毎朝学ランに袖を通すまえ、私は一度だけ深呼吸をする。そうして綾紀(あやき)という自分から、匡稀(まさき)という双子の兄になる覚悟を決めるのだ。

(今日もきっと上手くいく)

 まじないのように念じてから学生帽を被り、全身鏡で身なりを確認した。背筋をよく伸ばし胸を張る。すると十七の青年という割には華奢な体つきでも、違和感を感じさせない。
 実は同じ年の女が扮しているなんて考える人はいないだろう。鏡に写るのはどこからどうみても、人好きのする笑顔を浮かべた男子学生だった。

 荷物を抱え、部屋の障子を静かに開ける。冷気を含む風が入り込んできて、季節の変わり目に思いを馳せてしまう。木の枝が灰色をおび始めるのも時間の問題だなと庭へ視線を投げつつ、母屋へ向かう廊下を音がしないよう踵から歩く。
 すると、渡り廊下をこちらに向かってくるお母様と女中頭が見えた。
 立ち止まり「おはようございます、お母様」と声をかけるが、一瞥もくれないまま二人は私の横を通り過ぎて行く。

 日常の景色だ。今さら傷ついたりもしない。いつだったか、「新しく入った女中をまた誑かしているようね」と苦言を呈されたときよりはマシだ。
 別に誑かした覚えはない。私は私なりに兄様の評判が落ちませんようにと考え行動しているだけなのに。

(昔は、今日こそ挨拶を返してくれるかもしれないと期待してたっけ)

 諦めて、もう何年経つのだろう。



 ここは龍代(たつしろ)家の屋敷。我が家の男系男子は、龍神様をその体に宿すことができる。龍神様を宿しその力を借りることで、昔からこの日本國(ひのもとのくに)に安寧と繁栄をもたらしてきた。およそ数百年の鎖国に成功した歴史があるのも、龍神様のご加護があったおかげだ。

 どんなに上手く男を装えたとしても、女の私は龍神様を宿す資格がない。けれど幼い頃――それこそ物心つく前から、男として振る舞うよう躾けられた。
 床に伏せっている兄様が健在であると、周囲を欺くために。

「おはようございます、兄様」

 母屋の一室で足を止め、廊下に正座し声をかけた。しばらく時間をおき「失礼します」と障子を開け部屋に入る。

 必要最小限の家具がおかれた部屋の真ん中に敷かれた布団には、浅くはやい呼吸をくり返す兄様が横になっている。枕元に近づくと、お盆に置かれたコップの水が空っぽだった。隣に置かれた水差しの水を注いでいると、兄様の目がゆっくりと開く。

「……おはよう綾紀。朝か……神力(じんりき)を渡す時間だね」
「はい。お願いします」

 今日も兄様は、真っさらな敷物と同じ顔色だ。夜色をした髪の艶はなりをひそめ、同じ色をした瞳の力も弱いまま。着崩れた浴衣の合間から垣間見えた胸は肋骨が浮き、手首は私と同じくらい細くて痛々しかった。
 つらそうな兄様を前にすると、私も胸が押されるような感覚になる。私たちが双子だからだろうか。

 兄様を苦しめているのは、体内に宿す神力の量が多すぎるせいだ。
 神力とは、龍神様を宿すための――平たく言えば糊のようなもの。ある一定以上の神力を持つ者でないと、龍神様が降りて下さっても素通りしていまい、その力を借りることは叶わない。
 多大な神力を受け継いできたからこそ、龍代家が龍神様の尸童(よりまし)を務めてきた。しかし歴代の尸童と比較しても、兄様の神力は桁違いに多量らしい。そして器の大きさとは不釣り合いな力が、兄様の体を蝕み続けているのだ。

(早く兄様を楽にしてあげたい)

 私は枕元から布団の中央が目の前になる位置へ移動し、兄様の両手を握った。すると手のひらを通して冷たい水を体内に注がれるような感覚がする。
 兄様の息づかいが落ち着いていく様子に、私は安堵の息をはいた。

「綾紀ありがとう。ずいぶんと楽になった」
「いいえ。本当はもっと余分な神力を受け取れたらいいのに。そしたら兄様は自由に動けるかもしれないでしょう?」
「そうなったら嬉しいけれど……綾紀にまで無理を強いたくないな」
「……でも」
「大丈夫。今なら粥が食べられそうだ」
「本当ですか?」

 兄様が笑顔になる。相変わらず無理をしているのは明らかな弱々しいものだけど、楽になったと言うのは嘘ではなさそうだ。

「学校へ行く時間だろう? 気をつけて、綾紀」
「はい。兄様も龍神様のご加護がありますように」

 障子を閉める直前、兄様は小さく手を振ってくれた。

 学校へ続く道を歩く。道の両脇にずらりと並ぶ銀杏並木は若葉色から黄色へ変化していたが、今日はいよいよ全てが染まりきったらしい。空も一面黄色に染められるのではないか。そう疑いたくなるほどに、銀杏の葉は一枚一枚が立派で色鮮やかだ。

(小さな頃は、綺麗な葉っぱを兄様へのお土産に持って帰ったっけ)

 さすがにもう拾うことはないが、舞い落ちる葉のなかで美しい形のものがないか目が自然と探してしまう。銀杏が色づいたということは、紅葉の時期も近い。衣を纏うように木々が色づいていくこの季節が、私は好きだ。私と兄様が生まれた時期でもあるし――とそこまで考えしたところで、また気持ちが沈んでいく。

