かくりよの入り口はあやかしと政府内の一部の人間しか知らない。山の中や池の中にあるなんて噂もあれば、人間には見えないなんて噂する者もいる。
 大衆の長年の疑問が目の前にあった。
 あやかしの入り口は、都内にある神社の鳥居らしい。目の前に聳える鳥居はどこにでもある形と色で、別段特別な感じはしない。
「人間が入ってこないよう、かくりよにはあやかしの許可がないと入れないようか妖術がかかっている。普通に見えているのも妖術のおかげだ」
「昔からあったんですか?」
「いや、ここ最近だな。百年くらい前か」
 伊織からしたら百年前は最近らしい。
「さて。じゃあ行こうか」
 伊織と手を繋ぎ、鳥居を潜った。
 その途端、ふっと空気が変わった。同時目の前の景色も様変わりする。鳥居から出た先は、かくりよの町中だった。
 高い建物が多い現世とは違い、かくりよの建物は基本的に背が低く、風情がある。現世の京都のような佇まいなのは、昔も今も変わっていない。しかし、明らかに昔に比べて発展している。
 着物を着ているあやかしも多いが、中には現世の洋服を着ている者もいて、文化が混じりあっているのが人目でわかる。
「変わりましたね、かくりよ」
「変わらないところもあるけどな。こっちだよ、行こう」
 伊織と町を抜ける。一度だけ過去に伊織と共に歩いた記憶が蘇った。
「懐かしいな」
 伊織も同じように思い出していたらしく、ぽつりと呟いた。
「そうですね。そう言えば、あの時って何か目的があって出かけたんです?」
 琉歌の記憶では、伊織に誘われ町へ出たが、結局入った店で襲われかけて帰るはめになったのだ。
 伊織は少し躊躇った後に言った。
「目的があったわけじゃない。ただ、琉歌と出掛けたかっただけだ」
 この時になって漸く、あれがデートだったのに気が付いた。客観的に見れば婚約者との外出はデートに決まっているのに今まで気が付けなかったのは、恋愛経験の少なさが問題だろう。現世で恋愛ドラマを視聴したおかげか、微かにだが知識を得た琉歌は昔よりも察しが良くなっている。
 だから伊織の目が甘いのにも気が付けた。
 もしかしたら、ずっとこんな目で見られていたのだろうか。
「本当に私のこと好きなんだ……」
 ついぽろりと言葉が零れた。
 伊織の目が見開かれた瞬間、自分の発言が間違った捉え方をされる可能性に気が付いて慌てて声を上げた。
「違うんです。疑っているわけじゃなくて、再確認しただけなんです」
 必死で告げると伊織はふっと口角を上げた。
「それならいい。俺に愛されているって自覚してくれ」
 伊織の笑みと言葉に顔に熱が集まる。
 琉歌の背後にいて伊織の笑みを見たらしい女性から「きゃっ」と黄色い悲鳴が上がった。それくらい伊織の笑みには絶大な破壊力があった。
「善処します」
 赤くなった顔を隠すために俯きがちになりながら町を歩いた。

 到着したのは、伊織と共に生活したあの家だった。
「変わってないですね」
 家の外観どころか、周りの景色も殆ど変わっていない。まるでそこだけ時間を止めてしまったみたいだ。
「変わりたくなかったんだ」
 伊織の言葉は切なく響いた。その声色で変化がないのは意図したものだと分かった。
 家の内装も全く変わっていなかった。
 懐かしい光景にきょろりと辺りを見渡していた時、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
「伊織様、お帰りなさいませ」
 向こうからやって来たのは見たことのない女性の使用人だった。
 使用人の入れ替えはあったらしい。
