これは、今よりずっと前のお話。
 ある古びた街に一人の少女がおりました。
少女は、周りのお友達と少し見た目が違いました。
 ミルクココアのように輝く髪に白い肌、それらはあまりみんなと変わりません。
しかし、唯一みんなと違ったのは赤く澄んだ瞳でした。
 少女のお友達も少女の両親もみんな茶色い目をしていました。
『悪魔。お前、ほんとは悪魔なんだろ』
 そう言って、お友達はいつも少女をいじめていました。
少女の家は貧乏でお金がなく家には鏡がなかったので、古い大きな桜の木の下を流れる川に映る自分を見ては、いつも一人で泣いていました。
『どうして君は、泣いているの?』
 少女が顔を上げると、同じくらいの歳に見える男の子が目の前に立っていました。男の子は少女の顔を覗き込みます。
 少女は突然のことで驚いていましたが、すぐに下を向いてしまいました。
『なぜ下を向くの?』
 男の子は不思議そうに首をかしげます。
『だって、私は悪魔の目なんだもの』
 少女は下を向きながらそうつぶやきました。
すると、男の子は突然笑い出し少女に言いました。
『悪魔の目? 君は悪魔なのかい?』
『違うよ!』
 少女が男の子をにらむように見ると、男の子は淡いサクラのような目をしていました。
『綺麗な澄んだ赤色だ』
 そう言って少女を見る男の子は、少女が今まで話してきた誰よりもまっすぐにしっかりと目を見て言いました。
 それからというもの、少女は毎日男の子に会いに行きました。一緒にお話をしたりサンドイッチを食べたりしました。その何でもないような日々が少女にとっては、どんなにおいしいものよりも価値のある宝石よりも愛おしいものとなっていきました。
 そしていつの間にか時は過ぎ、あんなに咲き誇っていた桜も少しずつ散っていきました。柔らかかった日差しも次第に痛いものになり、小さく咲いていた花も虫もいなくなっていました。

少女はいつからか、お友達と遊ぶようになりました。あんなにも苦しく、ただ一人泣いていた日々は少女の記憶の隅っこに、それ以上のキラキラとした思い出でいっぱいに溢れていました。お友達も目のことは何も言わなくなりました。
 そんな桜の花も残りあと少しという頃。
少女は久しぶりに男の子に会いに行きました。
しかし、男の子の姿はありません。
『遊びに来たわ。どこにいるの?』
 そう呼びかけてみても返事はありません。
何度呼びかけても、どこを探しても男の子はいませんでした。
少女はなんだか悲しくなって久しぶりに泣きました。目の前の川に映る赤い瞳が風に吹かれて揺れていました。
泣いて、泣いて、気がつくと川に一枚、桜の花びらが浮かんでいました。
『また泣いているの?』
 男の子の声でした。でも、姿は見えません。
『どこにいるの?』
『ごめん。もう、君とは会えないんだ』
『どうして』
 少女は必死に呼びかけました。
『ごめんね。だから、僕のことは忘れるんだ』
『嫌よ!』
 男の子と遊んだ日々が浮かんでは消えていきます。それと同時にお友達との楽しい日々が流れていきました。どうして忘れていたのだろう。あんなにも大好きだったのに毎日楽しかったのに。
『会いに来なかったことを怒っているの?』
『違うよ。君と過ごした時間は宝物さ』
『それなら、隠れてないで一緒に遊びましょう?』
 なんだか心の奥がモヤモヤして、少女は周囲を見渡しながら必死に呼びかけます。きらきらと動く川の水が少女の白いワンピースの裾を暗く染めていました。
『私、あなたに話したいことがたくさんあるの。お友達もできたのよ』
『うん。君は優しい子だから、お友達もたくさんできるよ』
『あなたも、ずっと前から私のお友達よ』
『ありがとう。でもね』
 しかし、少女はもう反論しませんでした。
なぜなら、聞こえてくる男の子の声が震えていたからです。
『君は胸を張って生きて、周りの言葉なんて気にしちゃだめだ。君は、強いのだから』
 少女は涙ながらに『でも』と言いかけましたが、なぜだか何も言えませんでした。少女の鼻をすする音と、男の子の声が重なります。
『だから、僕のことは忘れて』
 最後に、男の子はこう付け加えました。
『僕の名前は―』

 二〇三七年、令和十九年。天皇陛下が二月に七十七歳のお誕生日を迎えられ、日本はとても平和な年を歩んでいた。
 あらゆる国が発展を遂げるなか、日本の医療技術は群を抜いていた。少子高齢化の時代に大きく発展した日本では、光を当てるだけで骨折を治す技術、痛みを感じずに治療できる器具など様々なものが開発された。
その中でも、最も世界に注目されたのは薬を飲むだけで視力が1.2以上に回復するというものだった。
 インターネットやロボットが急速に発達したことにより、予測よりもずっと早く世界の人口の約五割の視力が低下していることが日本だけでなく世界の問題となっていた。
 そのため日本で開発された薬は世界に認められ、例外はあるものの世界の約九十八%が視力の回復に成功した。
「・・・こうして、現在の日本に至るわけです。私達の住む日本は二〇二五年以降、えー、急速に発展し、特に医療に関して大きく注目されているわけですね」
 電子黒板にカチャカチャと音を立てながら白髪頭のおじいちゃん先生が慣れない手つきで重要単語を書き込んでいく。聞き慣れたチャイムが鳴り、授業が終わる。授業用タブレットを片付け、私は自販機へ向かった。
少子高齢化の影響からか地方にある学校などの多くが廃校となり、ある程度大きな高校にまとめてしまおうという政府の意向によって、今の教育社会は成り立っている。
 正直なところ少し前までは、一つの都道府県に学校が何校もあったなんて信じられない。廊下の奥の方まで行くと多くの生徒が各々会話を楽しんでいた。その間を邪魔にならないように気配を消して通りぬけ、エレベーターの前に立った。扉が開くと膝丈までスカートを上げ、ばっちりメイクの女子生徒二人が話をしていた。
「次さ、体育とかだるいんだけど」
「ね? てか、今時体育館にクーラーないとかあり得ないし」
 エレベーターの中で軽い重力を感じながら一階まで降りる。体育か、うちの高校体育館へのクーラー設置遅れてるもんな。それにしても五階に自販機を置いてくれれば楽なのに。
「あっ、そういえば知ってる? 二年の先輩から聞いたんだけど」
 女子生徒の一人が思い出したかのように身を寄せる。なぜだかわからないけど、女子ってなんでこんなにも噂話が好きなんだろう? 心の中で疑問に思いつつも顔には出さずに下を向く。
たぶん、一年生だよね? 私も一年の時はエレベーターに一人で乗れなかったなぁ。私は、そっと端の方へ寄った。
「・・・なんか、二年生の中に絶対目を見せない先輩がいてね」
 エレベーターのランプが3を指して点滅している。
「それで、その人はショートカットの女子で、いつも前髪で片目を隠していて」
 私はそっと前髪を整えた。
ここ最近で急に暖かくなってから、量の多い髪が暑さを倍増させている気がする。ランプは、まだ2のところで止まっている。
「で、たまたま先輩がその人の前を通った時に強い風が吹いて、その人の目が見えたらしいんだけど」
 二人の女子生徒は、静かに声のトーンを落とした。エレベーターに乗っているのはその二人と私だけ。
「その人の目が、『白く濁って』見えたんだって」
 扉が開く。
私は、壁沿いに自販機へ急いだ。

『白粒視覚症〈はくりゅうしかくしょう〉』
 私がそう言われたのは、小学四年生の夏だった。
 発病原因は不明。今の日本の技術をもってしても、この病気だけは回復の見込みが見られなかった。
歳を重ねるにつれ、視力が低下。症状が悪化すれば、目の色が白く濁って見える。最悪の場合、光すら感じられなくなる。
 そして、その症状は瞳が白く濁るだけではない。最も的確に判断する方法は、赤い涙を流すこと。
 白粒視覚症は、ある物質を原因とし、上手く体が涙の成分を分泌できないことでそのまま血液を涙として流してしまう。白く濁った瞳で、赤い涙を流す彼らは『うさぎ』と呼ばれ気味悪がられてきた。

 日本の薬によって、世界中の人々の視力が戻った。
生まれつき目が見えなかった赤ちゃんが、初めて母親の顔を見て笑う。老いにより孫の顔がはっきり見えなかった老夫婦は、泣いて喜んだ。
 そんな日本が誇るべき技術。
 見えることが当たり前になって、見えないことが不自然になった時代。

