放課後の教室は、いつもと変わらない喧騒に満ちている。窓の外から秋の日差しが淡く射し込み、その光が床に長い影を作り出していた。ざわめきの中で、影の輪郭だけが静かに伸びていく。教室の中では、スマホを片手に次の予定を考える者、流行りのスマホゲームに熱中している者、荷物をさっさと鞄にまとめて帰宅の準備をする者が入り乱れていた。彼らの会話は軽やかで、無意味な笑い声が教室中に響いている。それらがまるで別の世界のことのように感じられた。何もかもが薄い膜に包まれていて、その向こう側で皆が楽しげに動き回っているような感覚だ。
 机に肘をついて、じっと窓の外を見ている。外の景色は相変わらずで、校庭の隅には生徒たちがたむろし、グラウンドでは部活動の掛け声が響いている。どこか景色全体が色あせて見える。まるで絵の具が乾かぬうちにに上から薄い水をかけられたように、鮮やかさが失われているようだった。
 いつも放課後になると、蓮太郎から声をかけられ、どうでもいい日常の話をしていたものだ。しかし、最近は彼の姿をほとんど見かけなくなり、ふと気づけば一人きりだった。
 「気が抜けるな……なんか」独り言のようにつぶやいてみたが、当然誰の耳にも届かなかった。

 帰り道、絵の参考資料を探すために大型商業施設内にある書店に立ち寄ることにした。書店はいつも混んでいるが、秋の新刊フェアが行われているせいか、特に賑わっていた。書棚を眺めながら、興味が引かれるタイトルがないかと探していた。入口の特集コーナーが設置された棚に来た時、ふいに誰かと目が合う。桜井さんのお母さんだった。
「涼君じゃない。こんにちは」彼女は穏やかな声で話しかけてきた。
「こんにちは、由衣さんのお母さん……。こんなところで会うなんて」
「ええ、びっくりしたわ。でも会えてよかった、お礼を言いたかったの。由衣のこと、いつも心配してくれてありがとうね……」
 お母さんの少し疲れた笑顔。その顔には、夜遅くまで由衣の世話をしている母親の疲労が滲み出ていた。どう返事をすればいいのかわからず、ただ頷いた。
「容態はね、まだあまり良くならないの。病院での治療が続いているけど、なかなか……」彼女の声は次第に小さくなり、最後は聞き取れないほどだった。彼女の視線はどこか遠く、何かを考え込むようだった。
「でもきっと大丈夫。由衣も頑張ってるわ。新しい薬も始めたの。それが効いてくれればいいんだけど」自分に言い聞かせているようだった。どこかで自分を支えようとしているその姿勢が、かえって彼女の辛さを物語っているように見えた。
「実はね、少しでも由衣の回復の助けになればと思って、先日春日神社にお参りに行ったの。その時、蓮太郎君がいたのよ。鳥居をくぐって、何度も社殿に向かってお参りしてたわ」
「蓮太郎が……お参りしてたんですか?」
「そうなの。まるで何かに取り憑かれたみたいに、一心不乱でね。その姿を見て、私もなんだか胸が温かくなったわ」
「あまりイメージわかないですね、蓮太郎がそんなことをするなんて……」
 蓮太郎が神社でお参りしている姿を想像する。そういえば毎日手を合わせてるって言ってたような。
「彼もきっと、由衣のことをすごく心配してくれているのね……今度会うことがあったら、蓮太郎くんにもお礼言わなきゃ」
 お母さんに別れの挨拶をした。
 蓮太郎が何を思って神社に通っているのか、知りたいという気持ちが急に湧き上がる。
 翌日、放課後に春日神社へ向かうことにした。

