目を覚ますと、真っ白い天井があった。
ここは、どこだろう。
まさか天国じゃないよなぁと思いながら、体を動かそうとすると、左足が思うように動かなかった。自転車と車の交通事故でどこをぶつけたのかわからない。確かに足に激痛が走ったのを覚えてる。頭も打ったのか事故当時はどうだったか、覚えていない。上半身を起こすと、病院のベッドだということに気づいた。個室の病室には外の見える大きな窓があった。部屋の中にはトイレもあるようだった。病室のドアが開いた。
「入るよ〜」
ノックと共に母の菜穂の声が聞こえた。ビニール袋と大きな紙袋を両手に持ち、入ってきた。
「お母さん……」
「目、覚めたのね。本当、びっくりしたよ。交通事故に遭って、足怪我したって。学校から電話連絡もらってさ。さっきお父さんと病院に着いたところ。前もって、引率の先生に入院に必要な着替えとか色々入れてきたから」
「えっ……」
「雪菜、状況、理解してないでしょう。学校の前の交差点で右折してきた車に轢かれてたんだよ? そして、左足にサイドミラーの
ガラス破片が刺さって出血。ついでに体を飛ばされた時に多分骨折。病院に救急車で運ばれてギプスしてるよ? 全治1ヶ月だそうよ」
痛みがある左足を見ると、大きなギプスがつけられていた。通りで足が自由に動かせないなと感じた。
「……!? 嘘、全治1ヶ月なの? 弓道の試合出られないじゃん」
「そうね。その怪我ではすぐには弓道できないわよ」
ドアのノックが聞こえる。父の龍弥と担任の杉本先生が病室に入ってきた。
「目、覚めたんだな。調子はどうだ? 雪菜の好きなアイス買ってきたぞ」
「お父さん、先生と一緒に来たの? やった、お気に入りのアイス。これ、好きなんだよねぇ。雪見だいふくぅ」
「共食いだな」
杉本先生がボソッと言う。
「え?! 雪菜だから雪見だいふくが共食いってこと? 嘘、何それ、先生面白いんですけどぉ」
いじったつもりの言葉が笑いに変わった。今時の女子高生の、笑いのツボが分からない。
「杉本、1文字しか合ってないから共食いには程遠くないか?」
「まあ、確かに。でも、良かったな。大事に至らなくて……。担任としても安心だ」
「え?! なに、なに。お父さんと先生、知り合い? タメ口だよね?」
「杉本政伸《すぎもとまさのぶ》、高校の時の同級生だよ。あれ、杉本、システムエンジニアになってなかったっけ? 教員免許持ってたんだな」
「高校の同級生かぁ。杉本先生若い格好してるから分からなかった。お父さんと一緒だったんだ」
「俺って若いの? 幼いってことかな……。教員免許取ってから好きな職につきなさいって親に言われててさ。システムエンジニアって、俺の想像と違ってたわけよ。理想と現実は別物よね。教員も悪くないかなって思ってさ。好きな教科だけ教えるなら、良いなって。って、俺のことは良いんだよ。雪菜、学校は1か月は欠席だろうからみっちり宿題準備しておくからなぁ。どーせ、病室いても暇だろうからタブレットに毎日課題送るから」
「えーーーー。病人なのに、宿題あるの?! やりたくないよぉ」
「ぼんやりしすぎると認知症になって高校生に戻れなくなるぞ?」
杉本は、コツンと雪菜の額を指で押した。腕を組んで父の龍弥は話し出す。
「どっちにしろ、怪我して学校来ても体育も出れないし、教室の授業がほとんどだろ。俺も、生徒が怪我したらタブレットの宿題くらいは出すかもな」
「私、お父さんに聞いてない!!」
「はいはい、そうですか。まぁ、そう言うことだから、手間かけるけど、よろしくな」
「了解。とりま、お大事に。あれ、菜穂ちゃん。ずっと無言で……」
杉本は病室を立ち去ろうとすると、パイプ椅子に座っていた菜穂に話しかける。
「なんで教えてくれなかったのよ。私、全然知らなかったよ。雪菜の担任が杉本くんなんて!! 真面目に先生って電話する時とか
言ってたわ!」
「あははは。そうだった? ごめんね。気づいてないんだろうなって思って。普通に過ごしてたよ。菜穂ちゃん、きちんと子どものこと見てるじゃん。立派に成長してるよ、娘さんは」
「あ、ありがとう」
2本の指を斜めに上げて、別れを告げる。
「あと、校長先生には、事故のこと報告しておくから。ゆっくり静養してね」
ドアの横から顔をのぞかせて、すぐに病室のドアが閉まった。
「んじゃ、俺たちもそろそろ帰るか。徹平も帰ってくるだろ」
「そうね。雪菜、何かあったら、ラインでメッセージ送ってね。あと、紙袋の中にラウンジとか病院内にあるコンビニで買い物できるように小銭の入った財布入れておいたから」
「ありがとう。すごく助かる」
菜穂は頷いて、立ち上がった。
「ほら、母さん、行くぞ」
「私はあなたの母さんじゃないよ?」
「はいはい。菜穂、ほら、帰る支度して」
龍弥は言い直して、病室を後にした。菜穂の名前が書いてある病室番号の下の名札を確認した。真下を見ると、大きな花束がラッピングされた状態で置かれていた。宛名には『白狼雪菜 様』と書かれていて差出人は書かれていなかった。
「雪菜、出入り口に花束置かれているぞ。誰か、お見舞いに来ていたんじゃないか?」
龍弥が持ち上げて、雪菜のテーブルの近くに運んだ。それは、かすみ草と一緒にカーネーションによく似たピンクのソネットフレーズの花束だった。透明フィルムとピンクのリボンに包まれて可愛かった。
メッセージカードを見ると手書きで名前を書かれていた。筆跡を見ると、どこかで見たことがあるような字だった。
「誰だろう。名前書いてくれないと分からないよね。この交通事故知ってる人ってわかる?」
「そうだなぁ、事故の連絡くれたのは、担任の杉本だから。でも、電話の向こうで雅俊くんの声もしたような……。隣の家の幼馴染だろ? 齋藤家のおばあちゃんがよく漬物を分けてくれるよな?」
「そう。雅俊だよ。そっか。んじゃ、これ、雅俊買ってくれたのかな」
「あいつ、花好きだっけか? いつか、うちに遊びに来た時平気な顔して、踏まれなかったっけ? 花壇に植えてたスノーフレークの花……。サッカーしてただろ?」
龍弥は、顎に指をつけて考える。
「そうだ。雅俊、花には興味なかった気がする。そんな人がお見舞いにって送ってくれるかな」
「どちらかといえば、直接来るだろう? あいつは。騒がしいんだから。めっちゃおしゃべりだし。……って、雪菜も夕ご飯の時間だろ。俺らも帰ろう」
「そうね。何かわかったら連絡するわ」
両親は病院食を運ぶ調理員さんの横をそっと通り過ぎた。廊下は混み合っている。良い匂いが漂ってきていた。今日のメニューは、メカジキのステーキとニラ玉スープ、ポテトサラダが出てきていた。特に胃腸の調子は悪くなかったため、お腹いっぱい食べられた。
