ソネットフレージュに魅せられて

学校のチャイムが鳴る。校舎のカザミドリはゆっくりと回っている。
天気もよく、風も弱かった。
教室がざわつく中、菊地紗矢が、3年の雪菜と凛汰郎のクラスに来ていた。

「せんぱーい!!」
 
 後ろの出入り口は放課後で帰宅生徒で溢れていたが、負けじと、雪菜たちを呼ぶ。

「あれ、紗矢ちゃん。どうかした?」

 荷物を机に置いたまま、雪菜は駆け寄った。凛汰郎は気にもせず、前の出入り口から帰ろうとしていた。

「あ、先輩、平澤先輩にも用事あったんですけど、入ってもいいですか?」

「放課後だし、別にいいと思うけど、ちょっと待って。呼んでくるから」
 
 雪菜は、凛汰郎の後ろを追いかけて、肩をたたいた。
 ワイヤレスイヤホンをつけていた凛汰郎は、雪菜で声をかけられて、片方を外した。

「は? 何?」

とても嫌そうな顔をされて、少しぐさっとハートをえぐられた。

「ご、ごめんね。凛汰郎くん。紗矢ちゃんが、何か用事あるんだって」

「は、なんで。部活終わってんじゃん。3年はもう部活行かないでしょう」
「いいから、とりあえず来て」

 拒否することも許さない雪菜は、力任せに凛汰郎の制服のすそを引っ張った。

「ちょ、待てって。伸びるから、ひっぱるな」
「はいはい」

 本当は、連れていかれて、うれしそうな凛汰郎。素直に言えない。

「おまたせ。紗矢ちゃん」

紗矢は廊下で待っていた。

「すいません。これから帰宅というところ呼び止めちゃって」
「いいのいいの。大丈夫。それで、用事って何?」

 凛汰郎は黙って雪菜の横に立つ。

「実は、お二人の弓道部引退セレモニーを考えておりまして、ご都合を伺おうかなと思ってました。いつ頃でしたら、大丈夫ですか?」
「え、本当? ありがとう。うれしいなぁ」
「え、お、俺は……塾……」

 凛汰郎は、雪菜に口をふさがれた。

「私《《たち》》はいつでも大丈夫よ。そちらに任せます」
「本当ですか。助かります。私たちも試合と重なったりすると練習もままならなくなるので、早めにと考えていました。
 ……あとお2人も受験勉強で忙しくなるでしょうからと……。そしたら……」

 紗矢は、バックから手帳を取り出した。雪菜は、凛汰郎に小声で

「塾って言ったらいつまでもセレモニーできないでしょう。後輩たちの都合考えて」
「なんで、行かなきゃないんだよ。俺、そういうの嫌《きら》……」
「お待たせしました。えっと、20日はいかがですか? その日は、部活動の時間をセレモニーの時間になります。
 会場は、化学室を借りることになってます。大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だよ。放課後になったらすぐ化学室向かっていいのかな?」
「えっと、お時間つぶしていただいて、16時15分頃に来てもらってもいいですか?」
「準備するのかな? わかった。んじゃ、20日の16時15分ね。私、凛汰郎くん連れていくから任せて」
「はい。よろしくお願いします」

 紗矢は、ご機嫌に立ち去って行った。雪菜の意思をついで、部長になっていた。紗矢の姿が見えなくなってから。

「なんで、勝手に決めるんだよ」
「私、わかるから。3年生の引退セレモニーの準備をやるの大変なのは一番に知ってる。凛汰郎くんは用事があるって
 2年間参加してなかったから知らないだろうけど……寄せ書きは書いてたもんね」
「……悪かったよ。俺、そういうの恥ずかしくて見てられないんだ。あと大人数でパーティとか苦手だし」
「苦手なのも知ってるけど、これで最後だから、後輩たちのために参加して。お願いだから」
「俺、嫌われてるのに?」
「え……」
「俺、知ってるよ。この間のお前が入院してて、雰囲気悪くしたこと。みんなに好かれてなかっただろ?」
「ああー--……。NOとは言えないけどさ」
「ほら、見ろ。俺、行かない方が盛り上がるから。白狼が参加しろよ。俺は、いないもんだと思えって」
「……私は好きだよ。凛汰郎くん、弓道してる時誰よりも集中してるし、まぁ、人には優しくないけど」

 髪がなびいた。廊下の窓の外の校庭を見て、サッカーをする雅俊が見えた。
 ホイッスルが鳴り、イエローカードを出されて、ベンチに座っている。
 
 廊下を見渡すと、5クラスある3年の教室にはいつの間にか自分たち以外、誰もいなくなっていた。

「……なぁ、それって告白?」
「………」
「………」

髪をかき上げて、ぼんやりしていると、凛汰郎がふとつぶやく。
ハッと現実に戻る。

「え?! 今私、なんていった?」
「好きって……」
「え、言ってないよ。勘違い。気にしないで。気のせいだから」

 バックを持ち直して、真っ赤にした顔を両手で隠した。見えないだろうと後退して、その場から逃げようとした。
 後ろから、凛汰郎に左腕をつかまれて、幽霊が出たかと思うくらいの悲鳴をあげた。

「ちょっと待って」

 一瞬、時間がとまったようだった。

凛汰郎は、雪菜の左腕をつかんだままとまった。氷になったみたいだった。

「え、……えっと……」
「う、うん」
「お、俺……」
「あ!! ごめんね、用事思い出しちゃった! 急いで行かないといけないところが
 あって……。それじゃ、また!」

 雪菜は恥ずかしくなりそれ以上を聞きたくなくて、ごまかすように慌てて階段を駆け降りていった。
 何かを言いたかったのに言えなかった悔しさが滲み出る。

 「あ〜……ちくしょ〜。」

 雪菜が立ち去ったあと額に手をつけて、髪をワシャワシャとかきあげた。
 チャンスだったはずなのに、言葉が思いつかなかった。

(俺は一体、何を言いたかったんだ?)

