1
兄貴を思い出せる最初の記憶は、小学三年生の頃のものだ。
赤ん坊の頃に会っていたのかもしれないけれど、残念ながら、思い出せない。
わたしは生まれつき身体が弱く、入退院を繰り返していた。そのため、両親は、わたしの看護に専念するために、兄貴を祖父母に預けた。
母と父は、ぎりぎりまで頑張ったらしいが、治療費を稼ぐための仕事をしながら、わたしの日常の看護を行い、兄貴の世話までするのは、無理だったのだ。
三つ上の兄貴は、祖父母になついていて、預けられるときも、さほど泣いたり、わめいたりしなかったらしい。
母は、兄貴が寂しがっているのではないかと、毎日のように電話したが、うん、とか、元気だよ、とか、ひと言、ふた言ぐらいしか。言葉が返ってこなかった、といっていた。
それでも、やはり寂しいに違いないと、わたしの寝ている病院のベッドのそばで、母と父は、わたしが元気になったら、兄貴に、こういうことをしてやろう、ああいうことをしてやろうと、盛んに話し合っていた。
わたしの体調が良くなり、病院に行くこともほとんどなくなったのは、9際の頃だった。
そして、12歳になった兄貴が帰ってきた。
9歳の時のわたしは、ませていた。病院で、年上の入院患者から、男女についての、さまざまな知識を、さんざん吹き込まれていたのだ。
だから、兄貴を兄とみることができなかった。ひとりの異性として意識したのだ。
兄貴は、わたしと同じ小学校に通うようになり、毎朝、一緒に登校するようになった。学校は、小中高一貫校で、何もなければ、兄貴の高校卒業までは、一緒に通えるはずだった。
兄貴と手をつないで登下校するのは、何かドキドキして楽しかった。
ある時、こんなことがあった。
夏のようやく梅雨が終わったころの下校時だった。いつものように、兄貴とわたしは手をつないで帰っていた。
どういう理由だったのかは、もう覚えていないけれど、いつもと違う帰り道を選んで、繁華街を兄貴と歩いていた。いつもと違う道だったので、ウキウキとしていたことを覚えている。
ゲームセンターの前に差しかかったとき、センター前にたむろしていた中学生の集団のひとりに、ブンブン振りまわしながら歩いていた体操着の入った手提げ袋が、当たった。
中学生は、ムッとした顔で振りむいた。
わたしと兄貴が、小学生で身体も特に小さいと見るや、
「こいつ!」
その中学生は、こぶしを握り、わたしの頭を上からなぐろうとした。
馬鹿なわたしは、キョトンとして、口を開け、中学生を見上げていた。
と、兄貴が一瞬で、あいだに入り、振り下ろされたこぶしを受けた。
鈍い音がした。薄い皮膚を通して骨同士の当たる、あの音。
兄貴は、しかめ面をしながら、わたしを背にかばった。
「なんだ、こいつ!」
中学生が、こぶしを手で押さえながら、兄貴を蹴った。
兄貴は、蹴飛ばされ、倒れた。
わたしは、恐怖にかられ、泣きわめいた。
と、兄貴も、路上で、あおむきに寝転がったまま、泣きわめいた。
「痛い、痛い~、折れた、足が折れたあ~」
子供とは思えない、すさまじい声だった。
まわりに人が集まってきた。道沿いの店の店員が、何事かと、出てきた。誰かが呼びにいったのか、ゲームセンターのオレンジ色の制服を着た店員が、走り出てきた。
なぐった中学生は、いつのまにか、姿を消していた。大事になったので、逃げ出したにちがいなかった。
店員が兄貴を立たせ、背中についた砂や土をはらってくれた。わたしの顔一面についた涙とホコリも、ハンカチでぬぐってくれた。
兄貴を見ると、さっきまでの泣き顔はどこへやら、もうひとり出てきた女性の店員に顔をふいてもらって、ニコニコしている。
兄貴は、店員にケガはないか訊かれていたが、あれほど泣きわめいていたのに大丈夫と答え、わたしの手を引いて、意気揚々とその場を離れた。
兄貴が、あまりにもケロッとしているので、「痛くない?」と、訊いた。
「なぐられたところは、ちょっと痛むけど、それ以外は、全然!」
兄貴は、蹴られたときは、自分から後ろに跳んだので、ほとんどダメージを負っていないという。
「だって、あんなに泣いてたのに……」
兄貴は、ガハハ、と笑った。
「ウソ泣き! まともにケンカしたら、かなわないからな!」
わたしは、眼を真ん丸にして、あきれた。
だけど、なぜか愉快になってきて、兄貴と一緒に笑いころげた。
年を追うにつれて、兄貴を想う気持ちが、強まっていき、中三にもなると、家の中で、兄貴の手に触れるだけで、顔が真っ赤になった。
真っ赤になったわたしを見て、兄貴は不思議そうな顔をしていた。
母は、思春期の女の子はそんなものよ、といって笑っていた。まさか、わたしが兄貴に恋しているなどとは、想像もつかなかったにちがいない。
父は、わたしが父と手をつないでも、顔色ひとつ変えないのを、兄貴に自慢していた。それだけ、自分の方が、わたしに気安く接することができているのだと――。
