訳あり男装令嬢は、龍神様に娶られる

 朝、胸元にもぞもぞと動く気配がして目覚めれば、白蛇が着物の袂から内側に入りこもうとしていたところだった。思わずそれをつかみんで布団の外に投げてから、それが龍神様だったと気がついた。

「わあああ龍神様!? すみません!」
「……俺を放るとはいい度胸だ。寒いだろうが」

 気だるげな声がして、龍神様はあたたかい場所を求めるように布団の中にもぐってくる。寝る前は枕元でとぐろを巻いていたはずなのに。

「寒さに弱いなんて、蛇みたいですね」
「失礼な……」

 まだ眠いのか、言い返す声に勢いがない。でも、悪態の一つくらいついても罰は当たらないと思う。
 兄様の神力により、私の胸はほとんど成長してないけれど、これでも乙女なのだ。蛇の姿とはいえ言葉を交わせる時点で、動物にじゃれつかれるのとは訳がちがう。
 恥ずかしいし、照れるのだ。

「龍神様の……へんたい! 今度着物のなかに入ろうとしたらもう一緒の布団で寝るのは禁止です!」
「へいへい。なんとでも……ふあぁ」
「……もうこんな時間! 準備をしないも」  

 まだ眠気まなこの龍神様を布団にのこし身支度を整えたのだった。



 今日も学校へ行く前に兄様の部屋に寄る。兄様なら、私のこの戸惑いを理解してくれるのではないか。そんな期待をこめて障子を開いたら、目があった兄様は、憂いの表情から一気に目を見開いた。
 
「兄様、おはようございます」
「綾紀……それは」
「見えますか? 龍神様です」
「いや……何も…………」
「え」
 
 信じられなかった。
 私に龍神様が見えるのは、兄様の神力を受け取っているからだ。だから兄様も同じだと疑わなかった。

「兄様にも見えると思ったのですが……あ、ちなみに今は白蛇みたいなお姿なんです」
「そう、なのか。見えなくて残念だよ」
「でも朗報があります。龍神様が言うには、龍降ろしの儀が終われば、兄様は元気になれるらしいのです。それに儀式のあとも兄様の意識は消えないし、肉体を乗っ取られることもないそうです!」
「綾紀は龍神様と話ができるのかい?」
「はい! 兄様の神力をいただいているおかげです!」
「そうか……僕の」

 ふと、兄様の目に力がこもった気がする。龍降ろしの儀は兄様の意識が消失する日でないと分かり、希望をもってくれただろうか。

 いつも通り兄様から神力をもらい部屋を後にする。部屋に入る前よりも龍神様の姿がくっきりと見えるようになり、私は嬉しくなった。むしろ昨日より瞳がつぶらで、鱗の並びが美しく見える。どきりと胸が高鳴った。
 
「あの兄貴、けっこうな食わせ者かもしれないな」

 学校まで行くと龍神様が言うので、昨日のように襟巻きになってついてきてもらっている。ほかの人に龍神様は見えないから、私は声でなく頭のなかで龍神様に語りかける。

『兄様が?』
「さっき目があったぞ」
『……本当に?』
「しかもあれだけ神力があれば、俺が人の姿に見えただろうよ」
『ええ? 龍神様は人の姿にもなれるんですか?』
「ああ。色男でびっくりするぞ』
 
 人の姿か。どんな感じなんだろう。昨日今日で蛇の姿が定着しつつあるから不思議な感じだがする。

「見たいか?」
『え、えーと……緊張してしまいそうなので、今のままがいいです』
「ふうん。蛇だというわりに気に入ってるのか」

 まあ俺はこの姿も美しいからな、と私の首元で、胸を張るように体をそらして威張っている。小さな蛇の姿だから可愛いけれど、もし大人の男性が同じ仕草をして可愛げが感じ取れるだろうか。想像してみたけれど、ちょっと不気味な気がする。うん、やっぱりこのままがいいな。一連の思考を読んだのか、龍神様は盛大にため息をついた。

「ことごとくお前は失礼だな。俺はどんな姿でも愛らしいし美しいぞ」
『心に留めておきます』

 そんなやりとりをしているうちに、気づけば校門が視界に入るくらい近くなってきた。一人で歩くよりも早く着いたように感じるのは、龍神様と話すのが楽しかったからだろう。

「匡稀さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」

 居合わせた女学生たちが挨拶をしてくれる。
 神力で声や筋肉量を変化させているとはいえ、男装は男装。成人した同級生に比べれば、私は学校の男子で一番と言っていいくらい華奢だと思う。逆にそれが親しみやすさにつながるのか、女性から思いを寄せられることは少なくない。

 放課後の予定を聞かれ、角がたたない断り文句を考えていたら、「よ、色男!」と頭のすみで龍神様の声がした。唐突に、しかも脱力する内容に思わず吹き出してしまう。私を囲っていた女学生たちが首を傾げるが関係ない。

(ああ、楽しい)

 龍神様といると、心や表情がほぐれて行くのが分かる。いや、今まで凝り固まっていたのにすら気づいていなかったのだ。

(こんな日々がもっと続けばいいのに)

 昨日の今日なのに、こんなことを考えてしまうなんて。龍神様と一緒にいられるのは、龍降ろしの儀までなのに。あと六日。限られた日々を大切に過ごさないといけない。後悔のないように、一日一日を噛みしめていこうと誓ったのだった。



 放課後、昨夜訪れた川に、私と龍神様は再訪していた。いつも通り直帰しようとした私を、龍神様が止めたのである。遊びに行くぞとはりきる龍神様と対照的に、私は行きたいところがなかった。

「町には行かないのか。髪飾りとか、女の好きそうなものが並んでるだろう」
「この姿で行ったら不審がられます。だいたい私には似合いません」
「そうか? お前は可愛いから、なにを選んでも似合うだろう」
「か、……もう、龍神様の可愛いは敷居が低すぎます。一応、私は男装しているんですよ? この姿で可愛いはプライドが傷つくと言いますか」

