「いいや、龍降ろしの儀は綾紀にしてもらう。僕はいい」

 甲高い声で叫ぶお母様を無視して、兄様は私の手を強く引く。転んで地面に倒れた私を置いたまま、自身は陣の外へ出て行った。あっけにとられ陣の中央から動けずにいる私を見下ろして鼻で笑うと、右手を高くのばす。

「偉大なる龍神様!」

 そんなに大声が出せたのかと驚くくらい、兄様の声は場の空気を震わせた。

「今一度地上に降り、我らに力を貸し与えたもう!」

 その声に応えるように突風が吹き、前触れなく雨が降り始めた。あんなに星々が輝いていたのに。場の空気が、天からの恵みが、私たちを撫でるように見定めるように、大きく円を描きながら陣を囲んでいく。風にのり雨が全身にぶつかってくる。目を開くのが難しくて、まぶたをかたく閉じた。

(……龍神様。会いたいです)

 一縷の望みにすがり龍神様を呼ぶ。

 パシッ!! 水の弾ける音とともに、雨風がぴたりとやんだ。
 恐る恐る目を開けば、真っさらで淡く発光する蛇のような――いや、今まで見た姿より桁違いに大きくて長い――絵巻物で見た、立派な鱗を光らせる龍がいた。

「よく頑張ったな、綾紀」
「龍神様……!」

 声は低くなり威厳のある雰囲気を纏ってしまったけれど、話し方が龍神様と同じで安心する。

 戸惑いも諦めも絶望も、全て吹き飛んで、会えた会えたとわきあがる喜びが全身をめぐる。幻でないのを確かめたくて背中あたりの鱗におずおずと触れれば、龍神様は私の頬に頭を寄せてくれた。髪の毛のようなふわふわとした毛がくすぐったい。思わず笑うと、安心したように龍神様は息を吐いた。

「待たせてごめんな」
「いいえ、いいえ! もう一度会えて嬉しいです」
「俺もだ。手遅れになる前で良かった」
「手遅れ?」
「嫁になるんだろう、俺の」
「は……い、けれど声が……きっと身体のなかも」

 もうこれは兄様の姿だ。私では――綾紀では、ない。

「そんなのどうとでもなる」

 豪快に笑う声と姿は違うけれど、やっぱり龍神様だ。どういうことか詳しく聞きたいと思ったのに、お母様の大絶叫がまたも響いた。

「龍神様! それは紛い物でございます! 貴方様をお呼びしたのはこの匡稀! 龍代を継ぐのはこちらの匡稀でございます!」

 龍神様は口を開き、隙間なく生えた歯を剥き出しにして唸った。飄々としている姿しか知らないから、眉間に何本も皺を寄せる様子に驚いてしまう。
 
「女、見苦しいぞ。我は綾紀の願いに応えたのだ。そちらのホラ吹きに用はない」
「ほ、ホラ吹き!?」
「その男はな、我の姿が見えているにも関わらず見えぬ存ぜぬとシラを通した。寝こんでいたのも仮病だろう。神力の量が歴代よりも多いのは事実のようだが、何も問題なく生活できる」
「そんなこと……ありません。僕は、僕は……」
「ふん。言い訳など興味はない」
「匡稀をこんなにも蔑ろにして! いくら龍神様とはいえ許せません!」

 お母様の握っていた短剣が放られた。お母様の神力がこもっているのか、空をきる速度が速い。
 
「やめて!」

 龍神様に当たらないでと願った瞬間、私は剣の軌道に立ちはだかっていた。みぞおちに衝撃がはしる。貫かれるような、鋭い痛みがあり、何かが割れるような音がした。

「割れる?」

 短剣は足元に転がっていた。当たった場所に右手で触れる。……なんともない。穴が開いてもおかしくないと思ったのに。次の瞬間、指先が巾着袋の厚みに気づいて「あ」と気づいた。あわてて袋の中身を確認する。やっぱり。以前龍神様がくれた逆鱗が粉々に砕けていた。カケラになっても美しい光を放っているのが、より守りきれなかったのを痛感して悲しくなる。
 
「何をしている」

 龍神様が膨らむように大きくなった。

「よくまあ我を責めることができたな。お主は母親の身でありながら息子だけを贔屓し、綾紀を蔑ろにしてきただろう!」

 雷が庭の木に落ちた。

「これは俺の逆鱗だ。よくも傷つけてくれたな」
「も、申し訳ございませぬ!」

 お祖父様が慌てて頭を下げた。何か申し開きをしているけれど、再び降り出した雨の勢いが強すぎて聞こえない。兄様の言い訳も、お母様の嘆きも。

「俺に触れていれば雨にも雷にも当たらない」

 私に向けた龍神様の声は優しかった。こんな悪天候でも、龍神様の声だけは鮮明に届く。見上げれば、黄金の瞳が声色と同じように優しく弧を描いた。

「綾紀、行こう」

 背中に乗るよう促される。拒否する理由もないため素直によじ登る。首のあたり……と思われる部位に腕を回した。しっかり掴まるよう言われて頷いたとたん、龍神様は空へ昇っていき、気づいたときには霞がかった山のなかにいた。見上げてもてっぺんが見えない竹が林になって揺れている。

「さあ、そろそろ決着をつけようか」
「決着……ですか?」
「こういうこと!」

 地面におりた私の体全体を、小さな竜巻が包んだ。痛みも息苦しさもない。不思議とあたたかくて、明るい。体が軽くなっていくのが清々しい。頬に手を当てたらいつもと感触が違うのに驚いて手の平をまじまじと見つめる。節のないほっそりとした手指だった。まさかとあちこち確認する。筋肉質だった手足の輪郭が丸みを帯びでいた。喉に触れてもでっぱりはなかった。

 (もしかして……)

 やがて風の勢いがゆるくなり、頭の方から空へ消えていく。よく眠れた朝みたいに頭がすっきりとしていた。

「お、さっぱりしたな」
「龍神様……って、えええ!?」

 知らない人がそこにいた。
 だから、私は自分の声が元に戻る……どころかいつもより高いことに、すぐには気づかなかった。