白く長い人差し指から、葉の先端を垂れる朝露のように鮮血が滴る。白糸(しらいと)の滝のような白髪から見える顔には勿忘草色(わすれなぐさいろ)の瞳が浮かんでいた。
「僕の血を君に与える。これを飲めば君は僕の従者になり――三ヶ月後に記憶を失う」
 燈子(とうこ)は彼の指を見ながら唾を飲んだ。
「そして、記憶を失うということは本質的に――死ぬ。ということ」
 彼の言葉に燈子は――。


 人間と妖が交わり始めて千年。人間と妖の混血など、もはや珍しくもなかった。ほとんどの人が混血であることが当然で、いつから混血になったのかもわからないぐらい時と交わりを繰り返してきた時代――長年交わることのなかった、純血の人間と純血の妖は第二身分を与えられ、混血は第三身分に属した。純血の人間の中でも高い位階に位置する『東園寺(とうえんじ)家』で生まれた東園寺燈子(とうえんじとうこ)は、純血の人間の母と純血の妖の父から生まれた混血だった。

 冷たい風が吹き、雪が積もる寒の入り。着物の袖をたすき掛けし、まがれいとの髪型を深紅色(しんこうしょく)のリボンで結んだ燈子は縁側(えんがわ)の床を木綿の雑巾で拭いていた。東園寺家の使用人が時々、近くを通るが使用人たちは燈子などそこには存在していないかのように振る舞い、自分たちの仕事をただこなしていた。

 燈子は結桶(ゆいおけ)に入った水に雑巾を入れ、雑巾の汚れを水に落とした。結桶の水は凍みるように冷たく手を針で刺されているようだった。そんな痛みにも燈子は慣れていた。冷たい水に映る自身の顔を見る、右目は茶色だが左目は金色だった。冷たい水に手を入れても表情を動かさなかった燈子だが、左右はっきりと色の違う自身の瞳を見ると僅かに顔をしかめた。結桶から手を抜くと雑巾を絞った、ぽたぽたと落ちる水滴で結桶の水は多重の波紋がぶつかり合い、燈子の顔は水面では歪み見えなくなっていた。

「ちょっとどきな」
 雑巾を絞っている燈子の背後から声が聞こえ、燈子は振り向き顔を上げると継母の娘である芽々(めめ)久茅(くち)の姉妹が立っていた。彼女たちの服装はいつもより派手だった。まだ、朝の八時だと言うのに。
「見てないで早くしなさいよ、お姉さまの声が聞こえなかったの? その目と同じで耳もお粗末になったのかしらね」と久茅が言った。
「――はい、いますぐに」

 燈子は床の中央にあった結桶を庭側に押し、自分も道を譲るように端へといった。ぎゅっと冷えた雑巾を握りながら芽々と久茅が通るのを待った。芽々が先に通ると続くように久茅が歩き始めたが久茅はすっと足を動かし、結桶を蹴った。雪の積もった庭へと落ちていった。
「ごめんなさいね、足が滑ってしまったみたい。拾ってあげたいけど人間には雪って冷たくて大変なのよ。あんたみたいな混血にはわからないと思うけど」
 燈子は何も言わずに素足のまま、雪に覆われた白い庭へと足をつけて結桶を拾い上げた。久茅は笑みを浮かべこう言った。
「床の上より、地面の上の方が似合ってるわね」久茅は気づいたような顔をして言葉を続ける「でも、それじゃあ桶も雑巾も必要なくなっちゃうかしら。雑巾を握って床に手足をつけるあんたの姿も好きだから困っちゃうわね」

 喋っている久茅に芽々が顔を向ける「何喋ってるのさ、行くよ」
「はーい、お姉さま」久茅は歩き出す。
「ええ、わたしもそう思います」と燈子が口を開くと、芽々と久茅は燈子を見た。
 燈子は二人を見ると続けて言う。
「……芽々さんも久茅さんもお似合いだと思いますよ。苦労知らずに我が物顔で歩く姿はとても――お似合いです」
「っ、あんた――」
「構うんじゃないよ久茅。相手なんてしてたら腐っちまうよ」芽々はそう言うと燈子を睨み「あんたも口答えなんてやめな、誰の恩情でここに居られると思ってるのさ。お母さまを怒らせれば、追い出されるのはあんただよ」

 お母さまに言いつけてやる、と久茅は騒ぎながら二人は去っていった。燈子は空になった結桶を庭にある、つるべ井戸まで素足のまま持っていき縄を動かし始める。縄は荒れた畑のようにガサガサとしており、手の皮膚が傷だらけになった。ポンプ式の井戸はこの屋敷にはあるが燈子は使わせてもらえなかった。混血であることが使わせてもらえない理由だった。東園寺家には使用人も含め燈子以外は純血の人間で、混血である燈子は忌避されていた。寝床は用意されるが、掃除も、洗濯も、食事も、すべて自分で行わなければいけなかった。そして屋敷を出ることすらも許されることはなかった。

 ヒリヒリとした手のせいで感覚が鈍り、縄を滑らせてしまい縄に繋がったつるべ桶は日の光を浴びる前に井戸の底へと落ちた。痛む手を我慢しながら、もう一度引き上げようと縄に手を伸ばすと長い影がゆらりと現れた。燈子は上を向くと、ゆらゆらとした影の主に喋りかけた。
「いっくん!」
「おはよ、トウコ」
 影の正体は一反木綿(いったんもめん)だった。純血の妖のなかでも人の姿に化けれない妖は低級に位置する。第二身分とは言え、その扱いは第三身分より少し良いぐらい。本来であれば東園寺家と低級妖などは関わることなどはないが、一反木綿のモンイチ(燈子はいっくんと呼んでいる)は燈子に会いによく忍び込んでいた。
「おいおい、その手大丈夫か? またあの姉妹にいじめられたのかい」
「違うよ、手は寒くてちょっと切れちゃっただけ……それに、いじめられてるのはいつものことだから」燈子は自分の手を撫でた。
「まったく、姉妹も飽きないもんだ」

 ……そうだね、と言い燈子は縄に触れようとするとモンイチが燈子の目の前にきた。
「そんな手じゃ引き上げられないだろ。ボクが下に行って持ってくるから――」
 モンイチは布の体で井戸の下まで飛んでいき、つるべ桶を体で巻き付け水を汲み上げてきた。空の結桶に水を入れると、また井戸の下に行き結桶の水を貯めていった。
「いっくん手伝わせちゃってごめんね……」
「やれやれ、そんな手でいる方が困るよ。あとは持ってく――」モンイチが雪の上に置かれている水が貯まった結桶に体を巻き付け持とうとした時に気づく。
「トウコ、草履を履いてないじゃないか!」
「……うん」
「はあ――ほら、とりあえず桶を持って」モンイチは結桶を燈子に渡すと、燈子の膝ぐらいの高さまで降りた「乗って、縁側まで運んでいくよ」
「ちょ、ちょっと! いっくんそんなことまでしなくていいよ、すぐそこだから!」
「足が真っ赤じゃないか。手だけじゃなくて、足だってボロボロになるよ。友達なんだから素直に乗ってくれよ」
 燈子はごめんね、と言いモンイチに乗った。ゆらゆらと揺られながら縁側の床へと赤くなった足をつけると、燈子はあかぎれの手で床を拭き始めようとする。モンイチが止めようとしたがそんなことは聞かずに燈子は掃除をした。モンイチはやれやれと呆れていた。

 燈子は聞く「そういえばいっくん、いつもより早くない? お昼過ぎ頃にいつも来るのに」
「ああ、それは今日トウコの家に九尾の長男がやってくると噂で聞いたもんだから、見てみたいと思って」
「九尾の長男?」
「やっぱり知らなかったか。トウコの家――もとい、東園寺家に招待されたらしい。表向きは高貴な純血同士の交流らしいが、これを手引きしたのは――あの姉妹の母、ハナらしい」
「ハナお母さまが? なんで?」
 モンイチは体をくるっと回すと「さあね。自分たちの立場を示すために第二身分同士の交流はよくあるけど、東園寺家と九尾なんて第二身分のなかでも高位で同格だ。普通は家に招くなんてことはせずに別の場所で両者の立場を保つものだけど……あのハナって人間は何を考えているのやら――」

 道理で芽々と久茅が気合い入れた格好をしてるわけだと、燈子は納得がいった。お見合いでもするのかと思ってはいたが相手が妖なら違うのだろう。継母であるハナが何故、九尾を招いたのかは気にはなったが自分には関係のないことだと考え、床を拭いた。

 縁側の角からこちらに向かってくるような足音が聞こえてくる。女性にしては歩幅が広い音だった(この屋敷の中で女性ではないのは、お父さまぐらい)。
「いっくん、お父さまかも! 隠れて!」
 モンイチは縁の下へと潜り、燈子は床を拭くのをやめて姿勢を整えた。音が大きくなり、足が見えると燈子は顔を上げた。

