真っ直ぐと広がる景色を見つめる。形や色を見極め、木々や雲の動きを感じながらそれをしっかりと目に焼き付けて、今度は目の前にあるキャンバスに目を向ける。筆を手に取り真っ白なキャンバスに色を重ねていく。
ゆっくりと、丁寧に。重なる色がどんどん動きを帯びていく。
俺はこの瞬間が堪らなく好きなんだ。
「お前、絵だけは上手いな」
「だけってのは余計じゃない?でもまぁ、ありがと」
昔から特段勉強が出来るわけでも運動が出来るわけでもなかった俺は、小さい頃から絵を描くことだけは周りよりも少しだけ得意だった。
外で遊ぶのも好きだったけれど、それよりも絵を描くことを選ぶ時も多かったほど好きだったことが周りよりも少しだけ得意になれた理由なのかもしれない。
幼馴染である蛍と一緒に廊下に飾られた自分の絵を見つめる。
冬が過ぎ去り、春の朗らかで明るく桜が一面に咲いている通学路の風景だ。
「こんな言葉、よく知ってたな」
「さっきからずっと小馬鹿にしてくるのどうしてかな?」
「ごめんごめん。でもすげーよ、うん」
中学から美術部を始めて高校でも同じように美術部に入り、小規模ではあるものの春の作品展に応募した自分の絵が審査員特別賞に選ばれたのだ。
全校集会で表彰されこうやって校内の一角に飾られた自分の絵を見るのは、嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになる。
けれど飾られたこの絵を立ち止まって見る生徒は自分たち以外誰もいないことにも気付いてる。
そりゃそうだ。俺はただ人より少し絵が得意なだけ、そしてたまたま今回賞をとれただけ。それだけであり俺の絵には人を惹きつけたり、心を揺さぶるような力はないからだ。
絵を描くことは好きだ。夢中になって筆を滑らせている瞬間は、とても楽しくて仕方ない。けれど絵で食べていこうとは思わない。俺の実力ではそんなことは夢物語だ。
けれど、少し。ほんの少しでも、誰かの心に何かを届けられたら。
誰かの心を、動かせたら。
そう願い、もう一度自分の絵の横に書かれた題名を見つめた。
『春うらら 咲良元春』
誰かの心に、春を届けられたら。
それだけで俺の絵はきっと、意味を持つんだ。
ーはるうららー
「ゴリラ…?だよな、たぶん」
昼休みを終えて腹も満たされた午後の眠たい授業。移動教室である理科室の窓際の1番後ろの席。本来ならば退屈な授業に眠ってしまいそうになるこの時間ではあるものの、俺はこの時間を密かに楽しみにしている。
その場所で周りには聞こえないくらいの小さな声で呟かれた俺の声は、誰に問う訳でもないものの思わずそう言葉にせずにはいられなかった。
机の端っこに自分が描いたリンゴの絵があり、その隣に新しく描かれていた黒く塗り潰したような動物らしき絵に思わず眉を寄せる。でもしりとりの『り』から始まりリンゴと来れば、その絵が見た目ではハッキリと分からなくとも流れでゴリラという事は分かった。
お世辞にも上手いとは言えない絵ではあるものの、俺はこの名前も、更に言えば学年も何も知らないコイツと、この机を介してコミュニケーションを取っている。
始まりはほんの些細な事だった。
今日のように午後から始まった理科の授業。教師の言葉はまるで子守唄にでもなったかのように眠りを誘い、ウトウトとしている生徒も多い中で俺も暇を持て余して何となく、本当に何の意図もなく教壇に立つ教師を描いていた。
何となくで描き始めたは良いものの一度描き始めると美術部の血が騒いでしまい、教師の言葉など耳に入らないほど集中して描き続け、気付けば机の端っこには本格的な教師の似顔絵が出来上がっていた。
最後には消して帰ろうと思っていたものの、集中し過ぎたせいかチャイムが鳴ってようやくこんなにも時間が過ぎているのに気付き、バタバタと教室に戻る準備に追われ、その絵を消し忘れてしまったという事実に気付いたのはその日家に帰ってからで。
やってしまった…とは思ったものの、きっと掃除の時にでも誰かが消してくれているだろうと淡い期待を込めて夜を過ごし、そしてそんな事も忘れてしまっていた次の理科の授業の日。いつも通り窓際の1番後ろの席に座った瞬間にその絵の事を思い出して、机の端を見てみると俺の絵は消される事なく残されており、ヒヤッとしたもののその隣に何か書かれているのに気付いた。
『似すぎじゃね?』
たった一言。そう添えられた言葉は、その似顔絵がちゃんと教師の特徴を捉えて描いたと言う事を物語っており、まさか反応が返って来るとは思っていなかったため嬉しさと思わず吹き出しそうになる擽ったい感覚に笑い声を抑えるのに必死で。
その文字の隣に『だろ?力作だから』と書き加えたのが俺達のはじまり。
そこから二、三言ぐらい机でのやり取りを経て、なぜか今は絵でしりとりをしようという流れになり、最初のリンゴから始まりゴリラ…と来れば次は何を描こうかと、退屈でしかなかった授業は今では早くこの時間が来ないかと思うほどに楽しくて仕方なく、トントンとペンの先をノートに当てながら考え続ける。
ふとある物が思い付くと、ゴリラだと思わしき絵の隣に、サラサラと簡単にイラストを描いて俺は満足気に頬を緩ませた。
描いたのは『ランドセル』
さぁ、次は何を描いてくれるのだろうか。名前も何も知らないこの人物が、次に何を描いてくれるのかと楽しみで堪らず、先生に見つかってしまわないようにとそっと机の端の絵を教科書で隠して残りの授業を終えた。
「え?…え?いや、…ええ…?」
いつもの午後の授業。一体どんなイラストが描かれているかと何日間かずっとこの日が待ち遠しく、午前中からソワソワ落ち着かない自分に幼馴染の冷めた視線を感じたもののそんな事はどうでも良いってくらい浮かれていた俺は、いざ午後の授業で理科室にたどり着き席に着いた途端に戸惑いの声を上げる。
俺が描いた『ランドセル』の隣にあるのは、ただ黒い線で不恰好に描かれていた丸のような形で、色もなくそれが一体何を表しているのか全く分からずますます俺は困惑した。
「え、…なに、…何なんだ、これ…?」