 私の首元に収まっていた龍神様の頭がにゅっと伸び、私と目を合わせてくる。じっと見つめられると吸いこまれそうな黄金色。
 
「姿形じゃねぇ。俺は綾紀のふるまいや表情が可愛らしいと言っている」
「……龍神様は軟派です」
「はーいはい。蒙古斑も消えてないようなお子様に吠えられても痛くも痒くもないね」
「さ、さすがに蒙古斑はありません!」
「ほう? 見せてくれるのが楽しみだ」
「見せません!」

 こんなにも簡単に心を乱されるのは、失礼なことを言われたからだ、と思うのに、一番動揺するのは龍神様があっけらかんと笑う声を聞くときだ。なんとも愉快そうで、なんの含みもない笑い声。いいなあ、と惹かれてしまう。
 そして不敵に目を細めて笑われると、胸の鼓動がはやくなるのだ。でも、嫌じゃない。
 龍神様の予想できない言動に振り回されるのが楽しい。
 もっともっと一緒にいたい、話したい、もっと――

(だめだめ。だって、こうして会えるのは期限つきなんだもの)

 後悔しないようにとは思ったけれど、このままじゃお別れが辛くなるだけだ。
 だって別れを想像するだけで、高鳴った鼓動は潮が引いた後みたいに静まり、締め付けられるような苦しさが胸から体全体に広がるのだから。

「町に行かないならこっち来な」

 そう言うなり、龍神様は私の襟巻きをやめて空を飛び始めた。
 泳ぐように体全体をくねらせながら、私の前を浮遊する。



 到着したのは、昨夜来た川に面した原っぱだった。秋桜が満開で、赤や桃色の花が風に揺れている。鱗雲が広がる空は、まるで白い花が咲いているよう。
 視界すべてが花束でうまるみたいだ。昨夜は水の中でくつろぐ龍神様をみていて気がつかなかったし、家と学校との往復ばかりで、近所にこんな景色があるなんて知らなかった。

「綺麗……」
「いいだろう。ここらは春になると菜の花畑が広がる。桜並木の地平線ができて、それはもう見事だぞ」
「すごい。見てみたいです」
「当たり前だろう。その景色のなかで婚礼をあげよう。綾紀の白無垢がきっと映える」
「婚礼って」

 春なんて、何ヶ月先だろう。私は一週間後の心配をしているのに。これは龍神様なりの優しさなんだろうか。それとも、現実を楽観視し過ぎているだけなんだろうか。

「……龍神様は意地悪です」
「今度は意地悪ときたか。ずいぶんと気安くなってきたな。いい傾向だ」
「そういう口調だとからかわれているとしか思えません……でもいいんです。婚礼のことまで考えてくださって。もう思い残すことはありません」

 私の首元からはなれてふわふわと飛び、まるで蜜蜂のように花のにおいを嗅いでいた龍神様がその場で静止した。
 
「なぜ、無理だと決めつける?」
「だって……難しいのは分かっているつもりです」
「なぜ言いきれる。前例がなくともこれからあるかもしれないだろう。すでにある川の流れですら、毎日姿を変え、進路は変化するというのに」

 そんな壮大な話をされても困ってしまう。私が今生きる環境は、なるべくしてなったものだ。家も、家族も、性別や能力だって、ひとつも選んで生まれることはできない。たとえば、男装なんて嫌だ自分らしく生きたいと抗っていたとしても、頭を押さえつけられ従わされただろう。なにより、私よりずっとつらいであろう兄様のことを考えると、私が、と言えるわけがないのだ。
 
「川の流れは……変化しているのかもしれません。でもその違いは私には分からない。確かめようとして、大きな流れにのみこまれるだけです」
「今は俺がいるだろう。あらゆる方法をよく考えろ。思考停止は普遍でなく破滅に近づく。歩みを止めないものだけが、新たな未来にたどり着くのだぞ」
「そんなことを……言われても」
「……よし、これをお前にやろう」

 俯いていたから気づかなかったけれど、いつの間にか龍神様は何かを咥えていた。
 両手で受け取り、まじまじと確認する。
 親指の爪くらいの大きさと薄さの、何か。陽に当たると七色の淡い光をまとうのが不思議で美しい。

「キレイですね」
「俺の逆鱗だ」
「逆鱗!?」

 龍の体を覆う鱗のうち、一枚だけ逆についているという、あの?

「取ってもいいのですか?」
「平気だ。ただし無くすなよ」
「そんな大事なもの、受け取れません……!」
「だったら後生大事に持っておくんだな。身につけておくといい」
「身につけると言っても……」

 とりあえずハンカチに包んでみる。ズボンのポケットでは、何かの拍子に割ってしまいそうだ。学ランの内ポケットに入れておくことにした。

「どうだ?」
「なにがでしょう?」
「俺の逆鱗までやったんだぞ。今後の恐れなんて吹っ飛んだだろう」
「ええと……」

 大事なものをいただいて、龍神様が私を気遣ってくれているのはとてもよく分かった。その気持ちはとても嬉しくて、胸があたたかくなる。きっと鱗の輝きを見るたび、私の心には灯がともるだろう。けれど、それで未来の憂いがなくなるわけではない。次第にまた俯く私の様子を見て、龍神様は「ふむ」と何かを思案した。
 
「お前を混乱させるのは俺の本意ではない。互いに頭を冷やし、龍降ろしの儀でまた会おう」
「え? ま、待ってください!」

 龍降ろしの儀まで会えないなら、もう一生会えないのと同じだ。そんなの私は望んでいない。せめてあと何日か、一緒に過ごせたらそれをよすがに生きていけると思ったのに。だけど龍神様は、「またな」とこちらを見つめたまま、無数の光の粒になって消えてしまった。

「そんな……」

 こんな別れ方があるだろうか。さっきまで春の婚礼の話をしてくれていたのに。

「……いいえ。もとから私には過ぎた話だったのよ」

 本来なら見えないはずの龍神様を見て、言葉も交わせた。嫁になれと言ってくれた。それで十分……と、考えられるようになるのは少し時間がかかりそうだけど。
 昨日と今日の思い出を抱いて、私は生きていくしかないのだ。
 一人で家に帰り、龍神様からもらった逆鱗を小さな巾着袋に入れてみた。ちょうどよく収まったので、袋の紐を長い物にとりかえ首から下げてみる。
 うん、学ランの内ポケットに入れておくよりも安定感がある。落とす心配がなくなりほっとする。

(思い出の品があるだけ、ありがたいわよね)

