1年前のこと
ミンミンゼミが勢いを増して鳴く暑い夏だった。
白の背景に青と紫の朝顔が描かれた浴衣を着た女性が下駄を履いて少し小走りに進んでいた。手には花火のイラストが描かれたうちわを持っていた。灰色のジンベイを羽織った男性が、保護者目線で追いかける。
「まーくん、早く行こう。私、りんご飴食べたいから」
「梨沙は、お祭りになるとなんでそんなテンション高いの?」
2人の下駄のカランコロンと地面に打ち鳴らす音が響く。
「だって、私、好きなんだ。お祭り。まずはかき氷でしょう、そして、フランクフルト、焼きそば。あ、大事なりんご飴」
「食べ物のことしか考えないんだなぁ」
「もちろん!花火も見るよ。今、午後5時だから、確か花火は午後7時からだよね」
「そうだな。まだ5時15分だから」
あまりにも楽しいようで後ろを向きながら、齋藤雅俊の顔を見る。
「何だよぉ」
「だって、まーくんがじんべい着るとは思わなかったから」
「梨沙が着てこいって言ったんだろ?」
「うん、そうだけど」
村上梨沙《むらかみりさ》は、齋藤雅俊の5歳年上の大学生だった。コンビニのバイト先でたまたま一緒になり、仲良くなった彼女だった。この時は、雅俊が高校1年になったばかりだった。雪菜とは、中学の受験で忙しくなった以来会っていなかった。ささっと雅俊の横に移動して、腕を絡めた。
「楽しい」
「すぐ、そうやって言えるんだよな」
「え、だめ?」
「別にいいけど」
「いいじゃん。楽しいことを楽しいって言っても」
その言葉にフラッシュバックした。誰かも同じこと言っていた気がした。あいつも同じだ。感情表現をすぐ言葉にする。
楽しい時は楽しいと嬉しい時は嬉しい。悲しい時は、涙を流して、静かに寄り添う。どうしても重ね合わせてしまう。
幼稚園の頃からずっと一緒に過ごしてきた白狼雪菜も、今ここにいる彼女も性格が似ていた。
どうして、彼女を選んだのか。告白されていいよと返事をした理由は、笑顔が絶えず、楽しませてくれること。それより何より幼馴染に似ていたところだった。
パズルのように梨沙の顔と雪菜の顔を照らし合わせてしまう。首を横に振って、ごまかした。
「まーくん、何したの? 行くよ? 露店見つけたから。あ、キッチンカーもたくさん来てたね」
手をがっちりと握られて、梨沙のペースにのまれていた。本当は、自分が引っ張っていく性格のはずだった。でも年上ということもあり、こうしようああしようにうんと頷くことが多かった。その方が居心地が楽というのもある。
「好きなの買ってもいいかな」
「いいよ、今日は俺におごらせて。この間は、梨沙におごってもらったから」
男たるもの、食事は自分からというが、梨沙は男も年齢も気にしていなくて臨機応変にその時にお金を持っている人が払うというスタイルが多かった。今日は、お祭りという予定があったため、銀行からバイトで稼いだお金をしっかり財布に入れていた。
「私も財布に入れてきたけど、んじゃ、前におごってもらったから今日はお言葉に甘えちゃおうかな」
「おう。いいよ、別に。バイト始めたばかりだけどね。今日くらいはいいかなと」
「よぉーし、んじゃ、行こう」
キャキャ喜んで、はしゃぎながら、梨沙は雅俊の手を繋いで、露店をまわる。コンビニのバイト先で4月に会ってから、
3ヶ月は経っていた。お互いに会った後、意気投合して、1人暮らししていた梨沙のアパートに
ちょこちょこと遊びに行っては、仲を深めて行った。
他県から引っ越しして、1人暮らしを始めて2年目。土地勘も慣れて来て、大学に通うのも慣れて来ていた。
バイトは生活の一部。その中での高校生で新人の雅俊に指導係に抜擢されてから、今に至っている。
元々社交的だった雅俊だが、遠くから引っ越してホームシックになったりする梨沙がかわいそうと思う部分もあり、
高校生ながら、心配していた。初めは1人の時間を穴埋めるためゲームを一緒にする友達から、一緒にご飯を食べる仲に。そして、徐々に恋愛対象へと発展した。これまで、まともに交際をしたことない雅俊にとって、梨沙は少し大人な女性に見えた。どんなことも受け入れてくれることに心が満たされた。でも、どこか何かと投影する。真っ暗な堤防の上から2人並んで座って花火を見上げた。
お互いに地面に置いて繋いだ手は熱かった。いい雰囲気に顔を近付けた。頬に指をふれて、優しく口付けた。遠くで和太鼓の音楽が流れている。露店の明かりが漏れていた。打ち上げ花火が連続で打ち上がった。
額同士をくっつけて無意識に
「雪菜……」
雅俊は、名前を間違えた。
「え?」
「あ、う、あーーー
ゆきなってるなぁって」
「どういう意味?」
「な、なんでもない。今のなし」
「名前、間違ったでしょう」
「え、あーーどうだったかな」
後頭部を手で何度もかいた。
「知ってるよ、まーくん、寝言で言ってたから」
「え?」
「ウチに泊まりに来た時とか。明らかに私じゃない名前言ってた」
「……あー」
「その雪菜って人が忘れないんでしょう。本当は」
「うっ……」
「最近、おかしいなぁって思ってて。いつも誘うの私からだし、行動するのも決定するのも私だから。何か付き合うってこんなんじゃないかなって思ってて」
両膝を抱っこして話す梨沙は、下を向いて落ち込んだ。
「ずっと本当は片想いだったんだなって今の言葉で気づいたよ。まーくんは優しすぎるから、本音隠していいよいいよって言っちゃうんだよね。お人よしすぎるよ。それがまーくんのいいところなんだけどさ。体がこうやって手を繋いだりしてても、心が同じ気持ちでいるかなんてわからないんだよね」
雅俊の右手をじっくりと触って、指の細さを確認した。雅俊は何も言えなくなった。
「今日、本当に楽しかった。ありがとうね。まーくん、今までありがとう。私、この夏の思い出絶対忘れない。名前を呼んだその子と幸せになってね」
「梨沙……。俺」
梨沙は自分の人差し指を雅俊の唇にあてた。
「しっ。もう何も言わないで。私、これ以上、傷つきたくないの」
梨沙の目にはたっぷりの涙で潤っていた。
「……」
「恋人同士ではなくなるけど同じバイトの先輩後輩として続けていきましょう」
静かに頷いた。
何もいうなと言われたため、ずっと話すことができなかった。
「ごめん。梨沙。ありがとう。帰りくらいは送らせて」
指と指を絡ませた。
「いやだ。やめて。もう、惨めになるのは嫌なの。そっとしといて。雅俊をこれ以上嫌いになりたくない」
繋いでいた手をパッと離した。
