そして日曜日がやってきた。今度は僕の方が先に駅に着いて待っていた。休日の駅前は先週、学校帰りに那智くんと待ち合わせをしたときよりも人でごった返している。すんなりと那智くんを見つけることはできず、結局、携帯電話で連絡を取り合った。
「お待たせー。混んでるねえ。とりあえずあっち行こう」
 お互いの声も聞こえにくいなか、那智くんが示す駅舎の外に連れ立って向かおうとしたところ、僕は前から歩いて来た通行人にぶつかられてよろめいた。そのとき、本当にかすかにだが、那智くんが庇うように伸ばした手が、僕の肩に触れた。
「大丈夫?後ろついてきて」
「うん……」
 僕は俯き加減のまま礼を云い、云われた通りに那智くんの後ろをついて行く。実は那智くんの顔を見た瞬間、
『彼氏じゃなかったんですか?』
 という理央の言葉が脳内再生されて、あのときと同じ恥ずかしさが蒸し返されていた。
 七月最初の週末だった。先月に引き続き、雨の気配は微塵もなく、日々、気温ばかりが上がっていく。駅舎を出ると、貫くような陽射しが眼を灼いた。
「映画までまだ時間あるから、近くで何か食べようか」
 那智くんはライトブルーのデニムにポップアートのプリントが描かれたシャツを着ていて、制服姿のときより印象が明るく見えた。さりげなくブランドのロゴが入ったキャップをかぶり、シルバーのネックレスが胸元に光っている。
 一方、僕はといえば、那智くんみたいに帽子やアクセサリーなんかの細部のおしゃれになんてとても気が回らなかった。服装に無頓着なつもりはないけれど、もともと流行りに疎いのとセンスがないのとで、とりあえず人から見て変に見えない恰好をするのが精一杯だ。今日は出発直前までいろいろ考えていたもののタイムリミットが迫ってくるにつれ、色合いもシルエットも何だかもうよく分からなくなり、結局無難に無地の白シャツと黒いパンツで家を出た。
 やっぱり服を買いに行けば良かったなあ、などと後悔していると、那智くんが映画館の近くにある、ベーカリー&カフェの店に行こうかと提案してきた。
「今日、映画のあとさ、絵の展覧会に付き合ってくれないかな?」
 サンドイッチとアイスカフェラテで腹ごしらえをしているとき、那智くんはそう訊いてきた。
「展覧会?」
「うん、ここから電車で二駅のところにある、アートスペースでやってるんだけど、今日が最終日でさ」
「ふうん、いいよ。どんなの?」
「美大生のグループ展だと思ってくれれば。知り合いが一人出してるから、一応行かなきゃと思って。でも、いきなりだし、もし興味なかったら一人で行くから無理しないで」
「ううん、行く。そういうの好きだし。そっかあ、やっぱり美大生目指すなら、そういうのしっかり見とかなきゃいけないんだね」
 あとになって僕は、那智くんのこの話をもう少し詳しく訊くべきだったと後悔する羽目になる。そのとき、僕は食べているパンから、アボカドが落ちそうになることばかり気にしていた。
「ねえ、渚くんは、バイトがない日は普段何してるの?」
「えっ」
「部活とか入ってる?それとも何か習い事してるとか」
 僕は黙り込んだ。自分には那智くんや佐伯さんのように得意なことはないし、兄のように一心不乱になったこともない。そういう人たちの背中を見てきたのに。
「どうかした?」
「ごめんね、あの、正直云うと僕ってつまんない奴でさ」
 ぼろは出したくないと思っていたが、早々に僕は白状することにした。那智くん相手にありもしない夢や目標を語れるほど僕は器用ではない。それに、那智くんに対してはできるだけ嘘を吐きたくないという気持ちもあった。