 自分で自分が分からなくなっていた。その頃、急いで階段を駆け降りて、昇降口近くにある靴箱に着いた。自分の靴を取ろうとする前に靴箱の縁に手をかけて、呼吸を整えた。

 (さっき、私は何を言っていたの!? バカバカバカ!勘違いされるじゃない。あんな、告白みたいなこと言ったら……。でも、ん? 凛汰郎くんは何を言いかけていたのかな)

自分の頭を軽く両手のグーで叩き、気持ちを落ち着かせた。冷静になって、靴をすのこの近くに置いた。
あのまま、ずっと近くにいたら心臓がどうにかなりそうだと、靴の踵部分を整えて、昇降口を出た。
遅れて、凛汰郎も、靴箱に到着していたが、すでに雪菜の姿はなかった。



「雪菜、今帰り?」

 雅俊が顔をタオルで拭きながら、校門に向かう雪菜に声をかけた。顔を耳まで赤くしている雪菜が気になったからだ。

「え……。あ、うん」
「俺、まだ部活。3年はいいよなぁ。引退したんだもんな」
「ごめん、雅俊……。話す余裕ないから……」
「お、おい」

 口元に手をやり、顔を隠して立ち去ろうとすると、後ろから、声がした。

「白狼!!」

 話の途中で終わってしまったことが気になり、しかも雅俊と話してるのに嫉妬し、話そうと思ってなかったが、凛汰郎が思わず声をかけた。はっとして、何も言えなくなった雪菜は、そのまま急ぎ足で校門に向かう。

 雅俊は2人の行動が気になったが、部活のキャプテンに呼ばれ、練習に戻った。
 
 凛汰郎は、雅俊を横目に急いで、雪菜を追いかけた。前に立ちふさがって、歩くのを止めた。

「さっき、言いかけて、ちゃんと言うから聞いてほしい」
「え……」

 少し頬を赤くして雪菜は真剣に凛汰郎を見た。

「俺、嫌いじゃないから。俺は。言いたかったのはそれだけ」
「……うん。そうなんだ」

 告白ってわけじゃないんだとがっかりした雪菜は、しゅんと気持ちが冷めた。告白したつもりの凛汰郎は、言い切ったぞと
 思っていたが、あまりにも変な顔をする雪菜にどう反応すればいいのかわからなくなった。

 「家まで送る……」

 凛汰郎は今できることの最大の思いを告げるように雪菜の荷物を持った。

「え、大丈夫。帰る方向違うでしょう? 私、こっちで、凛汰郎くんはあっちでしょう?」
「気にすんなって」
「え、え、なんで?」

 よくわからず、バックを持っていく凛汰郎を追いかける。数十メートル進んで、思い出す。

「あ、塾行くんだった。わるい、ここまででいい?」
「え、だから、別に頼んでないって」

 カーブミラーのある交差点。凛汰郎は、雪菜にバックを返した。

「あ、ありがとう」

 よくわからず、少し一緒にいることができてうれしかったが、不思議な気持ちになった。後ろを向いて、話し出す。

「あのさ……。明日もいい?」
「何が?」
「ここまで一緒に来るの」
「なんで?」
「……なんでって。別に深い意味はないけど」
 
 素直に一緒に帰りたいだなんて言えない凛汰郎。

「ん?」
 
 2人の間に風が通り過ぎる。

「ごめん、やっぱ、いいや。塾あるし。忘れて」

 話がかみ合わない。思いが伝わらない。何が言いたいかお互いにわからないままそれぞれ立ち去った。雪菜は後ろ髪を引っ張れるように何度も後ろを振り返ったが、凛汰郎は一度も振り向かずに家路に向かっていた。想われていないんだろうなとネガティブに考えてしまっていた。
 
学校の屋上で、カザミドリが右回りしたかと思えば、左回りしていた。

今日は、風が強く吹いていた。

遠くで、飛行機が雲を作らずに低空飛行していた。彼女を見ていると心が洗われるようだ。教室の席に座り、窓際に座る彼女をいつも見ていた。登校してすぐワイヤレスイヤホンを外して机に置いた瞬間、部屋の空気が変わった。

「雪菜、昨日のドラマ見た? 最後、あんな感じで終わるなんて寂しかった。ライバルの幼馴染と結ばれると
 思ったのに!」

高橋緋奈子が登校してすぐの雪菜に声をかける。横にいた酒本美花や、伊藤あゆみの雪菜の周りには、2人の友達が集まっていた。

「えー、私は、あのままの彼氏で良かったと思ったよ。主人公はあの人と結ばれたいんだってわかったもん」
「とか、言って? リアルで、雪菜は幼馴染いるじゃん。雅俊くん」
「幼馴染だからって必ずしも恋愛対象にはならないもの。今、実際付き合ってないし」
「確かに……。そういや、聞いた? 昨日、フラッシュモブみたいに雅俊くん、2年の女子に大人数の前で告白されてたみたいだよ。
 なんだっけ。雅俊くんファンクラブに選ばれた人って言ってたよ」
「うっそぉ。それは知らなかった。それ、どうなったの?」