ランドセルの『ル』だろ?る、る…る…?何度考えても、自分の中の知識を捻り出そうとしても、その形で『る』に繋がるものが思い浮かばない。
ついに授業時間丸々使っても答えに辿り着かなかった俺は、その謎のイラストの横に『ごめん、降参。この丸?丸なのか分からんけど、これ何?』とメッセージを残して理科室を後にする事しか出来なかった。
翌日、まだ理科の授業はないものの俺はどうしてもあの謎のイラストが気になって仕方なく、昼休みになり昼食を食べ終えると一人理科室に向かっていた。
まだ返事は来てないかもしれない。でも気になって気になって仕方なかったのだ。
騒がしい廊下を早足で歩き、見慣れた理科室の前にたどり着く。そっとドアを開けると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「あ…」
誰もいないものだと思っていたため驚きに小さく声が漏れる。視線の先の人物に、俺は見覚えがあった。
花守春翔
彼は同じ学年ではあるものの、クラスは別であり会話を交わした事もない。それでも彼の存在を知っていたのは、クラスの女子がクールイケメンやら、背が高くてカッコいいと騒いでいるのをよく聞いていたからだ。
それに以前体育の授業で、花守を見てキャーキャーと騒ぐ女子の後ろから遠巻きで花守の姿を見た事もあった。あぁ、そりゃ女子達が騒ぐのも仕方ないなと、男の俺の目から見ても花守春翔と言う男はとても容姿が整っている。
決して細いわけではない切長の瞳は絶妙なバランスに、スラリと通っている鼻筋。普段から外見に気を遣っているのか髪はいつも綺麗にセットされており、遅刻した時にピンク色の毛先をぐちゃぐちゃなまま登校する自分とは大違いだ。
そして身長は180センチ以上あり、足も長く誰よりも頭ひとつ分は大きい彼が目立たないはずがない。
そんな彼が突然現れた自分に驚いたように瞳を大きくしてこちらを見ているのに気付くとハッとし、何も言わずに帰るのも感じが悪いかもしれないと、その視線に気まずげにへらりと笑うと俺は理科室に入ってドアを閉めた。
「…ごめん、驚かせた?」
「いや、…大丈夫」
「花守…だよな?」
「……。知ってんの、俺のこと」
「うん。1組の花守だろ?クール無口なイケメン!…って、いつも女子が騒いでるからさ」
「なんだそれ」
ゆっくりとそちらに近づきながら進む会話に思わず小さく笑う花守の笑顔になんだか胸が騒つき、その感覚が何なのか今は分からず会話を続ける。
「俺2組の咲良。咲良元春」
「…。うん、知ってる」
「え、まじ?」
「…これ、咲良だろ?」
「え…?」
花守が俺の事を知っていた事に驚く。まさか名前まで知っていたなんて。けれどそれよりも更に驚いたのは、花守が指差す机の端っこの部分は、これまで誰か分からないままやり取りしていたしりとりの絵が描かれた場所だったからだ。
「え?!これ花守だったの?」
「うん。…返事書こうと思って来てた」
「…、…あ!それ!それだよ!あの丸っこいやつ何?!」
「ルーマニア」
「…、…は、…?」
「ルーマニア」
「…え?」
まさかまさかの連続で、なかなか頭がついていかないものの返事と聞いてすぐにハッとし、そう言えばあれは何だったのかと直接聞いてはみたものの、あまりにも奇抜な答えにまた固まってしまうとは誰が予想出来ただろうか。ポカンとしたまま瞬きも忘れ花守を見つめる。
「ランドセルの、る…だろ。だから、ルーマニア」
「るー、…まにあ…」
「あ、…国な?」
「いや知ってる!そこは知ってるから!そうじゃなくて…!」
「…?」
俺が言おうとしている事が全く分からないと言うように戸惑いの表情を浮かべる花守に、俺は堪え切れず吹き出すと理科室には俺の笑い声が響いた。
「ふはっ、あははは!いや分からんて、これは!あんなふにょふにゃの線で丸っこいの描いて、はいこれはルーマニアです。は難易度高すぎ…!」
「マジか。俺的にはめちゃくちゃ自信あったルーマニア…」
「やめっ、やめて、ちょ、腹痛い腹痛い…!あははははっ…!」
真剣な表情で話す花守にますますツボってしまいケラケラと笑う俺に少し戸惑いつつも、そんな俺の笑いに釣られたのかクスリと柔らかく笑う花守にジワジワと胸が熱くなった。
俺はこれと似た感覚を知っている。
それは真剣にキャンバスに向かい、夢中に筆を滑らせている瞬間。無色だった世界にどんどん色が重なり、そこからまるで木が芽吹くように色付いていく。
胸がキュッと締まるような、熱くなるような、あの感覚。絵を描くのが好きだと、その度に改めて気付かされる、あの瞬間。
花守の笑顔を見ると、それに似た感覚が胸を満たすんだ。
「…あ、そうだ。咲良」
「……。っ、え?なに?」
胸の奥のキャンバスが淡く色付く感覚に自然と自分の胸元を手で押さえていれば不意に花守が話し始め、俺は考えに浸っていた事に気付くとすぐに花守を見る。
少しだけ眉を下げたようにこちらを見る花守の視線に何が言いたいのか分からず先を促すと、花守は言いにくそうにポツポツと話し出した。
「…わりぃ。この前の授業で先生にバレそうになってさ」
「あ、この落書き?」
「うん。…あの時は何とか誤魔化したけど、多分そろそろ限界だわ」
「あー…まじかぁ」
花守からの言葉に思わず寂しげな声が出てしまった。それは退屈で苦痛なだけであった理科の授業が花守とのやり取りのおかげで楽しくなった事はもちろん、唯一の花守との繋がりがこのやり取りを終えたらなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
学年は一緒でも、クラスも違えば部活も違う。共通の友人もいないとなるとそれは当然だ。
けれどだからと言って今まで全く交流のなかった花守に急に慣れ慣れしく話しかけたり、連絡先を聞くのも迷惑かもしれない。色々と考え過ぎる性格が仇となり、何も聞けないままこの関係が終わってしまうのかと本格的に落ち込んでいた俺の目の前に、不意に花守から何かを手渡され反射的に受け取ってしまう。
それは一冊の真新しいノートで、それがどういう意味なのか分からない俺はキョトンとした表情で花守を見つめた。