 私は、自販機で右側下の一番端にあるリンゴジュースを選ぶ。一番好きなジュースはオレンジジュースなのだけど、今月のドリンクの入れ替えで右下のジュースがリンゴになってしまった。
仕方がないから、これが今のお気に入り。
手のひらサイズの紙パックをとって、エレベーターへと向かう。
無機質な電子音とともに重い扉が開いた。そっとそちらの方へ目をやると、そこに二人組の姿はもうなかった。
「あっ、莉桜〈りお〉! もう、遅いよ」
「ごめん。ちょっと、ジュース買いに行ってた」
 ローファーを手に軽く苦笑いをする。
校舎の外では、青く澄んだ空の下で遅咲きのサクラが蕾をつけていた。
「・・・この時間がずっと続けばいいのに」
「ん? なに?」
二人で歩く。高い建物が立ち並ぶ大通りを抜け、少し落ち着いた小道に入った。いつからか私は左側を歩いて、親友の桜〈さくら〉は私の右側を歩く。それがいつもの定位置になっていた。
「いや何でもない。私さ、莉桜と友達になれてよかった」
「何それ」
 桜は可愛らしい笑顔を浮かべてそう言った。
私も、そう思っている。
桜と一緒に帰り道を歩いて、一緒に笑って。
それだけで毎日が楽しくなる。
でも、ごめんね。桜。
私は、あなたに伝えていないことがあるんだ。

二〇二五年、日本の医療がまだ発達する少し前。私がまだ五歳の頃の出来事。五年前、世界中を襲ったウイルスによって世界全体のバランスが崩れ始めた。
様々な会社や企業が倒産し、人々は十分な生活を送れなくなっていった。そんな空気を一転しようと世界政府は、国に声を掛け合い、周りのあらゆる国と技術をめぐって各国の士気を高めようとした。
日本もその一つで、ウイルスを食い止めるための薬を開発し、そのまま日本の医療技術はどんどん成果を上げていった。
日本の技術が認められ始め、世界に注目されるようになった頃、それは起きた。
それは二〇二六年、段々と春が近くなり梅のいい香りが漂う頃。私の住んでいた地域の医療研究所が大爆発を起こした。
研究所の周り約二キロの範囲に研究所で扱われていた物質が有害なものとして放出された。私は運悪く庭で一人、昼寝をしていた。父は仕事で出張していたし、母は丁度かかってきた電話を取りに家の中だった。
 被害にあった人々は、医療研究所の近くに住んでいた73人。その日が、たまたま平日の昼間だったこと。風があまり吹いていなかったこと。それらのことから、なんとか少ない被害で済んだ。
 だが、日本の政府はようやく軌道に乗ってきた日本の立場を守るために小規模だったこの事故をもみ消した。被害者は、多額の賠償金と引き換えにその症状を原因不明と言うことを強いられた。
 彼らは、次第に視力が衰えその瞳は段々と白く濁っていった。
 その瞳を赤く濡らし泣く私たちに対し、何も知らない人々は気持ちが悪い。まるで、赤い瞳のうさぎのようだ、と差別するようになった。
私も被害者の一人。その時のことは、全然覚えていないけど確実に症状は出始めていた。実は、既に左目は視力がほぼない。
今は、高度な医療技術で開発された黒のカラーコンタクトをつけることで生活に支障が出ない程度に回復している。
だがそれは、コンタクトがあることで見えるだけで周りのように裸眼できれいに見えるわけではない。
かろうじて見えている右目だって、いつ白くなるかわからない。私も周りのみんなみたいに自分の目で景色が見てみたい。
いつか、見えなくなる景色を見ていたい。

「莉桜? どうかした?」
「・・・え?」
「ぼぅっとしてるけど、大丈夫?」
 桜が顔を覗き込んでくる。
私はなるべく自然に手元にあるメニューへ目を落とした。嫌だ。桜には病気のこと知られたくない。
絶対に、言えるわけがない。
「う、うん。何でもないよ。それより、桜は何食べるの?」
「え? あ、私はねー。イチゴのパフェもいいけど、パンケーキも捨てがたいな」
 桜は思い出したかのように、メニューをにらみ始めた。
今日は金曜日。先週、バイトの給料日だったからと桜に連れてこられた喫茶店。私と遊びながらも、桜は多くのバイトを掛け持ちしていて高校生ながら本当に頑張り屋さんだと思う。それになんだか、自分がこんなお洒落なところにいていいのかと不安になってしまう。
 珈琲のいい匂い、そっと置かれた観葉植物であるブルースター。
でも、あー、ちゃんと女子高生してるなぁって改めて思う。
「あ、莉桜は何にする? 遠慮はいらないからね」
「うーん。じゃあ、私はチョコレートパフェにしようかな」
「じゃあ、私はイチゴにするから後でちょっと頂戴?」
「もちろん! てか、ごちそうになります」
 桜は、店員さんにパフェを注文するとカプチーノも追加していた。桜みたいに可愛いと注文するだけで絵になる。
茶色く傷のついたテーブルとか、桜の勢いにちょっと困っている店員さんとか、そのすべてを切り取って心のシャッターを切った。

『りお、ちゃん?』
 それは突然だった。
私は慣れない高校生活に馴染めず、一人教室で本を読んでいた。家に帰ってもすることもない。部活にも入れない。そんな私にとって、夕方の誰もいない教室は、あまり本の字が見えていなくても時間をかけてゆっくりと読むことができる大切な場所となっていた。
『これ、莉桜〈りお〉って読むの?』
『え・・・うん』
 そう言われたとき心の奥で何かが響いた。
なるべく目立たないように、いつも静かに過ごしていた。
昔みたいに、ドジは絶対に踏まないように。誰も苦しまないように。
なのに、それなのに、彼女は
『私、桜。莉桜ちゃんと私、お揃いのサクラだね』
彼女は私にそう笑った。

「あー、お腹すいた」
「さっき食べたばっかじゃん」
「だって、スイーツは別腹っていうでしょ? 莉桜、コンビニ行こ」
「え、マジで」
 薄暗くなった喫茶店の帰り道。桜がこちらを見て微笑む。こんな友達、私にはもったいないくらいだと思う。これからの人生で出会える確率なんてこれっぽっちしかないのだろうから、目の前の親友の笑顔を目に焼き付けておこう。
 私は、桜が好き。大好き。
だから、絶対に知られたくない。
嫌われたくない。

「だって、莉桜ちゃんとわたしは親友でしょ?」
 私が小学生の頃。桜みたいにいつも優しくしてくれる子がいた。
私は、ドッヂボールが好きで結構上手かったからクラスの男子とも仲が良かったし、みんなの前に立ってリーダーシップをとるのが好きな子供だった。だから、おのずと自分の周りにはいつも友達がいてそれが当たり前だった。
 ある日、確か小学四年生の夏だったと思う。
世の中では地球温暖化の深刻化が進み、気温が年々上昇していた。そんな暑い夏休み。私は、みんながやりたがっていたクラスで飼っているハムスターのお世話係りになった。
週に三回、学校に来て餌をやる。カゴを洗って、寂しくないように少しだけ話しかけて帰る。
 それが私の仕事。その時に一緒に係りになった子がいた。その子はいつも笑っていて優しくて、室内ではなく外でいつも走り回っている私はクラスの女子は嫌がられていたけれど、男子と仲が良かった私にも仲良くしてくれた。
「ねぇ、なんで私と一緒にいてくれるの?」
「だって莉桜ちゃんとわたしは親友でしょ?」
 嬉しかった。私は、その子とこれからもずっと一緒にいるんだとそう思い込んでいた。そんなある日、私はいつも通り朝早く学校に来てハムスターのお世話にとりかかった。
「おはよう、はむちゃん。今日もね、外、すっごい暑いんだよ」
夏休みはクーラーをつけられないから窓を全開にする。電気代節約といっても、はむちゃんもいるのだから冷房をつけられないか先生に相談してみようと考えながら額の汗をぬぐった。
カゴが置いてある棚の上には、誰かが生けたのであろう紫色の綺麗なルリタマアザミが飾ってあった。私がカゴを開けると、いつもなら顔を出すはむちゃんが出てこない。餌が全然減っていなかった。
「はむちゃん?」
 カゴの中をのぞいてみると隅っこに、はむちゃんがいた。
「もう、びっくりしたじゃん」
 そう言ってはむちゃんに手を伸ばした。
「え」
 はむちゃんは、動かなかった。
いつも毛がふわふわで手に乗せるとふにゃってなるのに、今は硬くなっていた。それはあまりにも突然であっけなくて、私はそっとはむちゃんを抱きしめて泣いていた。
 なんで、どうして。ちゃんとお世話したのにカゴも洗って餌も水もちゃんとあげて、寂しくないようにたくさんお話して、なんで、なんで、なんで。
 苦しかった。涙が止まらなかった。
 クラスの子の顔が浮かぶ。
『莉桜ちゃんなら、はむちゃんのこと任せられるしね』
『うん。だって、莉桜ちゃん、優しいし』
 みんな、ごめんなさい。私のせいだ。私がお世話係りに手を挙げたから、あの時、もし私じゃなくて他の子だったら違ったかも知れない。
みんな、ごめんなさい。はむちゃん、ごめんなさい。
「え・・・莉桜、ちゃん?」
 私が顔を上げると一緒に係りになっているあの子が立っていた。私は、涙でぐちゃぐちゃになった顔でその子を見る。
 蝉がうるさかった。
両手にそっと抱えたはむちゃんを胸に私は泣いていた。
「はむちゃ、んが、はむちゃんが、動かなくなっ」
「気持ち悪い」
「・・・え」
 訳が分からなかった。いつも優しくて、笑っていてそんなあの子が真っ青な顔でそう言った。
「なに・・・言ってるの?」
 信じられなかった。みんなで一生懸命名前を考えて、大切に育ててきたのに死んじゃったら、気持ち悪い? 
「そんなの。そんなのひどいよ!」
 私は、はむちゃんを抱きしめながら、その子をにらみつけた。
「今まで、一緒にお世話してきたのに、死んじゃったら、気持ち悪い、なんて」
 嗚咽で上手くしゃべれない。それでも、その子のことが許せなかった。
「ねぇ、聞いてる?」
 私は、その子に迫った。すると、その子は後ずさり口元を抑えながら言った。
「はむちゃんの、ことじゃない」
 さっき開けた窓から暑い風と一緒に蝉の声が吹き込んできた。
その子は、私の親友は、私を指差しながら言った。
「莉桜、ちゃんが、気持ち悪い」
「え・・・」
「・・・化け物。莉桜ちゃん、気持ち悪い」
 親友はそう言い捨てて、走っていった。気持ち悪い? 私が? 意味が分からなかった。
 そして、ふと自分の手で硬くなっているはむちゃんを見た。そこには、なぜか赤くべっとりとした小さな塊があった。
「うぇ。なん、で」
 私の真っ白な体育服はいつの間にか赤黒く汚れていて、腕や手は赤いものがカピカピに乾いていた。私、ケガした? でも、ここに来るまで一度も転んでないし、ケガをするはずない。訳も分からず、私はその場に座り込んでずっと泣いていた。