 焦がしたような飴色の柱から顔を出したのは、日の光を美しく反射する白髪に勿忘草を彷彿とさせる青色の瞳、目元は流れるように赤く、切れ長の目が特徴的で背の高い知らない男性だった。そして頭には狐のような耳が生えていた。燈子に気づき視線を向け、互いに顔を見つめ合った。燈子は知らない狐耳の男性に呆気を取られていると彼は言う。
「えっと、客間はどこでしょうか……」
「客間……ですか……」
「ええ、お恥ずかしながらお手洗いに行ったら迷ってしまって。というより、いつも迷ってばかりですが――」
「客間ならこの通りを――」
 燈子が指を差すと、狐耳の男性が近寄り燈子の手を急に握った。

「――えっ!」と燈子は目を見開く。
「君の手ひどい状態じゃないないか……こんなになるまで使ってはいけない」
 彼は、冷えて感覚が薄れた燈子の手を医者のように確かめ始める。目を細め、真剣な眼差しで――。
「何故こんなになるまで――」狐耳の男性が燈子の目を見て「君、もしかして――混血か」

 燈子はすぐに目を背けた。両目の色が違うのは純血の人間と純血の妖が交わった証拠。そして、混血同士が交わると両目の色は同じになるが角度や光の強さで色が変わるようになる。純血と混血はほとんどそれで見分けられる。燈子は自身の目が嫌いだった。自分が混血であるということをまじまじと伝え、だからといって第三身分のように混血同士から生まれた人間でもなく、純血と混血どちらにも属すことができないそんな目が嫌いだった。誰もが燈子の目を見て、不快な表情をするのが何よりもつらかった。

「どうして顔を背ける」と彼は言った。
「わたしの醜い目を見せるわけにはいかないので……」
「もし君の目が醜いのなら、傷ついたこの手はどう表せばいい?」
 燈子はその言葉を聞き、手を引こうするが狐耳の男性は手をしっかりと掴み離そうとしなかった。しっかりと握られていたせいか、燈子の手は少しずつ温まり手の感覚が戻っていった。包まれるような温かさは、忘れていた亡き母の体温を思い出し僅かながらに涙がこぼれた。
「いいから、顔を向けてくれ。そしたら手を離そう」

 ぐっとまぶたを閉じ、涙を切る。泣いた目など見せられない、そう燈子は強く思い、背けていた顔を彼に向けた。
「良い目をしている――誰にも負けない美しい目だ」彼は微笑んだ。
「そんなことないです……あと、手を……」
「いいや、離さないよ」
「で、でも、さっき離してくれるって――」
「傷ついた手をこのままにしてはおけない。それに僕は薬について学んでいてね、ちょうど試したい物が……あるからね」

 狐耳の男性は手を引っ張り、燈子を立たせた。驚いた燈子はよろよろと彼に抱きついてしまった。彼は燈子を支え、すぐに彼女の足が赤くなってることに気づいた。
「――手間のかかる患者と言ったところかな」そう言うと燈子の体を抱きかかえた。
 燈子はびっくりして目を閉じてしまった。恐るおそる目を開けると、彼の顔を見上げるような形になっていた。何故だかその顔は光に照らされ輝く雪のようにきれいだった。
 思い出したかのように燈子は言う「あのー、客間は……いいのでしょうか?」
「ああ、忘れていた!」と彼は言うが、すぐに切り替え「けど――退屈していたんだ。傷ついた君と退屈な話なら、僕は君を選ぶかな――」微笑んでもいるが、同時に悪さでも企んでいるような表情で燈子の顔を見た。

 燈子は目をそらし、自身の手を撫でながら聞く。
「……どこに行くきなんですか。薬ならこの場でも」
「ん? 僕の屋敷だが?」
「へっ?」思いもよらない言葉に燈子はまぬけな声を出した。
 近所なんですか? と燈子が尋ねるとこう答えた。
「一里先に建っているよ」
「一里も抱えてなんて無理じゃ――」
「僕を誰だと思ってるんだい?」そう言うと九本の白い尻尾が生えた「しっかりと掴まって、四分もあれば着くからね――」

 すぐに燈子は彼の首に両腕を回した。体が内側から押されるような感覚と共に燈子は狐耳の男性と飛んだ。塀など意味をなさないぐらい、壁なんてこの世にはないのではないかと思えるぐらい、高く飛び跳ねた。鳥の羽のようにゆっくりと落ちていき地上に足を着けると、また高く飛んだ。いままでに感じたことない風が燈子に当たった。遠くから流れる風ではなく、自ら切り開いていくような塊のある風。そんな風が嬉しくなり、燈子からは笑みがこぼれた。太陽だって手を伸ばせば届きそうだった。土の匂いも、水の匂いも、木の匂いも、どこかへ飛ばされ、匂うのは嗅いだことない匂いだけだった。とても速く移動しているのに、その匂いだけは常に近くにあった。

「風は気持ちいいかい?」
「とても!」
「ふふ、良かった。そういえば君の名前は? 聞いてなかったね」
「燈子、東園寺燈子――」
「僕は九尾の九焔(きゅうえん)。よろしく、東園寺燈子」なびく白髪は絹のように美しかった。
 挨拶を済ますと九焔は、何かが引っ掛かったような顔をした。
「…………東園寺?」
「うん、東園寺燈子。東園寺家の一応長女」
「燈子、君は使用人じゃないのか……?」
「え?」と燈子は言った。
 九焔の顔が徐々に青くなり「まさか、僕は東園寺家の長女を無断で――」
 体が軽くなり空を飛んでいるような九焔が、穴に真っ逆さまに落ちるかのように落ち始めた。落ちていくことに燈子は大焦りし、彼の首に回していた腕を全力で動かした。
「九焔さま、落ちてる! 落ちてます!」
 九焔は気絶でもしたかのように、口を開けたまま二人は地上へと落ちていった。


 東園寺家とも引けを取らない立派な屋敷。九尾の屋敷では、狐耳の生えた使用人と少しばかりだが混血の使用人も混じっていた。妖の屋敷も基本的には人間の屋敷とは変わらない。純血の人間と純血の妖は第二身分同士ではあるが、住んでいる場所は純血の人間は東、純血の妖は西に一里離れて設置されている。無駄な争いを起こさずに権力を誇示しつづける為の処置であった。九尾の屋敷は所々に朱塗りが施されているのが、東園寺家との違いの一つだった。屋敷の座敷にて燈子は自身の境遇を簡潔に九焔に話していた。

「――なるほど、それで東園寺の人間でありながら、苦しい生活を強いられたということに」
 こくりと燈子は頷く。
「……でも、しょうがないとは思います。混血なんですから……わたし」
「混血だから――差別されても? 良いと?」と九焔は少しばかり眉をひそめる。
「い、いえ! そんなことは――」

 九焔は立ち上がると、西洋の棚(白く塗られ、引き出しだけではなくガラスの開き戸がついている)から漆が塗られた容器を取り出す。蓋を開けると、はちみつのようにとろみのある飴色の液体だった。座っている燈子に近づき膝をつける。蓋を畳の上に置くと、九焔はとろみのある飴色の液体を白く長い指ですくい取り、燈子に言う。
「――手を」
「は、はい……」と声を出し、燈子は手を差し出した。
「つらかっただろう」

 燈子の赤くなり、すり切れた手に九焔はとろみのある飴色の液体を塗った。両手で撫でるように、燈子の手に塗っていった。最初は固さのある液体だったが、九焔の手の温度と共に徐々に柔らかくなり傷ついた手へと馴染んだ。障子からのふんわりとした光が室内を照らすなか、二人の手には少々似つかわしくない艶がでていた。
「薬ですか?」と燈子。
「そう、少しは楽になる。けど、完全に治るまでは時間はかかるよ。無理なことはせず、毎日塗ってもらわないとね」
「……無理をせずに」燈子は反射的に呟く。
 彼女の顔を九焔を少しばかり見た。しっかりと手に馴染み、薬を塗り終えると九焔は止まった時計のように固まった。頭で何かを思考しているようだった。
「九焔さま、どうかしましたか?」
「いや――君の足にも塗りたいのだけれど……」

 そうでしたね、と燈子は言うと正座を崩して九焔の方に足を伸ばした。
「お手数をかけて、すみません」
 九焔は顔をそらしていた――正確に言えば首が曲がっているようにそらしていた。燈子は問い掛ける。
「どうかしましたか?」
「燈子、君は僕が直接足に触れても……」と言葉が途切れた。
「はい、もしよろしければ、かかとを重点的に!」

 ため息なのか、落ち着くための息なのか見分けがつかない息を吐き出して九焔は燈子の足に薬を塗り始めた。とろみのある薬は足には心地がよく、くすぐるような感覚もあり燈子は時々静かに声を上げた。九焔はその声が出る度に耳がぴょこぴょこと動いていた。真剣な面持ちで薬を塗るがどこか別のことを考えているようにも燈子には見えた。九焔さまはこんな時にでも何か立派なことでも考えているのであろう、と燈子は思っていた。冷たかった手足は熱を帯びる、暑さの熱ではなく優しさのある熱だった。燈子の心は葉の擦れた音が聞こえるぐらい落ち着いていた。思い出せないぐらい久しぶりの安楽に溶けきりそうになり、うとうととしていると――。