そんなとき、兄貴は、チェッといい、親なんだから当たり前じゃんかといって、ふてくされていた。
父には、病気で身体があまり動かせなかった頃、母と交替で、身体を洗ってもらっていた。父に対しては、異性を感じることは、まったくなかったし、思春期だからといって、嫌悪を感じることもなかった。
兄貴が大学生になると、学校に一緒に通うこともなくなり、複数のバイトで、家にいることも少なくなって、数日、顔を会わせないことも増えた。
兄貴に対する恋心は、ますます強くなって、わたしは、苦しかった。
兄貴に彼女ができたとか、母から噂を聞くと、その日は眠れなかった(母の勘違いで、友人との仲を取り持っていただけだったけど)。
2
高ニの冬休みになり、わたしは寒さが苦手で、暖房の効いた部屋のなかに籠もっていた。兄貴はバイトにいそしんでいたが、珍しく風邪をひき、同じく暖房の効いた部屋のなかに、籠もっていた。
間の悪いことに、母方の祖父が亡くなり、年末だというのに、両親とも葬式に出るため、母の実家へ出かけた。
わたしたちは、家に二人きりになり、配達されたおせち料理を、分けあって食べた。年明けになると、兄貴の風邪も直り、いつも誰かしらと初詣に行く兄貴は、友人たちに連絡をとろうとした。
が、今年に限って、誰とも、予定が合わなかったらしく、部屋でぬくぬくと過ごしていたわたしを、無理やり初詣に引っ張り出した。
このとき、わたしが我儘をいって、初詣にもし行ってなかったら、二度と、兄貴に会えなかっただろう。
運命は、わたしの兄貴への想いを見逃さなかった。
……兄弟だからと、ずっと心の奥底に閉じ込めていた想い。
……生涯、打ち明けることはないだろうと思っていた、わたしの初めてで最後の恋。
運命は、いや、異世界の神といってもよい存在が、わたしと兄貴の運命を大きく変えたのだ。
初詣に行った帰り道だった。
神社の鳥居を抜け、参道を通り、幅広い国道に出た。国道は初詣客で渋滞し、国道の向こう側へ渡るのに、信号が青になったときの横断歩道と、歩道橋のどちらかを選ばなければならなかった。
せっかちな兄貴は、わたしの腕をつかんで、混雑する歩道橋の階段を、前の人たちをかき分け、押し分け、登っていった。
歩道橋の半分以上を過ぎ、向こう側の歩道に降りる階段を、二、三段、降りた時だった。
ふいに上から押された。
兄貴は、その場で踏ん張った。
が、わたしは、耐えられなかった。背中に誰かが、ドンっとぶつかり、兄貴に腕をつかまれたまま、前に倒れた、
兄貴はわたしに引っぱられ、それでも、わたしを引き寄せ、何とか横に逃れようとしたが、上から押し寄せる圧力に、あらがう術がなかった。わたしをかかえこみ、転げる人の列から抜け出そうともがいたが、どうにもならず、階段の端に押され、足先が段を踏みはずし、宙に浮いた。
そのまま手すりにぶつかり、兄貴とわたしの身体は、転げ落ちてくる人波に押し上げられ、手すりに乗った。次の瞬間、手すりを越え、車道に落ちた。
落ちたところに、貨物トラックが来た。
わたしと兄貴は、落ちた衝撃で身体の動かないところを、法定速度をこえたスピードで走っていたトラックに轢かれた。
タイヤが、わたしと兄貴の上を通過し、頭がグシャッとつぶれた。
わたしが気がついたのは、白い空間のなかだった。
兄貴がいない。
まわりをみまわしたが、白い靄が、辺りいちめんを覆っており、視界が悪かった。靄の向こうに、何があるのか、まったく分からない。
わたしが、靄をかき分け、歩き始めようとしたとき、靄のなかに、影がみえた。
影は、勢いよく、向かってきた。わたしの鼻にぶつかる寸前、影が止まった。
影は、女性だった。
ユウレイ……? そう思わせるぐらい、女性の姿は、ボオ~ッと霞んでいた。
白い長衣を着ているのはわかった。髪の色も真っ白だった。が、老人のような感じは受けなかった。
霞んだ、ゆらゆらと不規則に揺れる姿は、時に曲がりくねった、ユーモラスというか珍妙な姿になり、笑いを誘った。
わたしが、知らず知らずのうちに笑っていると、その女性が、口を開いた。
「お主と、お主の兄には、謝まらねばならぬ」
「なぜ?」
「お主らの死は、間違いじゃった」
少し愉快な気分になりかけていたわたしは、眉を寄せた。
「なに? 間違いって?」
「お主らは、本来は、まだ生きているはずだったのじゃ」
わけがわからず、わたしは、女性にもう一度問いかけた。
「間違ったって、なに?」
女性は、ゆらゆら揺れながら、根気よく、ボオッとしているわたしに説明を繰り返す。
「お主と、お主の兄は、実は死すべき『さだめ』ではなかったのじゃ」
わたしは、ボオ~ッと靄がかかったような頭を、なんとかはっきりさせようと、深呼吸した。
「わたしたちは、死ぬ予定じゃなかったのに、死んだということ?」
「……そうじゃ」
女性は、真っ黒な瞳が眼のほとんどを占めているため、穴が開いているように見える両眼で、わたしを見つめた。
ええええっ!!
