「本田さん、いいですか?」
 うん、そう頷いて鈴を見た。大丈夫。何があっても、受け止める覚悟はしてきた。私は、庭にアルストロメリアが咲き誇っている綺麗な茶色い家の前で見慣れたインターホンを押そうとしていた。
あれからしばらくして、私は半年ぶりに登校した。クラスの子もすごく心配してくれていたけど、それ以上に鈴が大号泣でしまいには鼻血まで出るという惨事にまで至った。出席日数はギリギリセーフだった。でも、あと数日で進級できないところだったらしく、こっぴどく先生にどやされたが最後にはなぜか褒められた。
「本田ざぁーん、私ずっとボッチだったんですよぉ」
「ごめん、ごめん。あの、鈴ちゃん。ちょっと話が」
「嫌です」
「え! そんな、少しだけでも」
「本田さん」
 その時の鈴ちゃんの目はすごく透き通っていた気がした。
「Vous gagnez」
「・・・え?」
 なんて言ったの? と、必死に聞いてみたが結局教えてくれなかった。くそぉ、私にも勉強の才能があれば・・・。無念。
 そんな日々を過ごして気づけば、サクラの咲く季節になっていた。私もいつの間にか、高校三年生。教室から見えるサクラは、気持ちよさそうに蕾を開いていた。色々なことが進んでいく。みんな、前を向いて生きているから笑っていられる。
そのためにも、私にはしないといけないことがあった。
軽く深呼吸をしてインターホンを押した。よく聞く音と一緒にはーい、といった明るい声が聞こえた。重そうな扉が開くとここ数か月しかたっていないが、彼女が少し老いたように感じた。
「あなた・・・」
 彼女は、私の顔を見たが私はすぐに目をそらしてしまった。汗が止まらなかった。覚悟したはずなのに。大丈夫だと思ったのに。大きな照明、割れた蛍光灯の破片、鼻緒の切れた下駄を抱き締める莉桜のお母さん。足が震える。嫌な汗が体を流れる。
「桜さん? 桜さんよね」
 大丈夫、大丈夫。そう何度も言い聞かせる。
「あ、あの! 私・・・」
「桜さん」
 莉桜のお母さんは私を見て優しく微笑んで、そっと抱きしめた。夢の中の力とは比べものにならないほど優しい温もりだった。
「あがって」
 莉桜の家はいつも通っていたあの時と何一つ変わっていなかった。質素で家具もシンプルなデザイン、花瓶には花が生けてある。鈴と二人莉桜のお母さんと向かい合うようにして座った。
「はい、紅茶」
「ありがとうございます」
 鈴がすぐに「つまらないものですが」とお菓子を出した。
「あら、よかったのに」
 そう言って、彼女はキッチンへとまた向かった。何から話せばいい。私はどうしたらいい。頭の中を色々な考えがまわっている。彼女は、いつか来た時もそうしたように自分の紅茶を一口飲んで口を開いた。
「桜さん」
「・・・はい」
「あなたには、心から感謝しているわ」
「え?」
 目の前に座る彼女は白髪こそ少し増えたものの、まぎれもなく優しい莉桜のお母さんだった。
「あなたがいたから、あの子は変われた。変わることができた。この歳にもなって恥ずかしいんだけれど、私、いつも泣いてばかりでね。隠しているつもりだったんだけど・・・ダメね。あの子は聡いからすぐに周りのために自分をないがしろにしてしまう」
 莉桜のことを愛おしそうに話す彼女は静かに微笑んだ。
「私は、あの子に何もしてあげられなかった。代わってあげたかった。抱き締めて泣いてもいいのよって言ってあげたかった。でも、あの子を暗闇から導いてくれたのはあなただった」
「でも、私が・・・私があの日誘わなければ」
 怒鳴られるだろうか。お前のせいだと、そう言われるだろうか。自然と頬に力が入る。だが、彼女は罵倒するわけでも叩くわけでもなく笑った。
「そんな風に思っていたの?」
 コクリと頷く。
「まぁ、そうね。少し前の私ならあなたを追い返していたかもしれない。でもね、そんな事は時間が解決してくれる。悲しいけれど・・・。あの子が苦しんだものとあの子が得たものを天秤にかけた時、あなたが与えてくれたのもの大きさには敵わないって分かったの」
 彼女は、紅茶をすべて飲み切ると莉桜にそっくりな表情と声色で笑った。
「ありがとう、あなたのおかげであの子は幸せな人生でした」
 じゃあ、せっかくだし莉桜の部屋へ行きましょうか、と席を立った彼女の背中は小さかったけど、それでいてとても安心できるものだった。莉桜の部屋へ行くと今までの面影は一切感じられないくらいに綺麗に片付けられていた。ベッド以外の物はほとんど無くなっていて、部屋の隅に小さな段ボール箱が置いてあるだけだった。
「びっくりしたでしょ?」
「えっと、はい」
 彼女は、部屋を懐かしそうに見渡すと段ボール箱を開け始めた。
「最初はあの子が本当に逝ってしまったように思えて、片付けたくなかったのだけど、いつまでも、あの子にすがっているのも良くないと思ってね」