 女性は伊織から琉歌へ視線を向け、一瞬動きを止めた。主がいきなり知らない女を連れて帰ってきたら混乱するだろうが、使用人の女性は動揺を押し殺して何も聞かなかった。
「天馬は、どこだ?」
「いつものところに」
 その会話だけで全て理解したらしい伊織が家の中をずんずんと進んでいく。琉歌はそれについて行く。
「いつものところって」
「行けばわかる」
 伊織の言う通り、天馬がどこにいるのかすぐにわかった。
 そこは、琉歌はここで生活している時に使っていた部屋だった。
「天馬の部屋は他にあるけど、ずっとここで過ごしている」
 伊織がそう言いながら扉を開けると、部屋の中でぼんやりと庭を見ている小さな背中が目に入る。黒い髪の男の子だ。あれが天馬なのだろう。天狗になったのならもう烏の姿じゃないのは、わかっていたはずなのに部屋にいたのが烏じゃなく、羽の生えた男の子だったことに驚いた。
「天馬」と伊織が名前を呼んだところ、振り返らずに「なに」と冷たい声が返って来た。
 天馬の声だ。その声を聞いた途端、懐かしさで目頭が熱くなる。
「天馬」
 震える声で友人の名前を呼んだ。
 はっとしたように天馬が振り返る。黒目がちな大きな目が見開かれ、驚愕の表情を浮かべた。
「は、なに、なんで」
 座り込んでいた天馬は立ち上がり、後退する。
 昔から天馬は頭の回転が速く、冷静に物事を判断し、すぐに思考を切り替えられた。今も驚きで満ちていたのにすぐに怒りに表情が変わった。
「偽物だ。そういう妖術あっただろうが。何で騙されてんだ」
 威勢のいい声なのに震えている。
「琉歌になりきって伊織に取り入ろうなんて考えてんなら無理だぞ。俺が許さない。俺は絶対に認めない」
「うん」
 天馬の必死な言葉に涙が零れた。
 一度流すと次から次へととめどなく涙が溢れてくる。琉歌はその場に膝をついて天馬と目線を合わせ、言葉を詰まらせながら言った。
「天馬、ごめん。帰るって言ったのに、帰れなくて。待っててくれたのに、ごめんなさい」
 潤んだ視界では天馬の表情はよく見えない。涙を止めようと何度も拭ったが、溢れて止まってくれなかった。
 号泣する琉歌の方に伊織の手が乗る。
「俺が間違えるわけがない。信じろ」
 伊織の言葉が部屋に響き、琉歌が漏らす嗚咽の合間に天馬が小さな声で言った。
「琉歌なの?」
「そうだ」
 答えられない琉歌の代わりに伊織が答える。
「でも、死んだのに」
「生まれ変わったんだ。魂は巡るって話をしただろう」
「スピリチュアルは信じてないんだよ、俺は」
 ふたりのやり取りを聞いているうちに落ち着いてきたので、涙を拭って顔を上げる。天馬は目いっぱいに涙をためて琉歌を見ていた。
「本当に琉歌?」
「うん」
「俺の好きな食べ物と嫌いな食べ物はなに?」
 疑い深い天馬に苦笑を零しながら答える。
「好きなものは肉で、嫌いな食べ物はないって言っていたけど、本当は茄子が嫌いだった。何聞かれてもいいよ。答えられるから」
「……もういい。信じる。信じるよ」
 涙声で告げた天馬は、くしゃりと顔を歪めた後、琉歌の目に膝をついた。
「おかえり、琉歌。ずっと待ってた」
 伊織だけでなく、天馬も待っていてくれたのだ。
「待っていてくれて、ありがとう」
 小さな友人に手を伸ばし、抱きしめる。形は変わってしまったのに匂いも温度も全く同じで、止まったはずの涙が再びあふれ出した。

 一旦落ち着くために食卓へ移動し、飲み物を飲みながら話すことになった。
「それにしても琉歌が人間になっているなんて驚いたわ」
「いや、それはこっちも同じ気持ちだよ。まさか天馬が天狗になっているなんて予想できなかった。もう会えないって思っていたから会えてうれしい」
