凉樹と会った翌日、項垂れるような暑さの部屋で会社に向かう準備をしていると、ベッドの上でスマホがメロディを鳴らしながら振動し始めた。
「もしもし?」
「お疲れ様です、咲佑くん」
「お疲れ」
「今、下まで来てます。準備できたら降りてきてください」
「あぁ、分かった。すぐ行く」
スマホを胸ポケットに入れ、必要最低限の荷物を鞄に詰め込み、家を出た。アパートのはす向かいにあるスペースに仕事用の軽自動車を停め、俺のことを待っていた。開いた窓から和田に声をかけ、そのまま後部座席に乗り込む。部屋よりも断然凉しい車内。エアコンの設定温度を調整する和田に、俺はいつも通り話しかける。
「凉樹から聞いたんだけどさ、俺と連絡取れなくなったとき、まさっきぃに俺が失踪したって伝えたんだって?」
「・・・はい。僕にとってマネージャー職をするの、咲佑くんが初めてで、連絡が取れなくなって心配で。怖いし、状況が読めなさ過ぎて、何をしたらいいか分からなくなって、正木先輩に咲佑くんが失踪したって伝えてしまったんです。今思えば、ただ単に連絡が取れないって伝えればよかったんでしょうけどね。テンパり癖が出てしまって・・・、すいません」
俺からの投げかけに動揺したのか、自然と俯くような姿勢をとる和田。話に夢中になる最中で操作する手を止めていたエアコンは、風量が強くなっていた。
「なんで謝るんだよ。和田は俺のこと心配しての行動をしてくれた。な、そうだろ? だったら謝る必要はないんじゃないか?」
「すい・・・、あ。はい。ありがとうございます・・・?」
和田の語尾は酒酔い人並みにふらついていた。
「ごめんな、心配かけて。和田にも連絡入れるべきだった」
「いえ、気にしてませんから」
風量の設定をし始めた和田。気にしていない、という意味がぴんとこなかった。俺がマネージャーである和田よりも先に、元メンバーの凉樹にへ連絡したからなのか、それとも俺と凉樹の関係性に嫉妬しているのか。
「何なら俺にGPSでもつける?」
「え、どういうことですか?」
「冗談だよ、冗談」
ふっと笑みを零した和田。俺のマネージャ―は笑顔が誰よりも眩しくて、似合う。
「咲佑くんは冗談が上手ですね。騙されかけました」
「え、そうか?」
「はい。僕、今初めてお伝えするんですけど、実は咲佑くんが出てるドラマ観たことがあるんです」
「え、あの狂気じみた役の割にはほとんど台詞が無かった、あのドラマをか?」
「はい。台詞の多少は憶えてないですけど、目の演技が上手すぎて当時、怖い思いをしてましたから。って咲佑くんと二つしか年齢変わらないんですけどね」
初めて和田と会ったとき、俺のことを全く知らないみたいな感じだったのにな。以外だな。
「へぇ」
「だから、そろそろ演技の仕事の依頼が来てもいいと思うんですけどね・・・。あ、ここはマネージャーが仕事獲ってこないとですよね・・・。すいません」
「演技、かぁ。和田がそう言ってくれるんなら、やってみるのもいいな」
「はい!」
明るく返事をする。瞳はキラキラと輝いていた。
「だからさ、またオーディションとかあったら教えてよ。俺、久しぶりに演技の仕事がしたいからさ」
「分かりました。色々検討してみます」
「頼りにしてるぞ、和田」
車は昼間の幹線道路を走る。運送業のトラックばかりが小さなこの軽自動車の横を追い抜いていく。和田は運転に集中していて、声をかけられなかった。その必死さがどこか初々しくて、自然と頬が緩む。和田はマネージャーになってまだ数か月。慣れないことだらけで疲れているだろうに、俺の前ではいつも明るく振る舞おうとする。そんな和田に俺は心配をかけさせた。いずれちゃんと謝罪の機会を設けないと、とは考えている。まだ実現しそうにないが。