「え…?ノート?」
「うん」
「なぜに…?俺の宿題お前がやれよってか?このやろう」
「ふは、ちげーよ。…ルーマニアの次、ま、だろ?」
「う、うん?」
「…描ける場所がなくなったから、作った」
「……」
「俺的には咲良とのしりとり…すげー楽しかったので、…出来れば続けたいんだけど。…これが机の代わりって事で…いい?」
もうこれっきり花守と話す事は無くなるのだろうと思っていた俺は、驚きのあまり言葉が出ないまま手渡されたノートと花守を交互に見つめて、ただ何度も頷く事しか出来ず。
そしてこうやって、俺と花守の何とも奇妙なやり取りは続けられる事になったのだ。
「へー。花守ペット飼ってんだ」
「そう、ウサギ」
「え、ウサギ?めずらしくない?」
「…まぁ、確かにめずらしいかもな」
「名前は?」
「源太郎」
「しっぶ。渋いなゲンさん」
「ちなみにメス」
「あ、…女の子に失礼なこと言っちゃった、ごめんねゲンちゃん」
「華麗な手のひら返し見たわ。…、ウサギ、見る?」
「え、見る見る!」
あれから毎日、俺たちは昼休みにノートを互いに渡すために理科室で待ち合わせをしている。それは1か月ほど経った今も続いており、今日も昼食を終えてすぐに理科室に向かうともう花守は先に来ていて、軽く手を上げて挨拶をすると花守も同じように手を上げて迎えてくれた。
ノートを花守から受け取るとすぐに教室に帰る事はせず、こうやって他愛の無い会話をするのが日課で、今日はペットの話になり花守のペットであるウサギを見せてもらおうと、スマホを手にした花守の方に少し身を乗り出した。
すると俺から見やすいようにと花守も更に俺の方に近寄り、コツンと肩が触れ合うとそこからジワジワと熱が広がるような気がした。
じんわりと、筆を滑らすキャンバスに色がどんどん滲んでいくように。俺の中の何かがハッキリと色付いていくような。
花守という存在が、俺の中で色鮮やかに輝いて。
まるで、それは…。
「…咲良?」
「っ、…ぁ、…ごめんごめん!」
「……。顔、赤い。熱あるんじゃね?」
ぼんやりとしていた俺を心配した不安そうな花守の声が聞こえ、ハッとし大丈夫だと言うよりも先に花守の大きな手が俺の額を包み込むように触れる。
その瞬間ドクンと大きな音を立てて鼓動が跳ね上がると、一気に顔に熱が集中するのが分かった。
見なくても分かる、きっと今俺の顔は絵の具を溢したように真っ赤だろう。
「…。……綺麗な色だな」
「え…?」
花守の手が額からそっと頬に滑らされ、火照っているせいか冷たく感じる花守の手が心地良いとすら思える。何を綺麗だと言ったのか分からず戸惑う俺に、ゆっくりと花守の顔が近付いてくるのが分かった。
スローモーションのように、
ゆっくりと、ゆっくりと。
気付けば唇が重なっていた。
「っ、咲良…!」
まるで時が止まってしまったかのように固まっていた俺は、昼休みを終えるチャイムで我にかえると慌てて花守から離れる。
一体何が起きたのか、何故花守がこんな事をしたのか分からず、気付けば俺は理科室から逃げるように飛び出していてた。
そんな俺を珍しく焦ったように呼ぶ花守の声が聞こえても立ち止まる事など出来ず、バタバタと騒がしく教室に戻るとすぐに自分の机に突っ伏してしまった。そんな俺を心配する幼馴染の声にも答える余裕はなかった。
その日から、毎日の日課だった花守との時間はなくなってしまった。
正確に言えばなくなってしまった…と言うよりは、俺があの日から理科室に行く事が出来なくなってしまったのだ。
それに花守自身も、理科室に来ているかどうか分からない。だってあんな事があったんだ。理由がどうであれ、気まずくて向こうも俺と会うのを避けているかもしれない。
花守がどんな理由で俺にキスをしたのかは、分からない。そして俺が、そのキスに対してどう向き合えば良いのかも分からない。
けどたったひとつ、もうこれで花守とあんな風に他愛のない会話もできなくなったのだと思うと、とても悲しくて苦しかった。
ついこの間までは、花守と過ごしていた昼休み。早々に昼食を終えてぼんやりと物思いに耽っていた俺は、何やら少しガヤガヤと騒がしくなった教室に何事かと外から教室に視線を戻した。
するとすぐ目の前に誰かが立っているのに気付き、顔を上げればそこには予想外の人物が俺を見つめていた。
「咲良」
「え…?は、花守…?」
「…話したい」
「え、…、でも、」
「咲良、来て」
「っ、お、おい…花守っ、…!」
まっすぐ俺を見つめる花守に、この前のキスが頭を過ぎる。何を話せば良いんだろう。言い淀む俺の腕を掴むと有無も言わさずに引っ張り、そのまま歩き出す花守に連れられ何とか歩き出す。チラリと見上げてもその表情は分からない。
じわ、じわ。
掴まれた腕が、熱い。そこから熱が、色が、自分の中に広がっていくようで、何となく落ち着かず一度視線を花守から外した。
すると沢山の生徒が行き交う廊下で自分達の姿がとても目立っているのに気付き、特に女子からの視線が花守に集まっている。そのついでと言うように自分にも視線が向けられているのが分かると、何とも気恥ずかしい気持ちになりそれに耐え切れずに俯いた。
そのまま俯いていると気付けばいつの間にか理科室に辿り着いており、中に入るとようやく花守は俺の腕から手を離した。
「…。……急にごめん」
「いい、…けど、…、…話って…?」
「この前の…、」
「……」
「…キスの、こと」
「っ、…、…う、ん」
「ちゃんと話したくて」
花守の目が見れない。胸が痛いくらいに高鳴って苦しい。
花守は何を言うつもりなんだろう。キスのこと冗談のつもりだったって、ただの気まぐれだったって、そう言うつもりなのだろうか。そうだとしたら、この胸の痛みは何なんだ。俺は花守に何と言って欲しいんだろう?
以前ここで花守と話していた時に色鮮やかだった胸の中のキャンバスは今、ぐちゃぐちゃと色を掻き混ぜられとても良い色とは言えない。自分でも分からない感情に何とか答えを出そうと、色に色を塗り重ねてどんどん重なった色は分厚くなり本来の色が分からなくなっている。
この感情は一体何なんだ?