 幼馴染でも、告白はどうなったか気になる雪菜。

「なんか、返事はOK出したらしいけど」
「へぇ、そうなんだ。それは、ようござんした」
「えー、雪菜それ何語? うけるー」
「それはよかったねって意味だよ。知らない?」
「知らないよぉ」

 いつも、雪菜の周りはにぎわっていた。それを凛汰郎は、遠くから見ていてほほえましかった。まるで保護者目線のよう。

「あ、そうだ」

雪菜はバックを机の脇にかけると、凛汰郎の前に歩き進めた。昨日のことはなかったように話しかける。

「凛汰郎くん、おはよう。弓道部の引退セレモニーのことしっかり聞いてなかったんだけど、いけるの?」
「……行かない。塾あるから」
「……あ、そっか。んじゃ、紗矢ちゃんに伝えておくね」

 あっさり食い下がる雪菜がいつもらしくないなと思い、凛汰郎は、声を発した。

「あ、あのさ」

 立ち去ろうとする雪菜に手をのばす。

「え、あー、もしかして昨日のこと?」
「え?」
「昨日、一緒に帰るとかって言ってなかった? 私の聞き間違いだったかな」
「……言ってないし」

 目を合わせることなくいう。

「そうだっけ。ごめん、聞き間違いで。んじゃ、席、戻るね」

 チャイムが鳴り、授業が始まろうとしていた。凛汰郎は、思いと反対なことをいう。
恥ずかしいやプライドが邪魔して話すことができなかった。

 誰とも付き合ったことのない凛汰郎にとってハードルが高かった。交際ってなんだろう。
 もう部活は引退してしまったし、会うことも授業の教室以外ない。

いつも花がある彼女の斜め後ろから眺めては、微笑んで、アイドルを見ているかのように片思いのまま
動くことができない。雪菜もどうしたらよいかわかなぬまま、毎日を過ごしていた。


◇◇◇

 夕日が沈み、真っ暗になった夜、家族団らんで夕食を食べ、お風呂も入り、まったり部屋で休憩していた雪菜は、椅子によりかかってのけぞった。隣の部屋では、いつものように弟の徹平がオンラインゲームを楽しんでいた。耳を澄ますとまさかの雅俊の声もする。聞き耳を立てて、ずっと聞いていると、ゲームをしながら雅俊がものすごい話をして戦っている。

「ちょ、そこのハンドルネーム『よわいですよ』さん、名前と行動が合ってないですよ!」
『うっさいんですけど……。及川、さっきから話してる人どうにかして』
『先輩、本名やめてもらえます? 一応俺にも<ゼウス>っていうハンドルネームあるんですから。な、雅俊。』
『なんでギリシャ神話のゼウスなのかよくわからないんだが……』
「浩平、先輩ってどういうこと? 学校のリアル先輩なの?」

 雅俊がゲームをずっとやっていて今更ながら確認する。

『あれ、言ってなかったっけ。先輩は、弓道部の平澤凛汰郎先輩だよ。知らない?』
「げげ、マジで?」
『ちょっと、待て。及川、雅俊って、斎藤雅俊のことか?』
「呼び捨てっすか?」
「え、何、何? もしかして、2人知り合いですか?」

 徹平が雅俊にさらりと聞く。

「知り合いも何も、雪菜が入ってた弓道部員だよ」
「へぇ、マジっすか」
『悪い、俺抜けるわ』

 凛汰郎は、不機嫌になり、ゲームから回線落ちしようとした。

「ちょっと待ってください。《《平澤先輩》》」

 急に丁寧に声をかける雅俊。

『待たないけど』
「せめて、この1ゲームの第1位取ってからにしましょう。
 途中で抜けるとペナルティでランクも下がってしまいますよ」
『……わかった』

 ランクが下がることはしたくなかった凛汰郎はゲームを続けた。他の2人もため息をついて、安心していた。
 雪菜はその声を聴いて、徹平の部屋の扉を少しあけて、のぞき見していた。はっと気づく雅俊。

「徹平、お前の部屋に座敷童がいるぞ」

 扉の近くにいる雪菜を指さした。

「うっわ、こわ。ちょっとねえちゃん。入ってくるなよ」

 徹平はバタンと扉を閉めた。

「えー--。なんで見ちゃいけないのよ」

 扉の向こうの方で雪菜が騒ぐ。

『白狼の声するな。』
「お? 気づきましたか。平澤先輩もといよわいですよさん。なんと、俺は、白狼家の弟の部屋でゲーム中です。いいだろう?」
『な、なに?! あいつに弟いたのか』
「なぁ、まーくん。いいだろうってなんの自慢してるん?」
「え、別に。気にすんなって」

 スマホ越しになぜか殺意を感じる雅俊。悪寒がし始めた。

「なんか寒くない?」
「全然」

 そのゲームでは、凛汰郎の脅威の殺意も込みで、見事に第1位を獲得した。雪菜は不満になりながら、徹平の部屋の扉の前でずっと話を聞いていた。夜は長く感じられた。
学校というものはさもこうして毎日アルゴリズムを刻みながら同じ時刻同じ場所に行かないといけないのか。
昨日と同じメンバーが真四角の並べなれた机に座り、同じ授業を受ける。好きか嫌いかは関係ない。
でもその中で境界線を引いた時、とてつもなく、この場所に存在してて本当にいいのだろうかと疑問さえ感じてくる。
あの人の顔を直視できない。