 春日神社に着くと、鳥居の下に立っている蓮太郎の姿が見えた。彼は社殿へ向かい、鈴緒を鳴らしてから手を合わせ、また鳥居まで戻る。それを何度も繰り返している。少し離れた場所からその様子を眺めていた。彼の動作には無駄がなく、ただ無言で祈りに集中しているようだった。
「蓮太郎?」声をかけると、彼は動きを止め、振り返る。
「お!涼……なんでここにおるん?」蓮太郎は少し照れたように笑った。いつもの陽気な表情とは違い、どこか真剣で少し疲れた顔をしている。
「昨日、桜井さんのお母さんから聞いたんだ。蓮太郎、ここでお参りしてたって」
「あー、そっか。まあ、そうやな。御百度参りってやつよ。流石に一日で百回なんて無理やけん、その日可能な限りで回数こなしてる感じやな」
「それ毎日やってたの?」
「いや、毎日ってわけじゃないけど、気が向いた時だけな……それにしても運動不足かな、歩きすぎて最近膝が痛いんよ」
 蓮太郎は軽く肩をすくめた。
「桜井のことを考えると、どげんかせんとって思うよな。何かにすがりたいって気持ちもあるんやけど……でも神様を信じているわけじゃないんよ」社殿の奥を目を細めて見つめながら蓮太郎は続けた。
「仮に神様がいたとしても、あいつが病気で苦しんでるのを放っておくとかさ、そいつはちょっと冷たい神様やと思わん?だから、こうやって祈ってるのはさ……神様どうこうじゃなくて、自分を乗り越えるためなんよ。自分で自分に祈ってる」
「自分に祈る……?」
「うん。悩むな、迷うな、逃げるなって自分に言い聞かせとるんよ。それに……万が一のことがあった時に、自分が冷静でいられるようにするためにもな」
 蓮太郎のその言葉を聞いて、なんと言っていいか分からなかった。ただ、彼のその行動が桜井さんのためだけではなく、自分自身のためでもあるということが伝わってくる。
 僕も……手を合わせてみるか。
 蓮太郎が祈る姿に少しだけ寄り添うことで、自分も何かを乗り越えられるような気がしたから。
 その日は蓮太郎と一緒に何度かお参りをしてから、神社を後にする。彼と一緒に歩きながら、今の悩みを吐露した。
「今さ、あの風景が描けなくて、なんていうか……辛いんだ。早く完成させて、桜井さんに見せたいと思ってるんだけど」
「そうか……」と言って間をおいた後、僕の背中をパンと叩いた。
「心配すんな!辛いってことは、もっと描けるってことたい。辛さや悲しみは創作の源って誰かが言っとったぞ」
 
 その晩、全ての鉛筆をカッターナイフで研ぎ、スケッチブックに軽くハッチングした。イーゼルに白いキャンバスを立てかけたあと、深呼吸をして清水円山展望台の写真を見つめる。絵を完成させて桜井さんに見せることが、彼女のためだけでなく、自分のために。そうはっきりと思えた。もうこれ以上、僕は僕を殺したくない。写真をよくよく観察し、鉛筆を慎重に動かし、線を一本一本引いていく。桜井さんが見ている景色と僕が見ている景色が重なる瞬間を探して、何度も写真を見返しては、少しずつ、丁寧に進めていった。
「理不尽に抗う……自分を乗り越える……自分で自分に祈る……」
 蓮太郎のその言葉が、頭の中で何度も繰り返され、離れない。反響するように、同じフレーズが思考を埋め尽くしていく。
 描き続けた。描いては見直し、消しては描き直す。視界がだんだん狭くなり、キャンバスと写真しか見えなくなる。呼吸が浅くなり、動作がゆっくりになり、時間も空気の流れも全てはただ一点に集約された。
 それを繰り返して三日目の夜。満足のいく鉛筆画が仕上がった。目の前には清水円山展望台の風景が広がり、その光景に胸の奥でマッチで灯されたような小さな火がふっと灯るのを感じた。
「これなら……これなら桜井さんもきっと元気になる」
 そう思いながら改めて会心の絵を見つめた。蓮太郎の絵、桜井さんの絵が並ぶ姿を想像し、胸は高揚している。同じ視点から描かれたそれぞれの風景。それが並んだとき、一体どんな光景が生まれるのだろう。どんな感情が交差し、どんな意味が浮かび上がってくるのだろう。
 その未来を思い描きながら、少しずつ気持ちが前向きになっていくのを感じる。そして、桜井さんと蓮太郎に感謝の気持ちを伝えたいと思った。
 でも、僕は口下手だ。感謝の言葉をどうやって伝えればいいのか、いまいち自信が持てなかった。だから、あらかじめ台本を作っておくことにした。
 ルーズリーフを一枚取り出し、ペンを走らせる。桜井さんにはどんな言葉をかけようか。蓮太郎にはどう伝えればいいだろうか。そんなことを考えながら、一つ一つ丁寧に言葉を綴っていった。
「ありがとう、桜井さん。蓮太郎」
 その言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、自然と笑みを浮かべていた。夜が更け、静けさが部屋を包み込んでいく中で、心も少しずつ落ち着いていく。ペンを置き、ルーズリーフを茶封筒にしまって、満足感に包まれながら目を閉じた。
 その夜、不思議なほど静かに眠りにつくことができた。