「実はね、僕、将来どうしたいかっていうのが全然決まってなくて……だから大学で何を学んだらいいのかも決められない。もう高二だから、付属の大学に進学するにしても、一応試験もあるわけだし、そろそろ勉強に本腰入れなきゃいけないとは思うんだけど、まだ学部も決められなくて。そこから逃げるみたいに、バイトをたくさん入れちゃったりして」
「そうなんだ。バイトをしてるときは楽しいの?」
「うん、わりと。でも……仕事そのものっていうより、あの空間が好きなのかも。一呼吸ついて、少し考えごとをして、次の場所へ向かっていくための準備をする、あの場所が」
 この世界はあまりにも賑やかすぎて眩しすぎるから、佐伯さんのように頑張っているけれど、不器用でこの世界に馴染めない人がときどき休みに来られるような、静かな場所。そういう場所を守りたい。そんなかすかな理想は持っているといえば持っている。でもそれが我武者羅な衝動を生むのかと云えばそういうところまでは持っていけない。こんな気持ちはあまりに漠然としすぎている。
「親にも、塾行かないならせめて学校の放課後授業受けろとか云われてるんだけど、あんまり気分が乗らなくて。……ごめんね、こんなどうでもいい話。云い訳せずに勉強しろって話だよね」
 弱音を吐いたみたいで恥ずかしかったが、那智くんは僕と視線を合わせると穏やかに云った。
「考え事をしてる渚くんは絵になるね」
「えっ、何急に」
「いや、ほんとに。あとで描かせてほしいな」
「誰を?僕を?」
「ほかにいないよ」
 思わずパンを喉に詰まらせそうになる。那智くんは一足先にサンドイッチを食べ終わって包み紙をトレイの上で丸めた。
「渚くんてさ、自己中になったことなさそうだよね」
「え?」
「渚くんは優しいし、誠実で、真面目な性格なんだと思う。どうすれば周りに迷惑がかからないか、人を傷つけないか、この場ではどう振る舞うべきか、そういうことをいつも考えて、他人の意見にちゃんと耳を傾けてきたって感じ」
「それは……そんなに特別なことじゃないと思うよ」
「でもさ、周りは渚くんのことなんか考えてくれないよ」
 ふいに芯のある強い声で、那智くんはそう云った。
「渚くんのことを本当に分かってるのは、渚くんだけだよ。結局、周りの人だって自分のことで精いっぱいだもん。周りの人の声は渚くんの声じゃないよ。自分の声は自分にしか聞こえないんだから。一度耳を塞いで、自分の声だけをちゃんと聞いた方がいいと思う。人生の大事なことに関しては自分中心になっていいんだよ。ていうか、ならないとだめ」
 僕はどんな返事をしたらいいか分からず、小さく、うん、とだけ呟いた。
 ごめんすごくお節介なこと云ってるよね、と那智くんはいつもの声に戻って笑った。
「ねえ、渚くんて腕時計してるんだね。俺、あんまりつけないなあ」
「ああ、うん。携帯で時間の確認できないときに便利だよ」
「確かに。ちょっと見せてくれる?」
 そう云って那智くんは腕時計を嵌めた僕の左腕を自分の方へ引き寄せた。誰かに肌を触れられたのはすごく久しぶりで、僕の心臓は一瞬ふるえた。
「上映二十分前かあ。そろそろ行く?」
「あ、うん……」
「そういうシンプルな盤面が一番見やすいよね。その時計、自分で買ったの?」
「う、ううん、高等部に上がったときに父親からもらって……」
「へえ、渚くんのお父さんセンスいいね」
 体のなかでまた恥ずかしさがぶり返してきた。このぐらいのことでうろたえていたら、とても今日一日を一緒に過ごせないじゃないかと、深呼吸する。
 映画館に着くと那智くんはスタッフのいるカウンターではなく、自動発券機の方へ僕を誘った。事前にインターネットで二人分のチケットを予約しておいてくれたという。
「勝手に席決めちゃったんだけど……でも、シアタールーム七番なら、この列が見やすいはずだから」
「ありがとう。詳しいんだね」
「うん、この映画館、よく来てるから」
「……あ、もしかして、前の彼女と?」