それは、凛汰郎と雪菜はお互いに感じるようになっていた。

告白のような発言をされた雪菜は、逐一に斜め後ろから視線を感じる。

目が合いそうになると何事もなかったようにそらした。

そんな時間が煩わしさを感じる。

いつもより長い学校の授業がやっとこそ終わろうとしたとき、
教室を出てすぐの廊下で雪菜は、凛汰郎の前を通り過ぎた。
 
合皮でできた茶色のスクールバックについていたクマの小さなぬいぐるみが3つのうち、1つがポロンと落ちた。
落ちたことに気づかなかった雪菜は、そのまま進んでいく。

凛汰郎は、耳につけたワイヤレスイヤホンを外して、廊下に落ちたふわふわでかわいい白いクマのぬいぐるみを拾おうとすると、
今度は自分のイヤホンがポロンと落ちた。

「白狼!」

声をかけると、後ろを振り返った瞬間に今度は、凛汰郎の片方イヤホンの上に
雪菜の足が乗っかった。嫌な音が廊下に響いた。

「これ、落ちたぞ」

 左手にしっかりとつかんだ白いクマのぬいぐるみは、雪菜の目にしっかりと見えたが、それ以上に変なものを踏んだとショックが 大きかった。

「なんか、踏んだんだけど……」

 雪菜が足をよけると、白いワイヤレスイヤホンの片方が落ちて、バラバラに壊れていた。
 しゃがんで、まじまじと見て、目から大粒の涙がこぼれた。

「凛汰郎くん、ごめんね。私、踏んだみたい」
 
 凛汰郎は、怒る様子はなく、同じようにしゃがんでお陀仏になったイヤホンを拾った。

「……足、大丈夫だったか? そっちってけがしたところだろ?」

 泣きながら、目をおさえた。怒られるのではなく、心配されるとは思ってもみなかった雪菜はさらに涙が出た。

「痛かったのか?」

 黙って首を振った。泣きたいのはイヤホンを壊された凛汰郎のはずなのに。

「そっか。大丈夫ならいいんだけど、これ、チェーン外れてるけどいいのか?」

 バックにつけていた白いクマのボールチェーンがどこかに落ちたらしい。イヤホンよりも雪菜の所有物の方を心配している。

「なに、なに。どうしたの? あー、平澤、雪菜泣かした~」

 緋奈子が2人のそばに駆け寄ってきた。

「緋奈子、違うの。私が、ひどいことしたの。凛汰郎くん、これ、弁償するから。これと同じの買うから」
「……いい」

 緋奈子が近づいてきて、不機嫌になった凛汰郎は、そそくさと立ち上がって、階段の方に行ってしまう。
 納得できなかった雪菜は、追いかけた。

「緋奈子、ごめんね。先帰るね」
「え、ああ、うん。またあした」

 緋奈子は、何かまずいこと言ったかなと気にして、さっぱりと別れを告げた。急いで、駆け下りて、凛汰郎の前にたちはばかる。

「それ、一緒に買いに行こう。私、ワイヤレスイヤホン?だっけ。使ったことなくて、どれを買えばいいかわからないから、来週の日曜日、一緒に買いに行こうよ。えっと、でも、塾あるかな」

 慌てた様子で雪菜はジェスチャーで説明する。ちょっとうれしくなった凛汰郎は頬のはじっこを赤らめた。

「……午後からなら。塾の講義終わってからなら行ける」
「ほんと? んじゃ、駅前で待ち合わせでもいいかな」
「そしたら、白狼のそれのキーホルダーチェーンも買ったらいい」
「ああ、そっか。そうだよね。たぶんこれは、百円ショップとかで売ってるかもしれないよね」

 雪菜は、おもむろにバックからスマホを取り出した。

「連絡先聞いてもいい? あ、でも、彼女でもなんでもないのに交換するの変かな」

 あたふたして、バックから取ろうしたらなくてよく探してみたら、ズボンのポケットにスマホが入っていた。

「はい。……どうぞ」

 返答する間もなく、ライン交換をした。3年間ずっと一緒の部活であるにも関わらず、グループラインで接点はあっても全然交流する機会はなかった。個人ラインは初めてだった。

「ありがとう。んじゃ、来週って言ったけど明後日ね。ごめんね、その間音楽聴けないけど。」
「全然……。俺は平気だけど」

なんでもない顔を装っていたが、本当は心の底からうれしかった。
雪菜も部活以外の理由で接点が持てて笑みがこぼれていた。
残った2つのぬいぐるみは仲良さそうにくっついていた。
階段の踊り場で、お互いに長く話せるなんてと心臓の音が鳴りやまなかった。
ざわざわとにぎわう駅前のステンドグラス。改札口を抜けてすぐにドキドキしながら、辺りを見渡した。よくよく考えてみると、凛汰郎と待ち合わせしてる時点でこれはデートというやつではないでしょうかと変に意識して顔を下に向けたまま、カーキ色のカジュアルスエットパーカーの袖口に口を隠して、待っていた。いつもよりおしゃれを気にして、黒のスキニーパンツと紐付きのスニーカーを履いていた。学校では制服やジャージ、弓道着しか着ていない。私服姿なんて見られたことがない。
想像以上に緊張度がマックスになって、頭から煙が出そうになった。

凛汰郎は、コードありイヤホンを外し改札を抜けて、待ち合わせ場所のステンドグラスを見渡したが、
それらしい人がいなかった。制服じゃない私服姿を見たことがないのを思い出す。

