幻の記憶ー忘れ去られた陰陽師ー

実稲(みいね)

どうして、そんなに怒ってるの…?

禍々しい淀んだ煤のような霊力が体内に積もっていくのを感じる。

足先から段々と漆黒に染まっていく。

染まってしまった部分はそこだけ神経が遮断されたかのように動かせない。

バランスを崩して倒れ込む。

お願い、気づいて…!

口が回らない。

頭がぼーっとする。

必死に彼女の名前を呼ぶ。

「み…い、ね。」

不意に、霊力の排出が止まった。

実稲がゆっくりとこっちを振り返る。

目の色が戻る。

我に返った実稲は、すぐに私の方へ近寄ってきた。

綺麗な顔が、涙でぐちゃぐちゃになっている。

水波(みずは)!?足が…。ごめん、私…。すぐに浄化するから…!」

震える声でそう言うと、霊符を取り出して私の体に貼り始める。

水晶のように澄んだ霊力が流れ込んでくる。

身体が軽くなる。

でも、間に合わない。

私は実稲の手をそっと握って言った。

「もう、無理だよ。これ以上は、実稲が何かを差し出さなくちゃいけなくなる。だから、もうやめて?」

「やめない!私のせいでこうなったのに…。このままやめたら、私は一生後悔する。だから、お願い。」

本当に、もう良いのに…。

私は、この子みたいな子と友達になれただけで、一生分の幸せを貰っているのに…。

霊力の供給量が増える。

これ以上は、実稲が危ない。

「もう十分だから。実稲と出会えたこと、友達になれたこと、一緒に笑えたこと。それで十分なの。どうせ私の命はもって2,3年。そんな私のために、実稲の何かを使わないで。これは運命なの。形代(かたしろ)として生まれてしまった、私の運命。しょうがないんだよ。」

優しく微笑みかける。

少しでも、楽に見えるように。

言葉や顔とは裏腹に、一度は楽になった身体も、今は地面に沈み込みそうなほど重く感じる。

意識が遠のく。

瞼が重い。

そんな状態でも、実稲の声は私の耳に飛び込んでくる。

「形代だから…?そんなの、たまたま形代に生まれたから、不幸でもしょうがないって言っているようにしか聞こえない!そんな言い訳、聞きたくない!」

ああ、この子は本当にまっすぐだ。

私には、もったいないほどに眩しくて。

涙が溢れてくる。

駄目だ。

この子の将来を、私が潰すわけには行かない。

最後の力を振り絞って、私は霊力を練り始めた。

必死に言葉を紡ぐ。

「実稲…ごめんね。私はもう、一緒にいられない。でも、後悔なんてない。そう言い切れるくらい、楽しかったよ。本当だよ?私のことは、忘れて。思い出さなくていいから。私なんかのせいで、実稲の人生を棒に振るわけにはいかないよ。」

「水波は、なんかじゃない!絶対に忘れないし、諦めない…諦めたくない!」

最期まで、実稲は実稲なんだね。

そうなことを思いながら、魂を削って霊力に変換する。

私の命と引換えにできた霊力の塊を、思いっきり実稲にぶつける。

またね(・・・)。」

精一杯の願いを込めて。

私のことを、忘れられますように。

実稲の将来を邪魔するものを、忘れられますように。

どうか、幸せに生きることができますように。

魂が身体から離れていく。

実稲は…泣いてる。

本当に、昔っから泣き虫なんだから。

懐かしさに包まれる。

あ、これだけは言っておかなきゃ。

「愛してる。」

友情でも、尊敬でも、恋愛でもない。

この愛は、信頼の愛。

どうか、届きますように。
水波(みずは)が、死んだ。

その事実が、私に重く重くのしかかってくる。

私のせいだ。

私が、うまく感情ををコントロールできなかったから。

私が、霊力が少くても満足していたから。

私が、陰陽師になんてなったから。

私が、変な正義感なんて持ったから。

私が、あの時言うことを聞かなかったから。

私は、今まで何人を殺した?

水波、お父さん、お母さん…未熟だったから、救助が遅れた人たち。

思い出しながら、ふと思った。

私の手は、汚れている。

生きている資格なんてない。

強く、強く思った。

そろそろ、家についたかな。

そう思って前を見ると、そこは学校のプールだった。

鍵もかかっているはずなのに…。

無意識のうちに、外していたの?

