二〇三七年、令和十九年。天皇陛下が二月に七十七歳のお誕生日を迎えられ、日本はとても平和な年を歩んでいた。
 あらゆる国が発展を遂げるなか、日本の医療技術は群を抜いていた。少子高齢化の時代に大きく発展した日本では、光を当てるだけで骨折を治す技術、痛みを感じずに治療できる器具など様々なものが開発された。
その中でも、最も世界に注目されたのは薬を飲むだけで視力が1.2以上に回復するというものだった。
 インターネットやロボットが急速に発達したことにより、予測よりもずっと早く世界の人口の約五割の視力が低下していることが日本だけでなく世界の問題となっていた。
 そのため日本で開発された薬は世界に認められ、例外はあるものの世界の約九十八%が視力の回復に成功した。
「・・・こうして、現在の日本に至るわけです。私達の住む日本は二〇二五年以降、えー、急速に発展し、特に医療に関して大きく注目されているわけですね」
 電子黒板にカチャカチャと音を立てながら白髪頭のおじいちゃん先生が慣れない手つきで重要単語を書き込んでいく。聞き慣れたチャイムが鳴り、授業が終わる。授業用タブレットを片付け、私は自販機へ向かった。
少子高齢化の影響からか地方にある学校などの多くが廃校となり、ある程度大きな高校にまとめてしまおうという政府の意向によって、今の教育社会は成り立っている。
 正直なところ少し前までは、一つの都道府県に学校が何校もあったなんて信じられない。廊下の奥の方まで行くと多くの生徒が各々会話を楽しんでいた。その間を邪魔にならないように気配を消して通りぬけ、エレベーターの前に立った。扉が開くと膝丈までスカートを上げ、ばっちりメイクの女子生徒二人が話をしていた。
「次さ、体育とかだるいんだけど」
「ね? てか、今時体育館にクーラーないとかあり得ないし」
 エレベーターの中で軽い重力を感じながら一階まで降りる。体育か、うちの高校体育館へのクーラー設置遅れてるもんな。それにしても五階に自販機を置いてくれれば楽なのに。
「あっ、そういえば知ってる? 二年の先輩から聞いたんだけど」
 女子生徒の一人が思い出したかのように身を寄せる。なぜだかわからないけど、女子ってなんでこんなにも噂話が好きなんだろう? 心の中で疑問に思いつつも顔には出さずに下を向く。
たぶん、一年生だよね? 私も一年の時はエレベーターに一人で乗れなかったなぁ。私は、そっと端の方へ寄った。
「・・・なんか、二年生の中に絶対目を見せない先輩がいてね」
 エレベーターのランプが3を指して点滅している。
「それで、その人はショートカットの女子で、いつも前髪で片目を隠していて」
 私はそっと前髪を整えた。
ここ最近で急に暖かくなってから、量の多い髪が暑さを倍増させている気がする。ランプは、まだ2のところで止まっている。
「で、たまたま先輩がその人の前を通った時に強い風が吹いて、その人の目が見えたらしいんだけど」
 二人の女子生徒は、静かに声のトーンを落とした。エレベーターに乗っているのはその二人と私だけ。
「その人の目が、『白く濁って』見えたんだって」
 扉が開く。
私は、壁沿いに自販機へ急いだ。

『白粒視覚症〈はくりゅうしかくしょう〉』
 私がそう言われたのは、小学四年生の夏だった。
 発病原因は不明。今の日本の技術をもってしても、この病気だけは回復の見込みが見られなかった。
歳を重ねるにつれ、視力が低下。症状が悪化すれば、目の色が白く濁って見える。最悪の場合、光すら感じられなくなる。
 そして、その症状は瞳が白く濁るだけではない。最も的確に判断する方法は、赤い涙を流すこと。
 白粒視覚症は、ある物質を原因とし、上手く体が涙の成分を分泌できないことでそのまま血液を涙として流してしまう。白く濁った瞳で、赤い涙を流す彼らは『うさぎ』と呼ばれ気味悪がられてきた。

 日本の薬によって、世界中の人々の視力が戻った。
生まれつき目が見えなかった赤ちゃんが、初めて母親の顔を見て笑う。老いにより孫の顔がはっきり見えなかった老夫婦は、泣いて喜んだ。
 そんな日本が誇るべき技術。
 見えることが当たり前になって、見えないことが不自然になった時代。

