那智くんはしばらく店にやって来なかった。
 あの日、那智くんは僕の携帯電話に、
【体調が悪くなってしまったので、申し訳ないけれど先に帰ります】
 というメッセージを送ってきたきり、姿を見せなかった。
 数日経ってから僕は勇気を出して那智くんに体調はどうかとメッセージを送ってみたのだが、返信がきたのは二日経ってからだった。先日の詫びとこの前は楽しかったこと、今後は秋にかけて画塾の課題が忙しくなるからとの旨が書かれていた。僕は、もしかすると那智くんとの繋がりがこれきり絶たれてしまうのではと不安を感じていた。
 那智くんは、僕の傷の方が深いと佐伯さんに話していたけれど、僕には那智くんの方が僕なんかよりずっと苦しみが深いように思う。
 僕はまだ体だけで繋がる痛みも虚しさも知らない。知らないことより、知っていることの方がつらい。経験がないより、あることの方が悩みは深いと思うのだ。
 そしてメッセージから三日後、僕のもとへ一通の手紙が届いた。夕食の前に、
「あんた宛てよ」
 と、母に差し出された水色の封筒の裏面を見たとき、僕は心臓がはね上がった。差出人は那智くんだった。
 母に詮索されないよう落ち着いて食事を済ませ、二階に上がってから僕はそっと封筒を開けた。
 中には携帯のメッセージとは違う、改まった文体の三枚の手紙が入っていた。

【時丘渚様
 この前はメッセージをありがとう。
 どうしてきみの住所を知っているか、不思議に思うと思いますが、その事情も含めてここの記します。
 実は、渚くんに謝らなければいけないことがあります。
 僕が店で使っていた珈琲チケットは、本当は佐伯さんのアトリエから勝手に持って行ったもので、佐伯さんが僕にくれたと云ったのは嘘なのです。
 それともう一つ。珈琲チケットと共に、渚くんが佐伯さんに宛てた手紙を僕は読んでしまいました。
 佐伯さんは試験日を終えたあとも卒業式までの数日間、ずっと学校を欠席していました。三月の卒業式前日、どうしても心配で訪ねて行ったときに、アトリエであの手紙を読んだのです。あの日、僕と佐伯さんのあいだに何があったのかは、佐伯さんから聞いてください(渚くんに連絡をするよう、佐伯さんには僕から話してあります)。
 あの手紙を読んで、僕は渚くんの存在を知りました。
 正直に書きます。僕はずっと佐伯さんのことが好きでした。忘れもしない中学一年生の五月、初めての学校祭で、僕は佐伯さんの絵を見ました。母親を失ったばかりの僕の心に、どんな慰めの言葉よりも深くしみ込んでいったのは、ほかでもない、あの人の絵でした。今思うと、その絵を見た瞬間から、佐伯さん本人に出会う前から、僕はきっとこの絵を描いた人を好きになると分かっていた気がします。
 あの人と同じものを見たくて、美術部に入り、以来僕はずっと佐伯さんの傍にいました。あの人がいなかったら僕は、絵が好きだった気持ちを思い出すことはなかったと思います。母の名誉のために入った学校ではあったけれど、この先何を目標に生きていけばいいのか分からなかった僕に、あの人は道を示してくれました。佐伯さんも僕もあの学校では異端者で、でも、僕は彼と同じ異端者であることを誇りに思っていました。
 そんな僕だから、佐伯さんの変化にはわりと早い段階で気づいていたことも、分かってもらえると思います。
 渚くんは自分のことをつまらないなんて云っていたけれど、絶対にそんなことはありません。
 人間嫌いだった佐伯さんが、裏表のない善意や見返りを求めない優しさを信じるようになったのは、きみがいたからに違いないのだから。
 僕はきみに出会う前の佐伯さんの絵と、出会ったあとの彼の絵の両方をよく知っています。
 あの人の描き出す美には突き刺さるような孤高の雰囲気があって今もそれは失われてはいないけれど、いつからかそこに柔らかい光が宿るようになったのです。
 初めはそれがどうしてなのか分からなかった。それが誰かとの出会いによるものだと気づいたとき、僕は寂しさと、その以上の嬉しさを感じました。佐伯さんがよりよい絵を描くこと、この息苦しい世の中を捨てないでいてくれることが、僕は嬉しかった。