 昨日と今日の二日間は決して夢ではなかったのだと、鱗を見るたび感じられるから。ふいに恋しさと寂しさが一緒にわいてくる。巾着から鱗をもう一度だして見ようと袋口を開いたときだった。

「お嬢様」

 少し上向いた気分が急降下し、私は身構えた。男装し、兄様として暮らす私のことをお嬢様と呼ぶのは女中頭だけだからだ。お母様と一緒に冷めた瞳で私を睨む、いつだって私にとっては恐ろしい人。

「奥様がお呼びです」

 それだけ告げて黙ってしまう。着いてこいという意味だろう。
 いつも私のことなんていないように振る舞うのに、どうしたことだろう。何か怒られるとしか思えず、心の中に『嫌だ』が充満する。けれど逃げることなんて叶わない。

 女中頭が向かった先は、思った通りお母様の部屋だった。予想外だったのは、お母様よりも上座にお祖父様がいたことだった。小さい頃にあったきりだけど、口元の豊かな髭が同じだから間違いない。そもそもこの家でお母様より上座へ座れる人なんてお祖父様しかいない。

「匡稀さんから聞きました。龍神様が見えるそうで」

 私が座るのも待たずに、お母様は口を開いた。

「はい。龍降ろしの儀が終われば兄様は回復できると仰っていした。兄様の人格が消えることもないと」
「余計なことは言わなくてよろしい」
「……申し訳ありません」

 三つ指をついて謝る私に、冷ややかな視線が刺さる。今日は二人分。部屋ぜんたいの重苦しい空気が背中を圧迫するようで、なかなか顔を上げられない。すると「龍神様の声が聞こえるだと? 儂も聞いたことがないというのに?」というお祖父様の低く唸るような声が聞こえた。

「は、はい。兄様の神力のおかげで」

 頭を下げたまま答えつつ、私は混乱した。龍降ろしをしているお祖父様が、龍神様の声を聞いたことがないなんてありえるのだろうか。
 
「なぜ匡稀に龍神様が見えず、お前のみが見聞きできる。さてはお前、儂らを欺こうとしているな?」
「そんな! けれど確かに龍神様はいらっしゃいました」
「証明できるのか?」
「そうよ。龍神様がおわすというのなら、今はどこにいるのです。匡稀ほどでなくとも、お祖父様と私にも神力があるのよ。気配も感じないなんておかしいとは思わない?」
「それは……!」

 さっきまでは、確かに一緒だった。でもあの花畑で別れてから、どんなに呼んでも龍神様は姿を見せてくれない。

(龍神様……!)

 念じるけれど、なんの返事もない。これでは、私が妄言を吐いていると思われて当然だ。

「今は隠れてしまわれていますが……」
「もう黙りなさい。匡稀の苦しみもろくに癒せぬ者が意見するなど……恥を知りなさい!」

 見上げたお母様の目に浮かんでいたのは、嫌悪と憎悪だ。どうしてこんなにも憎まれているのだろう。

「……なぜ、なぜそんなにも私に辛く当たるのですか。私も龍代の子ではないのですか!?」

 お祖父様とお母様は顔を見合わせて嘆息した。
 
「お主のせいじゃ。お主が神力を押しつけたせいで匡稀は苦しみ続けているのだ」
「私の……せい?」
「龍代の嫁は代々双子を宿す。しかし生まれるのは一人だけ。この意味が分かるか?」
「……分かりません」
「赤子は多大な神力に耐えきれない。二人のうち一人が過剰分の神力を請け負って死ぬことで、残ったもう一人がちょうどいい塩梅の神力を持って生まれてくる」

 初めて聞いた。それでは、まるで――

「私は……生まれないはずだった?」

 お祖父様は深く頷き、お母様はこれみよがしにさっきより大きく息を吐いた。

「やっと理解できたかしら。本来なら私の腹から出る前に今世のお役目を終えるはずだったの。良かったわねぇ、綾紀なんて大層な名前をいただいて、成人まで育ててもらったのだもの。龍神様にもお会いできて、もう十分でしょう?」

 お母様が女中頭を呼びつけた。汚いものでも見るかのように私に視線を投げ、手で払うような仕草をする。

「牢に入れて。龍降りろしの儀まで出してはなりません。そして龍降ろしの儀が終わったら、処分して頂戴」
「かしこまりました。」
「……お母様」
「帳尻を合わせる時がきたの。逆らわないことね」

 体にうまく力が入らず、私は複数の使用人に連れられて部屋から出され、屋敷の隅にある座敷牢に閉じ込められた。
 日の当たらないこの場所のように、私の心も黒く塗りつぶされていくようだ。
 どんなに希望を抱いても、それは全て無駄だったのだ。お母様にとって私は予定外に生き残ってしまったいらない子で、兄様を苦しめる元凶でしかないのだから。
「それに着替えて着いてきてください」

 いつも薄暗い牢にいれられ何日も過ごすうちに、今日がいつか分からくなった。でも食事を運ぶ下働きの者でなく女中頭が来たということは、これから龍降ろしの儀が執り行われるのだろう。

「匡稀様がお会いしたいとおっしゃっています」

 着替えは億劫だけど、兄様に呼ばれているなら行かない理由はなかった。牢に入れられた時のままだった学ラン姿から、白の浴衣姿になる。

 兄様は屋敷の裏の中庭にいた。青白い月明かりに照らされながら、複雑な陣が描かれた中心に座っている。いつもより呼吸が穏やかで、私を見つめる瞳には力があった。

「……兄様」
「おいで、綾紀」

 なぜだろう。いつもと同じ、優しい兄様の声が恐ろしいと思う。後ずさりたくなるのにそれを許さない力があって、兄様の瞳にとらわれたように動けなくなる。手招きされたら、兄様を優先しなければいけないという使命感がわきあがり、私はゆっくりと兄様に近づいた。震えた手足なのに、自分でも驚くくらい足取りはしっかりしている。

「いい子だね」

 少し前までは嬉しかった兄様の笑顔。だけどやっぱり今は――こわい。

「両手を」
「兄様……今から儀式なのに、神力を私に渡すのですか?」
「ああ。心配しなくて大丈夫。僕を信じてごらん」

 こわいけど、信じたいと思う。一心同体、ずっと一緒に育ってきた。龍代家の理不尽を、二人で乗り越えてきのだから。

「分かりました……兄様を信じます」
「うん。ありがとう」

 笑顔に導かれるように、兄様の顔の前に両手を差しだした。そこに兄様の手が重なり、握られる。いつもはヒヤリと冷たいのに、今日はほんのり温かい。末端まで血が通っている証拠だ。本当に今日は調子が良いみたいだ。
 神力が体内に注がれてくるのが分かる。だけど――

「――っ!」

 注がれる神力の量が明らかに多かった。戸惑い手を振り払おうとしても上手くいかない。兄様の爪が食いこむくらい、強く握られている。

(熱い――!)