 夏休みが終わって、学校が始まった。
あの日から、あの子には会っていない。夏休みの間に病院に行って、改めてお母さんに病気のことを聞いた。お母さんは、泣きながら黙っていたことを謝った。特にどこか痛いわけでもないし、入院しないといけないわけでもないらしい。何ら変わらない毎日を過ごしていた私は「あの日」で変わってしまったものの重大さに少しも気づいていなかった。
「おはよう」
 教室でいつもみたいに挨拶をすると、クラスの子は私を見てひそひそと話を始めた。
「どうかしたの?」
 あの子に聞いてみた。ランドセルを置いて、あの子のそばに行く。
「来ないで!」
 教室に涙交じりの声が響いた。
「どうして?」
「私、あの後ママに聞いたの。そしたら、それは病気だから近づいたらダメだって。一緒にいたら移るって」
 怯えた目でそう言った。クラスの子も私を見る目が前とは違う気がした。その日を境に私の当たり前は、当たり前じゃなくなった。
私とドッヂボールをしていた男子も、いつもそばで遊んでいた女子たちも、私のことを嫌っていた子達も誰も私を見なくなった。
 それどころか私ではなく、あの子へのいじめが始まった。
『なぁ、お前。あいつとずっと一緒にいたもんな。病気、もう移ってんじゃないの』
『そうだよ。あいつが泣いてた時、一緒にいたんだろ』
 病気。病気。みんながそう、あの子をいじめた。
私は、何も言えずにただあの子が小さくなっていくのを遠くで見ることしかできなかった。
 みんな、なんで私をいじめないの? あの子は関係ないじゃん。優しかった友達も、一緒に給食を食べていた友達も誰も私を見てくれない。
クラスでお楽しみ会をした時も一緒にグループ活動をする時も、そこにいるのにそばにいるのに誰も私の方を見ない。
まるで私のことだけを忘れてしまったように。
もしかしたら、私は最初からこの場所にはいなかったのかもしれないと、そう本気で思った。
 でも、それでも私は悲しい顔も苦しい顔も一切せずに、みんなに笑顔で接していた。私が頑張れば、私が我慢すれば、そうしたらいつか、あの子も前みたいに遊んだりおしゃべりしたりできるようになる。私がいなかったことになれば、忘れられてしまえば、あの日のこともなかったことに。そんなことを小学生の私は考えていた。
だから、みんなは私のことを忘れて。
あの子の優しい笑顔をもう一度見るために。
 この病気は、人には移らないし私はまだ症状が軽いって聞いていた。なのに、みんな私じゃなくてあの子をいじめていたのは、今考えてみれば私と関われば病気が移ると、危ないからそばに行くなと、そう親から言われていたからかもしれない。
 そんな日々が続いていたある日。
 あの子が死んだ。事故だった。
 自転車で走っていた時に、タイヤが滑って川に落ちたという。そのまま、あの子は死んでしまった。周りの子は、私の呪いだなんだと噂していた。周りの子も大人も、私を見て小声で何かを話す。
そこで私は、あぁ、私は忘れられていたんじゃないんだなと少しだけ心の中で安心してしまった。
親友にもう二度と会えないというのに。
でも、時間が経つにつれてもしかしたら自分の頑張りが足りなかったのではないか、もっと私が我慢していたら、本当に私の存在が忘れられていたら誰も傷つかなかったのではないか。
私は、その空気に耐え切れず私はその学校を転校した。
 あれが本当に事故だったのか、それとも違ったのかは知りたくない。
あれ以来、私は一度も泣けなくなった。

人は簡単に壊れてしまう。壊してしまう。
 視力が回復したのに、大切なものが見えなくなってしまった時代。
私は、あと何年で何日で見えなくなってしまうのかな。あとどれくらい、心に蓋をすればあの子に許してもらえるかな。
 高校に入学して、新しい環境での生活がスタートした。あれからお母さんはよく泣くようになった。
私は、泣き方を忘れてしまったというのに。
正直、高校での生活は不安で胸がいっぱいだった。なるべく目立たないように誰も傷つけないように、私は黒いコンタクトをして白くなり始めた左目を前髪で隠して、そうやって毎日を生きてきた。
「いやー、この前リョウがさぁ」
「え、桜。またリョウ君の話してるよ」
「うわ、リョウの呪いだわ」
「桜はほんとにリョウ君のこと好きだね」
「違うって、ただの腐れ縁ですぅ」
 桜はそう言って頬を膨らませる。私は、自分のお弁当をつつきながら桜の幼馴染の話を聞いていた。
「桜、あんまりリョウ君のこといじめちゃダメだよ」
「えー、考えとくわ」
 緑茶のパックを片手に、桜はお弁当の卵焼きを食べた。桜のスマホには手作りの小さなサクラのキーホルダーが揺れている。
外はもう、すっかり春で遅咲きのサクラが思い出したかのように花びらを広げていた。
「よう、ここにいると思った」
「うげ、噂をすればリョウじゃん」
 声がした方を振り向くと桜の幼馴染がいた。肩からハンドタオルを下げていて、いかにも運動できますといった見た目のリョウ君。
やっぱり私は、桜とお似合いだと思うんだけどなぁ。でも、こんなこと言ったらまた桜が拗ねちゃうから言わないでおこう。
「こんにちは。リョウ君」
「おう、誰かと違って莉桜ちゃんはほんと、落ち着いてるよな」
「リョウ、あんた後で覚えておきなさいよ」
 リョウ君は桜に首根っこをつかまれて、ばたばたしている。私たちがいつもお昼を食べているこの教室のことを知っているのは、リョウ君だけ。今だって、二人して口喧嘩をしながら私にどっちが正しいか、なんて聞いてくる。
でも、本気で喧嘩しているのは見たことがなし、変な噂も聞かない。二人とも本当に優しい。それが、見ていて周りにも伝わってくるくらいに。
二人のお互いに信じ切っているからこその表情を見ながら、この笑顔は絶対に忘れない、と心で誓った。
「あ、そうだ」
 桜が急に何かを思い出したように顔を上げた。
「今年の夏祭り、三人でまわらない?」
「・・・は?」
「だから、一緒にサマーフェスティバルを楽しもうじゃないかって」
「いや、だから、は?」
 リョウ君は、何言ってんのこいつという顔で桜を見ている。
夏祭りか、小学生以来友達と行ってないな。行きたい。かき氷とか、射的とか、色々なものを見ておきたい。
でも、もしかしたら誰かとぶつかった拍子にコンタクトを落としてしまうかもしれない。このコンタクト外れやすいからなぁ。実際この前だって、どっかで落としちゃって他の子に見られているのに。この二人には、ばれたくないしな。
「ね? 行こうよ。夏祭り!」
 桜がきらきらした目で私を見ている。偽りのない綺麗な瞳で。リョウ君は、どうするのかなと見てみると、少し渋い顔をしていた。
「夏祭りか・・・」
「なに? 予定あった?」
「いや、ちょっとその日は自宅警備員という大切な仕事が・・・」
「お前、ふざけんなよ」
 私が止めようとするより早く、桜はリョウ君の首を絞めていた。
「ねぇ、莉桜。行こうよ。お願い」
 たぶんお祭りに行けるのもあとちょっと。病気がひどくなったら、人の多いお祭りには行けなくなる。行きたい。たくさんのものを見たい。でも一番見たいのは、この二人の笑っている顔だったりする。
「莉桜、頼む! 一生のお願い!」
「・・・桜、ここで一生のお願い使っちゃったらもったいないよ」
 大丈夫。絶対にドジはしない。
だから、神様。少しだけ私にも、笑う時間をください。
「私、行く。リョウ君も行くでしょ?」
 首を完全に固められて動けないリョウ君に同意を求める。私は、最後まで桜の笑顔を見ていたい。だから、
「ね?」
 桜の不服そうな顔を見てリョウ君は、窓の外を見た。
「まぁ、莉桜ちゃんが言うなら仕方ないか」
「・・・やっぱり、莉桜と二人で行く」
「え、なんだよ。なに怒ってんの」
 リョウ君。ほんとに君は大事なところで鈍感なんだから。桜は緑茶の紙パックをリョウ君に投げてどこかに行ってしまった。
「は? なにあいつ」
「リョウ君」
「ん?」
「早く行ってあげて」
「なんでよ」
「いいから。三人で夏祭り行くんでしょ?」
 リョウ君は、んー、と言うと桜の後を追いかけていった。
教室のカレンダーを見る。入学式、遠足、クラスマッチ、そして体育祭。色ペンでいっぱいに書き込まれたカラフルな紙。
 今はまだ、四月下旬。段々、暖かくなって一年生の子たちが高校の雰囲気に慣れてくる季節。新しい紺色の綺麗なブレザーに黒く光るローファー。白く光を反射させながら、サクラの花びらが降ってくる。目を閉じれば、そんな色鮮やかな光景が瞼に浮かぶ。
「・・・あと少しだけ」