 一週間後、十二の月に迎える誕生日は特別だ。十八歳となり成人を迎えるその日、兄様は龍神様を宿す『(りゅう)()ろしの儀』を執り行う。今は神力を私に分け与えてやり過ごしている兄様も、龍降ろしの儀が終わり身に宿した龍神様と神力を分け合うようになれば、苦しむことは無くなるらしい。
 けれど、懸念点が一つある。

(本当に、兄様は龍神様に意識を乗っ取られてしまうの? 優しい兄様が別の人格になるなんて……私は耐えられない)

「綾紀、よく聞いて。龍下ろしで龍神様と僕の人格が入れ替わるんだ。僕の意識は無くなるけれど、それまでと同じように接してくれると嬉しい」

 そう、兄様が私に教えてくれたことがある。

「そんなの……私にとっては兄様の死と一緒です。お母様はご存知ないのですか? 兄様の人格が変わるなんて、お母様だって……」
「当然、お母様も承知しているよ。龍代の者として、綾紀も心の準備をしておくのだよ」

(兄様には健やかになって欲しいけれど、人格が変わるのも、離れ離れになるのも嫌だわ)

 毎年楽しみにしていた紅葉が憂鬱の種になるな、と嘆息して銀杏の葉を踏み締めた。カシャカシャとなる音とともに、周囲の声が耳に入ってくる。いつのまにか校門がすぐそばで来ており、生徒たちの流れがにのっていた。
 あわてて微笑みを貼りつける。男装してまで龍代匡稀として通っているのだ。私の不注意で、兄様の評判が落ちるようなことがあってはならない。

 もうすぐ校門をくぐろうか、いうところで「おはよう」と聞き馴染みのある声がした。
 幼馴染の鞠子(まりこ)だ。私が通う学校と隣接する女学院へ通っている。学生らしく矢絣(やがすり)の小袖に紫の袴、黒い革のブーツを履いた彼女は、背中まで伸びた髪を頭の後ろで結び臙脂(えんじ)色のリボンを巻いていた。いつも快活で生気に満ちた大きな瞳は、今日も輝いている。

「匡稀さん〜? 今日は男っぷりが上がってる気がする。神力の効果ね?」
「鞠子には敵わないな。その通りだよ」

 兄様の神力を分けてもらうと、私の声は低くなり、筋力が増す。仕組みはさっぱりだが、神力の持ち主に体が似てくるようだ。物心つく前から男装してきたとはいえ、これまで女だと露見しなかったのは兄様のおかげだ。
 私が男装する理由は二つ。
 一つは尸童として無事に龍神様と心身を共にして回復した兄様が、龍代家当主として動けるようになった時、滞りなく日常生活を送り人間関係が築けるように。二つ目は、我が家の力を頼りにする国民の目を誤魔化すために。
 龍神様のいる国は豊かになる。それを証明するように、尸童だった私たちの父が十五年前に死んでから国は徐々に荒れてきている。鎖国が破られ、開国に伴う弊害や農作物の不作が続いているのだ。先代のお祖父様が再び龍神様を降ろしているらしいが、年齢のためか神力の量が足りず龍神様の加護は完璧でない。そのうえ後継である兄様が床に伏せたままと聞けば、お偉方だけでなく国民全体の不安を煽ってしまうだろう。
 だから、私が完璧に男装して、兄様――龍代匡稀は健在だと暗に主張してきた。

「でも、私は綾紀にも会いたいわ」
「ありがとう。……幸か不幸か、最近はすぐに神力を消費してしまうんだ」

 困ったよと笑いかけると、鞠子は顔を近づけ、耳元でささやいた。

「綾紀の……女性性が神力に争うのかしら」
「鞠子もそう思う? 成人か近いせいか、ここ数日は特にひどい」

 そう。十歳をこえ思春期を迎えた頃から、男装を保つために必要な神力の消費が増え続けている。けれど私が一度に受け取れる神力の量はほとんど変化がなかったため、単純に受け取る回数を増やさねばならなくなった。月に一度だったのが一週間に一度になり、最近は毎朝もらわないと夕方には声が高くなってくる。
 それで兄様の体が楽になるならといいけれど、体内で神力がつくられる量も増えているらしく負担は変わらないらしい。せめて私が一度に受け取れる神力の量が増えたらよかったのに。兄様の休息を妨げる回数が増えて、申し訳なく思う。
 けれど兄様はいつも私に「ありがとう」とほほえむ。もっと受け取ってくれと悪態をついてもいいのに、そうはしなかった。

「綾紀も匡稀様もお辛いわね。父様に薬湯の配合を調整できないか聞いてみるわ」
「ありがとう。助かる」
「我が家の役目だもの。ふふ、私もね、薬草にはだいぶ詳しくなったのよ」
「頼りにしてるよ。未来の主治医さん」
「まかせて。女だからって眉をしかめる人も多いけど、私は絶対、医者になるわよ」

 鞠子は、代々医者を輩出している家系の一人娘である。当主である彼女の父は、龍代家のお抱え医師でもある。
 鞠子のお父様には、私も幼いころからお世話になってきた。
 兄様が毎日煎じて飲んでいる薬湯も処方してくれている。