 率直な気持ちを伝えた所、照れた天馬がそっぽを向き、話を逸らす。
「それで、これから伊織と結婚すんの?」
 自分で作ったカフェオレを飲みながら天馬が言う。
「いや……」
「は? お前、伊織のこと好きなくせになんで渋ってんだよ。さっさと籍入れちまえ」
 昔の天馬は全面的に琉歌の味方をしてくれていたのだが、今では伊織と過ごした期間の方が圧倒的に長いので、彼の味方らしい。
「好きなのか? 俺のこと」
 琉歌の隣に座っている伊織が顔を覗き込みながら聞いてきたので、目線を合わせないようにそっと逸らす。
「天馬、ちょっと待って」
「結婚すんの嫌ってわけじゃないんだろ? こいつ以上にいい男早々いないだろうが。今度こそ琉歌を幸せにすると思うぞ」
「そうなんだけど、まだ心の整理がついてなくて……」
 天馬が顔を歪めた。
「じゃあ、今すぐつけろよ。ていうか、話聞く限りもう帰る場所ないんだろ? 伊織と籍入れた方が絶対にいいって。かくりよなら結婚に年齢制限ないからすぐできるぞ」
「それは、わかっているんだけど」
 心の整理がつかないのだ。優柔不断だという自覚はあるし、伊織に対して特別な感情を抱いている自覚もある。しかし、感情に名前を付けるに至っていないし、それに未だにどこか夢うつつで現実味がない。
 それをどうにか説明しようと言葉を選ぶ琉歌に天馬から追撃があった。
「でも、結婚でもしない限り琉歌こっちにいられないだろ」
「え?」
「かくりよに人間が滞在するにはそれ相応の理由がいるんだよ。俺に会いに来ただけなら滞在できるのは、一週間程度だろ。結婚とか仕事の都合じゃないと長いができないって知らなかった?」
 そんな話は初耳だった。
 天馬が知っていて伊織が知らないわけがないので、かくりよに来た時点で琉歌の道は決まっていたらしい。
「もしかして、私に選択肢ない?」
「あるけど、伊織と結婚するのが一番おすすめ。結婚してから心の整理ってやつをすればいいんじゃない?」
 他人事だとばかりに言い放つ天馬を恨みがましく思う一方で、どこか安心していた。心の整理がつかないから、と言い訳をしていつまでも踏み出す勇気が出なかっただろうから、伊織の強引さは有難い。
 それは、それとして。
「ちゃんと説明してほしかったです」
 文句を言うと伊織は苦笑を零した。
「悪い。俺も余裕がないんだ。どんな手を使っても一緒にいたかった」
 直球な言葉が返ってきて、言葉に詰まる。
 どうやら伊織と再会した時点でこうなる運命だったようだ。

 善は急げとばかりに伊織に引っ張られながらやって来たのは、町の中心部にある大きめの建物だ。現世の図書館のような見た目をしているが、市役所のようなところらしい。
 天馬の言う通り、人間がかくりよに居続けるには明確な滞在理由が必要らしい。前世であやかしの結婚には明確な手続きは存在していなかったが、現在ではかくりよを管理している機関に婚姻届けのような書類を提出しなければいけないようだ。
 鬼だけが全てを統治していた頃から随分様変わりしている。
 書類はシンプルなもので、署名と血判を押すだけで終わった。
「はい。受理しますね。結婚おめでとうございます」
 受付に書類を提出し、役員の拍手で見送られ、呆気なくふたりの婚姻は成立した。
「ご両親に挨拶もしてないのに……」
 書類を提出する前にご両親に挨拶をすべきだ、と提案したのだが伊織は「前世で挨拶しただろ」と言って聞かなかった。それはそうなのだが、千年越しなのだからもう一度顔を合わせるべきだろうと思ったが、千年以上生きている伊織と琉歌とでは時間の感覚に齟齬があるので、強くは言わなかった。
「一応、太陽には言ってあるから両親にも伝わるだろう」