 詮索や干渉を嫌う佐伯さんですから、僕は何も訊かないでいましたが、彼のような頑なな人の心を変えた人がどんな人なのか、僕はずっと会ってみたいと思っていました。
 思っていた通り、いやそれ以上にきみは美しい魂の持ち主でした。あんなにきれいな涙を僕は見たことがない。渚くんの眼差しや微笑みは、それだけで人を癒す力があります。でもどうか分かって下さい。人によっては、そういった清らかなものを前にしてどう振る舞えばいいか分からなくなってしまうことがあるのです。温かみを覚え、癒されるのと同時に、圧倒的な敗北感も与えるのが、きみの清廉さなのです。
 佐伯さんが崩れたとき、あの人の支えになれたと思った直後に、僕は渚くんの手紙を見つけて、すべてを知りました。僕はきみの代わりにされたのかと傷つき、長く好きだった分深い憎しみに陥って、手紙とチケットを盗みました。すぐに罪悪感に駆られたけれど、結局返すこともしないでいたのです。
 僕が渚くんを傷つけようとか、騙そうなどと思って会いに行ったわけではないことは信じてください。
 店に行ったのは、時丘渚という佐伯さんの秘密に会ってみたかったから。それは純粋な好奇心でした。佐伯さんの名前を出したとき、きみの眼に悲しみの色が広がっていくのを見て、ああ、僕たちは同じ傷を共有しているんだ、と気づきました。
 そしてもっと話をしたい、この人を知りたい、と思っているうちに、いつのまにかきみと友達になってしまったんです。そして今は、もう少し踏み込んだ気持ちできみを想っています。
 展覧会でのことはうまく説明できません。僕はあの会場で佐伯さんと渚くんを引き合わせるつもりでいました。どうしてだろう、きみを傷つけたいなんて、これっぽっちも思っていなかったのに。
 僕がきみの傷を知っているように、きみにも僕の傷を知ってほしかったのかもしれない。崇拝していた佐伯さんという天才の後悔する顔を見たかったのかもしれない。そして本当はただ、三人で会ってみたかっただけのような気もします。
 でもきみの涙を見たときに、自分の考えていることの浅はかさと愚かさに気づいて、僕は結局会場で一人、佐伯さんと対面しました。
 僕の方の問題はそのときに片付いています。渚くんも佐伯さんとどうか話をしてみて下さい。
 そしてそのあと、きみがもう一度、僕と会いたいと思ってくれたら、それがどんな理由からであっても僕は嬉しいです。
 今は毎年九月に開かれている画塾の展覧会のために、作品をつくっています。この世は既に数えきれないほどの美に溢れているから、自信を失うこともあるけれど、やっぱりそれでも表現する側でいたいと思うのです。目途がついたら必ず連絡を入れます。碧川那智】

 七月の期末試験が終わると、もう夏休みだった。僕と理央が夏休みに入ったことでようやく店長は日中のワンオペ勤務から解放された。八月の後半には奥さんが帰ってきた。

 あの手紙をもらったことで、いくら絶望しなかったといっても、那智くんに会えるものなら会いたいと、僕は願っていた。なるべく夕方に差しかかるようにシフトを入れて、那智くんが店にやって来やしないかと、夏休みのあいだじゅう待っていた。だがよく考えてみれば夏休みのあいだは、時間を潰すために店へ立ち寄る必要がないのだから来ないのも仕方のないことだった。せめて店の前を通りかかりはしないかとも思ったが、とうとう那智くんを見つけることはできなかった。

 那智くん以外のことについて云えば、夏休みに入ってすぐ、僕は兄と電話をした。云いたかったことを云うためだった。
「僕のことを嫌っていないのなら。もっと話がしたい」
 それが僕の願いだった。
「いきなり何だ」
「いきなりでも何でもいいから答えてよ」
 僕の詰め寄りに対し兄からは、嫌ってなんかいない、という答えが返ってきた。それから、ためらいがちにこうつづけた。
「けど、俺が話せることなんて何もないんだよ。これまで勉強しかしてこなかった。ほかの奴等が小学校や中学校のときに楽しんでやってきたことを俺は何一つ知らない。今だって大学で英文学を学んでるけど、これが楽しいなんて思ったこと一度もないんだ。そもそも、楽しいとか面白いとか、そういう感情が俺は鈍いんだ。だからお前と話しても、楽しませてなんかやれないと思う」