「まだまだ付き合うのとか高校生だし経験が浅いと思うけど、本当の気持ちは隠さずに言わないといけないよ? 私みたいに傷つく女子が増えちゃうから」
「そうだよね、気をつけるよ」
「んじゃ、ここでさよならだね」
「うん」
梨沙は手をふって別れを告げた。名残惜しそうにお互いに振り向いては戻ってを繰り返しながら、家路を急いだ。お祭りの終わったあとの寂しい雰囲気のまま心がぽっかりと穴が空いたようだった。
雪菜が入院して、1ヶ月が過ぎた。
理学療法士のリハビリの指導を
熱心に受け続け、どうにか松葉杖を
使って歩けるようになった。
無事、退院もできて、久しぶりの自宅に帰ることができた。玄関のドアを開けて、両手を広げた。
「ただいまぁ〜。我が家」
後ろから父の龍弥が大きな荷物を抱えて、中に入る。ドサっと荷物を置いた。
「はいはい。おかえりなさい。雪菜、まだ誰も帰ってないよ?」
「え、そうなの?」
「今日、徹平は部活で遅くなるっていうし、母さんは残業だってさ」
「えーー、そうなんだ。でも、よく休み取れたね。お父さん」
「2週間前から、無理言って、有給消化させてもらったんだよ。娘が退院するからって!」
雪菜の頭を軽くポンポンとたたいた。
「あ、ありがとう」
「まぁ、親の役目ですからぁ? いいんだけどね。ほら、リビングに行ったら?」
「あ、うん」
雪菜は靴を脱いだあと、まだ慣れない松葉杖を使って歩いた。
「やっぱり、我が家は1番だよね。私がいない間、みんな寂しかったんじゃないの?」
「いや、あんまり変わりないよ? 徹平はヘッドホン無しでゲームし放題だって喜んでたし、母さんは何も言ってなかったけどな。
俺は、いつも通り仕事だしなぁ」
「え、ええええー。そこ本当のこと言っちゃうの?」
「あ、すまん。何も無くて……」
「お父さん、そうじゃなくてぇ。私がいないと何とかって……」
「あ、そうだなぁ。雪菜がいないと花が無いな。あと、締まりが無いっていうか。いつも徹平にツッコミするだろ。それが無くて、母さんに怒られて嫌な雰囲気になることはしばしばあったかな?」
「そうそう、そういうの聞きたかった」
「……はいはい。それは良かったですね」
龍弥は、ビニール袋から買い出ししてきた今日の夕ご飯用の食材を台所に出し始めた。
「ご飯だけど、適当にチャーハンとか餃子で良いか? 母さん、今日帰りで遅いって言うからさ」
「うん。なんでもいいよ。食べられるなら。お父さん、作れる?」
「おう。それくらいなら作れるさ。ほれ、お茶でも飲んで休んでおけ」
ペットボトルの緑茶を食卓に出す。雪菜は、ありがたく受け取って飲み始めた。フライパンのジューと音が聞こえてくる。
「ねぇ、お父さん。私、いつから学校通うんだっけ」
「今日が金曜日だから、来週の月曜日でいいんじゃないか? 杉本先生に連絡して聞いてたから大丈夫だ。しばらくは車で送迎するし、授業は受けておかないと単位取れなくなるしな」
包丁がトントンと軽快に聞こえてきた。手際よく料理始めた。冷蔵庫の中にあったしらすとキャベツを切って醤油などの調味料を入れて炒飯を作った。生姜ニンニクたっぷり入った挽肉を合わせ調味料で絡めたものを丸い餃子の皮にささっと包んでいく。フライパンに少量のお湯を入れて、餃子を蒸しながら火を通していく。
「よしこんなものかな。中華メニュー完成ね。さてと、雪菜の荷物片付けておくわ。母さんと徹平があと少しで帰ってくるからな、みんなで一緒に食べるか」
「そうだね。んじゃ、ゆっくりさせてもらうよ」
そう言ったが先か、玄関が大きな音を立てて開いた。
「こんばんはーーー。雪菜っちいますか??」
隣の家に住んでいる齋藤雅俊がやってきた。
「おお、なんだ。雅俊か。どうした? 雪菜、今日退院したところだぞ」
「おじさん。こんばんは。知ってて、来ちゃいましたよん。入っていいっすか?」
「どーぞ」
龍弥は別室で雪菜の洗濯物などの片付けに追われていた。雅俊はささっとリビングに入っていく。
「お邪魔しまーす」
「げっ!? 雅俊? 何しに来てるの?」
「げって、何さ。失礼だなぁ。退院祝いに、シャインマスカット届けに来たんだよぉ。あと、もう一つ、オーロラブラックっていう高級な品種も入ってるよん」
「あ、あー、わざわざありがとう。ブドウ類は好きだから嬉しいかなぁ。って、なんで、私が退院するって知ってるのよ」
「……ふふふ。なぜでしょう?」
「えー」
「教えてあげないよ。でも、雪菜の元気そうな顔見れたから元気出たわ」
雅俊はひらひらと手を振って、部屋を出ようとすると、母の菜穂が帰ってきた。
「ただいまぁ。あれ、雅俊くん、久しぶりね。雪菜に会いに来たのね。今日退院だから喜んでたんじゃない?」
「お母さん、ちょっとそれは語弊があるわ。喜ばないよ、別に私」
松葉杖をついて玄関まで歩いてきた。
「なんだ、雪菜、いたんじゃない。おかえり。何よ、小学生の頃、雅俊くん来ただけですごく喜んでたくせに、今は全然なの?」
「ちょっと待って、いつの話? 今、私、高校生だよ? そんな喜ぶわけないじゃない。犬じゃないんだから」
「えーー、喜んでもいいんだよ? 犬みたいじゃん、俺。ワンっ!」
雅俊は犬の鳴き真似をしてみせた。
「はいはい。そういうの良いから」
「おばさん、すいません。退院祝いに果物のブドウを持ってきましたんで、みなさんで召し上がってくださいね」
リビングの方を指さして、雅俊は玄関のドアを開けた。すると同時に徹平が帰ってきた。
「ただいまー。あれ、まーくん、来てたのね。久しぶりぃ〜。」
2人はグータッチで再会を喜んだ。
「てっちゃん、お久しぃ。今度、オンラインゲームしようぜ」
「マジで?! いや、あとででもいいよ。ちょっとゲームのIDとか教えてくんねぇ? ちょっと待ってスマホ今出すから」
徹平は慌てて、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「嘘、てっちゃんもゲームしてたん? 俺、ナイズドアクトって言うのやってるんだけど、知ってる?」
「マジで? 俺もやってたよ。テンション上がる!! ID送るから、ちょっとフルフルしてよ」
「おぅ。今、出すわ。ほい、まずはライン交換っと……」
「……ちょ、ちょっと2人で何盛り上がってるの?」
横から雪菜が声をかける。ゲームの話に2人は盛り上がっていた。話を全然聞いていない。
「今、ID送ったから、検索にかけてね」
「了解っす。んじゃ、22時くらいによろしくっす」
「うっしゃ、よろしく。んじゃ、またな。それじゃ、雪菜、お大事に。来週、学校でな」