「そういえば、太陽さんこっちに来た時からいませんね」
 一緒かくりよに来たはずだが、いつの間にかいなくなっていた。
「あいつは結婚の報告に駆けずりまわっている」
「ていうことは、やっぱりこっちに来た時点で私の結婚は決まっていたんですね」
 伊織がほほ笑んだ。笑顔で誤魔化そうとしているらしい。
「正直、こっちに連れてきさえすればこっちのものだとは思っていた。騙されやすくて心配になるな。もっと警戒してくれ」
「警戒心は強い方ですよ。緩んだのは、伊織様だからで」
 琉歌を騙した所で伊織になんの得もないだろうから騙したりしないと思っていた、という意味で言ったのだが、伊織は嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「信頼しているから?」
 そんな良い理由ではないのだが、伊織を信頼している点は強ち間違っていない。
「そうとも言います」
 首肯し、役所の敷地内から出た所、誰かが騒いでいる声が聞こえてきた。
「だから、なんでもっと早く言ってくれなかったの! 婚姻届けを出す前に言うべきでしょうが」
「一番早く言いに行ったよ。間に合わなかったのは、ごめん」
「もう手遅れなんだから、ごめんじゃ済まされないわよ!」
 男女の声が辺りにきゃんきゃんと響いている。痴話喧嘩だろうか。
「現世でも婚姻届け出し行く時に喧嘩して別れた話を聞きましたけど、かくりよでもあるんですね」
 ふたりの声はどこか聞き覚えがある気がしたが、あやかしの知り合いなど殆どいないので気のせいだろう、と思い直した。痴話喧嘩が起こっているのは、道の真ん中らしい。琉歌達の進行方向でもあるので傍を通るのは気まずい。
「別の道を通るか?」
「そうですね」
 伊織の提案に乗り、反対方向へ行こうとした、その時。
「あー! やっと出てきた! ちょっと、待ちなさいよ」
 背後から喧嘩していた女性が叫んだ。喧嘩中なのだから相手の男性に言ったのだろうと思いつつ、琉歌達に話しかけているみたいなタイミングだったので反射的に振り返った。
 すると、そこには見知った女性が立っていた。
「美晴さん?」
「そうよ!」
 美晴はふんっと高飛車気に鼻を鳴らした。久しぶりに会うというのに綺麗な容姿も自信ありげな様子もちっとも変っていない。
 美晴の背後に立っている太陽が申し訳なさそうに頭を下げた。どうやら喧嘩をしていたのは太陽と美晴だったらしい。
「お久しぶりです」
「そんな呑気に挨拶してんじゃないわよ。何なのよ、あんた!」
 がうっと噛みつくように美晴が叫ぶ。
 この反応は天馬の時と似ている。すんなり受け入れた伊織がやはり異質なのだろう。
「生まれ変わりなんてふざけた話、信じられると思うの? 嘘に決まってる。絶対に偽物。それなのに伊織と結婚するなんてありえない。伊織も伊織よ、どうしてこんな女に騙されるわけ? 容姿を似せる妖術に決まっているんだから!」
「もうそのくだりは、天馬でやったぞ」
 伊織が冷静に言った。
「伊織は黙っててよ! 天馬も騙されてんの! 絶対にそう」
 ぐいぐい、両頬を引っ張られ痛みがはしる。特殊メイクを見破ろうとしているような触り方だ。
「いた、いたいです、ちょっと、美晴さん、落ち着いて」
「美晴、やめろ」
 とん、と伊織の手刀が美晴の頭に落ちた。
「痛いっ! ひどい、伊織の馬鹿、おたんこなす……私は、認めないんだから!」
 美晴は叫びながら去って行った。
 凡そ、琉歌が生まれ変わっていると聞きつけて結婚を止めに来たのだろうと、聞こえてきた太陽と美晴の喧嘩の内容で察する。
「美晴さん、変わっていませんね」