 正義感が強くしっかり者の鞠子は、龍代家だけでなく、市井の者たちにとっても頼れる医師になりたいと勉学に励んでいるのだ。真っ直ぐ前を向き、女性であるという困難をものともせず進んでいく鞠子は、とてもまぶしい。

(私なんて……)

 本来の性別を偽り、進むべき道も分からず愛想を振りまいているだけだ。私がどんなに努力しようと、人を幸せにすることはできないのだから、

 ――龍神様をおろせないと、この国は繁栄できない。
 ――女の身体では龍神様をおろせない。
 ――兄様が回復しないと、龍代家は復興できない。

 そう、どれも私には貢献できないのだ。
 
(龍降ろしの儀が終わったら、私はどうすればいいだろう)

 何年も前から考えているけれど、いまだに答えが見つからない。世間には兄様でなく、妹の私――綾紀が病弱で屋敷に篭っているとされている。

 龍降ろしの儀が無事に成功し、私が男装する必要がなくなっても、綾紀としてまた人脈を繋げていく必要がある。それはとても骨の折れる作業に思われた。

「私、一週間後を楽しみにしているの。だって綾紀に会えるから」

 私の不安をぬぐうように、鞠子の声ははずんでいた。そうだ。鞠子だけは、綾紀の復活を待ちのぞむ貴重な一人だ。
 一人でも私自身を待ってくれる人がいる。これだけが私のよすがだ。



 自室の文机に広げた課題は、一問も進んでいなかった。もう学校から帰宅して一時間だ。そろそろ女中さんが夕ご飯だと呼びに来るだろう。課題は食後にしようと伸びをしたときだった。

「なぁんだ、お前さん女か。紛らわしい気配しやがって!」

 私しかいないはずの部屋に、キンキンと高い声が響く。その主を探して部屋を見回せば、畳の上にトグロを巻いた白い――

「蛇?」
「たわけ。俺は龍だ! 龍代の者なら一目で見抜け」

 身体の半分くらいをぴんと伸ばし、自称龍はえへんと……おそらく胸をはった。どう見ても白い蛇にしか見えないけれど、沈黙が一番であると本能が告げていた。

 どこから見ても白蛇にしか見えないけど、意思疎通ができるなら神聖な存在であるのは確かみたいだ。

「龍神様は実体化できるものですか? 今はお祖父様に降りていると聞きましたが」
「あんな老いぼれ、ずっと俺を降ろしていたらコロッと逝っちまうぞ。休ませるついでに馴染みの気配を探したら、お前がいたって訳だ」
「老いぼれ……」

 お祖父様は、一度尸童の役目を終えている。たしかに現役時代のように、龍神様をその身に降ろし続けるのは負担が大きいのかもしれない。今もお父様が生きていたら……お祖父様は悠々自適に暮らしているはずだった。この国も私たち双子も……運命を歩んでいるはずだったのだろうか。

「ははーん。なるほどな……双子か。お前の兄だか弟が神力を与えたんだな。しかし、なぜ男のふりをする必要がある?」

 文机にのぼってきた白蛇がたずねてきた。頭のなかに直接響く声は、鈴の音みたいに凛とひびく。話の内容も違和感がないし……本当に龍神様なのかもしれない、と私の心は信じる方へゆれはじめる。
 
「兄様は神力が多すぎるため、物心つく前から寝たきりで……」
「ふうん。どうせもうすぐ成人だろ? 龍降ろしの儀で俺を降ろせば問題ないな」

 龍降ろしの儀まで知っている。私の天秤は信じるに傾いて動かなくなった。

「……本当に龍神様なのですね」
「わざわざ声にだすとは、失礼な奴!」

 文机の上でとぐろを巻いた龍神様は、わははと豪快に笑う。

(龍神様って意外と気さくな方なんだ)

 白蛇姿でうごく様子も威厳があるというより可愛いらしい。かたく握ったままでいた私の両手が解けていく。

「龍神様……一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうした?」
「龍降ろしの儀が終わったら、兄の意識はどこへいくのですか。消えて……しまうのですか」

(体が健康になったとしても、兄様の意識が消えてしまうのは、嫌だ)

 兄様に聞いてから、ずっと私の胸にはびこる不安の種だった。私の気持ちを知ってか知らずか、龍神様は「はっ」と鼻で笑った。

「消えるわけないだろう。だるま落としとは違うんだぞ。俺を降ろしたからといって、元いた人格が消えるわけじゃねぇ」

 教鞭で黒板をたたく先生のように、龍神様は尻尾でトントンと机を叩いた。

「俺は肉体を間借りして、家賃代わりに俺の加護を使わせてやるだけだ。体の主は自分の意思で動けるし話せる。……あんの老いぼれ、後継者になんも伝えてないのかよ」
「私が知らないだけで、兄様は聞いているかもしれません。私は後継者でないので……お祖父様とお話ししたことがありません」

 もしかして、兄様もなにか勘違いしているのかもしれない。

「龍降ろしの儀が済んでも兄様の意識は消えず、体調は良くなる……それなら安心です。教えてくれてありがとうございます」
「お前の兄貴、ね」

 まるで口元に手を置いて考えるように、龍神様は尻尾を顔の前で静止させた。だけどそのうち「ま、いいか」と伸びをした。

「それより、散歩に行くぞ」
「散歩?」
「ああ。老いぼれは引きこもってばかりだからな。兄貴も当てにできないなら、お前に頼むしかないだろう」 
「もう日が暮れます。食事に呼ばれますし……散歩はちょっと……お一人では無理ですか」
「これでも神力の届く範囲でしか動けねえんだ。今だとこの屋敷の外は難しい。なあ頼むぜ。ちょいと川で水浴びさせてくれたらいいから」
「お風呂ではいけませんか?」
「川の水がいいんだよ」