敬礼するように挨拶すると立ち去る雅俊。帰ってきたばかりの徹平はスマホを見ながら、鼻息を荒くして興奮していた。
「何やってるんだ?」
龍弥が後ろから徹平のスマホの画面を覗く。
「まーくんも、このオンラインバトルロワイヤルのゲームやってるって言うからさ、今、ID教えてもらったんだよ。すっげ、楽しみぃ」
「あー、バトロワね、今流行りの。俺はやってないけど、生徒たちが言ってるの聞いたことあるわ。」
「ゲームやるの良いけど、夜更かししすぎないでよ?」
菜穂は徹平に注意する。退院の日だと言うのに、話題の中心が雅俊やゲームの中心の話になって、
何だか面白くない雪菜。頬を膨らまして、夕食はご不満の雰囲気に終わった。
それでも、雅俊の退院祝いのブドウは悔しいくらい甘くてすごくおいしかった。
今朝は、どんよりと曇り空で、低気圧が体に襲ってくる。
頭痛とだるさがズシンと体に張り付いて動かない。
そして、ベッドからも動かない。
2階の部屋に寝ていた菜穂は、壁掛け時計を眺めては何度も寝て起きてを繰り返した。
できることなら行きたくないのが本音だ。
ずっとこのまま布団の中ですやすやとっと考えていると、エプロン姿の母、菜穂がノックも無しに仁王立ちしていた。額に青筋が立つ。
「菜穂〜〜〜!! 車で送られるからって寝過ぎだよ!! 早く起きなさい!」
布団が剥がれていく。
(あーーー、あたしの布団〜)
目からキラキラとひかる涙。大きなあくびをしたときにこぼれていた。もう少し寝たい気持ちは大きかった。いやいやながらも、重い体を起こした。
「今、起きましたぁ」
「ほらほら、朝ごはんできてるから、食べなさいよ。足けがしてるんだから、制服着るのも
1人では大変でしょう。手伝うから!」
「えー、恥ずい〜。あっち向いててー」
「お母さんは女子だから、いいでしょう。文句言わずにパジャマ脱いで!!」
わーきゃーわーきゃー言いながら、朝の支度をした。食卓では、父の龍弥がめがねをかけて、コーヒーを飲みながら、タブレットで新聞を読んでいた。洗面所で必死に寝癖直しをしてる徹平は、何度もヘアスプレーをかけて、ドライヤーを念入りにあてていたが、まだちょんと立った寝癖がなおらない。
「あーーー、もう。最悪だ! なんで、この寝癖なおらないんだよ!」
騒いでいると龍弥が、やってきて、電気シェーバーで髭を剃り始めた。
「何、やってんだよ。寝る前にきちんと乾かさないからだろ?」
「だってさ、昨日、ゲームしててそのまま寝落ちしたんだもん。タオル、頭に巻いたまま寝てたの」
「いや、ゲームしててってする前にドライヤーで乾かせよ! そういうことしてるから寝癖つくんだつぅーの」
「いやだ。俺、今日、休む!!」
「……はぁ……。ったく、仕方ねぇなぁ。バブオか、徹平は」
龍弥は、シェーバーを棚に置いて、強烈に固めるヘアスプレーを取り出して、徹平の頑固な寝癖を整えた。
「ほら、こうすりゃ、いいだろ」
「おーーー! お?」
一瞬寝癖が消えて喜んだかに思ったが、見事な七三分けの髪型になった。
「お父さん!!! どこにサラリーマンのような髪型する中学生がいるんだよ!? やめてよ!」
徹平は、プンスカプンスカ怒っている。
「面白いなって思ったのにな。ったく、まぁ、こうじゃなくて無造作ヘアならぬ、ヘアワックスで散らばせばいいじゃねぇの?」
改めて、さらにヘアワックスで整えてもらったら、ごく自然な流れの髪型に変わった。
「できんじゃん!すっげー。見違えた。俺、イッケメーン! これなら学校行けるな」
ご機嫌になった徹平は鼻歌を歌いながら、朝ごはんを食べにいく。
「ふぅ」
龍弥はため息をついて、歯磨きをした。
「ありがとう。徹平いつもあんな感じですぐ学校休むって言うのよ。行きたくない理由は寝癖だったのね」
菜穂が台所からそろっとやってきて声をかけた。
「身だしなみを気にするってことはみんなからよく思われたいってことなんだろう。よく取れば、いいことじゃないの? 髪型を気にするんだから。それだけでって親は思うかもしれないけど大事なことだと俺は思うけどな」
「うん、そうだね。思春期だし、いろいろ気にする年だもんね。あ、そういや、脇の臭いのこともすごい気にしてて、すごい高い制汗剤買わされたのよ?! 安いのあるはずなのにさ」
「それで、学校行ってくれるならいいじゃないか」
「でも、1500円もするんだよ? 贅沢でしょう?」」
「確かに……。800円くらいで売ってなかった? てか、そんなに高いなら俺も使うかな。どれ?」
「それ」
菜穂は指さして、高級そうな制汗剤を、龍弥もつけてみた。確かにいいにおいで香水をつけているようだった。
「結構、においきついな」
「でしょう。たぶん、ブランド物なのかもしれない。いい香りなのはわかるんだけどね、つけすぎ注意だよね」
「なぁに話してるの?? お父さん、学校遅れちゃうんですけど」
洗面所に顔を出してきた雪菜。龍弥と菜穂が仲良く話してるのを見て、やきもちを妬いた。
「あー、はいはい。今行くから。忘れ物ないの?」
「うん。大丈夫。というか、徹平とも話しててずるい。私には興味ないの?」
「誰にやきもち妬いてるんだよ。話してるし、今から一緒に学校行くだろ?」
「そうだけど!! なんか、忘れられてる気がしたー」
「同じ屋根の下で暮らしてるだろうが。というか、洗面所とリビングの距離もそんな遠くないだろって」
わーわー騒ぎながら、車に荷物をつみはじめる。菜穂は車の助手席に乗って、ぎゅーと龍弥の腕を握る。
「俺は、雪菜の恋人か!?」
「違うけどぉー、お父さん。親子なんだから。大事にしてよ!」
「大事にしてるだろ。こんな学校の近くまで車に乗せてる優しいお父さんだろ?」
話しながら、運転しているといつの間にか熱が冷めたのか、スマホをポチポチといじり始めた。
さっきのは一体なんだったのかと疑問と怒りでしかない。
熱しやすく冷めやすい雪菜だった。
木の上で鳩が休んでいた。鳩の鳴き声が学校の中庭で響いていた。木で作られていた渡り廊下を弓道部の数名の生徒たちがキャッキャと騒ぎながら歩いていた。やっとケガが治って学校が解禁となった雪菜が部活に来るというを聞いていた後輩たちは喜んでいた。
部長がいないと部活動自体が成り立たないということがわかる。部長の雪菜がいない間はどうしていたかと言うと、代わりに凛汰郎が副部長として担っていたが、役割は果たしていなかった。部活に来ては、お辞儀をして挨拶したかと思ったら、すぐに矢を引きに行き、部員たちは基本放置して、それぞれやってくれというような雰囲気。3人同時に矢を引く射場があるのだが、凛汰郎はずっと端っこで独占して稽古していた。残りの部員たちは2箇所の射場を交代で稽古していた。凛汰郎はすべて黙ってこなしていくため、部員たちからクレームが上がっていた。