ご飯を食べながら、可愛いソネットフレーズ花を見つめた。見ているだけで元気が出そうだった。スマホで記念に撮っておこうと写真におさめた。しばらくは待ち受け画面になりそうだった。なんで、送り主は、差出人を書かなかったのか疑問で仕方なかった。
窓の外を見ると、夜空には大きな満月が光り輝いていた。
足が動かなくても景色は楽しめるなとしみじみ感じた。
入院2日目。
学校にも行けず、ぼんやりと病室を過ごしていた。左足はまだ動かせない。
検温に来る看護師や清掃員のおばちゃんに世間話をして、担当の医師に症状を伝えるくらいであまり興味のないスマホのアプリゲームや電子書籍の漫画をひたすら読み漁って、あっという間に1日は過ぎて行く。考えるのが楽しみなのは、次のご飯は何が出るのかくらい。おばあちゃんか小さな子供になった気分だった。ぼんやり夕日が沈むのを窓からのぞいていると、ドアをノックする音が響いた。
「お邪魔しま〜す」
「失礼します」
男女の声が聞こえた。入って来たのは、幼馴染の齋藤雅俊と弓道部後輩の菊地紗矢だった。
「珍しい組み合わせだね」
雪菜は2人を見てすぐ思った。
「誘われたんですよ、齋藤くんに。学校帰りに雪菜先輩のお見舞い行かないかって。1人で行くのは心細いとか何とか言ってまして…。
今まで接点なかったんで、ちょっとびっくりしました」
「え、あ、ごめん。菊地さん、余計なお世話だったかな」
「あー、いや、もう、別にいいけど」
紗矢は、雪菜のベッドの隣にあるパイプ椅子に座り、ガサガサとビニール袋から取り出した。
「これ、入院してる間、暇だろうから。雑誌買って来ましたよ。あと、プリン。一緒に食べましょう。おやつに」
「えー、やだぁ。紗矢ちゃん、助かるよ。ありがとう。滅多に雑誌なんて見ないから、嬉しいよ。早速ファッションチェックしようかな。プリンもいいの?」
「ちょうど3つあるから、齋藤くんも一緒に食べる?」
「俺もいいの?食べるわ」
紗矢は袋からスプーンを取り出して、それぞれに手渡した。雅俊は離れた椅子に座って食べはじめた。雪菜と紗矢はベッドの上にあるテーブルで食べた。
「そういえばさ。2人に聞きたかったんだけど、昨日、花束届けてくれた? そこに飾ってるやつ。差出人なかったからさ。
事故のこと知ってるの2人くらいかなって思って……」
プリンを食べながら、雪菜は聞いてみた。雅俊は立ち上がり、綺麗にラッピングされた花束をのぞきこむとメッセージカードに『白狼雪菜 様』と書かれていた。
「…………」
雅俊はピンッと閃いた。紗矢は、花束をのぞきこんで、見入っていた。メッセージカードを取り出して、筆跡を確認しようとしたら、雅俊に取り上げられた。
「それ、俺だよ。雪菜、喜ぶかなぁって思って、買ってきたんだよ」
「え、そうなの?」
「そう。」
慌てるように制服のズボンのポケットにカードを入れた。
「なんだ、雅俊だったの? ここに来てたんなら、普通に中に入ってくればいいのに。両親と担任の先生だから別に入っても全然問題なかったよ?」
「いや、話の腰を折るのは良くないって言うでしょう? 影からのぞいていたわけよ。あとサプライズしたくてさ」
「誕生日じゃないけど、サプライズね。まぁ、雅俊にしては大成功じゃない? 嬉しいよ」
雪菜は満面の笑みをこぼした。雅俊は良心の呵責に苛まれていた。
「あー、そう。それはよかった。買って来た甲斐があったよ」
背中の汗がとまらない。
「……でもさぁ、雅俊、花なんて好きだったっけ?」
「え?! 花好きだよ? 元彼女にプレゼントしたことあるし、花はでも、最近知るようになったかな」
嘘と真実の入り混じった話に心臓が早まった。元彼女に花を贈ったことあるのは事実だった。その後も何気ない世間話や学校での出来事を話すと、あっという間に夕ご飯の時間になっているらしく、調理員さんが運んできていた。
「あ、そろそろ、帰らないと……。ごはん食べてるところ見られるの恥ずかしいですよね。ほら、齋藤くん、帰ろう」
「ああ、わかってるよ。んじゃ、雪菜、また気が向いたら、お見舞いに来るから」
「うん、んじゃまた。来てくれてありがとうね」
2人は、病室のドアを閉めて立ち去った。遠くからその2人を見た男子高校生が病院の玄関で歩いていく。自分の姿を見られたくなくて、雅俊と紗矢から視界に入らないように隠れていた。本当は雪菜のことが気になって、様子を見に来ていた高校生だった。
雪菜が入院する病院の玄関の壁に背中をつけて、雅俊と紗矢の様子を伺っていたのは、平澤凛汰郎だった。上の方を見上げた。
雪菜がいる病室の2階の窓を見つめ、贈った花が窓のふちに飾られていることに安心していた。自分ではなく、雅俊が贈ったと勘違い
されていることはつゆ知らず。
ズボンのポケットに手をつっこんで、雪菜本人には会わずにそのまま、東の方向へ歩いていく。病院の駐車場でぼんやりと電灯が
地面を丸く照らし出していた。茶色の石畳を進むほど、真っ暗な夜道になっていく。学校帰りに立ち寄った病院では、仕事を終えたスタッフたちが職員玄関からお疲れさまですと声をかけながら帰っていく。凛汰郎は気にせず、歩き続ける。学校から病院までは、歩いて30分以上の距離だった。
直接会わなくても満足して、口角をあげていた。
***
乗客が多い路線バスの中、紗矢と雅俊は、吊り革を持って、街灯が輝く窓の外を見た。
「ねぇ、齋藤くん」
紗矢が、話しかける。
「え、何?」
「嘘、なんでしょう。花贈ったって話」
「……?!」
「齋藤くん、今日私を誘った時、まだお見舞い行けてないんだって言ってたじゃない」
「あーーー…。うん。行けてなかったよ。菊地さんと」
後ろ頭をかきながら、目をキョロキョロさせて言う。
「ごまかすんだぁ」
雅俊は、パンと両手を合わせた。紗矢は、叩いた拍子に目をつぶった。
「頼む。言わないで!! お願い。ぜったい言わないでほしい」
「えー……」
「俺、雪菜にこっち向いてほしくて嘘ついたんだ」
「それって……」
「そう。俺、雪菜が好きだから。他の誰かに取られるの見てられない。きっと、あの花も男からだろ? 俺が贈ったってことにすれば、消えるだろ。雪菜からその男」
鳥肌がとまらない紗矢。何だか、雅俊が怖くなった。
「なんか、それは卑怯って言うか……。執着がすごいね」
そこまでして追いかける雅俊の執着に感心してしまう。
「そうでもしないといつまでも幼馴染のままは嫌なんだ。これで少しは、弟みたいな対応なくなるかな……。あ、そろそろ降りないと。ごめんな、今日は助かった。んじゃ、また明日、学校で」