 容姿もそうだが、雰囲気も千年前のままだ。まるで前世がついこの間の出来事であるような錯覚を覚える。
「あいつも変えられなかったんだろう」
「え?」
 伊織はそれ以降は美晴について何も言わなかった。
 変えられなかったとは、一体どういう意味なのか、何故変えられなかったのか、琉歌にはわからなかった。

 役所から真っすぐ帰宅すると、伊織の両親が客間で待っていた。
「お久しぶり、琉歌さん」
 朗らかな様子の鬼の当主に声をかけられた瞬間、膝をついて頭を下げた。
「この度は、挨拶に伺わず誠にすみませんでした」
「いい、いい。もう千年前に挨拶は済ませているしね」
 ふふ、と鷹揚に笑う様は貫禄がある。よく見ると昔よりも老けたかもしれない。
「琉歌さん……?」
 当主の隣に座る女性がぽつりと零れるように琉歌の名前を呼んだ。その女性――伊織の母親である純恋は前よりもずっと顔が青白く、どこか生気が抜けていた。よろよろと琉歌の方へ近寄って来ると恐る恐るといった風に手を伸ばしてくる。
 頬に触れた手は氷のように冷たい。
 その手は、琉歌に触れると熱いものに触ってしまった時のようにぱっと離れた。
「あの、大丈夫ですか?」
 あまりにも顔色が悪い。何か病気を疑い顔を覗き込んだ途端、純恋の目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「え」
 涙が頬を濡らすのに純恋は一切拭いもせずに琉歌を見据え、震える声で言った。
「ごめんなさい。私のせいで」
 それから彼女の口からは何度も謝罪が飛び出した。震えるその背中を当主が撫でさする。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」
 それしか言葉を知らないかのように何度も繰り返され、琉歌はどうしていいのか分からなくなり、隣にいる伊織に助けを求めた。
「ちょっと場所を変えよう。説明する」
 伊織に連れられ、琉歌の部屋へと向かった。
 部屋の中で寝ている天馬を起こさないように縁側に通じている襖を開け、縁側並んで座る。ここから見える景色も変わっていない。
 涼しい風が頬を撫でる感触に、純恋の涙を思い出した。
「母さんは、琉歌を実家に帰したのをずっと後悔していた。自分が帰さなければ琉歌は死ななかったと自分を責めているらしい」
「そんな……」
 憔悴していた純恋の姿は痛々しかった。千年たってもずっと自責の念に駆られていたのだろうか。
「あんたのせいじゃないって言ってやれよ。いっつも元気なくせにたまにめちゃくちゃ情緒不安定になるんだよ、あのおばさん」
 いつから起きていたのか、天馬が欠伸交じりに言いながら琉歌の隣に座った。
「おばさんなんて言わないの」
 天馬を窘め、立ち上がる。
 伊織に着いて来てもらい、一緒に客間へ戻ると涙に濡れた謝罪を止まっていた。
 純恋は当主に支えられながら座り、俯いている。細く、綺麗な女性だ。前世の溌溂と印象はない。
 鬼の恋は生涯のものだと太陽が言っていた。それが鬼の共通認識ならば、自分のせいで息子の番を死なせてしまった罪を抱えて生きるのは、あまりにも辛い。崩れ落ちなかったのは当主がいたからだろう。
 琉歌は、そっと純恋の前に膝をついた。
「あの」と声をかけただけで、純恋の方がびくりと跳ねた。
「私が死んだのは、貴方のせいじゃないです。実家に帰る選択をしたのは、私なので、責められるのは私ですよ」
 純恋の手が震えている。
 琉歌の言葉が聞こえているのか、どうかは分からなかったが、続けるしかない。
「伊織様をひとりにして、ごめんなさい」