コミニュケーションがとにかく苦手の凛汰郎は行動や仕草を見せればすぐわかるだろうと浅はかな考えでいた。それはよろしくないと2年の菊地紗矢は、顧問の白狼いろはに相談した。職員室にて、いろはと紗矢は話していた。
「菊地、ごめんね。すぐに部活に顔出せればいいんだけど、こっちの業務も残ってて、どうした?」
「実は、雪菜先輩がお休みになってから部活の雰囲気が最悪なんです。先生、どうにかしてもらえます?」
「え、なんだって。もしかして、副部長の平澤の影響?」
「そうです。あんなに雪菜先輩に部長かわるかとか言ってる割に全然部活のこと考えていないんですよ、平澤先輩。自分だけずっと稽古して、ずるいんです。1人で何本矢を使う気なんだか……」
腕組みして、ため息をつく。
「えっと、ちょっと待って、一応は部活の決まりで1日何射までって決めてなかったかな。それ以上1人で練習してるの?」
「雪菜先輩休みになって、いなくなってからずっと、独占して同じ場所で黙々と……。後輩はどうするかとか考えてくれてないんです」
「コミニュケーションは苦手だろうなっていうのは知ってたけど、それほどまでに……。副部長にしたのは、3年が雪菜と平澤しかいないからなんだけどなぁ。よし、今日はこっちの仕事諦めて、部活に行くから。菊地は先に行っててくれない? 追いかけるから」
いろはは、席を立ち、引き出しに入れておいた帽子を頭に被った。
「わかりました。よろしくお願いします」
***
凛汰郎は、相変わらず、ずっと1人で矢を引いていた。数なんて数えずにとにかく、的を中央に射ることだけ考えて、目を酷使しながら、やり続けていると、校舎側から顧問のいろはと、菊地紗矢が弓道場に入った。殺気立っていたため、恐れていた後輩たちは端っこの方で見学をしていた。
「みんなお疲れ様〜。ちょっと話あるから、集合してもらえる?」
いろはのかけ声で、凛汰郎はハッと気づき、集合と叫んだ。弓道着を着てた部員たちが、いろはを中心に集まってきた。
「よろしくお願いします」
と副部長の凛汰郎が声掛けすると、みんなも続けて挨拶した。
「今、部長の雪菜がけがで休んでる訳だけど、代わりに副部長である平澤に役割を頼んでる訳なのね。ちょっと、相談受けたんだけど、部活動としてはよろしくない雰囲気だと聞いたけど、平澤何かある?」
「あー、すいません。稽古中、ずっと1人独占で矢を引いてました。納得のいく矢を引けば、参考にしてもらえると思いまして……」
「あー、ごめん。平澤、そのことを部員たちに説明してたのかな」
「……いえ。何も言ってません」
「そっか、何も言ってないのね。それでみんな誤解してるのよ。きちんと会話しよう。雪菜と平澤のやり方が違うのはわかるけど、混乱を招くからわからないことあったら、すぐに私に聞きに来て」
「そうですそうです!! しかも、平澤先輩ずっと同じ場所で、私たちばかり2つの射場をローテーションしてたので練習量が足りません。もうすぐ、新人戦あるのに……」
1年の楠木彩絵が叫んだ。鬱憤がたまっていたようだ。
「あ……」
やっと自分がやっていたことに気づいた凛汰郎は、居た堪れなくなった。
「そうだね。新人戦近いから、1年にたくさん練習させないと成績が上がらないね。んじゃ、ここから切り替えて、3つの射場でローテーションして、練習してもらっていいかな。あと、弓道は矢を的にあてることももちろん大事なんだけど、姿勢とか放つまでの工程とかが重要だからそこもしっかり練習してね。基本ルールの射法八節ね。忘れないように、ね! 平澤くん!」
いろはは、凛汰郎の肩を軽く叩いた。副部長として、役割を果たせないと感じた凛汰郎は、不機嫌になり、突然帰る支度を始めた。
「ちょ、ちょっと、平澤くん。何、帰ろうとしてるの?」
「俺、無理です。帰ります。新人戦の練習の邪魔しては悪いので、帰ります」
テキパキと荷物をまとめて、深々と姿勢良くお辞儀しては、更衣室の方へ行ってしまった。止める暇もなかった。
「先生、平澤先輩、帰ってしまいましたね」
「全く、これだから、雪菜いないと何もできないね。あの人は」
両手を腰にあてて、ため息をつく。
「え、そうなんですか? 平澤先輩が?」
「なんだかんだ言って、あの2人は、一緒にいて調和するっていうかバランス良いのよね。相性が良くないようにして、実は良かったりして? でも、みんな安心して。来週、雪菜が復活するから。まだ、弓道着は着れないけど、見学しながら、みんなの指導に入ってくれるから」
「本当ですか!? 楽しみです」
「それは嬉しいです」
他の部員たちも喜んでいた。一瞬空気がはなやいだ。
「もう、何だか今日は、しっくり来ないだろうからこれで終わりでいいよ。菊地、代わりに部員をまとめてくれる?」
「わかりました。それじゃ、後片付けしましょう!」
「はーい」
菊地に部長の仕事は任された。弓道場はさっきの殺気立った雰囲気から一気に柔らかくなった。部長が代わるだけでかなり空気感が違う。凛汰郎は想像以上に傷ついていた。役割を果たせなかったこととプライドがズタボロに崩れた。あんなに意気込んで雪菜に部長を代わると言ってた自分が情けなくなった。
「お疲れさまです。長い間、お休みしちゃってごめんなさい。みんな元気にしていたかな。これ、差し入れのバアムクーヘン持ってきたから食べてね」
雪菜は、制服姿のまま、松葉杖をついて弓道場に訪れていた。
手には紙袋にバウムクーヘンを部員のために買ってきていた。
「おかえりなさい。雪菜先輩。待ってましたよぉ。もう、大変だったんですから。いただきます、やったあ」
弓道着を着た1年の楠木が雪菜にハグをしてお菓子を受け取って話し出す。
「えー、どうしたの? 私いなくて寂しかった?」
「寂しいのはそうですけど、だってぇ、副部長の平澤先輩が……」
「彩絵、しっ!」
同じ1年の細川絵莉が凛汰郎が弓道場に入ってくるのが見えたのを指差した。
「あ……」
「なになに。もしかして、凛汰郎くんの話? 大体予測はつくけどね」
小声で話す雪菜は、後ろを振り返るとなぜか来たばかりの凛汰郎は、制服姿のまま校舎の方へ戻ろうとしている。
それに気づいた雪菜は慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと凛汰郎くん!! 待って、あっ……」
