問題はいつ着るか、だ。
 着物で遊びに行く場所など思いつかない。歩きにくそうでお手洗いも大変そうだし、袖が邪魔そうだし、普段のバッグでは似合わないだろうし。
 だけど、着物を纏った高揚はずっと紗都の中に居座って、消えることはなかった。
 華やかだけど派手ではなく、地味で影が薄い自分の存在感が増す不思議。
 そわそわしてしまい、胸に収めていることができなくなってしまった。
『着物を試着したら欲しくなっちゃった。でも着ていく場所がない』
 顔をスタンプで隠して、試着の写真を一言投稿サイトに上げた。きっとこれがふたつ目の運命の分かれ目だった。
 友達がいいねを押して終わりだろうと思っていた。だからコメントがついたときには驚いた。
『似合ってますね! 着物は楽しいですよ!』
 コメントをつけた人——黎奈の投稿を見に行ったら、彼女の着物コーデが溢れていた。
 若い女性のようで、ちょっとしたおでかけにも着物を着ていた。
 アップされているコーデはどれもかわいい。水玉の帯やレース柄の帯は現代的だし、デニムの着物なんて初めて知った。襦袢ではなくTシャツに着物というコーデもあり、短めに着つけて裾から大胆にプリーツスカートを見せているときもあり、こんなカジュアルな着こなしができるんだ、と発見もあった。
 きらきらして見えるばかりで、着物への熱は上がる一方だ。
 遡って見てみると、着物を着るときの工夫や失敗談、豆知識もたくさん書かれていた。着物仲間との年代を超えたやりとりも楽しそうだ。
 三十歳になっても変わり映えのない自分。
 対して、年齢を問わず着物できらきらしている彼女たち。
 着物を着たら、自分の毎日も輝くだろうか。
 変えたい。変わりたい。
 その願いを、着物が叶えてくれるような気がしてしまう。
 結局、次の土曜日にお店に行き、前回の店員の見立て通りにピンクの着物に合わせて一式を買った。
 三万円近くを使ってしまったが、心は踊るばかりだ。帰ったらすぐに着物と帯を撮影して一言投稿サイトにアップする。
『着物買っちゃった! いつ着ようかな』
『かわいい! 素敵な着物ライフになりますように!』
 前回コメントをくれた人がまたコメントをくれて、嬉しくなってしまった。
 こっそりフォローすると翌日にはフォローを返され、「よろしく!」とメッセージが来ていた。慌てて自分もよろしくお願いします、と返す。
 それからは特に交流はなく、紗都は着物を着る機会もないまま時間だけが過ぎた。
 誘いは唐突だった。
『着物オフ会をします。一緒にいかがですか?』
 最初は断ろうかと思った。
 会ったこともない人たちの中に入っていく勇気はない。
 だけど、この機会を逃したらせっかく買った着物を着ないまま時間だけが過ぎていくように思える。
 自分は変わりたいと思って着物を買ったのに、断ったら変わらないままだ。
 悩みながら数日を過ごし、勇気を出して『行きます』と返事をした。
 黎奈と初めて会ったのは去年の十月、初の着物購入から一か月後のことだった。
 着物オフ会は多くの人の都合が合わずに黎奈とふたりで会うことになった。
 彼女に骨董市に誘われ、紗都はふたつ返事で了承した。

『骨董市なんて行ったことない。楽しみ!』
『きっと気にいるよ』
 黎奈の言葉に、期待は高まる一方だ。

 当日、ようやく着物でお出かけだ、とはりきった。
 練習はしていたが着付けは下手だった。どうしても全体がくしゃっとなるし、帯はいびつ。覚えていたはずのお太鼓結びは動画を見てもわかりづらく、なんども挑戦してようやく形になった。
 着崩れしませんようにと祈りながら電車に乗り、待ち合わせの駅で彼女を待った。

「おまたせー!」
 現れた黎奈も着物姿で、紗都は目を輝かせる。
「すごい素敵! ハロウィンコーデ!」

 黎奈は藤色のレース羽織を着ていて、萩の描かれた黒い着物にだいだい色の帯を巻き、紫色の帯締めと帯揚げを合わせていた。帯留めは陶器のかぼちゃで、ピアスもハロウィンモチーフ。クロシェの帽子が大正のモダンガールのようだ。

