はなくならない。
 それに、坂野が死ねば、『あの契約』が発動される。坂野の悲願だ、この世界を変えるために、必要な――