「別にいいよ。そういうふうに、今みたいに話してくれるだけで充分だよ」
 兄は、そうか、と云ってかすかに笑みを漏らした。兄が笑うのを聞くのは何年ぶりだろうと思った。それから話題は両親のことに移った。
「父さんと母さん、離婚すると思う?」
 僕は訊いた。
「たぶんな。お前が高校を卒業したら、そうなると思う」
「今でも母さんを許せない?」
「うん、会いたいとは一ミリも思わないな」
 兄は静かに云った。怒りと憎しみの境地はとっくに過ぎ去っていて、もちろん親を嫌う罪悪感などにも駆られてはいなかった。兄にとってはもうどうでもいいことなのかもしれない。
「血が繋がってたって、人間、それだけで分かり合えるわけないんだ。けど、ほんの少し、分かろうとしてくれるだけで大分違うんだよ。そうすれば違う未来があったかもしれない」
 兄と電話をしたその数日後に、信じられないことが起きた。母が新たにどこからかもらってきた英会話塾や進学塾のパンフレットのなかに、『珈琲アカデミースクール』や『スイーツ&カフェ専門学校』のそれがまぎれ込んでいたのである。
 母にどんな心積もりがあるのかは知らない。進路については電話で兄に悩みを話していたが、今でも母を嫌っている兄がわざわざ電話をするとは思えないし、母は自分を省みるような人間ではない。一番考えられるのは、兄が父に僕のことを話し、父が母に電話をしたという流れだが、本当のところは僕には分からない。母は何も云わないし、僕も何も聞いていない。それに兄には喫茶店でのバイトは楽しいと伝えたけれど、別にカフェのオーナーに憧れているとか、自分の店を持ちたいなどと云ったわけではない。だから見当違いといえば見当違いなのだが、それでも少し、僕のことを分かろうとしてくれた証拠なのだろうかとは思っている。

 夏休み中の一番衝撃的だった出来事といえば理央のことだ。
 あれは八月の半ばに学校の友達三人と、ボウリングに出かけた帰りのことだ。本当はボウリングなどさほど興味はないのだが、きっと来年はもっと忙しくなるのだろうし、そうなればなかなか出かけることもなくなるだろうと、友人からきた誘いに応じた。四十日間ある休みのうち一日ぐらいは、気心知れた、退屈な仲間と会うのもいい。
 ボウリング場を出て、近くのカフェのテラス席で友人たちと会話をしていたところ、なんとなく僕は視線を感じた。さりげなく辺りを見渡してみると、少し離れたところから黒い服、いや、黒いドレスを着た女の子二人がこちらを見ている。そのうちの一人は、何だか見覚えがあるような気がした。いつだったか、電車で見かけたゴスロリの子にも、こんなふうに見られていたな、と思い出したそのとき、彼女がつかつかと僕たちの方へ近づいてきた。
「時丘さんじゃないですか。こんちは」
 その声を聞いて僕はぎょっとして立ち上がった。
「理央?えっ……理央なの?何、そのカッコ」
「あー時丘さんなら絶対そういう反応すると思った」
「いや、何で……何でそんな服着てるの?」
「可愛いでしょ?今、彼女とデート中なんです、時丘さんは?皆さん、友達?」
「う、うん……」
 ちらりと友達三人の方に視線を向けると、全員呆気にとられた様子で固まっている。突然現れたゴスロリ女装男子にどう反応していいのか分からないようだった。そこへあとからやって来たもう一人の子が理央の後ろから顔を出した。
「こんにちは、この人がりおちーの先輩?ここなです、宜しく」
 意外にもきちんと挨拶をしてきた理央の彼女は、僕の手を両手で掴んだ。どの爪にも十字架やハート、天使の羽などのモチーフ隙なくデコレーションされていて、すごいなと思う。 
「あ、はあ、どうも……」
「彼女、ゴスロリ好きなんですよ。で、俺にも同じカッコしてほしいって云うから」
「りおちーなら絶対似合うと思ってたんだよねー。あ、良かったら写真見てくださーい。この前のプリ画像かなり盛れたからめっちゃ気に入っててー」
 理央の彼女はうさぎの耳がついた携帯電話を僕に見せてきた。画面のなかでは、今日とはまた別のドレスを着た理央と彼女がカメラ目線で抱き合っている。つまり、理央の彼女はゴスロリを着た女の子同士のカップルに見られたい願望があり、理央はそれに何の抵抗もなく応じているということか。