雪菜はポニーテールではない違う髪型のおだんご結びをしていた。近くにいるが、お互い気づいていない。
凛汰郎はというと、黒のチェスターコートと白いニット、黒のスキニーパンツ、黒の革靴を履いていて、高校生には見えなかった。
とりあえず、待ってみようと、佇んでいると知らない女の人に声をかけられたりして困っていた。
ざわざわしている方に、雪菜は野次馬のように目がいってしまう。

目をこられて、見つめると、私服姿の凛汰郎が、大人っぽい女性にナンパされているのが見えた。超絶恥ずかしくなって、その場から逃げ出した。いつもの雪菜から気軽に話しかけるのに今日は違っていた。私服だからか。学校ではないからか。いつもの調子が出ていない。こんなに意識して男子と話したことないのに。

歩幅を大きく、デパートに続く連絡通路を歩き出した。ななめにかけていたショルダーバックの皮ひもを強く握りしめる。

(もう逃げ出したい。何だか自分がみじめになる。もう遠くにいこう)

 誰にも声を掛けられない嫉妬してるのかこの状況に耐えられないかわからない。

「おい!」

 走って追いかけてきた凛汰郎が、雪菜の左腕をつかんだ。
 はっと気づき、足がとまったまま、振り向かない。

「髪型、いつもと違うから気づかなかった」
「……声かけられてたから話しにくかった」

「え、さっき見てたんなら、声かけろよ」

 凛汰郎は、頭をかきあげた。雪菜は横目で確認する。学校の印象とまるで違っていた。あんなに人を寄せ付けないオーラを
 発しているのに、外出ると、雅俊となんら変わりない雰囲気。ちょっと浮いている。
 本当はこれが平澤凛汰郎なのか。一歩雪菜の前に進んで指をさす。

「雑貨屋でいいんだろう。あの黄色い看板のところ? それとも家電量販店」

 気合い入れて今日の服を決めてきていた凛汰郎。いつもは半そで短パンに長袖にジーンズで済ませている。今日のために新調していた。

「雑貨屋でいいよ」

 雪菜は気持ちを切り替えて、凛汰郎を通り越し、出口方向へと先に進む。後を追いかけて、雪菜の横に移動をした。こんなに近くで歩くのは初めてだった。通行人が行きかう中、雑貨屋に向かう。2人ともどこかぎこちなく、ドキドキして。まともな会話ができていなかった。この調子で2人の初めてのデートが始まった。
後ろを気にせずにペデストリアンデッキを歩いて行く。

目的地の雑貨屋デパートの入口に着いてもなお、後ろを向かずにさっさと、エスカレーターを登っていく。
声をかけてとめようとするが、雪菜はあきらめて、そのまま一人歩いて行く。

ハッと後ろを振り向いた凛汰郎は、雪菜がいないことに気づく。
まったく知らない女性が下の段のエスカレーターに乗っていた。
小さなため息をついて、3階の踊り場で待っていた。

雪菜は、下を向いたまま、3階におりる。
声をかけるのも恥ずかしさがあった。

「……悪かった」

顔を横にして、雪菜はふくれっ面になっていた。

「迷子になったら困るから、こうしておこう」

 凛汰郎は、雪菜の右手を自分の左手でつかんで、さらに上の5階フロアに向かった。この瞬間が初めて手をつなぐのが
 初めてだった。無意識に手をつないでる。凛汰郎は雪菜を子どもかのように保護者目線で対応をしていた。
 
 雪菜はそんなふうに思われているなんて思いもしていない。
 でも、目的地って一体どこだったのか。

 頭が働かなくなっていた。

 つないだ手が想像よりも骨骨していて、細い指ひとつひとつが暖かいことになんだか、胸がどきどきと気持ちもホクホクしていた。手汗がかいてないかも気になる。

 「あのさ、ここでいい? ついでに見ていきたいんだけど」

 凛汰郎は、音楽フロアコーナーを指さした。せっかく手をつないでいたのが急に離れて寂しくなった。

「……あ、えっと、うん。あれ、そういや、なんでここに来たんだっけ」
「これ」

 凛汰郎は、自分の耳を指さして、アピールする。

「あ!! ワイヤレスイヤホンだよね。その節は、本当にごめんなさい」

 何度も謝る雪菜は、申し訳なさそうに顔を上げてとジェスチャーする。

「選ぶから、見てよ」
「うん。わかった」

 2人は、縦並びに店の中に入って行った。イヤホンコーナーでは、ワイヤレスイヤホンとコード付きイヤホンといろんな種類のものがあった。

「これいいかもなぁ……」

 商品を手に取り、雪菜に見せる。

「え?!! それはちょっと……。いくら弁償するって言っても高すぎるよ……」

 凛汰郎は反応を見たかったようで、わざとお高いワイヤレスイヤホンを出して見せた。金額は10950円と書かれている。

「嘘に決まってるだろ」
「え……」

 舌をペロッと出す。

「これで勘弁してやる」

 高いイヤホンの隣にあった3000円相当のワイヤレスイヤホンをぽいっと雪菜の両手に渡した。
 ほっと一安心した半面、凛汰郎にこんな茶目っ気あったかなと信じられなかった。

 いつも部活では終始真面目な様子で、違ったいじわるのされ方していたのに、前と違う性格にどぎまぎしていた。

「ちなみにこれより安い商品は、コードつきイヤホンだよね」
「一番安くてその金額が相場だよ。俺が前買ったワイヤレスイヤホンはそれくらいの値段」
「そうなんだね。私が壊してしまったんだから、仕方ない。しっかりと弁償させていだたきます」
「ああ」