雅俊は、降りますボタンを押すと出入り口付近に移動していた。去り際に、紗矢にラムネ味のキャンディーをポイッと投げた。慌てて、両手でキャッチした。雅俊はパタパタと手を振った。パッケージには占いが書いてあるキャンディだった。『大吉:恋がはじまる予感♡』と書いてあった。紗矢は、まさかなぁっと思いながら、ゴツゴツのキャンディを口に含んだ。炭酸のパチパチとした味が口いっぱいに広がった。
バスが歩く雅俊を通り過ぎて走っていく。
窓から見える彼の姿をなぜか目でずっと追い続けていた。
▫︎▫︎▫︎
とある日曜日。ホイッスルが鳴り響く。白狼龍弥が顧問として所属するサッカー部の練習試合が行われていた。今、前半戦が終了して、休憩するところだった。
「お疲れさまです」
杉浦美琴が、部員たち全員にタオルとスポーツドリンクを配り始めた。最後のお楽しみに龍弥に渡した。
「はい、先生。熱中症対策にしっかり飲んでくださいね」
「ああ。さんきゅー。というか、杉浦、いつの間にサッカー部のマネージャーになってたんだ?」
「先生こそ、今日は、試合来られないって言ってませんでした? 変更して、来てくれてみんなは喜んでますけど……」
「質問の答えになってないけどな。娘の部活の試合に行く予定だったんだけど、交通事故で今入院してて、行けなくなったから、
今ここにいるんだ」
「え?! 娘さん、大丈夫なんですか? 先生、ここにいていいんですか?」
「大丈夫だよ。あと1週間したら退院だし、母さんが付き添いに行ってるから。別に長時間いない方がいいだろ。お年頃なんだし、父親なんて一緒にいても何もできないしな。そうだろ? 杉浦はお父さんと長時間一緒にいないだろ?」
「まぁ、確かにそうですけど。心配じゃないのかなぁって。私は、全然、お父さんと一緒でも平気ですよ。優しいですもん」
「そうか。それは良かった。んで、なんでマネージャーなんか……」
「あーーー、先生、杉浦がマネージャーになった理由、知ってますよ! 先生が…うごっむごっ」
キャプテンの佐々木和哉が、言おうとしたが、杉浦が口を塞いた。
「私は、マネージャーの仕事に興味あったんですよ。ねー、佐々木キャプテン!」
モゴモゴと口を塞がれていたため、頷くことしかできなかった。
「へぇー、そうなのか? てっきり、俺の追っかけしてきたのかと思ったけど。ストーカーされてるかと思うだろ」
予想は的中している。杉浦はどうにかごまかそうとする。
「そ、そんなわけないじゃないですか。先生、自意識過剰ですぅ」
(全くその通りですけどぉ)
「んー、んー」
佐々木は口を塞ぐ杉浦の手を叩く。
「あ、ごめんなさい」
「いつまで塞いでるかと思った」
「余計なこと言うと思って」
「俺が言わなくても先生は気づいてるだろ」
「気づいてないよ。たぶん」
「あまり、先生に迷惑かけるなよ。部活動に影響しないように頼むよ」
「わかってるわよぉ」
杉浦は、口を膨らませて、ベンチに戻った。後半戦が始まろうとしていた。雲がない空で直射日光が強く照らしていた。まだまだ暑さが続くだろう。見上げると青い空では飛行機が南の方へ飛んでいくのが見えた。
1年前のこと
ミンミンゼミが勢いを増して鳴く暑い夏だった。
白の背景に青と紫の朝顔が描かれた浴衣を着た女性が下駄を履いて少し小走りに進んでいた。手には花火のイラストが描かれたうちわを持っていた。灰色のジンベイを羽織った男性が、保護者目線で追いかける。
「まーくん、早く行こう。私、りんご飴食べたいから」
「梨沙は、お祭りになるとなんでそんなテンション高いの?」
2人の下駄のカランコロンと地面に打ち鳴らす音が響く。
「だって、私、好きなんだ。お祭り。まずはかき氷でしょう、そして、フランクフルト、焼きそば。あ、大事なりんご飴」
「食べ物のことしか考えないんだなぁ」
「もちろん!花火も見るよ。今、午後5時だから、確か花火は午後7時からだよね」
「そうだな。まだ5時15分だから」
あまりにも楽しいようで後ろを向きながら、齋藤雅俊の顔を見る。
「何だよぉ」
「だって、まーくんがじんべい着るとは思わなかったから」
「梨沙が着てこいって言ったんだろ?」
「うん、そうだけど」
村上梨沙《むらかみりさ》は、齋藤雅俊の5歳年上の大学生だった。コンビニのバイト先でたまたま一緒になり、仲良くなった彼女だった。この時は、雅俊が高校1年になったばかりだった。雪菜とは、中学の受験で忙しくなった以来会っていなかった。ささっと雅俊の横に移動して、腕を絡めた。
「楽しい」
「すぐ、そうやって言えるんだよな」
「え、だめ?」
「別にいいけど」
「いいじゃん。楽しいことを楽しいって言っても」
その言葉にフラッシュバックした。誰かも同じこと言っていた気がした。あいつも同じだ。感情表現をすぐ言葉にする。
楽しい時は楽しいと嬉しい時は嬉しい。悲しい時は、涙を流して、静かに寄り添う。どうしても重ね合わせてしまう。
幼稚園の頃からずっと一緒に過ごしてきた白狼雪菜も、今ここにいる彼女も性格が似ていた。
どうして、彼女を選んだのか。告白されていいよと返事をした理由は、笑顔が絶えず、楽しませてくれること。それより何より幼馴染に似ていたところだった。
パズルのように梨沙の顔と雪菜の顔を照らし合わせてしまう。首を横に振って、ごまかした。
「まーくん、何したの? 行くよ? 露店見つけたから。あ、キッチンカーもたくさん来てたね」
手をがっちりと握られて、梨沙のペースにのまれていた。本当は、自分が引っ張っていく性格のはずだった。でも年上ということもあり、こうしようああしようにうんと頷くことが多かった。その方が居心地が楽というのもある。
「好きなの買ってもいいかな」
「いいよ、今日は俺におごらせて。この間は、梨沙におごってもらったから」
男たるもの、食事は自分からというが、梨沙は男も年齢も気にしていなくて臨機応変にその時にお金を持っている人が払うというスタイルが多かった。今日は、お祭りという予定があったため、銀行からバイトで稼いだお金をしっかり財布に入れていた。
「私も財布に入れてきたけど、んじゃ、前におごってもらったから今日はお言葉に甘えちゃおうかな」
「おう。いいよ、別に。バイト始めたばかりだけどね。今日くらいはいいかなと」
「よぉーし、んじゃ、行こう」
キャキャ喜んで、はしゃぎながら、梨沙は雅俊の手を繋いで、露店をまわる。コンビニのバイト先で4月に会ってから、
3ヶ月は経っていた。お互いに会った後、意気投合して、1人暮らししていた梨沙のアパートに
ちょこちょこと遊びに行っては、仲を深めて行った。
他県から引っ越しして、1人暮らしを始めて2年目。土地勘も慣れて来て、大学に通うのも慣れて来ていた。