「佐藤莉桜、九十六点」
中学生の時、泣きたくても泣けず、友達もいなかった私は一人で絵を描くことに没頭していた。教室の隅で静かに絵を描いている間は、無心になれた。あんなに苦しい思いは二度としたくない。もう、誰も傷つけたくない。ただその一心でなるべく目立たないようにしていた。
授業も休み時間も行事も何一つ楽しくなかった。学校はなるべく目立たないようにしていても集団行動を強要される。教師にあてられて、黒板の字が見えなくて、答えられずに周りに笑われて。
でも、勉強は得意だったから点数は取れる。
「佐藤、お前はほんとに優秀だな。お前ら、もっと佐藤を見習えよ」
 そう言って、教師は笑う。みんなも笑う。
「せんせー、無理だって」
〈いつも授業の時、わざと間違えてんじゃないの〉
「だって、難しんだもん」
〈そうやって、いい点とって私達、見下してんでしょ〉
 笑い声って怖い。どんなに顔は笑っていても、言葉が笑顔に混じって流れてくる。だから、学校は嫌いだった。でも、見えなくなる前にいろいろなものを見ておきたいと、私は学校に行くことをやめなかった。
「なぁ、何してんの」
 放課後。ふと声をかけられた。私はいつものように絵を描いていた。
紙に鮮やかな水彩絵の具で風景とか動物とか、自分の心に残すように色をのせていた。
「うぉ、すげぇ」
 その男子は、笑いながらそう言った。でも、その笑顔は私が知っているものとは違っていた。学ランを着崩して補助バックをを背負うようにしている彼は、明らかに俗にいうヒエラルキー上部の人間だ。
「めっちゃ、上手いじゃん。コンクールとか出さないの」
「・・・出したことない」
 すると、男子は心底驚いたようで身を乗り出してきた。私なんかが男子と話していて大丈夫かな。女子たちに目をつけられないよね。
「なんでだよ。もったいないって!」
「え?」
「今度、一緒に美術の竹内のとこに持って行こうぜ」
 その男子はそう言って私の描いた絵をきらきらした目でみつめていた。私を普通のクラスメイトとしてみてくれている。
変な男子だと思った。私なんかに話しかけて、あとでほかのクラスの子にいじめられないだろうか。
「なぁ、このイヌの絵もらっていいか」
一人で不安になる私をよそに、男子は黙々とスケッチブックのページをめくる。その表情があまりにも嬉しそうで、輝いていて、まるで新しいゲームをもらった小学生みたいで。
「ふっ」
「なんで、笑うんだよ」
「だって、どうして急に、先生に持って行こうってなるの?」
 男子はきょとんとした顔で私を見ている。
教室には、私達二人だけ。聞こえるのは野球部の掛け声とサッカー部のホイッスル。放課後の教室にクーラーが効いているはずもなく、相変わらず外は暑いし、ただ過ごすだけの何でもない一日の数分間。
最後に笑ったのはいつだっただろうか、こうしてしっかりと誰かと話すなんていつぶりだろうか。
男子は、ツボに入ってしまっている私を見ながら笑った。
「やっぱり、笑ってたほうが可愛いじゃん」
 これが私の初恋だったのかもしれない。
 それから放課後には一緒にたわいもない会話をするような仲になっていた。男の子はバドミントン部の部員であの日も忘れ物を取りに来たらしい。休み時間に聞こえてきた会話によるとハルトという名前だった。ハルトはしきりに美術部へ入部することを勧めてきたけど、私はできるだけ目立ちたくなかったし、賞がほしかったのではなく、ただ好きな色に触れていたかったから絵を描いていたため、結局入部はしなかった。
 ハルトはいつもクラスの中心にいて、授業中や休み時間には話すタイミングはほとんどなかった。だから、部活動がない放課後に二人でたわいのない話をすることが私にとって大きな変化であったことは間違いない。
「ハルトさ、最近、佐藤と仲いいよな」
 教室で掃除をしているときにハルトと仲の良い男の子がそんなことを言った。教室では先生の趣味らしい題名もわからないようなクラシックが放送で流されている。
「えー、マジで」
「なになに?」
 今まで話に夢中だった女子たちが一斉に話にのってきた。私は黙って水道を掃除する。拒絶されるのが怖くて、ハルトの顔を見ることができなかった。
「んー、そうだけど」
 ハルトは黙々とモップをかけていて教室での声が行ったり来たりしているのがわかる。えー、と周囲の注目が集まる。どうしよう、私のせいでハルト君が。
「別に誰と仲良くしたっていいじゃんか」
 思わず教室の方を振り返ると、ハルトと目が合った。クラスメイトがひゅーとハルトをからかっているのが見えた。佐藤さん、いい子だもんねー、真面目だしねー、なんて対して中身のない言葉が聞こえてくる。私が話なんかしたから、ハルト君に迷惑をかけてしまった。なるべく目を合わせないようにしながら教室の雑巾を取りに行く。
「なぁ、佐藤。俺にも絵くれよ」
「え」
 絵って、ハルト君話したのかな。別に隠しているわけではないし、話さないでほしいと言っていたわけでもない。でも、なんだろう。なんだか。
「佐藤さん?」
 ハルト君の優しい声がする。誰も気にしていないような私にもかけてくれた男の子にしては少し高い声。絵を通して私がここにいてもいいのだと、私のことを認めてくれたような気がしていた。
気が付くとみんなのからかう声を振り払うようにして走っていた。逃げる場所も特にないのに私は何をしているのだろう。無機質なスピーカーを通してクラシックが次の曲へと切り替わる。その一瞬の無音がざわざわとした掃除の時間において酷く目立った。枯れきった瞳から流れるものは何もなく、汗だけが頬をつたっていく。
無意識に強く瞼を閉じたことでコンタクトが外れてしまった。左目の視界がぼやけていて、揺れる前髪によって暗がりの中に光を感じられる。それをぼんやりときれいだなんて、私はどこかおかしいのかもしれない。
その次の日から、私は放課後に教室に残ることはなくなった。廊下や教室でハルトと何度かすれ違ったし、声をかけようとしてくれていた。でも、あの子みたいにまたハルトが巻き込まれたらと思うと一緒にはいられなかった。そのまま時間は過ぎていき、視力低下とともにあれ以来話すこともなく卒業してしまった。

「ねぇ、莉桜ちゃんのさ。泣いたとこって見たことないよね?」
「え」
 鼓動が速まる。中間考査終わりの教室。私は、休み時間にクラスの子達と時間を潰していた。
「あ、それ私も思っていました」
 必死に言い訳を考える。どうしよう。ここでへましたら、今まで頑張ってきたのが全部無駄になっちゃう。
「私、あんまり人前で泣けないんだよね」
「へぇ、でも見てみたいよね。泣いてるとこ」
 私は、なんでよ、と笑いながら答える。どうしよう、どうしよう、どうしよう。みんなが私を見ている。
ばれたら、もしばれたらみんなに迷惑をかけちゃう。
「ちょっとさー。莉桜ちゃん、試しに泣いてみてよ」
「えー、そんな無理だよ」
「いいじゃん、見てみたいんだもんね?」
「ね」
 なんでもない風をよそおって、笑顔を顔に張り付ける。
どうしよう、桜。助けて。私と桜は二年に学年が上がってからクラスが離れてしまった。リョウ君も隣のクラス。それでも、お昼は一緒に食べていたし、私もクラスに少しずつ慣れていった。
「だって、泣いたら負けたみたいじゃん?」
「そんなことないって」
 今まで、周りの子が怖くて話せなかった。でも、桜やリョウ君に会って優しい人もいるって知った。だから、最近はクラスの子とも少しは話せるようになったのに。いつもは有り難く入れてもらっているグループの中で、私だけが違う世界にいるみたいだった。みんなの顔がまともに見られない。
「ほら、早く。泣いてみてよ」
「え、でも」
私はこの笑顔を知っている。
からかっているだけのつもり、その場でのノリに合わせた同調。みんながその時の雰囲気で笑って、この子はこんな風に言っても怒らないから大丈夫。そう言っているのが、聞こえる気がする。決して悪気があるわけではない。それがわかるから、なおさら息ができない。
視界がゆがむ。顔を上げられない。
泣き方なんてとっくの昔に忘れちゃったのに。陽キャでもないのに急にグループの輪に入ったからかな。
せっかく、新しく変われたと思っていたのに、社会に馴染めない私みたいなのは一生そうなんだ。
「え、莉桜ちゃん?」
「大丈夫ですか? 顔真っ青ですけど・・・」
「・・・ごめん。ちょっと、お腹痛いからお手洗いに行ってくる」
 私は、女子たちを残して教室を出た。逃げちゃった。
せっかく友達になれたのに、みんなは仲良くしてくれていたのに。
壁伝いに校内を歩く。
気持ちが悪い。
昔の記憶がフラッシュバックする。熱い風、耳障りなセミの声、赤黒い塊。団体の気持ちが悪いくらいにそろった同調、みんなの笑っている顔、心の底から気持ちが悪い。
私は、ハンカチを手にゆっくりと廊下を歩く。
今までは自分に蓋をすれば、私が我慢して頑張って、そうしたらきっと泣いていたお母さんもいじめられていたあの子も心の底から笑ってくれると、許してくれると思っていた。
でも、最近心の底から笑えなくなっている自分に気付いた。