 僕はわざと自分から傷つきにいった。
「そうだね、そういうときもあったね。でもほかの人ともよく来たよ」
 そう答えたあとで那智くんは、ポップコーンとドリンクを買ってくるからここにいて、と云い残してその場を離れた。
 ほら見ろ。そういうときもあった、ということは彼女がいたということだ。那智くんは女の子が好きな男なんだ、同じ男なんかお呼びじゃないんだ、と僕は自分に云い聞かせた。別に友達としてても充分だ。那智くんはとても魅力的だし、話していて楽しいし……。
「渚くん、ごめん。アイスティー売り切れでさ、ウーロン茶にしちゃったんだけど」
「えっ?あっ、そう、そうだったんだ」
「コーラにする?俺はどっちでも」
「ううん、ありがとう。ウーロン茶大好き」
 僕はウーロン茶を手に取り、一気に半分近く飲んだ。那智くんがトレーを持ったままだと気づき、すぐに後悔する。
「ごめん、買ってきてもらっておいて……僕持つよ」
「いいよ全然。のど渇いてたんだね。このままシアタールーム行こ」
 那智くんのおおらかな態度に、僕はまた心臓を掴まれてしまう。いやいやと首を振る。
「ねえ、那智くんの付き合った女の子って何人ぐらいいるの?」
「どうしたの、いきなり」
「那智くんなら、きっともてるんだろうなと思ってさ」
「そんなことないよ」
「でも、何人ぐらいと付き合ったの?」
 僕はしつこく人数を訊き出そうとした。
「ええと、三人、かな」
「三、人」
「あ、でも、みんなそんなに長く付き合わなかったし。もう、過ぎたことはいいじゃない」
 決まりだ。どう考えても那智くんはノンケの男に違いない。まあ、覚悟はしていたけれど、どう見ても彼は女の子と付き合う方が合っている。
 はあ、とため息が出た。一瞬でも期待してしまった自分を殴りたい。
 だって、あのときの那智くんの視線は、佐伯さんから受けていたそれとすごく似ていたから。
 もちろん、理央のように男女両方と付き合うというケースもあるのだろうけど、そんな限りなくゼロに近い可能性に賭けようと思うほど、僕は夢見がちではない。
 勝手に諦めの境地に浸っていると、シアタールームの座席についたところで、今度は反対に那智くんから質問された。
「渚くんは、今までどんな人と付き合ったの?」
「え?」
「渚くんのことも教えてよ」
「う、うん……僕は、その、付き合ったのは一人だけで……」
「ふうん」
「あの、でも半年ぐらい前に別れちゃって」
「半年前?……そう、半年前っていうと一月か二月、とか?」
「そうだね、二月……だったかな」
「同い年の人?」
「ううん、年上……」
 誤算だった。まさか自分に水を向けられることになるとは。しかし同じ質問には礼儀としてこちらも答えなければならない。
 でも、お願いだからまだそこには触れないでほしい。まだ傷口は塞がっていない。
 勝手だと思いながらも僕はそう願わずにはいられなかった。
「俺もさ、ちょうどその頃、好きだった人に振られちゃったんだよね。その人は、男だったんだけど」
「えっ?」
「まあとにかく、お互い今はフリーなんだね。今日は楽しもう」
 那智くんはそう云って微笑んだ。その直後、アナウンスが入り、場内は闇に包まれた。だがそれとは反対に、僕は自分の気持ちが明転するのを感じた。
 映画の内容は予告通りといった感じで、途中から先が読めてしまったが、つまらないとは微塵も思わなかった。
 まだ恋をするのは怖いと思っていたのに、那智くんが男に恋心を抱いた経験があると聞いて、すっかり気を良くしている僕がいた。那智くんとここにいられることが嬉しい。那智くんといるだけで、何だか自分の存在を肯定してもらえている気になれる。その満足感のおかげで映画に対する評価はひどく甘くなった。映画が終わり、場内が明るくなってから、