 腕を組んでうなずいた。雪菜は凛汰郎から渡された商品をレジカウンターに持って行った。
 本当は壊したものを買ってもらうつもりなんてさらさらなかった。会う口実ができていたため、本来の思いと違う行動をしていた。私服姿で雪菜に会うことは今までなかったため、興味本位もある。

 申し訳ない気持ちを解消するために凛汰郎は何かを企んでいた。

「こちらをお受け取りください」
「あ、どうも」

 無事、雪菜が買ったイヤホンは、凛汰郎の手に渡った。

「これで任務完了だね。よかった」

 雪菜は胸をなでおろした。

「これで許したとは言ってないけどな」
「え?どういうこと」

 目を丸くする雪菜。

「ちょっと、来てほしいんだけど」

 また迷子になると心配した凛汰郎は自然に手をつないでいた。拒否する理由も見つからない雪菜は言う通りに着いて行った。
不意うちにまた手をつながられた雪菜はドキドキしながら、後を着いていく。何も断ることができなかった。
でもどうしても手を離さなければいけないことが起きた。

「ごめん、凛汰郎くん。トイレに行ってきてもいいかな」

 いきなりパッと手を離す。急に進行方向を切ったハンドルみたいにポケットに手を入れている。

「ああ、どうぞ」
「ごめんね。すぐ戻るから」


 雪菜は、エレベーター近くの女子トイレに駆け出した。手持ち無沙汰になった凛汰郎はキーホルダー雑貨が並ぶ商品を
 眺めては何かを閃いて、レジカウンターに持って行った。無表情だった顔が笑顔になっていく。トイレの鏡を見つめ、深呼吸をした。いくつ心臓があっても足りないくらい鼓動が早かった。


 (イヤホンを買って終わりだと思ってた……。一緒にいて大丈夫なのかな。嫌いじゃないとは言ってたけど、好きではないだろうなぁ)


 バックに入れていたハンカチでぬれた手を拭いた。トイレの通路から、お店の方に行くと凛汰郎が待っていた場所にいなかった。どこに行ったんだろうと辺りを探す。どこにもいなかった。雪菜が探してた頃、凛汰郎は、レジカウンターで商品のラッピングを頼んで待っていた。雪菜はスマホを取り出し、初めて、凛汰郎に電話をかける。無意識だった。ポケットに入れていたスマホのバイブがなる。気づいて、すぐに電話に出た。

「もしもし……」
『凛汰郎くん、今どこ? トイレから出たところなんだけど……』

 いつも通りの会話ができていた。

「あー-、もうすぐ終わるからそこで待ってて」

 凛汰郎は、雑貨スタッフからラッピングされた商品を電話をしながら受け取った。スタッフより雪菜を優先していた。待たせるのは悪いと駆け出して、さっきのトイレの前に行った。

 雪菜は、壁を背にスマホをポチポチと触っていた。誰からかラインが来ていた。凛汰郎は、ラインの相手に嫉妬した。今、雪菜と一緒にいても、まだ心はつながっていないんだろうなと思っていた。声をかける前に雪菜が先に気づいた。

「あ、凛汰郎くん。もう、どこに行ったのか心配したよ。迷子になるのはそっちじゃない?」
「……迷子じゃないよ。これ買ってたから」

 手に持っていたピンクのかわいいラッピング袋を見せた。

「誰かにプレゼント?」

 自分へのものじゃないとすぐに解釈する雪菜。凛汰郎は袋を雪菜に押し付けた。

「今日のお礼」
「え? なんで? 弁償するのは私の方だしお礼なんて、いらないよ」
「バックに付いてたクマ、壊れてただろ」
「そ、そうだけど……」
「ほかに渡すやついないから。ん!」
 
恥ずかしそうに顔を向こう側で手だけ雪菜に伸ばした。

「あ、あー、ありがとう。開けてもいい?」

静かにうなずく。雪菜は袋から商品を出すと、中からいつも持っているクマとは全然違っていたが、同じ大きさの可愛いグレーの狼のぬいぐるみだった。ボールチェーンがついていて、バックにつけられるものだった。

「可愛いね……何か凛汰郎くんみたい。クマじゃないけど」

雪菜はずっとぬいぐるみをぐるぐるとまわして見つめた。

「え、嘘。クマじゃないの? クマだと思って買ったつもり……。ちょっと買いなおしてくる」
「別に、いいよ。これで。選んでくれたんでしょう。大丈夫だから。可愛いし、クマじゃなくても。凛汰郎くんにそっくりだから、
 むしろこれで」

 雪菜は、凛汰郎の顔の横にぬいぐるみを垂らしてみた。くすくすと笑う。

「俺にそっくりってどういう意味だよ」
「そのままだよ。ねぇ、それより、あとどこに行くの?」
「……何かわけわかんないけど。アーケード行こうかと思ってて」
「そうなんだね。んじゃ、行こうよ。あっちから行く?」

 雪菜は、自然と凛汰郎の腕をつかんで、出入り口に進んだ。凛汰郎は頬の端っこを少し赤くして、言われるまま着いていく。ペデストリアンデッキでは、男性がストリートスナップをモデルさんのようなスタイルの良い女性をパシャパシャと撮っていた。通行人がちらほらと通りかかったが、少し恥ずかしくなって、歩幅を縮めた。

 駅周辺でデートするのは初めてのことで緊張しっぱなしの2人だった。下の交差点ではクラクションが鳴り響いている。 
横断歩道で信号機の音が鳴った。たくさんの人が反対側の商店街に移動している。