バイトは生活の一部。その中での高校生で新人の雅俊に指導係に抜擢されてから、今に至っている。
元々社交的だった雅俊だが、遠くから引っ越してホームシックになったりする梨沙がかわいそうと思う部分もあり、
高校生ながら、心配していた。初めは1人の時間を穴埋めるためゲームを一緒にする友達から、一緒にご飯を食べる仲に。そして、徐々に恋愛対象へと発展した。これまで、まともに交際をしたことない雅俊にとって、梨沙は少し大人な女性に見えた。どんなことも受け入れてくれることに心が満たされた。でも、どこか何かと投影する。真っ暗な堤防の上から2人並んで座って花火を見上げた。
お互いに地面に置いて繋いだ手は熱かった。いい雰囲気に顔を近付けた。頬に指をふれて、優しく口付けた。遠くで和太鼓の音楽が流れている。露店の明かりが漏れていた。打ち上げ花火が連続で打ち上がった。
額同士をくっつけて無意識に
「雪菜……」
雅俊は、名前を間違えた。
「え?」
「あ、う、あーーー
ゆきなってるなぁって」
「どういう意味?」
「な、なんでもない。今のなし」
「名前、間違ったでしょう」
「え、あーーどうだったかな」
後頭部を手で何度もかいた。
「知ってるよ、まーくん、寝言で言ってたから」
「え?」
「ウチに泊まりに来た時とか。明らかに私じゃない名前言ってた」
「……あー」
「その雪菜って人が忘れないんでしょう。本当は」
「うっ……」
「最近、おかしいなぁって思ってて。いつも誘うの私からだし、行動するのも決定するのも私だから。何か付き合うってこんなんじゃないかなって思ってて」
両膝を抱っこして話す梨沙は、下を向いて落ち込んだ。
「ずっと本当は片想いだったんだなって今の言葉で気づいたよ。まーくんは優しすぎるから、本音隠していいよいいよって言っちゃうんだよね。お人よしすぎるよ。それがまーくんのいいところなんだけどさ。体がこうやって手を繋いだりしてても、心が同じ気持ちでいるかなんてわからないんだよね」
雅俊の右手をじっくりと触って、指の細さを確認した。雅俊は何も言えなくなった。
「今日、本当に楽しかった。ありがとうね。まーくん、今までありがとう。私、この夏の思い出絶対忘れない。名前を呼んだその子と幸せになってね」
「梨沙……。俺」
梨沙は自分の人差し指を雅俊の唇にあてた。
「しっ。もう何も言わないで。私、これ以上、傷つきたくないの」
梨沙の目にはたっぷりの涙で潤っていた。
「……」
「恋人同士ではなくなるけど同じバイトの先輩後輩として続けていきましょう」
静かに頷いた。
何もいうなと言われたため、ずっと話すことができなかった。
「ごめん。梨沙。ありがとう。帰りくらいは送らせて」
指と指を絡ませた。
「いやだ。やめて。もう、惨めになるのは嫌なの。そっとしといて。雅俊をこれ以上嫌いになりたくない」
繋いでいた手をパッと離した。
「まだまだ付き合うのとか高校生だし経験が浅いと思うけど、本当の気持ちは隠さずに言わないといけないよ? 私みたいに傷つく女子が増えちゃうから」
「そうだよね、気をつけるよ」
「んじゃ、ここでさよならだね」
「うん」
梨沙は手をふって別れを告げた。名残惜しそうにお互いに振り向いては戻ってを繰り返しながら、家路を急いだ。お祭りの終わったあとの寂しい雰囲気のまま心がぽっかりと穴が空いたようだった。
雪菜が入院して、1ヶ月が過ぎた。
理学療法士のリハビリの指導を
熱心に受け続け、どうにか松葉杖を
使って歩けるようになった。
無事、退院もできて、久しぶりの自宅に帰ることができた。玄関のドアを開けて、両手を広げた。
「ただいまぁ〜。我が家」
後ろから父の龍弥が大きな荷物を抱えて、中に入る。ドサっと荷物を置いた。
「はいはい。おかえりなさい。雪菜、まだ誰も帰ってないよ?」
「え、そうなの?」
「今日、徹平は部活で遅くなるっていうし、母さんは残業だってさ」
「えーー、そうなんだ。でも、よく休み取れたね。お父さん」
「2週間前から、無理言って、有給消化させてもらったんだよ。娘が退院するからって!」
雪菜の頭を軽くポンポンとたたいた。
「あ、ありがとう」
「まぁ、親の役目ですからぁ? いいんだけどね。ほら、リビングに行ったら?」
「あ、うん」
雪菜は靴を脱いだあと、まだ慣れない松葉杖を使って歩いた。
「やっぱり、我が家は1番だよね。私がいない間、みんな寂しかったんじゃないの?」
「いや、あんまり変わりないよ? 徹平はヘッドホン無しでゲームし放題だって喜んでたし、母さんは何も言ってなかったけどな。
俺は、いつも通り仕事だしなぁ」
「え、ええええー。そこ本当のこと言っちゃうの?」
「あ、すまん。何も無くて……」
「お父さん、そうじゃなくてぇ。私がいないと何とかって……」
「あ、そうだなぁ。雪菜がいないと花が無いな。あと、締まりが無いっていうか。いつも徹平にツッコミするだろ。それが無くて、母さんに怒られて嫌な雰囲気になることはしばしばあったかな?」
「そうそう、そういうの聞きたかった」
「……はいはい。それは良かったですね」
龍弥は、ビニール袋から買い出ししてきた今日の夕ご飯用の食材を台所に出し始めた。
「ご飯だけど、適当にチャーハンとか餃子で良いか? 母さん、今日帰りで遅いって言うからさ」
「うん。なんでもいいよ。食べられるなら。お父さん、作れる?」
「おう。それくらいなら作れるさ。ほれ、お茶でも飲んで休んでおけ」
ペットボトルの緑茶を食卓に出す。雪菜は、ありがたく受け取って飲み始めた。フライパンのジューと音が聞こえてくる。
「ねぇ、お父さん。私、いつから学校通うんだっけ」
「今日が金曜日だから、来週の月曜日でいいんじゃないか? 杉本先生に連絡して聞いてたから大丈夫だ。しばらくは車で送迎するし、授業は受けておかないと単位取れなくなるしな」
包丁がトントンと軽快に聞こえてきた。手際よく料理始めた。冷蔵庫の中にあったしらすとキャベツを切って醤油などの調味料を入れて炒飯を作った。生姜ニンニクたっぷり入った挽肉を合わせ調味料で絡めたものを丸い餃子の皮にささっと包んでいく。フライパンに少量のお湯を入れて、餃子を蒸しながら火を通していく。
「よしこんなものかな。中華メニュー完成ね。さてと、雪菜の荷物片付けておくわ。母さんと徹平があと少しで帰ってくるからな、みんなで一緒に食べるか」
「そうだね。んじゃ、ゆっくりさせてもらうよ」
そう言ったが先か、玄関が大きな音を立てて開いた。
「こんばんはーーー。雪菜っちいますか??」
隣の家に住んでいる齋藤雅俊がやってきた。
「おお、なんだ。雅俊か。どうした? 雪菜、今日退院したところだぞ」