「面白かったね」
 と僕が云ったところ、那智くんは、
「そうだね」
 と返してくれたが、あとから振り返ってみると、そうでもなかったように思う。でも僕が面白いと云ったからだろう、那智くんは、売店も見てみようか、と云って、そこでパンフレットを購入し僕にプレゼントしてくれた。
「いいの?パンフレット買ってもらっちゃって」
「いいんだよ。その代わり、ちょっと付き合って」
 那智くんはそう云うと、映画館を出て少し歩いたところにある小さな公園に僕を誘った。行きも通りかかったが、土台がスプリングになっている遊具二台と滑り台しかない、幼児向けの公園だ。公園の中央にはそこそこ大きな樹があり、その根本にベンチが設置されていた。ベンチの半分は陽射しが照りつけていたが、もう半分は樹の幹が陰を落としてくれている。那智くんは僕をその木陰に連れて行った。
「描いてもいい?」
「えっ?」
「映画の前にお願いしたでしょ?渚くんを描いてみたいんだ」
 そういえば映画の前にそんなことを云っていたなと思い出す。描いてみたいと云われるのは、正直悪い気はしなかった。
「でも、どうしたらいいの?」
「楽な姿勢でいいよ。でもなるべく動かないで」
 そう云いながら那智くんはスケッチブックと、芯を長く削った鉛筆が何本か入った筆箱を取り出した。
「それ、いつも持ってるの?」
「というわけでもないけど、今日はどうしても渚くんを描かせてもらいたくて持ってきたんだ。これも勉強だから、お願い。俺を助けると思って」
 僕は那智くんのこういう強引さは嫌いじゃないな、と思い、僕は分かったと云って、ベンチに座った。しばらく姿勢を検討した結果、僕は今観てきたばかりの映画のパンフレットを読む体勢をとった。
「ありがとう」
 その一言を境に、那智くんは自分の世界へと入り込んでいった。彼が鉛筆を走らせる音が、初夏の風にさらわれて消えていく。
 一分ほど経ったとき、そっと那智くんの様子を伺うと、彼は先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で、絵と向かい合っていた。その静かな変わりように、僕は心を掴まれた。青い炎のようなエネルギーが、彼のなかで燃えているのを感じる。惚れ惚れするのと同時に、怖いな、とも思った。真剣な人はみんな怖い。兄や佐伯さんのように。僕はいつも後ろから彼らの炎を見つめていた。那智くんも今、そんな背中をしているのだろうか。
「渚くんは優しい顔立ちだから、描いてて気持ちが和らぐよ」
「えー?」
 その言葉に僕は照れるしかなかった。
「ほんとだよ。いつまでも描いていたくなる」
 そう云ったあとで那智くんは、ふと手を止めた。
「そういえば佐伯さんに描いてもらったことって、ある?」
「うん、何回か。でも、僕をモデルにするといつも『うまくいかない』って云ってたっけなあ。別に一枚ぐらいくれたっていいじゃん?なのにあの人、自分が納得いかないと描いたものを見せてもくれなかったんだから」
「あの人は完璧主義だからね」
 那智くんは苦笑した。
「じゃあ、これ描き終わったらあげるよ」
「ほんと?」
「うん。あ、でもせっかくあげるなら着彩したい気もするけど……でもそうすると今日は渡せないしなあ」
「いいよ、那智くんに任せる」
「でも、あんまり時間をかけると手放せなくなっちゃいそうな気がする」
「いつもそうなの?」
「ううん、渚くんを描いてるからだと思う」
 憂いを帯びたような眼で那智くんは僕を見つめる。僕の胸はしめつけられるように切なくなる。
「那智くんはどうしてちゃんと思ったことを言葉にできるの?それってすごく勇気のいることだと思うけど」