ようやく理解したわたしは、怒りで頭に血が昇り、一気に意識が明確になった。
「……理解できたようじゃの」
女性は、わかってもらったことにホッとしたのか、声が低くなり、つぶやくような話し方になった。
逆にわたしは、テンションが上がった。
「それなら、生き返れるの!?」
このひとが、間違いの責任者かどうかわからないけれど、眼の前には、このひとしかいない。
わたしは、詰めよった。
間違いなら、このひとが、生と死を扱う神様のような存在なら、生き返ることも可能ではないのか。もちろん、兄貴も一緒に。
黒目の女は、両手を頬にあて、口をパクパクさせ、困ったように眉をよせた。
「――生き返れぬ。間違いとはいえ、一度死んでしまった存在は、同じ時空世界には戻れぬ」
わたしは、むくれた。
病弱だったせいで、親や親類縁者には、大抵のことは聞いてもらえた。わたしは、押しも押されぬ我がまま娘なのだ。
「事情を説明させてもらえるかの」
黒目女は、コホンと咳をした。
「毎年、この時期になると、天界の奉仕者たる我らは、神の命を受けて、神の作られた今年の運を、人間たちに振り分けておる」
女は、また咳をした。
「今年は、世界中で争いがたくさん起こる予定での。そのため、死ぬことになる不幸(ふしあわせ)な運を、大量に作らねばならなかったのじゃ。お主の住む国の隣の大陸でも、お主らは知らんじゃろうが、人死にの出る争いが、延々と続いておる」
わたしは腕を組んで、それが何? とばかりに、女をにらんだ。
女は続けた。
「実は、『運』を振り分ける奉仕者が不足しておっての。おそれおおくも、それぞれの地方に住んでおられる土地神様に、手伝ってもらったのじゃが。その神様が、幸運と不運の荷物を取り違えての。――幸運を配る相手に不運を配ってしまったのじゃ。荷物の形や色が似ていたのもよくなかったのじゃが、なにより、不運の量が多くての。――土地神様のひとりが、こんなに多いわけがないと思われて、問い合わせるつもりで、多すぎると感じた不運の荷物の一部を、幸運の荷物の近くに置いてしまったのじゃ。運を配る役割の、別の土地神様が、その不運の荷物を、幸運の荷物と勘違いして、配ってしまったのじゃ」
「運を配った神様は、よかれと思って、はやめに配ってしまったそうなのじゃ。――問い合わせて、不運の荷物量は合っているとわかった神様が、他の不運の荷物と一緒にしておこうと保管場所に戻ったときには、すでに配られた後じゃった」
「あわてて、配った運を回収に動いたのじゃが、お主らと数人は間に合わず、なお悪いことに、お主らに渡った不運は、『死』を含む不運だったのじゃ。他の人間たちは、あとから幸運を配って、不運を相殺できたのじゃが……死んでしまったお主らだけは、どうにもならんかった。だから、――別の特典を用意してきたのじゃ。なんとか、それで、――我慢してほしいのじゃ」
間違いで死んで、生き返れると思ったら、無理で、我慢しろだと……ふ、ふざけてる!