 段ボール箱の中からは、莉桜が使っていたペンケースやスマホ、それ以外にも多くのものが入っていた。莉桜の物を見ながら三人で話が盛り上がる。初めは緊張でこわばっていた身体もいつの間にかほぐれて、莉桜の話をするうちに笑顔になっていた。すると、彼女はおもむろに一冊の絵本を取り出した。
「まぁこれ、懐かしいわ」
 その絵本は少し古びていて、題名も日本語ではなかった。
「それは?」
「この絵本。莉桜が大好きだったのよ。小学生の頃だったかしらね、突然この絵本が欲しいっていうこと聞かなくて、そんなにわがまま言う子じゃなかったから。でも、フランスの絵本だっていうじゃない?」
 わざわざ取り寄せたのよ、そう言ってパラパラとページをめくった。そのまま、しばらく絵本を眺めた後に彼女は私を見て頷いた。
「この絵本、あなたにあげるわ」
「でも、これは」
「いいのよ。私の知らないあの子の思い出を今日、いっぱい聞けたから」
 そう言って、私に絵本を渡した。それからもしばらくは話に花が咲き、帰るころにはお昼を過ぎていた。
「ごめんなさい。お昼までいただいて」
「いいのよ。うち、夫が出張でいないから一人で食べるのも飽きていたの」
 本当にどれだけ強い人だろうと思った。笑顔で私に接してくれる。その姿がなんだか、いないはずのママと重なった気がして溢れそうになった涙を抑える。
「桜さん。また、いらっしゃい」
「はい!」
 莉桜のお母さんは姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。それから、私達は近くの公園で休憩でもしようかとベンチに座った。
「莉桜さんのお母さん、とても優しい方でしたね」
「うん」
 鈴と二人、途中で買ったリンゴジュースを飲みながらたわいもない話をしていると急に視界に何か映った。
「うわっ、なに!?」
 目の前にあったのは、土で汚れてぼろぼろになったサクラのキーホルダーだった。振り向くとそれを持っていたのは、汗だくになって息を切らしているリョウだった。
「リョウ?」
「お前さぁ、なくしたんなら、少しは気にしろよ」
「え、うん。てか、探してくれたの?」
 だったらなんだよ、とリョウはキーホルダーを渡すとどこかに行ってしまった。
「なに、今の・・・」
 色々なことがありすぎて正直忘れてしまっていた。でも、なんでわざわざ? しばらく固まっていると隣の鈴が笑い出した。私もなんだかおかしくなって、二人で大笑いした。
「あ、そういえば本田さん。先ほどいただいた絵本、見せてもらってもいいですか?」
「え? うん、いいけど。あ、せっかくだし学年トップを貫いていらっしゃる天才に訳してもらおうかな」
「何をおっしゃいますか」
 お互いにふざけ合いながら、鈴に莉桜の絵本を渡した。
鈴の訳してくれた絵本の内容は、少し見た目の違う少女と少年の話だった。始めは仲の良かった二人だが、いじめられていた少女は時間が経つにつれていつの間にか少年と遊ばなくなってしまう。それから、少女は友達にも恵まれて幸せになっていくが、少年は姿を消してしまう。少女は少年がいなくなってしまったことを悲しみ、泣いていると姿の見えない少年が自分のことは忘れて欲しいという。少女は嫌がるが、少年の声を聴いて何も言えなくなってしまう。
「少女の鼻をすする音と、男の子の声が重なります。『だから、僕のことは忘れて』最後に、男の子はこう付け加えました。『僕の名は』・・・」
 突然、鈴が読むのをやめた。
どうしたのかと鈴の方を見やると鈴は、泣いていた。
「え、どうしたの?」
「いえ、なんでも。私の考え過ぎかもしれない、ですけど」
 鈴は少年の名前とその意味を言った。
 私は、この言葉を生涯忘れることはないだろうと思った。
この絵本を苦しかった小学生の時から何度も繰り返し読んでいた莉桜。そうあることが正しいのだと、これでいいのだと自身に言い聞かせるように過ごす中で、この絵本だけが彼女の拠り所だったのだろうか。
誰にも言わずに笑って、自分を押し殺して、でも、どうしようもなくなって壊れてしまわないように繰り返し読んでいたのだろうか。
私が初めて会った時にそう言うと、少しだけ瞳の揺れた気がしたんだ。
そうか、莉桜。ごめんね。私、今まで・・・。
今までの苦しかった過去も、楽しかった過去も、今を生きている私を形作っている。休日の昼下がりの公園は、どこか優しい風が吹いていて、小さい子どもたちがどこからか持ってきた雑草や花を握りしめたまま、走り回っている。ベンチで休憩しているおばあさん、子どもたちに翻弄されているお父さん、どこかの家から漂ってくるお昼ご飯のいい匂い。それらすべてが思い出すことはなくても、今、この空間を共有している私たちの一部になっていくのだろう。
手元を見るとぼろぼろになったキーホルダーがあった。
それをまたスマホへと結び直す。
これもまた、新しい私の思い出。
その絵本の題名は