「俺が母親から学んだことが二つあってね、そのうち一つは、伝えたいと思った言葉はそのときに云うってことなんだ。いつも次があるとは限らないから」
「もう一つは?」
「自分の心の声は自分にしか聞こえない。さっき渚くんに伝えたことだよ」
「そうか。素敵なお母さんだね」
「ありがとう。伝えてやれないのが残念だよ。俺が小六のときに亡くなったから」
「えっ」
「ごめんね、動かないでね」
 僕は慌てて元の姿勢に戻ったが、突然のショックに思考が停止してしまった。
 それからも那智くんはしばらくのあいだ鉛筆を走らせつづけていた。そのまま十分が過ぎた頃だろうか。あるところで彼は、ふと手を止めて云った。
「俺、本当は今の学校、入る気なかったんだよ」
「そうだったの?」
「うん、勉強なんか全然好きじゃなかった。でも、俺が勉強しないと母親が責められるから仕方なく」
「責められる、って」
「親父にね。俺を責めるなら分かるけど、何で母親を責めるのか理解できなかった。あんまりにも暴言がひどいから、黙っていられなくて何度か喧嘩したこともあったけど、あの人は俺の意見なんて聞かないから。あんな奴が卒業した学校、行ってやるもんかって思ってたよ。母親のために一応塾には行ってたけど、勉強の方はする気も起きなかった」
 那智くんの母親は、交通事故で亡くなったという。十二歳の夏、夏期講習のために毎日のように塾に通い詰めていたある日のことだった。いつもは夜八時に車で迎えにくるはずの母親が、その夜はいつまで経っても現れなかった。不審に思った塾の事務員が仕事中の那智くんの父親に連絡をとってみたが、基本、送迎は母親に任せているという。そのうち来るのではないかと云われ、電話を切った直後のことだった。電話が鳴り、出てみると最寄りの警察からで、那智くんの母親の乗った車が事故に巻き込まれたと告げられたのだった。那智くんが事故の詳細を知ったのは、しばらく経ってからのことだ。横合いから信号無視をして突っ込んできた物流トラックに、那智くんの母親が運転する自動車は激突された。トラックの運転手は事故当時、持病で意識を失っていたものとみられ、病院で死亡が確認された。
「母親は可哀相な人だったよ。ずっと親父には責められて、俺には騙されて」
「騙されて、って」
「母親は俺がちゃんと勉強してるって信じてたんだよ。毎日テキストを見せて、今日はここまで進んだ、なんて報告してたけど……でも本当はテキストの答えを丸写ししてただけ。でも、それじゃ最後まで応援してくれてた母親に申し訳ないから。それからは心を入れ替えて、体調を崩しても、吐きながらでもとにかく勉強した」
 僕はしばらく言葉が出なかった。
「それで……受かったんだ。すごいね。誰にでもできることじゃないよ」
「母親への償い、っていうか、供養みたいなものだよ。でもそれも高校まででおしまい。父親からは、美大なんて行って何になる、って今でも反対されてるけど、それならどこの大学にも行かないって云ったら、美術予備校の費用は出してくれたよ。周囲に対しては、息子のわがままを許す寛容な父親を演じてるってのが腹立つけど」
 僕は那智くんの精神的な強さにただただ脱帽した。それからよく壊れずに生きていてくれたと思った。それまで僕は那智くんの聡明さや明るさ、そして絵の才能はすべて持って生まれたものだと、愚かにも思い込み、それを密かに羨んでいた。本当は、初めてスケッチブックを開いたときに感じていたはずなのに。優美で細やかな線のなかに潜む、何ともいえない哀愁と孤独の気配を。あの佐伯さんに見劣りしないほどの絵を描けるのは、喪失と痛みが彼の魂にしみついているからだ。与えられたんじゃない。傷ついて、乗り越えて、抗って、今も求め続けて、母に捧げる深い祈りを、祈りのまま保ちつづけて、彼は今僕の前にいるんだ。
「えっ、どうしたの?」