『ほんと、莉桜ちゃんって真面目で優しくていい子だよね』
 
 私は、みんなが思うようないい子じゃない。みんな、屈託のないとっても澄んだ表情で笑うのだ。どうやって? どうしたら私もみんなみたいに笑えるの? 感情を表に出せるの?
 いい子、優しい、怒らない、真面目、色々なことを言われる。いや、言ってもらえる、の方がしっくりくるだろうか。でも、私は一切そんなふうには思えない。いい子に見えるのも優しく接するのも、誰にも嫌われたくないからで、怒らないのも怒ることで受けるデメリットの方が大きいから。真面目って言われるのも失敗したくないから心配でやりすぎているだけ。そんな私しか知らないみんながいいところだと思っている要素で私は創られている。
ケンカして、ぶつかって、口論して、お互いにぐちゃぐちゃになるまで泣いて、怒って、不安に思って、で最後には笑う。
 私もいつか見た美しい映画みたいな日常が送れると。
友達とカラオケ行って体育祭ではしゃいで、文化祭で美味しいもの食べて、そして、恋に落ちる。そんな風に、私もみんなと同じような〈普通〉の人として生きたかった。
でも、泣くことも笑うこともできなくなっちゃった。
《じゃあさ、感情なんか捨てちゃえば》
 嫌だ。私は、友達と桜と一緒に高校生活を。
《なら、どうして逃げた》
 それは。
《お前が周りを信じてないくせに、周りがお前を助けてくれると思うのか》
 私はみんなを信じて・・・。
《そうか。じゃあ、病気のこと言えるのか》

『・・・化け物。莉桜ちゃん、気持ち悪い』

《コンタクトを外した本当の姿で。みんなが、桜が、心の底から信じてくれると思うか》

『来ないで!』

《お前は化け物なんだよ。お前がいるとお母さんが泣く。お前がいると周りが不幸になる》

《それでもお前は》

《心の底から笑えるんだな》

 その日、私は人生で初めて仮病というものを使って高校を早退した。保健の先生の心配そうな表情が少し気なったけれど、不思議と苦しくはなかった。ごめんなさい。そんなに心配しないで。
 私は、帰って誰もいない部屋でふと中学時代の卒業アルバムを引っ張り出していた。懐かしい写真、色ペンで書かれたメッセージ。
黄色とか黄緑とか色の薄い字は、私にはもう読めなかったけど、なんとなく色が違う事は分かった。写真は、その時その瞬間のみんなの思い出を一枚の紙に収めることができる。そのきらきらした笑顔が散りばめられた本を見つめながら、ページをめくっていく。
偶然か、必然か、その中に私の姿はなかった。
 華の高校生活。私、本田桜はめでたく高校生になりました。女子高生、夢にまで見た高校生活。
可愛い制服に身を包み、新しい友達や出会い、新しい私に生まれ変われるであろう未来。なのに、
「イケメンはどこにおるんじゃー!」
「桜、欲望が駄々漏れだよ」
「だってさー、一年無駄にしちゃったんだよ? やばいって、完全に波に乗り遅れた・・・」
 莉桜は、大丈夫だって、と私に笑いかける。莉桜は初めて教室で会った時からずいぶん変わった。入学してからしばらくたった頃、私は新しい友達もいっぱいできて、それこそ青春への扉を開けたばかりだった。
その時も友達とカラオケに行く予定を入れていたが、その日はたまたま教室にスマホを忘れて取りに戻った。
みんな帰った後で誰もいないはずの教室には、静かに本を読んでいる女の子が一人。あれ、まだ入学したばっかりで部活も早く終わるはずなのにどうしたんだろ。
 私には、その子がなんだか違う世界にいるように見えてとても不思議な気がした。なんかわかんないけど、運命みたいなものを感じる・・・。
でも、誰だっけ? 同じクラスで比較的前の席に座っていたような、私、名前覚えるの苦手だかんなぁ。えーっと、もう、聞いちゃえ!
私は、そっと女の子のそばに寄る。すると、女の子の机にかけてあった鞄からスケッチブックが見えた。
それの表紙には、少し大きめな文字で『佐藤莉桜』と書いてあった。
『りお、ちゃん?』
 私が声を出すと女の子は、今まで隣にいた私に気づかなかった様子で、びくっ、と体を震わせた。あれ、怖がらせちゃったかな。まずい、このままでは私の運命が。
『これ、莉桜〈りお〉って読むの?』
 何とか場を取り繕おうと言葉を続けた。静かに机の横にかがんで女の子を見る。その子は長めの前髪を揺らしながら本を閉じた。
『え・・・うん』
 女の子から発せられた小さな声は、少し震えていてとても儚く感じた。顔色をうかがおうとしてみたが決して目を合わせてはくれない。でも、静かに揺れる茶色く細い髪の奥に見える瞳がとても美しく思えた。
『私、桜。莉桜ちゃんと私、お揃いのサクラだね』
 そう言った時、女の子の瞳が揺れた気がした。
私は、この子と友達になりたい。仲良くなりたい。なんでそう思ったのかは私もよくわからない。
でも、それでも、私はこの日を絶対に忘れない。

