毎朝学ランに袖を通すまえ、私は一度だけ深呼吸をする。そうして綾紀(あやき)という自分から、匡稀(まさき)という双子の兄になる覚悟を決めるのだ。

(今日もきっと上手くいく)

 まじないのように念じてから学生帽を被り、全身鏡で身なりを確認した。背筋をよく伸ばし胸を張る。すると十七の青年という割には華奢な体つきでも、違和感を感じさせない。
 実は同じ年の女が扮しているなんて考える人はいないだろう。鏡に写るのはどこからどうみても、人好きのする笑顔を浮かべた男子学生だった。

 荷物を抱え、部屋の障子を静かに開ける。冷気を含む風が入り込んできて、季節の変わり目に思いを馳せてしまう。木の枝が灰色をおび始めるのも時間の問題だなと庭へ視線を投げつつ、母屋へ向かう廊下を音がしないよう踵から歩く。
 すると、渡り廊下をこちらに向かってくるお母様と女中頭が見えた。
 立ち止まり「おはようございます、お母様」と声をかけるが、一瞥もくれないまま二人は私の横を通り過ぎて行く。

 日常の景色だ。今さら傷ついたりもしない。いつだったか、「新しく入った女中をまた誑かしているようね」と苦言を呈されたときよりはマシだ。
 別に誑かした覚えはない。私は私なりに兄様の評判が落ちませんようにと考え行動しているだけなのに。

(昔は、今日こそ挨拶を返してくれるかもしれないと期待してたっけ)

 諦めて、もう何年経つのだろう。



 ここは龍代(たつしろ)家の屋敷。我が家の男系男子は、龍神様をその体に宿すことができる。龍神様を宿しその力を借りることで、昔からこの日本國(ひのもとのくに)に安寧と繁栄をもたらしてきた。およそ数百年の鎖国に成功した歴史があるのも、龍神様のご加護があったおかげだ。

 どんなに上手く男を装えたとしても、女の私は龍神様を宿す資格がない。けれど幼い頃――それこそ物心つく前から、男として振る舞うよう躾けられた。
 床に伏せっている兄様が健在であると、周囲を欺くために。

「おはようございます、兄様」

 母屋の一室で足を止め、廊下に正座し声をかけた。しばらく時間をおき「失礼します」と障子を開け部屋に入る。

 必要最小限の家具がおかれた部屋の真ん中に敷かれた布団には、浅くはやい呼吸をくり返す兄様が横になっている。枕元に近づくと、お盆に置かれたコップの水が空っぽだった。隣に置かれた水差しの水を注いでいると、兄様の目がゆっくりと開く。

「……おはよう綾紀。朝か……神力(じんりき)を渡す時間だね」
「はい。お願いします」

 今日も兄様は、真っさらな敷物と同じ顔色だ。夜色をした髪の艶はなりをひそめ、同じ色をした瞳の力も弱いまま。着崩れた浴衣の合間から垣間見えた胸は肋骨が浮き、手首は私と同じくらい細くて痛々しかった。
 つらそうな兄様を前にすると、私も胸が押されるような感覚になる。私たちが双子だからだろうか。

 兄様を苦しめているのは、体内に宿す神力の量が多すぎるせいだ。
 神力とは、龍神様を宿すための――平たく言えば糊のようなもの。ある一定以上の神力を持つ者でないと、龍神様が降りて下さっても素通りしていまい、その力を借りることは叶わない。
 多大な神力を受け継いできたからこそ、龍代家が龍神様の尸童(よりまし)を務めてきた。しかし歴代の尸童と比較しても、兄様の神力は桁違いに多量らしい。そして器の大きさとは不釣り合いな力が、兄様の体を蝕み続けているのだ。

(早く兄様を楽にしてあげたい)

 私は枕元から布団の中央が目の前になる位置へ移動し、兄様の両手を握った。すると手のひらを通して冷たい水を体内に注がれるような感覚がする。
 兄様の息づかいが落ち着いていく様子に、私は安堵の息をはいた。

「綾紀ありがとう。ずいぶんと楽になった」
「いいえ。本当はもっと余分な神力を受け取れたらいいのに。そしたら兄様は自由に動けるかもしれないでしょう?」
「そうなったら嬉しいけれど……綾紀にまで無理を強いたくないな」
「……でも」
「大丈夫。今なら粥が食べられそうだ」
「本当ですか?」

 兄様が笑顔になる。相変わらず無理をしているのは明らかな弱々しいものだけど、楽になったと言うのは嘘ではなさそうだ。

「学校へ行く時間だろう? 気をつけて、綾紀」
「はい。兄様も龍神様のご加護がありますように」

 障子を閉める直前、兄様は小さく手を振ってくれた。

 学校へ続く道を歩く。道の両脇にずらりと並ぶ銀杏並木は若葉色から黄色へ変化していたが、今日はいよいよ全てが染まりきったらしい。空も一面黄色に染められるのではないか。そう疑いたくなるほどに、銀杏の葉は一枚一枚が立派で色鮮やかだ。

(小さな頃は、綺麗な葉っぱを兄様へのお土産に持って帰ったっけ)

 さすがにもう拾うことはないが、舞い落ちる葉のなかで美しい形のものがないか目が自然と探してしまう。銀杏が色づいたということは、紅葉の時期も近い。衣を纏うように木々が色づいていくこの季節が、私は好きだ。私と兄様が生まれた時期でもあるし――とそこまで考えしたところで、また気持ちが沈んでいく。

 一週間後、十二の月に迎える誕生日は特別だ。十八歳となり成人を迎えるその日、兄様は龍神様を宿す『(りゅう)()ろしの儀』を執り行う。今は神力を私に分け与えてやり過ごしている兄様も、龍降ろしの儀が終わり身に宿した龍神様と神力を分け合うようになれば、苦しむことは無くなるらしい。
 けれど、懸念点が一つある。

(本当に、兄様は龍神様に意識を乗っ取られてしまうの? 優しい兄様が別の人格になるなんて……私は耐えられない)

「綾紀、よく聞いて。龍下ろしで龍神様と僕の人格が入れ替わるんだ。僕の意識は無くなるけれど、それまでと同じように接してくれると嬉しい」

 そう、兄様が私に教えてくれたことがある。

「そんなの……私にとっては兄様の死と一緒です。お母様はご存知ないのですか? 兄様の人格が変わるなんて、お母様だって……」
「当然、お母様も承知しているよ。龍代の者として、綾紀も心の準備をしておくのだよ」

(兄様には健やかになって欲しいけれど、人格が変わるのも、離れ離れになるのも嫌だわ)

 毎年楽しみにしていた紅葉が憂鬱の種になるな、と嘆息して銀杏の葉を踏み締めた。カシャカシャとなる音とともに、周囲の声が耳に入ってくる。いつのまにか校門がすぐそばで来ており、生徒たちの流れがにのっていた。
 あわてて微笑みを貼りつける。男装してまで龍代匡稀として通っているのだ。私の不注意で、兄様の評判が落ちるようなことがあってはならない。