ズテンと転んだ雪菜。松葉杖が地面にひっかかっていた。膝をぶつけていた。
「いたたた……」
それに気づいた凛汰郎は、急ぎ足で戻ってきた。何も言わずに、腕を引き上げて起こしてくれた。
「あ、ありがとう」
「まだ治ってないんだろ……」
「う、うん。まぁ、そうなんだけど。部活始まるんだから、なんで帰るのかと思って」
「……帰ろうと思ったけど」
「え、なんで、帰るの?」
「やっぱ戻るわ。引き止められたから」
「ん?」
よくわからないまま、弓道場に戻ろうとした。
「白狼、俺、やっぱ、間違ってたわ」
後ろ向きのまま話し続ける。
「え? 何が?」
「部長代わるって簡単に言って悪かった」
「え、ああ。そのこと? 随分前のことだから覚えてないよ。気にしないで。ほら、稽古しに行こう」
本当はすごく傷ついていたが、傷ついていないふりをした。それを言ったことで凛汰郎が困るのを見たくなかった。顔がふっと緩んでいたのを見て、安心した。
「あのさ、白狼、入院してる時、花飾ってた?」
「え、あーー。そうだね。なんか、雅俊が贈ってくれたって言う話だけど、あの人花なんて全然興味ないくせに
変なのって思ってさ。ん? 凛汰郎くん、なんでそんなこと聞くの?」
その話を聞いて、凛汰郎は、ムカムカと止まらなかったが、グッと堪えて、耐えた。怖い顔をおさえるのが逆に
気持ち悪い顔になっていた。
「え、どうかしたの? すごい変な顔してるけど……」
「……いや、綺麗な花だったんだろうなって」
「ん? そうだねぇ……雅俊がソネットフレージュの花だって言ってて、それ違うよってソネットフレーズだよって教えてあげたんだけど」
状況が読めずに雪菜は花の出来事を話し続ける。
「え、ソネットフレージュでしょう?」
「え、違うよ、凛汰郎くん。ほら、見て」
雪菜はスマホを見せて、正式な名前を確認させた。
「あ、本当だ」
「ここにも間違う人いたね。雅俊と同じ間違いするんだ。男子って細かいところ
気にしないもんね。なんでだろう……」
そういいながら、スマホをぽちぽちと触ってバックにしまおうとした。
「それ、俺だから!!」
黙っていられなくなった凛汰郎は叫んだが、雪菜には理解不能だった。そこへ、雅俊が通りかかる。
「あ! 雪菜、大丈夫なのか? 今日から部活参加するの?」
「雅俊! ううん、今日は見学しながら、後輩指導だよ。まだ松葉杖だしね」
「そっか、あんま、無理すんなよ。ん、誰?」
雅俊は、雪菜の横に立ち、近くにいた凛汰郎を指差す。
「誰って指差すな。先輩。3年の平澤凛汰郎くんだよ。」
「あー、弓道部の。どうも。雪菜がお世話になってます」
「誰がお世話よ。保護者じゃないんだからやめて」
「……」
「ごめんね、凛汰郎くん。この子、ウチの近所に住んでて幼馴染なの。生意気だからしごいてくれないかな」
「そっか。どうも」
眼力を強めに凛汰郎は、雅俊を睨みつける。
「こわっ」
「こら!!」
「それじゃぁ、お邪魔しましたぁ」
雅俊は、睨みを恐れて急いで、体育館の方へ進んでいく。
「ごめんね。生意気で。申し訳ない」
「白狼が謝ることはない」
「まぁ確かに。んじゃ、行こうよ」
松葉杖を横に無意識に凛汰郎の制服シャツをくいっと引っ張った。
少し接近したため、凛汰郎は頬を赤くして黙っていた。
屋上に飾られているカザミドリがカラカラと急いで回っていた。
雪菜は、久しぶりに弓道場で、稽古を見学した。
まだ松葉杖をついていたため、本格的な稽古はできなかったが、雰囲気を味わい、自分も参加している空気感を取り戻した。
後輩たちは、真剣に的を当てにいっている。姿勢も正しくできていて、申し分なかった。
ふと、椅子にすわって見ていると頭の中でさっき凛汰郎がさけんだ『それ、俺だから』のセリフが頭の中から離れなかった。
(凛汰郎くん、俺だからってどう言う意味だったんだろうなぁ……)
ふと、稽古に熱心な凛汰郎を見ると、これから的を打つぞという体勢だったが、雪菜の視線が気になったのか、こちらをチラリと見ては、怖い顔をしていた。
(え、私睨まれてる? なんで?)
なんで怒っているのか謎だった。
(こっちジロジロ見過ぎだつぅーの。狙いがズレるわ。全く……)
そう思いながらも本当は見られて嬉しい凛汰郎だった。部長の雪菜が戻ってきてから、部活の雰囲気はいつものペースを取り戻した。和気藹々で、明るくなり、練習も順繰りできて、みんな気持ちはホクホクしていた。
複雑な気持ちがある凛汰郎も、ホッと安心していた。
「お疲れさま! ごめんね、遅くなった。みんな、調子どう?」
顧問のいろはが、弓道場の出入り口で声をかけた。
「みんな集合!」
先生が来たと分かると、雪菜の一声で円を囲むように集合し号令をかけた。
「よろしくお願いします」
「うん、うん。何だか、雰囲気見て分かるけど、調子良さそうだね」
「はい。部長が戻ってきたので、みんな喜んでます」
2年の紗矢が答える。
「本当は、どの人がいるいないに関わらず、やるべきことに集中してほしいものだけど、団体戦もあるから周りの状況把握も大切だよね。ま、これを教訓に次からは会話するべきところは会話して、連携組んでね」
「はい!!」
部員全員が返事をした。
「んじゃ、稽古の続けてください」
「はい!!」
それぞれに射場に戻っていく。
「雪菜、足はいつ頃から稽古に参加できそうなの?」
みんなが稽古に入っている中、いろはは、雪菜が座る椅子の近くまで、寄った。
「先生、やっとここに来れましたよ。ずっと寝てることが多かったからムズムズしてました。できることなら、早く稽古に参加したいところですよぉ」
いろはは、屈んで、雪菜の足の調子を確認した。
「あと、1・2週間ってところかなぁ? 大変だったよね。まさか、学校の前で交通事故になるとは……」
「あ、気になっていたんですけど、私が事故になった時って、誰が救急車とか呼んでくれたとかわかります?」
「えー……。確か、そこにいる平澤くんじゃなかったかな。目の前にいたって話してたよ」
「凛汰郎くんが?」
「ねぇ、平澤くん!!」
不意うちにいろはは、声の届くところで矢を引いていた凛汰郎に声をかけた。雪菜は声をかけないでほしいと
思いながら、鼓動が早くなった。
「え……。何の話ですか」
矢を引くのをやめてこちらに近づいてきた。なぜこちらに向かってくるんだと思いながら、雪菜はドキドキしていた。
「え、だから、雪菜が交通事故でけがしていた時、近くにいたんでしょう。平澤くんが救急車呼んだって話してたんだけど、そうなの?」