家を出て三十分。渋滞に巻き込まれることなく、順調に会社へ到着した。車を降りて社内に入り、受付の女性に声をかけ、社長室を目指す。道中、同じ会社に所属する年下のタレントやアーティスト数名とすれ違ったが、俺に挨拶しないどころか、視線も合わせなかった。先輩にあたる人へは俺から挨拶したが、返事は聞こえなかった。
社長室に来るのは、脱退したいことと、同性愛者であることを伝えに行ったあのとき以来。五人で行ったときとはまた違う独特の緊張感が、身体を縛り付けていく。エレベーターを降りると、すぐそこに社長秘書の向田さんが背筋を伸ばした状態で立っていた。
「お待ちしておりましたよ、米村さん」
「向田さん、こんにちは。社長いらっしゃいます?」
「はい。中で米村さんのことを、首を長くしてお待ちだと思いますよ」
「なら急がないとですね。ありがとうございます」
向田さんが社長室の扉をノックし、俺が到着したことを伝える。そして笑顔で「私はここで失礼します」と言って去っていった。
「十三時に約束をしていた米村咲佑です」
「はいはい。まぁ中入って」
「失礼します」
モデルのようなポージングをしながら、鏡越しに俺のことを見てきた。頭にはお洒落な眼鏡が乗っている。
「お久しぶりです、社長」
「久しぶりだな。あのとき以来だもんね」
「はい。脱退後に挨拶もせずに、すいませんでした」
「問題ありませんよ。そんなことより、事件の話を聞かせてもらってもいいかい?」
社長は俺が巻き込まれた傷害事件に興味があるのか、前のめりな姿勢になっていた。俺は答えられる範囲の内容を伝え、社長はその度に同情しながら相づちを打つ。社長の優しさを、身をもって感じられた瞬間だった。
「本当、ご迷惑をおかけしました」
「あー、いいのいいの。まぁ物騒な世の中になってるんだから、気を付けるんだよ」
「ありがとうございます」
俺の肩に社長の手が乗る。社長からは爽やかなソープ系の香りがした。
「話は変わるんだが、昨日電話で言ってたことなんだが、咲佑にプラスになる仕事がある。聞くか?」
「はい。聞かせてください」
「分かった。まぁソファに座って。じっくり話そうじゃないか」
社長の目は、俺に対して何か言いたげな感じだった。
「じゃあ、まずは仕事の話から」
まずは、といいうのは違う話もあるのかと疑問に感じつつも、俺は社長から仕事に関する話を聞いた。話を進めていく中で、社長は俺よりもなぜか嬉しそうな表情を浮かべていた。この数十分の間で、俺は社長の色んな一面を垣間見ることができたような気がして、なんだか得した気分だった。
社長のお喋り癖が炸裂し、仕事のことだけでなく、趣味や家族のこと、自慢話など様々聞かされたが、俺は愛想よくして過ごした。社長の話は短くてオチもちゃんとあるから良いが、終わりそうで終わらない校長の話を聞き続けている感覚だった。
まだ続きそうだった話も、向田さんが入って来て、「社長、そろそろ」という一声で終わりを迎えた。
「こんなに時間が経っていたとはな」
「そうですね」
「じゃあ、最後に俺から一つ、言わせてもらおうかな」
「はい」
「咲佑くん、これからは仕事のことを俺じゃなくて、マネージャー君に頼むんだよ? 今回はまぁ、事件のこともあったし、脱退してからのことも知りたかったから会ったけどね」
窓の外では、太陽がまだ燦燦と輝いている。その下を滑空していくカラスたち。大きく羽を広げていた。
「そうですよね。すいません。貴重なお時間をとっていただいて、ありがとうございます」
