きっとみんな、本人すら気付かず、叫んでいる。
私を認めて。
私はここにいるよ。
「好きな物を好きって言うだけのことが難しいなんてね」
紗都が言うと、黎奈はさらにわーっと泣いた。
ひとしきり泣いた黎奈は、ぐすっと鼻をすすりながら紗都を見た。
「ごめん、泣いちゃって」
「いいよ、それくらい悲しかったんだよね」
黎奈は嗚咽をこらえながら頷く。
「初めて付き合った人で、舞い上がってた。着物のこと以外はいい人だった。だから着物は趣味として彼の前で着なきゃいいと思ってた」
「そんなにいい人だったんだ?」
「だから着物に関してそんなふうに言われるなんて思いもしなかった」
「彼氏は何歳なの?」
「二十二歳、同い年」
「まだ若いから周りの評価も気になる年齢なんだろうな」
「年をとれば周りの目なんて気にならない?」
「うーん、私はまだ気になるなあ。結局、日本人って周りの目を気にして生きるようになってるから、仕方ないかもね。だから外国より平和なのかもだし……」
周りの目が気になって、周りに合わせて、波を立てないように、お互いに気を遣って。
だからこそお互いが優しくなれるのだろうけど、ときどき息苦しくなる。真綿で首をしめるかのような、ゆったりとした閉塞感。そこから逃れたいと思うのはぜいたくなのだろうか。平和であることに感謝して、うずもれて沈んでいくしかないのだろうか。
気遣う優しさを否定したいわけじゃない。ただ自分として生きていきたいだけ。
「誰にも迷惑かけてないのに」
「そうだよねえ」
「着物は素敵だって思う気持ちはきっとみんな変わらないのに」
「実際、素敵だもんね」
「なのに身近な人が着ると変だと思うのが変。花火の日には浴衣は当たり前のように着るのに」
「逆に花火イコール浴衣みたいだよね。花火と夏祭り以外で着るとじろじろ見られちゃう」
「かわいくコーデしても文句言われる」
結局は型にはめられてしまう。
カテゴライズをするとその対象を知った気になって心のどこかで安心する。
型にはまりたくないと言いながら他人を型にはめて理解したような気になって。
「私、自分に自信がなかったの」
黎奈の言葉に紗都は驚いた。いつでも彼女は自信満々のように見えていたから。
「だけど、着物が私に自信をくれるの。本当の自分になれたようで、うきうきした」
「私と似てるかも」
「そうなの?」
「私も自信がなくて。自信がないのは今も同じだけど、違う自分になれたようで新鮮だった」
「新しい自分って、なんか嬉しいよね」
「うん……きっと何歳になっても。今までの自分を否定するわけじゃなくて、プラスされていく感じが嬉しい」
「そっか……プラスか。引き算しなくてもいいんだ」
黎奈は涙をぬぐい、にっこりと笑った。
「一度、着物で猫カフェ行きたいと思ってたの」
黎奈が言い、恋人の話は終わりなんだな、と紗都は思った。
「店員さんがびっくりしそう。今度一緒に行こ!」
「行く行く! 絶対に猫コーデする!」
「私も猫の帯があるからそうしよ」
それからはひとしきり着物の話で盛り上がり、時計を見た紗都は驚いた。もう十時を過ぎている。
「遅いし、泊ってく?」
「いいの?」
「うん。狭いうちだけど」
「ありがと。紗都さん大好き!」
「わわ!」
黎奈に抱き着かれ、紗都は一緒に勢いよく床に倒れ込んだ。
「ご、ごめん! 大丈夫?」
零奈は謝ってすぐに起き上がる。
「大丈夫」
いてて、とぶつけた肘を撫でながら紗都も起き上がる。
顔を合わせると、どちらからともなくくすくす笑いが漏れた。
十二月に入ると急にせわしくなる。
年末の休みを見据えていろいろな仕事を前倒ししないといけない。
焦った千与加のミスが増え、紗都がその都度フォローしていた。
忘年会はクリスマスの二日前の土曜日になったとお知らせがあった。その日しか予約がとれなかったらしい。名目上は自由参加だが、あとあとを考えると参加しないわけにはいかない。
「忘年会かあ」
思わずつぶやくと、隣の席の千与加が振り向いた。
「服装自由、だって。那賀野さん着物で来てくださいよ」
「さすがにそれは」
紗都が苦笑したときだった。
「那賀野さん、着物着れるの?」
通りがかった同僚の男性が言った。
その言葉にメガネの女性が反応して振り向く。