 けろりと龍神様は言った。もう冬に片足をいれている時期に水風呂は寒くないだろうか。ただ私もお風呂は好きだから、水浴びしたいという希望はなるべく叶えたいと思う。

(女の私に龍神様が見えて、会話まで可能なのは最初で最後かもしれない)
 
 少なくとも、龍降ろしの儀のあとは無理だろう。若く多大な神力を持つ兄様の体は居心地が良くて、私なんか見向きもされなくなるだろうから。
 そもそも兄様からもらわなければ、私の体から神力は抜けていく。神力がなければ龍神様を私の五感でとらえることはできない。男装する機会もなくなれば、夕闇から夜にかけての時間を出歩くなんて叶わなくなるだろう。そう思うと、この誘いがどんどん魅力的に感じてくる。

「分かりました。お供します」
「そうこなくっちゃな! なら行くぞ」

 シャツ姿の私は学ランをとバンカラマントを羽織る。龍神様がしゅるりと近づいてきたと思ったら、あっという間に私の両肩をまたぐように乗り、マントの襟より外側にゆるく巻きついた。とても細くて白い襟巻きをしたみたいだ。
 指でそっと触れた龍神様の肌は鱗のせいか案外かたくて、ひんやりとしていた。
 
 屋敷から一番近い川の欄干の近くに腰をおろし、「生き返るなあ!」とはしゃぐ龍神様を見守る。
 目の前には収穫を終えた田んぼが広がり、その先は真っ赤な夕空が夜にのまれていくのがありありと見えた。屋敷からは見たことがなかった景色だ。

「綺麗……」
「初めてか」
「はい。こんなに広い夕焼けは初めて見ました。吸いこまれそう」
「お前も引きこもりか」

 また笑いはじめた龍神様に言い返そうとして、反論が思い浮かばず押し黙る。たしかに、私は家と学校を往復する日々しか送っていない。

「……自分の意思で出かけたのは初めてかもしれません」
「ふうん。……なら聞く。お前の望みはなんだ」
「望み?」
「龍降ろしが終われば、お前は自由だろう。なにをする」
「……分かりません」

 自問自答なら何年もしている。けれどいくら考えても、答えは出ないのだ。

「だったら何でもいい。思いつくことを話してみろ。どんなに拙くてもいいから」
「……兄様が元気になれなら、私はそれで」
「それは兄の話だろう。自分の未来だけを考えろ」

 自分の未来だけ。その一言が、すとんと腑に落ちた。
 私の未来、希望――なりたい姿。

「…………あたたかい家庭をもちたいです」

 言い終えてから、そうなのか、と心のなかで問い直してしまう。そんなの今まで考えたこともなかったから。なのに、不思議としっくりくる。

 神力で男を装う私は、月のものが来ない。十五までは周期が乱れながらも、年に数回は来ていた。けれど成長に伴い受け取る神力を増やしたら、完全に止まってしまったのだ。
 最初はそんなものだと思い納得しようとした。けれど――
 
「十五を過ぎてから女学院をやめて結婚、出産する顔見知りがふえました。忙しなくも充実した日々を過ごしている様子が……羨ましくて。……そうでした。どうして忘れていたんだろう」

 まるで導かれたように本音がポロポロとこぼれ落ちていく。
 私の願い、私の未来。宙ぶらりんだった綾紀という私自身が、今初めて地に足をつけたような気がする。
 
「なんだ」

 水に沈ませていた全身を、龍神様は頭からゆっくり持ち上げた。まるで片頬を上げるようにしてクククと笑った龍神様は、こともなげに言った。

「なら、俺の嫁に来るといい」

 最初、何を言われたのか分からなかった。
 その意味を理解する前にいよいよ日が暮れてきて、ガス灯と提灯だけでは頼りなく、視界が狭くなる。
 でも、だからだろうか。

 龍神様の体全体が淡く発光していた。くすみ一つない、新雪のような白さの体に銀と青の混じった光をまとい、厳かな雰囲気になる。

「龍神が嫁を娶るなんて史上初だぞ。光栄に思うがいい」
「え、でも……龍降ろしの儀が終わると、龍神様は兄様と一心同体になるのですよね?」
「そうだな。何か問題が?」

 問題しかありませんと答えたいのをグッと我慢した。それは……傍目には……いや私としても、近親婚でしかない。それはかなり抵抗がある。人間と神様とは倫理観が異なる可能性があるから否とは言いにくいけれど……あまり現実的ではない。

 兄様が回復したら、龍代家はすぐに婚約者を探すだろう。神力がありそうな家系、多産の家系……鞠子も例外でない。兄様の現状が寝たきりのため候補どまりだが、兄様が回復したら正式な婚約者になる可能性は高い。医師を志し父とともに神力の研究をする彼女は、兄様を支えるのに相応しいとお母様が太鼓判を押していた覚えがある。

 龍神様には申し訳ないけれど、何の取り柄もなく血の繋がる私は兄様……ひいては龍神様に嫁入りすることはできない。
 でも、なぜだか体がじんわりとあたたかくなってくる。胸に手を当てて考えて、そうかと思いいたった。