 那智くんに云われ、僕は涙を拭うために袖を伸ばした。ハンカチを持っていなかったことを後悔したのは久しぶりだった。息苦しくて言葉を発することができないでいる僕に、那智くんはさっとポケットティッシュを差し出してきた。
「ごめん、同情を買おうと思ったわけじゃないんだよ」
「分かってる。何て云ったらいいんだろう」
 突然母親を失った十二歳の那智くんを想像すると、確かに痛ましさを感じる。でも伝えたいことはそれじゃない。
「うまく云えないけど、那智くんを尊敬してる」
 この言葉に那智くんは眼を見開いて、尊敬なんて、と呟いた。けれどほかにどう云えばいいのか僕には分からなかった。
 それからふと、那智くんが傍らに置いたスケッチブックに気づいた。僕がいた。あの短時間で、ここまで描いたのかと僕は感心した。那智くんから見ると、僕はこんなふうに見えているのか、と思った。
「すごくきれいに描いてくれたんだね」
「あ……まだ途中だよ」
「僕、那智くんの絵好きだな。スケッチブックを見せてもらったときからそう思ってたんだよ」
 僕はなんとか笑顔をつくった。
「何年か経ったら那智くんのお父さんに、那智くんの絵を見てもらいたいな。那智くんの絵はとてもきれいだから」
『美しいものは何よりも強い』
 と教えてくれたのは佐伯さんだ。
『美しいものは刺さるんだ。しめつけるんだ。だから心に痕が残るんだ。美しさが痛みを与えて、痛みこそが美を生むんだ』
 那智くんのお父さんのような人に話を聞いてもらうのはとても難しいことだと思うけれど、もしかしたらもうお父さんと那智くんの言葉が通じ合うことはないのかもしれないけれど、那智くんの生みだした美が、彼のお父さんのような人の足を止めることがあるかもしれない。
 もしそうなったら、僕はとても嬉しい。
 気がつくと隣に座った那智くんが僕をじっと見つめていた。
「何だか、渚くんてすごく……」
「うん?」
 一昨日と同じ。あのときの眼だ、と僕は気づく。
「ねえ、渚くんが前に付き合ってた人ってどんな人だったの?」
「えっ、何……どうしたの、急に」
「知りたいと思ったから訊いてる」
 今までにない真剣な空気に僕は若干身が竦んだ。
「半年前に別れたばかりって云ってたよね。それって、どうして別れちゃったの?」
「……どうして、いきなりそんなこと訊くの?」
「渚くんにすごく興味がある。何でも知りたいんだよ」
 きみには分からない。その真っすぐな眼が、僕の体を、かたちを、すべてを刺すように見つめるとき、僕がどんな思いに駆られているか。
 佐伯さんと付き合っていた。
 そう打ち明けるべきだったのに、僕は声が出なかった。男を好きになってふられた経験があると那智くんは先に教えてくれていたのに、偏見を持つような人ではないともう分かっていたのに、あとちょっとのところで沈黙を破れなかった。
 云えない。自分はこれまで女の子を好きになったことがないなんて、気がついたときにはいつも同性を眼で追っていて、それが恋にならないうちにいつも諦めてきたなんて、そして今このときもきみに惹かれているなんて、そんなことを云う勇気はどうしても出なかった。そして、佐伯さんの名前を僕が勝手に出していいのかというためらいもないわけではなかった。
「……僕のことを訊くんだったら、先に那智くんのことを教えて」
 一瞬、那智くんは表情を曇らせたが、すぐに仕方ないという様子で微笑んだ。
「そうだね。でも、俺の恋愛話なんてひどいもんだよ」
「ひどい?」
「映画館で好きだった男の人にふられたって話をしたよね。長いあいだ、ずっと憧れてた人だったんだ。少しずつ近づいて、信用してもらえるように頑張った。ずっとその人を見てきた。でもあるとき、その人に好きな人がいるって分かって……それで、諦めるためにいろんな相手と付き合ったんだ。結局、誰のことも好きになれなかったけど」