「これ、何か……眼大きくない?」
「え、ふつーじゃない?で、こっちがチュープリでー」
 次々と見せられた数枚のカップル写真に僕はあまりの衝撃に絶句した。すごい世界を見てしまったと思った。
「まあ、でも実はこのカッコで時丘さんと会うの初めてじゃないですよ」
「えっ?」
「五月か六月ぐらいに、俺一回、時丘さんのこと電車のなかで見かけてるんですよ。まったく気づかれなかったけど」
 僕はあっと思った。さっき、どこかで見たように感じたのは、やはり気のせいではなかったのだ。
「それだけりおちーが完成度高かったってことじゃない?」
「それな。じゃ、俺らこれからイベントなんでー。お疲れっす」
「あ、うん、気をつけてね……」
「ばいばーい」
 去って行く二人の後ろ姿は、どう見ても女の子同士にしか見えなかった。
 以前店で、僕が男と付き合うことについてあれこれ質問したとき、それなら試してみるかと理央には訊かれたが、あれに応じていたらどうなっていたのだろうと、今でもたまに考えることがある。
 理央たちが去ったあと、友達の一人が、
「渚ってどんな喫茶店でバイトしてるんだっけ?」
 と訊ねてきたのも無理からぬことだと思った。

 そして佐伯さん。そう、僕は七月の終わりに佐伯さんに会った。
「久しぶり」
 と云うと、先に来ていた佐伯さんは、うん、と答えた。呼び出されたのは都内にあるホテルのラウンジカフェで、落ち着いて話ができそうだったが、高校生が入るようなところではない。
「大学生になると、みんなこんなところでお茶するんですか?」
「たまにだよ。静かだから、気に入ってる」
 値段が高いのは仕方ないと諦めて、僕は佐伯さんと共に珈琲を注文した。
「この前の展覧会で声をかけられたときは、びっくりしました」
「あのときはゆっくり話せなくて悪かった」
「それはいいんです。元気そうで安心しました」
 僕はあの日の那智くんと佐伯さんの会話を聞いてしまったことを、どう話すべきか考えていた。
「そうだ、この前の展覧会の絵、とても素敵でした」
「そうか」
 あの日、どうしても佐伯さんの絵が見たいと思い、僕はもう一度、あの彫刻の前まで戻ってきた。佐伯さんの作品は会場の一番奥に展示されていた。
 僕はやはり佐伯さんの絵を美しいと思った。
 最後に見た絵の中には、誰かの後ろ姿が描かれていた。首から背中に向かう三つ星。
 あれは自分なのかと今、佐伯さんに訊いてみたかった。でも訊かなかった。あれは僕だと信じていたかったから。佐伯さんが初めて僕を最後まで描いてくれたのだと思いたかったから。
 会場で絵を眺めていたとき、佐伯さんが僕を呼び止めた。さっきよりもずっと近くで。
『お前にしたことを謝りたいんだ』
 挨拶もなしに、いきなり本題に入るところが佐伯さんらしいといえばそうだった。僕は途惑いながらも、もう昔のことだから気にしないでと云った。しかし佐伯さんは、
『どうしても時間をつくって話したい』
 という。そうでないと那智くんとの約束を果たしたことにはならないと考えているのだろう。だが忙しい佐伯さんと予定が合うのは、ひと月後だったというわけだ。
 給仕係がやってきて、珈琲と共にサンドイッチやケーキが乗ったアフタヌーンティースタンドを置いていった。頼んでないのに、と僕が驚いていると、
「予約しておいた。昼、まだだろ」
 と佐伯さんが云う。
「美味しそう」
 そう云って僕はまず珈琲を口に運んだ。それを見届けた佐伯さんが、
「あのときは悪かった」
 とふいに呟いた。
「連絡をくれてたのに、ずっと返事もしていなくて。勝手だったと思う」
 僕は笑った。
「いいんです。あのときはショックだったけど、僕が男だから拒絶したわけじゃないんでしょう?」
「当たり前だろう」
「それが聞けただけで充分です」
 それから僕と佐伯さんは過去のこと、そして現在のことを、少しずつ話していった。僕は出会ったころのようにあくまで敬語を保った。僕たちは別れた今、初めてデートらしいデートをしていた。