 頭を下げ、視界に入った純恋の手を無理やり握った。酷く冷たい手を温めるようにぎゅっと握りしめ、生きていると訴えかける。
「二度とひとりにしないと誓います。だから、どうか責めないでください」
「琉歌さん、琉歌さん、ごめんね、ごめんなさい」
 純恋ががたがた震えだし、言葉選びも行動も失敗したかと身を固めた。
 しかし、次に聞こえてきたのは、柔らかい言葉だ。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
 顔を上げると純恋が泣きながら笑っていた。憑き物が落ちた様子に安堵の息を吐いた。

 人間のように婚姻届けを出すだけで、結婚自体は成立するのだが、ほとんどのあやかしは今でも昔と同じように婚儀の宴会を開くらしい。昔のような格式ばったものではなく、飲んだり食ったりと大騒ぎするだけのただの楽しい会になっているらしい。
 それを開こうと言ったのは、伊織の叔父である総一郎だ。
 彼は、琉歌が生きていると聞きつけて、純恋が落ち着いてすぐに家へやって来た。
 息を切らして駆けて来てくれた総一郎は、琉歌の顔を見るなり目いっぱいに涙を溜め、良かった良かったと声を震わせた。数回しか会っていないが、愛情深いあやかしらしく、琉歌がいなくてご飯が食べられない時期もあったようだ。
 総一郎に伊織と結婚したことを伝えた所、一瞬目を大きく見開き驚きを露にした。
「早いね」と言われ、苦笑が零れる。再会して一日も立たずに籍を入れたのだから、そういわれるのは当然だ。
 宴会の話はその後すぐに出た。籍を入れたのならした方がいいと言われ、それに伊織の両親も乗った。
「じゃあ、早速準備しよう」と張り切る多少顔色の良くなった純恋と当主、それから総一郎を見送り、騒がしかった家が一気に静かになった。
「はあ」
 力が抜けて、玄関に崩れ落ちそうになったところを伊織に支えられた。
「大丈夫か? もう休んだ方がいい」
 かくりよに来てからずっと休んでいなかったので、もう体は限界だ。外もすっかり暗くなってしまっている。
 食事と風呂を済ませ、自室へ戻ると何故か天馬と伊織がいた。しかも、何故か布団が二組並んで敷かれている。
「ここで寝る」
 天馬が片方の布団に入ろうとしたのを伊織が首根っこを掴んで制し、ぽいっと投げる。上手く着地した天馬が伊織に嚙みついた。
「何すんだ!」
「お前は自室へ戻れ。ここは今日から俺たちの寝室にする」
「はあ? 伊織こそ自分の部屋戻れよ。琉歌が緊張して眠れないだろうが」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐふたりを他所に琉歌はもう開いている方の布団に入った。
 もう眠気が限界だった。ふたりには悪いが、休ませてほしい。
「琉歌、騒がしくして悪い」
 伊織が声のトーンを落として言う。それに目を閉じながら首を振る。
「元気で、楽しそうで良かった」
 意識がどんどん暗くなっていき、自分が何を言っているのかすら分からなくなっていく。現実なのか、夢なのか曖昧になっているの聴覚だけが異様に過敏になった。
「琉歌、好きだ、愛してる」
 伊織の声で吐きだれた愛の言葉は、苦しみで歪んでいるみたいだった。
 どうしてそんな辛そうに言うのだろうか。問いたいのにもう口は動かなかった。

 夢を見た。
 幸せな夢だった。
 皆に祝福されながら伊織と愛を誓い合った。伊織は琉歌と目が合うととろりと蕩けるような笑みを浮かべた。
 幸せだった。
「これ、飲んで」と誰かが言った。
 目の前に差し出されたのは、グラスに入った水だ。誰から受け取ったのかわからないが、結婚するにはこれが必要なのだろう。琉歌は、グラスを呷り、飲み干した。