「おじさん。こんばんは。知ってて、来ちゃいましたよん。入っていいっすか?」
「どーぞ」
龍弥は別室で雪菜の洗濯物などの片付けに追われていた。雅俊はささっとリビングに入っていく。
「お邪魔しまーす」
「げっ!? 雅俊? 何しに来てるの?」
「げって、何さ。失礼だなぁ。退院祝いに、シャインマスカット届けに来たんだよぉ。あと、もう一つ、オーロラブラックっていう高級な品種も入ってるよん」
「あ、あー、わざわざありがとう。ブドウ類は好きだから嬉しいかなぁ。って、なんで、私が退院するって知ってるのよ」
「……ふふふ。なぜでしょう?」
「えー」
「教えてあげないよ。でも、雪菜の元気そうな顔見れたから元気出たわ」
雅俊はひらひらと手を振って、部屋を出ようとすると、母の菜穂が帰ってきた。
「ただいまぁ。あれ、雅俊くん、久しぶりね。雪菜に会いに来たのね。今日退院だから喜んでたんじゃない?」
「お母さん、ちょっとそれは語弊があるわ。喜ばないよ、別に私」
松葉杖をついて玄関まで歩いてきた。
「なんだ、雪菜、いたんじゃない。おかえり。何よ、小学生の頃、雅俊くん来ただけですごく喜んでたくせに、今は全然なの?」
「ちょっと待って、いつの話? 今、私、高校生だよ? そんな喜ぶわけないじゃない。犬じゃないんだから」
「えーー、喜んでもいいんだよ? 犬みたいじゃん、俺。ワンっ!」
雅俊は犬の鳴き真似をしてみせた。
「はいはい。そういうの良いから」
「おばさん、すいません。退院祝いに果物のブドウを持ってきましたんで、みなさんで召し上がってくださいね」
リビングの方を指さして、雅俊は玄関のドアを開けた。すると同時に徹平が帰ってきた。
「ただいまー。あれ、まーくん、来てたのね。久しぶりぃ〜。」
2人はグータッチで再会を喜んだ。
「てっちゃん、お久しぃ。今度、オンラインゲームしようぜ」
「マジで?! いや、あとででもいいよ。ちょっとゲームのIDとか教えてくんねぇ? ちょっと待ってスマホ今出すから」
徹平は慌てて、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「嘘、てっちゃんもゲームしてたん? 俺、ナイズドアクトって言うのやってるんだけど、知ってる?」
「マジで? 俺もやってたよ。テンション上がる!! ID送るから、ちょっとフルフルしてよ」
「おぅ。今、出すわ。ほい、まずはライン交換っと……」
「……ちょ、ちょっと2人で何盛り上がってるの?」
横から雪菜が声をかける。ゲームの話に2人は盛り上がっていた。話を全然聞いていない。
「今、ID送ったから、検索にかけてね」
「了解っす。んじゃ、22時くらいによろしくっす」
「うっしゃ、よろしく。んじゃ、またな。それじゃ、雪菜、お大事に。来週、学校でな」
敬礼するように挨拶すると立ち去る雅俊。帰ってきたばかりの徹平はスマホを見ながら、鼻息を荒くして興奮していた。
「何やってるんだ?」
龍弥が後ろから徹平のスマホの画面を覗く。
「まーくんも、このオンラインバトルロワイヤルのゲームやってるって言うからさ、今、ID教えてもらったんだよ。すっげ、楽しみぃ」
「あー、バトロワね、今流行りの。俺はやってないけど、生徒たちが言ってるの聞いたことあるわ。」
「ゲームやるの良いけど、夜更かししすぎないでよ?」
菜穂は徹平に注意する。退院の日だと言うのに、話題の中心が雅俊やゲームの中心の話になって、
何だか面白くない雪菜。頬を膨らまして、夕食はご不満の雰囲気に終わった。
それでも、雅俊の退院祝いのブドウは悔しいくらい甘くてすごくおいしかった。
今朝は、どんよりと曇り空で、低気圧が体に襲ってくる。
頭痛とだるさがズシンと体に張り付いて動かない。
そして、ベッドからも動かない。
2階の部屋に寝ていた菜穂は、壁掛け時計を眺めては何度も寝て起きてを繰り返した。
できることなら行きたくないのが本音だ。
ずっとこのまま布団の中ですやすやとっと考えていると、エプロン姿の母、菜穂がノックも無しに仁王立ちしていた。額に青筋が立つ。
「菜穂〜〜〜!! 車で送られるからって寝過ぎだよ!! 早く起きなさい!」
布団が剥がれていく。
(あーーー、あたしの布団〜)
目からキラキラとひかる涙。大きなあくびをしたときにこぼれていた。もう少し寝たい気持ちは大きかった。いやいやながらも、重い体を起こした。
「今、起きましたぁ」
「ほらほら、朝ごはんできてるから、食べなさいよ。足けがしてるんだから、制服着るのも
1人では大変でしょう。手伝うから!」
「えー、恥ずい〜。あっち向いててー」
「お母さんは女子だから、いいでしょう。文句言わずにパジャマ脱いで!!」
わーきゃーわーきゃー言いながら、朝の支度をした。食卓では、父の龍弥がめがねをかけて、コーヒーを飲みながら、タブレットで新聞を読んでいた。洗面所で必死に寝癖直しをしてる徹平は、何度もヘアスプレーをかけて、ドライヤーを念入りにあてていたが、まだちょんと立った寝癖がなおらない。
「あーーー、もう。最悪だ! なんで、この寝癖なおらないんだよ!」
騒いでいると龍弥が、やってきて、電気シェーバーで髭を剃り始めた。
「何、やってんだよ。寝る前にきちんと乾かさないからだろ?」
「だってさ、昨日、ゲームしててそのまま寝落ちしたんだもん。タオル、頭に巻いたまま寝てたの」
「いや、ゲームしててってする前にドライヤーで乾かせよ! そういうことしてるから寝癖つくんだつぅーの」
「いやだ。俺、今日、休む!!」
「……はぁ……。ったく、仕方ねぇなぁ。バブオか、徹平は」
龍弥は、シェーバーを棚に置いて、強烈に固めるヘアスプレーを取り出して、徹平の頑固な寝癖を整えた。
「ほら、こうすりゃ、いいだろ」
「おーーー! お?」
一瞬寝癖が消えて喜んだかに思ったが、見事な七三分けの髪型になった。
「お父さん!!! どこにサラリーマンのような髪型する中学生がいるんだよ!? やめてよ!」
徹平は、プンスカプンスカ怒っている。
「面白いなって思ったのにな。ったく、まぁ、こうじゃなくて無造作ヘアならぬ、ヘアワックスで散らばせばいいじゃねぇの?」
改めて、さらにヘアワックスで整えてもらったら、ごく自然な流れの髪型に変わった。
「できんじゃん!すっげー。見違えた。俺、イッケメーン! これなら学校行けるな」
ご機嫌になった徹平は鼻歌を歌いながら、朝ごはんを食べにいく。
「ふぅ」
龍弥はため息をついて、歯磨きをした。
「ありがとう。徹平いつもあんな感じですぐ学校休むって言うのよ。行きたくない理由は寝癖だったのね」
菜穂が台所からそろっとやってきて声をかけた。