「あ、その話。そうですけど……」
目を合わせるのが嫌だったのか恥ずかしそうに斜め後ろを向く。
「あ、えっと、ありがとう」
「別に……」
後ろ頭をポリポリとかいて話す。
「平澤くんが、人のために行動するとは思わなかったなぁ。部活では、部員に関わらないでオーラ激しいのにね」
いろはが、感心していた。雪菜は、なんでだろうと思いながら、見ていた。
「当たり前のことしただけですから。目の前にけがとか病気で倒れてる人がいたら、助けるのが常識っすよね」
「ふーん……。全く知らない人でも 助けるんだ?すごいね」
いろはがカマをかける。
「んーー、それは……」
咳払いをして、ごまかした。顔全体に頬が赤くなっていく。
雪菜でなんでこんな顔するんだろうと不思議で仕方なかった。
「ま、ま。いいや。稽古に戻っていいよ。邪魔してごめんね」
「いえ、大丈夫っす」
そういいながら、元の位置に戻っていく。
「ちょっと、先生!! なんであんなこと聞くの?」
小声でいろはに耳打ちする雪菜。
「え、だって、気になったから」
「……凛汰郎くん困ってたじゃない。やめて、色々聞くの」
「困ってんじゃなくて、照れてたんでしょう」
「え、何に照れるの?」
「雪菜、鈍感だなぁ。お兄と一緒か。それとも、菜穂姉と一緒かな?」
「え、なんで、お母さんとお父さん出てくるの?」
「……自分で気づきな。それじゃ、反対側の1年の指導するから2年の方、雪菜指導して」
「わかりました」
口を大きく膨らませて、機嫌悪そうに返事をした。話を解決せずに終わったことが気に食わなかったようだ。
凛汰郎は、矢をある程度、引き終わった後、後ろ頭をボリボリとかきながら、熱心に後輩指導をする雪菜を
見ていた。
丁寧に弓を引く位置、矢を置く場所を確認しながら、説明している。自分にはできない姿を見て、情けなくなるとともに、感心していた。
雪菜の指導方法は、一人一人、何が合っていて、何が間違っているを矢を引くたびに熱心に教えていた。ある程度、型が決まっており、全体に指導する時はまとめて教えることもするが、結局は個人個人丁寧に教えないと伝わらないこともある。
もちろん、指導する際も、どんな性格でどんな特徴があるかなど把握してから話しかけていた。
雪菜は、自分自身の生活面こそ完璧にできないが、後輩たちとの関わる距離感や、相手の好きなものや嫌いなものを把握するのには卓越していた。
そして、話しやすい空間を作ってから優しい言葉も厳しい言葉も言えるようにと雰囲気作りにも力を注いでいた。
その段階があるから、みんなから慕われているんだろうなと凛汰郎は情けなくなり、前髪で目を隠した。
自分には、射法八節のことを考えてただただ、矢を引いては的に当てることだけ考えている。
周りのことなんか眼中にない。人間関係なんて考えたことさえない。
毎日の稽古で部活動での目標は、1日40射引くと決まっている。それが終わったら今日は終わりになる。
それだけを考えている。
人間関係のことを考えたら、目標値の40射なんて時間が足りなくて帰るのも遅くなる。部長たるもの、指導もしなくてはいけないし、みんなをまとめなくてはいけない。そんなの簡単とたかを括っていたが、全然できていないというか凛汰郎は平気な顔して、逃げていた。
そして、そう考えている凛汰郎であるのを雪菜はずっと前から受け入れていた。
矢を引くことに特化してるだなと前々から知っていたのだ。
わかった上で、自分が部長をやり続けると訴えていた。
今日も通常通りに弓道部活動は終わりを迎えた。
夕焼け色に染まった空にはカラスが鳴いて飛んでいた。
真っ赤な夕日が照らされる通学路。部活を終えた生徒たちが、行き交う校門前に雪菜は昇降口からゆっくりと松葉杖をついて、歩いていた.じゃあなと声を掛け合う生徒たちを横目に進んでいると、ふと急に持っていた荷物が軽くなった。
「ん?」
前を見ると、持っていたバックを手に持つ凛汰郎の姿があった。
「え」
「どこまで?」
「え、いいよ。すぐ迎え来るし」
「持つから。どこ?」
「あそこの校門近くに迎え頼んでた」
雪菜は校門を指差した。
「わかった」
「ごめん、ありがとう」
「……ああ」
3歩ほど前に歩きながら、恥ずかしそうに雪菜の荷物を運んでくれた。ちょっとした仕草が嬉しくて言葉が出なかった。
「雪菜! 今、帰り?」
部活で汗をたっぷりかいたであろう姿で 雅俊が後ろから駆け出した。
「う、うん」
「あー、それ、俺、持つっすよ。家、近いんで」
「あ……」
雅俊は凛汰郎から有無を言わせず、雪菜のバックを取り返す。凛汰郎は小さな音で舌打ちした。左肩に自分のバックと雪菜のバックを背負う雅俊は、雪菜の隣に寄った。かなりの至近距離で、凛汰郎は面白くない顔をした。
「今日、親父さん迎えに来るの?」
「うん。そうだね。雅俊、自転車じゃないの?」
「俺、今日寝坊して、車で乗せられてきた。ねぇ、俺も乗せてくれないかな?」
「えー、図々しいなぁ。でも、バック持ってくれるなら、お礼しないといけないかな……。お父さんに聞いてみるけど」
「やったぁ。ラッキー。あ……、先輩、ありがとうございます」
なぜか、雅俊は凛汰郎にお礼を言っていた。
「………」
凛汰郎は不機嫌になって、足早に立ち去っていく。
「あ、凛汰郎くん、ありがとう!!」
雪菜が思い出すように叫んだ。手をパタパタと後ろ向きに振られて歩いていった。
「全く、雅俊、タイミング悪すぎ……」
「なんだよ、俺のせいかよ」
「うん、雅俊のせい」
「雪菜、あいつのこと好きなのかよ?」
「……教えない!」
口をふぐのように膨らませて、スタスタと校門にとまっていた父龍弥の車に乗り込んだ。
「お父さん、雅俊も一緒に乗せて欲しいって言うんだけど、良いかな?」
「え、それって、ダメとかって断れないんだろ。別に乗ればいいだろ。助手席に乗れって言っといて!」
顔が厳しくなった龍弥。雪菜の隣には乗せないぞと思っていた。
「すいません。お願いします」
お辞儀をしながら、雅俊は助手席に乗り込んだ。
「どぉうぞ」
「おじさん、意外にも車綺麗に扱ってるんすね。見直しました」
「誰目線だよ、誰の。ほら、シートベルトしてよ」
「はいはい。すいません。できました。大丈夫っす」
龍弥はシフトレバーを PからDに変えた。生徒たちが歩く通学路を尻目に車を走らせた。少し小雨が降っていて、ワイパーを動かさないと見えないくらい細かい雨だった。
「今日は、無事に部活に参加できたのか?」
「うん。見学だったけど、後輩たちの指導もできたよ」