「うん。でもまぁ、実際のところ俺は咲佑のことが気になってる。マネージャー君に相談しづらい仕事があれば、いつでも話を聞くからな。社長からタレントに仕事を紹介するとか、こちら側から仕事を獲って来ることは異例だが、咲佑のためならやってあげてもいいと思ってるんだ。どうだね?」
目の前にあるコーヒーカップに手を伸ばす社長。俺は俯き考える。和田のことが頼れないわけでもないし、かといって社長がこう言ってくれるのなら、その話にのるべきなのかもしれない。悩みに悩んだ挙句、俺は曖昧な聞き返しをしてしまった。
「社長、また俺に会ってくれるんですか?」
コーヒーを口に含んだ社長は、喋らないで微笑みながら頷く。優しくされるのは嬉しい。でもきっと社長に恋愛感情を抱くことはないな。この先も。
社長室を出てすぐのところに立っていた向田さんにも一礼し、到着したエレベーターに乗り込んだ。途中、共演経験のある女性アイドルグループのメンバー数人が乗り合わせてきたが、咲佑の顔を見るなり一斉に下を向き、二階に到着した途端、そのまま降りて行った。
エレベーターを降りた俺は、駐車場に向けて歩いていたが、その途中で運転席で電話をしている和田の姿が目に入った。ボールペンを握りしめ、必死な様子でメモを書いている。今は邪魔をしてはいけないと思い、買うつもりは全くないが、ロビーに設置された自販機のラインナップをただ眺めていた。
「お待たせ」
「お疲れ様です」
「お疲れ。ほい、これ」
結局俺は和田のために自販機で缶コーヒーを買い、それを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「うん」
「どうでした?」
「仕事一件もらえた」
「おめでとうございます!」
女子みたいな手の叩き方をする和田。ボールペンが助手席を転がっていった。
「ありがとな」
「それで、仕事はどんな内容なんですか?」
「同性愛者に焦点を当てた、動画配信番組のゲスト。コメンテーター的な感じ」
「そうなんですね」
「仕事があるだけありがたいよ。一歩ずつ確実にいかないとな」
「そうですね。咲佑くんの力になれるよう、僕も色々アプローチしてみます」
「ありがとな。助かるよ」
「じゃあ、帰りましょうか」
「おう。運転よろしくな」
エンジンがかけられた車。エアコンが轟音を響かせる。
「なぁ、さっき電話してただろ?」
「はい。すいません」
「いや、謝らなくていいよ。で、誰と電話してたの?」
「正木先輩です」
「プライベートの話?」
「いえ。お仕事の」
「そっか」
俺は緊張で凝り固まっていた身体を伸ばすために、後部座席のシートを後ろに倒す。
「あの、咲佑くん」
「どうした?」
「また演技の仕事がしたいっていう気持ち、まだお持ちですか?」
「あぁ。社長と話してなおさら」
「ドラマのオーディション、受けませんか?」
「え?」
エアコンは和田の操作により再び静かになって、車内に冷風を届け始める。
「実は、正木先輩から電話がかかってきたの、咲佑くんに関することだったんです」
「俺に関すること?」
「はい。実は正木先輩の知り合いの監督さんから、来々期制作のドラマの役をオーディションで決めるから、よかったら受けてと言われたみたいなんです。それで、ドラマの内容とどんな役があるかを聞いたうえで、咲佑くんなら受かるかもしれない役があるって教えてくれたんです」
「へぇ。それで、俺が受かるかもしれない役って、どんな役?」
「・・・・・・同性愛者の、役、です」
和田の運転する車の後部座席に乗って、夕方の混雑する幹線道路を、一定の速度で走る車の窓に頭を預けた。
「なぁ、俺ってさ、周りからどう思われてると思う?」
ゆっくりとスピードを落としていく車。隣に並ぶ車からは、大音量で音楽が聴こえてくる。それは、事務所の先輩アイドルが出した最新シングル曲だった。