「…本当は、もっとずっと前から咲良のこと知ってたんだ」
「…え?」
「最初は時々見かけて、楽しそうに友達と笑って歩いてる姿を見れればそれで良いって…そう思ってた」
「……」
「でもたまたま、…、……、あー、その、…あの机の落書きが咲良が描いたものだって分かって、…どうしても話したくて、ダメ元でメッセージを残した」
「…なんで、…」
「…。好きだから」
「…え、…?」
「好きだ、咲良」
息が止まった気がした。
目の前にいる花守の表情はとても真剣で、でもどこか不安げで。でも精一杯俺に気持ちを伝えようとしてくれているのは分かった。
ぐちゃぐちゃと汚く色の混じった感情が答えを見つけるように、綺麗に混ざり合い一つの色になるように。その感情はスッと俺の中に一つの色を与えて、そこからジワジワと広がっていく。
ああ、この感情は。
そうか、そうだったのか。
流れる沈黙に、花守が更に不安そうな表情になっているのが分かる。
きっと今俺の顔はまた、以前のように赤い絵の具を溢したような色をしていて。緊張で情けなく声も掠れてしまうかもしれないけれど。
聞いてよ花守。
俺、…俺な。
「俺も、…花守のこと…」
ーーーーーーー
春は好きだ。桜の匂い、新しいシャツ、穏やかな気温。その時期が何となく好きなのは、自分の名前にも春の字があるからだろうか。
だから、桜並木の通学路の絵を見つけた時に、自然と俺の足は止まった。
ーー綺麗だ。
なんてことのない普通の絵、ただの通学路の絵。それでも俺にはそれが通い慣れた道の桜だと一目で分かり、花びらの一枚一枚にも重なる色味に柔らかな陽の色、爽やかな風の吹く道路、散っていくひとひらが踊るような動きを感じる。
絵なんてそんなに詳しくも無いし、歴史の勉強くらいでしか絵画は見た事はない。
それでもここに飾られているのは、俺があの日に歩いた春の匂いがして、目が離せなかった。
『春うらら 咲良元春』
絵の横に添えられたタイトルと作者の名前を見て、そこにもさくらがあることに気が付いた。
咲良、どんな人なんだろう。
キッカケは本当に、たったそれだけ。些細なもので、その暖かく穏やかな陽気を運ぶ絵を描いた人の名前が、まるで春そのものを表したような名前だと思ったこと。
それが、自分が恋する人の名前になるなんて、思いもしなかった。
「おい、咲良〜。置いてくぞ〜!」
「ちょっ、置いてくなし!」
昼休み、購買に向かう途中に通り掛かった教室から聞こえた名前に俺は思わず足を止めた。さくら、という特徴的な名字はなかなか聞かない。もしかしたらあの絵を描いた人なのかも知れないと、少し湧き出た好奇心からつい注意が逸れてしまった。
瞬間、とすんと軽く何かが胸にぶつかる感覚。揺れた先端だけピンク色をした派手な髪が、ふわりとはなびらのように衝撃で宙に舞った。
「いてっ!あ、ヤベー!限定10食のメロンパン売り切れちゃう…!マジごめんなっ!」
一瞬ポカンとしてしまった俺に、焦ったように謝罪になっていない謝罪をしてふにゃりと浮かんだ笑顔。派手な髪色に似合わない柔らかい笑顔が胸をギュッと締め付けたのが分かり、そのまま走って友人達の元に駆けていった生徒がまた咲良と名前を呼ばれたのを聞いて、彼があの絵を描いた咲良元春なのだと理解したのと同時に生まれて初めて感じる高鳴りに俺は暫く動けずにいた。
慌ただしく走り去っていく春風のような彼の背中も、一瞬の笑顔も、柔らかそうなピンクの毛先も、写真のように胸にこびりついて離れない。
たったそれだけで、俺の心は奪われてしまった。
その日からずっと、咲良元春という男が気になって仕方ない日々が始まった。それが最初はただの興味本位からのスタートで、自分でも恋愛感情だなんて思いもしなかった。たった一瞬すれ違っただけの男に、惚れたなんて。
けれど、廊下ですれ違う度に。2組の教室を通る度に。掃除の時間に担当区域を通る度に。あの桜色を探してしまう自分がいた。
「コラッ、咲良!その髪の色を直せって何度言わせれば…!」
「先生ちがうってば!絵の具絵の具!これ絵の具が付いただけだから〜!」
派手な髪色を注意される度に美術部だからとふざけながら教師から逃げる咲良は、バカっぽいけど可愛いと感じてしまう自分がいて。恋は盲目という言葉を実感させられた。
きっと他人からすれば本当に些細で、縁とも言えないような、時々しか見かけない関係。それでも幼馴染と一緒に笑って楽しそうに過ごす咲良を通りすがりに視界の端で見掛けると、その日一日ラッキーと思えるくらいに重症だった。
それくらい日に日に熱が上がれば、直接話しかけたいと思う気持ちも強くなっていく。
ただ、なんて声を掛けていいか分からなかった。何の接点もない、別のクラスのヤツに急に話しかけられても咲良はどんな顔をするのか。お前の事を知ってるよ、なんて言った日にはどうしてってビビられてしまいそうで怖かった。飾られた絵を話題に出そうと思い立ったのに、いつの間にかあの絵も廊下から片付けられていて、それを話題にするのも今更な気がして結局何一つ出来ないまま時間は二学期も中盤まで進んでしまった。
ああ、俺もあの幼馴染みたいに、咲良と笑って何でもない話がしてみたい。勇気が出せない俺は言葉を口に出来ず一人で羨むばかりだ。
転機が訪れたのは、理科室で咲良と幼馴染を見掛けたあの日の事だ。
「落書きに熱中しすぎてノートヤバかった…!」
「何してんだよお前は」
入れ替わりの授業で理科室に来た1組の俺達を見て、二人は慌ててノートを持って外に出て行く。どうにも授業のノートを取るよりも落書きに熱中してたらしい咲良の様子には、思わず口が緩んだ。
何気なしに机に座ると、見えたのは誰かの落書き。それは落書きというにはクオリティが高く、一目で見ても理科教師の似顔絵だと分かった。その絵の線の癖や雰囲気が、廊下で見た絵を少し彷彿とさせて。
この机には咲良が座っていたんじゃないかと分かると、それだけでじわりと身体の熱が上がった気がした。
ずっと遠くにしか見られなかった咲良が、俺と同じ机を使ってたのかもしれない。