そんなに、死にたいのね。

笑いが溢れてくる。

ごめんね。

私の身体(うつわ)に謝る。

(なかみ)が未熟だったから、あなたも滅ばなくちゃいけないなんて。

今は10月。

室内プールだから、既に水はない。

水の霊符を取り出して、額にかざしながら呪文を唱える。

水波能売命(ミヅハノメ)様…どうかその御力をお貸しください。」

(はら)(たま)い、清め(たま)え、(かむ)ながら守り(たま)い、(さきわ)(たま)え。』

霊力を霊符に込めると、プールの中に貼り付ける。

すると、たちまち水が湧いてきて、すぐに一杯になった。

「さよなら。」

そう小さく呟いて、プールに身を投げる。

水が冷たい。

息ができない。

意識が遠のく。

身体が凍える。

水を吸った服が重い。

でも、不思議と心は軽い。

肺に水が貯まる。

苦しい、苦しい。

でも、救われる。

そう思っていたのに。

私の身体がふわっと浮いた。

優しく、プールサイドに置かれる。

勢いよく咳き込む。

どうして?

どうして、死なせてくれないの?

どうして、殺してくれないの?

もう一度プールに入ろうとすると、制服のスカートに入った何かが邪魔をしてくる。

急いで取り出して中身を確認すると、それは魔眼晶(まがんしょう)だった。

お父さんと、お母さんを生きたまま食べた穢を生け捕りにした水晶…の欠片。

もう、何もする気が起きなかった。

このまま、霊力枯渇で死んだほうが楽かもしれない。

そう思って、転移術を使って部屋に戻った。

濡れた制服を脱いで、楽な服を着る。

ただそれだけのことが、とても面倒くさかった。

そのままベッドに倒れ込む。

何も考えたくない。

私は深い眠りの中へ潜っていった。

あわよくばこのまま死んでいけたら。

なんてことも思っていた。

何かが、私の元を離れた。

追いかける気にはならなかった。

この世界での私は、そのまま終わりを告げた。
私は、何をしているんだろう。

突如として、現実世界に引き戻される。

窓の外から柔らかく差し込む朝日が眩しい。

心地よいはずの鳥の鳴き声が(うるさ)い。

脚に当たるシーツの感触が気持ち悪い。

身体が熱い。

息遣いが荒い。

夢を、見ていた。

ぽろりと、涙がこぼれる。

きらきらと日光(ひかり)を受けて輝くそれは、シーツの上にシミを残す。

次々とシミが増えていく。

嗚咽がこみ上げる。

ベッドから動くことができず、布団の上に丸まりながら(むせ)び泣く。

何で、私は泣いているの?