「あ、正直に言えよ。そこに遠慮はいらないから」
「じゃあ、正直に・・・。僕が思うには、話しかけにくいタイプというか、何を考えてるか分からないから、怖くて話かけられないというか」
「え、俺そんな感じなの?」
「上手く笑えてない気がします」
「それ、元アイドルとしては失格だな」
「難しいですよね。笑顔を作ることも、雰囲気を変えることも」
「そうか。なんか羨ましいよ。和田のことが」
「どうしてですか?」
ルームミラー越しに視線が合う。
「和田は俺とは反対で、話しかけやすいし、考えがすぐ読めるぐらいピュアで」
「そんなことないですよ」
「いやいや、だって―」
「実は僕、学生時代、今の咲佑くんみたいなタイプだったんです」
目の前の交差点を行き交う人々は、スーツやら女性らしい服装やら、色とりどりだ。
「クラスメイトから、お前は何考えてるか分からないから苦手だとか言われ続けて、そんな自分のことが嫌で、だったら変えてやろうって思い立って、高校入学と同時に無理してでも明るく振る舞ったんです。そしたら友達が自然と増えていったんです」
「へぇ、意外だったな」
「僕がやったことを咲佑くんに押し付けるわけじゃないですけど、咲佑くんにはもっと明るくいて欲しいです。そうしたら、心から笑えますよ」
「じゃあ、試してみるよ。ありがとな、正直に答えてくれて」
「いえ」
信号が青に変わった瞬間に、徐々にアクセルペダルを踏んでいく和田。心地よい振動に身を委ね、静かに目を閉じた。
社長と会ってからも、一気に見える世界が違うみたいなことはなかった。朝決まった時間に起きては、朝食に食パン一枚だけを食べ、午後からは激安商品を求めてスーパーをはしごし、家に帰って一人寂しく夕食を作るという、そんな普段と特段変わらない生活の中でも、仕事へのモチベーションを上げている。ただ、配信番組の収録を一週間後に控えていたが、その収録に向けてというよりも、どちらかと言えばドラマのオーディションに合格するための準備を進めていた。
演技のオーディション自体、受けるのは二回目で、一回目は演技審査で引っかかり、その日に落選が言い渡された。落選理由は、台詞は完璧でも、心がこもっていないからというものだった。だからこそ今回のオーディションへは特別、力を入れている。せめて翌日以降も残れるように、心のこもった演技をしなければ・・・、と言うよりは、ありのままの俺を魅せなければ、合格できないような気がしている。
「今度こそは、絶対に」
握った拳の中では、汗が滲み出てきていた。
凉樹から「会って伝えたいことがある」と連絡を受けたのは、互いが互いに好きだと伝えあったあの日以来だった。それに対して、俺も「凉樹に伝えたいことがある」と返事をした。すぐに既読がついたものの、返事が来ないままだった。それでも、特にやることがない咲佑は、いつも通りの生活を送っていた。
普段マメな彼から連絡が来ないことに、一抹の不安を抱えていた頃、スマホがメッセージを受信した。相手は会う約束をしている凉樹だった。画面を開くと待ち合わせの日付と時間、そして場所が箇条書きで送られてきていた。そして、そのメッセージの下には、連絡を忘れていたことに対する謝りの文章とスタンプが表示される。俺は「承知しました」という、愛用している敬語スタンプを送り返す。またも既読はすぐに付いた。
胸を躍らせながら目覚めた九月六日の朝。汗を流す目的で軽くシャワーを浴びて、それから服を選ぶ。いつのまにか外から太陽の光は届かなくなっていた。
待ち合わせ場所へは、家から電車と徒歩で二、三十分ぐらいあれば到着するが、俺は大好きな凉樹への愁いをいだき、結局当初予定していた出発時間よりも一時間も早く家を出てしまった。