 臓腑が焼かれるようだ。作り変えられるような、とも言える。何をしているのか聞きたいのに、喉元を掴まれるような苦しさがあり上手く声が出せない。そうするうちに視界が一段高くなった。

「……っ、兄様!」

 やっと出せた声は、いつもより低く……兄様ととてもよく似た響きだった。

「これはどういうことだ?」

 縁側に座っていたお祖父様が立ち上がり叫んだ。私の手を握ったまま兄様が立ち上がり、引き上げられるように私も地に足をつけた。……兄様と、同じ視線だ。

「なにをしたの。教えてちょうだい」

 焦りがにじむお母様の声がする。すると顔を伏せたまま、兄様は笑い始めた。

「はは……あはは……ふふ…………」
「兄様?」

 やっぱり、私の声が低い。今まではどこか中性的で、声変わりをしたのかしていないのか判断に迷う音だった。けれど今は、まるで本当に性別が男性になってしまったかのような――

「綾紀。ちゃんと『男』になれたね。どう? 嬉しい?」
「……なんの話をしているのですか?」
「おや? 綾紀は龍神を慕っているのでは? だから考えたのさ。龍降ろしは綾紀がすればいい。そうすれば、ずっと龍神とともにいられるからね!」

 まだ疑問符を浮かべる私たちに言い聞かせるように、兄様は説明した。

「だから神力を注ぐ量を多くしてみたんだ。今までは些細な変化だったけど、今日なんか完璧に男の声じゃないか。思った以上に上手くいって驚いているよ」

 些細じゃない。今までだって月のものが止まったり、胸が平たいままだったり、身体的な女らしさはほぼ育っていなかった。あきらめていた。そこに希望をくれたのは、龍神様だ。
 ――嫁になれ。
 尊大で、自信家で、長生きしているはずなのに感性が若くて――――優しい。夢みたいな二日間の思い出を胸に天に召されたなら。そう思っていたのに――!

「私が……龍降ろしを……?」

 龍降ろしができるのは男性のみ。神力で捻じ曲げた性別でもかまわないのか不明だが、単純に条件だけみれば満たしていると言えなくもない。
 龍降ろしをしたら、会えるかもしれない。それだけでない。この身に龍神様を降ろせたなら、もう離れることはない。ずっと一緒にいられるのだ。
 自暴自棄でうずくまるしかできなかった自我が立ち上がったような気がする。それは希望ともいえるかもしれない。

「突飛すぎる案だ。そもそも匡稀、お主の調子がそこまで良いなら、綾紀が龍降ろしする必要はない。伝統にのっとり、匡稀が行えばよかろう」
「そうよ。なぜそんな無駄なことをするの」

 お祖父様とお母様が口々に言う。なんて騒々しいんだろう。
 私は空を見上げた。あの日龍神様が光となって消えた空には、星々がきらめいていた。
「いいや、龍降ろしの儀は綾紀にしてもらう。僕はいい」

 甲高い声で叫ぶお母様を無視して、兄様は私の手を強く引く。転んで地面に倒れた私を置いたまま、自身は陣の外へ出て行った。あっけにとられ陣の中央から動けずにいる私を見下ろして鼻で笑うと、右手を高くのばす。

「偉大なる龍神様!」

 そんなに大声が出せたのかと驚くくらい、兄様の声は場の空気を震わせた。

「今一度地上に降り、我らに力を貸し与えたもう!」

 その声に応えるように突風が吹き、前触れなく雨が降り始めた。あんなに星々が輝いていたのに。場の空気が、天からの恵みが、私たちを撫でるように見定めるように、大きく円を描きながら陣を囲んでいく。風にのり雨が全身にぶつかってくる。目を開くのが難しくて、まぶたをかたく閉じた。

(……龍神様。会いたいです)

 一縷の望みにすがり龍神様を呼ぶ。

 パシッ!! 水の弾ける音とともに、雨風がぴたりとやんだ。
 恐る恐る目を開けば、真っさらで淡く発光する蛇のような――いや、今まで見た姿より桁違いに大きくて長い――絵巻物で見た、立派な鱗を光らせる龍がいた。

「よく頑張ったな、綾紀」
「龍神様……!」

 声は低くなり威厳のある雰囲気を纏ってしまったけれど、話し方が龍神様と同じで安心する。

 戸惑いも諦めも絶望も、全て吹き飛んで、会えた会えたとわきあがる喜びが全身をめぐる。幻でないのを確かめたくて背中あたりの鱗におずおずと触れれば、龍神様は私の頬に頭を寄せてくれた。髪の毛のようなふわふわとした毛がくすぐったい。思わず笑うと、安心したように龍神様は息を吐いた。

「待たせてごめんな」
「いいえ、いいえ! もう一度会えて嬉しいです」
「俺もだ。手遅れになる前で良かった」
「手遅れ?」
「嫁になるんだろう、俺の」
「は……い、けれど声が……きっと身体のなかも」

 もうこれは兄様の姿だ。私では――綾紀では、ない。

「そんなのどうとでもなる」

 豪快に笑う声と姿は違うけれど、やっぱり龍神様だ。どういうことか詳しく聞きたいと思ったのに、お母様の大絶叫がまたも響いた。

「龍神様! それは紛い物でございます! 貴方様をお呼びしたのはこの匡稀! 龍代を継ぐのはこちらの匡稀でございます!」

 龍神様は口を開き、隙間なく生えた歯を剥き出しにして唸った。飄々としている姿しか知らないから、眉間に何本も皺を寄せる様子に驚いてしまう。
 
「女、見苦しいぞ。我は綾紀の願いに応えたのだ。そちらのホラ吹きに用はない」
「ほ、ホラ吹き!?」
「その男はな、我の姿が見えているにも関わらず見えぬ存ぜぬとシラを通した。寝こんでいたのも仮病だろう。神力の量が歴代よりも多いのは事実のようだが、何も問題なく生活できる」
「そんなこと……ありません。僕は、僕は……」
「ふん。言い訳など興味はない」
「匡稀をこんなにも蔑ろにして! いくら龍神様とはいえ許せません!」