「ありがとう。コーデは洋服より得意かも」
 黎奈は若干の照れを見せながら言った。
「私、桜だなんて……季節感がまったくなくって」
「そんなこと言ってたら桜柄の食器とか使えないじゃん。茶道のお茶会じゃないし、好きなのを着たらいいんだよ」

「茶道だと違うの?」
「いろいろルールがあるけど、柄は一ヶ月くらい先取りするみたい。だから桜の季節には桜を着ちゃだめなんだって。それのせいで着るときは絶対に一ヶ月先取りって言う人もいるけど、普段は個人の自由だと思う」
「そんなルール、知らなかった」
 紗都はしげしげと自分の着物を見る。店員はなにも言ってなかった。

 だが、そんな説明を受けたら買わなかったかもしれないし、黎奈も先取りせずに十月にハロウィンコーデをしている。

「考えてもみてよ、桜柄の洋服着てる人を季節外れで変って思う? 桜が好きなんだな、って思うだけだよ。和柄の服だと桜はよくあるし」
「確かにそうかも」
 紗都がうなずくと、黎奈はまたにっこりと笑った。



 骨董市は駅の北側で開催されていた。
 大きな通りの左右にあるこれまた大きな歩道に露天がずらりと並び、たくさんの人が行き交っている。中には和服の女性もいた。

 テーブルに商品を並べているお店もあれば、地面に敷いたビニールシートに商品を並べているお店もある。
 仏像や彫像もあれば、アクセサリーや昭和レトロな雑貨を売っているお店もある。古めかしいお皿やグラスもあるし、江戸時代のような古道具を置いてある店もある。

 意外だったのは着物がたくさん売られていることだった。
「私、骨董市でも着物買うの。掘り出し物がたくさんあるよ」
「でも、たいてい正絹(しょうけん)で洗えないよね? 古着が洗えないのって嫌じゃない?」
 正絹は絹百パーセントの意味だ。絹は水につけると縮んだり変色したりする可能性がある。

「それが問題。クリーニングは高いし、日干ししてから着ることにしてる」
「日光消毒的な」
 紗都は思わず笑ってしまった。

「さて、どうやってまわろうか。希望はある?」
「初めてだからわからなくて」
「欲しいものとかは特にない?」
「ないよ」
 即答したが、本当は違う。黎奈のレースの羽織を見て、自分も欲しくなっていた。だが、初対面でそれを言うのが恥ずかしくて言えない。

 ふと背中に違和を感じて手を当てる。直後、ばらっと崩れる手触りがあった。
「嘘、どうしよう。動画を見ながらでないと結べないのに」
「直すよ。帯紐を一回ほどいてくれる?」
「わかった」
 紗都が帯紐をほどき、後ろに回った黎奈がささっと手を動かす。
「オッケー、帯紐を締め直して」
 紗都は帯紐を締め直した。

「ありがとう! すぐに直せるなんてすごいね」
「慣れたから。私も最初は人に直してもらったりしたよ。じゃあ順番に見ていこうか」
 黎奈に連れられて、近いところから見ていった。
 着物のお店に立ち寄ると、黎奈は真剣に商品を見ていく。

 紗都も見てみたが、万単位の値段でがっかりした。新品だったら何十万、もしかしたら百万円以上したかもしれない着物が数万円で買えるなら安いのだろうが、掘り出し物があるというから、もっと安く買えるのかと思ってしまっていた。
 とはいえ、豪華絢爛な刺繍の帯や優雅な柄の着物など、見ているだけでも楽しい。

 隣の店ではとんぼ玉が五百円から売られていて、紗都の足はついついそちらに向かった。
 大小も色も様々、透明なものも不透明なものもあり、陽の光を受けて燦然と輝いている。

 かんざし用の軸も七百円で売られていて、その先端にはめれば好きなとんぼ玉を使ったかんざしになる。とんぼ玉は付け替えが可能だった。
「なにこれお得」

 展示ケースにはつまようじが添えられていて、とんぼ玉の穴に差してすくい取れるようになっていた。
 紗都は緑のとんぼ玉をすくってみる。白い花がついていて、今日の着物に合う気がした。

「いいじゃん、それ」
 いつの間にか隣に黎奈がいて、覗き込んでいた。
「かわいいよね。軸は金と銀、どっちがいいかな」
「金は華やか、銀だと爽やかになるかな? いっそ両方買う?」