遠くの方で救急車のサイレンが鳴っている。雪菜と凛汰郎は、いつの間にか数センチ離れて歩いている。
手をつないでいない。

この微妙な距離感。周りにたくさんの人がいる。見られるのが恥ずかしい方が勝っている。

目的地がわからずにただ、凛汰郎の後ろでアーケード商店街を歩いている。

ふと、気が付くと、凛汰郎が、雪菜の方を見て、右側の店を指さして誘導した。

「え、ここ?」

 キラキラと光りガチャガチャと音が鳴る。目の前には、大きな可愛いぬいぐるみがガラスケースの中に入っていた。
 お金を入れずにボタンを押してみる。何もならないのはわかっていたが、突然、音楽が鳴る。

 凛汰郎が100円玉を入れた。

「1回やってみなよ」
「え?! これ、どこ狙えばいいの?」
「このぬいぐるみの脇にアーム寄せれば取れるかもしれない」

 UFOキャッチャーの機械を右から横からのぞいてどこを狙うかを吟味した。
 
 今のゲーム機械は進化していて、確率機でアームが緩くなったり、きつくなったりと変則的に力が変わる。それが運良ければ、少額でとれることもある。のめりこみすぎると散財してしまう。
 
「……無理だぁ。取れなかった。つかんだと思ったら、すり抜けたよ」
「俺、やるよ」
 
 凛汰郎は、両替してきたばかりのお金を一気に500円入れて、回数を増やした。この機械は100円で1プレイだったが、500円入れると6回できるお得になるものだった。

 右から左からといろいろ試しては、最後の6回目にタグに見事に引っ掛かり、景品出口まで落ちてきた。

「よっしゃー」
 
 見たことない笑顔で喜んでいる。こんな一面もあるんだなと少し安心した。

「何笑ってんだよぉ」
「ううん。何か普通の高校生なんだなって思っただけ」
「は? 俺が普通じゃないって言いたいわけ?」
「そういうことじゃなくて、凛汰郎くん、いつもロボットみたいに学校いるとき、こわばってるから、今みたいな笑顔見せると
 みんなも接しやすいのにって思っただけ……」
「俺、人間嫌いだから。愛想ふりまく意味わからない。人に媚び売ったり、ごますったりするの好きじゃないから」

 急に顔が暗くなった。せっかく笑顔をほめたのに機嫌が悪くなった。

「え、でも、なんで、さっき笑ってたの?」
「知らない。笑いたくて笑っただけだし……」
「ふーん。そうなんだ」

 ぎゅっと持っていたぬいぐるみを雪菜に手渡した。

「え?」
「これ、やる」
「もらっていいの?」
「ああ」

 顔を向こう側にして、恥ずかしいそうに頬を赤らめていた。

「ありがとう。うれしい。大事にするね。今日は、なんだかもらってばかりだね」

 ふわふわ素材でできたの真っ白な可愛いうさぎのぬいぐるみだった。雪菜の笑顔がキラキラと輝いて見えた。さらに耳まで赤くして、商店街の通路に走っていく。あまりにも雪菜が可愛くて、照れているようだった。

「え! ちょっと、凛汰郎くん、置いてかないでよ。早いよぉ!!」
 
 数メートル先をささっと早歩きで進んで行く。雪菜は、必死で追いかけた。近くで鳩がぽーぽーと鳴いている。

 2人横並びにならぶとはたから見たら、彼氏彼女と見られても全然おかしくない後ろ様子だった。

 帰りにハンバーガーショップによって、ランチを一緒に食べた。待ち合わせた場所で別れを告げて、その日は、何も進展せずに終わりを迎えた。

 
 
◇◇◇

 雪菜は自分の部屋について、テーブルの上にUFOキャッチャーで取ってもらったぬいぐるみをポンと置いて見つめ合った。
 ふわふわで赤いキラン光る眼、ピンク色のリボンを首につけている。ぎゅーっと抱きしめた。
 目の前に凛汰郎は、いないのにいまだに心臓が早く打ち鳴らす。

 ワイヤレスイヤホンを弁償するだけかと思っていた。ゲームセンターでぬいぐるみを取ってくれたり、おみやげの狼の小さなキーホルダー買ってくれたりどうしてそういうことをしてくれるのか不思議でありがたさより、申し訳なさが勝つ。

 部活で接してる時よりも表情が柔らかかった。話し方が優しかった。周りに知っている人がいないためか。雪菜は純粋に違った凛汰郎を見て、ますます気になる存在になってきていた。

 ベッドの上、うさぎを抱きしめて、眠りについた。どんな安眠グッズよりも優れていた。
目覚まし時計がジリリリリと部屋中に鳴り響く。

「姉ちゃん!!! うっさい!!」

ベッドから起きない雪菜。寝返りを打っては、うーんと唸る。隣の部屋から大きな声を出す徹平。我慢できなくなって、扉をガンッと開けて姉の部屋にズカズカと入る。ベッドの宮に置いていた大きな目覚まし時計の
スイッチをオフにする。一度だけ止めるボタンではない。スヌーズ機能までオフになるものだ。

徹平はイライラしながら、結局その行動で1階のリビングへと移動する。雪菜はずっと寝ている。起きもしない。

「徹平、おはよう。起きたのか」

コーヒーを飲んでいた父の龍弥が声をかける。台所で朝ごはんの準備をしていた母の菜穂は後ろを振り向いて、声を出す。

「徹平、おはよう。お姉ちゃんはまだ起きないの?」
「おはよう!! あいつは、起きない。また目覚まし時計無視して寝続けてるから止めてやった」

 どや顔で腕を組む。

「なんで起こさないのよ!! まったく、遅刻するじゃない。お父さん、起こしてきて!!」
「えー-、なんで、俺が。女子の部屋はお父さん入らない方がいいじゃないの?」
「いいから!! もう、雪菜にはそういうのないから早く、起こしてきて!!」
「はいはい」