神様(正確には天界の奉仕者だが、神のようなものだ)のくせに、それぐらいできないの? そういいたかったが、死んでしまったいま、運命は、相手に握られている。下手に怒らせても、まずい。
わたしは、強気で、
「特典とは、何なの?」
女は、にっこり笑った。
「別の時空世界への転生じゃ。そこで、主たちは、新たな人生を送ることができる」
「新しい人生! それは兄貴と一緒なの?」
「兄弟じゃから、同じ時空へ転生と考えておったが、兄を嫌っておるのか? ――なら、兄とは別の世界への、転生もできるぞ」
わたしは、あわてて、引きつった声で、
「とんでもない。兄貴のことは、ダイ、ダイ、大好きです!」
「――なら、問題はないの。では、すぐに転生の準備を――」
「ちょっと、ちょっと待って――。兄貴とは転生後も、兄弟なの?」
「残念じゃが、我らの能力では、そこまで詳しく決められないのじゃ。同じ時空の、すぐ近くに転生させることはできる。――じゃが、同じ血筋の兄弟として転生させられるかどうかは、そこに住む家系の先祖神の同意を得られなければ、無理なのじゃ」
「じゃあ、兄弟として生まれるのではないのね?」
女は、肩をすくめて、
「残念ながらな。――どうしてもというのなら、転生される可能性のある先祖神すべてと交渉してもよいが、そんなことをやっていたら、お主の兄との転生時期が百年以上もずれてしまう。転生先とこことでは、時間の進み方が違うのじゃ。あちらの方が、はるかに時間の進みが速いのじゃ。そうすると、二度と、お主は兄に会えぬぞ」
「兄貴は、もう転生したの!? それ、早くいってよ!」
チンタラ話している間に、すでに兄貴は、転生してしまっていたのだ。そんな大事なこと、早くいってよ!
女は、両手を頬にあて、細身の白い身体をゆらゆら揺らした。
「お主の兄貴には、別の奉仕者が説明していたのじゃが、5分で済んだそうじゃぞ。お主のように、グダグダいっていなかったそうじゃ」
まるで、転生が遅れているのは、わたしのせいみたいにいう。元々は、おまえらの間違いじゃねえかよう! と、声に出さずに、ののしりながら、頼んだ。
「じゃあ、早く、早く転生させて!」
一刻も早く、兄貴にあいたかった。こんな真っ白な世界とは、すぐにでも、おさらばだ!
女は、両手の手のひらを上に向け、肩のあたりにまで上げて、首をふった。
「せっかちじゃのう! もう聞くことはないのか?」
「ありません! だから、早く!」
「――では、転生儀式を始める」
儀式って、すぐ転生できないの? 早くしないと、先に転生した兄貴との年齢差が、どんどん開いてしまう。
女は、コホン、とまた咳をして、おごそかにしゃべり始めた。
「お主の行く世界は、剣と魔法の世界。世界中に眼にみえない形で存在する魔素を利用して、魔法が行われる。――当然、転生後のお主も魔法を使える。どのような魔法が使えるかは、その者の血筋による。同じ血を受け継いだ者たちの間では、同じ種類の魔法が使える。――政治はゆるい王制……国王が絶対的な権力を持っているわけでなく、有力な貴族数名との共同統治となっておる」
「……国王はもちろんじゃが、その有力貴族たちの機嫌をそこなわぬようにな。国王、貴族ともに、血筋による強い魔法を持っておる。逆らうと、魔法で一瞬で殺される場合もありうるのじゃ。――充分気を付けるんじゃぞ」
……くっそ長い、まだ続くの? わたしは、わめき出したくなった。
「では、転生後のより良い人生を祈っておる。――ホイッ!」
女の姿が、かけ声とともに消えた。
わたしは、アッと声をあげ、意識を失った。
目覚めると、眼の前に、優しそうな金髪の、顔いっぱいに笑みを浮かべた女性がいた。
わたしは、女性に抱き上げられた。
わたしは、しゃべろうとした。が、口からでたのは、泣き声だった。
わたしの母らしい女性が、わたしの身体をゆっくり揺らしながら、赤ちゃん言葉で話しかけてきた。頬に、女性の頬がくっつけられた。暖かく、懐かしい匂いがした。
わたしは、赤ん坊になってしまった。
翌日、なんとか眼を開くことができたので、自分の手をみた。とんでもなくちっちゃかった。
赤ん坊なので、よく寝た。転生前のように(当たり前だけども)、夜更かしはできなかった。
少し大きくなり、立って歩けるようになると、兄貴を探した。
少なくとも、この屋敷には、他の子供はいないようだった。
あの黒目女がいったとおり、別々の家に生まれてしまったのだろう。
早く大きくならねば……。
わたしは焦ったが、どうにもならない。ひたすら、身体が成長するのを待つしかなかった。
あの黒目女が、配慮してくれたのか、幼児の時期は、あっという間に過ぎた。
時間経過の感覚が、転生前と違っていた。
一日一日が、ものすごいスピードで過ぎていった。もちろん、実際の経過速度ではなく、わたしの主観――体感での話だ。
兄貴を思い出せる最初の記憶は、小学三年生の頃のものだ。