 途端、きんと耳がおかしくなった。体がおかしくなった。
 この感覚は知っている。
 幸せが崩れ落ちる感覚だった。
 
「琉歌!」と鋭い声で名前を呼ばれ、肩を許られて目が覚めた。目を開けた途端入り込んで来たのが伊織の綺麗な顔面だったため琉歌は「ひっ」と声を漏らした。
 どうして、ここに伊織がいるんだと一瞬混乱したが、すぐにここがかくりよにある伊織の家なのだと思い出した。
「魘されていたが、嫌な夢でも見ていたのか?」
 頬を撫でられて漸く自分が泣いているのに気が付いた。
 「夢、見ていた気がしますけど、忘れました」
 泣くほどつらい夢だったのかもしれないが、全く思い出せない。
「それならいいが、何か変わったことがあったら教えてくれ」
 変わったことなら目の前にある。
「伊織様……近いです」
 伊織は琉歌のすぐ後ろに寝そべっていた。伊織の布団だってあるのに、はみ出している。
 泣いている琉歌を心配して来てくれたのかもしれないが、心臓に悪いので離れて欲しい。琉歌が身を捩るとすぐに距離を開けてくれた。
「というか、本当にここで寝たんですね」
「ああ、朝起きてすぐに琉歌の顔が見たかったからな」
「そうですか……」
 幸せそうな笑みを向けられ、ひとりで寝たいなど言えなくなってしまった。
 話を逸らそうと部屋を見渡し、天馬がどこにもいないことに気がつく。
「天馬は?」
「自室に帰った。今日くらいは譲ってやる、とかなんとか言っていたから、今日の夜も来そうだな」
 伊織がため息交じりに言う。呆れてはいるが、本気で嫌がっているようには見えない。
「仲いいですね、天馬と」
「悪くはない。好意の形は違えど、好きな人が同じだからな、気が合うんだろう」
 さらりと告げられ、言葉に詰まる。
 息を吐くように口説くのはやめてほしいと思いつつ、好きだと告げられる度に喜びを感じる。心の整理がつかないと言いつつ、もう既に答えは出ている気がした。
 甘く緩やかな空気がふたりの間に流れ始めた時、空気を引き裂くように扉が開かれた。
「おい、そろそろ、起きろー」
 ノックもなしに扉を開け放ったのは、天馬である。部屋を追い出されたのが余程むかついたのか、朝から不機嫌だ。
「おはよう、天馬」
「ん、おはよう。目覚めてんならさっさと起きて来いよ、いちゃついてないで」
 そう言いながら天馬が伊織を睨む。
 天馬に急かされ、三人で部屋を出て朝食が用意してある部屋に向かう。
 昨日と同じく伊織と琉歌が並び、琉歌の向かいに天馬が腰を下ろした。
 話題は、昨日決定した宴会についてだ。
「宴会って、どこで何すんの?」
 天馬が焼鮭を解しながら問う。
「まだ何も決まっていないが、ここか、鬼の本家だろうな。内容は飲み食いするだけだ」
「へえ。それってする意味ある? 結婚って名目で飲み会開きたいだけじゃないの?」
 食べるのが好きな天馬のことだから、てっきりはしゃぐと思っていたのに、予想に反して嫌そうな反応をした。
「嫌なの? 美味しいもの食べられるのに」
「面倒だからやだ。美味しいものならいつでも食べられるだろ。わざわざ宴会なんて開かなくていい」
 天馬の言う通りここの料理はどれも美味しい。しかし、宴会で作られる料理となるといつもとは違った料理が出るはずだ。昔の天馬ならば食いついたはずなのにどうしたのだろう、と首を捻る琉歌を天馬は半眼で睨みつけるように見た。
「今、昔の俺と比べただろ」
 図星だったので頷く。天馬はため息を吐き、不貞腐れたような顔をした。
「いいけどさ、俺だって成長したの。昔のままじゃないんだよ」