妙に似ている理科教師の似顔絵すら、咲良が描いたのだと思うと愛おしいとも思ったところに、ふと頭の中に過ぎった。この落書きをした机に、また咲良は座るのだろうか。
確証は無いけれど、もしこの机に座ったら、咲良との繋がりが出来るんじゃないか。反応するかどうかは分からなくても、ほんの少しだけ咲良に関わりたい。
スルーされても傷付かないように、そっと一言だけ書き残す。
『似すぎじゃね?』
どうか、君が気付いてくれますように。
ゆっくりと、丁寧に。重なる色がどんどん動きを帯びていく。
俺はこの瞬間が堪らなく好きなんだ。
「お前、絵だけは上手いな」
「だけってのは余計じゃない?でもまぁ、ありがと」
昔から特段勉強が出来るわけでも運動が出来るわけでもなかった俺は、小さい頃から絵を描くことだけは周りよりも少しだけ得意だった。
外で遊ぶのも好きだったけれど、それよりも絵を描くことを選ぶ時も多かったほど好きだったことが周りよりも少しだけ得意になれた理由なのかもしれない。
幼馴染である蛍と一緒に廊下に飾られた自分の絵を見つめる。
冬が過ぎ去り、春の朗らかで明るく桜が一面に咲いている通学路の風景だ。
「こんな言葉、よく知ってたな」
「さっきからずっと小馬鹿にしてくるのどうしてかな?」
「ごめんごめん。でもすげーよ、うん」
中学から美術部を始めて高校でも同じように美術部に入り、小規模ではあるものの春の作品展に応募した自分の絵が審査員特別賞に選ばれたのだ。
全校集会で表彰されこうやって校内の一角に飾られた自分の絵を見るのは、嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになる。
けれど飾られたこの絵を立ち止まって見る生徒は自分たち以外誰もいないことにも気付いてる。
そりゃそうだ。俺はただ人より少し絵が得意なだけ、そしてたまたま今回賞をとれただけ。それだけであり俺の絵には人を惹きつけたり、心を揺さぶるような力はないからだ。
絵を描くことは好きだ。夢中になって筆を滑らせている瞬間は、とても楽しくて仕方ない。けれど絵で食べていこうとは思わない。俺の実力ではそんなことは夢物語だ。
けれど、少し。ほんの少しでも、誰かの心に何かを届けられたら。
誰かの心を、動かせたら。
そう願い、もう一度自分の絵の横に書かれた題名を見つめた。
『春うらら 咲良元春』
誰かの心に、春を届けられたら。
それだけで俺の絵はきっと、意味を持つんだ。
ーはるうららー
「ゴリラ…?だよな、たぶん」
昼休みを終えて腹も満たされた午後の眠たい授業。移動教室である理科室の窓際の1番後ろの席。本来ならば退屈な授業に眠ってしまいそうになるこの時間ではあるものの、俺はこの時間を密かに楽しみにしている。
その場所で周りには聞こえないくらいの小さな声で呟かれた俺の声は、誰に問う訳でもないものの思わずそう言葉にせずにはいられなかった。
机の端っこに自分が描いたリンゴの絵があり、その隣に新しく描かれていた黒く塗り潰したような動物らしき絵に思わず眉を寄せる。でもしりとりの『り』から始まりリンゴと来れば、その絵が見た目ではハッキリと分からなくとも流れでゴリラという事は分かった。
お世辞にも上手いとは言えない絵ではあるものの、俺はこの名前も、更に言えば学年も何も知らないコイツと、この机を介してコミュニケーションを取っている。
始まりはほんの些細な事だった。
今日のように午後から始まった理科の授業。教師の言葉はまるで子守唄にでもなったかのように眠りを誘い、ウトウトとしている生徒も多い中で俺も暇を持て余して何となく、本当に何の意図もなく教壇に立つ教師を描いていた。
何となくで描き始めたは良いものの一度描き始めると美術部の血が騒いでしまい、教師の言葉など耳に入らないほど集中して描き続け、気付けば机の端っこには本格的な教師の似顔絵が出来上がっていた。
最後には消して帰ろうと思っていたものの、集中し過ぎたせいかチャイムが鳴ってようやくこんなにも時間が過ぎているのに気付き、バタバタと教室に戻る準備に追われ、その絵を消し忘れてしまったという事実に気付いたのはその日家に帰ってからで。
やってしまった…とは思ったものの、きっと掃除の時にでも誰かが消してくれているだろうと淡い期待を込めて夜を過ごし、そしてそんな事も忘れてしまっていた次の理科の授業の日。いつも通り窓際の1番後ろの席に座った瞬間にその絵の事を思い出して、机の端を見てみると俺の絵は消される事なく残されており、ヒヤッとしたもののその隣に何か書かれているのに気付いた。
『似すぎじゃね?』
たった一言。そう添えられた言葉は、その似顔絵がちゃんと教師の特徴を捉えて描いたと言う事を物語っており、まさか反応が返って来るとは思っていなかったため嬉しさと思わず吹き出しそうになる擽ったい感覚に笑い声を抑えるのに必死で。
その文字の隣に『だろ?力作だから』と書き加えたのが俺達のはじまり。
そこから二、三言ぐらい机でのやり取りを経て、なぜか今は絵でしりとりをしようという流れになり、最初のリンゴから始まりゴリラ…と来れば次は何を描こうかと、退屈でしかなかった授業は今では早くこの時間が来ないかと思うほどに楽しくて仕方なく、トントンとペンの先をノートに当てながら考え続ける。
ふとある物が思い付くと、ゴリラだと思わしき絵の隣に、サラサラと簡単にイラストを描いて俺は満足気に頬を緩ませた。
描いたのは『ランドセル』
さぁ、次は何を描いてくれるのだろうか。名前も何も知らないこの人物が、次に何を描いてくれるのかと楽しみで堪らず、先生に見つかってしまわないようにとそっと机の端の絵を教科書で隠して残りの授業を終えた。
「え?…え?いや、…ええ…?」
いつもの午後の授業。一体どんなイラストが描かれているかと何日間かずっとこの日が待ち遠しく、午前中からソワソワ落ち着かない自分に幼馴染の冷めた視線を感じたもののそんな事はどうでも良いってくらい浮かれていた俺は、いざ午後の授業で理科室にたどり着き席に着いた途端に戸惑いの声を上げる。
俺が描いた『ランドセル』の隣にあるのは、ただ黒い線で不恰好に描かれていた丸のような形で、色もなくそれが一体何を表しているのか全く分からずますます俺は困惑した。