 那智くんは足許に視線を落とした。
「でもあるとき、その好きな人に俺の気持ちを受け入れてもらえたことがあって、本当に突然で、それが何でなのかは分からなかったけど……嬉しかった。ずっと思い続けていれば願いは叶うんだって思ったよ。でも違った。その人は俺と付き合おうなんて気は、さらさらなかったんだ。自分が都合よく扱われてたんだって知ったときはつらかった。体は繋がってても、心は通じ合ってなかった」
 その言葉の意味を理解したとき、僕は気まずさに、自分の手を見つめるしかなかった。
「渚くんの番だよ」
 僕はごくりと唾を呑み込み、手にしていたパンフレットの端をぎゅっと掴んだ。
「……僕はね、那智くんとは反対で……体すら繋がれなかった」
「どういう意味?」
「直前で拒否られちゃった、って感じかな。その人には目標があって、それを達成するまで僕には絶対触らないって約束だったんだ。でも……あるとき、その人がひどく追い詰められてたときがあって、突然その人に服を脱ぐよう云われたんだよ。びっくりした。ちょっと自暴自棄になってたみたいで。それが初めてだった」
「けどそれって……約束が違うんじゃないの?」
「そうなんだけど……僕の方はいつしても良かったから、嫌じゃなかった。むしろ嬉しかったよ。やっと本当に恋人同士になれるんだって気がした。それにその人、ちょっと頑張りすぎてたから、気持ちが落ち着くなら何でもしてあげたいと思って。……でも、僕の体を見た瞬間、その人は突然眼が覚めたみたいな顔をして、僕から離れていったんだ。まるで怖がってるみたいだった。最初はわけが分からなかったよ。何の説明もなく、帰ってほしい、って云われて。それきり、その人は僕に会おうともしなくなって、連絡がとれなくなった。たぶん、失望したんだと思う」
「失望?何でそんなこと云うの?」
 佐伯さんは好きになったら性別なんか関係ない、きみはきれいだと云ってくれた。けれど、あの瞬間、佐伯さんは現実を見たのだろう。僕の体を見て、まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように、茫然とその場に立ち尽くしていた、あの佐伯さんの眼を僕は忘れられない。触れてはいけないものに危うく触るところだったというように、あの人は僕に背を向けた。
「意味が分からないよ、その人」
「でも、体だけ繋がったとしてもつらいこともあるんだって今、那智くんが教えてくれたから……だから」
 あそこで何も起きなくて良かったんじゃないかって、今は思える、そう云おうと思っていた。
「ごめん、でもそれでも、那智くんが羨ましいって思っちゃう。一度でも、体だけでも、繋がれて羨ましいなって。馬鹿だよね」
 僕の言葉に那智くんは、若干我に返った様子を見せた。
「ごめん……俺、無神経だった。急に自分のこと喋りすぎたし、渚くんにも立ち入りすぎたよね。どうかしてた」
「いいんだよ」
 僕は涙を拭ききって、残りのティッシュを那智くんに返した。
「那智くんにならどんどん立ち入ってほしいもん。僕のこと知りたいって云ってくれたのは嬉しかった。ただ、準備が必要なだけ」
 展覧会に向かう前、何故か那智くんは、
「やっぱりやめようか。ゆっくり夕飯でも食べて、早めに帰ろうか」
 と云い出した。ただ、映画が始まる前に展覧会は今日が最終日だということを聞いていたので、それなら行った方がいいと僕は勧めた。
 ホームで電車を待つあいだ、那智くんは、先ほど描いた絵を確認しながら、
「持ち帰って色をつけたら、渚くんに渡すからね」
 と云った。楽しみにしてる、と答えたとき、電車の到着を伝えるアナウンスが鳴りはじめた。