「莉桜。一緒に帰ろー」
 莉桜の教室を覗く。あーあ、莉桜と同じクラスだったらなぁ。マジで、クラス替えした先生たち許さんわ。リョウじゃなくって莉桜が一緒だったらよかったのに。私が莉桜を探していると、女子の一人が近づいてきた。
「あれ、本田さん。どうかしました?」
「莉桜、呼んでくれない?」
「あ、莉桜さんなら今日、早退しましたよ」
「え、そうなの?」
 莉桜が早退なんて珍しいな。どうしたんだろう。
「はい。テストが終わった後に。普通に私たちとしゃべっていたんですけど、急に体調が悪くなったみたいで」
「そうなんだ。ありがとう」
 私が教室をあとにしようとすると彼女は本田さん、と私の肩をつかむ。
彼女は少しだけ頬を赤らめ下を向いた。
「ん、どうかした?」
 あれ? 私この子になんかしたっけ。全く記憶にないけど。ってか、なんで私の名前知っているんだろう。
彼女は、ゆっくりと深呼吸をすると真っすぐに私を見た。
「本田さんは、隣のクラスのリョウ君と付き合っていますか!」
「・・・は?」
「あ、あの。本田さん、リョウ君と仲良さそうですし、距離感いつも近くて、あの、その、そういったご関係なのかと思いまして」
 彼女は完璧にテンパってしまったようで早口に言葉を続ける。
「いやだって、普通はあそこまで男女の距離感が近い人いませんし、みんなさん、本田さんとリョウ君はお似合いだとか、お昼はお弁当を交換して食べているとか、実は莉桜ちゃんと三角関係でドロドロなんじゃないかとか、あーだとか、こーだとか・・・」
「って、待って。ストップ、ストップ」
 この子はいきなり何を言い出すんだ。彼女を何とか現実に引き戻す。教室ではざわざわと雑談がなされていて、私は周りに聞かれぬように彼女に近づいた。
「落ち着いて。私、別にリョウと付き合ってないよ」
「へ・・・?」
 先程の早口はどこへやら、今度は思考回路が止まってしまったみたいだ。この子は一体何なんだ。
「いや、だから、お弁当一緒に食べてないし、莉桜と三角関係なんてありえないし、第一にまず、付き合ってない!」
「・・・え? そうなんですか?」
「うん」
「・・・え? そうなんですか?」
「うん、ってこのやり取りちょっと前にしたし」
 彼女は、よかったぁ、とその場に座り込む。
「え、いや、大丈夫?」
「はい! 元気です」
「そ、そう。ならよかった」
 怖い。なんか分かんないけど、私この子怖い。
「じゃ、じゃあね」
 私は、その場からただちに脱出すべく後ろを向く。なんか変な子に絡まれたんですけど。私、莉桜に会いに来たのに変な子に絡まれたんですけど! 
すぐさま、一歩を踏み出したがまたもや呼び止められる。
「待って下さい。本田さん! お願いがあります」
「な、何でしょう?」
「私にリョウ君を紹介して下さい!」
「は?」
「お願いします!」
「はぁ!?」
 そのあと、私は訳も分からないまま彼女に連れられ、カフェに来ていた。そういえば、ここはこの前莉桜と来たカフェだ。少しばかりインテリアを変えたようで、雰囲気が違っている。
そこで彼女に聞いたところによると、彼女は池井鈴さん。高校に入学した頃にリョウを見かけ、ひとめぼれ。それからずっと思いを寄せていたが、ある時、幼馴染の私の存在を知る。私とリョウの様子や周りの声から付き合っているのだと勘違いし、今に至る。
「・・・ということで、私にリョウ君を紹介していただけないでしょうか」
「なんでそうなった!?」
「あの、ダメでしょうか?」
 彼女、即ち鈴が私を見つめる。よく見るとこの子、すごく可愛い。
なんだか、上目遣いに私を見つめる瞳がとても愛くるしく、子犬を連想させる。恐らく、この行動も無意識のうちにやってしまっている天然っぽさを感じる。
「やっぱり、ご迷惑でしたよね」
 可愛い。女の私が見ても、可愛らしい。長くまっすぐに伸びたこげ茶の髪に少し青みがかった潤んだ瞳。後ろで控えめに結んである三つ編みがまるでどこかのお嬢様を思わせる。
確か、莉桜からクラスの中に学年一位の池井さんっていう人がいるというのを聞いたことがある気がする。しかも、授業の中で一番テストの点数を取りづらいフランス語を選んでいるとかなんとか。この子、ホントに純日本人ですか。
しょんぼりと鈴は小さく下を向き、頼んだアイスティをみつめる。何度も言うが可愛い。この子、めっちゃ可愛い。この可愛さに、頭も良くて天然。だめだ。これはたぶん、ドンピシャであいつのタイプの女の子だ。
「あの、池井さん?」
「鈴でお願いします」
「あ、えっと、鈴ちゃん。あなたにはもっといい人がいると思うけど」
「いいえ。私、リョウ君しか見えていないので」
 この子、リョウなんかに騙されてかわいそうに。
「だって、鈴ちゃん凄く可愛いし、あの、モテるでしょ?」
「いえ、そんなことは。でも、今まで告白された方々は全て、その場で丁重にお断りさせていただきました」
「・・・それは何回ほど」
「えっと、確か5回です」
 羨ましいなコノヤロー。なにこの子、超羨ましいんですけど。というか、リョウにはもったいないくらいの子なんですけど。私がもらいたいくらいだわ。
「鈴ちゃん。リョウを紹介するのは構わないけど、たぶんがっかりするよ?」
 引き止めるなら今だ。この非の打ち所のない才色兼備の美少女をあのバカから救うには。なんとか鈴を説得すべく、リョウのマイナスポイントをまくしたてる。
「あいつ、見た目よりずっと不器用だし力加減おかしいし、鈴ちゃんが思っているようないいやつではないと思うんだけど。それに、鈴ちゃんみたいな可愛い人はあのバカにはもったいないって」
「あの、本田さん?」
「ん?」
「本田さん、本当はリョウ君のことどう思っていますか?」
「どうって、そりゃあ、ちっちゃい頃からの幼馴染だよ?」
「ほんとにそれだけですか?」
「それだけもなにも・・・」
「気づいたら、その人を目で追っていた。いつの間にか、その人のことばかり考えていて、その人といると安心できた」
「鈴ちゃん?」
「一緒にいると楽しい。もっと話していたい。この時間がずっと続けばいいのに。そう、思ったことは一度もありませんか?」
「それは」
 それは、ないでしょ。
だって、私とリョウはただの幼馴染で他の子たちよりかは距離感近いかもだけど、でも、それ以上でもそれ以下でもなくって。
『俺は絶対にいなくなったりしねぇから』
友達以上恋人未満。漫画みたいな、たまたま家が隣同士のただの幼馴染。
それが、リョウと私の関係?
『だから、もう泣くなって』
分かんない。考えたこともなかったから全然、分かんないけど。でも
『お前らしくねぇぞ』
私は、リョウのこと。
「・・・分かった」
「本田さん?」
「紹介してあげる。リョウのこと」
「え?」
 鈴は、自分から言ってきたのにもかかわらず心なしか申し訳なさそうに見えた。手元のハンカチが少し皺になっている。
「・・・うん。私が恋のキューピットになってやろうじゃないの」
「でも」
「何? 鈴ちゃんが言ってきたんじゃない。ここであのバカを紹介して私の疑惑をなくしてやる。そうしたらきっと、私にも春がおとずれるはず。ね? だから、信じて」
「本田さん」
 鈴が、あまり感情の読み取れない表情で笑った。頼んだアイスティのグラスの表面には水滴が溜まって、テーブルの上に小さな水たまりを作っていた。
「おう! 任せといて」
 これで良かったんだ。私より先にあいつがリア充になるのは、とてつもなくむかつくけど、ここは鈴ちゃんの可愛さと思いに免じてあいつに花を持たせてやろうじゃないの。
そうすれば、あのバカも鈴ちゃんもみんな、ハッピーエンドよ。

 今日も来てないのか。
莉桜は、突然早退したあの日から学校に来なくなった。今日は六月十七日。もう、三週間くらい莉桜に会っていない。そういえば、あんなにも仲良くしていたのに私は莉桜のことあまり知らない。住所だって知らないし、最近はラインも電話も出てくれない。
「どうしちゃったの、莉桜」
 先生に聞いてみたら毎日、欠席の連絡は来るらしい。私は、先生に頼み込んで莉桜の住所を教えてもらった。
『本当はだめなんだぞ。生徒個人の住所を教えるのは、だが、まぁ、本田ならあいつを頼めるかもな。いいか、お前を信用して教えたんだ。そのことをしっかり頭に入れて、行って来い。佐藤を頼むぞ』

「先生。なんであんなに念を押したんだろ。そんなに言わなくても、私が莉桜の住所を悪用とかするはずないのに」
 莉桜の家は学校から少し離れた町にあるらしかった。電車に揺られながらその町の風景を眺めてなんだか見覚えがある気がした。なんで、こんなに離れている場所なのにうちの高校にしたんだろう? 少し不思議に思いながらも窓の外をぼーっと眺めていると、隣に座っていた買い物帰りのような女性二人組の話声が聞こえてきた。
「ねぇ、あそこの、向かい側に座っている男の人いるじゃない?」
 向かいの席? 気になってさりげなく視線だけを動かしてみる。そこにはジーンズにパーカーを着た大学生くらいの男性が座っていた。
フードをかぶっていてあまり表情は見えない。
「・・・そうなのよ。それでさっき、ちらって見た時にね」
 特に変なところもないのにどうしたのだろう。男性は手元に小説を開いていた。女性二人組は声を抑えながらも楽しそうに話を進める。
「片方の目の色が白かったのよ」
「え、そうなの? あれかしら、あの『うさぎ』っていうやつじゃない」
 
 『うさぎ』それは私も何度か耳にしたことがあった。
小学校、中学校と総合などの授業で『差別問題』の例としてよく使われていた。今になっては、あまり差別的な事は聞かないが私が小学校高学年くらいまでは結構ニュースでも問題になっていた。
飲食店でうさぎと呼ばれる人が食事に来ているとお酒で酔った一人に飲料水を頭からかけられた事件やデパートでバイトをしていた人が子供に風船を渡そうとするとその子の母親に差別的な言葉を浴びせられたなど、突然現れた『うさぎ』という存在にまだ世間が追い付けていなかった。
私自身、存在自体は知ってはいたが実際に見たことはなかった。
「なんか、噂で聞いたことがあるけど『うさぎ』って移るんでしょう?」
「そうなの? いやねぇ、今時目が見えないなんて。安心して買い物にも行けないわよ」
「そうよねぇ。いい気はしないわよね」
 女性二人組は声を潜めているつもりのようだが、声が次第に大きくなっていることには気づいていないようだった。
「ねぇ、ちょっと私怖いから隣の車両に行かない?」
「そうね。行きましょう」
 そう言って、女性二人組は席を立った。
気持ちも分からなくはないけど、あまりにも酷過ぎやしないだろうか。あの男性がうさぎだって言うことが本当かもわからないのに。女性二人組の背中を少しにらみつけ男性の方を振り返ってみると、動じた風もなくさっきと同じところで本を読んでいた。
しばらく電車に揺られた後、私は住宅街へと向かった。電車に乗っている間、あの男性が小説をめくっているのを私は一度も見なかった。