「え、…なに、…何なんだ、これ…?」
ランドセルの『ル』だろ?る、る…る…?何度考えても、自分の中の知識を捻り出そうとしても、その形で『る』に繋がるものが思い浮かばない。
ついに授業時間丸々使っても答えに辿り着かなかった俺は、その謎のイラストの横に『ごめん、降参。この丸?丸なのか分からんけど、これ何?』とメッセージを残して理科室を後にする事しか出来なかった。
翌日、まだ理科の授業はないものの俺はどうしてもあの謎のイラストが気になって仕方なく、昼休みになり昼食を食べ終えると一人理科室に向かっていた。
まだ返事は来てないかもしれない。でも気になって気になって仕方なかったのだ。
騒がしい廊下を早足で歩き、見慣れた理科室の前にたどり着く。そっとドアを開けると、そこには一人の男子生徒の姿があった。
「あ…」
誰もいないものだと思っていたため驚きに小さく声が漏れる。視線の先の人物に、俺は見覚えがあった。
花守春翔
彼は同じ学年ではあるものの、クラスは別であり会話を交わした事もない。それでも彼の存在を知っていたのは、クラスの女子がクールイケメンやら、背が高くてカッコいいと騒いでいるのをよく聞いていたからだ。
それに以前体育の授業で、花守を見てキャーキャーと騒ぐ女子の後ろから遠巻きで花守の姿を見た事もあった。あぁ、そりゃ女子達が騒ぐのも仕方ないなと、男の俺の目から見ても花守春翔と言う男はとても容姿が整っている。
決して細いわけではない切長の瞳は絶妙なバランスに、スラリと通っている鼻筋。普段から外見に気を遣っているのか髪はいつも綺麗にセットされており、遅刻した時にピンク色の毛先をぐちゃぐちゃなまま登校する自分とは大違いだ。
そして身長は180センチ以上あり、足も長く誰よりも頭ひとつ分は大きい彼が目立たないはずがない。
そんな彼が突然現れた自分に驚いたように瞳を大きくしてこちらを見ているのに気付くとハッとし、何も言わずに帰るのも感じが悪いかもしれないと、その視線に気まずげにへらりと笑うと俺は理科室に入ってドアを閉めた。
「…ごめん、驚かせた?」
「いや、…大丈夫」
「花守…だよな?」
「……。知ってんの、俺のこと」
「うん。1組の花守だろ?クール無口なイケメン!…って、いつも女子が騒いでるからさ」
「なんだそれ」
ゆっくりとそちらに近づきながら進む会話に思わず小さく笑う花守の笑顔になんだか胸が騒つき、その感覚が何なのか今は分からず会話を続ける。
「俺2組の咲良。咲良元春」
「…。うん、知ってる」
「え、まじ?」
「…これ、咲良だろ?」
「え…?」
花守が俺の事を知っていた事に驚く。まさか名前まで知っていたなんて。けれどそれよりも更に驚いたのは、花守が指差す机の端っこの部分は、これまで誰か分からないままやり取りしていたしりとりの絵が描かれた場所だったからだ。
「え?!これ花守だったの?」
「うん。…返事書こうと思って来てた」
「…、…あ!それ!それだよ!あの丸っこいやつ何?!」
「ルーマニア」
「…、…は、…?」
「ルーマニア」
「…え?」
まさかまさかの連続で、なかなか頭がついていかないものの返事と聞いてすぐにハッとし、そう言えばあれは何だったのかと直接聞いてはみたものの、あまりにも奇抜な答えにまた固まってしまうとは誰が予想出来ただろうか。ポカンとしたまま瞬きも忘れ花守を見つめる。
「ランドセルの、る…だろ。だから、ルーマニア」
「るー、…まにあ…」
「あ、…国な?」
「いや知ってる!そこは知ってるから!そうじゃなくて…!」
「…?」
俺が言おうとしている事が全く分からないと言うように戸惑いの表情を浮かべる花守に、俺は堪え切れず吹き出すと理科室には俺の笑い声が響いた。
「ふはっ、あははは!いや分からんて、これは!あんなふにょふにゃの線で丸っこいの描いて、はいこれはルーマニアです。は難易度高すぎ…!」
「マジか。俺的にはめちゃくちゃ自信あったルーマニア…」
「やめっ、やめて、ちょ、腹痛い腹痛い…!あははははっ…!」
真剣な表情で話す花守にますますツボってしまいケラケラと笑う俺に少し戸惑いつつも、そんな俺の笑いに釣られたのかクスリと柔らかく笑う花守にジワジワと胸が熱くなった。
俺はこれと似た感覚を知っている。
それは真剣にキャンバスに向かい、夢中に筆を滑らせている瞬間。無色だった世界にどんどん色が重なり、そこからまるで木が芽吹くように色付いていく。
胸がキュッと締まるような、熱くなるような、あの感覚。絵を描くのが好きだと、その度に改めて気付かされる、あの瞬間。
花守の笑顔を見ると、それに似た感覚が胸を満たすんだ。
「…あ、そうだ。咲良」
「……。っ、え?なに?」
胸の奥のキャンバスが淡く色付く感覚に自然と自分の胸元を手で押さえていれば不意に花守が話し始め、俺は考えに浸っていた事に気付くとすぐに花守を見る。
少しだけ眉を下げたようにこちらを見る花守の視線に何が言いたいのか分からず先を促すと、花守は言いにくそうにポツポツと話し出した。
「…わりぃ。この前の授業で先生にバレそうになってさ」
「あ、この落書き?」
「うん。…あの時は何とか誤魔化したけど、多分そろそろ限界だわ」
「あー…まじかぁ」
花守からの言葉に思わず寂しげな声が出てしまった。それは退屈で苦痛なだけであった理科の授業が花守とのやり取りのおかげで楽しくなった事はもちろん、唯一の花守との繋がりがこのやり取りを終えたらなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
学年は一緒でも、クラスも違えば部活も違う。共通の友人もいないとなるとそれは当然だ。
けれどだからと言って今まで全く交流のなかった花守に急に慣れ慣れしく話しかけたり、連絡先を聞くのも迷惑かもしれない。色々と考え過ぎる性格が仇となり、何も聞けないままこの関係が終わってしまうのかと本格的に落ち込んでいた俺の目の前に、不意に花守から何かを手渡され反射的に受け取ってしまう。
それは一冊の真新しいノートで、それがどういう意味なのか分からない俺はキョトンとした表情で花守を見つめた。