松葉杖を両手でおさえて、窓を見ながら答えた。
「え、それって、俺に聞いてたんですか?」
「聞いてないけど、聞いてほしいのか?」
「はい!!」
「んで、どうだったんだ? サッカー部のくせに帰宅部くんは」
「失敬な。帰宅部じゃないっすよ。たまに参加してるって感じですけど。今日は頑張って試合に出ましたから」
「真面目に参加しろよ」
「仕方ないっすよ。うちで親にバイトしろってうるさいんですから。部活の併用は厳しいんですから」
「なんだ、サボりの帰宅部じゃないのか」
「そもそも、なんで帰宅部って知ってるんすか」
「ん!」
運転席に座る龍弥は後部座席の雪菜を指さした。
「雪菜、なんでおじさんに言うのさ」
「バイトしてるって知らなかったから。サッカー部のなんちゃって帰宅部だと思って……ごめんね」
「ちぇ……。俺、意外と真面目なんすよ? 心外だなぁ」
「悪い悪い。齋藤家も大変なんだなぁ」
「お金ないわけじゃないんですけど、自立してほしいって気持ちが強いっす。うちの両親。こんなかわいい息子を世の中に
出すなんて」
自分の体をハグして言う。
「どこの誰がそれ言う? かわいいのか?」
「本当、コンビニのバイトしてるんすけど、いろんな人いるじゃないですか。大変ですよ、本当。素敵なお客様対応とかね。俺、頑張ってると思う。うんうん」
「お疲れさん、ほら、着いたぞ」
外に出て、バタンとドアを閉めた。
「あ、あざーす。マジ助かりました」
「俺も挨拶行くから。雪菜、ちょっと行ってくるから荷物は俺が運ぶから先に中入ってて」
「はーい」
龍弥は雪菜に声をかけると、雅俊の背中を押して、隣の家の齋藤家に入って行った。
「ただいまー」
「お邪魔します。お世話さまです。隣の白狼です」
「あら、白狼さん! どうしたの? 雅俊と一緒で」
雅俊のおばあちゃんの節子が中からエプロン姿でやってきた。
「さっき、娘と一緒に車で送らせてもらいました。今、娘の雪菜けがしてて荷物持ってくれたらしくて、助かりました。ありがとうございました」
「いやいや、いいんですよ。大したお手伝いできないですが、どんどん使ってやって。雪菜ちゃん、お大事にね。白狼さん、お土産。
梨買ってたから、ぜひ。どうぞ」
節子は台所から慌てて持ってきていた。かごにこんもりと入れた梨を龍弥に手渡した。
「いつもありがとうございます。ごちそうさまです」
「いいの、いいの。いつもお世話になってるから」
「それじゃぁ、失礼します」
「こちらこそ、どうもねぇ」
手を降って別れた。いつの間にか、雅俊は自分の部屋に駆け出していた。玄関先でモタモタと靴を脱ぐのに 困っていた雪菜がいた。
「何してんのよ。ほら」
言われる前に龍弥はテキパキと雪菜の靴を脱がした。
「ありがと!脱ぐの大変だった」
「黙ってないで助けてとか言えばいいだろ。ほら、齋藤家から梨頂いたぞ」
カゴに乗った梨を雪菜に見せた。
「言えるわけないじゃん。そうなんだ。美味しそう」
小声で話す雪菜。聞こえなかった龍弥はそのまま奥の方に入って行った。親子と言えども、高校生というある程度年齢を超えると素直にお願いごともできないこともある。複雑な思いだった。
久しぶりの学校でどっと疲れた雪菜は食べることよりも睡眠欲が勝ったらしくそのままベッドに横になっただけで、朝になっていた。熟睡していたようで起こしても起きなかったと母の菜穂は言っていた。雅俊と凛汰郎の板挟みが何となく頭に焼き付いて離れていなかった。夢にも出てきたくらいだった。
「いらっしゃいませ」
雅俊は、コンビニの白の青のシマシマの制服を着て、レジ横に立っていた。
「あのさ、タバコ」
「はい、どちらのおタバコにしますか?」
「マイセンで?」
「はい? マイセン、すいません。番号でおっしゃっていただきませんか?」
「だーかーら!!」
奥の方から店長の渋谷が大きな声を聞きつけて出てきた。
「はいはいはい。どした、どした?」
「店長、お客様が」
額に筋を出しながら、聞く。
「ちょっと、あんた、店長なの?」
横柄な態度をとる小太りのお客が話し出す。
「はい、いらっしゃいませ。どうなさいましたか?」
「マイセンって言ってんのに、番号で言えって、どういう教育してんの?」
「大変申し訳ございません。高校生なもので、指導力不足でございました。お客様がおっしゃいます『マイセン』は『マイルドセブン』というおタバコの銘柄ですね。現在、名称が変わりまして、『メビウス』というものがありますが、こちらでよろしいでしょうか?」
「え?!まじで?! 名前変わったの? そっか、仕方ないな。何、め?メビ?」
「こちらが『メビウス』です。」
店長は棚から、青いパッケージを取り出した。
「んじゃ、それの5mgちょうだい。」
「かしこまりました。はい、齋藤くん、レジしてくれる?」
「あ、はい」
雅俊は、慌てて、タバコを受け取り、バーコードをスキャンした。お客さんはブツブツと文句を言いながらも財布から小銭をジャラジャラと出した。
「こちらは500円です」
「ちょっと、こっから取ってくれる?」
雅俊は面倒ながらも、100円玉4枚と50円玉1枚10円玉5枚を分けて、提示した。
「こちらの500円でよろしいでしょうか」
「ああ。」
「ちょうどお預かりいたします」
レジスターに小銭をしまって、商品のタバコとレシートを手渡した。
「ありがとうございました」
無事にお客さんが帰っていく。雅俊は、誰もいない店内でため息を大きくついた。
「店長、あのお客さんなんですか。超面倒臭いですね」
「タバコの銘柄ね、昔流行ったマイルドセブンってあるのよ。それをマイセンマイセンって略していう人いたからさ。でも、それ、もうどこにも売ってないわけよ。ああいう人時々いるから気をつけてね」
「そうなんですね。タバコも覚えるの大変っすよ。電子タバコ銘柄もあるし、ややこしいっす」
「そうだね。まぁ、基本は番号で言ってもらおう。間違えちゃうから。さっきみたいにわからなくなったら、また呼んでね。俺、あっちで仕込みやってるからさ」
「了解っす。ありがとうございます」
雅俊は、レジを抜けて、棚卸し作業に移動した。ちょうど、配送トラックが到着したところだった。すると、出入り口の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
棚卸し作業をしながら、声を出した。歩く様子が背中で感じられた。パッと振り向いて、後ろを通りかかったお客さんを見ると、
同じ学校に通う3年の平澤凛汰郎だった。手には売り場から持ってきた炭酸ジュースのペットボトルをしっかりと持っていた。