 牛でも暴れているのかと思うぐらい、廊下を走る大きな音がドンドンとこちらへと近づいてきた。障子に人型の影が映ると、障子を開けた。
「見つけましたよ、九焔さま! お手洗いから帰ってこないと思えば――」大きな声を出したのは小柄――というより、十五にもいってないような子どもであった。
 燈子の足に触れている九焔を見ると「な、な、何をしているんですかっーーー!」屋敷を響かせた。
 その子どもは九焔のいとこであった。九尾としてはまだまだ幼く、一人前の九尾になる為にと現在は直属の執事として九焔の下で身の回りのことをしている。頭には九焔のようにしっかりと耳が生えており、灰色の髪に両目の目元には赤い点が二つずつあった。子どもらしくさっぱりとした髪型は焦っていたせいか乱れていた。

 燈子と九焔は隣に座り、九焔のいとこは二人の正面に座る。はたから見れば子どもから説教を受けているようにも見えた。
「――つまり、大切な会談を勝手に抜け出した挙げ句、東園寺家の長女まで連れ去り、いやらしいことをしていたと……」
「待て蒼九(そうきゅう)。最後だけは違う」
「ぼくがあの場をしのぐのにどれくらい苦労したと思ってるんですか。東園寺の屋敷を探し回ってもどこにもいなくて、まさかと思いこちらまで来てみれば……」
 蒼九が燈子の目を見る「東園寺家の長女とはいえ、混血の娘に手を出すなんて」
「はい、九焔さまには上から下までとても優しく施され――」
 蒼九が九焔を睨む。
「話をややこしくする言い方はやめてくれ……」と九焔。
「どちらにせよですよ。東園寺家には一度お戻りになり、謝罪をする必要があります。長女さまも返さなくてはいけませんし」

 燈子はその言葉にうつむいた。また、あの家に戻らなくてはならないことを、この刺激的で伸びやかな時間のなかで忘れていたのだった。まだ、ほんのりと温かい自身の手に触れた。九焔に合うまで固く擦れていた手は、いまでは柔らかくしっとりとしていた。寒い時期だというのに手足のぬくもりのある心地良さは不思議な気分でもあった。燈子の顔には優しさを感じる表情が現れたが同時に哀しさも居座っていた。

「ここに居たいか?」と九焔は声を掛ける。
 燈子は言葉に引き寄せられるように顔を向けた。その勿忘草色の目がどこまで見通していたのか燈子にはわからなかった――ただ、自分のことを見てくれていることだけは確かにわかった。
「……わたしは――」
 骨がのどに引っ掛かったように言葉が詰まる。飲み込むことも、吐き出すこともできずに突っかかって動けなかった。燈子は自分がどうしたいのか、途端にわからなくなってしまった。家族から向けられる視線、周りからは存在しないような扱い、夏や冬の厳しさはどれも耐え難い。鏡や水面に映る自分の色の違う目を見るたびに、生まれた憎しみすら感じることもあった。ひとつ、またひとつ、記憶を呼び起こすが続きの言葉が言えなかった。
 蒼九が言う「九焔さま勝手なことを言わないでください。さっさと東園寺家に向かいますよ」
「わかっているよ――とはいえ、何も持たずに戻るのは失礼に値するしね……前に西洋から取り寄せた葡萄酒と毛織物でも詫びに持っていこう。蒼九、馬車に積んで置いてくれ。積み終わる頃には向かう」
「――はあ。わかりましたすぐに取り掛かります」蒼九は立ち上がり障子を開ける「また、勝手に居なくならないでくださいよ」

 九焔はにっこりと笑い、蒼九を見送った。黙ってしまった燈子に九焔は言う。
「燈子、『人間と妖の契り(ちぎり)』を知っているかい?」
「いえ……知りません。契り……ですか?」
「混血が当たり前のようにいるいまや、その存在はほとんど知られることはなくなってしまったが、古来では人間と妖は契りを交わし主従関係を結んだりしたんだ。人間と妖はいまみたいにうわべだけの関係を保っていたわけじゃないからね。必要だったんだろう」
 九焔は燈子の手に触れた。
「……九焔さま」
「このまま帰れば君はあの家に戻ることになる。僕たちの関係上、君をこの家に置いておきたいなんてことは僕の一存では言えない」九焔は燈子の目をしっかりと見る「だけど、契りを交わせば誰にも止めることはできない――」

 燈子はその真剣な眼差しにどう答えれば良いかわからなかった。燈子に触れていた九焔の手に力が入る。
「――燈子ここからは君自身で答えを見つけてくれ。契りを交わし従者となれば主人の命令には逆らえない。まあ、命令する気はないけどね――」続けて言う、その面持ちは険しさを感じた「契りは三ヶ月続く、不平等な契りだと僕は思う――三ヶ月経つと従者は記憶を失うってしまうから――従者からの恨みを買わない為の処置さ」
「三ヶ月間の記憶を……ですか」
「いや、すべての記憶――いままで生きてきた記憶をすべて」
 すべて……ですか、と燈子は言った。九焔から目を離して畳を見る、それは答えからの逃げでもあった。つらい生活であっても記憶を失うのは怖かった。『ここに居たいか?』という言葉にすらまともに答えられなかった自分に、記憶を失う契りを交わせる勇気など持ち合わせていない。燈子は顔を向けることができなかった。
「あとは君次第だよ。燈子」

 九焔はそう言うと燈子に触れていた手を離した。燈子はまるで大切な物を思い出したかのように九焔の手を目で追った。
 彼は自身の人差し指の腹を歯で傷つけた。白く長い人差し指から、葉の先端を垂れる朝露のように鮮血が滴る。白糸の滝のような白髪から見える顔には勿忘草色の瞳が浮かんでいた。
「僕の血を君に与える。これを飲めば君は僕の従者になり――三ヶ月後に記憶を失う」
 燈子は彼の指を見ながら唾を飲んだ。
「そして、記憶を失うということは本質的に――死ぬ。ということ」
 彼の言葉に燈子は言う。
「――記憶を失っても、わたしの傍にいてくれますか……最後まで離さないでいてくれますか…………九焔さま」
「ああ、君が望むなら離さないよ燈子」
 燈子は指先から垂れる血に顔を寄せていった。畳には赤い血が染み込んでいく、口を開け吐く息は白い。息をする感覚すら敏感に伝わる、意識しなければこのまま呼吸が止まってしまうのではないかと思うぐらい集中していた。顔を上に向け降りしきる雨を口に入れたことがある、冷たくどれが雫なのすらわからなかったが、九焔の血は一滴々々が雫と捉えることできた。口を差し出し、燈子は血を口に含んだ――。


 雪のわだちに沿い、馬車は東園寺家へと向かっていた。揺られる馬車に燈子、九焔、蒼九の三人が乗っていた。馬車の座席には洋紅色の革が張られており、ひし形の刺し子によってふっくらとしていた(寒さのせいで表面はひんやり)。
 ガラス窓からは外の景色が見える、何度も踏まれ色が薄茶色に変色している雪のところでは人々が往来していた。呉服商や洋菓子屋、社交場(舞踏会などがおこなわれる)など西洋からの文化も流入しており、人々もまた和洋折衷というところだった。東と西を挟む中央の街には第二身分だけではなく第三身分もいた。自由を謳う中央の街は商人、大工、八百屋、第三身分のなかでもこれらの人は上手く溶け込んでいた。だが持たざる者には厳しい視線を向けられ去ってく者も多い(治安維持の巡査は第三身分には容赦はなかった)。

 コトコトと馬車の音が燈子にはひどく大きく聞こえた。乾燥しているせいか、馬車の木が収縮してぶつかり合い音を鳴らす。ガラスに映る燈子の顔には不安が浮かび上がる、息のせいで僅かに白く濁ったガラス窓に彼女の金色の左目はよく反射した。慎ましく膝に置かれていた手に九焔はそっとを触れた、燈子は九焔を見るが彼は何も言わなかった。その表情は優しく、ひどく聞こえていた馬車の音も夜の静けさのようにおとなしくなっていった。

「誠に申し訳ございません」と蒼九が言った。
 東園寺家の門前でお父さま、継母のハナ、芽々、久茅、の四人に蒼九は頭を下げた、低い蒼九の背はより低くなっていた。九焔も続けて謝ったが、東園寺の四人はそんなことより燈子の方に目を向けていた。詫びの品を受け取るとお父さまが言う。
「燈子、何故お前が九尾の九焔さんといる――」
「事情がありまして……申し訳ございませんお父さま」と燈子。
「どういう事情だかわかりませんが、燈子さん早く家に戻りなさい。あなたが居ていい場所ではないわ」
 ハナの言葉を聞くと燈子は自然と足が前に出た(長年による、ほぼ無意識な動作であった)。燈子が一歩踏み出し二歩目の足を動かそうとすると、後ろから肩を掴まれ――そして引き寄せられた。

「燈子――いえ、燈子さんは僕が貰い受けますので、帰せませんね」
 九焔の言葉に全員が驚いた。蒼九が何かを言おうと慌てふためくなか、久茅の方が早く言葉を放った。
「九焔さま何をおっしゃるのですか! その子は混血ですよ、何の価値もない」
「混血なのは承知ですよ」