目的地のある方向はまだ晴れていそうだった。でも、今俺がいるこの場所は黒い雲が町全体を覆っていく。太陽が隠れていくその姿は、これからの未来に暗雲が垂れ込める、まさにそんな感じだった。
目的地周辺の駅に着くころには、雨は霧雨どころじゃなくなった。移動している間に振り出した雨。まるで泣き出した子供のように、一気に量が増えていた。駅ナカのコンビニで傘を買うこともできたが、どうせ手荷物になるだけだし、節約するためだと言い聞かせ、購入を諦めた。気持ち的に、というわけでもないが、どう考えても雨を凌げないサイズのハンカチを頭上に乗せ、傘をさして歩く人たちの間を縫うように走った。
すれ違う人は俺のことを不思議そうに見てきたが、とにかく一心不乱に走り続けた。凉樹に早く会いたかったから。
待ち合わせの場所に到着するころには、すっかり服は雨を吸収して重たくなり、靴の中からはグチョグチョと嫌な音が聞こえる。レストランに入れば濡れずに済むが、この格好で入る勇気はなく、ただ店頭で立って彼が来るのを待つしかなかった。
凉樹に店を変えて欲しいと連絡しようとしたとき、聞き覚えのある足音がこちらへと近づいてきているのを耳が、目が感じ取った。その人は明るめの茶髪にサングラス、茶色の柄シャツにスキニーパンツ、スニーカーという、不良少年のような格好をしている。その人は俺の顔を見ながら手を軽く挙げ、「よっ、咲佑」と言ってきた。俺の目の前に現れたのは不良少年ではなく、変装した凉樹だった。彼もまた全身ずぶ濡れの状態で、雨に濡れた髪は所々跳ね、着ているシャツも色が濃く変化している。
サングラスを外す凉樹。綺麗な瞳が露になる。
「え、咲佑も濡れてんの」
彼は笑っていた。
「凉樹もかよ」
俺も笑い返す。
「悪いかよ」
「いや悪くはないけど、傘持ってないのかよ」
「今日は丸一日オフだったからさ、家から直で来たんだけど、雨降るなんて思ってなくてさ」
「それ俺もだよ。まさかここまで本降りの雨に打たれるとはな」
「あぁ。俺らやっぱり似たもの同士だな」
「だな。で、どうする? こんな格好じゃこの店・・・」
「大丈夫。ここ俺の兄貴がやってる店だから」
ニヤリと笑う彼。白い歯が眩しい。
「え、凉樹のお兄さんが?」
「そう。店の裏に兄貴ん家もあるし、事情話せば入れてくれると思うから」
「お兄さんって結婚してるんじゃ」
「したよ。一昨年に」
「流石に迷惑じゃ―」
「こんなところに居るほうが迷惑だろ? それにここに突っ立ってるだけじゃ濡れるだけだから、行くぞ」
俺は中に入ることを拒んだが、凉樹に腕を引っ張られる形で入店した。コンクリートの外観から一変、店内は茶色系のレンガで統一された内装と、パスタがモチーフになった絵やポスター、抽象画が数点壁に掛けられているという、煌びやかなイタリアンレストランだった。
ドアが開いた先には、フライパンを見事に操る男性の姿があった。甲高いドアベルの音に応答するようにして、「営業は十七時からなんです」と言った後、その男性はこちらを見て「って、凉樹かよ」と呟いた。声は低かったが、嬉しそうな表情をしていた。
四年振りに見た凉樹の兄、広樹《こうじ》さんは、ぱっと見じゃ全然分からないぐらいに変化していた。特に髪色と肌の色が。
「馬鹿が、雨に打たれたか」
「いいだろ、別に」
「んで、何の用?」
凉樹は料理中の兄に、お構いなしという態度でペラペラと事情を話した。そして、店の奥にある一軒家へ案内された。自宅はレストランとはまた違って、ウッド調の壁紙が貼られていた。温かみのある色で統一された家具が並ぶリビングで、凉樹が浴室から出てくるのをただひたすら待ち続けた。幸せオーラを全面に感じながら。
