もうすぐ校門をくぐろうか、いうところで「おはよう」と聞き馴染みのある声がした。
幼馴染の鞠子だ。私が通う学校と隣接する女学院へ通っている。学生らしく矢絣の小袖に紫の袴、黒い革のブーツを履いた彼女は、背中まで伸びた髪を頭の後ろで結び臙脂色のリボンを巻いていた。いつも快活で生気に満ちた大きな瞳は、今日も輝いている。
「匡稀さん〜? 今日は男っぷりが上がってる気がする。神力の効果ね?」
「鞠子には敵わないな。その通りだよ」
兄様の神力を分けてもらうと、私の声は低くなり、筋力が増す。仕組みはさっぱりだが、神力の持ち主に体が似てくるようだ。物心つく前から男装してきたとはいえ、これまで女だと露見しなかったのは兄様のおかげだ。
私が男装する理由は二つ。
一つは尸童として無事に龍神様と心身を共にして回復した兄様が、龍代家当主として動けるようになった時、滞りなく日常生活を送り人間関係が築けるように。二つ目は、我が家の力を頼りにする国民の目を誤魔化すために。
龍神様のいる国は豊かになる。それを証明するように、尸童だった私たちの父が十五年前に死んでから国は徐々に荒れてきている。鎖国が破られ、開国に伴う弊害や農作物の不作が続いているのだ。先代のお祖父様が再び龍神様を降ろしているらしいが、年齢のためか神力の量が足りず龍神様の加護は完璧でない。そのうえ後継である兄様が床に伏せたままと聞けば、お偉方だけでなく国民全体の不安を煽ってしまうだろう。
だから、私が完璧に男装して、兄様――龍代匡稀は健在だと暗に主張してきた。
「でも、私は綾紀にも会いたいわ」
「ありがとう。……幸か不幸か、最近はすぐに神力を消費してしまうんだ」
困ったよと笑いかけると、鞠子は顔を近づけ、耳元でささやいた。
「綾紀の……女性性が神力に争うのかしら」
「鞠子もそう思う? 成人か近いせいか、ここ数日は特にひどい」
そう。十歳をこえ思春期を迎えた頃から、男装を保つために必要な神力の消費が増え続けている。けれど私が一度に受け取れる神力の量はほとんど変化がなかったため、単純に受け取る回数を増やさねばならなくなった。月に一度だったのが一週間に一度になり、最近は毎朝もらわないと夕方には声が高くなってくる。
それで兄様の体が楽になるならといいけれど、体内で神力がつくられる量も増えているらしく負担は変わらないらしい。せめて私が一度に受け取れる神力の量が増えたらよかったのに。兄様の休息を妨げる回数が増えて、申し訳なく思う。
けれど兄様はいつも私に「ありがとう」とほほえむ。もっと受け取ってくれと悪態をついてもいいのに、そうはしなかった。
「綾紀も匡稀様もお辛いわね。父様に薬湯の配合を調整できないか聞いてみるわ」
「ありがとう。助かる」
「我が家の役目だもの。ふふ、私もね、薬草にはだいぶ詳しくなったのよ」
「頼りにしてるよ。未来の主治医さん」
「まかせて。女だからって眉をしかめる人も多いけど、私は絶対、医者になるわよ」
鞠子は、代々医者を輩出している家系の一人娘である。当主である彼女の父は、龍代家のお抱え医師でもある。
鞠子のお父様には、私も幼いころからお世話になってきた。
兄様が毎日煎じて飲んでいる薬湯も処方してくれている。
正義感が強くしっかり者の鞠子は、龍代家だけでなく、市井の者たちにとっても頼れる医師になりたいと勉学に励んでいるのだ。真っ直ぐ前を向き、女性であるという困難をものともせず進んでいく鞠子は、とてもまぶしい。
(私なんて……)
本来の性別を偽り、進むべき道も分からず愛想を振りまいているだけだ。私がどんなに努力しようと、人を幸せにすることはできないのだから、
――龍神様をおろせないと、この国は繁栄できない。
――女の身体では龍神様をおろせない。
――兄様が回復しないと、龍代家は復興できない。
そう、どれも私には貢献できないのだ。
(龍降ろしの儀が終わったら、私はどうすればいいだろう)
何年も前から考えているけれど、いまだに答えが見つからない。世間には兄様でなく、妹の私――綾紀が病弱で屋敷に篭っているとされている。
龍降ろしの儀が無事に成功し、私が男装する必要がなくなっても、綾紀としてまた人脈を繋げていく必要がある。それはとても骨の折れる作業に思われた。
「私、一週間後を楽しみにしているの。だって綾紀に会えるから」
私の不安をぬぐうように、鞠子の声ははずんでいた。そうだ。鞠子だけは、綾紀の復活を待ちのぞむ貴重な一人だ。
一人でも私自身を待ってくれる人がいる。これだけが私のよすがだ。
*
自室の文机に広げた課題は、一問も進んでいなかった。もう学校から帰宅して一時間だ。そろそろ女中さんが夕ご飯だと呼びに来るだろう。課題は食後にしようと伸びをしたときだった。
「なぁんだ、お前さん女か。紛らわしい気配しやがって!」
私しかいないはずの部屋に、キンキンと高い声が響く。その主を探して部屋を見回せば、畳の上にトグロを巻いた白い――
「蛇?」
「たわけ。俺は龍だ! 龍代の者なら一目で見抜け」
身体の半分くらいをぴんと伸ばし、自称龍はえへんと……おそらく胸をはった。どう見ても白い蛇にしか見えないけれど、沈黙が一番であると本能が告げていた。