 ハナが言う「こちらの許可なく、東園寺の人間をどうこうするのは度が過ぎるのではありませんか?」
「こんな環境に置くのも度が過ぎるのでは――」
「東園寺の人間を求めるのであれば、芽々や久茅がおります。元々今回の会談では、そちらへと芽々か久茅を住まわせ両家の地位を固めるという話なのですから」
「なら、燈子でも構わないはずだと――思いますがね。それに、何の価値もなく両家の地位を固める為ならこれ以上にうってつけの人物はいません」
 ハナの顔がつららのように冷たく尖っていった。お父さまがハナに声を掛ける。
「九焔さんが良いなら、いいんじゃないか? 私としても燈子は――」
「あなたは黙っていてください」
 ハナは九焔の懐にいる燈子に近づき、彼女の腕を掴んだ。
「とはいえ、こんなことを決めるのには時間が必要だと思います。一度九尾の方でも検討を――」
「命令だ――手を振り払え」
 その言葉を聞くと燈子はハナに掴まれた腕を振り払った。燈子自身も自分がやったことに理解が追いつかなかった。
「っな! あんたっ!」ハナは手を振り払われると、燈子の頬に向かい手を出そうとした。

 燈子は目を閉じた。叩くような音が響くが燈子に痛みは走らなかった。静寂のなか眩しい光に目をならすようにゆっくりと目を開けると、九焔が腕を出しハナの手を止めていた。
「ハナさんすみません。僕と燈子で契りを交わしたもので、彼女はいま僕の従者になっているんです。無礼を働いたのは謝りますが……」穏和な顔をしていた九焔だったが、鋭い目つきなり言い放つ「――僕の燈子に勝手に触らないでほしい」

 九焔の強い言葉にハナは手を引っ込め、後ずさりする。九焔とハナの行動に周りは静まり返り冷えた風だけが騒ぐなか、この場を切り裂くように芽々が沈黙を破る。
「よろしいではないですか、お母さま。家の厄介者がいなくなるのですから」
「芽々何を言って――」
「『人間と妖の契り』――前に本で読んだことがあります、契りを交わし従者となった者にとって主人の命令は絶対。本人の意志など関係なく行動を起こしてしまう――そんな者を家に戻せば、何をされるのかわかったものではありません」
 久茅が口を開く「お姉さまでもそれでは――」
 芽々が睨むと久茅は口を閉じた。そして、お母さまに近づくと耳元で小さく言った。
「――いつでも機会はあります」
 ふん、とハナは言うと、九焔に目を向ける「九焔さまがそこまで言うのであれば、寂しいですが燈子さんはそちらに任せます。また会える日を楽しみにしておきますわ」
「――ええ、任せてください」

 九焔は微笑みを見せながら燈子と共に馬車へと乗った。蒼九はペコペコと頭を下げながら乗り、馬車は出発をした。何を考えているのですか、と蒼九が問いただし九焔はたじたじと弁明をしているなか、燈子は東園寺家の壁を見ていた。つらい思い出が多いが、離れるとなると寂しさが僅かながらに心を軋ませた。


「燈子、今日からここが君の部屋だよ」九尾の屋敷で暮らすことになった燈子には部屋が与えられた。三畳の部屋で暮らしていた燈子にとっては、八畳の部屋はとても大きかった。九焔が蒼九にこっぴどく説教されていたので日が暮れており、雪が月の明かりで無数の小さな宝石のように輝く暗いなかでの案内だった。九焔の片手にはランプがあり、部屋全体を照らしているなか(奥のふすまに何とか光が届くぐらいの明るさ)燈子は言う。

「こんな大きなお部屋をわたしに……ひとりでですか?」
「ああ、部屋はそんなに大きくはないと思うけど」
 燈子は部屋に入り、畳に手を触れる。畳の目に沿い指をそらしながら移動させ、九焔に顔を向けた。
「わたしひとりでは広すぎます――半分ぐらいでいいですのに」
「――なら、慣れるまで僕もここで一緒に過ごそうか」九焔は燈子に近づく。
 えっ、と燈子は声を漏らす。その漏れた声を聞くと、九焔は笑って部屋の外に足を進めた。
「冗談だよ、この家では気楽にいていい。何か用があれば声を掛けてくれ、どんなことでも顔色なんて伺わずにね」
「――九焔さま……」

 九焔は、にこやかな顔つきで燈子を見た。その……、と燈子が言うと。なんだい、と九焔は聞き返した。
「九焔さまが一緒にいたいなら、わたしは構いませんよ」
 僅か驚いた顔をすると口元を隠した「燈子……それは、どういう意味だが君は――」
 燈子は胸元で両手を合わせ、表情を隠す九焔に向かってこう言った。
「――はい。九焔さまのモフモフの尻尾を触らせてください!」

 燈子の言葉に九焔は固まった。見開いた目はどこか遠くを見ていた。そんなことには気にも留めず目を輝かせながら燈子は続けて語る。
「不躾なお願いですよね……最初に見た時とてもモフモフで触りたいと思っていたのですが、さすがに失敬だと思い口にはできませんでした。ここで暮らす不安も抱えてましたが……ですが、モフモフの尻尾を触りながら寝れると考えたら不安も吹き飛んで安心して寝れます。『どんなことでも顔色なんて伺わなくてもいい』と言って下さったので、本音を漏らしてしまいましたが……やはり、厚かましいお願いでしょうか……」

 まるで目が覚めたかのように九焔は息を吹き返した。悶々とした表情で燈子を見つめると、くるりと背中を向けた。燈子は晴れ渡るような笑顔を見せるが、九焔は口の中で音を鳴らす。庭からごそごそとツルウメモドキの枝から、橙色(だいだいいろ)の狐が出てきた。狐が歩くと雪の上には足跡が判子のように押され、狐は九焔の側に寄る。彼は頭を撫でながら抱きかかえて燈子の前に持っていった。
「僕は忙しいからね。代わりにこの子を君に預けるよ」
「かわいい狐ですね。お名前は?」
「名前はまだない、好きにつけてくれ。これで寂しくないはずだ、僕は自室に戻り仕事をするよ」
 燈子は狐を抱きながら顔をうずめて息を吸ったり吐いたりしていた。しっとりとした艶のある毛はすべすべとしながらも、モフモフとしており、燈子はうめき声のようなものを出しながら顔を左右に動かしていた。
「……やれやれ」
 九焔はそう言いながら、大きなため息をして自室へと戻っていった。


 存分に狐を吸うと、燈子は布団を敷き鏡の前で座っていた。ランプの明かりが部屋を灯すなか、結っていた髪を解いていた。ふと気づく、東園寺の家に亡くなった母の形見である(くし)を置いてあるということに。明日にでも九焔さまに言っておこうかと、考えていたら障子から声が聞こえた。燈子の名を呼び、入るよ、と聞こえたので反射的に「はい」と答えた。
「ボクのこと忘れてないかい? トウコ」
 白い布の体が障子を開け、ゆらゆらと一反木綿のモンイチが浮かんでいた。

「あっ! いっくん! ごめん……そういえば、忘れてた……。あれ? でもなんでわたしがここに居るってこと知ってるの?」
「トウコが九尾の奴といなくなってから、ずっと隠れていたんだ。小さい九尾の子と東園寺の使用人たちが走り回っていて、不法侵入しているボクが姿を見せたらあらぬ疑いがかかると思ってずっとね――それで、トウコが戻ってきた時に縁の下から飛び出して上空から話を聞いていたんだよ」
「心配かけちゃって本当にごめんね」
「いいよ別に。ここで暮らす方があの家よりずっといい」
 うん、と燈子は静かに言った。いつも心配してくれた、モンイチには感謝しかなかった。何かできないかと考えているとモンイチは言う。
「――それと、これ」

 モンイチは燈子に、漆塗りされ梅が描かれたべっ甲の櫛を渡した。黒の漆に金箔が張られた美しい櫛であった。
「これって、お母さまの櫛……」
「いつも大切にしていただろ。部屋に戻らず行ったものだからさ、念の為に持ってきておいたんだ」
 形見の櫛を胸に当てた。あまりに急な事とはいえ、大切な物を忘れてしまった自分が愚かしく思えた。
「……ありがとう。いつも頼りきりで――わたしって……」
「友達なんだから、当たり前さ」
「――うん、そうだね……よし! いっくん、今度からはわたしに頼って! 前とは違って、何だってできるんだから!」
「その意気だトウコ!」

 二人が笑い合っていると、あくびをした九焔が開いたままの障子から顔を出した。
「燈子そういえば薬を渡すのを忘れていた。それと、なぜ開けっ放しに――」
 薬の容器が九焔の手から滑り落ち、蓋がコロコロと燈子の前へと転がった。
「あっ、九焔さま。この一反木綿は――」
「う、浮気……一日目で……」
 九焔は震えていた。怯えというより、唖然としたように。
「ち、違いますよ! いっくんは――」
「い……い、いっくん……僕はまだ『さま』なのに……」
 謎の誤解を解くのになんとも時間が掛かった。燈子は今日一日でこの夜が一番大変だった。三人が誤解を解き合うなか、狐だけが布団に潜りぐっすりと寝ていた。