俺がシャワーを浴び終わって出てきたときには、木製のダイニングテーブルの上にパスタが二種類置かれていた。ペペロンチーノとバジルソースのパスタ。好きなほうを選んで食べて、と広樹さん言われ、俺はバジルソースのパスタを選んだ。
「いただきます」
一口パスタを食べた瞬間に、俺の脳は覚醒した。もちもちとした細麺にバジルソースがよく絡み、口の中で相性抜群の旨味を生み出していく。こんなパスタを食べたのは、冗談抜きで、生まれて初めてのことだった。
ご自宅には一時間ほど滞在させてもらった。帰る頃には広樹の家族は二階の寝室で寝ていたために、声をかけることはできなかった。
「兄貴、そろそろ帰る」
「そっか」
「パスタ、ご馳走様でした。美味しかったです」
「あー、いいよいいよ。今度はお店に来てよ。咲佑くんとまたゆっくり話したいからさ」
「ありがとうございます。また寄らせてもらいますね」
「分かった。待ってるから」
広樹さんのよく焼けた肌と白い歯で微笑みかけられ、俺は愛想よく笑っておいた。
「兄貴、今日の借りはちゃんと返すからさ、また来るよ」
「おう。次は金払って食べろよ」
「分かってる。あ、マオさんには後で連絡入れるから、そのこと伝えておいて」
「はいはい」
「じゃ、また」
「おう」
二人は手を軽く挙げ合って、別れを告げた。
「ありがとうございました。お邪魔しました」
一方の俺は、頭を二、三度下げてご自宅を後にした。
雨を降らしていた雲の合間から顔を覗かせる太陽を背中に、歩き出した。凉樹が醸し出す負のオーラを感じながら。
あんなに土砂降りだった雨も、一時間も経てば傘が無くてもいいぐらいの降り方になっていた。ドライヤーで乾かした服からは、温風に気持ちが乗った分の温もりが感じられる。
それなのに、隣を歩く彼の姿は普段よりもちっぽけで、何か隠しているような、そんな気がした。
「なあ」
「え、咲佑なんか言った?」
「なあ、って言ったけど、凉樹も何か言ったよね?」
「俺も、なあ、って」
「嘘だろ、被った」
「だな。え、この二音で被ることある?」
「面白いな」
「似てんのかな、俺らって」
凉樹は俺の顔を見てきた。愛想笑いを浮かべていた。
ちゃんと耳には彼の声が届いているし、内容も理解している。似ていると言われて嬉しいはずなのに、何も言えなかった。従順な態度が取れなかった。
「で、凉樹は何言いたかったんだ?」
「俺さ、咲佑に言わなきゃいけないことがあるんだよ」
「それってさ、聞いて後悔する内容?」
「お前次第」
「そっか」
笑うしかない。俺次第って、何だよ。
「咲佑も俺に話があるんだろ?」
「あぁ、まあな」
「それはさ、咲佑が俺に話すことで幸せになれる内容?」
「あぁ、まあな」
「じゃあさ、先に言ってよ。俺のは後でも全然いいから」
「ホント? 後悔しない?」
彼は俺の目を見て頷いた。吹いた風に靡く彼の茶髪。甘い香りがした。
凉樹の顔を、目を見れず、前だけを見ながら動画配信番組への出演が決まったことと、同性愛者の役のオーディションを受けることになった、という二つの話題を伝えた。凉樹は「おめでとう、よかったな」と言ってくれた。ただ、その発言は心からの、と言うよりは、上部だけで言っているような感じだった。
俺はいつもと様子が違う凉樹のことを不思議に思いながらも、会話が途切れるのが嫌で、番組の内容や過去に受けたオーディションの話を一方的に喋り続けたが、徐々に話に対する彼の相づちが合わなくなっていく。
ついには、そのことに耐えられなくなった。心配になり横を見ると、凉樹は歩いてはいるものの、心ここにあらずという様子で、倉皇としている。
「凉樹」
「ん?」