「私の胸のうちを聞いてくれて、気にかけてもらえたのは初めてです。ありがとうございます、龍神様」

 感謝が伝わるよう、精一杯の笑顔で声をかける。
 龍神様はしばし沈黙したあと「そうか」とだけ静かにつぶやいた。

「であれば相互理解が必要だな。よし、これから龍降ろしの儀まではお前に着いて行くぞ」
「え?」
「なんだその間抜け顔は。どうせ夫婦になるなら互いのことを知った方がいいだろう」

 どうしよう。きちんと無理だというのを説明すべきだろうか。

「私と兄様は血の繋がったきょうだいです。いくら龍神様のお導きでも、そんな二人が結婚となれば周囲の反対は大きいです。私自身もかなり抵抗がありますし」

 兄様のことは尊敬しているし好きだけど、結ばれたいかと言われたら首をふるしかない。けれど私の襟巻きに戻った龍神様は笑い飛ばすだけだった。

「なんだそんなこと。これでも神と呼ばれるものの端くれ。どうとでもなる。お主は大船に乗ったつもりでどーんと構えておけ」
「大船どころか……龍神様が私に乗っていましたが」
「はっはっは! たしかに。ま、一週間後になれば分かる」
「そうですか……」

 本当かなぁ。という気持ちが伝わったのか、目が合った龍神様がそのまま見つめてきた。金色の、お日様の光と同じ輝きが暗がりだからこそよく見える。見つめられるうち、何とかなるのかもと思えてくるから不思議だ。

「龍神様と話していると、私の心配が小さなものに思えてきます」
「いい傾向だ。お前は内に篭りがちなようだからな。もっとのびのびすればいい」

 龍降ろしのあと、兄様と私はどうなってしまうのか気になり不安を抱えていた。それが紛れるなら、龍神様の提案にのるのもいいかもしれない。

 一週間……その間を楽しんでもいいかな。神様が言うのだ。バチも当たらないだろう。

 すっかり暗くなった帰り道を急足で歩く。だけどちっとも怖くも心細くもない。提灯だけじゃなく、龍神様の光も一緒だから。

「龍神様の輝きは、星の光みたいですね」
「そうか?」
「はい。提灯やガス灯の黄色い灯りも優しくて好きですが、龍神様やお星様の、粒がきらめくような光も美しくて好きです」
「そうかそうか」

 歌うように声を弾ませてから龍神様の淡いきらめきが強くなり、チカチカと目にささってくる。

「ま、まぶしい! 龍神様……さすがに明るすぎます。前が白くて見えません」
「はっはっは! いやなに、俺らの相性は良さそうだと思ったら嬉しくなってな」

 すまんすまんと元の明るさに戻してくれる。気分によって光量にムラがでるのかと思ったけれど、そうではない。からかわれたのだと気づいて内心ムッとするけれど、ご機嫌な龍神様を見ていたら、すぐに心がほぐれていく。

「龍神様は……もっと大きくなったりするのですか」

 今のまぶしさから、絵巻物で描かれるような巨大で優美な龍の姿を連想した。

「なれる……というより、神力の量により見える姿が変わるという方が正しいか」
「じゃあ見る人によっては、私は今とてつもなく大きな襟巻き……むしろ龍神様に首を絞められているように見えるというのですか!?」
「あっはっは! 面白いな。さすがに今は調整している。お望みどおり試してみるか」
「ご遠慮させていただきます!」
「はは。可愛いやつだな、綾紀は」

 胸の鼓動が一気にはねた。可愛いと自分の名前が同時に出てくるなんて、初めての経験だ。

「龍神様……私の名前……」
「ん? 綾紀だろう? 知ってるぞ。俺はお前が考えるよりも長く生き、力もあるのでな」
「いえ、その、呼ばれるの慣れてなくて……か、可愛いとか言われるのも……」

 綾紀と呼ぶのは兄様と鞠子くらいだ。それも可愛いと揃いになった覚えはない。

「初心だな。ん、可愛い可愛い」
「からかわないで下さい!」
 
 龍神様の笑い声がまた夜に響く。
 帰りが遅くなり女中には小言を言われたけれど、私には全く響かなかった。
 帰り道の続きがずっと続いているように、私は今までで一番、胸を躍らせていたから。

 
 朝、胸元にもぞもぞと動く気配がして目覚めれば、白蛇が着物の袂から内側に入りこもうとしていたところだった。思わずそれをつかみんで布団の外に投げてから、それが龍神様だったと気がついた。

「わあああ龍神様!? すみません!」
「……俺を放るとはいい度胸だ。寒いだろうが」

 気だるげな声がして、龍神様はあたたかい場所を求めるように布団の中にもぐってくる。寝る前は枕元でとぐろを巻いていたはずなのに。

「寒さに弱いなんて、蛇みたいですね」
「失礼な……」

 まだ眠いのか、言い返す声に勢いがない。でも、悪態の一つくらいついても罰は当たらないと思う。
 兄様の神力により、私の胸はほとんど成長してないけれど、これでも乙女なのだ。蛇の姿とはいえ言葉を交わせる時点で、動物にじゃれつかれるのとは訳がちがう。
 恥ずかしいし、照れるのだ。

「龍神様の……へんたい! 今度着物のなかに入ろうとしたらもう一緒の布団で寝るのは禁止です!」
「へいへい。なんとでも……ふあぁ」
「……もうこんな時間! 準備をしないも」  