「いいじゃん、大和なでしこ、着物女子!」
「趣味でときどき着る程度なんですよ」
慌てて言い繕うが、
「忘年会、ぜひ着物で」
「着物姿見たーい!」
千与加の言葉にメガネの女性がのっかる。
「着物、そそるよなあ」
紗都は眉をひそめた。同僚の男性はきっとほめているのだろうけど、なんだか違う気がする。
彼は既婚で、根は良い人のようだがセクハラになるかどうかギリギリのラインのジョークをよく言うので少しモヤモヤする。妻子がいる自分ならセクハラにはならないと思っている気配があった。ちょっとモヤモヤを略して、内心でチョモヤさんと呼んでいた。
「やだー、すけべー!」
「言い方がセクハラ」
千与加がけらけら笑い、同僚の女性も笑う。
一緒に愛想笑いをしながら、笑うふたりをうらやましく眺める。最初から笑って流すことができればいいのに、うまくそういうことができない。千与加のほうが年下なのに自分よりよっぽど大人だ。
「ほめてるのに」
チョモヤさんは不服そうに言って、立ち去った。
「でもやっぱり着物っていいですよね」
千与加が興味深そうに言うので、紗都は目を輝かせた。着物仲間が身近に増えるのは嬉しい。
「挑戦してみる? きっと似合うよ」
「絶対に着ないです」
あんまりはっきり言うので、思わず紗都は笑う。
彼女はいつもはっきり意思表示をしてくれて、さっぱりしているから気持ちがいい。
仕事帰りにはなんとなく駅ビルのショップに寄ってみた。
クリスマスの装飾にどうしたって心は浮き立つし、色とりどりの服が並んでいるのを見るのは楽しい。
マネキンが着ているケープを見て紗都は足を止めた。
黒いベルベットのような生地で、首回りと裾にファーがついている。
最近、着物にケープを合わせている写真を見たばかりだ。
羽織だけでは寒いし、これなら洋服にも使えるし。
こうしてなんだかんだと言い訳して買うことが増えた。スカーフを帯揚げにできると聞くとスカーフを見に行くし、足袋ソックスを足袋としてはいてもいいと聞けば靴下ショップに見に行く。着物を着るようになってから、それまでにない行動力を発揮していて驚いてしまう。
最近は着物用の防寒着を探していたところだった。
着物用の防寒着なら道中着や道行がそれに該当するが、安くても二万から三万の値段になってしまうし、上を見たらきりがない。
このケープなら一万円くらい。黒ならたいていなんでも合うよね。
「いらっしゃいませ~。ご試着できますよ~」
びくっとして振り向くと、店員がにこにこしていた。
「お、お願いします」
紗都は思わず言っていた。
試着室に案内されるころには、手持ちはいくらだったかな、と考えていた。
『ケープ買っちゃった! 着物にも洋服にも合いそう!』
写真とともにアップすると、その日のうちに黎奈からいいねが来た。
続いて、スマホに彼女からメッセージが届く。
『オフでドレスコードが着物の忘年会やらない?』
『いいね! 年末の休みに入ってからでもいい?』
『もちろん! 日にちはまた教えてね』
『了解。忘年会と言えば、後輩から会社の忘年会に着物で来たらって言われちゃった』
『私なら着てく!』
黎奈ならどんな場面でも自信を持って着物を着ていそうだ。昔は自信がなかったなんて嘘みたいだ。
忘年会に着ていったら、また新しい扉を開くことができるのだろうか。
会社の人たちも着物には肯定的な様子だった。
忘年会は私服でOKだということだし。
と思って首をふる。
いくらなんでも着物はみんなびっくりしちゃうよね。
驚く姿を見てみたい誘惑が湧いてきて、それは紗都をとらえてなかなか離してくれなかった。
翌日、出勤した千与加は紗都を見るなり顔を輝かせた。
「那賀野さんの着物に合わせてコーデしようと思って、服買いました」
「え?」
「だから忘年会には着物で来てくださいね!」
「う、うん……」
目をきらきらさせている千与加の圧に勝てなかった。
だが同時にうきうきした気分が湧いてくる。
クリスマスが近いし、着るなら赤い着物……古典柄の花の着物に緑の帯かな。お太鼓に結ぶのは苦手だから半幅帯で。帯締めは……黄色にすると信号機みたいになっちゃう? 赤にするか、ベージュ、薄紫でもいいかも? かんざしは雪の結晶の!