なんかこの町、少し寂しい感じがするなぁ。
そこは、住宅街とは思えないほど静かな場所だった。
「なんだか、ここだけ別の空間みたい」
 道なりに沿って進んでいくと濃い茶色の家が見えてきた。
ここが恐らく先生の言っていた莉桜の家だ。大丈夫だよね。私、いつも通りにできるよね。インターホンを軽く押す。
よく聞く音と一緒にはーい、といった明るい声が聞こえた。莉桜のお母さんかな。莉桜の声にそっくりでどこか安心すると同時になぜか、心の隅のほうが少しだけ痛かった。
「はい」
「あの、莉桜さんと同じ高校で仲良くさせていただいている桜です。莉桜さんは、いらっしゃいますか?」
「莉桜のお友達?」
 重そうなドアを開いたのは、莉桜にそっくりな、まぁ、厳密には莉桜がそっくりなんだけど、とても綺麗な女性だった。
「はい! 本田桜といいます」
「あら、桜さん? とても可愛らしい名前ね。私、莉桜の母です。せっかくだから、あがっていって」
 莉桜のお母さんはそう言うと、私を家に入れてくれた。家の中はとても質素で家具もシンプルなデザインが多かった。
ケーキ、出すからちょっと待っていね、彼女はそう言うと嬉しそうにどこか行ってしまった。
「あ、あの。おかまいなく」
私は、邪魔にならなそうな場所に座ってあたりを見渡す。家具こそシンプルだが、黄色や白などの色は見当たらない。色ははっきりとした見やすい色が多いが、上手くそろえてあるため派手には見えない。
だが一つだけ、小さな黄色い花がテーブルに飾ってあった。
「・・・カタバミ?」
「ごめんなさいね。こんなものしかないけど」
 彼女はそう言って、紅茶とチョコケーキをテーブルに置く。
そのしぐさの全てがとても丁寧で、優しさが溢れていた。彼女は、ゆっくりと自分の紅茶を飲むと私を見た。
「あの、一つ聞いていいかしら」
「は、はい」
 こんなに綺麗な人に改めて言われると少し身構えてしまう。何か、変な事でもしただろうか、気に障ることでもあっただろうか。不安で頭がいっぱいになりかけていると、彼女はニコッと効果音でもついていそうな笑顔を向けた。
「あの子は、莉桜はちゃんとお友達がいる?」
 拍子抜けしてしまった。確かに、初めの頃は話しかけづらい雰囲気はあったが、今ではクラスの子達とも普通に会話をしているはずだ。
「はい、クラスの子とも普通にしゃべっていると思いますよ」
「そうなのね」
 彼女はなぜか心底安心しきったような表情を浮かべると、莉桜の部屋は二階よ、と教えてくれた。
「ありがとうございます。わざわざ、お茶まで用意していただいて」
「いいのよ」
 二階か、三週間って結構長い間会ってなかったな。
私は、そっとその場を立った。
「桜さん」
「はい」
 彼女は、しっかりと私の目を見ながら言う。
「莉桜のお友達でいてあげて下さいね。お願いします」
「は、はい。もちろんです」
 なんでそんなことを言うのだろう。私は言われた通りに二階へと歩みを進めた。一段ずつ、階段を上るたび莉桜への距離が近くなる。
どうしてかな、いつも普通に会っていたのになんだか緊張する。
 なんて言おう。久しぶり。さびしかったよ。大丈夫? 何かあったの。学校に来ないから心配していたんだよ。
言葉が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そうこう考えているうちに、莉桜の部屋の前に着いた。聞きたいことなら山ほどあったのに、扉にノックをすることをためらっている自分がいる。
よし、本田桜! ここでためらっても何も解決しない。夏祭り、莉桜も一緒に行くんでしょ。今諦めたらもう、莉桜は戻ってこないかもしれない。なんだか、そんな気がしてならない。だから、
「・・・莉桜。私だけど」
 自分から聞こえた音はずっと小さなものだった。
返事はない。
「久しぶりだね」
 私、莉桜がいなかった三週間、とても寂しかった。莉桜は? 先の見えないドアに向かって話しかける。
「ねぇ、どうしちゃったの。何も言わないで急に来なくなるんだもん。すごく、心配してたんだよ」
 扉の向こうに莉桜がいるはずなんだ。なんで来られなくなったのか、莉桜ならちゃんと理由があるはず。私はもう、絶対に後悔はしたくない。
「・・・莉桜」
 私は、扉に背を預けて座る。風通しの良い廊下は、夏に近づいてきている今の時期には心地よかった。
「私ね、莉桜に言ってないことがあるの」
 それは、誰にも言えない私の秘密。
「私、昔ね。小さな団地に住んでたんだ」

「ママ! パパ、今日は帰ってくるよね」
「うん。帰ってくるよ。だって、可愛い桜の四歳のお誕生日だもの」
「やったぁ!」
「じゃあ、パパが帰って来る前にブーケンビリアにお水あげてきて」
「分かった! 赤いお花にお水!」
 私は、パパ、ママ、桜の三人家族だった。
ママは専業主婦でパパは医療研究というところで仕事をしていた。パパは、仕事の都合上なかなか私が起きている時間に帰ってくることはなかった。それでも、毎年誕生日には一緒にいてくれた。
まるで絵に描いたような家族だった。
「ただいま」
「あ、パパだ!」
 私は、パパに飛びついた。その大きな背中に背負われるのが私は大好きだった。ママもパパが大好きで、毎日お弁当を作ってあげていた。私も何か手伝いたくて、朝早く頑張って起きてお手伝いをしたりママが大好きなお花に水をやったりもした。
「あなた、おかりなさい」
「あぁ、ただいま」
 そんなある時、お隣に同い歳の男の子がいる家族が引っ越してきた。最初はちょっと恥ずかしかったけど、近所に歳の近い子供がいなかったからかすぐに仲良くなった。
「なぁ、桜」
「なに? 早くして、クリボーが来るから」
「おう」
「あ、あー、リョウが話しかけるから」
「いや、お前が下手なんだよ」
 うるさいなぁ、リョウのくせにぃ。私達はもう少しで小学一年生。
そのお祝いに、二人で仲良く使うことを条件にゲーム機を買ってもらったばかりだった。私は赤が良かったのにじゃんけんで負けてリョウが薄いピンクを選んだ。ピンクにするなら、赤でもいいじゃん! と文句を言うとリョウはこれがいいのだと聞かなかった。
「桜ちゃん、リョウ。おにぎり出来たからゲームやめて、手を洗っといで」
「はーい」
 私とリョウは家族ぐるみでよく遊ぶようになっていた。お互いに一人っ子だったこともあり、誰かと一緒に遊ぶというのはとても新鮮で楽しかった。何気ない日常。幸せな時間。ずっと、そんな日々が続くものだと当たり前のように感じていた。
でも、人生において絶対なんてない。あり得ない。
『えー、次のニュースは・・・今、速報が入りました。えー、某所にある医療研究所の研究施設が何らかの原因で大爆発を起こした模様です。えー、繰り返します』
 当たり前。そんなの、いつ終わるかわかんない。
「おばちゃん。桜、コンブがいい」
「ねぇ、桜ちゃん。この医療研究所って桜ちゃんのパパのお仕事の場所じゃない?」
 手に収まりきらないくらいに握られたおにぎりを手に振り向くと、テレビには激しく燃え上がり建物の形も分からなくなった研究所が映っていた。消防士が懸命にホースで水をかけている。近くで逃げ惑う人達。カメラワークが激しく切り替わる。すると、お弁当箱を持っている人影が映った。泣き崩れながらお弁当を抱きしめ、炎の中に向かって何かを叫んでいる。その人影は、いやぁと泣き崩れる母の姿だった。

 それからは、あっという間だった。事故が起こってからしばらくすると、なんだか偉そうなスーツを着た人達がたくさん家に来た。そこでママは何かを言われ、また泣いていた。あまりママの泣く姿を見たことがなかったから、私はどうすることもできない。
「ママ?」
 ママは、ずっと家で泣いていた。いつもはすぐにたたむ洗濯物も、きれいに並べてあるお皿もあの日からすべて止まっていた。毎朝のお弁当も、私のお手伝いもいらなくなった。
ママは、床に座り込んで泣き続ける。
「ママ」
 いつも優しいママ。
料理が上手で、パパが大好きなママ。
「ママ」
 お腹すいたな。ママの甘い卵焼きが食べたい。
私の中のママは、いつも優しくて笑っていて。
「ママ」
 大丈夫かな。
このまま、ずっと泣いていたらママの体中のお水がなくなっちゃったりしないかな。ママがカラカラになっちゃうのいやだな。
「パパ、明日は帰ってくる?」
 何度呼びかけても振り向いてくれなかったママが私を見た。
やったぁ。ママ、明日は、
「うるさい!」
「ママ?」
 ぱんっ、と大きな音がした。
私は気がつくと尻餅をついていて左の頬がじんじんした。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい! あんたは、黙っていて!」
「ごめん、なさい」
 私は、逃げるようにして自分の部屋に戻った。ママの顔が浮かぶ。見たことがない、私の知らないママだった。でも、大丈夫。だって、明日は私の誕生日だから、ママも笑って頭を撫でてくれる。
きっと、明日にはパパも帰ってきてママも美味しいケーキを焼いてくれる。だって、さくらの誕生日だもん。大丈夫。大丈夫。
ママが無くさないようにと、サクラのワッペンを縫い付けてくれた手さげのカバンをしっかりと握りしめ、ベッドの隅に小さくなって寝た。
「パパ、早く帰ってきて」