「様子が変だよ」
「そうか?」
彼は俺の発言に面食らったようだ。
「さっきから俺の話、全然聞いてないだろ」
「そうか?」
今度は俺の発言に心を掻き乱されたようだ。
「じゃあ、今さっき俺がなんて言ったか憶えてる?」
彼は頭を掻きながら、申し訳なさそうに呟いた。「・・・、悪い」
「やっぱりな」
呆れたいわけじゃないけど、昔の自分を見ているような気がして、自然と笑えてくる。涼樹も隠し事はできないタイプなんだな。
「嘘だね。凉樹が俺に話したい内容って、隠し事のことなんだろ?」
「いや、その―」
「俺は、凉樹の話ならどんなことでも受け止める覚悟ができてる。だから、ちゃんと面と向かって話して欲しい」
歩みを止める咲佑。高い位置から照りつける日差しによって、背中に汗が滲む。
「俺は・・・」
前に歩き出す凉樹。風に弄ばれる髪の毛についた、小さな葉っぱ。
「俺は、大切な咲佑のことを裏切った、最低な男だ」
彼は、美しい瞳から一滴の雫を溢した。
太陽に照らされた影は、前を歩く影を抱き竦めた。
いつからだろう。凉樹との間に溝が生まれたのは。曇ったままの心には、いつになっても陽が差さない。照らしてくれるのは凉樹という太陽だけだと思っていたのに、その太陽に裏切られるなんて。人生、一生曇ったままだ。
凉樹の肩関節から、乾いた音が聞こえるとともに、俺は現実の世界に戻った。俺の腕は彼を抱いたままの形状を維持していた。
「あ、ごめん。つい」
「あ、いや。べつに」
思い惑っている様子の凉樹。頬が火照っていく。
「あのさ、裏切ったってどういうこと?」
「・・・」
「俺は凉樹に揶揄われたくない。本当のこと言って」
目を向けるも、すっと視線を逸らす彼。
「・・・・・・、ごめん」
「何が?」
「・・・」
視線も合わせない。ごめん以外の言葉もない。そんな凉樹に、俺は吐息をもらす。
「だから、何が?」
「ごめん」
「ごめん、ごめん・・・って。凉樹、しつこいよ」
「・・・」
彼の態度が、怒りの沸点に到達した。
「凉樹、謝るだけじゃ分からない。あぁ、もう! こんなところで怒りたくないけどさ、我慢できない。なぁ、俺のこと裏切ったって何なんだよ! どういうことか説明してくれよ!」
それでも黙り続ける。こんなの、俺の大好きな凉樹じゃない。
「・・・」
「黙ってんじゃねぇよ。ちゃんと目見て言えよ」
「・・・、ここじゃ説明できない」
彼は苦肉の策という感じで呟いた。
「じゃあどこで―」
「俺ん家、じゃダメか?」
凉樹の家に行くとなると、約二年振りになる。彼の家に行けば、何か証拠となるものが置かれているかもしれない。だとすると、彼の隠し事の本質を問い詰めるチャンスだ。
俺は彼の策に乗った。すると彼はこっくりとうなずく。
すぐ足元にある浅い水たまりに、幼い子供のようにわざと足を突っ込んだ。すると、勢いよく小さな水しぶきが無数に飛び散り、濡れたアスファルトの上に落ちていく。そんな水しぶきが唐突に儚く思えてくる。
大きな窪みにできた水たまりに映る俺の顔は、なんだか寂しそうだった。これからのことに不安を抱いているみたいに。そんな俺に、手を振って別れを告げた。
凉樹の自宅へ着いたとき、懐かしい匂いがした。帰ってきた、なんてことを思うと同時に、見覚えのない魔法のランプみたいな、小物が置かれているのが目に入る。天井に付けられた照明に照らされて、金が眩しいぐらいに輝いている。
「凉樹、これ何?」
来客用のスリッパを出す凉樹に聞いた。顔を上げると同時に、俺が指差す先にある小物を見て、一瞬だけ眉を顰めた。
「仲良くさせてもらってる先輩から貰ったんだよ。外国のお土産だって」
「へぇー、お土産か」