考え始めると止まらなくて、そわそわしてしまった。
なにごともなく毎日の仕事をこなして、とうとう忘年会の当日となった。
千与加に念を押されたので、紗都は着物を着ていくことにした。
最初に足袋をはいた。くすんだピンクのベロアのお気に入りだ。あたたかい下着を着てからピンクの袖のついた襦袢を着て、着物を羽織った。紗都は補正をせずに着物を着る。補正がないから着崩れしやすいのかもしれないが、手間だからやっていない。
鏡を見ながら裾の位置を決めて着物を体に巻き付け、裾の位置がずれないように気を付けて腰ひもを結ぶ。
おはしょりを整えてから胸の下に腰ひもを結び、背中心を合わせてから両脇にひっぱって皺を伸ばし、伊達締めを締める。
いよいよ帯だ。
紗都は緑の帯を手に気合を入れる。今回はみやこ結びにすると決めていた。左右が非対称の結び方なので、好きなようにバランスをとれるところがいい。
手先の長さを決め、体のほうを回転させて腰に帯を巻く。ちょうちょ結びをしたらタレを広げ、どの位置までタレを作るか決める。それから腰ひもを包んだ帯揚げをかけてタレがリボンの上から垂れ下がるようにして仮結びをする。
タレを整えてから帯を右回りにぐるっと回し、適度な位置に持っていく。
帯上げの中の仮紐だけを先に結んで帯の中に隠したあと、帯揚げを見栄えよく結んで整える。
帯板をぐいっと帯の間に差し込み、鏡を見て最終チェックをする。
深緋の地の着物に菊の古典柄がかわいい。帯はボタニカルな柄の緑色。帯締めは黄緑にして、帯留めは雪の結晶を象ったブローチで代用。帯揚げはクリーム色だ。半襟はクリスマスツリーの絵柄のついた端切れを買ってきて手作りしたものをつけていた。かんざしは最初に決めたとおりに氷の結晶だ。
いつになくうまく着こなせた気がする。
よし、と声をだして自分に合格をあげて黒いケープを羽織った。
「なんで振り袖?」
「成人式は来月だよね?」
「でも振袖って萌える~」
ひそひそ話が聞こえてきたのは電車に乗ってからだった。
紗都がちらりと見ると、女子高生くらいの子が慌てて目をそらす。
あの子たちは着物がイコールで振り袖なんだ、とちょっと微笑ましい。そろそろ成人式の振り袖で頭を悩ませたりするのだろうか。
黎奈なら「振り袖じゃなくて袷だよ」と声をかけそうだ。袷は秋から春にかけて着るもので、今着ているのはその中でも小紋という種類のものなの。振り袖は第一礼装だから正装なんだけど、小紋は普段着の位置付けで……。
滔々としゃべるさまを想像すると、なんだかそれだけで笑えてくる。きっと彼女らは目を白黒させてドン引きするに違いない。
電車を降りて会場となっている居酒屋に到着すると、店員に会社名を告げる。
座敷に案内された紗都は、どきどきしながら声をかけた。
「お疲れ様です」
「え、那賀野さん、本当に着物で来たんだ!?」
メガネの同僚女性の声に紗都は顔をひきつらせた。
周囲の人の目が一斉に紗都を向く。
「普通、着物で来る?」
「気合入り過ぎ」
「そんな目立ちたがりだったの?」
笑いながらひそひそと交わされる会話に、紗都の顔からどんどん血の気が引いていく。