「・・・ら」
 はぁ、お腹すいたな。お菓子全部食べちゃったしなぁ。
「・・・くら」
 お買い物、ママとしか行ったことないから一人は怖いしなぁ。お小遣いでどれくらい買えるかな。
「桜!」
「・・・パパ?」
「ちげぇよ。おれ」
 よく見るとリョウが目の前にいた。手に何かたくさんの紙を握っている。
「リョウか。なに? その紙」
「いや、これは」
 私は、そっと一枚を抜き取った。あ、見るな。リョウが止めるよりも先に、紙に書かれている言葉が目に飛び込んでくる。
《出ていけ。お前の旦那がいた研究所のせいだ》
「なに、これ」
《住所はとっくに特定済みなんだよ。いつも見てるからな》
《逃げるなよ。犯罪者の家族。うちの息子を返せ》
《旦那の代わりに責任とれよ》
 何枚も、何枚も。難しい漢字はあまり読めなかったけど、そこには脅迫まがいの言葉がいくつもいくつも書かれていた。なによ、これ。私、知らない。こんなの知らない!
「リョウ」
 涙が止まらなかった。
どうしちゃったのかな、なんでかな。ママの涙が移っちゃったのかな。リョウは、何も言わずにただ私の横に座ってくれていた。涙が止まるまで、ずっと、ずっと。

「じゃあ、桜。ママ、ちょっと出かけてくるね」
 それは、突然だった。泣いてばかりだったママは、いつの間にか泣かなくなって一人でスマホに没頭するようになった。
『あなた、どこに行っていたの? 寂しかったじゃない』
 パパが帰ってきたのかと、慌ててママを見るとスマホに向かって愛おしそうに話しかけていた。
「マ・・・」
 私は、思わず口から出てしまいそうになった言葉を飲み込む。ママって言ったらいけないんだった。それは、ママとした新しい約束だった。守らなかったら、ほっぺを叩かれちゃう。そんなママが突然どこかへ行った。
スマホだけを大事そうに握って。
「マ・・・、お出かけするの?」
「うん。ママ、ちょっと、パパに会いに行かないといけないの」
「私も行く」
「あんたは、待ってなさい」
「さくらも」
「いいから!」
 ママは、振り向きもせずに玄関を出る。私も玄関を飛び出し、ママ、と何度も呼ぶ。何度も何度も呼ぶ。もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。叩かれることなんてすっかり忘れて、ただ必死に呼ぶ。
でも、ママが一瞬でも振り返ってくれることはなかった。

 その日ママは、帰ってこなかった。パパも帰ってこなかった。もう、どれくらいたっただろう。窓の外が何回明るくなったり、暗くなったりしたか分からなくなった頃。お腹が空いて、することもなくて、玄関で二人が帰ってくるのをずっと待っていた。
そっと、でもしっかりとカバンを抱きしめる。このサクラのワッペンのカバンだけが私とママを繋ぐものだった。眠かった。お腹が空いていたのもどっかいっちゃった。
「桜?」
 目の前が明るくなった。朝が来たのかな?
「母ちゃん! ・・・くらが」
 リョウ?
「・・・らちゃん! しっかりしなさい」
 おばさん? なぜか色々な事が頭の中を通り過ぎていく。
リョウが引っ越して来た時のこと、ゲームで勝負した時のこと、おにぎりにいたずらしてわさびをリョウに食べさせた時のこと、パパとママ、私とリョウのおばさん達と花火したりバーベキューをしたりしたこと。
「・・・ョウ、お父さん呼んできて」
「分かった」
 あの時はみんな笑っていた。
私も、リョウも、パパも。ママだって、笑っていた。
あれ? 私、何してたんだっけ。
でも、もういいや。疲れちゃった。
「桜ちゃん!」
あの時は、楽しかったなぁ。
 気がつくと、リョウの家にいた。おばさんに美味しいおにぎりを作ってもらった。久しぶりにお腹がいっぱいになった気がした。
その日は、リョウの家に泊まった。次の日も、その次の日もリョウの家に泊まった。楽しかった。リョウとゲームして、ちょっとケンカして。でも、すぐに仲直りして。すごく、楽しかった。
でも、心のどこかで焦っていた。
「桜ちゃん、どこに行くの?」
「お家、帰らなきゃ」
「桜ちゃん、もう少しだけおばさん家にいない?」
 私は、カバンをしっかりと抱きしめる。離さないようにこのカバンだけは、絶対に無くさないように。
「帰る。だって、パパが、ママが帰ってくるかもしれないもん」
「桜ちゃん、ママたちはまだ帰ってこないから。だから、もう少しだけ、ここにいよう?」
「嫌だ。桜、お家に帰るんだ!」
 おばさんは、私を見て何かを決めたかのように言う。肩に置かれた手が少しだけ力強かった。
「桜ちゃん。ちょっとおいで、おばさんね。桜ちゃんに言わないといけないことがあるの」
 それからのおばさんの言葉は、私の頭の中に染みついて二度と忘れられない。それは、パパはあの事故で死んじゃったこと。ママは、心が病気になってパパの後を追いかけていっちゃったこと。
おばさんは、とても優しかった。苦しい時、泣きたい時は泣いていいのよって言ってくれた。でも、枯れちゃったのかな。どんなに悲しくても、胸のところが空っぽみたいに涙は出てこなかった。
そのあと、私は父方のおばあちゃんのところに引き取られた。リョウの家から出るときも、なぜか涙はあふれてこなかった。リョウは涙目で、おばさんの後ろに隠れていたけど、いつでも会えるんだからって笑い飛ばしてやった。
独り暮らしのおばあちゃんは、すごく優しい人でいつも黒あめをくれた。おばあちゃんの卵焼きには塩昆布が入っていて、ママのとは違って甘くないのにとってもおいしかった。そんな生活が二年。私はいつの間にか、小学三年生になっていた。あれから、リョウと話すのは学校だけになっていた。
「桜ちゃん。ばあちゃんねぇ、ちょっと病院に行かないといけないから、いい子でお留守番してくれるかい?」
「うん」
「じゃあ、帰りにケーキでも買ってこようかね」
「ありがとう。おばあちゃん」
 おばあちゃんは、肺が悪くて町の病院まで通院していた。病院に行くのはいつものことで、あまり深くも考えていなかった。
いつもより、寒い日だった。
雪でも降ってこないかな、そうしたら小さな雪だるまを作って冷蔵庫に入れておこう。おばあちゃんならきっと私を褒めて、喜んでくれる。
空はどんよりと曇っていて、しばらくすると本当に雪が降ってきた。神様が私の心の声を聴いていたんだ、そう思うと急にうれしくなって小さな雪だるまを二つ作った。
おばあちゃんに持ちやすいようにとキーホルダーみたいにリメイクしてもらったママのサクラのワッペンを握りしめながらその雪だるまをずっと眺めていた。
でもその日の夕方、私の小さな楽しみは一つの電話でかき消されてしまった。
「はい。本田です」
 電話の相手はおばあちゃんの担当医である先生だった。先生は、お孫さんかな? と聞くと、ゆっくりと話し始めた。
おばあちゃんは、階段を踏み外していた。
即死だったと先生は言った。
まただ、胸の奥が苦しい。胸が焼けるように熱くて、叫び出したいのに、声も涙も出てくれなかった。あまりお腹は空いていなかったけど、おばあちゃんはどんなに嫌なことがあってもお腹いっぱいになれたら、それだけで幸せなことなんだよって言っていた。
確か、昨日の残りが冷蔵庫に、私はとぼとぼと台所に向かう。
冷蔵庫の方を見るとドアが開けっ放しになっていて、さっき入れたばかりの雪だるまがビシャビシャに溶けていた。
 次の日の朝、いつかに見たことがあるようなスーツを着た女の人が来ておばあちゃんのものを返してくれた。女の人は小さなカバンを渡しながら、潰れて砂がついたショートケーキが一緒に落ちていたことを教えてくれた。
「・・・おばあちゃん」
 苦しい。痛い。嫌だ。おばあちゃん。おばあちゃんも私を置いていっちゃうの。嫌だよ。嫌。
もう、誰も、
『おいていかないで』
 私は、おばあちゃんのものを届けてくれた人について行った。
忘れよう。
全部忘れて何もかもなかったことにして、そうしたらこんなに苦しくてどうしようもないこの状況も、気持ちもかき消せる。あの楽しかった日々も、おばあちゃんの黒あめもパパの大きな背中もママの優しい笑顔も全部。

「学校は、行かなくていいんですか」
「えぇ、今日は特別」
 その人との会話はそれだけだった。何も聞かないでいてくれているのか、こんな小さい子供の面倒はしたくなかったのか。車で移動しているときも、歩いているときもそれ以上の会話はなかった。私は、親戚の家をたらいまわしにされ、最終的によく知らない夫婦に引き取られた。