「身だしなみを気にするってことはみんなからよく思われたいってことなんだろう。よく取れば、いいことじゃないの? 髪型を気にするんだから。それだけでって親は思うかもしれないけど大事なことだと俺は思うけどな」
「うん、そうだね。思春期だし、いろいろ気にする年だもんね。あ、そういや、脇の臭いのこともすごい気にしてて、すごい高い制汗剤買わされたのよ?! 安いのあるはずなのにさ」
「それで、学校行ってくれるならいいじゃないか」
「でも、1500円もするんだよ? 贅沢でしょう?」」
「確かに……。800円くらいで売ってなかった? てか、そんなに高いなら俺も使うかな。どれ?」
「それ」
菜穂は指さして、高級そうな制汗剤を、龍弥もつけてみた。確かにいいにおいで香水をつけているようだった。
「結構、においきついな」
「でしょう。たぶん、ブランド物なのかもしれない。いい香りなのはわかるんだけどね、つけすぎ注意だよね」
「なぁに話してるの?? お父さん、学校遅れちゃうんですけど」
洗面所に顔を出してきた雪菜。龍弥と菜穂が仲良く話してるのを見て、やきもちを妬いた。
「あー、はいはい。今行くから。忘れ物ないの?」
「うん。大丈夫。というか、徹平とも話しててずるい。私には興味ないの?」
「誰にやきもち妬いてるんだよ。話してるし、今から一緒に学校行くだろ?」
「そうだけど!! なんか、忘れられてる気がしたー」
「同じ屋根の下で暮らしてるだろうが。というか、洗面所とリビングの距離もそんな遠くないだろって」
わーわー騒ぎながら、車に荷物をつみはじめる。菜穂は車の助手席に乗って、ぎゅーと龍弥の腕を握る。
「俺は、雪菜の恋人か!?」
「違うけどぉー、お父さん。親子なんだから。大事にしてよ!」
「大事にしてるだろ。こんな学校の近くまで車に乗せてる優しいお父さんだろ?」
話しながら、運転しているといつの間にか熱が冷めたのか、スマホをポチポチといじり始めた。
さっきのは一体なんだったのかと疑問と怒りでしかない。
熱しやすく冷めやすい雪菜だった。
木の上で鳩が休んでいた。鳩の鳴き声が学校の中庭で響いていた。木で作られていた渡り廊下を弓道部の数名の生徒たちがキャッキャと騒ぎながら歩いていた。やっとケガが治って学校が解禁となった雪菜が部活に来るというを聞いていた後輩たちは喜んでいた。
部長がいないと部活動自体が成り立たないということがわかる。部長の雪菜がいない間はどうしていたかと言うと、代わりに凛汰郎が副部長として担っていたが、役割は果たしていなかった。部活に来ては、お辞儀をして挨拶したかと思ったら、すぐに矢を引きに行き、部員たちは基本放置して、それぞれやってくれというような雰囲気。3人同時に矢を引く射場があるのだが、凛汰郎はずっと端っこで独占して稽古していた。残りの部員たちは2箇所の射場を交代で稽古していた。凛汰郎はすべて黙ってこなしていくため、部員たちからクレームが上がっていた。
コミニュケーションがとにかく苦手の凛汰郎は行動や仕草を見せればすぐわかるだろうと浅はかな考えでいた。それはよろしくないと2年の菊地紗矢は、顧問の白狼いろはに相談した。職員室にて、いろはと紗矢は話していた。
「菊地、ごめんね。すぐに部活に顔出せればいいんだけど、こっちの業務も残ってて、どうした?」
「実は、雪菜先輩がお休みになってから部活の雰囲気が最悪なんです。先生、どうにかしてもらえます?」
「え、なんだって。もしかして、副部長の平澤の影響?」
「そうです。あんなに雪菜先輩に部長かわるかとか言ってる割に全然部活のこと考えていないんですよ、平澤先輩。自分だけずっと稽古して、ずるいんです。1人で何本矢を使う気なんだか……」
腕組みして、ため息をつく。
「えっと、ちょっと待って、一応は部活の決まりで1日何射までって決めてなかったかな。それ以上1人で練習してるの?」
「雪菜先輩休みになって、いなくなってからずっと、独占して同じ場所で黙々と……。後輩はどうするかとか考えてくれてないんです」
「コミニュケーションは苦手だろうなっていうのは知ってたけど、それほどまでに……。副部長にしたのは、3年が雪菜と平澤しかいないからなんだけどなぁ。よし、今日はこっちの仕事諦めて、部活に行くから。菊地は先に行っててくれない? 追いかけるから」
いろはは、席を立ち、引き出しに入れておいた帽子を頭に被った。
「わかりました。よろしくお願いします」
***
凛汰郎は、相変わらず、ずっと1人で矢を引いていた。数なんて数えずにとにかく、的を中央に射ることだけ考えて、目を酷使しながら、やり続けていると、校舎側から顧問のいろはと、菊地紗矢が弓道場に入った。殺気立っていたため、恐れていた後輩たちは端っこの方で見学をしていた。
「みんなお疲れ様〜。ちょっと話あるから、集合してもらえる?」
いろはのかけ声で、凛汰郎はハッと気づき、集合と叫んだ。弓道着を着てた部員たちが、いろはを中心に集まってきた。
「よろしくお願いします」
と副部長の凛汰郎が声掛けすると、みんなも続けて挨拶した。
「今、部長の雪菜がけがで休んでる訳だけど、代わりに副部長である平澤に役割を頼んでる訳なのね。ちょっと、相談受けたんだけど、部活動としてはよろしくない雰囲気だと聞いたけど、平澤何かある?」
「あー、すいません。稽古中、ずっと1人独占で矢を引いてました。納得のいく矢を引けば、参考にしてもらえると思いまして……」
「あー、ごめん。平澤、そのことを部員たちに説明してたのかな」
「……いえ。何も言ってません」
「そっか、何も言ってないのね。それでみんな誤解してるのよ。きちんと会話しよう。雪菜と平澤のやり方が違うのはわかるけど、混乱を招くからわからないことあったら、すぐに私に聞きに来て」
「そうですそうです!! しかも、平澤先輩ずっと同じ場所で、私たちばかり2つの射場をローテーションしてたので練習量が足りません。もうすぐ、新人戦あるのに……」
1年の楠木彩絵が叫んだ。鬱憤がたまっていたようだ。
「あ……」
やっと自分がやっていたことに気づいた凛汰郎は、居た堪れなくなった。
「そうだね。新人戦近いから、1年にたくさん練習させないと成績が上がらないね。んじゃ、ここから切り替えて、3つの射場でローテーションして、練習してもらっていいかな。あと、弓道は矢を的にあてることももちろん大事なんだけど、姿勢とか放つまでの工程とかが重要だからそこもしっかり練習してね。基本ルールの射法八節ね。忘れないように、ね! 平澤くん!」
いろはは、凛汰郎の肩を軽く叩いた。副部長として、役割を果たせないと感じた凛汰郎は、不機嫌になり、突然帰る支度を始めた。