龍弥は、コーヒーを飲み干して、階段をのぼっていく。徹平は、ぶつぶつイライラしながら、クローゼットで制服に着替えていた。雪菜の部屋の前に着いて、軽くノックをする。何の返事もない。まぁいいかと思いながら、龍弥はそっと中に入った。

いつもより部屋の中が片付いている。ベッドには、大きなぬいぐるみを抱き枕のようにすやすや寝ている雪菜がいた。

「でっけーぬいぐるみだなぁ。ゲーセンでも行ってきたのか? ……おーい、雪菜、朝だぞぉ」

そっと近づいて、肩を軽くトントンとたたいた。

「むにゃむにゃ…凛汰郎くん……」

(寝言か?!寝言なのか。誰だ、りんたろうだと?! あのチャラい芸人のことか? 雪菜、ああいうのが好きなのか?)

 めらめらと父の計り知れない娘愛が湧き出てきた。炎が燃えるように目が熱くなる。

「……え? 何。なんで、お父さん、そこにいるの?!」

 雪菜は、ベッドの下に置いていたクッションを龍弥の顔めがけて投げた。

「ブハッ!! 何、投げてんだ?!」
「クッションを投げました!! 勝手に入ってこないで。女子の部屋はお母さんだけって前に言わなかったっけ?!」
「なに?! 聞いてないぞ」
「もう、いやだ。制服着替えるから、あっちに行ってて」

 背中を押して、部屋から追い出す。とりあえずは、起きたため、父のミッションは完了した。
 もやもやした気持ちを残したまま、龍弥は、1階におりていく。

 高校生というお年頃。親子関係は難しいものだ。放っておいてはいけないし、近づきすぎてもいけない。反抗期なのだろうか。

ため息をつきながら、全身鏡を見ながら、ワイシャツの袖に腕を通し、制服のスカートに足を通す。セミロングの寝ぐせのついたセミロングの髪にヘアスプレーをかけて、とかした。目の下についていた目ヤニをティッシュでふき取る。

CCクリームを顔に塗りつけて、眉毛を描いて、ビューラーでまつげをあげてマスカラを使って目を大きくさせた。

「よし、これでいいな」

リップクリームを塗って、鏡をもう一度見た。前髪の位置が気になった。くしでとかして整えた。

「雪菜!! 時間大丈夫なの?」

1階から、菜穂が叫ぶ。

「今行くー」

 机に乗せていた茶色のバックの中に充電していたスマホを入れて、持ち上げた。もらったばかりの狼のぬいぐるみが揺れていた。ベッドに寝かせていたうさぎのぬいぐるみをハグして、部屋を出た。

「間に合わないから、今日、朝ごはんいらない」
「はい、お弁当と水筒」
「ありがとう」
「このパンくらいなら食べられるでしょう?」

 菜穂は、小さなクリームパンを差し出した。

「うん。それなら、大丈夫。行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 雪菜は、パンを口にくわえて、玄関のドアを開けた。

「雪菜、行ったのか?」
「うん。今行ったよ。ほら、徹平、ごはんのんびり食べてないで準備しなさいよ」
「ほぉーい」

 パクパクとお茶碗を持って食べきった。

「ごちそうさまでした」
「お父さんも、食べ終わったら、食器片づけてね」
「ああ、わかってるよ。ったく、俺は雪菜起こしに行かない方いいだろ。クッション、顔に投げられたぞ」
「え、そうなの。ごめんなさい。いろいろ準備して忙しくしてたから。お年頃だってこと忘れてたわ」
「それに、さっき『りんたろう』とかってつぶやいてたし、雪菜、いつの間にチャラい芸人好きになったんだと思って……」

ぶつぶつとつぶやく龍弥。

「え?!姉ちゃん、そんなこと言ってんの?」

 口に歯ブラシをくわえたまま、龍弥の声に反応する徹平。洗面所から食卓に移動している。

「徹平、歯磨き終わらせてから話せって。垂れてるぞ」
「雪菜がりんたろうっていうの? ぜんぜん、テレビ見てても反応してないけど、むしろピンクの頭の人がいいって言ってたよ。聞き間違いじゃない?」
「え、それって、平澤先輩のことじゃねぇの? 確か、まーくんが言ってた気がする。ムカつく先輩がいるとかって
 ライバルとか言ってて……。確かそれが、平澤凛汰郎先輩って言ってたような……」
「ふーん。リアルな友達ってことか。なおさらだな。徹平、姉ちゃん、ちゃんと見て置けよ!!」

「え、なんで俺が……。まぁ、良いけど」
「お父さん、雪菜の干渉しないの。親子関係崩れるわよ。様子見ておきなさいよ」
「……もしそれが彼氏だったら、どうするんだよ」
「どうもしないわよ。娘のことで嫉妬? やめなよ。父親として嫌われるわよ」
「……マジか」

 急にテンションが下がる龍弥。

「お父さん、俺がちゃんと監視するから安心して。ね」
「おう、任せた」
「放っておけばいいのに……。この親子は」

徹平は、歯磨きを終えて、寝ぐせを直すことも忘れて、学校に向かった。雪菜に彼氏ができることにもやもやする龍弥だった。