 柔らかい毛並みを抱き燈子は寝ていた。狐は目を覚ますと燈子の腕から抜けていく、狐の後ろ足が燈子の顔に当たり目を開いた。障子からは白い光が部屋を通り、部屋の空間を明るく照らし上げた。上半身を上げ周りを見渡す。広々とした部屋はなんだか落ち着かず、ポツンと野原にでも置かれているような気分だった。
 狐は障子の方で立ち止まり、燈子を見つめた。燈子は体を起こし、白い息を吐いて障子を開け狐を庭へと出した。雪は降っておらず、明るく寒いながらも日光の暖かさを感じれる程度の気温。いつもであれば掃除でもしているはずが、そんなことはしなくてもいい場所だった。縁側に腰を下ろし、庭で遊び惚ける狐を見ていた。雪の上で転がったり、飛び跳ねたり――橙色の毛に白い粉でも振ったかのように雪にまみれ自由に遊んでいた(白く雪のかかった狐は餅のようにも見えた)。

「名前は決めたかい?」
 いつの間にか九焔が隣に立っていた。夢中になっていた――正確には、ただぼーっとしていた燈子は歩いてくる九焔に気づかなかった。
「いえ、まだ決めていません。自由に遊んでいる姿を見ると、お名前などつけて縛るようなことをしても良いのだろうかと……考えてしまいます」
「――そうか。君はそう考えるか」

 燈子にとって、自由はかけがえのないものだった。手にしてみれば、なんとも普通のようにも感じ、同時に自分が他人の自由を縛ってしまうことへの恐れも湧いた。狐一匹であっても。
「だけど、それは共存とは言えない。狐が名をつけられることを嫌がるのであれば、名前はつけない方がいい。もし、相手が求め、自分が下す立場にいるのなら――意志を汲み取ることが大切だと僕は思うけどね。仮に名をつけるならどうする、燈子?」
 燈子は雪を纏った狐を見て言う「――モチ。です」
「なら、その名で呼んで気に入るか聞いてみればいい」
「モ、モチ!」
 狐は耳をピンと上げて体を振るわせ雪を落とすと、燈子の下へと行き膝に座った。モチ、と呼びながら燈子が撫でると甲高い声を上げた。
「気に入ったみたいだね」
「――はい」
 燈子は柔らかく微笑みながらモチを撫でた。太陽はぽかぽかと燈子たちを照らした。


 それからひと月は慣れないことだらけだった。燈子が掃除をしようとすると九焔が止めにはいったり、使用人たちへの挨拶も慣れず言葉に詰まったり、皆で食事を取ったり、外へと出かけたり、呉服商で好きな着物を買ったり、自身の目を見ても憎たらしさを感じなくなったり、燈子の口元が自然と緩むぐらい慣れないことだらけだった。
 立春、梅が咲き始める季節。淡い紅色が庭で咲いていた。朝食を少し前に食べたばかりなのに、梅でも見ながら共に昼食でも食べようと考え、九焔の部屋へと燈子は向かった。ふふ、と笑いをこぼしながら九焔の部屋に着く。

「九焔さま、梅が咲いております。もしよかったら昼食は――」
「ん? 誰だい嬢ちゃん」
 まだ寒い時期だというのに薄い羽織りを纏い、鍛えられた肉体が露出したところどころから見え、頭の上には少しとがったカマボコのような耳が生えており黒髪で髪を後ろに流した男が座っていた。燈子は数秒目をぱちぱちとすると、障子を閉じてもう一度開けた。やはり変わらずそこに体格のいい男はいた。燈子はゆっくりと閉じようとすると、体格のいい男は待て待て、と言い閉じようする障子を止めた。

「だ、誰ですか。九焔さまの部屋に勝手に入って!」
 燈子は必死に閉めようと力を入れた。
「そっちこそ誰だ! ていうか閉めるな、危ないだろ!」
「あなたが開けようとす、するから――あっ……」
 足が滑り燈子は体勢を崩した。片手が障子から離れて体が片側に大きく体重が乗り、足を戻そうとするが回り終えるコマのようにぐらりとなり床から足が離れ、庭へと頭から落ちかけた。
「ばかやろう! だから――」

 湿った土が音を立てる。燈子は瞬間的につぶっていた目を開けた。体に痛みはなく、自分を下からがっちりとした腕で支えられていた。仰向けになり、空に顔を向ける燈子の目にはさっきの男の顔が見えていた。
「……ったく、ひやひやするぜ。だから、危ねえって言っただろ」
「ご、ごめんなさい……」
「ん、その目は――混血か、それに純血同士の――」
 燈子は目をそらす。混血という言葉もここ最近はどこか忘れており、その言葉を聞くと身構えてしまった。
「おっと、悪かったな。他意はないぜ。マジでさっきのは謝る、許してくれ。もし、許してくれるなら嬢ちゃんの名前は? 良かったら教えてくれ」
「……燈子です」
「燈子、いい名前だな。俺は刑部狸(ぎょうぶだぬき)狸昌(りしょう)だ、怪しいもんじゃねえ九焔の友人で会いに来ただけだ」
「九焔さまの……お友達なのですか?」
「おう、昔からのな」
 燈子は、ほっと安心する。悪い事をしてしまったと燈子は思った。

「それで――何をしてるんです。二人とも」と九焔は呆れたような顔で見ていた。
 九焔の部屋の障子は壊され、泥と砂をまき散らした燈子と狸昌を見ながら口を歪めていた。燈子と狸昌は顔を合わせ、苦笑いをするしかなかった。

 刑部狸の狸昌は九焔との古くからの友であった。刑部狸と九尾は同格の妖であり、いがみ合うこともあるが狸昌と九焔は仲が良かった。狸昌は九焔に用があり、今日ここに寄ったのだと言う。蒼九は出かけておりいなかったので、燈子は二人が話をしているのを邪魔しないように茶菓子を取りに行っていた。九焔の部屋に行く最中に梅の花を見て、今日は無理そうかな、と燈子は思いながらお盆に載せた茶菓子を持っていった。燈子が部屋に着くのと同時に九焔が部屋から出てきた。

「九焔さま、茶と菓子をちょうど持って――」
「すまない燈子。用事ができた、狸昌に振る舞ってやっておいてくれ。夕方には帰ってくる」
 九焔の顔はこわばっていた。
「はい、お気をつけて……」

 梅の花を見ようとも言えない空気だった。燈子はそーっと九焔の部屋を覗く。燈子の視線に狸昌が気づくと、一緒に茶菓子を食べようと提案をした。カステラを食べながら、狸昌は九焔の昔話を少しだけしてくれた。昔から傷ついた者を見過ごすことができず、それで医術を磨いていること。純血も混血も彼にとっては平等であること。よく、二人は遊んでいたこと。小さい頃に九焔がおねしょをしたことを、狸昌がからかったら尻尾を燃やされたこと(軽い火傷で済んだらしい)。ひと月しか過ごしていない、燈子にとってはどれも新鮮な話だった。
 茶菓子を食べ終え、話が終わると燈子はため息を漏らした。そのため息が気になった狸昌が燈子に問うと、梅の花でも見ながら昼食を食べたいことを狸昌に話した。それを聞いた狸昌は言う。
「それなら、庭の梅よりもっといい所があるぜ。嬢ちゃん庭に出な」
「庭に……ですか?」
 庭に出ると、失礼するぜ、と狸昌が言い燈子を担ぎ上げた――米俵でも担ぐように。そして茶色の尻尾が生えた。この状況がどこかで見た光景だと、燈子は思った。

「……狸昌さま、もしかして飛ぶのですか……」
「おうよ、察しが良いね。わかってるじゃねえか。心配するな、落としても地上に着く前にしっかりと掴むからよ」
「落とす前提なのはやめてください!」
 燈子の頭には地上へ落ちたトラウマがよみがえる。そして、狸昌は足に力を入れ飛び出した。九焔の時は空に顔を向ける形だったが、狸昌の場合は顔を地上に向ける形で余計に怖かった。

 山の麓に着くと緊張で燈子はへとへとになっていた。ひと息吸い周りを見ると、たくさんの人が梅の花を見に来ていてわいわいとやっていた。赤い梅や白い梅が咲き、まるで飴細工のようにきれいに枝について、梅の(やく)(先端の黄色のおしべ)は小さな花火が上がっているようだった。風がびゅうびゅうと吹くと、枝が揺れ動き、人々の感情も揺れ動いた。燈子の心も周りの人たちと一緒に揺れていた。疲れなど風に乗せられ遠くへと飛んだ。

「どうだい嬢ちゃん。いい所だろ?」
「はい! 梅も人もこんなに楽しそうにしてるなんて」
「毎年ここはこんな感じさ。誰も身分なんか見ちゃいねえ、花を見て笑い合ってる。いい場所だ――」
 第三身分が大勢いたが、第二身分もよく見れば視界に捉えられるぐらいはいた。だが、みんな気にしてはいなかった。枝に咲く、梅の花に心を奪われたからだ。燈子はそれを見て言う。
「……わたしもみんなと同じ」
 燈子は自分の顔を触った。肌を確かめるように。
「ああ、俺も嬢ちゃんもここにいる連中と同じ。目の色なんて誰も気にしちゃいねえよ」
 満面の笑みで狸昌は燈子を見た。梅の香りがほのかに通り抜ける。燈子は、ここに来てよかったと心の底から思えた。