赤ん坊の頃に会っていたのかもしれないけれど、残念ながら、思い出せない。
わたしは生まれつき身体が弱く、入退院を繰り返していた。そのため、両親は、わたしの看護に専念するために、兄貴を祖父母に預けた。
母と父は、ぎりぎりまで頑張ったらしいが、治療費を稼ぐための仕事をしながら、わたしの日常の看護を行い、兄貴の世話までするのは、無理だったのだ。
三つ上の兄貴は、祖父母になついていて、預けられるときも、さほど泣いたり、わめいたりしなかったらしい。
母は、兄貴が寂しがっているのではないかと、毎日のように電話したが、うん、とか、元気だよ、とか、ひと言、ふた言ぐらいしか。言葉が返ってこなかった、といっていた。
それでも、やはり寂しいに違いないと、わたしの寝ている病院のベッドのそばで、母と父は、わたしが元気になったら、兄貴に、こういうことをしてやろう、ああいうことをしてやろうと、盛んに話し合っていた。
わたしの体調が良くなり、病院に行くこともほとんどなくなったのは、9際の頃だった。
そして、12歳になった兄貴が帰ってきた。
9歳の時のわたしは、ませていた。病院で、年上の入院患者から、男女についての、さまざまな知識を、さんざん吹き込まれていたのだ。
だから、兄貴を兄とみることができなかった。ひとりの異性として意識したのだ。
兄貴は、わたしと同じ小学校に通うようになり、毎朝、一緒に登校するようになった。学校は、小中高一貫校で、何もなければ、兄貴の高校卒業までは、一緒に通えるはずだった。
兄貴と手をつないで登下校するのは、何かドキドキして楽しかった。
ある時、こんなことがあった。
夏のようやく梅雨が終わったころの下校時だった。いつものように、兄貴とわたしは手をつないで帰っていた。
どういう理由だったのかは、もう覚えていないけれど、いつもと違う帰り道を選んで、繁華街を兄貴と歩いていた。いつもと違う道だったので、ウキウキとしていたことを覚えている。
ゲームセンターの前に差しかかったとき、センター前にたむろしていた中学生の集団のひとりに、ブンブン振りまわしながら歩いていた体操着の入った手提げ袋が、当たった。
中学生は、ムッとした顔で振りむいた。
わたしと兄貴が、小学生で身体も特に小さいと見るや、
「こいつ!」
その中学生は、こぶしを握り、わたしの頭を上からなぐろうとした。
馬鹿なわたしは、キョトンとして、口を開け、中学生を見上げていた。
と、兄貴が一瞬で、あいだに入り、振り下ろされたこぶしを受けた。
鈍い音がした。薄い皮膚を通して骨同士の当たる、あの音。
兄貴は、しかめ面をしながら、わたしを背にかばった。
「なんだ、こいつ!」
中学生が、こぶしを手で押さえながら、兄貴を蹴った。
兄貴は、蹴飛ばされ、倒れた。
わたしは、恐怖にかられ、泣きわめいた。
と、兄貴も、路上で、あおむきに寝転がったまま、泣きわめいた。
「痛い、痛い~、折れた、足が折れたあ~」
子供とは思えない、すさまじい声だった。
まわりに人が集まってきた。道沿いの店の店員が、何事かと、出てきた。誰かが呼びにいったのか、ゲームセンターのオレンジ色の制服を着た店員が、走り出てきた。
なぐった中学生は、いつのまにか、姿を消していた。大事になったので、逃げ出したにちがいなかった。
店員が兄貴を立たせ、背中についた砂や土をはらってくれた。わたしの顔一面についた涙とホコリも、ハンカチでぬぐってくれた。
兄貴を見ると、さっきまでの泣き顔はどこへやら、もうひとり出てきた女性の店員に顔をふいてもらって、ニコニコしている。
兄貴は、店員にケガはないか訊かれていたが、あれほど泣きわめいていたのに大丈夫と答え、わたしの手を引いて、意気揚々とその場を離れた。
兄貴が、あまりにもケロッとしているので、「痛くない?」と、訊いた。
「なぐられたところは、ちょっと痛むけど、それ以外は、全然!」
兄貴は、蹴られたときは、自分から後ろに跳んだので、ほとんどダメージを負っていないという。
「だって、あんなに泣いてたのに……」
兄貴は、ガハハ、と笑った。
「ウソ泣き! まともにケンカしたら、かなわないからな!」
わたしは、眼を真ん丸にして、あきれた。
だけど、なぜか愉快になってきて、兄貴と一緒に笑いころげた。
年を追うにつれて、兄貴を想う気持ちが、強まっていき、中三にもなると、家の中で、兄貴の手に触れるだけで、顔が真っ赤になった。
真っ赤になったわたしを見て、兄貴は不思議そうな顔をしていた。
母は、思春期の女の子はそんなものよ、といって笑っていた。まさか、わたしが兄貴に恋しているなどとは、想像もつかなかったにちがいない。
父は、わたしが父と手をつないでも、顔色ひとつ変えないのを、兄貴に自慢していた。それだけ、自分の方が、わたしに気安く接することができているのだと――。
そんなとき、兄貴は、チェッといい、親なんだから当たり前じゃんかといって、ふてくされていた。