 私は、自販機で右側下の一番端にあるリンゴジュースを選ぶ。一番好きなジュースはオレンジジュースなのだけど、今月のドリンクの入れ替えで右下のジュースがリンゴになってしまった。
仕方がないから、これが今のお気に入り。
手のひらサイズの紙パックをとって、エレベーターへと向かう。
無機質な電子音とともに重い扉が開いた。そっとそちらの方へ目をやると、そこに二人組の姿はもうなかった。
「あっ、莉桜〈りお〉! もう、遅いよ」
「ごめん。ちょっと、ジュース買いに行ってた」
 ローファーを手に軽く苦笑いをする。
校舎の外では、青く澄んだ空の下で遅咲きのサクラが蕾をつけていた。
「・・・この時間がずっと続けばいいのに」
「ん? なに?」
二人で歩く。高い建物が立ち並ぶ大通りを抜け、少し落ち着いた小道に入った。いつからか私は左側を歩いて、親友の桜〈さくら〉は私の右側を歩く。それがいつもの定位置になっていた。
「いや何でもない。私さ、莉桜と友達になれてよかった」
「何それ」
 桜は可愛らしい笑顔を浮かべてそう言った。
私も、そう思っている。
桜と一緒に帰り道を歩いて、一緒に笑って。
それだけで毎日が楽しくなる。
でも、ごめんね。桜。
私は、あなたに伝えていないことがあるんだ。

二〇二五年、日本の医療がまだ発達する少し前。私がまだ五歳の頃の出来事。五年前、世界中を襲ったウイルスによって世界全体のバランスが崩れ始めた。
様々な会社や企業が倒産し、人々は十分な生活を送れなくなっていった。そんな空気を一転しようと世界政府は、国に声を掛け合い、周りのあらゆる国と技術をめぐって各国の士気を高めようとした。
日本もその一つで、ウイルスを食い止めるための薬を開発し、そのまま日本の医療技術はどんどん成果を上げていった。
日本の技術が認められ始め、世界に注目されるようになった頃、それは起きた。
それは二〇二六年、段々と春が近くなり梅のいい香りが漂う頃。私の住んでいた地域の医療研究所が大爆発を起こした。
研究所の周り約二キロの範囲に研究所で扱われていた物質が有害なものとして放出された。私は運悪く庭で一人、昼寝をしていた。父は仕事で出張していたし、母は丁度かかってきた電話を取りに家の中だった。
 被害にあった人々は、医療研究所の近くに住んでいた73人。その日が、たまたま平日の昼間だったこと。風があまり吹いていなかったこと。それらのことから、なんとか少ない被害で済んだ。
 だが、日本の政府はようやく軌道に乗ってきた日本の立場を守るために小規模だったこの事故をもみ消した。被害者は、多額の賠償金と引き換えにその症状を原因不明と言うことを強いられた。
 彼らは、次第に視力が衰えその瞳は段々と白く濁っていった。
 その瞳を赤く濡らし泣く私たちに対し、何も知らない人々は気持ちが悪い。まるで、赤い瞳のうさぎのようだ、と差別するようになった。
私も被害者の一人。その時のことは、全然覚えていないけど確実に症状は出始めていた。実は、既に左目は視力がほぼない。
今は、高度な医療技術で開発された黒のカラーコンタクトをつけることで生活に支障が出ない程度に回復している。
だがそれは、コンタクトがあることで見えるだけで周りのように裸眼できれいに見えるわけではない。
かろうじて見えている右目だって、いつ白くなるかわからない。私も周りのみんなみたいに自分の目で景色が見てみたい。
いつか、見えなくなる景色を見ていたい。

「莉桜? どうかした?」
「・・・え?」
「ぼぅっとしてるけど、大丈夫?」
 桜が顔を覗き込んでくる。
私はなるべく自然に手元にあるメニューへ目を落とした。嫌だ。桜には病気のこと知られたくない。
絶対に、言えるわけがない。
「う、うん。何でもないよ。それより、桜は何食べるの?」
「え? あ、私はねー。イチゴのパフェもいいけど、パンケーキも捨てがたいな」
 桜は思い出したかのように、メニューをにらみ始めた。
今日は金曜日。先週、バイトの給料日だったからと桜に連れてこられた喫茶店。私と遊びながらも、桜は多くのバイトを掛け持ちしていて高校生ながら本当に頑張り屋さんだと思う。それになんだか、自分がこんなお洒落なところにいていいのかと不安になってしまう。
 珈琲のいい匂い、そっと置かれた観葉植物であるブルースター。
でも、あー、ちゃんと女子高生してるなぁって改めて思う。
「あ、莉桜は何にする? 遠慮はいらないからね」
「うーん。じゃあ、私はチョコレートパフェにしようかな」
「じゃあ、私はイチゴにするから後でちょっと頂戴?」
「もちろん! てか、ごちそうになります」
 桜は、店員さんにパフェを注文するとカプチーノも追加していた。桜みたいに可愛いと注文するだけで絵になる。
茶色く傷のついたテーブルとか、桜の勢いにちょっと困っている店員さんとか、そのすべてを切り取って心のシャッターを切った。