 佐伯さんも現在、九月下旬に行われる学祭で展示する作品の製作中ということだった。
「じゃあ今はとても忙しいんじゃないんですか?」
「うん、まあ大事なことが済んだから、完成に向けてより集中できそうだよ」
僕と会うことを、大事なこと、と云ってくれたことが僕は嬉しかった。
「そう云えば進路、もう決めたのか?」
「はい、今通ってる藤咲の大学へ進むつもりです。経営学を学ぼうと思って」
「渚が経営学?なんか想像つかないな」
「実は今、喫茶店の経営にすごく興味があるんです。だから専門学校に進むことも考えたんですけど」
 母親がテーブルの上に置いていたあのパンフレットは、じわじわと僕にその道を意識させた。
 僕は誰かが休める場所をつくりたい。誰かが寄る辺なさを感じたとき、思い出してもらえるような。
「もし本当に店を出すことになったら、開店祝いに絵を贈るよ」
「え、嬉しい。今の言葉の証文をとっておこうかな。あなたは近い将来、すごく有名になるだろうから、忘れられたら困りますもん」
「忘れないよ」
 その約束がどんなに僕をやる気にさせるか、この人はまるで意識していないのだ。この約束を守るためだけに店を開いてもいいんじゃないかという気さえしてくる。
 帰る間際になって、実は最近那智くんと会えていないということを漏らした。
「九月に画塾の展覧会があるって聞いているんですけど、それって僕が見に行ってもいいと思いますか?」
「問題ないよ。去年だって、来ただろう。関係者じゃなくても入場できる」
「いえ……那智くんから来てくれと云われたわけではないので、迷惑にならないかなと」
「お前、那智のつくったもの、見たくないのか?」
「それは……見たいです」
「那智に会いたいと思ってるだろ」
「はい」
「だったら行けばいい。去年もそうだった。行っても迷惑じゃないか、ってお前が訊くから俺は、来たいなら来い、って云っただろう。どうして迷惑がられると思うんだ。相手の方は、お前が行きたいって云うのを待ってるかもしれないのに」
 ほんの少し怒ったような声に、僕はちょっと驚いていた。
 駅で別れるとき、僕は佐伯さんを呼び止めて、
「今度は三人で会いたいです」
 と告げた。佐伯さんは分かったというふうに頷いた。そのときの表情が少し笑みを浮かべているように僕には見えた。
「そうだ、那智に会ったらチケットはやるって伝えておいてくれないか。そう云えば分かるから」

 新学期がはじまって夏休み気分が抜けたころ、那智くんの画塾の展覧会があった。
 九月の中旬だというのに、その日の気温は真夏とさほど変わらなかった。僕は汗を押さえながら会場に向かった。
 会場は夕方の五時まで開いているということだったが、誰よりも早く那智くんの絵を見たいという気持ちから、午前中に家を出た。
 そこまで混むとは思わずに来たが、既に数人会場前に並んでいる人がいる。どこかに入って待つほどでもないので、僕はそのまま待つことにした。屋根があるところで助かったと思う。
 僕の前には二人組の男の子が並んでいて、いろいろな美術予備校の展覧会を見て回っているという会話をしていた。会話の内容からしてまだ中学生のようだった。彼らの口からは画家の名前がするすると出てくる。彼らはお互いに向かってというより、周囲に向かって自分たちの会話を見せている感があった。自分たちはほかとは違うんだという、痛々しいほどのいびつな自我。何者をも恐れぬ傲慢さ。好きだというだけで、全速力で走れるバイタリティと純真さ。
 頑張れ、と思ったあとで、僕は視線を日陰に向ける。
 どうかひたむきに夢を見つめてほしいと思う。でも同時に大きく傷ついてほしいとも思う。
 その考えに、自分は少し変わったのかな、と思う。
 会場の扉の脇に佇み、午前中の陽の光に照らされる窓の外の景色を見ながら、僕は那智くんの孤独と息苦しさについて思いを馳せた。
 一番近しい人の死と、同じぐらい近しいはずの人の無理解。
 そういうものがもし那智くんに降りかからなかったら、と思う。
 そうしたら那智くんは、今より幸せだっただろう。でも、もしそうなら那智くんは絵を描いていなかったんじゃないだろうか。