父には、病気で身体があまり動かせなかった頃、母と交替で、身体を洗ってもらっていた。父に対しては、異性を感じることは、まったくなかったし、思春期だからといって、嫌悪を感じることもなかった。
兄貴が大学生になると、学校に一緒に通うこともなくなり、複数のバイトで、家にいることも少なくなって、数日、顔を会わせないことも増えた。
兄貴に対する恋心は、ますます強くなって、わたしは、苦しかった。
兄貴に彼女ができたとか、母から噂を聞くと、その日は眠れなかった(母の勘違いで、友人との仲を取り持っていただけだったけど)。
2
高ニの冬休みになり、わたしは寒さが苦手で、暖房の効いた部屋のなかに籠もっていた。兄貴はバイトにいそしんでいたが、珍しく風邪をひき、同じく暖房の効いた部屋のなかに、籠もっていた。
間の悪いことに、母方の祖父が亡くなり、年末だというのに、両親とも葬式に出るため、母の実家へ出かけた。
わたしたちは、家に二人きりになり、配達されたおせち料理を、分けあって食べた。年明けになると、兄貴の風邪も直り、いつも誰かしらと初詣に行く兄貴は、友人たちに連絡をとろうとした。
が、今年に限って、誰とも、予定が合わなかったらしく、部屋でぬくぬくと過ごしていたわたしを、無理やり初詣に引っ張り出した。
このとき、わたしが我儘をいって、初詣にもし行ってなかったら、二度と、兄貴に会えなかっただろう。
運命は、わたしの兄貴への想いを見逃さなかった。
……兄弟だからと、ずっと心の奥底に閉じ込めていた想い。
……生涯、打ち明けることはないだろうと思っていた、わたしの初めてで最後の恋。
運命は、いや、異世界の神といってもよい存在が、わたしと兄貴の運命を大きく変えたのだ。
初詣に行った帰り道だった。
神社の鳥居を抜け、参道を通り、幅広い国道に出た。国道は初詣客で渋滞し、国道の向こう側へ渡るのに、信号が青になったときの横断歩道と、歩道橋のどちらかを選ばなければならなかった。
せっかちな兄貴は、わたしの腕をつかんで、混雑する歩道橋の階段を、前の人たちをかき分け、押し分け、登っていった。
歩道橋の半分以上を過ぎ、向こう側の歩道に降りる階段を、二、三段、降りた時だった。
ふいに上から押された。
兄貴は、その場で踏ん張った。
が、わたしは、耐えられなかった。背中に誰かが、ドンっとぶつかり、兄貴に腕をつかまれたまま、前に倒れた、
兄貴はわたしに引っぱられ、それでも、わたしを引き寄せ、何とか横に逃れようとしたが、上から押し寄せる圧力に、あらがう術がなかった。わたしをかかえこみ、転げる人の列から抜け出そうともがいたが、どうにもならず、階段の端に押され、足先が段を踏みはずし、宙に浮いた。
そのまま手すりにぶつかり、兄貴とわたしの身体は、転げ落ちてくる人波に押し上げられ、手すりに乗った。次の瞬間、手すりを越え、車道に落ちた。
落ちたところに、貨物トラックが来た。
わたしと兄貴は、落ちた衝撃で身体の動かないところを、法定速度をこえたスピードで走っていたトラックに轢かれた。
タイヤが、わたしと兄貴の上を通過し、頭がグシャッとつぶれた。
わたしが気がついたのは、白い空間のなかだった。
兄貴がいない。
まわりをみまわしたが、白い靄が、辺りいちめんを覆っており、視界が悪かった。靄の向こうに、何があるのか、まったく分からない。
わたしが、靄をかき分け、歩き始めようとしたとき、靄のなかに、影がみえた。
影は、勢いよく、向かってきた。わたしの鼻にぶつかる寸前、影が止まった。
影は、女性だった。
ユウレイ……? そう思わせるぐらい、女性の姿は、ボオ~ッと霞んでいた。
白い長衣を着ているのはわかった。髪の色も真っ白だった。が、老人のような感じは受けなかった。
霞んだ、ゆらゆらと不規則に揺れる姿は、時に曲がりくねった、ユーモラスというか珍妙な姿になり、笑いを誘った。
わたしが、知らず知らずのうちに笑っていると、その女性が、口を開いた。
「お主と、お主の兄には、謝まらねばならぬ」
「なぜ?」
「お主らの死は、間違いじゃった」
少し愉快な気分になりかけていたわたしは、眉を寄せた。
「なに? 間違いって?」
「お主らは、本来は、まだ生きているはずだったのじゃ」
わけがわからず、わたしは、女性にもう一度問いかけた。
「間違ったって、なに?」
女性は、ゆらゆら揺れながら、根気よく、ボオッとしているわたしに説明を繰り返す。
「お主と、お主の兄は、実は死すべき『さだめ』ではなかったのじゃ」
わたしは、ボオ~ッと靄がかかったような頭を、なんとかはっきりさせようと、深呼吸した。
「わたしたちは、死ぬ予定じゃなかったのに、死んだということ?」
「……そうじゃ」
女性は、真っ黒な瞳が眼のほとんどを占めているため、穴が開いているように見える両眼で、わたしを見つめた。
ええええっ!!