 お母様の握っていた短剣が放られた。お母様の神力がこもっているのか、空をきる速度が速い。
 
「やめて!」

 龍神様に当たらないでと願った瞬間、私は剣の軌道に立ちはだかっていた。みぞおちに衝撃がはしる。貫かれるような、鋭い痛みがあり、何かが割れるような音がした。

「割れる?」

 短剣は足元に転がっていた。当たった場所に右手で触れる。……なんともない。穴が開いてもおかしくないと思ったのに。次の瞬間、指先が巾着袋の厚みに気づいて「あ」と気づいた。あわてて袋の中身を確認する。やっぱり。以前龍神様がくれた逆鱗が粉々に砕けていた。カケラになっても美しい光を放っているのが、より守りきれなかったのを痛感して悲しくなる。
 
「何をしている」

 龍神様が膨らむように大きくなった。

「よくまあ我を責めることができたな。お主は母親の身でありながら息子だけを贔屓し、綾紀を蔑ろにしてきただろう!」

 雷が庭の木に落ちた。

「これは俺の逆鱗だ。よくも傷つけてくれたな」
「も、申し訳ございませぬ!」

 お祖父様が慌てて頭を下げた。何か申し開きをしているけれど、再び降り出した雨の勢いが強すぎて聞こえない。兄様の言い訳も、お母様の嘆きも。

「俺に触れていれば雨にも雷にも当たらない」

 私に向けた龍神様の声は優しかった。こんな悪天候でも、龍神様の声だけは鮮明に届く。見上げれば、黄金の瞳が声色と同じように優しく弧を描いた。

「綾紀、行こう」

 背中に乗るよう促される。拒否する理由もないため素直によじ登る。首のあたり……と思われる部位に腕を回した。しっかり掴まるよう言われて頷いたとたん、龍神様は空へ昇っていき、気づいたときには霞がかった山のなかにいた。見上げてもてっぺんが見えない竹が林になって揺れている。

「さあ、そろそろ決着をつけようか」
「決着……ですか?」
「こういうこと!」

 地面におりた私の体全体を、小さな竜巻が包んだ。痛みも息苦しさもない。不思議とあたたかくて、明るい。体が軽くなっていくのが清々しい。頬に手を当てたらいつもと感触が違うのに驚いて手の平をまじまじと見つめる。節のないほっそりとした手指だった。まさかとあちこち確認する。筋肉質だった手足の輪郭が丸みを帯びでいた。喉に触れてもでっぱりはなかった。

 (もしかして……)

 やがて風の勢いがゆるくなり、頭の方から空へ消えていく。よく眠れた朝みたいに頭がすっきりとしていた。

「お、さっぱりしたな」
「龍神様……って、えええ!?」

 知らない人がそこにいた。
 だから、私は自分の声が元に戻る……どころかいつもより高いことに、すぐには気づかなかった。
 青みがかった白銀の、背中まで届く髪の毛と黄金の瞳をもつ、まるで龍神様が人の姿をとったような人物がそこにいた。

「いや……俺だが」
「しゃべってる……」

 頭のなかに響いてくる声でなく、耳で聞いている。呆けている私を困ったように見つめる様子に覚えがある。こんな……私より頭一つ大きいところから感じる視線が、肩から見つめてくるものや、はたまた遥か頭上から見下ろされるもの一緒なんて、そんなわけないのに。

(でも、知ってる)

 この気づかわしげな視線を。何よりも私の胸を震わせる声を。豪快な態度のわりに、そっと労るように触れてくるのも。

「龍神様……人の姿にもなれたんですね」
「ああ。龍降ろしの儀が終わったからな」
「! そうだ、儀式が終わったら私のなかに龍神様が? でも目の前にいて? あれ? そもそも私の声……なんか違う!?」
「あはは! 忙しないの」
「わ、笑ってないで教えて下さい!」
「ふむ。では近くに寄れ」

 私と龍神様の間はひと一人分程度。十分近いのにと首をかしげたら「遅い」と手を引かれ、私は龍神様の胸にぽすんとおさまった。突然のことに抗議しようと見上げれば、まつ毛がふれあいそうなくらい近くに顔がある。
 月光に似た肌色に流れ星の流線を集めたみたいな髪、なにもかもを照らす太陽と同じ色の瞳……色男だと自賛していたのも納得だ。空の美しい光を全て集めたような神々しさに目がくらみそうになる。
 思わず俯いた私の頭を、龍神様は両手ですくいあげた。よほど私は情けない顔をしているのか、龍神様は眉を下げ困ったように微笑んだ。

「こら。そらすな」
「だ、だって……」
「俺の目をよく覗いてみろ」

 ちょうど雲の合間に隠れがちだった月が綺麗に顔を出し、龍神様の輪郭をほのかに光らせる。その瞳の中には浴衣を着た一人の――

「どっからどう見ても可愛い女だろ」
「か、かわ……」
「だからよく見せてくれ」
「ひいぃ……無理です……」

 声が尻すぼみに小さくなっていく。笑われるかと思ったけれど、獣人様の表情は真剣なままだった。

「やっとだ」

 目を細めて嬉しそうに私の顔に触れたり髪を撫でる。今まではいつ触れても少しひんやりしていたから、初めての温もりに鼓動が不規則にはねてしまう。
 しばらくそのままでいたら、ふいに背中を押され私の頭はまた龍神様の胸におさまった。背中に回った両腕にゆっくりと力がこもり、私と龍神様の距離はなくなって、互いの吐息まで聞こえる。

「ずっとこうして触れたかった。この髪をすいて、背中を撫でてみたいと思っていた」

 耳元で囁かれると、元々ほてり始めた体がさらに熱くなる。しかもさりげなく耳も撫でてくるものだから、私はかたまるしかない。腕の力を緩め、私の顔を確認した龍神様は、盛大に吹き出した。