 梅の花を見ていると、後ろ足に何かが当たった。振り返るが誰もいなく、下に目線を動かすと小さな男の子がいて泣きそう顔で燈子を見た。
「ど、どうしたの?」と燈子は言った。
「ま、ママが……」
「泣くな坊主。迷子か?」
 狸昌がそう言うと、小さな男の子はこくりと頷く。狸昌は小さな男の子を抱き上げて肩に乗せ、腰に巻いてある巾着袋からキャンディを取り出すと男の子の口に入れた。
「甘いだろ。すぐ見つけてやるからな――嬢ちゃんも探すの手伝ってくれ」
「もちろんです」

 燈子と狸昌は声を上げながら、男の子の両親を探し始めた。人が多いせいで声がかき消され、声の届く範囲が小さくてなかなかに見つけられずにいた。背の高い狸昌に子どもを乗せているが、もう少し目立つ物が欲しかった。人を押しのけつつ、少しずつ進む。
「――人が多くて……なかなか見つかりませんね」燈子は続けて「その子の親、見つかりますかね……狸昌さま」
「何言ってんだ嬢ちゃん、見つけてやるんだよ。せっかく楽しみに来てるんだ、悲しみにでなんて終わらせたくないだろ」

 男の子は近くにあった梅の枝に手を伸ばし触れる。
「坊主あんまり触るな、梅がかわいそうだ。代わりに俺の耳にでも触っててくれ」
 狸昌の耳をぎゅっと握った。右へと引っ張ったり、左へと引っ張ったりして、狸昌も引っ張られた方向によたよたと動いた。燈子は男の子が梅の枝に触れていたことで、梅の枝のように目立つ物……と考えていると自分の後ろ髪に触れた。ひらひらとした深紅色のリボンが手につく。
「狸昌さま、これを!」
 燈子はリボン取り、まがれいとの髪を解いた。深紅色のリボンを狸昌に渡し、そのまま子どもへと渡した。燈子の髪は風でなびく。
「よし坊主、俺はここだぞとそのリボンを振り回せ」

 男の子は元気よくリボンを回す、梅の花以外の赤い動く布は人々の目に留まった。回し始めて一分も経たずに男の子の両親が寄ってきた。ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。当たり前のことをやったまでよ、と狸昌は高らかに言い、燈子と狸昌は男の子と別れた。それから少し歩くと団子屋があり、二人は腰掛けに座り団子を食べていた。
「んー。おいしい、何個でも食べれます」
「はっはっ、良かった。いくらでも食べてくれ」
「本当ですかっ!」
「遠慮することはねえ。今日は存分に働いたからな」
 燈子はもくもくと団子を口に入れた。狸昌はそんな燈子を見ていると、あることに気づく。
「嬢ちゃん――そういえばリボンはどうした?」
「リボン……あ、あれ!」
 片手で団子を口に入れながら、もう片方で後頭部を触った。男の子にリボンを渡したまま、返してもらうのを忘れていたことに気づいた。団子がおいしく、食べるのをやめられないまま考え込んだ。
「無くして困る物か? あのリボンは」と狸昌。
「――いえ――無くても――困りは、しません」団子を食べる手が止まらない「本当ですよ――前の家に――合った物を、使ってただけですので――」
「そうかそうか。まあ、満足するまで食べてくれ」
 燈子は満足するまで(店から団子がなくなるまで)食べた。他にも客が居たとはいえ、普段より二時間早く在庫が切れたと店主は呟いていた。

 食べ終えると、二人は九尾の屋敷へと戻った。まだ、日は暮れておらず、九焔は帰ってきてはいなかった。
「どうだった、今日は楽しかったかい?」
「はい! とても。また来年も……」
 燈子は笑顔から曇った顔をつきになった。あと二ヶ月で記憶を失ってしまうことを思い出したのだった。狸昌は自分の首裏を触れながら燈子のその表情を見る。
「――少しだが九焔から聞いたぜ。契りを交わしたんだろ。嬢ちゃんも根性がすわってるな」
「わたしなんて、ただ逃げただけです……けど、いまになってそれが少し怖くなって……正しかったのかなって……」

 狸昌はぐっと顔を近づける。
「正しい、正しくないなんて誰にもわからねえ。けどよ、その選択をしたのは嬢ちゃんだ。良かれと思った行為だって百年後には極悪人呼ばわりされることだってある、結局は先なんて見通せる奴なんざどこにもいねえんだ。嬢ちゃん自身が自分で選んだ道なら――最後までわがまま通そうぜ」
「わたし自身の選択……」
「ここに来て良かったと思うか?」
 はい、燈子は頷いた。偽りのない答えだった。狸昌は僅か微笑むと背中を向けた。
「――それじゃあ、俺はもう帰るぜ」
「あっ、お帰りになるのですか狸昌さま?」
「ああ、帰りに寄りたい所があるんでね。九焔にはよろしく言っておいてくれ」
 狸昌はさっそうと去り、心のわだかまりが少し取れた気がした。狸昌の姿が見えなくなると、燈子はあくびが出てきた。団子をいっぱいに食べたせいで眠気に襲われていたのだった。自室へ入り、少し横になるだけと畳の上で仰向けになるとそのまま眠ってしまった。

 障子の向こうから声がした。
「燈子、この小包はいったいなんだ?」
 よだれを垂らしながら寝ていた燈子は、はっと目が覚める。すぐに口元を拭き障子を開けた。九焔が立っており、燈子の部屋の前には小包が置かれていた。
「お戻りになったのですね、九焔さま。この小包は……なんですか?」
「それは僕も気になっているのだが……」
 二人は顔を合わせて唾を飲んだ。九焔は恐るおそる紐を解き、中を見た。小包の中には、紅梅色(こうばいいろ)(濃い桃色)のリボンが入っていた。小さな紙も入っており燈子は読んだ。


  嬢ちゃんへ
 無くなったリボンの代わりに良かったら使ってくれ。
 今日付き合ってくれた礼だ。
  刑部狸の狸昌


 狸昌から紅梅色のリボンと手紙が送られていたのだった。燈子がリボンに触れると滑らかで上質なリボンであることがわかった。
「それでいったい誰からなんだ?」と九焔は聞く。
「狸昌さまからです。恥ずかしながら今日リボンを無くしてしまって、代わりにこのリボンをわたしにと」
「ふふっ。彼は、ああ見えて気が利くからね。気に入ったか?」
「はい、とても」
 燈子は嬉しそうな顔をした。君が喜ぶならこれほど良いこともないな、と薄暮の空を見て九焔は言った。
「僕も今日は疲れた。夕食はいつもより豪華にしようか」
「えっ!」と燈子は言った。
「どうかしたか?」
 燈子は腹を抑えながら「――い、いえ、何でもありません。た、楽しみにしておきます……」
 団子を腹いっぱい食べたのが、いまになって襲ってきた。食べ物の話を聞くと腹が痛くなった、燈子は数週間、団子を見るのが嫌になった。


 それからまたひと月、モンイチや狸昌がたまに遊びに来てくれて街へと遊びに行ったりした。外に出かけることがとても楽しくなり、燈子から九焔を誘って外出することもあった。自分が東園寺の人間であったことも少しずつ薄れていった。
 啓蟄(けいちつ)、土にこもっていた虫などが暖かな陽気に誘われ外へと出ていく時期。人々が行き交う中央の街で燈子と九焔はいた。太陽の光が暖かさを纏いだし、草花の香りが芽吹き、土の湿っぽさもまだ残っているぐらいの日。馬車を少し離れたところに置き、陽気な日差しを浴びながら街を散策をしていた。燈子のまがれいとの髪には紅梅色のリボンが揺れる。

「あんパンですよ九焔さま。いま大人気の」
「これが噂の……試しに食べてみようか」
 上の部分がこんがりと焼け、パンの中にはあんこが入っていた。二人は立ちながら食した。おいしいですね、と燈子が頬張るなか、九焔は蒼九への土産としてのあんパンも買った。蒼九はとても忙しく働いている。蒼九だけではなく九焔も。狸昌と燈子が始めてあった日以降、忙しい時間が増えていた。
 書物屋を見かけると九焔は西洋の医学書を探し、積まれた本を手にとっていた。燈子には書物屋の本は難しく隣の洋傘店で洋傘を見ていた。
「わあ、この洋傘とてもきれい」
 カワセミの羽のように鮮やかな翠色(すいしょく)の洋傘。広げると透明度の高い池が宙に浮かんでいるようでもあった。
「これはお目が高い、少し前に輸入した洋傘ですよ。貴重な物で人気、あと二本しか在庫がないんですよ」
 洋傘店の店主が傘を見ている燈子に言う。
「そうなんですねー、うーん。二本もあるなら九焔さまとお揃いに……」
「お揃いに買う! それは良い! いま買い逃したら、次入荷するまでいつになるのやら」

 燈子がうーん、と悩み店主は押し強く商品を勧めた。後ろから聞き覚えのある声がした。
「――店主、この前もその洋傘は二本しかないって言ってなかったかい。いったいどこから生えてきたのさ」
 振り返ると、継母のハナの娘である芽々がそこには立っていた。久しぶりの出会いであり、予想もしていない出会いでもあった。
「……芽々さん」と燈子は言った。
 ふん、と息を出す「自由になって優雅に買い物ってところかい? あんたも偉くなったものだ」
「わたしは……別に……」