「え…?ノート?」
「うん」
「なぜに…?俺の宿題お前がやれよってか?このやろう」
「ふは、ちげーよ。…ルーマニアの次、ま、だろ?」
「う、うん?」
「…描ける場所がなくなったから、作った」
「……」
「俺的には咲良とのしりとり…すげー楽しかったので、…出来れば続けたいんだけど。…これが机の代わりって事で…いい?」
もうこれっきり花守と話す事は無くなるのだろうと思っていた俺は、驚きのあまり言葉が出ないまま手渡されたノートと花守を交互に見つめて、ただ何度も頷く事しか出来ず。
そしてこうやって、俺と花守の何とも奇妙なやり取りは続けられる事になったのだ。
「へー。花守ペット飼ってんだ」
「そう、ウサギ」
「え、ウサギ?めずらしくない?」
「…まぁ、確かにめずらしいかもな」
「名前は?」
「源太郎」
「しっぶ。渋いなゲンさん」
「ちなみにメス」
「あ、…女の子に失礼なこと言っちゃった、ごめんねゲンちゃん」
「華麗な手のひら返し見たわ。…、ウサギ、見る?」
「え、見る見る!」
あれから毎日、俺たちは昼休みにノートを互いに渡すために理科室で待ち合わせをしている。それは1か月ほど経った今も続いており、今日も昼食を終えてすぐに理科室に向かうともう花守は先に来ていて、軽く手を上げて挨拶をすると花守も同じように手を上げて迎えてくれた。
ノートを花守から受け取るとすぐに教室に帰る事はせず、こうやって他愛の無い会話をするのが日課で、今日はペットの話になり花守のペットであるウサギを見せてもらおうと、スマホを手にした花守の方に少し身を乗り出した。
すると俺から見やすいようにと花守も更に俺の方に近寄り、コツンと肩が触れ合うとそこからジワジワと熱が広がるような気がした。
じんわりと、筆を滑らすキャンバスに色がどんどん滲んでいくように。俺の中の何かがハッキリと色付いていくような。
花守という存在が、俺の中で色鮮やかに輝いて。
まるで、それは…。
「…咲良?」
「っ、…ぁ、…ごめんごめん!」
「……。顔、赤い。熱あるんじゃね?」
ぼんやりとしていた俺を心配した不安そうな花守の声が聞こえ、ハッとし大丈夫だと言うよりも先に花守の大きな手が俺の額を包み込むように触れる。
その瞬間ドクンと大きな音を立てて鼓動が跳ね上がると、一気に顔に熱が集中するのが分かった。
見なくても分かる、きっと今俺の顔は絵の具を溢したように真っ赤だろう。
「…。……綺麗な色だな」
「え…?」
花守の手が額からそっと頬に滑らされ、火照っているせいか冷たく感じる花守の手が心地良いとすら思える。何を綺麗だと言ったのか分からず戸惑う俺に、ゆっくりと花守の顔が近付いてくるのが分かった。
スローモーションのように、
ゆっくりと、ゆっくりと。
気付けば唇が重なっていた。
「っ、咲良…!」
まるで時が止まってしまったかのように固まっていた俺は、昼休みを終えるチャイムで我にかえると慌てて花守から離れる。
一体何が起きたのか、何故花守がこんな事をしたのか分からず、気付けば俺は理科室から逃げるように飛び出していてた。
そんな俺を珍しく焦ったように呼ぶ花守の声が聞こえても立ち止まる事など出来ず、バタバタと騒がしく教室に戻るとすぐに自分の机に突っ伏してしまった。そんな俺を心配する幼馴染の声にも答える余裕はなかった。
その日から、毎日の日課だった花守との時間はなくなってしまった。
正確に言えばなくなってしまった…と言うよりは、俺があの日から理科室に行く事が出来なくなってしまったのだ。
それに花守自身も、理科室に来ているかどうか分からない。だってあんな事があったんだ。理由がどうであれ、気まずくて向こうも俺と会うのを避けているかもしれない。
花守がどんな理由で俺にキスをしたのかは、分からない。そして俺が、そのキスに対してどう向き合えば良いのかも分からない。
けどたったひとつ、もうこれで花守とあんな風に他愛のない会話もできなくなったのだと思うと、とても悲しくて苦しかった。
ついこの間までは、花守と過ごしていた昼休み。早々に昼食を終えてぼんやりと物思いに耽っていた俺は、何やら少しガヤガヤと騒がしくなった教室に何事かと外から教室に視線を戻した。
するとすぐ目の前に誰かが立っているのに気付き、顔を上げればそこには予想外の人物が俺を見つめていた。
「咲良」
「え…?は、花守…?」
「…話したい」
「え、…、でも、」
「咲良、来て」
「っ、お、おい…花守っ、…!」
まっすぐ俺を見つめる花守に、この前のキスが頭を過ぎる。何を話せば良いんだろう。言い淀む俺の腕を掴むと有無も言わさずに引っ張り、そのまま歩き出す花守に連れられ何とか歩き出す。チラリと見上げてもその表情は分からない。
じわ、じわ。
掴まれた腕が、熱い。そこから熱が、色が、自分の中に広がっていくようで、何となく落ち着かず一度視線を花守から外した。
すると沢山の生徒が行き交う廊下で自分達の姿がとても目立っているのに気付き、特に女子からの視線が花守に集まっている。そのついでと言うように自分にも視線が向けられているのが分かると、何とも気恥ずかしい気持ちになりそれに耐え切れずに俯いた。
そのまま俯いていると気付けばいつの間にか理科室に辿り着いており、中に入るとようやく花守は俺の腕から手を離した。
「…。……急にごめん」
「いい、…けど、…、…話って…?」
「この前の…、」
「……」
「…キスの、こと」
「っ、…、…う、ん」
「ちゃんと話したくて」
花守の目が見れない。胸が痛いくらいに高鳴って苦しい。
花守は何を言うつもりなんだろう。キスのこと冗談のつもりだったって、ただの気まぐれだったって、そう言うつもりなのだろうか。そうだとしたら、この胸の痛みは何なんだ。俺は花守に何と言って欲しいんだろう?
以前ここで花守と話していた時に色鮮やかだった胸の中のキャンバスは今、ぐちゃぐちゃと色を掻き混ぜられとても良い色とは言えない。自分でも分からない感情に何とか答えを出そうと、色に色を塗り重ねてどんどん重なった色は分厚くなり本来の色が分からなくなっている。
この感情は一体何なんだ?