ようやく理解したわたしは、怒りで頭に血が昇り、一気に意識が明確になった。
「……理解できたようじゃの」
女性は、わかってもらったことにホッとしたのか、声が低くなり、つぶやくような話し方になった。
逆にわたしは、テンションが上がった。
「それなら、生き返れるの!?」
このひとが、間違いの責任者かどうかわからないけれど、眼の前には、このひとしかいない。
わたしは、詰めよった。
間違いなら、このひとが、生と死を扱う神様のような存在なら、生き返ることも可能ではないのか。もちろん、兄貴も一緒に。
黒目の女は、両手を頬にあて、口をパクパクさせ、困ったように眉をよせた。
「――生き返れぬ。間違いとはいえ、一度死んでしまった存在は、同じ時空世界には戻れぬ」
わたしは、むくれた。
病弱だったせいで、親や親類縁者には、大抵のことは聞いてもらえた。わたしは、押しも押されぬ我がまま娘なのだ。
「事情を説明させてもらえるかの」
黒目女は、コホンと咳をした。
「毎年、この時期になると、天界の奉仕者たる我らは、神の命を受けて、神の作られた今年の運を、人間たちに振り分けておる」
女は、また咳をした。
「今年は、世界中で争いがたくさん起こる予定での。そのため、死ぬことになる不幸(ふしあわせ)な運を、大量に作らねばならなかったのじゃ。お主の住む国の隣の大陸でも、お主らは知らんじゃろうが、人死にの出る争いが、延々と続いておる」
わたしは腕を組んで、それが何? とばかりに、女をにらんだ。
女は続けた。
「実は、『運』を振り分ける奉仕者が不足しておっての。おそれおおくも、それぞれの地方に住んでおられる土地神様に、手伝ってもらったのじゃが。その神様が、幸運と不運の荷物を取り違えての。――幸運を配る相手に不運を配ってしまったのじゃ。荷物の形や色が似ていたのもよくなかったのじゃが、なにより、不運の量が多くての。――土地神様のひとりが、こんなに多いわけがないと思われて、問い合わせるつもりで、多すぎると感じた不運の荷物の一部を、幸運の荷物の近くに置いてしまったのじゃ。運を配る役割の、別の土地神様が、その不運の荷物を、幸運の荷物と勘違いして、配ってしまったのじゃ」
「運を配った神様は、よかれと思って、はやめに配ってしまったそうなのじゃ。――問い合わせて、不運の荷物量は合っているとわかった神様が、他の不運の荷物と一緒にしておこうと保管場所に戻ったときには、すでに配られた後じゃった」
「あわてて、配った運を回収に動いたのじゃが、お主らと数人は間に合わず、なお悪いことに、お主らに渡った不運は、『死』を含む不運だったのじゃ。他の人間たちは、あとから幸運を配って、不運を相殺できたのじゃが……死んでしまったお主らだけは、どうにもならんかった。だから、――別の特典を用意してきたのじゃ。なんとか、それで、――我慢してほしいのじゃ」
間違いで死んで、生き返れると思ったら、無理で、我慢しろだと……ふ、ふざけてる!