分からない、何もかもが、分からない。

ただ、ひたすらに、苦しくて、虚しくて。

心を蝕み続ける、罪悪感。

何か大切なものを失ってしまったかのような、虚無感。

空っぽの心の中に、そんな感情だけが渦巻いている。

心の中を覗いても、私のどこを覗いても、その2つ以外の感情は見つからない。

そこで、気付いた。

気付いてしまった。

口からこぼれ出る。

「私は…誰?」

声に出すと、より一層恐怖が育つ。

分からない、何もかもが、分からない。

私は、全てを忘れてしまった。

嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも。

何もかも、全部。
「どうしよう…。」

私、天川(あまかわ)水波(みずは)は困っていた。

とても、困っていた。

親友である亜輝(あかぐ)実稲(みいね)を助けるため、自分の全霊力を犠牲に彼女の記憶を削除したものの、彼女より霊力の低い私は彼女の抵抗に負けてしまったのだ。

彼女の抵抗ーーすなわち彼女の望みは、2つあった。

1つは私が消えないこと。

その望みは、私が幽霊以上地縛霊以下という半端な存在になることで叶えられた。

次に、自分が消えること。

それは、彼女が別次元の世界ーー並行世界(パラレルワールド)へ行くことで叶えられた。

叶えられてしまった。

今の私には、できないことが多い。

移動はできる。

陽道の霊符もかけるし、使える。

陰道の魔術も使える。

ただ、霊以外の誰にも見えないし、魔術を使って世界に干渉もできない。

といった具合に。

幽霊であれば、49日を現し世で過ごした後に黄泉の国へと成仏する。

生前の人物の存在は現し世に残っていて、霊符や魔術は使えない。

一方地縛霊は、己の意思による成仏の権利、生前の現し世での存在、移動の自由と引き換えに、現し世へ関与する霊術を手に入れた霊。

私は、移動できるし力も使えるけど現し世への関与はできず、存在も消えている。

おまけにどの霊からも見えていないときた。

さぁ、どうしよう。

というのが冒頭の内訳である。
私が霊になっていることに気がついたのは魂が身体から離れてすぐ。

その後は、ずっと実稲の後をつけていた。

ふらふらと起き上がり、無意識にプールへ向かって水を溜めたら…。

泣きそうになった。

というか泣いていた。

でも、いくら触れようとしても私の手は実稲の身体をすり抜けた。

実稲のご両親がプールから引き上げてくれたときは本当に安心した。

その時も泣いていた。

私、泣き虫になっちゃったのかな。

実稲も泣いていた。

死にたいって。

水の中で実稲は、笑ってた。

やっと死ねる、って。

これで、水波やお父さんお母さんに償えるって。

私はーーきっと実稲のご両親も、そんなもの望んでいないのに。

生気のない顔で起き上がったと思ったら、今度は寮へと移動した。

私はその様子をハラハラしながら見守っていた。

ぐっしょりと濡れた制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。

着替えさせてあげたい。

あったかいお風呂に入れてあげたい。

美味しいスープを作ってあげたい。

もう、それはできないんだな。

誰が悪いのでもない。

私も、実稲も、パパもママも、誰も悪くない。

これは体質で、運命で、理だから。

それでも、無性に悲しくなった。

また泣いていた。

せめてもと、そっと実稲の隣に横になった。

でも、ベッドは私をすり抜ける。

諦めて近くに浮く。

「おやすみ。」

そう呟く。

子守唄を歌いながら、実稲の頭を撫でるふりをする。

実稲の顔から、緊張が消えていく。

少しほっとして、そのまま歌い続ける。

この歌は、実稲が小さい頃から大好きな曲。

安らかに、眠れますよう。

そんな願いを込めて、歌い続けた。
しばらくして、私は実稲の異変に気づいた。

身体が、薄くなっている。

どうしよう。

そう思っても、何もできない。

ひたすらに実稲の手を握るふりをするだけ。

お願い、神様。

実稲を助けて。

お願い!

その願いが通じたのか、目の前が白一色に染まると、何かが降りてーー

こなかった。

「え?」

この1音に私の全てが籠もっていた。

だって神様を呼んで、不自然に目の前が光ったら…。

来るよね?

普通は。

そもそもこの状況って普通じゃない?

って、そんな事考えてる場合じゃない。

そうこうしている間に、実稲の身体は薄くなり続けている。

不意に、実稲の胸のあたりがぼんやりと光った。

さっきみたいな眩しい光じゃなくて、優しい光。

その光は私の方へ近寄ってきて、言った。

「ありがとう」、と。

確かに、そう言った。

光は実稲の胸の中に戻って。

実稲は、この世界から消えた。
実稲(みいね)がいたはずのベッドからは、彼女のぬくもりも、シーツのシワも、涙の痕も、何もかもが消えていた。

まるで、最初から存在しなかったかのように。

急に、部屋の電気が消えて、電球が割れた。

「きゃっ!」

思わず叫びながら、頭を抱える。

…その必要はなかったけれど。

電球の欠片は、私をすり抜けて床に落ちると、ガシャンと大きな音を立てた。

慌てて外へ出ると、あったはずの亜輝(あかぐ)と書かれた表札が消えていた。

それだけではない。

備え付けではない家具ーー洗濯機、冷蔵庫、本棚、百合のレコード。

全てが透明になり始めた。

実稲がいた痕跡が、消えていく。

必死に触ろうとしても、その手はただ空を切るだけ。

どうすることもできず、諦めた私はただぼーっとそれを見ていた。

すべてが消えて、ただの質素な部屋に戻った後。

私はあることを思い出した。

そうだ、私の部屋は!?

私の部屋も、ああなってるのかも…。

一抹の不安とともに、私は部屋を飛び出した。

実稲は3階、私は15階。

アパートの吹き抜けをぐんぐんと登っていく。

私がいたはずの部屋。

表札はーーなかった。

「当たり前…だよね。」

静かに部屋の中へ入る。

やっぱり、何もなかった。

これから、どうしたら良いんだろう。

成仏もできない、現し世に戻ることもできない。

このまま永遠に、彷徨ってるだけなのかな。

枯れたと思っていた涙が溢れてくる。

泣いても、どうしようもないのに。