お土産にしては珍しいと思った。こんなの、距離が近くないと送れないだろ、とも思った。そんなランプを嘗め回すように見ていたからか、凉樹は笑って「何か問題でもあるのか?」と言ってきた。俺は「何でもない」と気付いていないフリをする。下に隠されたタグに日本円の表記があることを。
「そ、そうか? ならいいけど」
彼はふっと視線を逸らす。あぁ、嘘つかれたな。
俺はいつものボーダーのスリッパを履き、リビングに足を踏み入れた。そして、そのまま目先にあるラックに立てかけられた一冊の雑誌を手に取る。つい昨日発売されたばかりの雑誌。表紙には、決め顔のNATUraleza四人が写っていた。
「で、話って何だよ」
「それより、何か飲まないか? っていってもコーヒーか水しかないんだけど」
「凉樹も何か飲むのか?」
「俺はコーヒー飲むつもりだけど」
「じゃあ、俺もコーヒー頼むよ」
「分かった。すぐ準備するから」
「ありがとな」
凉樹は咲佑に背中を向けて、コーヒーメーカーのセットをする。その間、咲佑は財布に入れておいた小さな袋を取り出す。その袋の中には、たまに飲む薬が入っている。
コーヒーが出来上がるまでの間、凉樹は息をするのも忘れるぐらいの勢いで話しを続けた。咲佑は、見られない凉樹の姿を不自然に感じていたが、特にそれについて言及しないでいた。この期に及んで喧嘩したくなかったから。
しばらくして、コーヒーメーカのスイッチがオフになった。それにいち早く気付いた俺は、凉樹に声を掛けた。
「凉樹、コーヒーで来たみたいだけど」
「悪い、気付かなかった」
椅子から腰を上げ、食器棚からカップを取り出す。そして、青いカップに熱々のコーヒーを注いでいく。その間、咲佑はポケットに手を忍ばせた。
「ありがとな」
「おう」
「あ、このカップ―」
このタイミングで、凉樹のスマホに着信があった。絶好のチャンスだ。そう思っていた矢先、凉樹は画面を伏せる形でテーブルの上に置いた。
「出なくていいのかよ」
「別に今じゃなくてもいい相手だし」
「ふーん」
凉樹は電話が鳴り止むのを待っているようだったが、俺からすれば鳴り続けて欲しかった。それは、自分に課した任務が遂行できないから。
「出てくれば? それだけ鳴らすってことは緊急の内容かもよ?」
「あぁ、そうだな。ごめん」
「おう」
スマホ片手にリビングを出て行った凉樹は、扉の向こうで誰かと電話している。その間に、咲佑はポケットから薬を取り出し、湯気が立つコーヒーカップの中に落とす。溶けだしていく薬。まだ電話は終わりそうになかった。
リビングに戻ってきた凉樹は、吐息をもらす。
「電話誰からだったんだ?」
「まさっきぃ」
「おいっ、出なきゃいけない人じゃん」
「いいんだよ。俺がオフなこと知ってて電話かけてきたんだから」
「ふーん。まぁいいや」
「あーあ、せっかくのコーヒーがちょっと冷めたな」
「いいじゃんか別に。それに湯気まだ立ってるし」
「だな」
咲佑は永遠に話し続ける凉樹のことを、聞く耳を立ててその話に興味を示している演技をする。が、胸に秘めた思いとしては、早く寝てくれないかな、というものだった。そして、その願いは三十分後に叶った。凉樹の目は徐々に閉じていく。これは彼が眠気に襲われている動かぬ証拠だ。
「咲佑、ごめん。三十分だけ寝てくる」
「分かった」
「服、その山から適当に取っていいから」
「助かるよ」
凉樹は眠気に耐える形でリビングの扉を開けて出て行った。その後、すぐに寝室の扉が閉まる音が聞こえ、一分もしないうちに室内は静寂の空間と化した。俺はそっと寝室の扉を開け、彼がうつ伏せになって眠っているのを確認し、再び静かに寝室を後にした。準備は万端だ。そろそろ仕上げにかからないとな。