「どうした。茹で蛸にも負けないくらい赤くなったな!」
「龍神様のせいですよ! 人の姿になった途端、おかしなことばかり言って……ちゃんと驚く暇もないです!」
「仕方ないだろう。これでも浮かれているんだ。こうして人の姿で実体が持てたのは初めてだからな」
「そうなんですか?」
「お前の兄はたしかに神力の量が桁違いだった。お前に注がれた分と、あの兄の体に存在していた分、全部吸い取った結果がこれだ」

 龍神様が私の右手を取った。導くように動かされ、手のひらがたどり着いたのは龍神様の左胸。

「……鼓動が、聞こえます」
「だろ? これが実体を持つということだ。おそらく神力がない者でも、俺の姿は見えるだろう」
「神力がなくても……? 龍神としての力は無くなったということですか?」
「いいや? 人の姿にも龍の姿にもなれる。今までは現世で存在するために人の肉体を間借りしていたが、その必要が無くなったということだな。まあ、神力の供給は今後も必要だが」
「すごい……兄様の力でそんなことが」

 私の性別を勝手に変えて、なんの説明もなく龍降ろしをさせようとしていたことはショックだけれど、龍神様が人として生活できるようになったのは感謝しないといけない。

「兄貴だけじゃないぞ。お前の神力も、こうして触れ合うことでもらっている」
「え? 私に神力はないはずでは?」
「いいや、違う」

 龍神様は首を横に振った。
「綾紀の神力は兄貴の神力に蓋をされていた。だから神力が全く無いように母親たちには見えたんだろう。そして綾紀自身もその力を自覚できなかった」
「たしかに……」

 まだ自分のものと思うには違和感のある、ほっそりとして丸みを帯びた手のひらを閉じたり開いたりしてみる。さっきまでは感じなかった、兄様の神力とは別の力の流れを感じる。これが私の神力ということなんだろうか。

「赤ん坊のころから本能的に兄貴の神力を受け入れていたんだろう。奴を生かすために」
「全然……気がつきませんでした」
「その証拠に、兄貴の神力を取り除いてやったら、本来の性別らしい体になっただろう?」
「龍神様の力ではないのですか?」
「俺は蓋を壊しただけだ。とにかくお前も相当強い神力を持っているぞ。そう考えるとお前らの母親ってすごいよな。方向性が残念すぎるが」

 そういえば、龍代家はどうなったのだろう。今の状況を尋ねたら、さも当たり前のように兄様が倒れ、てんやわんやしていると龍神様は答えた。

「さっきはしゃぎすぎたんだろ、自業自得だな。ま、何年も仮病で臥していたんだ。あと数ヶ月のびてもどうってことないだろう。これまでを反省するいい機会だ。」
「お兄様は、何がしたかったんでしょうか」
「すべての責任をお前に押しつけて逃げおおせるつもりだったんだろうよ。家以外で生きる術を用意しなかったのはお粗末だけどな」

 兄様がそんなに利己的な人だなんて信じられない……信じたくない、が正しいかもしれない。優しくて逆境に耐えるすごい人だと思っていたから。

「母親もしばらく寝こむかな。ま、妙なマネしても俺がいれば手も足も出せないから気にするなよ。じーさんには後で事後処理の仕方を伝えないとな」
「はあ……怒涛ですね」
「大変だったな」
「そ、そうですよ。龍神様が実体をもてることを知っていたら、この何日間も希望を持てたのに」

 駄々っ子みたいな、我ながら嫌な言い方だと思う。きっと龍神様にも予測が難しい状況だったとだろうに。
 なのに龍神様は揶揄うことも誤魔化すこともせず、「悪かった」と頭を下げた。

「あの家族の冷酷さに気づけなかったのは俺の落ち度だ。ただ、俺だってそれなりに気落ちしていたんだぞ。逆鱗をやっても喜んでくれなかったじゃないか」
「嬉しかったですよ! どんなに救われたことか」

 冷たい牢にいる間、忍ばせた逆鱗を何度となく眺めては、龍神様とのやりとりを思い出して気を紛らわせていた。

「いいや何にも伝わってない。だからお前ら人間の流儀を学んでいた」
「人間の流儀?」

 龍神様がこちらに身を乗り出した。少しかがんで目線が同じになる。私の情けない赤ら顔がまたもまじまじと見られてしまう。せめてと対抗して視線を逸らしていたら、目尻から頬にかけて指が添わされた。
  
「……ずっと、こうして頬に触れ、唇の感触を確かめたかった」

 すべるように唇を親指が撫でていく。さらなる熱が呼び覚まされるようだ。これ以上は熱くならないと思った体のあちこちで弾けるものがある。

「こういうとき、人間は好きだとか愛しいと言うのだろう?」
「す、」
「好きだ、綾紀」
「待ってください。その、龍神さ、」

 待たないと言う返事の代わりに、私の体温に負けないくらい熱い唇がおりてきた。
 龍神様が人としての実体を持ったと言うのは、国のお偉方の間ではちょっとした騒ぎになったようだ。
 人として扱うか、それとも神として? と、その対応に大変混乱したらしい。

 その結果、小高い丘の上にある小さな屋敷が龍神様に当てがわれた。最初は都近くの立派な屋敷――龍代の屋敷の倍はありそうな――はどうかと打診されたのを、「子どもが増えてからでいい」と龍神様が一蹴した。
 紆余曲折を経て、人里離れた現在の住処に落ち着いた。龍神様は飛べるから、わざわざ都に住む必要は無かった。山一つ分が私有地だから本人は気ままに過ごしている。住みこみの使用人を置いていないこともあって、龍の姿で過ごすことも多い。
 龍降ろしの儀に関する詳細は龍神様から帝に伝えられ、お母様やお兄様、お祖父様の立場は微妙らしい。
 助けて欲しいと書簡が届くようだけど、私が読む前に龍神様が燃やしてしまう。

「保身と自己愛しか読み取れないうちは読まなくていい。きちんと謝罪が書いてあったら見せてやる」
「龍神様のお気づかいはありがたいですが、みんながどのように過ごしているのか気になります」
「書簡をよこすくらいなら元気だろ」
「詳しく知りたいのです」