「ちょ、ちょっと、平澤くん。何、帰ろうとしてるの?」
「俺、無理です。帰ります。新人戦の練習の邪魔しては悪いので、帰ります」
テキパキと荷物をまとめて、深々と姿勢良くお辞儀しては、更衣室の方へ行ってしまった。止める暇もなかった。
「先生、平澤先輩、帰ってしまいましたね」
「全く、これだから、雪菜いないと何もできないね。あの人は」
両手を腰にあてて、ため息をつく。
「え、そうなんですか? 平澤先輩が?」
「なんだかんだ言って、あの2人は、一緒にいて調和するっていうかバランス良いのよね。相性が良くないようにして、実は良かったりして? でも、みんな安心して。来週、雪菜が復活するから。まだ、弓道着は着れないけど、見学しながら、みんなの指導に入ってくれるから」
「本当ですか!? 楽しみです」
「それは嬉しいです」
他の部員たちも喜んでいた。一瞬空気がはなやいだ。
「もう、何だか今日は、しっくり来ないだろうからこれで終わりでいいよ。菊地、代わりに部員をまとめてくれる?」
「わかりました。それじゃ、後片付けしましょう!」
「はーい」
菊地に部長の仕事は任された。弓道場はさっきの殺気立った雰囲気から一気に柔らかくなった。部長が代わるだけでかなり空気感が違う。凛汰郎は想像以上に傷ついていた。役割を果たせなかったこととプライドがズタボロに崩れた。あんなに意気込んで雪菜に部長を代わると言ってた自分が情けなくなった。
「お疲れさまです。長い間、お休みしちゃってごめんなさい。みんな元気にしていたかな。これ、差し入れのバアムクーヘン持ってきたから食べてね」
雪菜は、制服姿のまま、松葉杖をついて弓道場に訪れていた。
手には紙袋にバウムクーヘンを部員のために買ってきていた。
「おかえりなさい。雪菜先輩。待ってましたよぉ。もう、大変だったんですから。いただきます、やったあ」
弓道着を着た1年の楠木が雪菜にハグをしてお菓子を受け取って話し出す。
「えー、どうしたの? 私いなくて寂しかった?」
「寂しいのはそうですけど、だってぇ、副部長の平澤先輩が……」
「彩絵、しっ!」
同じ1年の細川絵莉が凛汰郎が弓道場に入ってくるのが見えたのを指差した。
「あ……」
「なになに。もしかして、凛汰郎くんの話? 大体予測はつくけどね」
小声で話す雪菜は、後ろを振り返るとなぜか来たばかりの凛汰郎は、制服姿のまま校舎の方へ戻ろうとしている。
それに気づいた雪菜は慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと凛汰郎くん!! 待って、あっ……」
ズテンと転んだ雪菜。松葉杖が地面にひっかかっていた。膝をぶつけていた。
「いたたた……」
それに気づいた凛汰郎は、急ぎ足で戻ってきた。何も言わずに、腕を引き上げて起こしてくれた。
「あ、ありがとう」
「まだ治ってないんだろ……」
「う、うん。まぁ、そうなんだけど。部活始まるんだから、なんで帰るのかと思って」
「……帰ろうと思ったけど」
「え、なんで、帰るの?」
「やっぱ戻るわ。引き止められたから」
「ん?」
よくわからないまま、弓道場に戻ろうとした。
「白狼、俺、やっぱ、間違ってたわ」
後ろ向きのまま話し続ける。
「え? 何が?」
「部長代わるって簡単に言って悪かった」
「え、ああ。そのこと? 随分前のことだから覚えてないよ。気にしないで。ほら、稽古しに行こう」
本当はすごく傷ついていたが、傷ついていないふりをした。それを言ったことで凛汰郎が困るのを見たくなかった。顔がふっと緩んでいたのを見て、安心した。
「あのさ、白狼、入院してる時、花飾ってた?」
「え、あーー。そうだね。なんか、雅俊が贈ってくれたって言う話だけど、あの人花なんて全然興味ないくせに
変なのって思ってさ。ん? 凛汰郎くん、なんでそんなこと聞くの?」
その話を聞いて、凛汰郎は、ムカムカと止まらなかったが、グッと堪えて、耐えた。怖い顔をおさえるのが逆に
気持ち悪い顔になっていた。
「え、どうかしたの? すごい変な顔してるけど……」
「……いや、綺麗な花だったんだろうなって」
「ん? そうだねぇ……雅俊がソネットフレージュの花だって言ってて、それ違うよってソネットフレーズだよって教えてあげたんだけど」
状況が読めずに雪菜は花の出来事を話し続ける。
「え、ソネットフレージュでしょう?」
「え、違うよ、凛汰郎くん。ほら、見て」
雪菜はスマホを見せて、正式な名前を確認させた。
「あ、本当だ」
「ここにも間違う人いたね。雅俊と同じ間違いするんだ。男子って細かいところ
気にしないもんね。なんでだろう……」
そういいながら、スマホをぽちぽちと触ってバックにしまおうとした。
「それ、俺だから!!」
黙っていられなくなった凛汰郎は叫んだが、雪菜には理解不能だった。そこへ、雅俊が通りかかる。
「あ! 雪菜、大丈夫なのか? 今日から部活参加するの?」
「雅俊! ううん、今日は見学しながら、後輩指導だよ。まだ松葉杖だしね」
「そっか、あんま、無理すんなよ。ん、誰?」
雅俊は、雪菜の横に立ち、近くにいた凛汰郎を指差す。
「誰って指差すな。先輩。3年の平澤凛汰郎くんだよ。」
「あー、弓道部の。どうも。雪菜がお世話になってます」
「誰がお世話よ。保護者じゃないんだからやめて」
「……」
「ごめんね、凛汰郎くん。この子、ウチの近所に住んでて幼馴染なの。生意気だからしごいてくれないかな」
「そっか。どうも」
眼力を強めに凛汰郎は、雅俊を睨みつける。
「こわっ」
「こら!!」
「それじゃぁ、お邪魔しましたぁ」
雅俊は、睨みを恐れて急いで、体育館の方へ進んでいく。
「ごめんね。生意気で。申し訳ない」
「白狼が謝ることはない」
「まぁ確かに。んじゃ、行こうよ」
松葉杖を横に無意識に凛汰郎の制服シャツをくいっと引っ張った。
少し接近したため、凛汰郎は頬を赤くして黙っていた。
屋上に飾られているカザミドリがカラカラと急いで回っていた。
雪菜は、久しぶりに弓道場で、稽古を見学した。
まだ松葉杖をついていたため、本格的な稽古はできなかったが、雰囲気を味わい、自分も参加している空気感を取り戻した。
後輩たちは、真剣に的を当てにいっている。姿勢も正しくできていて、申し分なかった。
ふと、椅子にすわって見ていると頭の中でさっき凛汰郎がさけんだ『それ、俺だから』のセリフが頭の中から離れなかった。
(凛汰郎くん、俺だからってどう言う意味だったんだろうなぁ……)
ふと、稽古に熱心な凛汰郎を見ると、これから的を打つぞという体勢だったが、雪菜の視線が気になったのか、こちらをチラリと見ては、怖い顔をしていた。
(え、私睨まれてる? なんで?)