 まだ眠気まなこの龍神様を布団にのこし身支度を整えたのだった。



 今日も学校へ行く前に兄様の部屋に寄る。兄様なら、私のこの戸惑いを理解してくれるのではないか。そんな期待をこめて障子を開いたら、目があった兄様は、憂いの表情から一気に目を見開いた。
 
「兄様、おはようございます」
「綾紀……それは」
「見えますか? 龍神様です」
「いや……何も…………」
「え」
 
 信じられなかった。
 私に龍神様が見えるのは、兄様の神力を受け取っているからだ。だから兄様も同じだと疑わなかった。

「兄様にも見えると思ったのですが……あ、ちなみに今は白蛇みたいなお姿なんです」
「そう、なのか。見えなくて残念だよ」
「でも朗報があります。龍神様が言うには、龍降ろしの儀が終われば、兄様は元気になれるらしいのです。それに儀式のあとも兄様の意識は消えないし、肉体を乗っ取られることもないそうです!」
「綾紀は龍神様と話ができるのかい?」
「はい! 兄様の神力をいただいているおかげです!」
「そうか……僕の」

 ふと、兄様の目に力がこもった気がする。龍降ろしの儀は兄様の意識が消失する日でないと分かり、希望をもってくれただろうか。

 いつも通り兄様から神力をもらい部屋を後にする。部屋に入る前よりも龍神様の姿がくっきりと見えるようになり、私は嬉しくなった。むしろ昨日より瞳がつぶらで、鱗の並びが美しく見える。どきりと胸が高鳴った。
 
「あの兄貴、けっこうな食わせ者かもしれないな」

 学校まで行くと龍神様が言うので、昨日のように襟巻きになってついてきてもらっている。ほかの人に龍神様は見えないから、私は声でなく頭のなかで龍神様に語りかける。

『兄様が?』
「さっき目があったぞ」
『……本当に?』
「しかもあれだけ神力があれば、俺が人の姿に見えただろうよ」
『ええ? 龍神様は人の姿にもなれるんですか?』
「ああ。色男でびっくりするぞ』
 
 人の姿か。どんな感じなんだろう。昨日今日で蛇の姿が定着しつつあるから不思議な感じだがする。

「見たいか?」
『え、えーと……緊張してしまいそうなので、今のままがいいです』
「ふうん。蛇だというわりに気に入ってるのか」

 まあ俺はこの姿も美しいからな、と私の首元で、胸を張るように体をそらして威張っている。小さな蛇の姿だから可愛いけれど、もし大人の男性が同じ仕草をして可愛げが感じ取れるだろうか。想像してみたけれど、ちょっと不気味な気がする。うん、やっぱりこのままがいいな。一連の思考を読んだのか、龍神様は盛大にため息をついた。

「ことごとくお前は失礼だな。俺はどんな姿でも愛らしいし美しいぞ」
『心に留めておきます』

 そんなやりとりをしているうちに、気づけば校門が視界に入るくらい近くなってきた。一人で歩くよりも早く着いたように感じるのは、龍神様と話すのが楽しかったからだろう。

「匡稀さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」

 居合わせた女学生たちが挨拶をしてくれる。
 神力で声や筋肉量を変化させているとはいえ、男装は男装。成人した同級生に比べれば、私は学校の男子で一番と言っていいくらい華奢だと思う。逆にそれが親しみやすさにつながるのか、女性から思いを寄せられることは少なくない。

 放課後の予定を聞かれ、角がたたない断り文句を考えていたら、「よ、色男!」と頭のすみで龍神様の声がした。唐突に、しかも脱力する内容に思わず吹き出してしまう。私を囲っていた女学生たちが首を傾げるが関係ない。

(ああ、楽しい)

 龍神様といると、心や表情がほぐれて行くのが分かる。いや、今まで凝り固まっていたのにすら気づいていなかったのだ。

(こんな日々がもっと続けばいいのに)

 昨日の今日なのに、こんなことを考えてしまうなんて。龍神様と一緒にいられるのは、龍降ろしの儀までなのに。あと六日。限られた日々を大切に過ごさないといけない。後悔のないように、一日一日を噛みしめていこうと誓ったのだった。



 放課後、昨夜訪れた川に、私と龍神様は再訪していた。いつも通り直帰しようとした私を、龍神様が止めたのである。遊びに行くぞとはりきる龍神様と対照的に、私は行きたいところがなかった。

「町には行かないのか。髪飾りとか、女の好きそうなものが並んでるだろう」
「この姿で行ったら不審がられます。だいたい私には似合いません」
「そうか? お前は可愛いから、なにを選んでも似合うだろう」
「か、……もう、龍神様の可愛いは敷居が低すぎます。一応、私は男装しているんですよ? この姿で可愛いはプライドが傷つくと言いますか」

 私の首元に収まっていた龍神様の頭がにゅっと伸び、私と目を合わせてくる。じっと見つめられると吸いこまれそうな黄金色。
 
「姿形じゃねぇ。俺は綾紀のふるまいや表情が可愛らしいと言っている」
「……龍神様は軟派です」
「はーいはい。蒙古斑も消えてないようなお子様に吠えられても痛くも痒くもないね」
「さ、さすがに蒙古斑はありません!」
「ほう? 見せてくれるのが楽しみだ」
「見せません!」