 向かいの店の脇に咲く彼岸花の赤が眼に入る。灼熱の陽の下で、必死に秋を呼んでいる。
「渚くん」
 ふいに声がかかり、途端に僕は自分の渇きが癒されるのを感じた。その声はまぎれもなく、那智くんのものだった。
「……那智くん」
「来てくれたんだね。三階から入口を見下ろしたら、すぐに分かったよ」
 那智くんが僕を見つめてくれることで、僕に変わらない笑顔を向けてくれることで、体のなかに何物にも代えがたいエネルギーが注ぎ込まれていく。
 那智くんはごく自然に僕の手を取って、こっち、と云って歩き出した。そうして建物の裏口から僕を中に入れ、階段で展示室まで案内してくれた。
「いいの?入って」
「大丈夫。身内だって云うよ。渚くんが一番に見てくれたら、すごく嬉しい」
 那智くんは階段を上りつづける。この背中を見ていたら、どこまででも一緒に行けそうな気がしてくる。
「那智くん、手紙をありがとう」
 那智くんはちょっと足を止めて、僕を振り返った。
「手紙なんて初めて書いたよ。ほとんど一日かかっちゃった」
「そうなの?」
「うん、途中で便箋切らして買いに行ったもん」
 那智くんは苦笑した。
「でも、ラブレターを書くときは誰だって緊張するでしょう」
「えっ」
「着いた。三階だよ」
 階段の向かいの大きな部屋が那智くんの作品が置いてある展示室だった。展示室の入口には『油絵科コース』という貼り紙がしてある。室内には、画塾の生徒たちがいて、受付でおしゃべりをしていた。
「那智くん、ここって……」
「あそこ。奥の三枚。見てきて」
 那智くんは絵の具の匂いに満ちた部屋の奥を指差すと、仲間がいる受付の方へ行ってしまった。
 この部屋にある作品はすべて油絵だった。立体作品やそのほかのものは一切置いていない。
 ああ、那智くんは自分の愛した油絵に戻ったのだ、と僕は理解した。
 そして那智くんの展示作品の前に来たとき、僕は呼吸が止まりそうになった。
 眼に飛び込んできた絵の色彩が、鮮やかにゆっくりと僕の心臓を締めつけていく。美の生命力に魅せられる。これでもかというほどの色彩の花びらのなかに、光の波のなかに、僕は引き込まれた。舐めるように、胸に沁みつけるように、一枚一枚の絵を眺めて歩く。ふと眼にした、碧川那智、という名前が、僕の胸を軋ませる。
 僕は色彩の洪水と、四文字の名前に満たされて、もう少しであふれてしまうところだった。
「笑ってよ。そのために描いたんだよ」
 那智くんが隣にやってきて、眼のなかに涙を溜めている僕を見つめた。
 ふいに僕は理解した。
 僕たちはいつでも、何をしても、何を手に入れても、完璧に満たされることはないのだと思う。不幸はやってくる。終わらない恋なんてない。決して理解し合えない人に出会う。望まない変化に晒される。自分を疑う。
 この世界にある何もかもが不確かだからこそ、きみは何かをつくり出そうと思えるのだろう。自分の内側にある美しいものをすくい取って、描く。
 だからこそ、僕はきみの傍にいたいと思う。
 きみが孤独にふるえるとき、その手を握ってあげられるように、きみが涙をこらえるとき、共に涙を流してあげられるように、きみが傷ついたとき、その血を舐めてあげられるように。
 この世界はきっと、今の僕が知る以上に、不安定で不条理で不幸だからこそ、恐れないために、生き抜くために、愛し合う必要がある。
 僕は涙を呑み込んで、唇をかみしめて、笑顔をつくった。
 いつのまにか、ほかの来場者たちがぞくぞくと会場内に入ってきていた。
「渚くんを描いた絵も、ちゃんと仕上げてあるんだよ」
「ほんと?嬉しい」
「今度、会おう。持ってくるから」
 それから、那智くんは僕の指をそっと握った。
「今度は渚くんの背中の星を描きたいな」
 僕は照れて顔をくしゃくしゃにして笑う。
 その尊い瞬間、僕はもしいつか本当に、自分が喫茶店を開いたら、と想像していた。
 もし許されるなら、佐伯さんの絵と那智くんの絵を一緒に飾ることができたら、と思う。
 店を開くなんて、今は現実味のない、本当に小さな思いつき。
 けれど、
「将来の夢は?」
 と云われてもぴんとこない僕の、それが唯一、望みに近いもの。
 それが今の僕のなかで一番夢に似ている光景。