 この家や再会した皆があまりにも変わらなかったので、千年たっているのを忘れそうになっていた。変わらないものもあれば、変わるものもある。それは当然だ。
「もう食いしん坊から脱却したんだね」
「別に昔からそんなに食い意地は張ってなかったよ!」
 天馬はわっと声を上げた後、すぐにはっとした様子で居住まいを正し、こほんと咳ばらいをした。
「そんなわけだから宴会はなし」
「いや、そんなわけにはいかないよ。皆楽しみにしているみたいなのに。伊織の両親は張り切っているし」
「いいから!」
 天馬の反対具合はなんだか過剰だった。
 嫌がるのに理由があるように思えて、内情を探るようにすっと目を細めて天馬の表情を窺う。
「宴会に何か嫌な記憶でもあるの?」
 天馬の動きがぴたりと止まった。
 天馬は唇を噛みしめ、顔に力を入れた。澄ましていた表情はみるみる内に崩れ、じわりと涙が浮かぶ。
「え、ど、どうし」
 慌てて駆け寄ろうとした琉歌を伊織が止める。
「琉歌、わからないか?」
「え?」
 静かに声で問われても一体何故天馬が泣いているのかわからない。
 おろおろするしかできない琉歌を諭すような口調で伊織が言う。
「ここで宴会が開かれた日に琉歌が死んだから、思い出すんだろう」
「あ……」
 言われて初めて気が付いた。琉歌は宴会に出ていないのでぴんと来ていなかったが、天馬からすれば前世の時と同じ状況なのだ。
 天馬が不安になるはずだ。そのことに少しも気付かなかった自分の鈍感さに嫌気がさした。
 琉歌は天馬の前に膝をつき、小さな体を抱きしめた。
「ごめんね、天馬。気が付かなかった。天馬が嫌な思いをしてまで宴会開く意味ないね。止めにしよう」
 天馬がぐすんと鼻を鳴らす。
「伊織様、止めてもいいですか?」
 天馬の背中を撫でながら身を離し、伊織を窺う。
「もちろん。問題ない」
 返答にほっとした。
 結婚を一番に祝ってほしいのは天馬だ。彼が嫌だというのなら宴会など開かなくてもいい。
「両親には俺から言っておく」
「私の言いに行きます」
 朝食を食べたらすぐにでも本家に行こうと決めた琉歌達の耳に「ごめんください」という声が届いた。小さい声は女性なのか男性なのか判断ができない。
「来客?」
 予定にない来客に伊織の眉間にしわが寄る。
 使用人が応対する声を聞こえ、その後すぐに琉歌が家に来た時に迎えてくれた女性が顔を出した。
「伊織様、本家から伝達です」
「は?」
 伊織は女性が差し出してきた手紙を訝し気に受け取り、中を確認して、大きなため息を吐いた。
「宴会の日取りの連絡だ。日時は、今日の日暮れ」
「えっ」
 伊織が見せてきた手紙には、琉歌と伊織の結婚を祝うための宴会を開くこととその日時と開催地が簡潔に記されている。
 この書き方からして、この家だけに送られたようには思えない。恐らく他の鬼の家にも同じ紙が届いているだろう。
「これって、もう手遅れってやつ?」
 天馬が疲れた顔で言った。
 他の家に通達が行っている今中止にすれば、他の家からは不審がられるだろう。鬼の世界に詳しくない琉歌でもそれがまずいと分かる。
「問題ない。今すぐ止めに行こう」
 伊織はそう言ったが、天馬も琉歌も立ち上がらなかった。
「いいよ、別に。さっきはちょっと精神が不安定になっていただけだった。琉歌をひとりで帰すんじゃなくて、一緒に宴会をするんだから状況はあの時とは全く違う」
 天馬のその言葉がただの強がりなのは、手の震えで気が付いてた。
 本当は怖いのに伊織と琉歌のために恐怖を押し込んでくれている。
「ごめん、天馬」
「謝んな。俺は大丈夫だよ」
 天馬の心遣いに甘え、琉歌達の宴会への参加が決まった。