「両方かあ」
「かんざしなら洋服でも使えるんじゃない?」

「すごい誘惑……でもそんなに使わないかも」
 迷った挙げ句、銀の軸と緑のとんぼ玉を買った。

「買っちゃった!」
 小さな紙袋を手に、紗都はどきどきと呟く。
「骨董市はねえ、お金がいくらあっても足りないよ」
 黎奈はにっこりと笑う。

 さらにあちこち見て回り、繊細なガラスの香水瓶にため息をもらし、用途不明な道具に首をひねった。

 着物の店には必ず立ち寄った。新品が新品の値段で混じっていることもあったし、しみだらけの着物が百円で売られていることもあった。そういうものは手芸を趣味とする人が小物を作るためにしみのない部分を目的に買っていくらしい。

「いいのあった?」
 店をまわりながら黎奈に聞かれ、紗都は頷く。
「でもお値段が初心者には厳しいかも」
「値段ならね、あの店がすごいよ。ビニール袋が千円で、その袋に着物つめ放題!」
「ええ!?」

「閉会間際になると五百円になるのよ。それまで待つといい物がなくなるかもしれないし、いつ参戦するか迷うのよね」
 言われた店にはビニール袋を手に持ったおばさま方が群がっている。たくさんの段ボールが並べられ、着物が乱雑にあふれていた。

「あとにしよっか。お店はまだあるし」
 黎奈に連れられた次のお店もまた着物がたくさんあったが、それなりにお値段するよね、と思いながら眺める。

 と、しつけ糸で固定されているらしき布の塊を見つけた。どうやら帯のようだ。ピンクがかった落ち着いた朱色が素敵だ。
「いい色ね」
「でもどうしてこんな状態なんだろ」
「新古品かクリーニングから戻ってそのままか、どっちかだと思う」
「そうなんだ」
 新古品なら高そうだな、と値段を見て驚いた。二千円だった。

「嘘、安い、どうしよう」
「骨董市は一期一会だよ〜」
 誘惑するように黎奈が言う。にやにや笑う姿はハロウィンのかぼちゃのようだ。
 シンプルで、この色なら今の着物にも合いそうだった。

 しかし、おそらくはたまにしか着ないのに買ってもいいだろうか。
 悩んだものの、結局は物欲が勝った。
「また買っちゃった……!」
 朱色の帯が入った袋を手に、紗都はときめきに満たされていた。

「いい出会いができてよかったね!」
「うん」
 この帯を締めてどこへ行こう。頭はすぐに次の予定を探し始める。

 次のお店では着物が山のように積まれていて、掘るようにして漁る。
 紗都は洗える着物がほしいから内側にタグを探すのだが、タグではなく名前の札がついていることがあった。この人はこの着物でどんな時間を過ごしたのだろうか、考えるだけで楽しくなってしまう。

「あ、これ素敵」
 辛子色に白い大きな花が描かれた着物を手に、紗都は言った。
「いいね。素材はシルックかな」
 シルックは絹に似せたポリエステルの生地で普通のポリエステルよりも高額だ。ポリエステルだから自宅で洗うことができる。
「見ただけでわかるの?」
「だいたいね。慣れよ、慣れ」
 黎奈はなんでもないことのように言う。

「……これも買っちゃお! さっきの帯に合うよね?」
「絶対に合うと思う」
「着物、増える一方になりそう」
「その通りだよ!」
 辻が花の紺色の着物を手に、黎奈は笑った。



 十六時の閉会まで骨董市に居座ったふたりは、駅前の喫茶店に入って休憩した。
 黎奈は詰め放題のお店でビニール袋いっぱいに着物を買っていた。

「着物ってけっこう重いね」
「着てると平気なのにね」

 答えて、黎奈はケーキを頬張る。和栗とチョコレートのケーキだ。ラム酒を使ったチョコレートスポンジに栗の粒の入ったチョコレートのクリーム、天辺にもチョコのクリームがたっぷり塗られて合計六層になった背の高いケーキだ。グラッセされたマロンに金粉が輝き、シンプルであるがゆえに凛としたたたずまいを見せていた。

「おいしい! 疲れたから甘いものが沁みる」

 紗都もタルトをフォークで斬って口に運んだ。
 タルトの香ばしさがふわりと広がる。バターとアーモンドクリームの風味にとろりとした洋ナシの触感と甘さがたまらない。