 こんなにも簡単に心を乱されるのは、失礼なことを言われたからだ、と思うのに、一番動揺するのは龍神様があっけらかんと笑う声を聞くときだ。なんとも愉快そうで、なんの含みもない笑い声。いいなあ、と惹かれてしまう。
 そして不敵に目を細めて笑われると、胸の鼓動がはやくなるのだ。でも、嫌じゃない。
 龍神様の予想できない言動に振り回されるのが楽しい。
 もっともっと一緒にいたい、話したい、もっと――

(だめだめ。だって、こうして会えるのは期限つきなんだもの)

 後悔しないようにとは思ったけれど、このままじゃお別れが辛くなるだけだ。
 だって別れを想像するだけで、高鳴った鼓動は潮が引いた後みたいに静まり、締め付けられるような苦しさが胸から体全体に広がるのだから。

「町に行かないならこっち来な」

 そう言うなり、龍神様は私の襟巻きをやめて空を飛び始めた。
 泳ぐように体全体をくねらせながら、私の前を浮遊する。



 到着したのは、昨夜来た川に面した原っぱだった。秋桜が満開で、赤や桃色の花が風に揺れている。鱗雲が広がる空は、まるで白い花が咲いているよう。
 視界すべてが花束でうまるみたいだ。昨夜は水の中でくつろぐ龍神様をみていて気がつかなかったし、家と学校との往復ばかりで、近所にこんな景色があるなんて知らなかった。

「綺麗……」
「いいだろう。ここらは春になると菜の花畑が広がる。桜並木の地平線ができて、それはもう見事だぞ」
「すごい。見てみたいです」
「当たり前だろう。その景色のなかで婚礼をあげよう。綾紀の白無垢がきっと映える」
「婚礼って」

 春なんて、何ヶ月先だろう。私は一週間後の心配をしているのに。これは龍神様なりの優しさなんだろうか。それとも、現実を楽観視し過ぎているだけなんだろうか。

「……龍神様は意地悪です」
「今度は意地悪ときたか。ずいぶんと気安くなってきたな。いい傾向だ」
「そういう口調だとからかわれているとしか思えません……でもいいんです。婚礼のことまで考えてくださって。もう思い残すことはありません」

 私の首元からはなれてふわふわと飛び、まるで蜜蜂のように花のにおいを嗅いでいた龍神様がその場で静止した。
 
「なぜ、無理だと決めつける?」
「だって……難しいのは分かっているつもりです」
「なぜ言いきれる。前例がなくともこれからあるかもしれないだろう。すでにある川の流れですら、毎日姿を変え、進路は変化するというのに」

 そんな壮大な話をされても困ってしまう。私が今生きる環境は、なるべくしてなったものだ。家も、家族も、性別や能力だって、ひとつも選んで生まれることはできない。たとえば、男装なんて嫌だ自分らしく生きたいと抗っていたとしても、頭を押さえつけられ従わされただろう。なにより、私よりずっとつらいであろう兄様のことを考えると、私が、と言えるわけがないのだ。
 
「川の流れは……変化しているのかもしれません。でもその違いは私には分からない。確かめようとして、大きな流れにのみこまれるだけです」
「今は俺がいるだろう。あらゆる方法をよく考えろ。思考停止は普遍でなく破滅に近づく。歩みを止めないものだけが、新たな未来にたどり着くのだぞ」
「そんなことを……言われても」
「……よし、これをお前にやろう」

 俯いていたから気づかなかったけれど、いつの間にか龍神様は何かを咥えていた。
 両手で受け取り、まじまじと確認する。
 親指の爪くらいの大きさと薄さの、何か。陽に当たると七色の淡い光をまとうのが不思議で美しい。

「キレイですね」
「俺の逆鱗だ」
「逆鱗!?」

 龍の体を覆う鱗のうち、一枚だけ逆についているという、あの?

「取ってもいいのですか?」
「平気だ。ただし無くすなよ」
「そんな大事なもの、受け取れません……!」
「だったら後生大事に持っておくんだな。身につけておくといい」
「身につけると言っても……」

 とりあえずハンカチに包んでみる。ズボンのポケットでは、何かの拍子に割ってしまいそうだ。学ランの内ポケットに入れておくことにした。

「どうだ?」
「なにがでしょう?」
「俺の逆鱗までやったんだぞ。今後の恐れなんて吹っ飛んだだろう」
「ええと……」

 大事なものをいただいて、龍神様が私を気遣ってくれているのはとてもよく分かった。その気持ちはとても嬉しくて、胸があたたかくなる。きっと鱗の輝きを見るたび、私の心には灯がともるだろう。けれど、それで未来の憂いがなくなるわけではない。次第にまた俯く私の様子を見て、龍神様は「ふむ」と何かを思案した。
 
「お前を混乱させるのは俺の本意ではない。互いに頭を冷やし、龍降ろしの儀でまた会おう」
「え? ま、待ってください!」

 龍降ろしの儀まで会えないなら、もう一生会えないのと同じだ。そんなの私は望んでいない。せめてあと何日か、一緒に過ごせたらそれをよすがに生きていけると思ったのに。だけど龍神様は、「またな」とこちらを見つめたまま、無数の光の粒になって消えてしまった。