 店主は波が引くように店内の奥へと入った。燈子はキョロキョロと目を動かし、妹の方である久茅を探した。姉妹は共に行動することが多く、姉の芽々がいるなら妹の久茅も近くにいるのではないかと考えていた。おどおどした燈子を見て芽々は言う。
「あんたひとりだけかい?」
「いえ……隣の書物屋に九焔さまが……」
 そうかい、と芽々は言い何かを考えているような表情をしていた。今までに見たことない表情だった。
「あんたに――」
 芽々が何かを言おうとすると、離れた所から大きな声で妹の久茅が走ってきた。
「おーねえーさーまー! 久茅を置いてどこにいなくならないでください! せっかく新しい着物を――」
 久茅が燈子に気づく。燈子は目をそらした、この姉妹で最も苦手なのが久茅であったから。危害を加えてくるのはほとんどが久茅で、姉の芽々はどちらかといえば無視することが多かった。
「お姉さまどうして混血といるのですか」
「さあね、歩いてたら偶然いたんだよ」
「あんなのと一緒にいたら、何されるかわかりませんわ。鎖のない犬ほど危険な犬はいません。戻りましょう」
 芽々と久茅は燈子に背を向け歩いた。久茅は首をひねり、燈子に言う。
「こんなことしてられるのも、いまのうち。せいぜい楽しみなさい」
 不穏なことを言い、姉妹は燈子から離れていった。燈子は息を整える、広々とした街なのに窮屈な檻に入れられていた気分だった。ふう、と息を吐く。

「――あのー、すいません」と男に声を掛けられる。
「あ、はい。どうかしましたか?」
「――ここに行くにはこっちでいいんですかね……」
 男から渡された、筆で手短に書かれた地図(大雑把な)を見ながら指を差すが、相手は何だか納得いかない様子だった。
「私は地図が苦手でして、ここから近いのであれば案内してくれるとありがたいのですが……」
「は、はあ……」
 九焔に声を掛けようと思ったが、すぐ近くなのでいいかと思い燈子は目的地まで案内した。場所は本当に近くであった、四十秒ほど歩き、路地裏に入りその抜けた先であったから。芽々と久茅に出会ったせいで、彼女たちの事ばかりが頭にあった。

 屋根のせいで暗くなっている路地裏に入り、少し進むと後ろにいた男が燈子の両腕を掴んだ。
「――ちょ、やめっ――て! 離して!」
「騒ぐな! お前が燈子だなっ!」
 全身に力を入れるが、まったくかなわない。ぞろぞろと路地裏の陰から形相の悪い男たちが四人出てきた。燈子はとりあえず名前を否定しようとした。
「燈子――そんな人知らない! 人違いです!」
「なら、その目はなんだ」

 燈子は地面に叩きつけられると、顔を手で抑えられながら茶色と金色に分かれた目を見られた。叫ぼうとするが顔を平手打ちされ、それ以上騒いだら首を絞めるぞ、と脅された。
「どうして……こんなこと……」
「なに少し人質になってもらうだけよ。おとなしくしていれば悪いようにはしねえさ」
 涙がこぼしながら目を閉じていた。不注意な自分と、また目のせいでこんな境遇になってしまったことに、悔しくて悔しくて堪らなかった。嫌なことばかり走馬灯のようによみがえった。だが、その中にひとつの言葉がぼんやりと浮かんだ『良い目をしている――誰にも負けない美しい目だ』。燈子の目を美しいと言ってくれた人物――。

「――き……九焔さまっーーー!」燈子は叫んだ。細い路地裏で声が反響する。
「黙れと言って――」
 男が燈子の首を絞めようとした時、近くに立っていた形相の悪い男のひとりの体が燃え上がった。自然発火というには、あまりにも激しく燃えていた。燈子も男たちも唖然としており、薄暗い路地裏では()ゆる火が壁を赤く染めていた。
「――その子から手を離せ」
 路地裏の端から九本の白い尾を出しながら九焔は近づいてきた。勿忘草色の瞳はいつもより険しく、一歩一歩の動作がとても重そうで自らを抑えているような状態だった。
 形相の悪い男たちはうろたえながらも声を出して短刀を抜き、恐怖を紛らわせるように叫びながら九焔に矛先を突き立てた。形相の悪い男たちが九焔に近づいた瞬間、彼らの全身が燃え上がり倒れていった。燈子を抑えていた男は声も出ずに目を見開くことしかできなかった。燈子は思いっきり自分を抑えていた男の顔を叩き、男を退けると九焔の方へと向かった。

「すみません九焔さま……わたし勝手に……」
「謝るべきは僕だよ、ひとりにさせて悪かったね」
 九焔は燈子を優しく抱いた。受け止めてくれる人がいるのが目の前にいるのが心強かった。
「――傍にいてやれなくてすまなかった、燈子」
「謝らないでください、九焔さまはいまここにいるのですから」
 叩かれた男は立ち上がり、ちきしょう、と言いながら逃げ出したが、九焔は軽く手を動かすと男は燃えて倒れた。
「……九焔さまこの人たちは……」
「燃えているが力は抑えている――数ヶ月で治るよ。命までは取らない」九焔は続けて呟き始めた「……燈子も狙い始めたか」
 それからすぐに燈子を襲った男たちは警官隊によって取り押さえられその日は終わった。


 桃色のつぼみから少しずつ花が開き、青色の勿忘草が顔を出し始める頃――昼と夜が同じ長さの春分に九焔は数台の馬車を用意していた。九焔は二つ山を越えた地域に住んでいる第二身分の屋敷に招待されており、その準備であった。他の使用人も連れていくので、帰ってくるまでに数日掛かり、今日は途中の寺院で泊まる予定であった。燈子は九焔から、僕が帰ってくるまで外出しないでほしい、と言いつけられていた。
 ――九焔と蒼九と何人かの使用人は日の出前の朝早くに屋敷を出発した。日に暖かさを感じる時間に、狐のモチを膝に乗せながら茶を飲んでいた燈子の下にモンイチが飛んでやってきた。なんともいえない感じで悩んでいる様子だった。燈子に一枚の手紙が渡された。
「昨日の夜遅くに来たんだ、ひとりでね。トウコに渡して欲しいって」
 燈子は読む。


  この手紙を読み終えたら、火にくべて。
 九焔さまが今日泊まる寺院は襲撃されます。この日のために準備も万全に行われており、九焔さまであっても助からないと考え、私としては出発の取り止めを致すことを願います。賢明なご判断を。
 燈子は九尾の屋敷を出ない方がいいでしょう、人質として狙われています。
 今までの私の行いから信用できないと思いますが、母を裏切る形になったとしても東園寺家としての誇りを私はやはり捨てきれなく、この手紙を綴りました。
  東園寺芽々


「芽々さん……」
 身勝手な手紙だと感じた――散々な目に合ったのに、東園寺家の誇りなんて何を今更、と燈子は複雑な気持ちだった。ただ嘘ではないことだけはわかった。
「いっくん! わたしをお寺まで連れてって」
 モンイチは燈子を乗せ、空を飛び寺院へと向かった。九焔からも芽々からも形は違えど屋敷からの外出を止められた燈子だが、狸昌の言葉を思い出していた。
「正しくても、正しくなくても――これは、わたし自身の選択だから」燈子は胸に手を当てる「わたしは九焔さまを助けたい――」

 日が暮れようと太陽が落ちかかるなか、山中に佇む寺院に燈子とモンイチは着く。燈子はすぐに駆け込み、九焔がいる部屋に入った。
「――燈子! どうしてここに――」
「九焔さま聞いてくださいっ!」
 芽々からの手紙を渡した。目を通すと九焔は蒼九と使用人たちに周りを見張るように言った。冷静な判断に燈子少し気になり聞く。
「九焔さまはこの手紙が本当かどうか疑わないのですか」
「今日襲撃されるとは知らなかった――ただ、東園寺ハナが僕の命を狙ってることは知っていたからね」
「ここ最近忙しくしていたのも……」
「ああ、体を張った証拠集めだよ」
「わたし……何も知らなかったのですね……」
「君を不安にさせたくなかった。東園寺から離れているとはいえ知れば苦しんでしまうのではないかと」
 燈子は唇を噛みしめ「九焔さまわたしは……」

 蒼九がせわしなく入ってきた。
「攻め入ってきました! かなりの数です」
 そうか、と九焔は立ち上がり外へと向かった。燈子は声を掛けようとしたが、九焔が遮った。
「君を危険に巻き込みたくない。命令だ――中でじっとしていてくれ」
 ――ごめんよ、と言い扉を閉めて九焔は行ってしまった。程なくして、とてつもなく大きな音が響き渡る。物が崩れ落ちるような音や、悲鳴、強い衝撃――それをただ聞いていることしかできなかった。契りを交わし、従者となった燈子は九焔の言葉に逆らえなかった。へたりと尻をつくことしかできず悔しかった。
「わたしの傍にいてくれるのではなかったのですか! 離さないでいてくれるのではなかったのですか!」
 ぽろぽろと涙が落ちた。きれいに磨かれ鈍い光沢がある木の床からは、おうとつの歪みが手の感触でわかる。いま燈子にできることは、木の床に触れることぐらいだった。

