「英田くん、もうちょい右、右」

「ここですか……よいしょっと」

 脚立に乗った乃亜は、赤い提灯を鳥居の端に吊り下げた。今日は神社のお祭りの日だ。11月に入り、神社の敷地内はどこもかしこも紅葉で真っ赤に色づいている。

「終わった終わった。はぁー、お疲れさん」

 松尾さんは汗を拭きながら腰の辺りをさすった。乃亜たちは祭りのために提灯を飾る作業をしていた。百本以上の鳥居一本一本に提灯を取りつけたのだ。まだ日が出ているのでわからないが、夜になって灯りが灯れば、それはそれは幻想的な様子になるだろう。

「明日にはまた取り外しや思うと、毎年のことながらなんや切ないなぁ」

「一日だけっていうのが、風情がありますよね。日本のお祭りに参加してるって感じられて、僕、この作業好きです」

「ほんま真面目でええ子やな、英田くんは。煌ぼんとは大違いや」
 
 煌一の名前が出て、乃亜はどきりとする。宇治に行った日から、乃亜は煌一とあまり話せずにいた。挨拶はするし、学校で他のクラスメイトたちも交えて昼ごはんを食べることはあったけれど、ふたりきりで話す機会はなかった。

「そういえば煌ぼん、最近見てへんな。踊りの練習で忙しいんやろか」

 松尾さんが神社の本殿を見やりながら言う。今日の祭りの一大イベントのひとつが「狐踊り」だ。毎年1名、選ばれた若者が狐に扮して舞い踊るのだという。今年はなんと、煌一が選ばれている。神社の跡取り息子が踊ると聞いて、近所や学校内でもかなり話題になっていた。

「僕も最近、あんまり話してないです」

 踊りの練習で自分に構っている暇などなくなったのかもしれない、と乃亜は思った。乃亜がアルバイトのある日でも、煌一は練習があるのかすぐに帰ってしまう。でも、乃亜にとっても都合が良かった。彼女と仲睦ましげに話しているところを目撃してしまった傷はまだ癒えていない。忙しくても、あの人とは会っているんだろうか。

「煌ぼん、さみしがってるやろなぁ」

「え、そんなことないですよ」

 松尾さんの予想外の言葉に、乃亜はつい否定の言葉を口にした。

「煌ぼん、英田くんといる時えらい楽しそうやから」

 松尾さんは、工具を片付けながら話を続けた。

「やっぱりな、稲荷の息子さんゆうことでいつも気丈に振る舞ってはるんや。ちっさい頃からなぁ」

 乃亜は煌一を思い出した。自由気ままに見えるけれど、実は周りをよく見ている。笑いもくれるし、励ましの言葉もくれる。だからまるで妖術みたいに、人の心を掴むことができるのだ。

「それはわかる、気がします……」

「せやろ。英田くんといるときは、なんやロレックス? してはるわ」

「リラックス、ですか」

「あぁ、それそれ」

 京都の爺が飛ばす突然のボケに笑いながら、乃亜は脚立を担いだ。そろそろ日が暮れる。今日は一段と参拝客が多いだろう。社務所へ戻るべく、乃亜は松尾さんと歩き出した。



 日が暮れて、乃亜たちが取り付けた提灯たちがついに本領を発揮し始めた。提灯のあかりに照らされ、立ち並ぶ鳥居は煌々と燃えるトンネルのようだ。それをくぐって、大勢の参拝客がやってくる。

 乃亜は案内所に入って、主に英語対応をしていた。大きなバックパックを背負った参拝客にホテルへの帰り方を教え終わったところで、松尾さんがひょっこり顔を出した。

「もうすぐ始まるで、狐踊り。英田くん、見に行かんでええの」

「いや、僕は見られないと思います。お客さんがひっきりなしで」

 もちろん、見たい気持ちはあった。でも見たらきっと、もっと好きになってしまう。それに何より、自分の持ち場を離れるわけにはいかない。

「……狐の踊りな、煌ぼんはやりたないて、これまでずっと断ってはったんやで」

 松尾さんが急に声をひそめて話しだした。

「でも今年は自分からやる言わはったんや。なんでやと思う?」

「わかりません」

「英田くんに、自分以外の狐は見せたくないんやて」

 乃亜は驚いて松尾さんの方を見た。松尾さんはシワだらけの片方の目尻をくしゃっとした。どうやらウインクしているらしい。

 僕のために。

 それが恋愛感情ではなかったとしても、それでも嬉しい。乃亜は心を決めた。煌一の踊りを見て、この恋は終わりにしよう。これで見納めだ。

「松尾さん、ちょっとだけ変わってもらえませんか」

「ええで」

 松尾さんは待ってましたとばかりに案内所の中へ滑り込んできた。

「えっと、簡単な英語応対リストはここに……」

 説明しようとする乃亜を制止して、松尾さんはスマートフォンを高々と掲げた。

“簡単な英語応対リストは、ここに“

 流暢な英語の音声がスマートフォンから流れてくる。自動翻訳アプリだ。

「ハイテク松尾じいちゃんや!」

 ありがとうございます、と深々と礼をして、乃亜は社殿へと走り出した。