「そんな……」

 こんな別れ方があるだろうか。さっきまで春の婚礼の話をしてくれていたのに。

「……いいえ。もとから私には過ぎた話だったのよ」

 本来なら見えないはずの龍神様を見て、言葉も交わせた。嫁になれと言ってくれた。それで十分……と、考えられるようになるのは少し時間がかかりそうだけど。
 昨日と今日の思い出を抱いて、私は生きていくしかないのだ。
 一人で家に帰り、龍神様からもらった逆鱗を小さな巾着袋に入れてみた。ちょうどよく収まったので、袋の紐を長い物にとりかえ首から下げてみる。
 うん、学ランの内ポケットに入れておくよりも安定感がある。落とす心配がなくなりほっとする。

(思い出の品があるだけ、ありがたいわよね)

 昨日と今日の二日間は決して夢ではなかったのだと、鱗を見るたび感じられるから。ふいに恋しさと寂しさが一緒にわいてくる。巾着から鱗をもう一度だして見ようと袋口を開いたときだった。

「お嬢様」

 少し上向いた気分が急降下し、私は身構えた。男装し、兄様として暮らす私のことをお嬢様と呼ぶのは女中頭だけだからだ。お母様と一緒に冷めた瞳で私を睨む、いつだって私にとっては恐ろしい人。

「奥様がお呼びです」

 それだけ告げて黙ってしまう。着いてこいという意味だろう。
 いつも私のことなんていないように振る舞うのに、どうしたことだろう。何か怒られるとしか思えず、心の中に『嫌だ』が充満する。けれど逃げることなんて叶わない。

 女中頭が向かった先は、思った通りお母様の部屋だった。予想外だったのは、お母様よりも上座にお祖父様がいたことだった。小さい頃にあったきりだけど、口元の豊かな髭が同じだから間違いない。そもそもこの家でお母様より上座へ座れる人なんてお祖父様しかいない。

「匡稀さんから聞きました。龍神様が見えるそうで」

 私が座るのも待たずに、お母様は口を開いた。

「はい。龍降ろしの儀が終われば兄様は回復できると仰っていした。兄様の人格が消えることもないと」
「余計なことは言わなくてよろしい」
「……申し訳ありません」

 三つ指をついて謝る私に、冷ややかな視線が刺さる。今日は二人分。部屋ぜんたいの重苦しい空気が背中を圧迫するようで、なかなか顔を上げられない。すると「龍神様の声が聞こえるだと? 儂も聞いたことがないというのに?」というお祖父様の低く唸るような声が聞こえた。

「は、はい。兄様の神力のおかげで」

 頭を下げたまま答えつつ、私は混乱した。龍降ろしをしているお祖父様が、龍神様の声を聞いたことがないなんてありえるのだろうか。
 
「なぜ匡稀に龍神様が見えず、お前のみが見聞きできる。さてはお前、儂らを欺こうとしているな?」
「そんな! けれど確かに龍神様はいらっしゃいました」
「証明できるのか?」
「そうよ。龍神様がおわすというのなら、今はどこにいるのです。匡稀ほどでなくとも、お祖父様と私にも神力があるのよ。気配も感じないなんておかしいとは思わない?」
「それは……!」

 さっきまでは、確かに一緒だった。でもあの花畑で別れてから、どんなに呼んでも龍神様は姿を見せてくれない。

(龍神様……!)

 念じるけれど、なんの返事もない。これでは、私が妄言を吐いていると思われて当然だ。

「今は隠れてしまわれていますが……」
「もう黙りなさい。匡稀の苦しみもろくに癒せぬ者が意見するなど……恥を知りなさい!」

 見上げたお母様の目に浮かんでいたのは、嫌悪と憎悪だ。どうしてこんなにも憎まれているのだろう。

「……なぜ、なぜそんなにも私に辛く当たるのですか。私も龍代の子ではないのですか!?」

 お祖父様とお母様は顔を見合わせて嘆息した。
 
「お主のせいじゃ。お主が神力を押しつけたせいで匡稀は苦しみ続けているのだ」
「私の……せい?」
「龍代の嫁は代々双子を宿す。しかし生まれるのは一人だけ。この意味が分かるか?」
「……分かりません」
「赤子は多大な神力に耐えきれない。二人のうち一人が過剰分の神力を請け負って死ぬことで、残ったもう一人がちょうどいい塩梅の神力を持って生まれてくる」

 初めて聞いた。それでは、まるで――

「私は……生まれないはずだった?」

 お祖父様は深く頷き、お母様はこれみよがしにさっきより大きく息を吐いた。

「やっと理解できたかしら。本来なら私の腹から出る前に今世のお役目を終えるはずだったの。良かったわねぇ、綾紀なんて大層な名前をいただいて、成人まで育ててもらったのだもの。龍神様にもお会いできて、もう十分でしょう?」

 お母様が女中頭を呼びつけた。汚いものでも見るかのように私に視線を投げ、手で払うような仕草をする。

「牢に入れて。龍降りろしの儀まで出してはなりません。そして龍降ろしの儀が終わったら、処分して頂戴」
「かしこまりました。」
「……お母様」
「帳尻を合わせる時がきたの。逆らわないことね」

 体にうまく力が入らず、私は複数の使用人に連れられて部屋から出され、屋敷の隅にある座敷牢に閉じ込められた。
 日の当たらないこの場所のように、私の心も黒く塗りつぶされていくようだ。
 どんなに希望を抱いても、それは全て無駄だったのだ。お母様にとって私は予定外に生き残ってしまったいらない子で、兄様を苦しめる元凶でしかないのだから。