「…本当は、もっとずっと前から咲良のこと知ってたんだ」
「…え?」
「最初は時々見かけて、楽しそうに友達と笑って歩いてる姿を見れればそれで良いって…そう思ってた」
「……」
「でもたまたま、…、……、あー、その、…あの机の落書きが咲良が描いたものだって分かって、…どうしても話したくて、ダメ元でメッセージを残した」
「…なんで、…」
「…。好きだから」
「…え、…?」
「好きだ、咲良」
息が止まった気がした。
目の前にいる花守の表情はとても真剣で、でもどこか不安げで。でも精一杯俺に気持ちを伝えようとしてくれているのは分かった。
ぐちゃぐちゃと汚く色の混じった感情が答えを見つけるように、綺麗に混ざり合い一つの色になるように。その感情はスッと俺の中に一つの色を与えて、そこからジワジワと広がっていく。
ああ、この感情は。
そうか、そうだったのか。
流れる沈黙に、花守が更に不安そうな表情になっているのが分かる。
きっと今俺の顔はまた、以前のように赤い絵の具を溢したような色をしていて。緊張で情けなく声も掠れてしまうかもしれないけれど。
聞いてよ花守。
俺、…俺な。
「俺も、…花守のこと…」
ーーーーーーー
春は好きだ。桜の匂い、新しいシャツ、穏やかな気温。その時期が何となく好きなのは、自分の名前にも春の字があるからだろうか。
だから、桜並木の通学路の絵を見つけた時に、自然と俺の足は止まった。
ーー綺麗だ。
なんてことのない普通の絵、ただの通学路の絵。それでも俺にはそれが通い慣れた道の桜だと一目で分かり、花びらの一枚一枚にも重なる色味に柔らかな陽の色、爽やかな風の吹く道路、散っていくひとひらが踊るような動きを感じる。
絵なんてそんなに詳しくも無いし、歴史の勉強くらいでしか絵画は見た事はない。
それでもここに飾られているのは、俺があの日に歩いた春の匂いがして、目が離せなかった。
『春うらら 咲良元春』
絵の横に添えられたタイトルと作者の名前を見て、そこにもさくらがあることに気が付いた。
咲良、どんな人なんだろう。
キッカケは本当に、たったそれだけ。些細なもので、その暖かく穏やかな陽気を運ぶ絵を描いた人の名前が、まるで春そのものを表したような名前だと思ったこと。
それが、自分が恋する人の名前になるなんて、思いもしなかった。
「おい、咲良〜。置いてくぞ〜!」
「ちょっ、置いてくなし!」
昼休み、購買に向かう途中に通り掛かった教室から聞こえた名前に俺は思わず足を止めた。さくら、という特徴的な名字はなかなか聞かない。もしかしたらあの絵を描いた人なのかも知れないと、少し湧き出た好奇心からつい注意が逸れてしまった。
瞬間、とすんと軽く何かが胸にぶつかる感覚。揺れた先端だけピンク色をした派手な髪が、ふわりとはなびらのように衝撃で宙に舞った。
「いてっ!あ、ヤベー!限定10食のメロンパン売り切れちゃう…!マジごめんなっ!」
一瞬ポカンとしてしまった俺に、焦ったように謝罪になっていない謝罪をしてふにゃりと浮かんだ笑顔。派手な髪色に似合わない柔らかい笑顔が胸をギュッと締め付けたのが分かり、そのまま走って友人達の元に駆けていった生徒がまた咲良と名前を呼ばれたのを聞いて、彼があの絵を描いた咲良元春なのだと理解したのと同時に生まれて初めて感じる高鳴りに俺は暫く動けずにいた。
慌ただしく走り去っていく春風のような彼の背中も、一瞬の笑顔も、柔らかそうなピンクの毛先も、写真のように胸にこびりついて離れない。
たったそれだけで、俺の心は奪われてしまった。
その日からずっと、咲良元春という男が気になって仕方ない日々が始まった。それが最初はただの興味本位からのスタートで、自分でも恋愛感情だなんて思いもしなかった。たった一瞬すれ違っただけの男に、惚れたなんて。
けれど、廊下ですれ違う度に。2組の教室を通る度に。掃除の時間に担当区域を通る度に。あの桜色を探してしまう自分がいた。
「コラッ、咲良!その髪の色を直せって何度言わせれば…!」
「先生ちがうってば!絵の具絵の具!これ絵の具が付いただけだから〜!」
派手な髪色を注意される度に美術部だからとふざけながら教師から逃げる咲良は、バカっぽいけど可愛いと感じてしまう自分がいて。恋は盲目という言葉を実感させられた。
きっと他人からすれば本当に些細で、縁とも言えないような、時々しか見かけない関係。それでも幼馴染と一緒に笑って楽しそうに過ごす咲良を通りすがりに視界の端で見掛けると、その日一日ラッキーと思えるくらいに重症だった。
それくらい日に日に熱が上がれば、直接話しかけたいと思う気持ちも強くなっていく。
ただ、なんて声を掛けていいか分からなかった。何の接点もない、別のクラスのヤツに急に話しかけられても咲良はどんな顔をするのか。お前の事を知ってるよ、なんて言った日にはどうしてってビビられてしまいそうで怖かった。飾られた絵を話題に出そうと思い立ったのに、いつの間にかあの絵も廊下から片付けられていて、それを話題にするのも今更な気がして結局何一つ出来ないまま時間は二学期も中盤まで進んでしまった。
ああ、俺もあの幼馴染みたいに、咲良と笑って何でもない話がしてみたい。勇気が出せない俺は言葉を口に出来ず一人で羨むばかりだ。
転機が訪れたのは、理科室で咲良と幼馴染を見掛けたあの日の事だ。
「落書きに熱中しすぎてノートヤバかった…!」
「何してんだよお前は」
入れ替わりの授業で理科室に来た1組の俺達を見て、二人は慌ててノートを持って外に出て行く。どうにも授業のノートを取るよりも落書きに熱中してたらしい咲良の様子には、思わず口が緩んだ。
何気なしに机に座ると、見えたのは誰かの落書き。それは落書きというにはクオリティが高く、一目で見ても理科教師の似顔絵だと分かった。その絵の線の癖や雰囲気が、廊下で見た絵を少し彷彿とさせて。
この机には咲良が座っていたんじゃないかと分かると、それだけでじわりと身体の熱が上がった気がした。
ずっと遠くにしか見られなかった咲良が、俺と同じ机を使ってたのかもしれない。
妙に似ている理科教師の似顔絵すら、咲良が描いたのだと思うと愛おしいとも思ったところに、ふと頭の中に過ぎった。この落書きをした机に、また咲良は座るのだろうか。
確証は無いけれど、もしこの机に座ったら、咲良との繋がりが出来るんじゃないか。反応するかどうかは分からなくても、ほんの少しだけ咲良に関わりたい。
スルーされても傷付かないように、そっと一言だけ書き残す。
『似すぎじゃね?』
どうか、君が気付いてくれますように。