神様(正確には天界の奉仕者だが、神のようなものだ)のくせに、それぐらいできないの? そういいたかったが、死んでしまったいま、運命は、相手に握られている。下手に怒らせても、まずい。
わたしは、強気で、
「特典とは、何なの?」
女は、にっこり笑った。
「別の時空世界への転生じゃ。そこで、主たちは、新たな人生を送ることができる」
「新しい人生! それは兄貴と一緒なの?」
「兄弟じゃから、同じ時空へ転生と考えておったが、兄を嫌っておるのか? ――なら、兄とは別の世界への、転生もできるぞ」
わたしは、あわてて、引きつった声で、
「とんでもない。兄貴のことは、ダイ、ダイ、大好きです!」
「――なら、問題はないの。では、すぐに転生の準備を――」
「ちょっと、ちょっと待って――。兄貴とは転生後も、兄弟なの?」
「残念じゃが、我らの能力では、そこまで詳しく決められないのじゃ。同じ時空の、すぐ近くに転生させることはできる。――じゃが、同じ血筋の兄弟として転生させられるかどうかは、そこに住む家系の先祖神の同意を得られなければ、無理なのじゃ」
「じゃあ、兄弟として生まれるのではないのね?」
女は、肩をすくめて、
「残念ながらな。――どうしてもというのなら、転生される可能性のある先祖神すべてと交渉してもよいが、そんなことをやっていたら、お主の兄との転生時期が百年以上もずれてしまう。転生先とこことでは、時間の進み方が違うのじゃ。あちらの方が、はるかに時間の進みが速いのじゃ。そうすると、二度と、お主は兄に会えぬぞ」
「兄貴は、もう転生したの!? それ、早くいってよ!」
チンタラ話している間に、すでに兄貴は、転生してしまっていたのだ。そんな大事なこと、早くいってよ!
女は、両手を頬にあて、細身の白い身体をゆらゆら揺らした。
「お主の兄貴には、別の奉仕者が説明していたのじゃが、5分で済んだそうじゃぞ。お主のように、グダグダいっていなかったそうじゃ」
まるで、転生が遅れているのは、わたしのせいみたいにいう。元々は、おまえらの間違いじゃねえかよう! と、声に出さずに、ののしりながら、頼んだ。
「じゃあ、早く、早く転生させて!」
一刻も早く、兄貴にあいたかった。こんな真っ白な世界とは、すぐにでも、おさらばだ!
女は、両手の手のひらを上に向け、肩のあたりにまで上げて、首をふった。
「せっかちじゃのう! もう聞くことはないのか?」
「ありません! だから、早く!」
「――では、転生儀式を始める」
儀式って、すぐ転生できないの? 早くしないと、先に転生した兄貴との年齢差が、どんどん開いてしまう。
女は、コホン、とまた咳をして、おごそかにしゃべり始めた。
「お主の行く世界は、剣と魔法の世界。世界中に眼にみえない形で存在する魔素を利用して、魔法が行われる。――当然、転生後のお主も魔法を使える。どのような魔法が使えるかは、その者の血筋による。同じ血を受け継いだ者たちの間では、同じ種類の魔法が使える。――政治はゆるい王制……国王が絶対的な権力を持っているわけでなく、有力な貴族数名との共同統治となっておる」
「……国王はもちろんじゃが、その有力貴族たちの機嫌をそこなわぬようにな。国王、貴族ともに、血筋による強い魔法を持っておる。逆らうと、魔法で一瞬で殺される場合もありうるのじゃ。――充分気を付けるんじゃぞ」
……くっそ長い、まだ続くの? わたしは、わめき出したくなった。
「では、転生後のより良い人生を祈っておる。――ホイッ!」
女の姿が、かけ声とともに消えた。
わたしは、アッと声をあげ、意識を失った。
目覚めると、眼の前に、優しそうな金髪の、顔いっぱいに笑みを浮かべた女性がいた。
わたしは、女性に抱き上げられた。
わたしは、しゃべろうとした。が、口からでたのは、泣き声だった。
わたしの母らしい女性が、わたしの身体をゆっくり揺らしながら、赤ちゃん言葉で話しかけてきた。頬に、女性の頬がくっつけられた。暖かく、懐かしい匂いがした。
わたしは、赤ん坊になってしまった。
翌日、なんとか眼を開くことができたので、自分の手をみた。とんでもなくちっちゃかった。
赤ん坊なので、よく寝た。転生前のように(当たり前だけども)、夜更かしはできなかった。
少し大きくなり、立って歩けるようになると、兄貴を探した。
少なくとも、この屋敷には、他の子供はいないようだった。
あの黒目女がいったとおり、別々の家に生まれてしまったのだろう。
早く大きくならねば……。
わたしは焦ったが、どうにもならない。ひたすら、身体が成長するのを待つしかなかった。
あの黒目女が、配慮してくれたのか、幼児の時期は、あっという間に過ぎた。
時間経過の感覚が、転生前と違っていた。
一日一日が、ものすごいスピードで過ぎていった。もちろん、実際の経過速度ではなく、わたしの主観――体感での話だ。