 仕方ないと言わんばかりにため息をつき、正座している私の膝を枕にして寝転がった。

「龍神様!?」
「褒美がないと話す気になれん。膝くらい貸せ」

 今度は私がため息をつく番だった。でもたしかに愉快な話でないのは予想できるから、黙って枕になっておく。今日も美しい銀糸の髪をすいたら、いくらか機嫌を直してくれたようだった。

「大きな変化は無さそうだぞ。母親はたまに発狂し、兄貴は引きこもり、じーさんは会う人会う人に言い訳を並べて歩いてる」
「お母様のたまに発狂というのは……」
「そのままだ。使用人たちも手こずってるようだな」
「……そうですか」

 ともかく強く恐ろしいとしか思えなかったお母様。反面、凛として前を向く姿は憧れでもあったのに。

「ひとつ気になっていたんですが、龍神様は兄様の神力だけでなく、生気も吸ってないですか?」

 そう。龍神様は兄様が仮病を使っていたと話してくれた。
だとしたら、今ごろ兄様も家の中を動き回るくらいはできるようになっている気がする。でも実際は、生気――生きる力そのもの――も削ぎ落とされているように感じてしまう。
 
「失礼な。あいつが根性なしなだけだ。それか、根性が布団に根を張っているのかもな。ともかく今まで散々ゴロゴロしてたくせに、急に普通の生活ができるものか」
「なるほど」

 部屋から一歩も出ない生活を何年も続けているのだ。あの夜は生き生きと動いているように見えたけれど、体は相当無理をしていたはず。あの反動も、今の状況に繋がっているのかもしれない。

「信じてないな? それなら今日訪ねてくる鞠子とやらにも聞いてみろ。俺の言い分は正しいと分かるだろうよ」
「信じますよ」
「ふん。どうだか」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてない! 綾紀がいつまでもあいつらのことを気にするのが面白くないだけだ」

 それを拗ねていると言うんです。言い返す代わりに、今日も美しい銀糸の髪を撫でた。しばらくすると機嫌を直したのか「まあ、たまになら話してやってもいいぞ」と両口角をあげた。



「私も龍神様と同意見だわ」

 遊びに来てくれた鞠子は、お茶を飲むなり語り出した。

「今の匡稀様でも、屋敷の敷地を散歩するくらいはできると思うわ。ただ、いつも何かしら理由をつけて部屋にいたがるの」

 声をひそめ「薬はほしがるのよ。それ以上に運動が大事なのに。簡単なものもしてくださらなくて困っているわ。お父様は今にも匙を投げそうで、付き添いの私だけがハラハラしているの」
「本当にそれは兄様なのかと疑いたくなるわ」
「あんなに裏表があるなんてね……そうだわ、役者なんか向いてるんじゃないかしら。お顔は綾紀に似て綺麗なんだから」
「話を聞いた限りだと、稽古に耐えられなさそうね」
「本当だわ!」

 二人で一緒に笑う。楽しい。同級生と関わるのは学校だけで、放課後や休日をともに過ごすなんて不可能だった。ただでさえ男子校だったし。鞠子と心おきなく一緒にお茶ができるなんて、夢みたいだ。桃色の訪問着――女性用の着物が着られるようになるともつい一週間前まで思わなかった。
 そうだ、と鞠子の目が輝いた。
 
「これからは堂々とあーやって呼べるわね」
「ちょっと恥ずかしいけれど……」
「女性袴にも慣れてきたでしょう? ふふ、同じ学校に通えるのが嬉しい。ねえ、いつになったらマリって呼んでくれる?」
「鞠子さんじゃいけないの?」
「ダメ。今までは仕方ないと思っていたけど、もう遠慮しないわ!」

 手繋ぎもね、と笑う鞠子は可愛らしい。龍代家が私にしてきた仕打ちにずいぶんと憤慨していたけれど、私が龍神様とありのままの姿で暮らせるようになったことで溜飲を下げたようだ。

「あーやとは何だ?」
「龍神様!」
「お邪魔しております龍神様」

 最初こそ龍神様が見えることや、とんでもない美形であることに腰を抜かしていた鞠子だったが、何度か遊びに来ているうちに慣れていった。今では三人で会話も自然だ。
 丸テーブルの残った一席に龍神様が座るのを待って、私は龍神様に説明した。
 
「愛称のことです。綾紀の響きは少し男性的だから、か……可愛らしい呼び方をしたいと言われて」
「ほお。親しげで良いな。俺も呼びたい」
「え、龍神様もですか?」
「それとも綾紀のままがいいか?」

 こんな時にいい声で呼ぶなんてずるい。心地よい低音の響きに耳が震えるし、頬に熱がこもってきたのも自覚する。

「……龍神様のお好きに呼んでください」
「そうか。では綾紀のままで。正確には保留だな」
「ちなみにその心は」
「より照れる愛称をゆっくり考えるからだ」
「ひどい!」

 鞠子が大きな声で笑い出した。

「では、私が帰った後にごゆっくりどうぞ」
 鞠子が帰ったあと、二人で入れ直した新しいお茶を飲みながら、ポツリと龍神様がつぶやいた。

「俺も愛称がほしい」
「龍神様が?」
「そうだな。愛称というより、名付けをしてほしい」
「名付け……」

 そこまで言われてやっと気づいた。ずっと龍神様と呼んでいたけれど、これは愛称でも、名前でもない。

「綾紀は、誰が名付けた? まさかあの母親ではないだろう」
「……はい。この名前をつけてくれたのはお祖母様です」

 もう、この世にはいないお祖母様。物心つくかどうかで亡くなってしまったからあまり覚えていないけれど、『よく生き残った』と言って頭を撫でてくれたのは覚えている。
 そういえば、お祖母様は『よく生まれてきた』とは言われなかった。
 その理由も、今ならわかる。
 兄様の代わりに余剰な神力を引き受けて、お腹の中で死んでしまうと思われていたからだろう。だから『生き残った』という表現だったのだ。
 
「せっかく生き残れたのだから、お空にいかないよう、たくさんの縁と繋がりますように、と呪文みたいに会うたび言われました。……だから、糸へんの漢字ばかり使った名前にしたのかもしれません」
「いいな、それ。俺も糸へんの名前がいい。何か考えてくれ」
「いきなり言われても……」