なんで怒っているのか謎だった。
(こっちジロジロ見過ぎだつぅーの。狙いがズレるわ。全く……)
そう思いながらも本当は見られて嬉しい凛汰郎だった。部長の雪菜が戻ってきてから、部活の雰囲気はいつものペースを取り戻した。和気藹々で、明るくなり、練習も順繰りできて、みんな気持ちはホクホクしていた。
複雑な気持ちがある凛汰郎も、ホッと安心していた。
「お疲れさま! ごめんね、遅くなった。みんな、調子どう?」
顧問のいろはが、弓道場の出入り口で声をかけた。
「みんな集合!」
先生が来たと分かると、雪菜の一声で円を囲むように集合し号令をかけた。
「よろしくお願いします」
「うん、うん。何だか、雰囲気見て分かるけど、調子良さそうだね」
「はい。部長が戻ってきたので、みんな喜んでます」
2年の紗矢が答える。
「本当は、どの人がいるいないに関わらず、やるべきことに集中してほしいものだけど、団体戦もあるから周りの状況把握も大切だよね。ま、これを教訓に次からは会話するべきところは会話して、連携組んでね」
「はい!!」
部員全員が返事をした。
「んじゃ、稽古の続けてください」
「はい!!」
それぞれに射場に戻っていく。
「雪菜、足はいつ頃から稽古に参加できそうなの?」
みんなが稽古に入っている中、いろはは、雪菜が座る椅子の近くまで、寄った。
「先生、やっとここに来れましたよ。ずっと寝てることが多かったからムズムズしてました。できることなら、早く稽古に参加したいところですよぉ」
いろはは、屈んで、雪菜の足の調子を確認した。
「あと、1・2週間ってところかなぁ? 大変だったよね。まさか、学校の前で交通事故になるとは……」
「あ、気になっていたんですけど、私が事故になった時って、誰が救急車とか呼んでくれたとかわかります?」
「えー……。確か、そこにいる平澤くんじゃなかったかな。目の前にいたって話してたよ」
「凛汰郎くんが?」
「ねぇ、平澤くん!!」
不意うちにいろはは、声の届くところで矢を引いていた凛汰郎に声をかけた。雪菜は声をかけないでほしいと
思いながら、鼓動が早くなった。
「え……。何の話ですか」
矢を引くのをやめてこちらに近づいてきた。なぜこちらに向かってくるんだと思いながら、雪菜はドキドキしていた。
「え、だから、雪菜が交通事故でけがしていた時、近くにいたんでしょう。平澤くんが救急車呼んだって話してたんだけど、そうなの?」
「あ、その話。そうですけど……」
目を合わせるのが嫌だったのか恥ずかしそうに斜め後ろを向く。
「あ、えっと、ありがとう」
「別に……」
後ろ頭をポリポリとかいて話す。
「平澤くんが、人のために行動するとは思わなかったなぁ。部活では、部員に関わらないでオーラ激しいのにね」
いろはが、感心していた。雪菜は、なんでだろうと思いながら、見ていた。
「当たり前のことしただけですから。目の前にけがとか病気で倒れてる人がいたら、助けるのが常識っすよね」
「ふーん……。全く知らない人でも 助けるんだ?すごいね」
いろはがカマをかける。
「んーー、それは……」
咳払いをして、ごまかした。顔全体に頬が赤くなっていく。
雪菜でなんでこんな顔するんだろうと不思議で仕方なかった。
「ま、ま。いいや。稽古に戻っていいよ。邪魔してごめんね」
「いえ、大丈夫っす」
そういいながら、元の位置に戻っていく。
「ちょっと、先生!! なんであんなこと聞くの?」
小声でいろはに耳打ちする雪菜。
「え、だって、気になったから」
「……凛汰郎くん困ってたじゃない。やめて、色々聞くの」
「困ってんじゃなくて、照れてたんでしょう」
「え、何に照れるの?」
「雪菜、鈍感だなぁ。お兄と一緒か。それとも、菜穂姉と一緒かな?」
「え、なんで、お母さんとお父さん出てくるの?」
「……自分で気づきな。それじゃ、反対側の1年の指導するから2年の方、雪菜指導して」
「わかりました」
口を大きく膨らませて、機嫌悪そうに返事をした。話を解決せずに終わったことが気に食わなかったようだ。
凛汰郎は、矢をある程度、引き終わった後、後ろ頭をボリボリとかきながら、熱心に後輩指導をする雪菜を
見ていた。
丁寧に弓を引く位置、矢を置く場所を確認しながら、説明している。自分にはできない姿を見て、情けなくなるとともに、感心していた。
雪菜の指導方法は、一人一人、何が合っていて、何が間違っているを矢を引くたびに熱心に教えていた。ある程度、型が決まっており、全体に指導する時はまとめて教えることもするが、結局は個人個人丁寧に教えないと伝わらないこともある。
もちろん、指導する際も、どんな性格でどんな特徴があるかなど把握してから話しかけていた。
雪菜は、自分自身の生活面こそ完璧にできないが、後輩たちとの関わる距離感や、相手の好きなものや嫌いなものを把握するのには卓越していた。
そして、話しやすい空間を作ってから優しい言葉も厳しい言葉も言えるようにと雰囲気作りにも力を注いでいた。
その段階があるから、みんなから慕われているんだろうなと凛汰郎は情けなくなり、前髪で目を隠した。
自分には、射法八節のことを考えてただただ、矢を引いては的に当てることだけ考えている。
周りのことなんか眼中にない。人間関係なんて考えたことさえない。
毎日の稽古で部活動での目標は、1日40射引くと決まっている。それが終わったら今日は終わりになる。
それだけを考えている。
人間関係のことを考えたら、目標値の40射なんて時間が足りなくて帰るのも遅くなる。部長たるもの、指導もしなくてはいけないし、みんなをまとめなくてはいけない。そんなの簡単とたかを括っていたが、全然できていないというか凛汰郎は平気な顔して、逃げていた。
そして、そう考えている凛汰郎であるのを雪菜はずっと前から受け入れていた。
矢を引くことに特化してるだなと前々から知っていたのだ。
わかった上で、自分が部長をやり続けると訴えていた。
今日も通常通りに弓道部活動は終わりを迎えた。
夕焼け色に染まった空にはカラスが鳴いて飛んでいた。