「あ、先輩」
「…………」
凛汰郎は雅俊だと気づいていたが、知らない人の素ぶりをした。陽気な雅俊があまり好きじゃなかった。
「無視っすか。別にいいっすけどね」
届いたばかりのおにぎりの棚にどんどん補充していく。
「あんた、白狼の何だよ」
「え、急に話すの? えっと…。彼氏かなぁ? ってそうなれるといいなって思ってるんで、邪魔しないでくださいね」
声の調子が急に低くなった。下の棚を並べていた体をおこして凛汰郎の前にたちはばかる。身長が少しだけ雅俊の方が大きかった。
「そちらの商品をお買い上げですか?」
突然、後輩の態度から店員にモードを変えた。凛汰郎はレジ横の棚にペットボトルを置いた。目の前に雅俊がいるにも関わらず、ベルを鳴らした。
「お客様、こちらにいます!」
雅俊が体を曲げてアピールする。
「チェンジで!」
指で合図する。
「キャバクラか!?」
「ちっ……」
目と目で睨みあいのバトルが始まる。まるでコブラとマングースのように、はたまた犬と猿の喧嘩のように火花が飛び散った。
それに気づいた渋谷店長がささっと、凛汰郎が持ってきたペットボトルのバーコードを読み取った。
「お客様。お待たせしました。こちらは、150円です」
「はい。これでお願いします」
凛汰郎は財布からプリペイドカードを見せた。
「プリペイドカードですね。スライドしていただけますか?」
店長は2人の睨みあいを気にせず、レジ作業に没頭した。凛汰郎は手元だけ素直に言うことを聞いていた。
「お買い上げありがとうございました」
渋谷店長は、雅俊の頭をぐいっと下げて、丁寧にお辞儀を同時にした。凛汰郎は鬼のような目でこちらを見ながら、静かに立ち去って行った。
「ちょっと斎藤くん。公私混同しないでもらえるかな? 他のお客様にも影響するから」
「す、すいませんでした。気をつけます」
反省しつつ、棚卸作業に戻る雅俊だった。コンビニの中から煌々と光るLEDライトが、外の駐車場を照らしていた。凛汰郎は、道端に転がる石ころを蹴飛ばしながら、つまらなそうな顔をして、ペットボトルの飲み物をぐびぐび飲び、家路を急いだ。
コオロギが静かに鳴いている。秋の虫が増え始め、昼間の暑い時間がだんだんと短くなってきた。
学校の教室。季節問わず、今は風邪をひく生徒がいるためか、何席か空いている。
朝は涼しくなってるとは言えど、日中はまだまだ30度を超えている。
うちわやせんす、下敷きで仰ぐ生徒がところどころいる教室に龍弥は、数学の授業をしていた。
「この二次関数の問題は次のテストで出すから公式をしっかり覚えておくんだぞ」
黒板に例題をスラスラと書いて、教卓の上に重ねて置いたプリントを配り始めた。
「まだ時間あるから、今日はこのプリントを解いて終わりな」
5列に並べられた机の先頭にそれぞれ5枚ずつ配った。
「先生!欠席の人の分で余りました!」
「ああ、悪い。今、取りに行く」
龍弥は、座席の間を通り抜けて、取りに行く。途中、相変わらず、板書をせずに頬杖ついて、龍弥をずっと見ている杉浦美琴がいた。もちろん、龍弥自身も教師として困っていた。龍弥が通りかかろうとするとわざと消しゴムを床に落とした。
「あ……」
「杉浦、消しゴム、落ちてるぞ」
拾ったのは龍弥でなく隣の席の大野康孝《おおのやすたか》だった。杉浦は消しゴムを拾って舌打ちをした。本当は先生に拾ってほしかった。
「なんだよぉ。せっかく拾ったのに」
「どうした?」
「なんでもないで~す」
杉浦は笑顔で振り切った。大野に対しては怖い顔で睨みつける。大野は面白くない顔をして黙っていた。
なんとなく状況を読めた龍弥は、大野のそばに近づいて、肩をそっとなでた。
「ありがとうな、大野」
具体的には言わなかったが、察したようだ。
「俺は平気っす」
龍弥は、杉浦の行動に手を焼いていた。そろそろ、収束させないとと思いながら、授業を終えた。
「起立、注目、礼」
終了のチャイムが鳴る。教室内の椅子がガンガンとあたる音が響く。
「杉浦! ちょっと」
龍弥は、手招きして杉浦を呼んだ。階段の踊り場で話し始める。
「最近もまた、授業態度がよろしくないぞ」
「えー、別にいいじゃないですか。テストは高得点とってるわけだし」
「確かに点数とれてるのはいいと思うよ。でもさ、ここ学校だし、教室だから、規律を守ってもらわないと!」
「そういいますけど、先生が高校生の時はどうだったんですか? 私みたいのはいっぱいいたんじゃないですか?」
「……確かにいたかもしれないけど、過去と今は違うだろ? さっきの消しゴムの件も、見てたからな。わざとだろ?」
出席簿を軽く杉浦の頭に乗せた。
「げげ、見られてた。だって、先生に拾ってほしかったんだもん」
「そう、そういうの本当にやめてもらえる?」
杉浦は龍弥のワイシャツをくいっと引っ張る。
「えー、やだやだ。 私、先生のこと好きなんだもん。相手してほしくて、そうするの。わかってよ」
「杉浦、俺、教師。お前は生徒。それに結婚してるから、無理。好きになるのはうれしいけど、受け入れられないよ?」
杉浦の鼻を指さし、自分の顔を指さす。持っていた教科書類を持ちかえて左手の薬指につけた指輪を見せつけた。
「やだやだやだ」
小さなこどものように駄々をこねる。杉浦はどさくさまぎれに龍弥のおなか周りをハグした。
「だからさぁ。タイムスリップでもして、俺の高校生の時に現れて! 今は本当に無理」
「え、高校生の時に会ってたら付き合ってた?」
「んー-、可能性はゼロじゃないけど、今の嫁さんもいるから見込みは少ないかな?」
「むー---……。結局無理じゃん」
「ほらほら、次の授業始まるぞ。こんなおじさん相手にしないで、身近なクラスメイトとか学校の先輩とかにしろよ。俺にかまうな? な?」
「先生みたいな、かっこいい人いないもん。好きになれないし。もっさい人好きじゃないし」
「人を見た目で判断するなよ。外見はいくらでも変えられるんだぞ。もっさい人だって、こんなふうになるんだから。って、俺の場合はあえて地味なかっこうになってたんだけどな。地味な人ほどかっこよくなるのを見たらおもしろいぞ?」
「なるほど。そういう手があったか。私色に染めるってことね。ってことは、大野がちょうどいいな。めがねかけてるし、髪のこと全然気にかけないし。やってみようかな」
半ば気持ちが大野にシフトチェンジしたようでスキップして教室に戻っていく。龍弥はその姿を見て安堵していた。
お年頃の高校生を納得させるのも至難の業だと思った。