 恐れ多い、と反射的に思った。だけど龍神様の瞳がいつも以上に輝いている。はぐらかすのも、後回しにも出来そうにない。
 私だって、できるなら素敵な名前を考えてあげたい。偉大で強大な力を持つ龍神様。そんな彼に名前を授けられるなんて、このうえない栄誉ではあるのだから。
 腕を組んでああでもない、こうでもないと紙に書き留めていると、席を立った龍神様が私を後ろから抱きしめた。

「ちょ、集中できないのでやめて下さい」
「俺にはかまわず考えてくれ」

 それは無理な相談だった。背中の熱が気になって、本当になにも思いつかなくなってしまった。

「ちょっと頭を冷やします!」

 いきおいよく立ち上がり、追いかけてくる龍神様を無視して庭に出た。
 とっくに日が暮れた空には満天の星が輝いている。視界を横切る天の川は、龍神様の髪色によく似ていた。

(そういえば出会ったばかりのころ、綺羅星(きらぼし)のような人だと思ったっけ)

「綺羅星」

 龍神様と出会うまで、私は自分に何もないと思っていた。私が何かしても、周囲が幸せになることはないと。
 でもそれは、責任転嫁していただけだと今なら分かる。
 兄様が回復すれば何もかも解決すると信じていた、と言えば聞こえはいいけれど、幸せは他人に託すものではないのだ。
 望みをもって最後まであきらめなければ、新たな道がひらける。それを教えてくれたのも龍神様だった。

(私は龍神様に大事なことをたくさん教えてもらっている)

 少し強引で、はちゃめちゃで……お茶目なところもある龍神様。
 星はいつも空にある。見上げれば同じ輝きで応えてくれる。その輝きに飽きることはなく、いつまでも魅力される。
 私から見た龍神様は、そんな感じ。

「綺羅星の……綺羅(きら)様はどうでしょう?」
「きら? どのような字を当てるのだ」

 適当な木の棒を拾い、土の上に書く。月がまるで覗きに来たようなタイミングで雲から出てきて、私の手元を照らしてくれた。
 
「こうです。糸がふたつ。私と一緒です」
「だったらそれがいい! 今日から俺は綺羅と名乗るぞ!」
「愛称はどうしましょう? きーちゃんとか?」
「……数日前、庭に来た鳥をそうやって呼んでいなかったか?」
「そうでしたっけ?」

 あははと誤魔化す。龍神様の……綺羅様の視線が痛い。

「愛称はいい。綺羅という名前が気に入ったからの」
「それは良かったです」
「……なあ」
「はい?」
「もっと呼んでくれ」

 綺羅様も隣に腰掛け、私の肩を抱きよせた。ちょっと声が低い。ただでさえ麗しい外見を惜しげもなく寄せてくる。色男モードだ。これで近づかれて勝てた試しがない。

「き、綺羅様」
「声が小さい」

 瞳にお互いが映るところまで近づかれて、思わず下を向いた。

「綺羅様」
「ん」

 顔をそらして無防備になったつむじや耳元に、綺羅様は唇を寄せては離すをくり返す。意地になって俯いたままでいたら、かすれた声でもっととねだられた。私はやけになって叫んだ。

「綺羅様……綺羅様、綺羅様!」
「ふふ、必死だな」
「……満足ですか?」
「ああ。ありがとう、綾紀」

 私を解放した綺羅様は、満面の笑みで頷いた。珍しく頬に朱がさしているのをみたら、胸の奥まで照らされるようで。やがてそれは、長く凍らせて目を逸らしてきた私の願望を思い出させてくれた。

 私の両目から涙があふれてくる。次から次へ、とめどなく流れていく。

 綺羅様の表情が一変した。真っ青な顔で慌てふためいている。
 そう言えば、彼の前で泣くのは初めてかもしれない。……泣くこと自体、もう何年もしていなかった。心の振り子がそこへ向かうのを我慢していたから。
 
「どうした? 抱きしめる力が強すぎたか? 苦しかったか?」
「いいえ、違うんです。……嬉しくて」
「? 喜ぶ要素があったか?」
「はい。以前家庭を持ちたいとお伝えしましたよね。それを諦めていたんです」
「それはこれからだろう。もう悲しむようなことじゃない」
「嬉し涙と言ってるじゃないですか。嬉しいんです」
「何が」
「名付けの親になれたのが。だって、名付けなんて、子供が産まれないとできないじゃないですか」

 生き物を飼ったこともなかったし。……機会があったとしても、私と一緒に不幸にしそうで飼う決意はできなかっただろう。

「名付けの機会なんて、一生ないと思っていたんです。それが叶ったのが嬉しくて……気づいたら泣いてました」
「何を言う。泣くのはまだ早い」
「わっ!」

 そのまま抱き上げられた。龍神様の左腕に私が腰かけるような形だ。視界が高くなり、いつも頭ひとつ分高い綺羅様を私が見下ろしている。

「俺たちはこれからもっと親密になり、そのうち本当に子どもが出来るだろう。その時まで涙は取っておくんだ」
「……はい」

 返事をしたものの、今までどうやって堪えていたのか不思議なくらい、涙はあとからあとから流れて止まらない。

「だから取っておけと……綾紀に泣かれるのは胸がざわつく」
「ですから、嬉し泣きなのです。龍神様が優しいせいですよ」

 すると、唐突にキスされた。啄むように何度も唇が重ねられ、戸惑ううちにいつの間にか涙はひっこんでいた。

「……もう、驚かせて泣き止ませるなんて意地悪ですね」
「違う。名付けたなら責任持って呼んでくれ」
「え……?」
「さっき龍神様と呼んだだろう。今後も間違えるたびにこうして口を吸ってやる!」
「ええええ!」

 このときほど、屋敷の周りが広い原っぱで良かったと思う。
 動揺して龍神様と呼んでしまい、再びキスの嵐を受けた私の悲鳴を誰にも聞かれずに済んだから。



 そし後、綺羅様の言ったとおり私たちは子宝に恵まれた。
 最初の子が産まれた瞬間、私よりもさきに綺羅様が号泣したのは、私だけの秘密だ。

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