 涙を流していると扉が開いた。
「何やってんのさ、みっともない」
 芽々が扉を開けて立っていた。
「め、芽々さん――どうして」
「聞きたいのは私の方だよ。出るなって書いておいたのに……」
 芽々は腰が抜けたように座っている燈子まで近づき、背中を貸した。そして、扉に向かって声を上げた。
「久茅何を隠れているのさ、手伝いな」
 芽々が入ってきた扉から久茅は不満そうな顔で覗き、しぶしぶと歩きながら動けない燈子を芽々の背中に乗せた。芽々は燈子を持ち上げ寺院の裏口に向かおうしたが燈子は二人に言う。
「芽々さん、久茅さん。わたしのわがままを聞いてください――」

 山門(正門)を抜けて、周りの木々が倒れ、人が倒れているところを燈子を背負った芽々、久茅の三人は移動していた。その先からは、土煙が舞い、火が燃え、叫び声が聞こえる方向であった。
「ああもう! どうして久茅が混血の言うことなんか……」久茅はひとりでぼそぼそと言っていた。
「芽々さんはどうして、わたしの為に……」と燈子は聞く。
「東園寺の者としての誇り、書いてあった通りさ――本当は私か久茅が九焔さまの屋敷に住み、九尾を貶める不都合な真実――もしなければ……毒殺する予定だったんだよ」
 燈子は驚き、……何故、と言った。
「お母さまは第二身分でも下の位階だったんだよ。でもね、あんたの母親の事もあって意気消沈していたお父さまに上手く取り入ったのさ。小さい頃から地位や権力がどれくらい重要かよく教え込まれたね……東園寺に来る前は()き目に遭ってたんだろうさ。それで、相手を(おとし)めてでも絶対的に地位を勝ち取りたいんだよ――お母さまは」
 そんなことが、と燈子は呟き、久茅の方に目を向けた。
「なによ」
「い、いえ。久茅さんもそんなこと考えてたんだなあって……」
「ふん、久茅はお姉さまについてくだけよ。お母さまに背きたくはないけど――お姉さまについていくって決めてる。そうじゃなきゃ、あんたなんて今すぐにでも山に捨てたいもの」
 燈子は苦笑いするしかなかった。そして、この時に始めて芽々と久茅を理解できた気がした。燈子が嫌いなのは間違いはないが、二人にも信念がしっかりとあることを。

 進んでいると残党百人近くが前にいた。今更最前線に戻る気もなく集まっている残党がこちらを見ると、生気を取り戻したかのように燈子たちに寄ってきた。
「どきなさい、誰だと思ってるの東園寺の人間よ。それ以上近づいたらただじゃすまないんだから」と久茅は言った。
「へえっ! ただじゃすまないってよ。こんな場所で女三人で何ができる? 東園寺の人間だろうが、埋めちまえばわからねえ」

 ぞろぞろと残党たちは寄ってくる。燈子たちは後ずさりするしかなかった。残党のひとりが目の前の久茅に襲い掛かった瞬間だった――残党の頭上を押し潰すように、空からひとりの男がやってきた。髪を後ろに流し、茶色の尻尾が生え、鍛えられたたくましい体をした男。
「り、狸昌さま!」燈子は言う。
「よお、嬢ちゃんたち無事か?」
「どうしてここに――」
「なに、一反木綿の野郎がへとへとになりながらうちにやってきて事情を聞いたわけよ」
「いっくん……」
「なあ、嬢ちゃん。わざわざ争いの前線に行くってことは――嬢ちゃんの自身の選択か?」

 その言葉に燈子ははっきりと言う。
「はい! わたしの選んだ道です。九焔さまの下に行きたいんです」
 狸昌はニヤリとすると、巨大な狸の姿へと変わっていった。妖は人の姿に化けている間は力の半分も出すことができない――つまり、狸昌は本気であるということだった。
「たまには全力を出すのも悪くねえ。それに――嬢ちゃんに矛先を向けたんだ、覚悟はできてんだろうな……」
 残党たちは対妖の装備をしているとはいえ、狸昌の気迫と並々ならぬ空気に僅かに震えていた。
「嬢ちゃんたち早く行きな」
 狸昌の言葉を聞くと三人は前へと進んでいった。燈子たちが離れると凄まじい轟音(ごうおん)が後ろから響き渡っていた。音だけでも恐怖を感じるぐらいであった。

 九焔の下に近づくと、焦げた臭いが周り漂っていた。赤い炎の中心には九本の尾を持つ白い大きな狐が数千人を相手していた。九焔の本当の姿を見たことのない燈子であったが、白い大きな狐が九焔だということはすぐにわかった。燈子は大きく息を吸った。
「九焔さまーーーーー!」
 それは燈子の人生で最も大きな声だった。轟々(ごうごう)のなかを燈子の声が切り裂いていった、まっすぐに――。九焔の耳が動くと、雄叫びを上げ周りの襲撃者たちをひるませ、燈子の下へと駆け寄った。近くから見るとその体はとても大きく感じた。九焔の足の半分よりも燈子たちは下だった。
「燈子どうして!」
「九焔さま、わたしは……わたしは、九焔さまのお傍にいたいのです」
「僕だっていてやりたい、だけど危ない目には――」
「お傍にいたいというのは、どんな時にでも――。つらくても、悲しくても、楽しくても、嬉しくても――離さずに最後までいたいのです。分かち合いたいのです。わたしが来たところで足手まといにしかならないということはわかってます。それでもお傍にいたい、離さないでいて欲しい、わたしの選択であり、わたしの覚悟なんです。だから最後まで一緒に……」
 燈子は振り絞った声で気持ちを吐いた。伝えたいことを九焔に伝えた。九焔は芽々に背負われていた燈子を拾い上げ、自身の背中に乗せた。狐の姿をした九焔の背中は絨毯のように広く、長い毛先は(あし)のようだった。

「大切にするあまり、僕は結果的に君の自由を奪ってしまったのかもね。互いに共存するという意味を忘れていたよ――」
「九焔さま……」
「――燈子しっかりと僕に掴まっててくれ」
「はい。絶対に離しません、最後までお傍にいます――」
 九焔は燈子を背中に乗せたまま戦った。戦いは数時間にも及び狸昌も途中で合流し、山が木々が禿るほどだった。戦いのさなか、燈子には土の匂いも、水の匂いも、木の匂いも、いろいろと飛んできていた、ただ愛する九焔の匂いだけは常に近くにあった。


 戦いが終わり数日経った。首謀者である東園寺ハナは政府直属の警官隊に拘束された。本来であれば東園寺家には重い処罰が下されるが、この件を知らなかったお父さま、芽々と久茅の告発によって軽い処分で終わった(実際は同じ位階である起見宮(おきみのみや)家にいろいろ譲渡することで、助かった形ではあった)。九焔と狸昌は三日寝込むぐらい体力を消耗し、燈子は九焔の屋敷と刑部狸の屋敷を三日間往復することになった。忙しい三日間であったが、つらいと感じることはなかった。

 ――記憶が消える最後の一日。燈子と九焔は縁側で二人座っていた。
「良いのか? 最後の日なのに庭の小さな桜を見ているだけなんて。満開の桜がたくさん咲いている所に見に行ったっていいんだよ」
「いいんです、二人でいたいのですから」
「――つらくはないか」
「つらくはないです。約束したじゃありませんか、記憶を失っても――」
「傍にいて、離さない……か」
「はい」
 九焔は燈子の肩に手をやった。その手には少し力が入っていた。燈子は九焔に寄りかかり言う。
「わたしは何も心配していません。九焔さまが最後まで一緒にいてくれる、それだけで十分なんです。――それに、新しいわたしも九焔さまを愛しますよ」
「……何故そう思う」
「わかりますよ。だって――」
 九焔の勿忘草色の瞳を燈子は見る。九焔もまた、燈子の茶色と金色に分かれた目を見た。



 女の子は漆塗りされ梅が描かれたべっ甲の櫛で髪を梳かされていた。
「おかあさま、おかあさま。おかあさまがおとうさまを好きになったのはいつなのですか」
「――どうして?」
「うんめいのであい――というのがあると本で読んだのです。だから、おかあさまのうんめいのであいを聞きたくて」

 髪を梳かし終え、女の子に髪を結いリボンをつけながら言う。
「ふふっ、不思議に聞こえるかもしれないけれど、最初からだった――最初からそこにいて、最初から好きだった」
「それは、わたしがおかあさまとおとうさまのことを生まれた時から好きだったのと同じですか?」
「そう、あなたが生まれた時から好きだったみたいに、ずっと傍にいて、ずっと離さなかった」
 女の子にリボンをつけ終えると立ち上がり、行きましょうか、と言って部屋を出た。外へ出ると紅梅色のリボンは風で揺れた。

 門の前には馬車があり、女の子は走った。
「おとうさま見て、おかあさまとお揃い」
「そうかそうか。母と同じで美しいな」
 そう言い、女の子を抱き上げると勿忘草色の瞳で茶色と金色に分かれた目を見た。
「さて、花見に行こうか燈子」
「はい、九焔さま」
 暖かい陽気のなか三人は馬車に乗り、花見へと向かった。女の子はとても幸せだった。